南スーダン共和国
Republic of South Sudan
南スーダンの国旗 Coat of arms of South Sudan.svg
国旗 国章
国の標語:Justice, Liberty, Prosperity
(英語: 正義、自由、繁栄)
国歌南スーダン万歳!
南スーダンの位置
公用語 英語
首都 ジュバ
最大の都市 ジュバ
政府
大統領 サルバ・キール・マヤルディ
第一副大統領 タバン・デン・ガイ英語版
副大統領 ジェームズ・ワニ・イッガ英語版
面積
総計 619,745km245位
水面積率 不明
人口
総計(2011年 10,310,000人(???位
人口密度 14人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 414億南スーダン・ポンド[1]
GDP (MER)
合計(2013年 140億ドル(121位[1]
GDP (PPP)
合計(2013年 261億[1]ドル(123位
1人あたり 2,401ドル
独立 スーダンより
2011年7月9日
通貨 南スーダン・ポンド (SSP)
時間帯 UTC +3(DST:なし)EAT
ISO 3166-1 SS / SSD
ccTLD .ss
国際電話番号 211
面積は帰属未定のカフィア・キンギ地区とアビエイ地区を除き,イレミ・トライアングルを全て含む。人口はこれらの帰属未定地域を全て含む。帰属未定地域を全て含んだ面積は644,329平方キロ。

南スーダン共和国(みなみスーダンきょうわこく、英語: Republic of South Sudan)、通称南スーダンは、東アフリカに位置する国家。北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニアウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカ国境を接する内陸国である。

2011年7月9日に、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立した[2]

目次

概要編集

2011年7月8日までは、スーダン領でありながら南部スーダン自治政府の統治下にあった。これは、2005年1月9日にケニアのナイバシャで結ばれた第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意により、スーダン政府から自治を認められたためである。

2011年、分離独立の是非を問う住民投票が実施され、分離独立票が圧倒的多数 (98.83%) を占めた。新国名は「南スーダン共和国: The Republic of South Sudan[3]」になった。過去には、「アザニア」「ナイル共和国」「クシュ」などの候補が挙がっていたが、「南スーダン」となる可能性が高かったとされた[4][5]

2011年7月13日には国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった[6]。さらに、AU(アフリカ連合)の54番目の加盟国となった。またイギリス連邦に加盟を申請中である[7]東アフリカ共同体にもケニアルワンダの協力で[8]2016年に加盟している。

2014年、非政府組織平和基金会が発表した「世界で最も脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となった[9]

 
独立とともに南スーダン(黄色)を承認した国(緑色)

歴史編集

かつて南部の黒人たちは、アラブ系やダルフール及びバハル・アル・ガザールなどの奴隷商人によって奴隷売買されていた。1821年にスーダンの北部はエジプトが、南部は1877年イギリスが占領した。1898年にイギリスとエジプトによる共同統治(英埃領スーダン)が始まった。南部を支配していたイギリスはその南部のウガンダとの統合を望んだが、1947年ジュバ会議英語版での合意により南北スーダンの統合が決められた。

建国前編集

第一次スーダン内戦編集

1955年に南部で反乱が起き、第一次スーダン内戦(1955年 - 1972年)が起きた。1956年スーダン共和国として北部と南部が統一して独立したが、北部の政治的・経済的支配に南部の住民は不満を抱いていた。1972年アディス・アベバ合意により南部に制限付き自治権が与えられ、将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められ、南北の内戦は一時終結した。

1974年シェブロンが油田を発見し、その多くが南部に分布していた。

第二次スーダン内戦編集

民族イスラム戦線の圧力も受け、1983年モハメド・アン=ヌメイリ政権は南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を取り止め、イスラム法シャリーアを導入してイスラム勢力の取り込みを図り、また石油資源の独占を図り、南部の3つの州をそれぞれ分割した。そのためキリスト教徒も多い南部などで反乱が起こり、南部最大の民族であるディンカ人の出身のジョン・ガラン大佐を中心としたスーダン人民解放軍/運動 (SPLA/M) が北部の政権に対して反乱を起こし、第二次スーダン内戦(1983年 - 2005年)が起きた。政権が交替しても内戦が収まることはなかった、1989年オマル・アル=バシールが政権を握ると、イスラムを支持母体とする政権に反対する政治勢力を抑圧し、SPLAを始めとする南部の反政府組織に対する戦争を拡大していった。

 
初代大統領に選出されたサルバ・キール・マヤルディ

この内戦により、約二百五十万人の南部住人が殺され、数百万人が居住地を追われた。中でも突然の襲撃で村から逃げ出した、スーダンのロストボーイズと呼ばれる孤児となった約二万人の子どもたちが、SPLAの保護のもと、ケニアエチオピア難民キャンプまでサバイバルの旅をしたことは、本や映画にもなりアメリカではよく知られている。

南部での内戦は激化していったが、2002年ケニアで南北の和平交渉が成立し、2005年1月9日には南北包括和平合意英語版 (CPA) が署名された。南部は行政上の自治を6年間与えられ、そして北部で適用されているイスラム法シャリーアも南部で適用しない事となった。さらに2011年1月にはスーダンの一部として北部と統一するのか分離独立するのかを決める住民投票も南部で行うこととなった。

