三都

江戸時代の三大都市

三都(さんと)


江戸の日本橋よりみる富士山葛飾北斎画、『富岳三十六景』・1830年

三都(さんと)は、一般に、近世において江戸幕府直轄だった都市のうち、その規模が極めて大きかった大坂江戸を指す。

概要 編集

近世においては、江戸幕府が大名に対し一国一城令を発し、諸大名が武士城下町に集住させたことで全国規模で都市化が進展し、各地に消費都市が生まれた[2]。これは、各都市の内部において在地の商工業を発展させた一方、西廻り航路東廻り航路五街道をはじめとする国内航路・主要道の整備は日本の国内市場(一国市場)の形成を促し、遠隔地商業を発展させ、港湾や宿場に営まれた諸都市(港町宿場町)も発展した[2]。さらに平和が継続したことで、全国規模の文化交流や観光もさかんとなり、大都市を生む条件がここに生まれたのである[2]

のちに「三都」と並び称される江戸・大坂・京の三都市は、江戸時代はじめには三ヶ津(さんがつ)と呼ばれた。「津」とは港湾を意味しており、このうち京は内陸部に位置するものの、琵琶湖巨椋池淀川に面した伏見等を通じて摂津国はじめとする西日本一帯、近江国さらには東海地方北陸地方と結ばれる一大物流拠点であった。

都市を構成する「」は、道路の両側に間口が狭く奥行きの長い屋敷が立ち並んで向き合う形状の両側町が一般的であった。町の出入り口には木戸が設けられ、夜間は閉鎖された。町もまた、近世村と同様、諸役負担の単位であると同時に、道路橋梁の修理、防火、衛生機能などを共同でおこなう自治組織であった。町では町法(町掟・町式目)を定め、町役人が置かれ、町人の寄合の場として町会所を設けていた。

江戸 編集

 
江戸の新吉原仲ノ町(歌川豊国画、1795年

江戸は、徳川将軍家君主とする江戸幕府の所在地であり、「将軍のお膝元」と称される政治都市、最大の城下町であった[3]

近世以前には浅草寺品川湊あるいは利根川荒川多摩川に挟まれた港町宿場町であった。

1590年天正18年)の豊臣秀吉の関東攻めにより後北条氏が滅亡し、その後に入部した徳川家康による都市改造によって大きく成長した[3]

幕府の諸機関が設けられるいっぽう、旗本御家人に対する定府政策によって多くの直臣が集住し、また、参勤交代の制によって全国の大名屋敷(藩邸)も営まれ、その家臣や武家奉公人を含めた多数の武士とその家族が常時江戸に居住することとなった[3]

また、町人地には多くの町が密集し、さまざまな種類の商人職人や日用(日雇)らが集まって、近世最大の消費都市として繁栄した[3]

五街道も江戸の日本橋を起点に整備され、水運も整えられた。

これにともない、多くの物資が流れ込んでそれを扱う商工業者の人口も増加し、18世紀初頭には100万都市に成長、宝暦年間(1751年-1763年)には「日本第一の土地」とまで称されるようになっている。

江戸では、1657年明暦3年)の「明暦の大火」ののち、寺院武家屋敷の郊外移転が進み、両国橋新大橋永代橋など橋の建設もおこなわれた[3]

18世紀初頭には世界最大級の都市へと成長し、町の数の多さから俗に「大江戸八百八町」と称され、その住民の気風は「江戸っ子」と呼ばれる独特なものとなった[3][4]

江戸は巨大消費都市ではあったが、関東地方につくられた町であり、関東平野関東ロームが被覆し、本来は必ずしも農耕に適合しない土地であったため、周辺農村からの物資だけで江戸の消費をまかなうことは不可能であった。

その消費を支えたのが、流通都市大坂であった[4]

大坂 編集

 
大坂・四天王寺界隈(『摂津名勝図解』、初版1798年

大坂は、弥生時代後期から整備され古墳時代飛鳥時代奈良時代にまたぎ港湾都市であり国内流通の中心であった住吉津難波津、中世には渡辺津、あるいはそれを擁する首都・副都、行宮である難波大隈宮、難波高津宮、難波宮難波京などとして、また、戦国時代以降にあっては自治都市平野郷石山御坊寺内町として発展し、豊臣政権の成立後は、石山本願寺跡地に巨大な大坂城が築かれて、再び統一政権の拠点となった。

大坂の陣によって豊臣政権が崩壊したのちも、江戸幕府はここを西国唯一の物流拠点と位置づけて再建を支援し、幕府直轄地として大坂城代を置いた。

大坂はやがて、中之島堂島を中心に諸大名の蔵屋敷が集まるようになり、諸藩が年貢米を換金することによって自藩の財政を支えたところから「天下の台所」「諸国の台所」と称され、日本有数の商業都市として、町人とくに商人の町として再び栄えた[4]

また、北前船の終着地、あるいは、長崎貿易の交易品の中継地としての役割や、淀川を利用した京への水運の拠点としての役割もになっており、日本最大の流通都市であった[4]

その基礎となったのが河村瑞賢らによって整備された国内航路と、大坂市内に網の目のように張り巡らされた運河(堀川)である[4]

