中国の王朝
唐朝から転送)
大唐
618年 - 690年
705年 - 907年
唐の位置
唐の領土の変遷
公用語 中古漢語
宗教 儒教仏教道教
ゾロアスター教キリスト教マニ教
イスラム教
首都 長安洛陽
皇帝
618年 - 626年 高祖
904年 - 907年哀帝
宰相
630年 - 648年房玄齢
840年 - 846年李徳裕
面積
653年10,760,000km²
668年12,370,000km²
715年[1][2]5,400,000km²
人口
639年12,371,700人
701年37,140,000人
753年53,701,370人
9世紀約71,000,000人
変遷
建国 618年6月18日
突厥を服属させる630年
高句麗を滅ぼす668年
武則天の簒奪(武周690年 - 705年
タラス河畔の戦い751年
安史の乱756年 - 763年
黄巣の乱874年 - 884年
滅亡、五代十国時代907年6月6日
通貨銅貨ほか
現在中華人民共和国の旗 中華人民共和国
中華民国の旗 中華民国連江県金門県
カザフスタンの旗 カザフスタン
モンゴルの旗 モンゴル
ロシアの旗 ロシア沿海地方
 ベトナム
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
大韓民国の旗 大韓民国
先代次代
隋
隋末唐初の群雄の一覧 隋末唐初の群雄の一覧
武周 武周
高昌 高昌
吐谷渾 吐谷渾
東突厥 東突厥
百済 百済
高句麗 高句麗
武周 武周
後梁 後梁
前蜀 前蜀
岐
呉
呉越 呉越
楚
荊南 荊南
東突厥 東突厥
新羅 新羅
渤海 渤海
アッバース朝 アッバース朝
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黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲
 
中華人民
共和国
中華
民国

台湾

(とう、拼音: Táng618年 - 907年)は、中国王朝である。李淵を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア北東アジア諸国(朝鮮半島渤海日本など)に、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。

李氏の出自編集

唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏北周以来の八柱国・十二大将軍と称される鮮卑貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。

女系

唐室李氏の高祖太宗高宗三代の母はすべて鮮卑系の異民族である[3]。例えば、唐朝の名臣として名高い長孫無忌は鮮卑の拓跋出身であり、その妹が太宗の皇后であり、高宗の母である[3]。女系が鮮卑の血統であることは池田温[4]桂小蘭[5]加藤徹[6]伊達宗義[7]梅原猛[8]など日本学界では広く認められている。中国学界でも陳寅恪は、「唐の皇室は、唐朝創業期と初期の君主について女系からみてみると、高祖の母が独孤氏であり、太宗の母は竇氏すなわち紇豆陵氏であり、そして高宗の母は長孫氏であり、いずれも『胡種』であって『漢族』ではない。だから、唐の皇室は、女系からいえば『胡族』と混血していることは周知の事であり、くわしく述べる必要はない」と述べている[9][10]陳寅恪の主張は銭穆[11]薩孟武中国語版国立台湾大学[12]などが支持している。繆鳳林中国語版南京大学)は、唐室李氏は胡漢混血であると主張したが、岑仲勉中国語版中山大学)は唐室李氏と鮮卑の通婚事例を挙げながら、血統の混血は古来からよくあることで論じるに値しないと述べている[13]

男系

ただし、問題は男系である。公式の歴史 『旧唐書』『新唐書』によれば、唐室李氏は漢人の名門貴族の隴西李氏といわれ、李耳(老子)の子孫と称し、唐代で編まれた『晋書』で特筆大書されている西涼の初代王李暠をその遠祖としている。西魏末年、鮮卑国粋主義の風潮に従って、唐室李氏は西魏より大野(だいや)という鮮卑姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗ることになる。

隋の文帝は天下統一のための仏教復興政策をとったが、唐王朝は道教の祖師とされる老子が李姓であるところから、老子を唐王室の祖先として尊崇するところとなり[14]道士傅奕は、隋文帝以来の宗教政策を変更するよう高祖に迫った[15]。一方、護法僧法琳中国語版は隋文帝の宗教政策を踏襲するよう求めた[15]道教仏教の論戦は続くが、639年に道士の秦世英が、法琳が著した『弁正論』に皇室を謗り、皇帝の祖先である老子を貶す箇所があると、太宗に讒言した[16]

『弁正論』を読んだ太宗は、「欺君之罪」(不敬罪)にあたる箇所がいくつもあったことから法琳を詰問した。その対話のなかで法琳は、太宗の面前で「拓跋達闍が唐のいう李氏です。陛下の李氏は、その子孫です。隴西の李氏ではありません」とその出自の非なることを献言し[17][15][18]、さらに、唐室李氏の血筋は実はもっと尊いものであると主張し、「拓跋の北魏のことをおもうに、北代神君の達闍は陰山に連なる貴種だといわれています。『経書』には、黄銅に代えたり、をぼろ切れに代えるような施しをする無欲の人とあります」と献言し、自分の証言や文章に対して非常に自信を持っており、「『弁正論』は、歴史事実と一致するよう記述しており、矛盾があれば責任を取ります」として、すべての責任は自分にあると宣言した[19]

激怒した太宗[20]は、「お前は、『弁正論』に、観音様を念ずる者はに臨んでも傷をつけずと書いた。今、お前を死刑に処す。ただし、七日の猶予をあたえよう。七日間観音様を称えてみよ。七日の後、処刑する。その時お前の身をもって刃を試してみよう。お前が書いたものが真実かどうか証明されるだろう」と言って、法琳を監獄に入れた[18]

七日後、処刑前に、太宗に「観音様を唱えたか」と聞かれた法琳は、「七日の間、ひたすら陛下だけを念じました」と答えた。「なぜか」と聞かれた法琳は太宗の威徳を讃え、「陛下の高徳は菩薩と同じ、すなわち観音様です」と言い、その法琳の話を聞き、太宗は死刑から益州への流罪に変更し[18]、法琳は流罪地に行く道中において死去した[21]

法琳に関する基本的な資料を提供しているのは、彦悰が著した『法琳別伝』であるが、この書は唐代では禁書とされており、唐王室の出自が隴西の李氏ではなく、拓跋の後裔であることを直書していたことが理由とみられる[22]

劉盼遂北京師範大学)は、法琳が唐室李氏が拓跋の出自であることの確実かつ信頼できる証拠をもっていなければ、皇帝の面前でこのような「暴言」を吐くことはないだろう、と指摘している[23]

陳俊偉国立台湾大学)は、太宗は心のなかでは法琳が正しいこと、法琳は「知られざる真実」を語っていることを理解していたから、その場で殺さなかったのだろう、と指摘している[24]

古くは、南宋儒学者朱熹は『朱子語類』において、「唐の皇室は夷狄の出身である。だから宮中において礼節を失うことは、不思議なことではない」と述べている[25][26]

元初儒学者霊宝派中国語版閣皁宗中国語版道士鄭思肖中国語版は『心史中国語版』において、「唐の皇室は武昭王李暠の七世の孫と『晋書』で称しているが、実際は夷狄の子孫である」と述べている[27]明代文学者楊慎は『升庵集』において、「唐の皇室は夷狄である。中国人ではない」と述べている[28]

1930年代になると、馮承鈞中国語版北京大学)が李淵の祖父の李虎の兄の名が「李起頭中国語版」、弟の名が「李乞豆中国語版」、「李起頭中国語版」の息子の名が「李達摩」というおよそ漢人とは考えられない胡族名であることから唐室李氏は出自を詐称しており、実際は唐室李氏の男系は胡族ではないのかと主張し[29]1930年代に中国学界において唐室李氏の出自をめぐる大論争が起きた[30]

劉盼遂北京師範大学[31]王桐齢清華大学[32]は、唐室李氏の男系は拓跋であると主張した。一方、唐代史の権威である陳寅恪は、唐室李氏の男系が漢人であることを主張する論文を4本以上執筆した。陳寅恪は生前は教育者として尊敬され、死後はカルト的人気を誇る歴史家となったため、陳寅恪の研究に対する批判は聞かれず、陳寅恪の弟子である劉盼遂は、唐室李氏がもつ数多の「胡族的特徴」に関する先駆的かつ刺激的な研究を突如終了し、唐室李氏の男系は拓跋であるという自らの主張を取り下げた[31]

