伽耶

朝鮮半島の古代国家連盟
加耶から転送)

伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀または3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家々を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。

伽耶
各種表記
ハングル 가야
漢字 伽耶
発音 カヤ
日本語読み: かや
ローマ字 Kaya/Gaya
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三国時代の朝鮮半島 左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。 三国時代の朝鮮半島 左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。
三国時代の朝鮮半島
左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
史前 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
前18-660
高句麗
前37-668
新羅
前57-
南北国 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

呼称編集

414年に高句麗が建立した『広開土王碑』にある「任那加羅」が史料初見とされている[1]

中国梁国の時の537年に蕭子顯が編纂した史書の南齊書によると、加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。 と記録されている。

720年に成立した『日本書紀』では、加羅任那が併記される[2]

中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される[3]。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑[4]801年成立の『通典[5]、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。唯一、清代に編纂された『全唐文』巻1000に於いてのみ伽耶の表記が用いられている。

基本的には加羅と呼ばれる。「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが[6]、「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されている[6]

概説編集

三国史記』『三国遺事』などの文献史料は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝えるに過ぎないが農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などの考古学資料からの推定により紀元前1世紀頃に部族集団が形成されたと推測されてきている。1世紀中葉に中国正史の『三国志』や『後漢書』で「其(倭国?)の北岸」または「倭の西北端の国」の『狗邪韓国』(慶尚南道金海市)とその北に位置する弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出現している。後に狗邪韓国(金官国)となる地域は弥生時代中期(前4、3世紀)以後になると従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の狗邪韓国(金官国)に繋がる倭人が進出した結果とみられる[7]首露王により建国されたとされる「金官国」が統合の中心とする仮説が主張されている。

4世紀初め中国の郡県支配が弱まると、馬韓辰韓は自立して百済新羅を形成したが、その間にある弁韓の諸国は国家の形成が遅れた。4世紀初めに高句麗が勢力を拡張すると、馬韓は大部分が百済に統合されたが、弁韓の諸国は一体化することなく存続した。

加羅と関係の深い任那諸国は6世紀になると百済や新羅の侵略を受け、西側諸国は百済へ倭から割譲或いは武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった[8]。512年に4県を倭が百済へ割譲し、532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされ、また562年には洛東江流域の任那諸国を新羅が滅ぼした。

加羅の権力層には倭系のを帯びる集団が検出される。浜田耕策は「朝鮮半島からの『渡来人』が古代日本の国家形成に果たした成果を評価する『渡来人』史観は近年注目されている百済や伽耶にも倭人の『渡来人』がいたことが見られるように、この相互の移住民国家の形成史のなかでどのように評価するかの問題にも発展して新たに考察される課題であろう」と指摘している[9]

歴史編集

辰韓諸国と弁韓諸国編集

朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道大邱慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。

朝鮮半島南西部の弁韓地域には、紀元前10世紀から黄海沿岸に位置する山東半島・遼西・遼東半島の物と非常に類似した様式の土器や石器が見られるようになる。1世紀中頃になると社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。また、この地域は豊かな鉄産地と海運の良好な条件に恵まれていた。

金官国(駕洛国)編集

2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の金官国(狗邪韓国、駕洛国)であった。任那の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯であり、現在も貝塚土坑墓などの遺跡が散在している。

6世紀前半になると百済は南下し朝鮮半島南部まで影響力を及ぼす。5世紀初頭に至り高句麗楽浪郡帯方郡を征服し、新羅にまで勢力を及ぼすようになった。新羅も辰韓の盟主として独自の勢力を固めていた。

倭国と高句麗の戦争編集

4世紀末から5世紀前半にかけては広開土王碑文によれば、391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする[10]393年には倭が新羅の王都を包囲する[11]三国史記では397年、百済が倭国に阿莘王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ[11]。いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる[10]400年には倭が新羅の王都を攻撃していた[10]。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那加羅の従抜城に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した[10]。『三国史記』では402年、新羅も倭国に奈勿尼師今の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界(帯方郡との境)にまで倭が攻め込んでいる[10]