一方、後世、「東洋のヴェニス(ヴェネチア)」「水の都」と称された水運網は必然的に多数のを必要とし、大坂を形容するに「八百八橋」の言葉が生まれた。

大坂は、上述のように当時生産力の高かった西日本を後背地としており、大都市に成長した江戸の消費を支えた。

幕府の調査を記録した文献資料によれば、享保年間(1716年-1735年)に大坂から江戸に運ばれた物資には、醤油、白油(灯油原料)、木綿など多岐にわたっている[4]

商業都市大坂はしかし、本項「大坂の人口 」節の町方人口推移をみてもわかるように、天明年間(1781年-1789年)以降衰退に転じており、その要因としては幕府が大坂振興策を行わなくなったこと、大坂商人に御用金を課したこと、銀遣いから金遣いへの転換などが考えられる[5]

京(京都) 編集

 
京の三条大橋歌川広重画、『東海道五十三次』・1832年

京(京都)は、平安京以来の王城の地であり、かつては室町幕府が置かれ、江戸時代にあっても朝廷のお膝元として重要視され、幕府もここに京都所司代を置いている。15世紀後半に応仁の乱によって大打撃を受けたものの、その復興の中心となったのは「町衆」と呼ばれる商工業者であった。

京都は、伝統的な神社仏閣が多く、諸宗派の本山が集まる宗教都市であり、俗に「八百八寺」と称されて学問芸術の中心地として栄えた。反面、京都は中世以来の商工業がさかんな地であり、当時にあっては日本最大の工業都市生産都市であり、西陣織はじめ日本の高級な手工業品は、その多くが京都で生産されて全国に販売されたものであった[6][注釈 1]。なお、京と大坂は同じ上方にありながら、その嗜好・気風の違いを「京の着倒れ、大坂の食い倒れ」と表現されることが多い。

三都の交流 編集

陸上交通 編集

江戸幕府によって三都を中心に、各地の城下町をつなぐ全国的な街道の網の目が完成した。とくに、三都をむすぶ東海道をはじめとする五街道は江戸の日本橋を起点とする幹線道路として幕府の直接管理下におかれ、17世紀半ば以降は道中奉行によって管理された。近世中期になると、陸上交通は参勤交代や幕府・大名の物資のみならず、商人の荷物がいっそう活発に運送された。飛脚などによる通信制度も整備された[注釈 2]。このような陸上交通には、徒歩、駕籠、牛馬、大八車などが用いられ、中部日本には牛馬による長距離運送をおこなう中馬が発達したものの、馬車の発達はみられなかった。

水上交通 編集

大量の物資を安価に運ぶには陸路よりも河川、湖沼、海洋の水上交通が適していた。

海上交通では、大坂-江戸間の南海路には、すでに17世紀はじめに、大型の帆船を用いて木綿・油・酒・醤油など多様な日常消費物資を江戸に運ぶ菱垣廻船が就航し、ついで18世紀前半には西宮の酒をおもに運ぶ樽廻船が就航した。江戸は武士の人口が多く、酒の需要が多かったのである。樽廻船は荷役が速く、酒以外の商品を上積み荷物として安価で運送し、菱垣廻船とのあいだで争いを繰り返した。これらは定期的に運航され、大坂から木綿・油・酒などの下り荷を大量に江戸へ運んだ。その後、菱垣廻船は衰退し、江戸時代後期になると樽廻船が圧倒的な優位に立った。

いっぽう、17世紀後半には、江戸の商人河村瑞賢によって出羽国酒田を起点として江戸に至る東廻り海運と北陸地方や山陰・瀬戸内地方を経由して大坂に至る西廻り海運が整備された。西廻り航路では、18世紀末以降、日本海北前船が遠隔地輸送を担うようになり、昆布ニシンは上方にも運ばれた。

17世紀初頭、京の豪商角倉了以は京を流れる賀茂川保津川を整備し、さらに高瀬川を開削して淀川の港町伏見との間に水路をひらいた[注釈 3]。そこでは高瀬舟などの中型船や小舟が用いられ、京内の舟運が物資や人を輸送する手段として発展した。そして、伏見港と大阪の八軒家を結ぶ水運として淀川には三十石船を初め大小様々な船が行き交い、また、中程の枚方宿にも、枚方浜、樟葉浜、樋之上浜、渚浜、磯島浜などの船着場が設けられていた。

経済・金融 編集

 
亀戸銭座跡

全国に通用する貨幣を安定して供給することは、江戸幕府の重要な役割であった。同一規格・同一品質の金銀貨幣は家康の慶長金銀が日本初といわれ、金座は江戸と京都に置かれ、銀座は当初伏見駿府におかれたが、のちに京都・江戸にうつされた。銭座は江戸のと近江国坂本におかれ、のちに10箇所前後に増設された。金・銀・銭のこれら三貨は全国に広くいきわたり、江戸期の商品流通の飛躍的な発展をささえた。

貨幣は、三都や各城下町の両替商によって流通が促進された。両替商は三貨間の両替や秤量を生業とした。大坂や江戸の本両替と称される有力な両替商は、幕府や諸藩の公金の出納や為替貸付業務をおこない、その財政をささえた。とくに江戸の三井、大坂の鴻池天王寺屋が著名である。

全国市場が確立し、海運が活発になると、江戸の十組問屋や大坂の二十四組問屋のように、江戸・大坂間の荷物運送の安全、海損の共同保障、流通の独占をめざして、多様な職種からなる問屋仲間の連合組織がつくられた(株仲間)。