しかし、その後も向達中国語版北京大学[33]陳三平[34][35]孟二冬中国語版北京大学[36]銭仲聯中国語版蘇州大学中国語版[37]などが唐室李氏の男系鮮卑説を主張するなど中国学界では議論が続いている。

陳寅恪は、『唐代政治史述論稿中国語版』において、鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属する趙郡の李氏が、(鮮卑化した漢人とする)唐室李氏の出自であると主張した。唐室李氏は隴西の李氏を称し、隴西から中原への移住を、西涼滅亡時に李重耳中国語版南朝宋へ逃亡したことに求めており、その後、北魏の侵攻に際し、李重耳は北魏に寝返ったが、再度宋に捕らえられたといい、李重耳の子の李熙中国語版が北魏の金門(皇帝の宮殿)を守る軍将であり、李熙が武川へ移住し、李淵へ繋がる系譜が描かれている[38]。陳寅恪は、唐室李氏の出自を追い求め、『新唐書宗室世系表中国語版』をもとに検証し、『宋書』『魏書』などを博捜し、李重耳と李熙に相当する李姓の父子を探し出し、李初古抜中国語版と李買得という人物を特定する。李初古抜と李買得の事績と『新唐書宗室世系表』の事蹟には異同があるが、整合的に解釈することで同一人物と比定し、李熙と子の李天錫中国語版の墓が、河北趙州に置かれていることに注目し、趙郡の李氏のある没落した家系が住んでいた場所と近接していることをつきとめ、唐室李氏が趙郡の李氏の没落した家系に連なるか、あるいは趙郡の李氏を仮託したと結論付けた[38]

姚薇元武漢大学)は陳寅恪の主張に同意し、唐室李氏が異民族であるという学説は根拠がない主張ではないが、結局、実証的な証拠に欠けると主張した[39]。ただし石見清裕によると、陳寅恪は1931年発表の「李唐氏族之推測[40]」では、唐室李氏の祖先を非漢人の出自とするが、1933年発表の「李唐氏族之推測後記[41]」において主張が大転換し、趙郡の李氏と主張するようになったといい、石見清裕は、その背景には1930年代初頭の日本軍による中国侵略が背景にあったと指摘している[42][38]陳三平は、陳寅恪の研究は、日本が中国に対する軍事的脅威を増大させ、中国領を侵犯はじめた時期であり、中国では古今東西の異民族支配に対して敏感になっていた時期にあたり、さらに、陳寅恪は清末貴族出身であり、留学経験は豊富だが、民族主義的傾向が強い家柄であり、陳寅恪の父親は、1937年に日本軍の中国侵略に抗議するため、絶食医薬品の提供を拒否して憤死しており、陳寅恪の研究に影響を与えていることは明らかであると指摘している[31]

日本学界では、唐室李氏の系譜は西涼の李氏とは繋がっておらず、唐室李氏は鮮卑であるとする考え方が定説となっており、布目潮渢[43][44][45]古松崇志[46]、向井佑介[47]楊海英[48][49][50]宮脇淳子[51][52][53]岡田英弘[54][55][56]佐藤智水[57]稲畑耕一郎[58]渡邉義浩[59]田中英道[60]越野明[61]塚本靑史[62]村山秀太郎[63]古田博司[64]会田大輔[65]堀井裕之[65]、片山剛[66]宇山卓栄[67]斉藤茂雄[68]吉田一彦[69]などが鮮卑説を支持している。

森安孝夫は、「唐を拓跋国家とみなす学説は、日本の学界、さらに中国や欧米の学界では、どの程度認知されているのか」という質問に対して、「唐の王族李氏が拓跋出身であることを認めない者は、もはや世界中のどこにもいません」と回答している[70]

公式の史料では、北魏孝文帝のとき、漢化政策にのっとって帝室の拓跋氏(虜姓)を元氏(漢姓)に改姓したなどとは逆に、西魏末年、鮮卑国粋主義の波にのって漢姓を虜姓に改姓(虜姓再行)させると同時に、漢人にも虜姓を賜与された結果、隴西李氏(漢姓)といっている唐室李氏に大野姓(虜姓)を賜っている[71]。しかし、八人の柱国大将軍とその下の十二人の大将軍から構成された西魏常備軍の八柱国・十二大将軍家は、李虎李淵の祖父)、李弼(隋末反乱期の英雄李密の曾祖父)、楊忠隋文帝の父)を除いては鮮卑系であり、八柱国・十二大将軍家は、本来すべて鮮卑系であるが、上記の三氏、とくに隋室楊氏、唐室李氏は、漢人に君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜を偽作したのではないかと疑われる[71]

李淵の祖父の李虎は西魏時代に大野氏の鮮卑姓を授けられているが、これが賜姓なのか、実際には復姓であったのかについては議論がある。

馮承鈞中国語版北京大学[29]王桐齢清華大学[32][72]朴漢濟朝鮮語: 박한제ソウル大学[73]などは本来の姓が鮮卑姓大野氏であり、復姓したと主張している。一方、阎步克中国語版北京大学[74]など中国学界における通説は、賜姓という立場である[73]。しかし、卓鴻澤中央研究院歴史語言研究所)は、そうではなくて鮮卑姓大野が本来の姓であり、唐室李氏が老子の子孫を自称し、道教を優遇したのは鮮卑のシャーマニズムと関係があることを文献学的に考証している[75]シンガポールの学者、Shao-yun Yang(デニソン大学)は、「文献学的に裏付けている」「李虎は元々鮮卑姓だったこと、高祖が老子を祖先としたのは鮮卑の信仰と関係があることを文献学的手法で論証した」と評している[30]

北朝から隋・唐時代の人々は郡望中国語版を競って示したが、胡族はその出自や本姓を隠し、中国における著名人の後裔を騙って漢人と婚姻を結び、漢人の祖先の系譜を利用し、胡族の本姓を変えて出自を隠し、同姓の者は名門世族の権威にすがって庇護を受けることは珍しいことではなく[76]馬馳陝西師範大学)は、「蕃人は漢化の際、郡望中国語版・族望(家柄)を改竄し、蕃姓蕃名を変更しなければならない」と述べている[77]

厳耕望中国語版香港中文大学)は、唐代に高宗蘇敬中国語版らに書かせた『新修本草中国語版』のなかに、唐室李氏が胡族の血統であることをほのめかす記事があることを紹介している[78]

劉学銚中国文化大学)は、唐代に編まれた『晋書』において、唐室李氏が突如として李暠血統であると成文化し、李暠の子孫を主張したため、1000年以上も前から中国の民間社会では、唐室李氏は出自を詐称しており、実際は胡族ではないのかという疑惑は公然たる事実として語られていた、と指摘しており[79]、李淵の祖父の李虎が大野氏という胡姓を保有しており、高車の部族に大野氏がいることから、唐室李氏は胡族の出自であることが濃厚であると主張している[80]。中国のモンゴル族の学者である蘇日巴達拉哈も唐室李氏は高車の出自と主張している[81]

劉志強上海師範大学)は、唐室李氏が漢人の名門貴族の隴西李氏という出自にこだわっていること自体が出自の確認を難しくさせており、太宗は門閥の序列を定めるため、『貞観氏族志中国語版』の編纂を命じたが、皇室を差し置いて山東貴族の崔民幹中国語版を第一等とし、激怒した太宗は、編纂を担当した高士廉に命じて修正させ、唐皇室を首位に据えさせ、崔民幹中国語版を第三等に降格させるなど政治力を行使して門閥の序列に干渉しており、唐室李氏の出自に関しても政治力を行使している可能性は高く、胡族文化の武川鎮軍閥王朝西魏北周でさえ、『周礼』を手本に周の官制を実施し、儒教的な六條問事中国語版を策定し、『書経』を模倣した『大誥』を公布し、皇帝と大臣たちは漢の衣冠を用い、太和以降、鮮卑の漢化が徐々に深化する傾向にあり、それは不可逆的な歴史の流れとなり、隋と唐は中国統一後、中国の正統性の継承を標榜したのも、唐室李氏が漢人の名門貴族の隴西李氏という出自にこだわったのも、これらの漢化の流れに従ったものであると指摘している[82]

黄大受国立台湾大学)のように、唐室李氏の出自について諸説紹介するにとどめて具体的に出自を断定しない学者も多い[83]

