オゼッラ
オゼッラ(Osella Squadra Corse)は、1980年から1990年までF1に参戦していたレーシングチーム。
参戦年度 | 1980 - 1990 |
---|---|
出走回数 | 132 |
コンストラクターズ タイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 5 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1980年南アフリカGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1990年オーストラリアGP |
歴史編集
F1参戦前編集
1960年代、ビンチェンツォ(エンツォ)・オゼッラ(Vincenzo "Enzo" Osella)がレーシングカーチームを結成した。F2やF3へ参戦後、1980年にF1に参戦を開始した。
F1編集
1980年編集
オゼッラはジョルジョ・スティラーノによる設計のFA1を製作、エンジンにフォード・コスワース・DFV、タイヤはグッドイヤーで参戦。ドライバーは前年度の国際F2で同チームから参戦していたエディ・チーバーを起用した。
しかしFA1は大型で重量が過多、そして信頼性もなく、予選落ちや、そうでなくても後方からのスタートでリタイアを繰り返していた。
それを受けて、シーズン途中で軽量化した改良型FA1Bを投入した。その結果、予選落ちこそしなくなったものの、第12戦イタリアグランプリで12位完走した以外はすべてリタイアしている。
1981年編集
この年から2台体制になる。シャシーは前年型FA1Bでまず戦い、第13戦からジョルジョ・バレンティーニ設計のFA1Cを投入する。タイヤはミシュランを履いた。
ドライバーはベッペ・ガビアーニとミフエル・アンヘル・フェーラを起用した。
しかしシーズン序盤は予選通過すらままならず、第4戦限りでフェッラを解雇し、ルーキーのピエルカルロ・ギンザーニで第5戦・第6戦、ジョルジオ・フランチアで第7戦を戦ったものの、3人合わせて予選通過は2回、完走はなかった。
その後1戦空けて、残り7戦で起用したジャン=ピエール・ジャリエはベテランらしい熟練した走りを見せ、毎回予選を通過、決勝で8位を2度記録するなど活躍した。一方のガビアーニは開幕戦以外全戦予選落ちだった。
1982年編集
ドライバーはジャリエと新人のリカルド・パレッティを起用した。
マシンは引き続きFA1Cを使用し、エンジンもDFVを継続した。タイヤはピレリを使用した。
ジャリエは、FISA-FOCA戦争の影響でFOCAを支持するチームの一部が欠場した第4戦サンマリノグランプリで予選9位、決勝4位でチーム初ポイントを獲得した。
第8戦カナダでは、ポールポジションのフェラーリのディディエ・ピローニがエンジンストールしスタートできず、そこに後方グリッドからスタートしたパレッティが追突した。救助活動中にパレッティのマシンから出火、炎上した。この事故でパレッティは死亡した(詳細はリカルド・パレッティ参照)。
パレッティを失ったチームは、第9戦以降ジャリエのみの1台体制で参戦したが、シーズン終盤にはリタイアを繰り返すなど、成績も低迷した。
1983年編集
ジャリエがリジェに移籍し、以前起用したギンザーニ、そして前年度国際F2チャンピオンコラード・ファビ(テオ・ファビの実弟)を起用する。
マシンは当初前年型の改良版FA1Dを使用、第4戦からはアルファロメオV12NAエンジンを搭載したFA1E(トニー・サウスゲート設計)を投入した。しかし、資金難ではマシンは1台しか用意できず、ファビはFA1Dを第10戦まで使い続けた。タイヤはミシュラン。
アルファ・ロメオエンジンを使用したFA1Eは競争力アップの意図があったが、マシンとの相性が悪く、競争力も信頼性も低く、ともに初のF1フル参戦となる両ドライバーの完走は2人合わせて3回のみと成績は低迷した。
1984年編集
ギンザーニは残留したがファビがブラバムに移籍し、1カーエントリーでシーズンに臨んだ。第4戦と第10戦以降最終戦までは、ヨー・ガルトナーが2台目としてエントリーされた。
マシンはアルファ・ロメオから買い取った前年型183Tを改良したFA1Fを使用、エンジンはアルファ・ロメオだったが、自然吸気V12からターボV8に変更された。1台エントリーで参戦したが、第4戦サンマリノグランプリで、ヨー・ガルトナーを2台目としてエントリーした。ガルトナーはこのレースでは自然吸気V12を使用した。第5戦から第9戦までは再度1カーエントリーとなったが、第10戦以降はシーズン終了までガルトナーが2台目のステアリングを握り、2台ともターボエンジンを搭載した。タイヤはピレリ。