江戸・大坂の大消費地には、商人が仕入れた商品(納屋物)や諸藩が農民から徴収した年貢米・特産物(蔵物)が大量に集まり、大坂では堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場、江戸では神田の青物市場、日本橋の魚市場など主要商品専門の卸市場が発達し、投機取引もおこなわれた。こうした物資は、問屋・仲買小売という商業の分業によって運送・販売された。

都市文化 編集

三都は、他の日本の諸都市にくらべ隔絶した都市人口を有し、いずれも幕府直轄の都市であったため、武家の人口も多かった。農村にくらべて庶民の負担が軽いこともあり、周辺から人口が流れ込み、いずれも盛り場を有し、祭礼もまたさかんであった。近世の三都にあっては花木の鑑賞・作庭、芝居浄瑠璃見物、遊廓寄席相撲貸本錦絵花火など都市的な文化や生活様式が開花したのである[7]

広瀬旭荘による三都比較 編集

江戸時代後期の儒学者で江戸や大坂に住んだこともある広瀬旭荘淡窓の弟)は、『九桂草堂随筆』という随筆の中で三都について述べていくつか事例を挙げながら三都の比較を試みている。以下はその概要である。

  • 京(京都)
    • 京都の人は矜気が多い。彼らは「江戸大坂といえども皆田舎である、すむに都に如くはなし(及ぶものはない)」と考えている。
    • だが、京都を見なければ我国(日本)が「百王一統(万世一系)」で万国(他国)よりも尊いことを理解できないであろう。
  • 大坂
    • 大坂の人は殺気が多い。彼らは「公卿は官禄は高くても貧しく、我輩の賈に手を下くる(へつらう)。」などと挙げている。
    • だが、大坂を見なければ我邦(日本)が「産物多く、船楫便利」で万国(他国)よりも富みたることを理解できないであろう。
  • 江戸
    • 江戸の人は客気が多い。彼らは「諸侯でさえも貧しい(財政難で多額の負債を抱えた)時節である。貧しいは愧ることではなく、実を置いても立身する(名声を得る)ほうがいい」と考えている。
    • だが、江戸を見なければ我邦(日本)の「人口衆く(多く)、諸侯輻湊(集中)」して万国(他国)よりも繁華なることを理解できないであろう。

と、述べて三都それぞれに異なるものの、日本の誇るべき都市であると結論付けている。

人口 編集

平安遷都以来室町時代まで京都は時期によって変動はあるものの、多い時で約20万人、少ない時で約4万人の間で推移したと推定されている。安土桃山時代に入り大坂が発達し、京都も長らく分離していた上京下京の宅地が繋がって30万人規模に成長したと考えられる。江戸時代に入ってすぐの1609年に日本へ漂流したロドリゴ・デ・ビベロは、京都の人口を30~40万人、大坂の人口を20万人、江戸の人口を15万人と伝えている。江戸時代の三都の人口については時期によって変動はあるものの、多い時で江戸は100万人以上、京都、大坂は40万人の人口を有していたと推測されている。江戸時代を通じて三都以外では、名古屋金沢が最盛期で10万人規模、長崎広島和歌山鹿児島仙台が最盛期で6万人以上で、他の有力諸侯の城下町はいずれも5万人前後かそれ以下であった。幕藩体制維持のため各藩の拠点は一箇所の城下町に固定化され、更に領外への経済圏の自由な拡大が制約されたため、全国的な拠点とされた三都との間に格差が生じたと考えられる。

江戸時代・明治初期の三都の推定総人口遷移 (斎藤誠治, 1984年)
主要都市 1650年 1750年 1850年 1873年 1879年
江戸 430,000 1,220,000 1,150,000 595,905 671,335
大坂 220,000 410,000 330,000 271,992 291,565
京都 430,000 370,000 290,000 238,663 232,683

江戸時代後半は宗門人別改帳を通じて町方・寺社方・郷方の人口が集計されているものの、武家人口が記録としてほとんど残っていないため、三都の正確な人口は不明である。

三都の住区別面積 (内藤昌, 1978–1983年)[8]
都市名 年代 総面積 公家地 武家地 町人地 寺社地 空地・その他 復元史料
江戸 正保年間
(1647年頃)
43.95 km2 34.06 km2
(77.4%)
4.29 km2
(9.8%)
4.50 km2
(10.3%)
1.10 km2
(2.5%)
『正保年間江戸絵図』
寛文10~13年
(1670~1673年)
63.42 km2 43.66 km2
(68.9%)
6.75 km2
(10.6%)
7.90 km2
(12.4%)
5.11 km2
(8.1%)
『新板江戸大絵図』
『新板江戸外絵図』
享保10年
(1725年)
69.93 km2 46.47 km2
(66.4%)
8.72 km2
(12.5%)
10.74 km2
(15.4%)
4.00 km2
(5.7%)
『分間江戸大絵図』
慶応元年
(1865年)
79.8 km2 50.7 km2
(63.5%)
14.2 km2
(17.8%)
10.1 km2
(12.7%)
4.8 km2
(6.0%)
『慶応江戸切絵図』
明治2年
(1869年)
56.36 km2 38.65 km2
(68.6%)
8.92 km2
(15.8%)
8.80 km2
(15.6%)
後藤新平 『江戸の自治制』
京都 (洛中) 正保年間
(1647年頃)
20.87 km2 0.68 km2
(3.3%)
1.05 km2
(5.0%)
8.37 km2
(40.1%)
2.92 km2
(14.0%)
7.85 km2
(37.6%)
『寛永後万治前京都全図』
大坂 明暦年間
(1655年頃)
15.05 km2 3.36 km2
(22.3%)
8.68 km2
(57.7%)
1.18 km2
(7.8%)
1.83 km2
(12.2%)
『大坂三郷町絵図』