近年の日本学界は、隋・唐を「鮮卑系王朝」とみなして[84]北アジアに由来する「遊牧的要素」が政権の性格にどのような影響を与えたのかという側面に注目が集まっており[85]、唐皇帝を鮮卑系北方遊牧民族の系譜に位置づけて、「中国皇帝」としてのみならず、「タヴガチ可汗」(「タヴガチ可汗 Tavγač Qayan」とは、古チュルク語突厥碑文で隋・唐を含む北朝鮮卑系諸皇帝を呼ぶ名称であり、「拓跋」から転訛した表現とされる[86][87])としてとらえ、特に「天可汗中国語版」(森安孝夫によると、「天可汗」は「拓跋可汗」の音訳である[88])を名乗った太宗を中央ユーラシアの視点から見直すことが提唱されており[89]杉山正明[90][91]古松崇志[92][93]鈴木宏節[94]渡辺信一郎[95]森安孝夫[96][97][98]などは北魏にはじまる北朝から隋・唐の諸王朝を「拓跋国家」と呼んでいる。

陳三平は、唐の支配層は鮮卑拓跋出身の遊牧民であり、実際に遊牧民のアイデンティティを失っておらず、安史の乱以前の唐王朝は「本土王朝」というよりも、「鮮卑 - 華夏」政権と呼ぶのが適切と指摘している[24]

林恵祥中国語版厦門大学)は、唐室李氏は、西涼李暠に由来する純粋な漢人を称しているが、現代の歴史家は異民族の出自であることを疑っており、唐王朝の君主は純粋な漢人ではなく、臣下・官吏の多くは異民族であり、使用する兵士もほとんどが異民族であり、唐王朝は、華夷の混合国家であり、純粋な漢人の時代とみることはできず、その文化も異民族の習俗と混ざり合っている(例えば、太宗が弟(李元吉)の妻(楊氏中国語版)を娶り、玄宗が息子(李瑁)の妻(楊貴妃)を娶り、武則天が女帝になるなど、漢人の慣例とは異なり、胡族の習俗の影響を受けている)[99]。しかし、それでも名目上、華夏を自任していることをみると、漢人の要素が他の民族の要素よりも重要であり、唐の主軸としての地位を失わなかったことを知ることができる、と主張している[99]

2017年度から使用されている清水書院発行の歴史教科書『高等学校 世界史A』は、「618年、農民反乱を機に挙兵した鮮卑系の李淵(高祖)と李世民(太宗)の父子が、唐を建国」と書かれている[100]

2020年度から使用されている香港導師出版社有限公司発行の香港の中学で使用されている歴史教科書『中國歷史新世界』は、「北魏から興った唐の皇室は鮮卑出身で、北朝文化風習を受け継いでいる。胡族の婚姻関係は比較的原始的である」と書かれている[101][102]

台湾では、唐は実は鮮卑が建国した帝国だったということは、少しは歴史を知っている人なら、誰もが知っている話だという指摘がある[103]

近年、「隋室楊氏と唐室李氏は、鮮卑であったが、漢人に君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜を偽作したのだ」と主張する日本人論客が少なくないが、一般的にはあくまで皇后や血縁に鮮卑族の女性がいたという認識が学界の定説である。[104][105][106][107][108][109][110][57][111][112][113][114][115][116][117]

歴史編集

唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史をさらに初唐盛唐中唐晩唐の4期に細分して通観する。

 
唐の領域を支配した1708萬平方キロメートル

初唐編集

7世紀初頭の中国はが統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき、煬帝のいとこであり、太原留守であった李淵義寧元年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城を陥落させると、煬帝を太上皇帝に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。

翌隋義寧2年(618年)、唐武徳元年に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位、を建国した。

建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを李淵の次子李世民が討ち滅ぼしていった。

勲功を立てた李世民は、626年クーデターを起こすと李淵の長男で皇太子李建成を殺害し実権を握った。李淵はその後退位して、李世民が第2代の皇帝となる。

李世民は北方の強国突厥を降してモンゴル高原羈縻支配下に置き、北族から天可汗テングリカガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては三省六部宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮でまで帝王学の教科書として多く読まれた。

 
武則天

唐の基礎を据えた李世民の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により国号をと改めた。

中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招いた。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、神龍元年、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に即き、周は1代15年で滅亡した。

しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。

2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼ぶ。

盛唐(8世紀初頭 - )編集

 
玄宗
 
8世紀前半の唐

712年先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年、太平公主を処刑した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となる。この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及んだが、751年トランスオクシアナの支配権を巡ってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。

玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていた安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称した。

都の長安を占領され玄宗はに逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(太子の葉護ら)によって、763年に乱を平定した。9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。以降、唐は次第に傾いていく。

軍事力増強のために藩鎮を増やした結果、内地の節度使も増加した。各地に節度使が置かれた状態は、後の五代十国時代まで続いた。

中唐(8世紀半ば - )編集

安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。

これに対し、中興の祖と謳われた憲宗は、中央の禁軍を強化することで中央の命令に服さない節度使を討伐し、朝威を回復させた。しかしその後不老長寿の薬といわれた丹砂(水銀)をはじめ怪しげな仙薬を常用するようになると、精神に不安定をきたして宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺された。孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」と呼ばれる策略を練ったが失敗し、かえって宦官の専横を招いた。 また、文学においてはそれまで順調な発展を遂げていた唐詩にブレーキがかかる時代でもある。特に安史の乱以後に徐々にその兆しが表れ始める。

晩唐(9世紀半ば - 10世紀初頭)編集

文宗の弟の武宗廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図った。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれる。

この頃から、859年裘甫の乱868年龐勛の乱に代表される、行政の改善を要求する武装闘争が各地で起きた。

874年頃から黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及、黄巣は長安を陥落させると中国語版を建て、皇帝就位を宣言した。しかし黄巣軍の構成員は多くが貧民出で政務を執行できず、略奪を繰り返して憎悪を買った挙句に長安を去った。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から全忠の名前を賜り、以後朱全忠と名乗る。この頃になると唐朝の支配地域は主に首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小し、藩鎮からの税収も多くが滞っていった。

河南地方の藩師となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して、唐の権威を借りて勢力を拡大した。

907年天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて自ら皇帝になり「後梁」を建国した。ここに長い歴史を誇った唐王朝は滅亡した。

しかし、唐の亡んだ時点では、朱全忠の勢力は河南を中心にした華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力を持たず、中国は五代十国の分裂時代に入る。

唐の滅亡により、中国は東アジア文明をリードする力を失い、契丹日本など、唐の文化の影響を受けた周辺の諸国は独自の発展をしていくこととなった[118]

政治編集

兵制については「税制・兵制」の節を参照。

律令体制とその崩壊編集

律令は、西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、文帝の時に「開皇律令」が編纂されていた[119]。唐もそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた[120]。律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である[121]

後述する官制・府兵制均田制なども全て律令の規定するところである[122][123][124]

唐の律令は何度か改変され、玄宗開元二十五年(737年)に完成を見る[125]。この律令は開元二十五年律令と呼ばれ[121]、後世に唐代律令の典範とされた[125]。しかしこの時点で既に現実社会と律令体制の間に乖離が生じおり、この間を埋めるのが皇帝の意思たる詔勅およびそこから法となった格が重要視されるようになる[121][125]。唐代においてはあくまで皇帝の意思が律令に優先するが、あくまで律令が根本であり、皇帝であっても恣意的に律令を覆すことは批判の対象であった。これが隋唐の律令支配の特徴とされる[121][126]

安史の乱を契機として唐の律令体制は急速にその力を失い、現実社会に対応するために律令に無い両税法使職などの制度が設けられることになる[125]

官品制度編集

唐の官僚は正一品から従九品下までの、一品から四品は正・従に分けられ、五品から九品までは正・従・上・下に分けられた計30階位に分けられており[127][128]、ここまでを「流内官」と呼び、この下を「流外官」という[128]

これら官僚に付与される肩書には散官職事官勲官の四種類がある[127]。この内、職事官が実際の職務を表すものであり[127]、散官は実務を伴わずその人物がどの品階にいるかということを示すものである[128]。散官の官品と職事官の官品とは一致するのが原則であったが、散官よりも官品の高い職事官に就く場合は職事官の職名の頭に「守」の字、逆の場合は「行」の字を付けて区別されていた[129][130]