405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により海中の島で待機して、のちに百済王として即位する。このように倭本国の朝鮮半島に対する影響力は強大であった。なお三国史記では、この時期の加羅に関する直接的記述は空白となっている。

日本書紀では、249年もしくは369年とされる神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させた三韓征伐の記事や、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自㶱(ひじほ)、南加羅(ありひしのから)、㖨国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定し、西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事などがある。

後期伽耶連盟編集

韓国の学者金泰植は5世紀後半以降、大加耶国を中心とした諸国の連合体(後期伽耶連盟)の存在を想定した。日本の学者田中俊明は金の研究を受けつつ、加羅諸国の連合体の実態の研究を進め、実際に連盟を構成していたのは大加耶を中心としたより狭い範囲の諸国であることを論じている(大加耶連盟)。こうした連盟体の存在を手がかりとして想定した研究は加羅諸国の動向についての研究に大きな影響を与えたが、韓国の学者白承玉は連盟を形成したのは一時的なもので、諸国はその歴史の大部分は別個の存在として存在したのであり、より地域国家的な視点が必要であると主張している。

新羅は5世紀中頃に高句麗の駐留軍を全滅させ、高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年に百済の首都・漢城(ソウル特別市)を陷落させると、百済は南下して統一された国の存在しない朝鮮半島南西部への進出を活発化させた。統合されて間もない新羅は、この機に乗じ秋風嶺を越えて西方に進出するなど、半島情勢は大きく変化した。 5世紀末に百済の南下と新羅の統合により、任那加羅のうち北部に位置する小国群は自衛の為の統合の機運が生じ、高霊地方の主体勢力だった半路国(または伴跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成したという説がある。479年南斉に朝貢して〈輔国将軍・加羅王〉に冊封されたのは、この大加羅国と考えられている。

大加羅を中心にした後期伽耶連盟は、481年に高句麗とそれに附属する濊貊[12] の新羅侵入に対して、百済と共に援兵を送った。百済がに対して半ば強要する形で加羅西部の四県を割譲させると、加羅諸国は百済と小白山脈を境界として接し険悪になった。百済が卓淳国・多羅国などへ侵攻すると、大加羅の異脳王522年に新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅との同盟を願ったが叛服常ない新羅は却って任那加羅諸国への侵攻を繰り返し、532年には任那の金官国が新羅に降伏した。この為、任那加羅諸国は百済に救援を求め、百済は安羅に駐屯して新羅に備えるとともに、聖王が主宰して任那加羅諸国の首長と倭の使臣との間による復興会議(いわゆる任那復興会議)を開いたが、百済は単に任那加羅諸国を新羅から守ろうとしたのではなく、百済自身が任那加羅諸国への勢力拡大を狙っていた。こうして任那加羅地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれることとなったが、百済が554年に管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死すると新羅の優勢は決定的となり、562年には大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合された。

加羅諸国編集

駕洛王編集

金官国(駕洛国)編集

金官国、もしくは駕洛国・金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国慶尚南道金海市に有ったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった。『三国遺事』巻二に収められている『駕洛国記』に拠れば、駕洛国の建国神話は卵生神話型のものであり、初代の首露王は金の卵から産まれた為に姓を金と名乗ったという。532年に新羅の圧力に抗しきれず、仇衡王(金仇亥)が国を挙げて降伏している。その一族は新羅の首都金城(慶州市)に移り住んで食邑を与えられ、新羅の貴族階級に組み入れられた)。金仇亥の曾孫に金庾信が現れ、新羅の半島統一に大功を挙げた。金官国の王族金氏は、新羅王家の慶州金氏と区別するために金官金氏(後に金海金氏という)と呼ばれ、韓国内では最大の本貫となっている。ただし、『三国史記』金庾信列伝には、金庾信首露王の後裔であり、その祖先は中国黄帝の子・少昊金天氏であり、それ故、金姓を名乗っていたとある[13]