江戸 編集

18世紀の江戸は、町方人口が約50万人、武家人口が約60万人、寺社人口が10万人弱で、合わせて120万人の人口を擁する、当時世界最大級の都市であった[3]。その都市域は武家地60パーセント強、寺社地・町家地がそれぞれ20パーセント弱の面積を占めており、武家地の占める割合の大きい「城下町」であった[3]

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調査の対象外であった武家や公家、被差別階級人口を除く。

京都の町方・寺社人口 (1)
元号 西暦 町方人口 寺社人口 出典
総数 洛中 洛外 総数 洛中 洛外
寛永11年 1634 410,089 京都御役所向大概覚書
寛文元年 1661 362,322 前田家日記
寛文5年 1665 352,344 万天日録、玉露叢、一話一言
延宝2年 1674 408,723 372,810 35,918 万天日録、玉露叢、扶桑記勝、半日閑話
天和3年 1683 353,707 321,449 32,258 34,435 6,611 27,824 京都御役所向大概覚書
元禄3年 1690 350,549 313,021 37,528 31,532 2,957 28,575 京都御役所向大概覚書
元禄13年 1700 351,692 317,936 33,756 21,280 2,780 18,500 京都御役所向大概覚書
正徳5年 1715 350,986 京都御役所向大概覚書
344,379 302,755 41,624 14,551 1,818 12,733 洛水一滴抄
享保元年 1716 350,367 京都御役所向大概覚書
享保2年 1717 350,033 京都御役所向大概覚書
享保3年 1718 346,431 京都御役所向大概覚書
享保4年 1719 341,494 京都御役所向大概覚書
享保7年 1722 354,802 京都御役所向大概覚書
享保14年 1729 374,449 345,882 28,567 月堂見聞集
享保15年 1730 373,302 344,350 28,952 月堂見聞集
明和3年 1766 318,016 255,947 62,069 古久保家文書、町代諸事覚
明治4年 (本籍人口) 1871 237,674 京都府戸籍調
明治5年 (本籍人口) 1872 244,883 京都府戸籍調
明治6年 1873 238,663 日本地誌提要 (寄留者12,533人を含む)

このほか明らかに山城国全域の人口と混乱して50万人前後の人口を伝えたり、同じ人口に関して異なる年代で記述されるなど、信頼の低いものもあるが、参考までに以下列挙する。

京都町方・寺社門前人口 (2)
元号 西暦 町方人口 出典
延宝9年 1681 577,548 吹塵録
507,548 雍州府志、塩尻、扶桑記勝
享保6年 1721 526,222 月堂見聞集
享保17年 1732 526,222 月堂見聞集
寛延3年 1750 479,956 雪月花
宝暦3年 1753 526,222 大日本古来人口考

1691年に京都を訪ねたエンゲルベルト・ケンペルは、京都の人口を僧侶5万2169人を含めて52万9726人という記録を残しているが、これもおそらく山城国全土の領民人口の人数帳に基づく数字と推定される。一方文政9年(1826年)に京都を訪ねたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、京都の人口を11万7000戸78万人と記載しているが、根拠が不明である。なお享保6年(1721年)以降に幕府が集計した、山城国の武家人口等を除いた領民人口は以下の通りである。

山城国領民人口
元号 西暦 総人口
享保6年 1721 564,994
寛延3年 1750 522,626
宝暦6年 1756 527,334
天明6年 1786 507,488
寛政4年 1792 506,324
寛政10年 1798 480,993
文化元年 1804 469,519
文政5年 1822 478,652
文政11年 1828 498,296
天保5年 1834 488,726
天保11年 1840 445,432
弘化3年 1846 452,140

参勤交代で江戸の人口が急増する寛永年間まで京都は日本最大の都市であった。江戸時代後期の人口を伝える史料は残っていないが、山城国の人口がほぼ一貫して減少しており、京都の人口も20万人台まで減少していたと考えられる。元治元年(1864年)の6万9055戸と伝えられる町方戸数から、幕末の京都の人口を大坂以上の35万人とする試算もあるが、宗門人別改帳の研究からは28万人程度と推計されている(浜野潔, 2007年)。

一方京都在中の武家人口については4500人~5600人と推定されている[9]

江戸時代中期の京都在中の推定武家人口 (藤井譲治, 2007年)[9]
区分 人口 推定の根拠
所司代・町奉行・禁裏付 3,000~4,000 大名・旗本129人、与力164騎、
同心480人、所司代家臣133人、
各奉公人・家族等
諸大名派遣 1,000 大名屋敷71軒(各知行取家臣2~3名)、
屋敷を持たない大名家臣各1~2名、
各奉公人・家族等
隠居・浪人 400~500 元禄7年の浪人数172人(武家奉公人を含む)
大名屋敷の後室等 100
合計 4,500~5,600