勲官は軍功によって付与される恩典で[129]、爵は皇族や高い功績を挙げた功臣に与えられるものである[129]

これら官人に与えられる特権として、九品以上の流内官は本人の課役が免除され、五品以上は同居親族の課役が免除の上、官人永業田の給付、散官に応じて、「蔭」や「任子」という子孫が官人になる資格を与えられた[129]。また罪を犯した場合であっても最も重い死刑でなければ銅を納めることで免れることができた[129]

官人になるためには、前述の「蔭」で任用されるか、あるいは科挙に合格することが必要となる。しかし当時はまだ科挙出身者は出身者に対して大きな不利を背負わされていた[131]

中央官制編集

律令制下の官制は三省を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部吏部戸部兵部刑部工部)を通して詔勅を実行する[132]。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令であるが、尚書令は皇子時代の太宗が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった[133][134]

これら六名の長官が宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定された[133]。後に皇帝の命によって新たに参与朝政同中書門下三品などの肩書で参加する例が増え[133]、逆に僕射が宰相会議のメンバーから外れた。この宰相会議は最初門下省内の聖事堂で行われていたが、後に中書省に移り、中書門下と改称した[133]

尚書六部の下には代以来の実務機関である九寺五監があり、庶務を担当した[133]

また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行なった[133]

8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するために律令で規定されない新たな官職が設けられるようになった。これらの新たな官を使職という[135]。主なものにの監察を行う観察使[136]専売制を司る塩鉄使[137]、税および出納を司る度支使[136]・物資の運送を司る転運使[138]などがある。

度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち[136]、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる[139]

またそれまで中書省の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した翰林学士が行う事となった。これら翰林学士はいわば皇帝の秘書官であり。宰相に継ぐ大きな権限を持つことになる[140]

地方制度編集

唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた[141]

道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を担うのは刺史を長とすると、その下の県令を長とするである[141]。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。

経済・軍事編集

税制・兵制編集

唐の税制は北周以来の均田制租庸調制であり、兵制は府兵制である。両制度の実施には戸籍が必要不可欠であるが、武則天期になると解禁された大地主による兼併や高利貸によって窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事例が急増し、また事前通告なしでの土地の売買を解禁したため戸籍の正確な把握が困難になった。また、華北地域では秋耕の定着による2年3作方式が確立され、農作業の通年化・集約化及びそれらを基盤とした生産力の増大が進展したことによって、期間中は農作業が困難となる兵役に対する農民の負担感が増大していった[142]。かくして均田・租庸調制と府兵制は破綻をきたし、代わる税制・兵制が必要となる。

塩の専売編集

安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために758年専売制を実施した。専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった[143]

文化編集

美術編集

 
龍門石窟

絵画の分野においては、唐の後期には水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られる。同時代の絵画評論文集『唐朝名画録』は、この代表として王墨李霊省張志和の3人を挙げている。

書道の分野においては、玄宗の時代の人物である顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立て、後に北宋の書家・画家の蘇軾は「書は顔魯公に至りて終われり。」と評した[144]

ギャラリー編集

コモンズの唐代の美術のカテゴリも参照。

国際関係編集

唐の末期においてはその衰退は東方の諸国においても動揺を与え、日本において10世紀前半に相次いで発生した承平天慶の乱などの一連の地方反乱も、この唐の衰退に起因するという説もあるが、10世紀前半の中国大陸・朝鮮半島と日本列島の地理条件や政治・経済・社会などの環境の違いから、承平天慶の乱の発生は唐滅亡後の混乱や変革とは直接的な関係はなく、むしろ200年以上遅れる形で平氏政権の成立に影響を与えたとする理解もある[145]

唐の皇帝と元号編集

 
唐の系図
皇帝 統治年数 元号
高祖 李淵 618年-626年 武徳 618年-626年
太宗 李世民 626年-649年 貞観 627年-649年
高宗 李治 650年-683年 永徽 650年-655年

顕慶 656年-661年
龍朔 661年-663年
麟徳 664年-665年
乾封 666年-668年
総章 668年-670年
咸亨 670年-674年
上元 674年-676年
儀鳳 676年-679年
調露 679年-680年
永隆 680年-681年
開耀 681年-682年
永淳 682年-683年
弘道 683年

中宗 李顕 684年[注釈 1]
705年-710年重祚
嗣聖 684年
睿宗 李旦 684年-690年
(710年-712年に重祚)
文明 684年

光宅 684年
垂拱 685年-688年
永昌 689年
載初 690年

武周(690年 - 705年唐の中断
則天大聖皇帝 武曌 [注釈 2] 690年-705年[注釈 3] 天授 690年

如意 692年
長寿 692年
延載 694年
証聖 695年
天冊万歳 695年
万歳登封 696年
万歳通天 696年
神功 697年
聖暦 698年
久視 700年
大足 701年
長安 701年

唐の復興
中宗(重祚 李顕 705年-710年 神龍 705年-707年

景龍 707年-710年

殤帝 李重茂 710年[注釈 4] 唐隆 710年
睿宗(重祚 李旦 710年-712年 景雲 710年-711年

太極 712年
延和 712年

玄宗 李隆基 712年-756年 先天 712年-713年

開元 713年-741年
天宝 742年-756年

粛宗 李亨 756年-762年 至徳 756年-758年

乾元 758年-760年
上元 760年-761年

代宗 李豫 762年-779年 宝応 762年-763年

広徳 763年-764年
永泰 765年-766年
大暦 766年-779年

徳宗 李适 780年-805年 建中 780年-783年

興元 784年
貞元 785年-805年

順宗 李誦 805年[注釈 5] 永貞 805年
憲宗 李純 806年-820年 元和 806年-820年
穆宗 李恒 821年-824年 長慶 821年-824年
敬宗 李湛 825年-826年 宝暦 824年-826年
文宗 李昂 826年-840年 宝暦 826年

大和1 827年-835年
開成 836年-840年

武宗 李瀍 840年-846年 会昌 841年-846年
宣宗 李忱 846年-859年 大中 847年-859年
懿宗 李漼 859年-873年 大中 859年

咸通 860年-873年

僖宗 李儇 873年-888年 咸通 873年-874年

乾符 874年-879年
広明 880年-881年
中和 881年-885年
光啓 885年-888年
文徳 888年

昭宗 李敏 888年-904年 龍紀 889年

大順 890年-891年
景福 892年-893年
乾寧 894年-898年
光化 898年-901年
天復 901年-904年
天祐 904年

(徳王李裕 李裕 900年-901年[注釈 6] 光化 898年-901年
哀帝 李柷 904年-907年 天祐 904年-907年

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 即位後わずか54日で廃位された。
  2. ^ 「曌」は「照」の則天文字
  3. ^ 705年、中宗に譲位して唐が復活。武周は一代15年で終わった。
  4. ^ 中宗に代わり韋皇后によって皇帝に擁立されたが1ヶ月で睿宗に譲位させられた。
  5. ^ 病気が元で即位後7ヶ月で譲位。
  6. ^ 宦官勢力によって父・昭宗が失脚させられた際に皇帝として擁立されたが、2ヶ月足らずで昭宗が返り咲いたため李裕の即位の事実は否定された。通例として歴代皇帝には数えられていない。