大加羅編集

金官国もまた大加羅(大駕洛)と称されていたように、大加羅の表現そのものは固有名詞ではなく、加羅諸国の中での特に有力なものへの尊称であったと見られている。金官国に代わって台頭してきた伴跛(慶尚北道高霊郡[14])が、一般的には大加羅を指すものと考えられている。『新増東国輿地勝覧』に引く『釈利貞伝』には、高霊郡の背後にある伽倻山の神である正見母主と天神『夷毗訶之』とから生まれた兄『伊珍阿豉』(悩窒朱日ㆍ内珍朱智)が大加羅の始祖、弟『悩窒青裔』(首露王)が金官国の始祖であるとしており、新興の大加羅がそれまでの盟主であった金官国を越えようとする意識が反映されてできた伝承だと考えられている。

田中俊明は、『南斉書』に見える加羅国王荷知は高霊の加羅王嘉悉王に当たると主張している。

その他の諸国編集

伽耶連盟の盟主となったとする人もいる、金官国・大加羅(伴跛)だけではなく、安羅(慶尚南道咸安郡)、古寧(慶尚北道尚州市咸昌)、星山(慶尚北道星州郡)、小加羅(慶尚南道固城郡)などは六伽耶・五伽耶とまとめて呼ばれることがあった。それ以外での小国としては、多羅(慶尚南道陜川郡)、卓淳(慶尚南道昌原市[15])、己汶(全羅北道南原市)、滞沙(慶尚南道河東郡)等が挙げられる。

これらの地域からは前方後円墳が発見されており、日本の墓制との関連で注目されている[16]。(→後述

なお、『新撰姓氏録』によれば、河内国にいた竹原連という一族は「阿羅々国主弟伊賀都君之後」であるという。

阿踰陀国との関連編集

三国遺事』をはじめとする朝鮮史書によると、金官国の初代首露王の妃は、阿踰陀(あゆだ)国の王女であり、居登王の妃は阿踰陀国出身の申輔の娘慕貞であり、麻品王の妃は阿踰陀国出身の趙匡の孫娘好仇である。許黄玉はから船に乗って48年に伽耶に渡来し、首露王と出会い、その時に阿踰陀国からもって来た石塔と鉄物を奉納した。阿踰陀国についてはインドタイ中国日本などの説あるが、インドのアヨーディヤーが最有力である[17]。その理由は、首露王陵の正門の大梁に刻まれた双魚文様は、インドのアヨーディヤーの建築の紋章の特徴だからである[17]

林泰輔は、近代学問に接した史学者によって近代的な記述方法で書かれた最初の朝鮮歴史専門書と評される『朝鮮史』(1892年)において、首露王の夫人の許黄玉がインド人であり、インドから朝鮮南部に渡来したことを論述した際に、「考証がかなり煩雑しているので、他日を期してこれを詳論する」と述べており[18]、後日論文「加羅の起源」および「加羅の起源続考」において詳論した。「加羅の起源」では、仏書に散見される同様の事実を例に挙げることから論じはじめ、『三国遺事』に抄録された『駕洛国記朝鮮語版』に記される天竺阿踰陀国の王女許氏を根拠にして、加羅はインド人が切り開いたとする。「加羅の起源続考」では、朝鮮史籍に登場する卵生説話赫居世居西干鄒牟王首露王、五伽耶王、脱解尼師今)と『賢愚経』『法苑珠林』『新唐書』『大越史記全書』『山海経』『大明一統志』『博物志中国語版』『後漢書』などにみられるインド古代伝説との類似性を取り上げ、「古代にインド人が馬剌加海峡を渡って東方に交通し、ついに朝鮮半島の南岸に加羅国を開いた」と述べている[19]。また、『朝鮮史』では「これからすると、駕洛地方はつまり朝鮮南部の開地で、かつてインドの風化に浴した者であり、高句麗地方はつまり朝鮮北部の偏地で支那文明の余光を依頼する者である。…此説は前人のまだ道破していないところである」と述べており[18]、朝鮮は開国のはじめから中国を含む日本・インドなどに支配され、特に加羅はインドから影響を受けたと指摘している。