伏見 編集

京都に隣接する伏見には、伏見城廃城に伴い、元和9年12月(1624年1月)伏見奉行所が置かれ、江戸幕府成立期には、伏見奉行は畿内近国八か国を総監する上方郡代を兼ねた。その後、寛文6年3月(1666年)に改めて奉行職が創設され、伏見城の城下にあった伏見町と周辺の8カ村を管轄するほか、宇治川(淀川)にて京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点・伏見港の支配と参勤交代の西国大名の監視、京都御所の警備などにあたり、元禄9年~11年(1696~1698)および文化5年~7年(1808年~1810年)の二度の中断を挟み、慶応3年(1867年)の廃止まで続いた。幕末には伏見は4万人以上の人口を有する宿場町として栄え、また京都から伏見まで伏見街道には家屋が切れ間なく続いており、伏見は完全に京都と町続きを形成していた。

伏見町方人口
元号 西暦 町方人口
元禄3年 1690年 25,249
元禄13年 1700年 28,743
正徳4年 1714年 30,055
明和年中 1770年頃 27,450
天明年中 1786年頃 33,385
天保年中 1843年頃 40,980
明治6年 (総数) 1873年 22,334

大坂 編集

17世紀後半より大坂三郷(北組、南組、天満組)の町方人別の詳細が伝わっている。町方人別には調査の対象外であった武家と被差別階級人口が含まれない。下表中僧とは両本願寺派以外の僧侶の人口を指し、両本願寺派の僧は三郷町方人口に含まれている。『南北両町奉行連著書上』が伝える元文3年(1738年)、寛保3年(1743年)の人口は誤記と思われるが、参考までに斜体で記載する。同様に『開国五十年史』記載の寛永2年(1625年)の人口は『松平石見守殿御初入付差出御覚書』記載の寛文9年(1669年)のものと一致しており、誤記が疑われる。また寛永11年(1634年)、寛永12年(1635年)の人口は、北組・南組・天満組の内訳とともに伝わっているが、この時期には三郷に加えて「伏見組」が存在した四郷時代であり、年号の誤記が疑われる。

大坂町方人口(1749年以前)
元号 西暦 合計 三郷町方 出典
寛永2年 1625 279,610 開国五十年史(米商旧記)
寛永11年 1634 402,532 年代著聞集 (北組14万9212人、
南組17万4537人、天満組7万8783人)
寛永12年 1635 404,929 年代著聞集 (北組14万8756人、
南組17万7304人、天満組7万8869人、遊女404人、僧216人)
寛文元年 1661 252,446 開国五十年史
寛文5年 1665 268,760 玉露叢
寛文9年 1669 279,610 松平石見守殿御初入付差出御覚書
延宝7年 1679 287,891 松平石見守殿御初入付差出御覚書
元禄2年 1689 330,244 松平石見守殿御初入付差出御覚書
元禄5年 1692 346,389 345,524 865 御城代御支配所萬覚 (他に穢多840人)
元禄12年 1699 364,154 松平石見守殿御初入付差出御覚書
元禄16年 1703 351,708 地方役手鑑
宝永6年 1709 381,626 松平石見守殿御初入付差出御覚書
宝永8年 1710 372,015 無名書
正徳元年 1711 379,511 無名書
正徳3年 1713 380,149 379,275 874 地方川方御用覚書 (他に穢多村の僧・俗・女計2,341人)
正徳4年 1714 383,357 382,435 922 地方川方御用覚書
正徳5年 1715 375,584 374,684 900 無名書
享保元年 1716 366,304 365,380 924 無名書
享保4年 1719 374,498 松平石見守殿御初入付差出御覚書
享保6年 1721 383,480 382,471 1,009 無名書
享保7年 1722 378,007 377,018 989 無名書
享保9年 1724 357,091 356,092 999 無名書
享保10年 1725 370,156 369,161 995 無名書
享保14年 1729 385,431 松平石見守殿御初入付差出御覚書
元文元年 1736 390,826 389,866 960 地方川方御用覚書
元文3年 1738 526,813 南北両町奉行連著書上
元文4年 1739 403,724 松平石見守殿御初入付差出御覚書
寛保3年 1743 501,166 南北両町奉行連著書上
寛延2年 1749 404,146 松平石見守殿御初入付差出御覚書

寛延2年(1749年)以降は両本願寺派以外の全僧侶の人口も三郷町方人口に含まれるようになる。元禄16年(1703年)9月の各組の町数・家数・人口の構成は以下の通りである。

大坂三郷町方人口(1749年)
組・寺社 町数 家数 総人口
北組 237 6,254 74,152 58,137 132,289
南組 241 7,546 83,073 70,975 154,048
天満組 90 3,028 26,488 23,433 49,921
堀江新地 33 451 6,519 6,927 13,446
神社 316 288 604
寺院僧 858 858
寺院俗 506 36 542
合計 601 17,279 191,912 159,796 351,708