出典編集

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  4. ^ 日本大百科全書』 - コトバンク「唐室の李氏は隴西を本貫とし、西涼の王室の裔を称するが、北魏時代モンゴリアと接する北辺の軍鎮に駐屯していた軍人の家柄で、北周の宇文氏・隋の楊氏と姻戚関係にあり、鮮卑族と通婚して北族的要素も受け継いでいた。…彼らは6世紀を通じ陝西・甘粛地方の土着勢力と融合した鮮卑・漢混血貴族グループで、武勇に優れ、漢代以来の華北の伝統文化を吸収していた。」
  5. ^ 桂小蘭 『古代中国の犬文化―食用と祭祀を中心に』大阪大学出版会、2005年3月1日、315頁。ISBN 978-4872591880。"唐の王朝は北方遊牧民族の血を引いて、食生活に「胡食」の影響を色濃く受けたことがわかる。しかし後の北宋王朝はまったくの漢民族であるが、やはり羊肉優位の状況が続いていた。"。 
  6. ^ 加藤徹 『貝と羊の中国人』新潮社新潮新書169〉、2006年6月16日、112-113頁。ISBN 978-4106101694。"隋の楊氏も唐の李氏も、遊牧民族である鮮卑族の血を、濃厚に引いていた。そのため、唐の皇室のランクは、漢民族の貴族の家柄より格下であると、世間では見なされていた。唐の第二代皇帝太宗は、臣下に命じて『貞観氏族志』という本を編纂させた。この本では、天下第一の名門を唐の皇室とし、漢民族の名門である崔氏や盧氏の上に置いていた。このような涙ぐましい宣伝にもかかわらず、唐一代を通じて、唐の皇室の血筋は、高貴とは見なされなかった。"。 
  7. ^ 伊達宗義 『民族性から見た日本と中国』拓殖大学海外事情研究所〈海外事情〉、1998年4月、80頁。 NAID 40000356369NCID AN00035090。"秦王朝のあとを受けた漢王朝は漢民族でありましたが、後漢のあとの五胡十六国は異民族でありますし、隋も唐も異民族の血が濃厚に入っております。"。 
  8. ^ 梅原猛 『日本冒険(下)』小学館〈梅原猛著作集8〉、2001年7月25日、326頁。ISBN 4096771082。"少なくとも漢以後の中国は、遊牧民の絶えざる侵入の歴史であるが、漢の前のあの「秦」「周」以後の分裂した中国を一つの国家に統一した秦もまた、その位置からいっても、遊牧民の血を多分にもった民族であったと考えられる。とすれば、中国の歴史は、北方からやってきた胡族の国家であった。その多くの胡族の国家の中で、鮮卑族の王朝「北魏」が台頭し、その北魏を倒した「隋」が二百年分裂した南北朝を統一したが、隋もまた鮮卑族の血を引く王朝であった。隋を滅ぽした「唐」も、自ら漢族と名告ったが、最近の研究では、北魏や隋と同じく、やはり鮮卑族の血を引いているといわれている。"。 
  9. ^ 陳寅恪 『唐代政治史述論稿』商務印書館、1998年、1頁。ISBN 9789570509342https://books.google.co.jp/books?id=L8Y4H1aGZbkC&pg=PA1&pg=PA1&dg#v=onepage&q&f=false 
  10. ^ [翻訳]陳寅恪『唐代政治史述論稿』, p. 288.
  11. ^ 銭穆 『國史大綱』商務印書館、1996年6月、第五編第27章頁。ISBN 978-7-100-01766-4。"近人有主李唐為蕃姓者,其事信否,無確據。然唐高祖李淵母獨孤氏,太宗母竇氏,外祖母宇文氏,高宗母長孫氏,玄宗母竇氏,皆胡族也。則李唐世系之深染胡化,不容諍論。"。 
  12. ^ 薩孟武 『西遊記與中國古代政治』三民書局、2018年7月13日。ISBN 9789571464183。"隋唐統一華夏,而隋唐皇室皆是虜漢相雜。……唐高祖李淵,祖虎在周賜大野氏,官至柱國大將軍,遷太尉。高祖后竇氏雖為華人,然東漢靈帝時,亡奔匈奴。遂為部落大人,其血統似屬漢胡雜種。太宗娶長孫氏為后,長孫氏乃是鮮卑種族。隋唐皇室雖然是漢胡雜種,而卻自居為華人。"。 
  13. ^ 岑仲勉 『隋唐史』商務印書館、2015年7月1日。ISBN 9787100085410。"渉李唐世系,近人曾提出兩項問題:其一為繆鳳林漢胡混合之北統。茲列舉李氏之血統如下:除獨孤、長孫都屬鮮卑無疑外,竇氏之先,相傳自後漢奔匈奴,故説者亦視如漠北之族。吾人對上古史能深入研究,此等問題,已覺不甚重要。萊忙脱氏言:『德人自誇為優越人種,且是純粹的諾曼種,實際上則彼輩已是最複雜的混血,此種現象,世界上各民族殆莫不皆然。』劉盼遂曾著《李唐為蕃姓考》三篇,最後又自取消其説,然猶有深信不疑者。"。 
  14. ^ 宮崎忍勝「密教と道教の周辺」『密教文化』第1987巻第159号、密教研究会、1987年、 87-102頁、 doi:10.11168/jeb1947.1987.159_87ISSN 02869837NAID 130003716036
  15. ^ a b c 河上麻由子新刊紹介 礪波護著『隋唐佛教文物史論考』 (PDF) 」 『仏教史学研究』第59巻第1号、仏教史学会、2016年、 64頁、 ISSN 02886472NAID 40021231695
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  19. ^ 劉志強 『唐代文明發生論──以《貞觀政要》為中心』 第十六期、世新大學中國文學系〈世新中文研究集刊〉、2020年7月、59頁。 
  20. ^ 彦悰 『唐護法沙門法琳別傳』。"帝時大怒豎目,問法師曰:朕聞周之宗盟異姓為後,尊祖重親寔由先古,何為追逐其短禽鼠両端。広引形似之言,備陳不遜之喩。擢發数罪比此猶軽,尽竹書愆方斯未擬。爬毀朕之祖禰。謗黷朕之先人。如此要君理有不恕!"。 
  21. ^ 中西久味「法琳雑記」『比較宗教思想研究』第2巻、新潟大学大学院現代社会文化研究科比較宗教思想研究プロジェクト、2002年4月、 1頁、 ISSN 13480057NAID 110000094392
  22. ^ 中西久味「法琳雑記(続)」『比較宗教思想研究』第4巻、新潟大学大学院現代社会文化研究科比較宗教思想研究プロジェクト、2004年4月、 1-29頁、 ISSN 13480057NAID 110001021830
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    唐源流於夷狄、故閨門失禮之事、不以為異。
    — 朱熹、朱子語類
  26. ^ [翻訳]陳寅恪『唐代政治史述論稿』, p. 287.
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    李唐為晋載記涼武昭王李暠七世孫、實夷狄之裔、況其諸君家法甚繆戾、特以其並包天下頗久、貞觀開元太平氣象、東漢而下未之有也、姑列之於中國、特不可以正統言。
    — 鄭思肖、心史、巻下
  28. ^
    唐一・一・乃夷狄、非中国人。
    — 楊慎、升菴集、李姓非一
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  30. ^ a b Shao-yun Yang (2014年). “Reinventing the Barbarian: Rhetorical and Philosophical Uses of the Yi-Di in Mid-Imperial China, 600-1300” (PDF). カリフォルニア大学バークレー校. p. 78-79. オリジナルの2021年2月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210223193205/https://digitalassets.lib.berkeley.edu/etd/ucb/text/Yang_berkeley_0028E_14471.pdf 
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  36. ^ 孟二冬 『中唐诗歌之开拓与新变』中華書局、2019年7月31日、24頁。ISBN 7101116523https://www.google.co.jp/books/edition/中唐诗歌之开拓与新变/K7XUDwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PT24&printsec=frontcover。"唐代儒学的衰微,与道教及佛教的兴盛有着直接关系。而道教与佛教的兴盛,与统治阶级的大力提倡密不可分。李唐宗室,系出胡族,故其入主中原,需显宗耀族,光大门楣。高宗乾封元年(666),追封老子李耳为“太上玄元皇帝”;上元二年(674),令王公以下皆习《老子》;玄宗开元二十四年(736),诏令道士女冠隶正宗寺,次年置玄学博士,士人习《老子》、《庄子》、《文子》、《列子》者可以应科举,作为明经科的一项,亦曰“道举”。至中唐时期,道教的地位更加牢固,其影响亦更深入人心。"。 
  37. ^ 銭仲聯 『梦苕盦专著二种』中国社会科学出版社、1984年4月、4-5頁https://web.archive.org/web/20220227153944/http://ishare.iask.sina.com.cn/f/6699490.html。"唐室自以系出李暠,故贺亦自云陇西成纪人。实则李唐系出胡族,当时人已言之,近人考订亦言之。沈曾植《海日楼札丛》卷二《唐为北魏达阇之裔》条:《法琳别传》云:“琳闻拓拔达阇,唐言为李。陛下之李,斯即其苗,非柱下陇西之裔也……。"。 
  38. ^ a b c [翻訳]陳寅恪『唐代政治史述論稿』, p. 284-285.
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  40. ^ 陳寅恪 (1931) (PDF). 李唐氏族之推測. 中央研究院歴史語言研究所集刊. 中央研究院歴史語言研究所. p. 39-48. オリジナルの2022-02-15時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220215081610/http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4998feQZJiG.pdf. 
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  42. ^ 石見清裕講演録 唐王朝成立史の研究をふりかえって (唐建国1400年 2018年度秋期シンポジウム特集)」『唐代史研究』第22号、唐代史研究会、2019年、 113-126頁、 ISSN 13443100
  43. ^ 日本大百科全書李淵』 - コトバンク「隴西の李氏といわれ、五胡十六国時代の西涼の武昭王李暠の子孫と称しているが、それには疑問がある。鮮卑系の出自であろう。」