2004年に、許黄玉の「インド渡来説」を立証する科学的証拠が示された[20]ソウル大学医学部の徐廷ソン教授と翰林大学医学部のキム・ジョンイル教授は、韓国遺伝体学会において「許黄玉の子孫と推定される金海市にある古墳の遺骨を分析した結果、韓民族のルーツであるモンゴル北方系とは異なり、インド南方系だった」と発表した[20]ミトコンドリアDNAを保持するが、許黄玉の「インド渡来説」が事実であるならば、子孫は母方の許黄玉のDNAを継承しており、インド南方系のDNAをもつことになるが、許黄玉の子孫と推定される遺骨の塩基配列を分析した結果、モンゴル北方系ではなくインド南方系の特徴を備えていた[20]

加羅の言語編集

加羅の前身である弁韓の言語については、『三国志』東夷伝は辰韓の言語(朝鮮語の直接の先祖である新羅語の前身)と似ている(相似)と記すが、『後漢書』東夷伝は違いがある(有異)と述べており、相反する記述となっている。加羅語について具体的に記述したものとしては、『三国史記』巻44・斯多含伝に「栴檀梁城門名。加羅語謂門為梁。」とあるものが唯一の例である。「梁」は新羅語の訓読字で「tur(tol)」と読むことから、加羅語では門のことを「tur(tol)」と言ったことがわかる。李基文は本例を日本語の「to(戸・門)」や満州語の「duka」と結び付け、高句麗語夫余系言語の影響を示唆している。

その他では、『三国史記』の加羅地域の地名表記から加羅語を再構する試みも行われている。李基文は、「玄驍県、本推良火県。一云三良火。」(巻34)から「推」の訓「mir」に基づき数詞「mir(三)」を、「漆隄県、本漆吐県。」(同)から普通名詞「to(堤)」を、それぞれ再構し、前者については高句麗語及び日本語と、後者については高句麗語と、それぞれ結び付けることができるのではないかと指摘している。

加羅研究史編集

日本における、明治以降の任那と加羅の研究は、明治期の那珂通世菅政友らの研究に始まり、津田左右吉を経て戦後の末松保和『任那興亡史』において大成された。

考古学調査によると、狗邪韓国と金官国があった金海市には、数多くの日本の様式やそれに類似した遺物が発見されている。甕棺は、吉野ヶ里遺跡をはじめ、弥生時代の北部九州だけに見られる特徴的な埋葬形態だが、鳳凰台遺跡に隣接する金海貝塚からは多くの甕棺が出土している。甕棺とともに、吉野ヶ里遺跡から鋳型が出土した巴形銅器や、吉野ヶ里遺跡の出土品に酷似した細形銅剣など、金海貝塚の出土品は国立金海博物館に展示されている[21]

また、弥生時代にあたる韓国靭島遺跡から、抜歯をした人骨やイモガイの腕輪や日本の弥生土器(須玖I式、II式土器など)が多数出土し、恐らくは、日本の土器が搬入されたのではなく、「日本人が移住していた」と考えられるという研究結果が出ている[22]

倭国および任那との関連編集

加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたとする説もある[23]

倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。または「韓は南は倭と接する」とある。

また高句麗『広開土王碑』について改竄説が否定されたことで[24]、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、任那加羅の従抜城を守らせた[25][26]

日本列島での事例が大半である墓形式の「前方後円墳」が朝鮮半島でも幾つか発見されており、これまで全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている[16]1983年姜仁求嶺南大学)は、慶尚南道の松鶴洞1号墳について、全長66メートル、後円径37・5メートルと実測し、後円部上に石材が露呈するが、それは鳥居龍蔵1914年に発掘した竪穴式石室の一部であり、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であると発表した[27]。しかし、その後、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので、前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱したが[28]、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、改竄工事を行った疑惑が持たれている[29]。これに関して1996年撮影写真は前方後円墳であったものが、2012年撮影写真では3つになっていると指摘されている[30]

朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は任那であり、金官国を中心とする任那の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう[16][31]。そのほか、新羅百済任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られること[32] や、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した[33]ことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。

任那は、倭国(日本)が朝鮮半島における勢力を失い、任那地域が百済と新羅に占領された後も、百済と新羅は占領した任那地域を代表する体裁で、倭国に対して「任那の調」と呼ばれる貢納をおこなっていた[34]

民族史観に基づいた解釈の流行編集

第二次世界大戦後の研究は、日本の出先機関を否定する前提に立つものであり、現代韓国の政治的欲求に解釈が左右されることが多い[35][36]

1970年代以降、全く調査されていなかった洛東江流域の旧加羅地域の発掘調査が進み、文献史料の少ない加羅史を研究するための材料が豊富になってきたが、現代韓国の政治的欲求に基づいた新民族史観に沿う仮説が盛んに主張されている[35][36]

高麗大学教授で日本古代史学者の金鉉球は、「『日本書紀』には倭が任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済・高句麗・新羅三国の三国文化を搬出していったことになっているのに、韓国の中学校・高校の歴史教科書では、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝播される国際関係は説明がなされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた話だけを教えており、さらに百済・高句麗・新羅三国の文化を日本に伝えたとされる話は、朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうしたダブルスタンダードゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか」と指摘している[37]

1990年代になると加羅研究の対象が従来の金官国・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、田中俊明の提唱になる大伽耶連盟の概念でもって、高霊地域の大加羅を中心とする加羅そのものの歴史研究に移行していった。また1990年代後半からは、主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域への研究が推進される一方で、前方後円墳の発見[16] を踏まえて一部地域への倭人の集住を認める論考が出されている。西谷正は倭人系百済官僚が栄山江流域に存在したと主張し、山尾幸久は、倭人の有力者が百済に移住し、百済女性との間に儲けた二世が外交の使者になっている例を挙げ、そのような倭人系百済官僚の存在を指摘し、田中俊明は、倭との関係が深く百済と一定の距離を置いていた特定の首長層の墓と主張している[38]

井上秀雄は、任那日本府は『日本書紀』が引用する逸書『百済本記』における呼称であり、『百済本記』とは百済王朝が倭国(ヤマト王権)に迎合的に書いた史書だとの主張した。これ基づき、井上は日本の従来研究を否定しようと試みている[39]。任那日本府について近代での朝鮮総督府のようなものが想定されることが多いが、実態は、半島南部の倭人の政治集団だとした[39]三国志『魏志』韓伝に倭について記載があるが、この倭は、百済や新羅が加羅諸国を呼称していたもので、百済・新羅に国を奪われた加羅諸国の政治集団を指すとする[39]。逸書『百済本記』の編者は、この加羅諸国の別名と、日本列島の倭国(ヤマト王権)とを結びつけたのであり、任那日本府とヤマト王権は直接的には何の関係も持たないとする仮説を打ち出した[39]

高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び、倭国によって軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府」と呼ばれた)が設置されていたとする説もある。吉田孝によれば、「任那」とは、高句麗新羅に対抗するために百済・倭国(ヤマト王権)と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合で政治的領域を指し、地理的領域である伽耶地域とは重なり合うが一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後に「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は任那加羅が倭人を移住させた地域であったとした。また、532年の任那加羅滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったという[40]