宝暦6年(1756年)以降被差別階級の穢多村の統計が残っており、参考までに両者の合計を示す。

大坂三郷町方人口(1756年~1856年)
元号 西暦 合計 三郷町方 穢多村 元号 西暦 合計 三郷町方 穢多村 元号 西暦 合計 三郷町方 穢多村
宝暦6年 1756 413,356 409,984 3,372 寛政2年 1790 386,617 382,641 3,976 文政7年 1824 383,388 378,578 4,810
宝暦7年 1757 410,784 407,447 3,337 寛政3年 1791 389,395 385,407 3,988 文政8年 1825 382,771 377,928 4,843
宝暦8年 1758 413,029 409,631 3,398 寛政4年 1792 380,039 376,009 4,030 文政9年 1826 385,298 380,351 4,947
宝暦9年 1759 417,099 413,669 3,430 寛政5年 1793 385,844 381,803 4,041 文政10年 1827 384,449 379,489 4,960
宝暦10年 1760 415,016 411,636 3,380 寛政6年 1794 388,305 384,170 4,135 文政11年 1828 381,135 376,177 4,958
宝暦11年 1761 420,377 416,957 3,420 寛政7年 1795 388,895 384,652 4,243 文政12年 1829 379,590 374,689 4,901
宝暦12年 1762 422,046 418,573 3,473 寛政8年 1796 385,709 381,436 4,273 天保元年 1830 376,232 371,252 4,980
宝暦13年 1763 420,827 417,379 3,448 寛政9年 1797 386,196 381,835 4,361 天保2年 1831 373,004 367,911 5,093
明和元年 1764 422,359 418,862 3,497 寛政10年 1798 383,615 379,274 4,341 天保3年 1832 374,295 369,173 5,122
明和2年 1765 423,453 419,863 3,590 寛政11年 1799 384,866 380,432 4,434 天保4年 1833 373,948 368,909 5,039
明和3年 1766 421,703 418,086 3,617 寛政12年 1800 383,544 379,121 4,423 天保5年 1834 364,270 359,290 4,980
明和4年 1767 417,251 413,749 3,502 享和元年 1801 380,519 376,117 4,402 天保6年 1835 366,390 361,434 4,956
明和5年 1768 414,229 410,642 3,587 享和2年 1802 382,651 378,173 4,478 天保7年 1836 364,393 359,419 4,974
明和6年 1769 412,997 409,421 3,576 享和3年 1803 379,907 375,531 4,376 天保8年 1837 333,187 328,963 4,224
明和7年 1770 409,059 405,481 3,578 文化元年 1804 379,062 374,687 4,375 天保9年 1838 326,773 322,701 4,072
明和8年 1771 404,433 400,909 3,524 文化2年 1805 385,832 381,410 4,422 天保10年 1839 331,759 327,557 4,202
安永元年 1772 405,106 401,544 3,562 文化3年 1806 388,158 383,653 4,505 天保11年 1840 341,521 337,215 4,306
安永2年 1773 406,556 403,021 3,535 文化4年 1807 387,588 383,177 4,411 天保12年 1841 346,207 341,906 4,301
安永3年 1774 407,818 404,257 3,561 文化5年 1808 389,076 384,651 4,425 天保13年 1842 354,754 350,422 4,332
安永4年 1775 411,969 408,293 3,676 文化6年 1809 385,746 381,340 4,406 天保14年 1843 336,389 332,072 4,317
安永5年 1776 410,055 406,379 3,676 文化7年 1810 385,617 381,169 4,448 弘化元年 1844 339,379 334,879 4,500
安永6年 1777 407,077 403,467 3,610 文化8年 1811 386,217 381,735 4,482 弘化2年 1845 344,093 339,545 4,548
安永7年 1778 406,061 402,360 3,701 文化9年 1812 385,271 380,793 4,478 弘化3年 1846 342,423 337,842 4,581
安永8年 1779 408,717 404,964 3,753 文化10年 1813 386,483 381,962 4,521 弘化4年 1847 341,707 337,094 4,613
安永9年 1780 408,504 404,818 3,686 文化11年 1814 382,725 378,253 4,472 嘉永元年 1848 340,234 335,705 4,529
天明元年 1781 411,044 407,322 3,722 文化12年 1815 378,570 374,008 4,562 嘉永2年 1849 338,261 333,748 4,513
天明2年 1782 409,773 405,961 3,812 文化13年 1816 377,591 373,045 4,546 嘉永3年 1850 330,637 326,187 4,450
天明3年 1783 403,611 399,777 3,834 文化14年 1817 375,470 370,902 4,568 嘉永4年 1851 321,920 317,595 4,325
天明4年 1784 384,395 380,710 3,685 文政元年 1818 374,204 369,687 4,517 嘉永5年 1852 321,053 316,784 4,269
天明5年 1785 384,207 380,416 3,791 文政2年 1819 377,129 372,586 4,543 嘉永6年 1853 323,247 318,988 4,259
天明6年 1786 383,903 380,098 3,805 文政3年 1820 378,940 374,368 4,572 安政元年 1854 321,664 317,436 4,228
天明7年 1787 375,435 371,740 3,695 文政4年 1821 382,924 378,211 4,713 安政2年 1855 321,166 316,919 4,247
天明8年 1788 376,469 372,729 3,740 文政5年 1822 381,684 377,029 4,655 安政3年 1856 325,037 320,780 4,257
寛政元年 1789 381,529 377,729 3,800 文政6年 1823 383,551 378,926 4,625

(以上出典は『東町奉行一式山城守直温旧蔵三郷並穢多村兵庫西宮塩飽島人数高帳』)