  44. ^ 布目潮渢栗原益男 『隋唐帝国』講談社講談社学術文庫〉、1997年10月9日、29頁。ISBN 4061593005。"隋室の楊震以来の系譜に信頼がおけず、また唐室の系譜も、故陳寅恪氏の研究によって、正史の系譜記載の偽りが証明された。すなわち、隋室の普六茹姓、唐室の大野姓は、それらの本来の鮮卑姓であるということは、ほぼまちがいなかろう。"。 
  45. ^ 布目潮渢栗原益男 『隋唐帝国』講談社講談社学術文庫〉、1997年10月9日、68頁。ISBN 4061593005。"李淵は、西涼の武昭王となった李暠の七代の孫といっているが、しかしその系図に疑点のあることを陳寅恪は詳細に考証した。さきにも触れたが、李淵の家は、あるいは西魏の八柱国の家がほとんどそうであるように、北魏の帝室と同じく鮮卑系で、その胡姓として賜与されたといわれる大野氏が、本来の姓であるかもしれない。"。 
  46. ^ 古松崇志 『中國的歷史3:草原的稱霸』聯經出版中国語版、2021年11月4日、39頁。ISBN 9789570860511https://www.google.co.jp/books/edition/岩波新書_中國的歷史3_草原的/R-ROEAAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PT39&printsec=frontcover。"唐朝開國者李淵(唐高祖,六一八年-六二六年在位)的祖先來自鮮卑族,原本使用胡姓大野氏,北魏時代為生活於武川鎮一帶的遊牧民。在建立唐朝後並稱漢人名門望族隴西李氏,隠去自己北方遊牧民的出身,藉此宣揚自身乃是中華的正統統治者。建立隋朝的楊氏也與李氏有類似的出身。"。 
  47. ^ 向井佑介「學界展望 北魏の考古資料と鮮卑の漢化」『東洋史研究』第68巻第3号、東洋史研究会、2009年12月、 138頁、 doi:10.14989/167620ISSN 03869059NAID 40016974934
  48. ^ 楊海英 『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』文藝春秋、2019年3月8日、25-26頁。ISBN 416791252X。"それは、歴史とのむきあい方にもあらわれている。つまり、事実にむきあうのではなく、自分たちの都合のいいところだけとりこむのだ。だから、異民族による征服王朝であることがわかっていながら、「偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった」とか、「元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ」と平気で噓をつく。そればかりか、「チベットやモンゴルは清朝の一部だったのだから、いまも自分たちの領土のはずだ」と、現在の侵略的支配や搾取を肯定する論理に利用するのである。"。 
  49. ^ 楊海英 『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』文藝春秋、2019年3月8日、16頁。ISBN 416791252X。"事実、シナ地域の歴史をたどれば、ユーラシアにまたがって交易をおこない、国際的な文化が花開いた時期がある。たとえば日本との交流もさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元)、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ。端的にいえば、遊牧民が建立した王朝であった。たとえば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系の王朝だった。第四章でもふれるが、それが漢人編纂の後の史書では、後漢の名臣の楊震の子孫であると「シナ化」されてつたえられてきたのである。隋につづく唐も鮮卑拓跋系で、首都長安には東アジアだけでなく、いわゆるシルクロードを介して西方からさまざまな人々がおとずれ、商業活動や文化活動が展開された。"。 
  50. ^ 楊海英 『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』文藝春秋、2016年8月11日、169頁。ISBN 4163905065。"チュルクも、唐をシナ人の王朝とはみなしておらず、嘎仙洞に源流を有する拓跋鮮卑人だと認識していた。唐の羈縻下、服属下にあったときも、チュルクは唐の皇帝をシナ風に「皇帝」とはよばず、草原のしきたりに則して「テンゲル・カガン」(天可汗)と称していた。鮮卑系の可汗であるのだから、呼称はカガン(可寒)がふさわしいと考えていたのである。"。 
  51. ^ 宮脇淳子 『モンゴルの歴史―遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房〈刀水歴史全書〉、2002年10月1日、29頁。ISBN 978-4887082441。"中国王朝の隋も唐も、王朝の祖は、この西魏に仕えた軍人である。西魏で実権を握った宇文泰は鮮卑人で、自分に従った鮮人と漢人の軍人たちを、遊牧騎馬民の伝説の三十六部族・九十九氏族に再編成した。そして漢人には鮮卑の姓を与えた。漢姓と鮮卑姓はどちらを使ってもよく、簡潔に書きたいときは漢名、正式に名乗るときは鮮卑名を使ったらしい。こうして、鮮卑人と鮮卑化した漢人の連合体が陝西省と甘粛省にできたが、この連合体が、宇文泰の息子が皇帝となった北周、これを乗っ取った隋、そのあとの唐の政権の基盤となった。"。 
  52. ^ 宮脇淳子 『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所PHP新書〉、2006年2月1日、39頁。ISBN 4569648800。"六一八年、隋の楊帝は反乱で殺され、唐が建国された。ちなみに隋も唐も、帝室の祖先は、もともと大興安嶺出身の鮮卑族である。後漢末の一八四年、宗教秘密結社が決起した「黄巾の乱」と、これを鎮圧した政府軍の内戦である一八九年の「董卓の乱」のせいで、漢人人口は激減した。三国時代を通じて、周辺の夷狄が大量に内地に移住していたのである。中国史で「五胡十六国の乱」といわれるものは、華北に移住した異民族が、つぎつぎに十六国を建国したもので、そののち華北を統一した北魏も鮮卑族出身で、隋と唐の支配層は、この北魏の系統である。"。 
  53. ^ 宮脇淳子 『世界史のなかの蒙古襲来』扶桑社扶桑社新書〉、2021年12月22日、33頁。ISBN 4594090435。"唐の皇帝は鮮卑の出身で、唐は鮮卑族の国です。決して、漢人の国ではありません。北アジアの遊牧騎馬民たちはそれを承知していました。それゆえ、突厥が滅びたとき、それまで突厥のカガンに臣属していた北アジアの遊牧騎馬民たちは、唐の太宗を自分たちのカガンに選び、唐の皇帝の配下に入りました。かれらにしてみれば、唐の皇帝は自分たちと同じ遊牧騎馬民だから、自分たちのカガンとして選んだというわけです。"。 
  54. ^ 岡田英弘宮脇淳子 『滅亡の歴史を理解するために もう騙されない これが中国史の正体だ』文藝春秋、2016年7月、67頁。"この隋も鮮卑族の国ですから、シナは完全にアルタイ化してしまうわけです。…隋・唐ともに鮮卑人のつくった王朝です。"。 
  55. ^ 岡田英弘 『中国文明の歴史』講談社講談社現代新書〉、2004年12月18日、102頁。ISBN 978-4061497610。"この時代の王朝である隋も唐も、その帝室は鮮卑系の王朝であった北魏・西魏・北周のもとで実現した、鮮卑族と、鮮卑化した漢族の結合した集団の中から出てきたものである。"。 
  56. ^ 岡田英弘 『だれが中国をつくったか』PHP研究所PHP新書〉、2005年9月16日、70頁。ISBN 978-4569646190。"隋・唐の帝室は、ともに西魏の宇文泰とともに興った。宇文泰は鮮卑人だったが、五三四年、北魏が東西に分裂すると、西魏の文帝を奉じて長安に独立し、東魏の高歓(やはり鮮卑)と対立した。五五〇年、宇文泰は自分と同じ立場の鮮卑人を八柱国とし、その下に二人ずつの大将軍を置いたが、八柱国の一人は隴西郡開国公李虎であり、もう一人の柱国の独孤信の下の大将軍の一人は陳留郡開国公楊忠である。そして楊忠の息子の楊堅は、隋の初代の皇帝・高祖文帝であり、李虎の孫の李淵は、唐の初代の皇帝・高祖である。これでわかるように、隋も唐も、鮮卑出身だったのである。さて、唐の朝廷は、南北朝時代の「正史」として、宋・南斉・梁・陳を『南史』で、北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋を『北史』で、それぞれ「本紀」を立てて扱った。これは二つの系列の皇帝を認めたことで、「天命」にも二つ、「正統」にも二つがあることになる。自分が鮮卑系である唐の政治的な立場では、北朝も「正統」であると主張するほかに道はなかったのである。おもしろいことに、『北史』の冒頭には、北魏の帝室の出自を述べて、「祖先は黄帝であり、黄帝の息子の昌意の末子が北方に国を建て、そこに大鮮卑山があったので、鮮卑と号するようになった」といっている。これは司馬遷の『史記』をまねて、鮮卑系の北朝にも歴史のはじまりにさかのぼる、中国人の南朝と対等の「正統」の資格がある、と主張しているのである。"。 
  57. ^ a b 日本大百科全書鮮卑』 - コトバンク「その後の北朝王朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)および隋・唐王朝の宗室も祖先は鮮卑系である。」
  58. ^ 稲畑耕一郎 『隋 楊堅 繁栄の基礎を築いた「開皇の治」--分裂時代に終止符を打ち、その施政は唐へ受け継がれた』新人物往来社歴史読本〉、2009年10月、97頁。"李淵・李世民は、漢族の名門貴族、隴西郡の李氏と称しているが、実際は鮮卑族の拓跋達闍の後裔であったらしい。"。 
  59. ^ 袴田郁一 著、渡邉義浩 編 『マンガでわかる三国志』池田書店、2016年11月24日、127頁。ISBN 4262155595。"のちに西晋が滅亡し、異民族が中国を席巻した五胡十六国時代には、鮮卑による王朝が次々誕生した。のちに中国を統一する唐も鮮卑系である。"。 
  60. ^ 田中英道 『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』扶桑社、2013年6月1日、80頁。ISBN 4594068294。"聖武天皇のご冥福を祈って、生前好まれていた物、御帯、剣笏、刀剣、楽器などといったさまざまな工芸品が珍宝帳には記されており、それらが正倉院に収められているのです。それらは、鋳造、鍛造、鎚金、彫金、象嵌、七宝細工といった、さまざまな技術を要する美術工芸品ですが、中国でつくられたものはあまり多くありません。普通、唐から渡ったといわれるわけですが、実はペルシアやさらにシリアなどの西域でつくられた物が多いのです。それは、唐という国が、鮮卑族の皇帝が治めた国だったということに理由があるといえます。鮮卑族はもともと中央アジアから来ているのです。ですから、唐には、中央アジアのルートを通った西方の文化が入ってきたわけです。"。 