ギャラリー編集

脚注編集

  1. ^ 永楽10年(400年)条
  2. ^ 『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。欽明天皇23年の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。
  3. ^ 438年条には「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記されている。
  4. ^ 翰苑』新羅条で「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされた」とある。
  5. ^ 通典』辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。
  6. ^ a b 上垣外憲一 『倭人と韓人』講談社講談社学術文庫〉、2003年11月11日、39-41頁。ISBN 978-4061596238 
  7. ^ 石丸あゆみ「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉 : 勒島遺跡・原ノ辻遺跡出土事例を中心に」『東京大学考古学研究室研究紀要』第25巻、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室、2011年3月、 65-96頁、 doi:10.15083/00027606ISSN 18803784NAID 120003001453
  8. ^ 宋讃燮洪淳権 著、藤井正昭 訳 『概説 韓国の歴史』明石書店〈世界の教科書シリーズ〉、2003年12月26日。ISBN 978-4750318424 
  9. ^ 浜田耕策 (2005年6月). “共同研究を終えて” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 375. オリジナルの2020年7月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200715223533/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-11j.pdf 
  10. ^ a b c d e 広開土王碑
  11. ^ a b 三国史記
  12. ^ 三国史記中の靺鞨とは、殆どの場合濊貊を指している。
  13. ^
    金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。 — 三国史記、巻四十一
  14. ^ 伴跛の現在地はかつては星州郡だと考えられていた。
  15. ^ 卓淳の現在地はかつては大邱広域市だと考えられていた。
  16. ^ a b c d “韓国全羅道地方の前方後円墳調査”. 國學院大學. (2003年9月17日). オリジナルの2021年10月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211028143657/https://www2.kokugakuin.ac.jp/21coe/modules/wfsection/article.php@articleid=44.html 
  17. ^ a b “허황후 許皇后,33~89”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2022年4月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220406110302/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000867986 
  18. ^ a b 林泰輔 『朝鮮史』吉川半七〈巻二 第三編〉、1892年、24-25頁。 
  19. ^ 林泰輔 『加羅の起源続考』光風館書店〈支那上代之研究〉、1927年。 
  20. ^ a b c “金首露王の夫人の「インド渡来説」科学的な証拠”. 中央日報. (2004年8月19日). オリジナルの2021年4月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210415231507/https://japanese.joins.com/JArticle/54982 
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  23. ^ 宮脇淳子 『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所PHP新書 387〉、2006年2月。ISBN 978-4569648804。"かつて朝鮮半島南部にあった『任那日本府』とはどういうものであったかというと、商業ルートの洛東江沿いに建設された都市同盟である『任那』諸国の中に、倭人の『将軍府』、つまり軍団司令部と屯田兵部落があったと考えられる。"。 
  24. ^ 従来、日本軍の改竄の可能性があるとされてきたが、2006年4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。
  25. ^
    十年庚子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,倭滿其中。官兵方至,倭賊退□□□□□□□□來背息,追至任那加羅,從拔城,城即歸服。安羅人戍兵拔新羅城,□城。 — 広開土王碑
  26. ^ 井上秀雄 『古代朝鮮』講談社講談社学術文庫〉、2004年10月、85頁。ISBN 4-06-159678-0 
  27. ^ 東潮田中俊明 編 『韓国の古代遺跡〈2〉百済・伽耶篇』中央公論社、1989年2月1日。ISBN 978-4120016912 
  28. ^ 沈奉謹 『固城松鶴洞古墳群 : 第1號墳 發掘調査報告書』第37册、東亞大學校博物館〈古蹟調査報告書〉、2005年。 NCID BA75857156https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I009356959-00 
