元 法僧(げん ほうそう、454年 - 536年)は、北魏皇族。反乱を起こして一時は北魏の皇帝を称したが、戦いに敗れて南朝梁に亡命した。

経歴編集

元鍾葵の子として生まれた。祖父は淮南王拓跋他、曾祖父は明元帝の弟の陽平王拓跋煕である。太尉行参軍から通直郎に転じ、寧遠将軍となり、司徒掾・司馬掾を歴任した。515年延昌4年)、龍驤将軍の号を受け、益州刺史に任じられた。統治の才能はなく、収奪と殺戮に明け暮れ、州内では反乱が多発し、梁の侵攻を招いた。516年熙平元年)、梁の巴西梓潼二郡太守張斉が侵攻してくると、法僧は州城の城門を閉ざして洛陽の朝廷に救援を求めた。北魏の孝明帝傅豎眼を益州に派遣して、法僧を救援させ、傅豎眼の軍が張斉を撃退した。後に法僧は召還されて光禄大夫の位を受け、平東将軍・兗州刺史として出向した。さらに使持節・安東将軍・都督徐州諸軍事・徐州刺史に転じ、彭城に駐屯した。

525年正光6年)1月、元叉による圧迫を恐れて、行台の高諒を殺害し、彭城で反乱を起こした。北魏の皇帝を自称し、天啓と建元し、諸子を王に立て、将帥を任命した。一方、梁に対して子の元景仲を送って救援を求めさせた。梁の武帝は法僧を侍中司空に任じ、始安郡公に封じ、朱异元略陳慶之・胡龍牙・成景儁らを派遣して迎えさせることとした。元略は北魏の安楽王元鑑の率いる討伐軍に彭城の南で敗れたが、法僧は元鑑が多数の捕虜を抱えて態勢が整わないところを襲撃して勝利を収めた。梁の豫章王蕭綜が彭城に派遣されると、法僧は諸子や彭城の官民を引き連れて、梁の首都である建康に入城した。

528年大通2年)、梁の武帝より中軍将軍の号を加えられた。529年中大通元年)、車騎将軍に転じた。532年(中大通4年)、太尉となり、金紫光禄大夫を兼ねた。この年、武帝により東魏王に立てられたが、北還の途につこうとしなかった。そのまま使持節・散騎常侍・驃騎大将軍・開府儀同三司郢州刺史に任じられた。536年大同2年)、侍中・太尉として建康に召還され、軍師将軍を兼ねた。83歳で死去した。

子女編集

伝記資料編集