  61. ^ 越野明 『教科書とはひと味違う世界史のだいごみ』秀和システム、2006年2月20日、41-42頁。ISBN 4798012440。"五胡十六国時代、長江の北を支配したのは漢民族ではなかった。唐の皇帝も、鮮卑族の末だ。この時代、漢民族以外を差別する思想は、力を持っていなかった。"。 
  62. ^ 塚本靑史 『四字熟語で愉しむ中国史』PHP研究所PHP新書〉、2010年7月16日、141-142頁。ISBN 4569779565。"ところで、煬帝と李淵は、武川鎮軍閥出身だった母親同士(鮮卑系の独孤氏)が姉妹である。つまり、彼らは従兄弟(李淵が年長)の関係だ。また、それぞれ楊氏と李氏を姓としているが、もとは普六茹氏と大野氏であったと言われ、漢化した鮮卑系と思しい。それは、煬帝が父の文帝の姫妾(陳氏)を、高宗(李治)が父の太宗(李世民)の姫妾の武照(後の則天武后)を、自らの後宮に入れたりするところに見られる。このレビラト婚は、明らかに遊牧民族の風習であるからだ。"。 
  63. ^ 村山秀太郎 『東大の世界史ワークブック』かんき出版、2016年6月15日、222頁。ISBN 4761271817。"漢人は柔然を蠕と呼んで蔑視しました。鮮卑族の北魏はその柔然対策として、六鎮という軍団を国境警備隊として配置しました。この六鎮の乱により、北魏は西魏と東魏に分かれました。西魏は宇文泰という人がつくりましたが、この宇文泰の直接の家来であったと言われるのが楊氏・李氏、これらが隋(581年-618年)と唐(618年-907年)をつくったのです。ですから隋や唐というのは間違いなく、鮮卑系の王朝、あるいは胡人の王朝であると言えます。"。 
  64. ^ 古田博司 『東アジア・イデオロギーを超えて』新書館、2003年8月1日、22頁。ISBN 978-4403230974。"北狄の鮮卑族の王朝が次々と交替した。北魏、東魏、西魏、北斉、北周、隋、唐がそれであり、唐の太宗も鮮卑族であった。"。 
  65. ^ a b 堀井裕之 『隋代弘農楊氏の研究 : 隋唐政権形成期の「門閥」』 19巻、学習院大学東洋文化研究所〈東洋文化研究〉、2017年3月、406-407頁https://hdl.handle.net/10959/00004298。"最近では会田大輔氏が、隋朝創業前夜、北周の宣帝が「天元皇帝」を自称し、胡漢を超越した「中華皇帝」の道を模索して挫折したことを論じ、本来、北族であった隋室楊氏・唐室李氏が漢人門閥を標榜して、「漢人」皇帝として中華を統べた背景も視野に入れて、当該時代を理解すべきことを提唱した。…北族系氏族が漢人門閥を標榜して王朝を立てた隋朝の先達として北斉があり、その継承者として唐朝がある。今後の課題として、北斉・隋・唐の皇室がどのような時代背景のもとに漢人門閥を標榜したのかを明らかにしたうえで、それが隋唐政権の性格にどのような影響を与えたのか考えて行きたい。"。 
  66. ^ 片山剛「第1章 漢族と非漢族をめぐる史実と言説 : 広東省を中心に」『OUFCブックレット』第1巻、大阪大学中国文化フォーラム、2013年3月、 3-25頁、 ISSN 2187-6487NAID 120005248967。“歴史の実際に照らせば、たとえば五胡十六国時代以降は鮮卑などの民族が黄河流域の統治者となり、のちには隋・唐といった王朝を立てます。”
  67. ^ 宇山卓栄 『「民族」で読み解く世界史』日本実業出版社、2018年1月25日、44-45頁。ISBN 4534055587。"隋の建国者の楊氏も唐の建国者の李氏も、北魏と同じ鮮卑族というモンゴル人の出身とされています。隋や唐という中国を代表する王朝が漢人の王朝ではないということに対し、中国人史家のなかにはこれを否定する見解をもつ人もいるようですが、日本の中国史家の宮崎市定氏が隋・唐が鮮卑系であるとの見解を戦時中に発表して以降、この見解が世界の学界の定説となっています。高校の世界史教科書でも、この見解を取り上げています。そうすると、中国の主要統一王朝『秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清』のうち、いわゆる漢人がつくった統一王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国はその歴史上、長期にわたり、異民族王朝によって支配されていたのです。"。 
  68. ^ 斉藤茂雄 『古代トルコ系遊牧民の広域秩序』CCCメディアハウス〈アステイオン (84)〉、2016年5月19日、122-123頁。ISBN 4484162164。"七五五年から七六三年という長期に渡って唐を揺るがした安史の乱では、上述した突厥遺民集団を含め、滞留する遊牧民が結集して中核のひとつとなっていた。また、そもそも唐を立てた鮮卑系の人々も、境界地帯で力をつけ中国を制圧する勢力へと成長したとされる。"。 
  69. ^ 吉田一彦『日本書紀』仏教伝来記事と末法思想(その3)」『名古屋市立大学大学院人間文化研究科人間文化研究 (10)』、名古屋市立大学、2008年12月、 366頁。“やがて華北には、鮮卑拓跋部によって北魏が建国され、それは東魏、西魏、そして北斉、北周、隋へと継承され、南北朝が統一されて隋から唐へと変遷していった。それらはすべて非漢人による王朝であり、今日ではこれら一連の王朝を「拓跋国家」と呼ぶ見解が提起されている。そうした非漢人の国家によって仏教は大いに宣揚され、華やかな仏教文化が隆盛した。”
  70. ^ 森安孝夫 (2006年). “世界史上のシルクロードと唐帝国 森安講義への質問に対する回答(全面的に補足)” (PDF). 大阪大学大学院文学研究科東洋史学研究室 第4回全国高等学校歴史教育研究会. オリジナルの2021年8月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210803113546/http://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/seminar/2006/moriyasu_qa.pdf 
  71. ^ a b 布目潮渢栗原益男 『隋唐帝国』講談社講談社学術文庫〉、1997年10月9日、28-29頁。ISBN 4061593005 
  72. ^ 陳寅恪 (1931) (PDF). 李唐氏族之推測. 中央研究院歴史語言研究所集刊. 中央研究院歴史語言研究所. p. 44. オリジナルの2022-02-15時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220215081610/http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4998feQZJiG.pdf. 
  73. ^ a b 朴漢濟 『大唐帝國的遺產:胡漢統合及多民族國家的形成』八旗文化、2020年9月9日、199頁。ISBN 9789865524234https://books.google.co.jp/books?id=2Nz7DwAAQBAJ&pg=PT199#v=onepage&q&f=false。"西魏的「胡姓再行」,不只讓唐室始祖李氏被賜以胡姓大野氏,隋室始祖楊氏也被賜姓普六茹。雖然多數的中國學者稱呼他們為漢族或是沒落的漢族,但這是他們本姓的可能性很高;就算並非如此,他們是漢族的可能性也非常低。"。 
  74. ^ 阎步克 (2000年11月6日). “阎步克:南北朝的不同道路与历史出口”. 爱思想. オリジナルの2019年12月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20191228013434/https://www.aisixiang.com/data/2250.html. "在北方的六个军镇,保留着众多的鲜卑传统,而洛阳的鲜卑人却高度汉化了,昔日高度团结的拓拔氏一分为二,六镇起义就是胡化对汉化的反动,政坛上顿时昌出了众多的鲜卑姓氏,东西魏都是由大镇势力建立,都重新实行胡化,重新实行鲜卑语,恢复鲜卑姓氏,甚至对汉人赐以鲜卑姓,如杨忠之父赐姓“普六茹”,李渊祖父李虎赐姓“大野”。" 
  75. ^ 卓鴻澤 (2007年). “塞種源流及李唐氏族問題與老子之瓜葛──漢文佛教文獻所見中、北亞胡族族姓疑案” (PDF). 中央研究院歷史語言研究所集刊 第七十八本 第一分 (中央研究院歴史語言研究所). オリジナルの2020年7月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200725154958/http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/2890CIrTMww.pdf 
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  77. ^ 馬馳 『論仕唐蕃人之漢化』陝西師範大学出版社中国語版〈陝西師範大学民族学論文集〉、2001年、46頁。 
  78. ^ 厳耕望 『治史經驗談』台湾商務印書館中国語版、2008年9月1日。ISBN 9789570523089。"《新修本草》十七〈蒲陶條〉云:『蒲陶……生隴西、五原、燉煌山谷。』本註:『魏國使人多賚來。……此國人多肥健耐寒、蓋食斯乎?』……這條材料顯示北朝人、或許指鮮卑人、多肥健。……北朝鮮卑人體肥健似無其他史料可考、你想這條史料多麼重要。閻立本繪歷代帝王圖、好像把唐太宗畫得很肥胖、大概因為他本有胡人血統?"。 
  79. ^ 劉学銚 (2020年6月1日). “李唐族源蠡測”. 中國邊政 (中國邊政協會). オリジナルの2021年12月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211206120507/https://www.airitilibrary.com/Publication/alDetailedMesh?DocID=a0000197-202006-202007010012-202007010012-1-34 
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  84. ^ 向正樹. “モンゴル帝国と火薬兵器―明治と現代の「元寇」イメージ―” (PDF). 第57回SGRAフォーラム 第2回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性. p. 2-3. オリジナルの2018年9月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180920170018/http://www.aisf.or.jp/sgra/wp-content/uploads/2017/03/[J]Kokushi2_fullpaper_MukaiMasaki(向正樹)ed.pdf 
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参考文献編集