  29. ^ “ヤマトの痕跡を消せ! 前方後円墳まで「整形」”. iRONNA. (2014年1月). オリジナルの2015年5月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2. "日本考古学の第一人者、森浩一氏の『森浩一・語りの古代学』(大巧社)にその経緯が語られています。〈松鶴洞古墳を案内なしに自分の眼で確かめたく、一九八三年八月に現地を訪れた。十年あまり前の扶余での見学とは違って、まぎれもないダブルマウンドが丘陵上に造営されていて、現状、つまり原形では前方後円墳の仲間に入れることに少しの躊躇も覚えなかった。(中略)その後、松鶴洞古墳については、現在の形が近年の変形であるというような噂話がひろまったりしたが、日本の古墳の例ではそれらは取るに足らない噂話にすぎなかった。はたせるかな、そののち姜先生の努力で故鳥居龍蔵先生が戦前に撮影されていた古墳の側面からの写真が発見され、ぼくは噂話が意図的に流されていると感じ、不快であった。「発掘もある種の遺跡の破壊である」という原則が考古学界にはあって、どの学者もたえずその言葉をみ締め自戒する必要がある。ぼくは今回の松鶴洞古墳の発掘ほど、この言葉を感じた発掘は他に例を見ない。発掘によって、かつていわれていたような近年での変形を示す兆候は何一つないのに、どうして原形がダブルマウンドなのかの前提を抜きにして、数基の円墳連続説が発掘の開始直後から提出され、その説が導かれる過程ではなく、結論だけが流布された。これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる。友人の多くは発掘を見学してきたが、ぼくは現地を見るに耐えられず、見に行かなかった。ぼくには発掘される以前の、あの美しい墳形が今でも瞼に焼きついていて、それで充分である。福岡県筑紫野市に剣塚という六世紀の前方後円墳があって、横穴式石室が埋葬施設である。これがこの古墳の原形だった。ところが高速道路の建設で、現在の墳丘を取り除くと、墳丘の下には数基の古墳があることがわかり、前期古墳(古剣塚)を取り込んで、六世紀に若干の盛土を加え、前方後円墳に造り替えていることがわかった。〉" 
  30. ^ “ヤマトの痕跡を消せ! 前方後円墳まで「整形」”. iRONNA. (2014年1月). オリジナルの2015年5月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 
  31. ^ 韓国報道などの資料 [1][2]
  32. ^ 門田誠一 『韓国古代における翡翠製勾玉の消長』〈特別展 翡翠展 東洋の神秘〉2004年。 
  33. ^ 早乙女雅博早川泰弘 『日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析』朝鮮学会朝鮮学報162〉、1997年1月。 
  34. ^ 末松保和 『任那興亡史』吉川弘文館、1965年、189-196頁。 
  35. ^ a b 金廣植 (2006年). “新民族主義史学における古代史の展開” (PDF). 学校法人千里国際学園. オリジナルの2022年4月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220407181201/http://yayoi.senri.ed.jp/research/re11/KKim.pdf 
  36. ^ a b “国史編纂委員会「近代以前は植民史観、近現代は理念偏向相変わらず」”. 中央日報. (2011年4月11日). オリジナルの2021年4月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210416000642/https://japanese.joins.com/JArticle/139024 
  37. ^ 鄭大均 『日本のイメージ』中央公論社中公新書1439〉、1998年10月、177頁。ISBN 978-4121014399 
  38. ^ 朝鮮学会 編 『前方後円墳と古代日朝関係』同成社、2002年6月。ISBN 4-88621-251-4 
  39. ^ a b c d 井上秀雄 『古代朝鮮』講談社講談社学術文庫〉、2004年10月、106-107頁。ISBN 4-06-159678-0 
  40. ^ 吉田孝 『日本の誕生』岩波書店岩波新書〉、1997年6月、74-78頁。ISBN 4-00-430510-1 

参考文献編集

  • 井上秀雄 『古代朝鮮』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1972年。 
    • 井上秀雄 『古代朝鮮』講談社〈講談社学術文庫〉、2004年10月。ISBN 4-06-159678-0 
  • 鈴木靖民 『伽耶はなぜほろんだか 日本古代国家形成史の再検討』(増補改訂版)大和書房、1998年3月。ISBN 4-479-84047-8 
  • 武田幸男 編 『朝鮮史』山川出版社〈新版世界各国史 2〉、2000年8月。ISBN 4-634-41320-5 
  • 朴天秀 『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』講談社〈講談社選書メチエ 398〉、2007年10月。ISBN 978-4-06-258398-5 
  • 森公章 『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』講談社〈講談社選書メチエ 132〉、1998年6月。ISBN 4-06-258132-9 
  • 吉田孝 『日本の誕生』岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。ISBN 4-00-430510-1 
  • 田中俊明 『大伽耶連盟の興亡と「任那」 加耶琴だけが残った』吉川弘文館、1992年8月。ISBN 978-4642081368 

関連項目編集

外部リンク編集