明治元年(1868年)以降の人口は全身分を含む本籍人口。

大坂三郷町方人口(1857年以降)
元号 西暦 合計 三郷町方 穢多村 出典
安政4年 1857 323,956 手鏡
安政5年 1858 318,400 314,370 4,030 鐘奇斎日々雑記
安政6年 1859 312,986 308,978 4,008 鐘奇斎日々雑記
文久元年 1861 308,192 鐘奇斎日々雑記
文久2年 1862 301,093 鐘奇斎日々雑記
明治元年 (本籍人口) 1868 281,306 国史
明治6年 (本籍人口) 1873 271,992 日本地誌提要

大坂の陣で荒廃したがすぐに復興し、元禄年間に京都の人口を追い抜いた。町方人口だけで40万人を超えたが、幕末には30万人まで減り、明治時代には総人口が20万人台となった。大坂町奉行堺奉行を兼ねていた時期もあり、江戸時代大坂と堺が一個の都市圏を築いていたと主張する人もいる。少なくとも天王寺 (明治6年に1万6560人)、難波(明治6年に8128人)などは秀吉による大坂城下町形成当時から町続きを形成していた。豊臣時代に大坂城下町の一部として、平野郷からの移住者が中心となって建設された南北平野町 (明治6年に6796人)は江戸時代に設定された大坂三郷には含まれなかった。

18世紀後半の宝暦・天明の時期になると、大坂三郷周辺の町続きが大坂町奉行の支配下に入った。天明元年(1781年)における町続在領には、東成郡野田村西成郡川崎村、北野村、曾根崎村上福島村下福島村、野田村の内字野田道建家、九条村、西九条村但安治川北壱丁目続建家、三軒家村の内勘助嶋、西側村、西高津村、塩町口野畑、高津屋吉右衛門肝煎、東成郡北平野町村、南平野町村、東高津村、天王寺村が含まれた。江戸時代後半の大坂三郷の人口減少は郊外の形成に伴う一種のドーナツ化現象であるという側面も指摘されている(速水融, 2005年)。

その一方で司馬遼太郎などにより江戸時代の大坂在中の武士の人口はわずかに200人という誤解が流布しているが、これは東西両町奉行所の与力・同心のみを数えた大げさな表現であり、大坂城方や家族の人口が含まれていない。『公私要覧』の記載や『武鑑』の研究成果により、大坂三郷内に実際に暮らしていた武家の人口は8000人から1万人程度と推定されている。それでも武家人口の占める割合は大坂の総人口の2%~3%程度であり、同時代の他の城下町と比較して武家人口の割合はかなり低い。以下に江戸時代後期の大坂在中の推定武家人口をまとめる。軍役等は享保8年(1723年)制定の足高制に基く。表に示すように、大坂城内居住者が武家人口の約40%を占めていた。ここに示す約8000人という推定人口は低めの見積もりで、特に城代・両定番を勤める大名の家老・公用人等の家中が家族同伴であったとするのなら、大坂城外の中・下屋敷に暮らす武家人口がさらに加算される。最近では武士の町としての大坂にスポットをあてた、意外性を取り上げた書籍が出版されている。

江戸時代後期の大坂在中の推定武家人口 (薮田貫, 2010年)
区分 人口 推定の根拠
大坂城大番 980 東西2組×(大番頭1人×軍役104人+組頭4人×軍役14人
+大番士50騎×軍役6人+与力10騎+同心20人)
大坂城加番 1,000 山里(2万7000石)・中小屋(1万8000石)・青屋口(1万石)・雁木坂(1万石)の4加番
×平均軍役250人(武士・徒歩・足軽・中間・従者・その他)
大坂城内目付 30 書院・台所・居間等15箇所×2人
大坂城城代・両定番 1,080~1,475 城代軍役610人(3万石)~1,005人(5万石)
+京橋・玉造の2組×定番軍役235人(1万石)
大坂城内上屋敷の城代・両定番の家族・奉公人 70 城代家族・奉公人30人+京橋・玉造の2組×定番家族・奉公人20人
町奉行・船奉行 210 東西町奉行・川口船奉行の3奉行×(奉行家族・奉公人10人
+家臣・下僚15人×家族4人)
六役奉行 350 東西2組×鉄砲・弓・具足・金・蔵・材木の六役奉行7組(鉄砲奉行が2組)
×(奉行家族5人+家臣・下僚5人×家族4人)
代官 90 鈴木町・谷町の2代官所×代官・家臣・下僚15人×家族3人
与力・同心 (大番付属を除く) 3,000 与力・同心等733人=(玉造口・京橋口の両定番2組+東西町奉行2組)×与力30騎
+川口船奉行1組×与力10騎+(玉造組・京橋組の2組)×同心100人
+天満組東西2組×同心50人+川口組1組×水主50人
+六役奉行付属同心130人(鉄砲奉行50人+弓奉行20人+具足奉行12人
+金奉行15人+蔵奉行18人+材木奉行15人)
+蔵番13人+小揚頭4人+机突6人+小揚100人;
 4人家族なら2932人、5人家族なら3665人
蔵屋敷 900 90藩×留守居・家族10人
合計 7,710~8,105

近代の三都 編集

1920年の日本の人口上位都市
1 東京市 217万3201
2 大阪市 125万2983
3 神戸市 060万8644
4 京都市 059万1324
5 名古屋市 042万9997
6 横浜市 042万2942
7 長崎市 017万6534
8 広島市 016万0510
9 函館区 014万4749