この年のマシンはFA1Fとされたが、第2戦南アフリカグランプリの予選でギンザーニが大破させた車体は1983年にアルファ・ロメオチームが使用した183Tそのものを改良したものである[1]。完全に新しく作成されたFA1Fモノコックは、第3戦ベルギーグランプリで初めて投入された[1]。
第9戦アメリカグランプリで安定した走りを見せギンザーニが5位入賞を記録、ガルトナーも第14戦イタリアグランプリで5位入賞する。結果的には、これがチーム最後のポイントとなった[2]。延べ22回決勝をスタートしたが、完走は8回だった。
1985年編集
昨年善戦したギンザーニが残留し、1台エントリーとなった。マシンはFA1Fをジュゼッペ・ペトロッタが改良したFA1G、エンジンは継続使用。しかし、小改良を繰り返しただけのシャーシと燃費の悪いアルファ・ロメオエンジンでは戦闘力は低く、成績は低迷する。
しかし、シーズン途中からギンザーニがトールマンに移籍したため、第9戦からヒューブ・ロテンガッターが後釜として起用された。
1986年編集
ドライバーはギンザーニが戻り、前年度の国際F3000チャンピオンでザクスピードからF1デビューしたクリスチャン・ダナーが起用され2台体制となる。マシンは当初FA1Gを使用し、第5戦ベルギーグランプリからペトロッタが設計したFA1Hを投入した。
しかし、第6戦カナダグランプリを前に参戦したラリーで重傷を負ったマルク・スレールの代役として、ダナーが第7戦アメリカグランプリよりアロウズに移籍した。ダナーの後任として、第7戦からはF3で走っていたアレン・バーグを起用した。(ただし、第13戦はアレックス・カフィが代役出場。)
第10戦でバーグが初めて完走し、シーズン中は延べ4度の完走を果たしたにとどまった。
1987年編集
ギンザーニ、バーグともにチームを去り、カフィの1台体制。第2戦ではガブリエル・タルキーニ、第11戦から第13戦ではフランコ・フォリーニが2台目としてスポット参戦した。
マシンは前年型FA1Hとさらにその前のFA1Gを併用した。エンジンは前年限りで撤退したアルファ・ロメオ名義であったが、これはオゼッラがエンジンを譲り受けて自社管理・開発をしたもので、アルファ・ロメオは開発にはかかわっていない。燃料の使用量が制限されていたため燃費の悪さにも苦しめられ、完走は第2戦12位ただ1度のみだった。タイヤはそれまでのピレリが撤退したため、グッドイヤーを履いた。
ランディス&ジルやスティエバーニ、ノースポールなどのスポットを中心とした小規模スポンサーが並んだが十分とは言えず、チームの慢性的資金難を象徴するエピソードとして、本年の日本グランプリで、スタッフがパドックに置くための椅子をサーキット事務局に借りに行った際、返却した際に戻ってくる「保証金」ではなく戻ってこない「レンタル料」として、1脚300円かかる、と聞かされ3脚必要だったところを1脚だけ借りて行った、という逸話が残っている。
1988年編集
カフィはスクーデリア・イタリアに移籍、後釜にニコラ・ラリーニが起用される。
マシンはFA1Hとアントニオ・トマイーニ設計のFA1Lが使用される。エンジンはオゼッラ=アルファ名義のエンジン(85年型アルファ・ロメオターボエンジンを自社で改良したもの)を使用する。
この年は決勝での燃料使用量が150リッター、ターボのブースト圧が最大2.5バールまでに制限されたため、それに合わせて圧縮比の変更、バルブ径の縮小などの変更が加えられ、フルエレクトロニックインジェクションの採用なども行われた[3]が、自然吸気エンジン勢のチームにも後れを取った。それでもラリーニの努力で予選では14番手(スペイングランプリ)を取るなどしたが、完走は3回のみだった。
1989年編集
ラリーニが残留、再びギンザーニが復帰し2台体制となる。マシンは改良型ながら完全に新しいノンターボエンジン仕様のFA1M89。エンジンはターボエンジン禁止の影響でフォード・コスワース・DFRを使用する。タイヤは復帰したピレリを履いた。
自然吸気エンジンはF3000ですでに使用されていたため、F3000からのステップアップチームが増加、その結果予備予選に回されてしまい、ますます決勝に出場する機会が減ってしまった。
ラリーニは奮闘し、しばしば10番前後のグリッドを獲得して決勝に出場、雨のカナダグランプリでは一時3位を走行したが、完走は1回のみ。3回決勝に出場したギンザーニに完走はなかった。
1990年編集
前年度からスポンサーだった大手ホイールメーカーのフォンドメタル代表ガブリエーレ・ルミが資本参加し、完全新作のFA1MEが製作される。
エンジン[4]・タイヤともに継続使用したが、ドライバーはラリーニ、ギンザーニともに離脱し、オリビエ・グルイヤールの1台体制となる。この年も予備予選からの出場。