総論・歴史編集

政治編集

経済・軍事編集

文化編集

4.古鏡記 遊仙窟他、5.枕中記 李娃伝 鴬鴬伝他、6.広異記 玄怪録 宣室志他
  • 「中国古典文学全集〈第6巻〉六朝・唐・宋小説集」(平凡社、1959年)
  • 「中国古典文学大系〈第24巻〉六朝・唐・宋小説選」(平凡社、1968年)
  • 今村与志雄(訳)「唐宋伝奇集〈下〉杜子春他39篇 (岩波文庫)」(岩波書店、1988年) ISBN 978-4003203828

社会・生活・風習編集

  • 石田幹之助「長安の春 (東洋文庫)」(平凡社、1967年) ISBN 978-4582800913
  • 朱恵良「中国人の生活と文化」(二玄社、筒井茂徳・蔡敦達 訳、1994年)ISBN 978-4544011425
  • 高世瑜「大唐帝国の女性たち」(岩波書店、小林一美・任明 訳、1999年)ISBN 978-4000012881
  • 尚秉和「中国社会風俗史 (東洋文庫)」(平凡社、秋田成明 訳、1969年)ISBN 978-4000012881
  • 大室幹雄「パノラマの帝国―中華唐代人生劇場」(三省堂、1994/年) ISBN 978-4385355993
  • 相田洋「橋と異人―境界の中国中世史」(研文出版、2009年) ISBN 978-4876363025
  • エドワード・H. シェーファー(著)吉田真弓(訳)「サマルカンドの金の桃―唐代の異国文物の研究」(勉誠出版、2007年) ISBN 978-4585020820
  • 崔令欽・孫棨「教坊記・北里志」(平凡社、東洋文庫、齋藤茂訳注、1992年)ISBN 4582805493
  • 斎藤茂「妓女と中国文人 (東方選書)」(東方書店、2000年) ISBN 978-4497200051
  • 松浦友久植木久行 「長安・洛陽物語 (中国の都城)」(集英社、1987年) ISBN 978-4081620029
  • 郭伯南「中国文化のルーツ〈上巻〉」(東京美術、1989年) ISBN 978-4808705398
  • 郭伯南「中国文化のルーツ〈下巻〉」(東京美術、1989年) ISBN 978-4808705510
  • 大室幹雄「遊蕩都市―中世中国の神話・笑劇・風景」(三省堂、1996/年) ISBN 978-4385357577
  • 「長安の都市空間と詩人たち(アジア遊学)」(勉誠出版、2004年) ISBN 978-4585103110
  • 中尾佐助「花と木の文化史」(岩波書店、1986年) ISBN 978-4004203575
  • 華梅「中国服装史―五千年の歴史を検証する」(白帝社、2003年) ISBN 978-4891745882
  • 「「大唐王朝女性の美」展 図録」(中日新聞社、2004年)
  • 張競「中華料理の文化史 (ちくま文庫)」(筑摩書房、2013年) ISBN 978-4480430694
  • 譚璐美「中華料理四千年 (文春新書)」(文藝春秋、2004年) ISBN 978-4166603961
  • 段成式今村与志雄(訳)「酉陽雑俎 (東洋文庫)」(平凡社、1980年)
  • 中野謙二 「囲碁 中国四千年の知恵」(創土社、2002年) ISBN 978-4789301138
  • 「世界歴史シリーズ〈第7巻〉大唐の繁栄」( 世界文化社、1969年)
  • 「長安―絢爛たる唐の都 (角川選書)」(角川書店、1996年)
  • 孔令敬「中国茶・五感の世界―その歴史と文化 (NHKブックス)」(日本放送出版協会、2002年)
  • 王仁湘、鈴木博(訳)「中国飲食文化」(青土社、2001年) ISBN 978-4791759231
  • 岡崎由美 「漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道 (あじあブックス)」(大修館書店、2002年) ISBN 978-4469231878
  • 大沢正昭「唐宋時代の家族・婚姻・女性」(明石書店、2005年) ISBN 978-4750321035
  • 杉山二郎「遊民の系譜」(河出書房新社、2009年) ISBN 978-4309409535

関連項目編集

外部リンク編集

先代
618年 - 907年
次代
後梁

五代十国時代