三都は、明治以後も三府が設置され、市制成立後も暫くは特例が敷かれるなど、長きにわたって重要視されていくこととなった。

1878年明治11年)、「人民輻輳ノ地」すなわち人口が多い都市に対し、郡区町村編制法によって1都市あたり1つのが存置されたが、江戸の後身たる東京、および京都・大阪には複数の区が置かれるという大都市制度が導入された。1889年(明治22年)4月1日市制施行に際しては、一般の区が区を廃止して市となる一方、東京・大阪・京都は区を存置したまま市制を施行するという三市特例が実施された。当時、一般の市には市会推薦市長が置かれたのに対し、三市では市長を置かず、内務省が任命した府知事がその任にあたっていた。それゆえ、かつての三都は一般市に比較して官治的であり、自治権が制限されており[10]、自治権拡大を要求する「特例撤廃運動」が起こっている。この運動によって特例が1898年(明治31年)に廃止されたが、他市と比べて隔絶した人口を有する東京市ではさらに、東京府からの独立を要求する特別市運動へと発展し、明治末年にはこの動きに大阪市も加わっている[11][注釈 4]

大正デモクラシー期に入ると、かつての三都に加え、人口規模でこれらの都市に匹敵する名古屋市、また当時の港湾都市である神戸市横浜市の6都市が互いに協力して「特別市運動」を展開するようになった[10]1922年大正11年)、この運動がようやく実をむすび、「六大都市行政監督ニ関スル法律」が定められて六大都市は特別市として扱われるようになった。なお、1943年昭和18年)7月1日には東京に東京都制が布かれる一方、のこる五大都市については「五大都市行政監督特例」が施行された。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 江戸時代にあっては、商人が他人にカネを貸し出すとき、いったん寺社にカネを預け、そこから資金を必要とする人たちが借りる「名目貸」のスタイルを採用し、貸し倒れを防いだ。その点も寺社の多い京都には有利にはたらいた。林・大石(1996)p.13
  2. ^ 飛脚は、幕府公用の継飛脚、諸藩の大名飛脚、のちには町飛脚もうまれた。
  3. ^ 角倉了以の整備した河川には、他に富士川などがある。
  4. ^ 1917年大正6年)には東京市で第1回6大都市事務協議会が、1919年(大正8年)には京都市で第1回6大都市市長会議が開かれている。

出典 編集

  1. ^ 「都市」『世界大百科事典』 平凡社。
  2. ^ a b c 林・大石(1995)pp.3-5
  3. ^ a b c d e f g h 賀川(1992)pp.184-186
  4. ^ a b c d e f 林・大石(1995)pp.10-11
  5. ^ 大阪商工会議所佐藤茂雄会頭講演録"2012年10月1日 大阪経済大学80周年記念講演"
  6. ^ 林・大石(1995)pp.12-14
  7. ^ 深谷(1993)pp.375-384
  8. ^ (a) 内藤昌, 「江戸―その築城と都市計画―」, 『月刊文化財』, (175号), pp.15–29 (1978). (b) 内藤昌, 『江戸の町』, 草思社, 1982. (c) 内藤昌, 「都市構造における職人町のありかた」, 『歴史公論』, 9巻 (8号, 通巻93号), pp.76–82 (1983).
  9. ^ a b (a) 藤井譲治, 「一七世紀京都の都市構造と武士の位置」, 金田章裕編, 『平安京―京都:都市図と都市構造』, 京都大学学術出版会 (1997年).
  10. ^ a b 第1章 大都市制度改革の背景 (PDF) (名古屋市)
  11. ^ 指定都市制度のあらまし > 大都市制度の確立に向けた動き > 戦前の特別市制運動(指定都市市長会)

参考文献 編集

  • 賀川隆行『崩れゆく鎖国』集英社〈集英社版日本の歴史14〉、1992年7月。ISBN 4-09-461009-X 
  • 林玲子大石慎三郎『流通列島の誕生』講談社講談社現代新書〉、1995年11月。ISBN 4-06-149261-6 
  • 深谷克己『士農工商の世』小学館小学館ライブラリー/大系日本の歴史9〉、1993年4月。ISBN 4-09-461009-X * 幸田成友編、『大阪市史』第一巻、大阪市参事会、1911年。
  • 柚木重三、堀江保蔵「本邦人口表」、『経済史研究』、7号、188頁–210頁、1930年。
  • 高橋梵仙『日本人口史之研究』、三友社、1941年。
  • 西山松之助「大阪・兵庫・西宮・塩飽島人口統計表 1757 (宝暦7)–1856 (安政3)」、『歴史学研究』、157号、26頁–28頁、1952年。
  • 松本四郎『日本近世都市論』、東京大学出版、1983年。
  • 渡邊忠司『町人の町 大坂物語』、中公新書、1993年。
  • 乾宏巳『近世都市住民の研究』、清文堂出版、2003年。
  • 斎藤誠次「江戸時代の都市人口」、『地域開発』、(9月号)、48頁–63頁、1984年。
  • 速水融「前工業化期日本の都市人口分布」、『麗澤大学経済学会』、13巻 (1号)、47頁–59頁、2005年。
  • 浜野潔『近世京都の歴史人口学的研究』、慶應義塾大学出版会株式会社、2007年。
  • 薮田貫『武士の町 大坂』、中公新書、2010年。