開幕戦では予選8位を記録したがそれ以降は低迷、完走4回に終わる。そしてオゼッラはF1部門をフォンドメタルに売却し、撤退した。キンザーニはこの年で引退した。1991年から同じスタッフでフォンドメタル名義で参戦した。
エピソード編集
- 基本的にチームは慢性的に資金難であったため、マシン開発も殆ど行われず何年も同じエンジンとシャシーを改良して参戦し続けていたチームであり、「万年ビリ」のレッテルを貼られていたチームであった。
- チームとしては殆ど戦績が残せなかったものの、「モーターホームの料理だけは非常においしい」と好評であった。
変遷表編集
年 | エントリー名 | シャーシ | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | 優勝数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1,FA1B | G | フォードDFV | モービル | エディ・チーバー | 15 | 0 |
1981 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1B,FA1C | M | フォードDFV | モービル | ベッペ・ガビアーニ ミゲル・アンヘル・ゲーラ ピエルカルロ・ギンザーニ ジョルジオ・フランシア ジャン=ピエール・ジャリエ |
16 | 0 |
1982 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1C,FA1D | P | フォードDFV | Agip | ジャン=ピエール・ジャリエ リカルド・パレッティ |
13 | 0 |
1983 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1D,FA1E | M | フォードDFV アルファロメオ1260 |
Agip | ピエルカルロ・ギンザーニ コラード・ファビ |
17 | 0 |
1984 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1E,FA1F | P | アルファ・ロメオ890T,1260 | Agip | ピエルカルロ・ギンザーニ ヨー・ガルトナー |
12 | 0 |
1985 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1F,FA1G | P | アルファ・ロメオ890T | Agip | ピエルカルロ・ギンザーニ ヒューブ・ロテンガッター |
15 | 0 |
1986 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1F,FA1G,FA1H | P | アルファ・ロメオ890T | Agip | ピエルカルロ・ギンザーニ クリスチャン・ダナー アレン・バーグ アレックス・カフィ |
13 | 0 |
1987 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1G,FA1I | G | アルファ・ロメオ890T | Agip | アレックス・カフィ ピエルカルロ・ギンザーニ フランコ・フォリーニ |
14 | 0 |
1988 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1L | G | アルファ・ロメオ(オゼッラ)890T | Agip | ニコラ・ラリーニ | 18 | 0 |
1989 | オゼッラ・スクアドラ・コルセ | FA1M89 | P | フォードDFR | Agip | ニコラ・ラリーニ ピエルカルロ・ギンザーニ |
19 | 0 |
1990 | フォンドメタル・オゼッラ | FA1M89,FA1ME | P | フォードDFR | Agip | オリビエ・グルイヤール | 10 | 0 |
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
脚注編集
- ^ a b Hamilton, Maurice (ed.) (1984). AUTOCOURSE 1984-85. Hazleton Publishing. pp. p60. ISBN 0-905138-32-5
- ^ ただし、チームが出場するのはギンザーニ1台のみという登録をしていたため、ガルトナーの分のポイントは加算されなかった。
- ^ バムゼイ, イアン 三重 宗久訳 (1990). 世界のレーシングエンジン. 株式会社グランプリ出版. ISBN 4-906189-99-7
- ^ ただし前半はマーダー、後半はティックフォードのチューン