LRA掃討作戦編集

ウガンダとコンゴ民主共和国軍による神の抵抗軍掃討作戦ガランバ攻勢英語版2008年12月14日 - 2009年3月15日)に南スーダン自治政府が協力する部隊を派遣した。

住民投票編集

2010年1月20日、スーダンのバシール大統領は、南部スーダンの大統領サルバ・キール・マヤルディも出席したヤンビオ英語版で開催の南北の内戦終結5周年を祝う式典にて、「住民が選択(分離独立を)した場合にはスーダン政府は南部の独立を承認する」と発言した。

南部の住民は独立志向が強く、2011年1月の住民投票では予想されたとおり分離独立を選択した。しかし、南部の石油の利権や、同時にディンカ人のンゴック氏族の先住地アビエイの帰属も問われることとなった。

独立編集

2011年7月9日に、アメリカ合衆国からの後押しもあり、スーダンから分離独立した。新政府は、スーダン人民解放軍/運動 (SPLA/M) が中心となっている。

南北スーダン国境紛争(2011年)編集

2011年11月3日北スーダン青ナイル州クルムク英語版で、「スーダン人民解放運動・北」(SPLM・N)[10] の拠点がスーダン政府軍に攻撃された。同州での武力紛争は同年9月から続いており、約2万8700人の難民がエチオピアに脱出した(国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR) による)。SPLM・Nは11月2日、北スーダン南コルドファン州タロディ英語版周辺で、政府軍と激しい戦闘が続いていることを明らかにした。13日には、英国の援助団体オックスファム[11]上ナイル州からスタッフが撤退した。

南北スーダン国境紛争(2012年)編集

スーダンとの国境紛争は激化している。2012年4月、南スーダン軍が、スーダンのコルドファンにあるヘグリグ油田を占拠し、4月12日には、スーダン軍が南スーダンの都市を空爆し、死傷者が発生するなどしている。国際連合安全保障理事会は、全面的な戦争に発展する恐れがあることから、両国に即時停戦を強く求めている[12]。2012年4月16日、スーダン国民会議は南スーダンを敵とみなす決議を採択した。2012年4月18日には、スーダンのオマル・アル=バシール大統領が、南スーダンを同国与党のスーダン人民解放運動から解放すると宣言している[13]

南スーダンクーデター未遂事件(2013年)編集

2013年12月14日、同年7月に解任されたマチャル副大統領派によるクーデター未遂事件が発生するも失敗に終わったとされるが、その後もマチャル派・大統領派間の戦闘は継続し、翌年1月に両派間で停戦合意が結ばれたものの戦闘はおさまらず、その影響で避難民が100万人以上にのぼる事態となっている[14]

戦闘発生から1年経った2014年12月の時点でも戦闘は収まって居らず、国連によるとその影響による避難民は190万以上にのぼっている[15]。米国のシンクタンクの一つである平和基金会が発表している失敗国家ランキングでは、2014年・2015年の2年連続で1位となった。2008年から2013年まではソマリアが6年連続で1位であったがこの2年間は2位となっており、南スーダンが取って代わる形となった。
2015年8月の調停までに5万人が死亡、避難民は230万人以上と推定されている[16]

暫定政府の発足〜再びの内戦危機(2015年-現在)編集

 
2016年4月時点の軍事情勢,、赤は政府軍、緑は反政府軍、青斜線はスーダン軍が優勢な地域

この事態を受け、政府間開発機構が仲介に入り、和平協議が続けられた結果、2015年8月、政府間開発機構による調停の下、対立していたキール大統領派とマチャル派が調停案を受け入れ、紛争解決に関する合意文書へ署名を行なった[17]

2016年4月26日、合意文章に基づき、マチャル前副大統領が第一副大統領に就任し、29日、国民統一暫定政府が設立された[18]。しかし合意後も両陣営から協定の細部への不満に加え、内戦中の戦争犯罪の特別法廷の設置や州の再編案などで対立は続き、内戦により疲弊しきった経済はインフレ率295%のハイパーインフレーションを引き起こした[19][20]

2016年7月、首都ジュバでは両陣営による銃撃戦が断続的に続くなど内戦再燃の危機が高まり、現地で支援活動を行う日本を含めた欧米各国は国外退避を決定している[21]。同月の戦闘では、ジュバ住民等に270名ほどの犠牲者が出たが、国連加盟国との交戦を避けるためPKO部隊による住民の保護がされず、国連施設の前で南スーダン国軍による強姦行為が繰り広げるような有様であったとされ、PKOのあり方について国際世論から批判を受けた。これを受け潘基文国連事務総長はケニア出身の司令官や、国際連合南スーダン派遣団の国連事務総長特別代表を解任したが、ケニアはこの対応に反発しPKOから部隊を撤退させる事態となった[22][23][24]。7月23日にはマチャルが第一副大統領を解任され、和平プロセスは事実上崩壊した[25]

2017年になっても国内の混乱は収まらず、国内の当事者らがそれぞれ高圧的な軍事行動を展開。政府軍の破壊行為が止まらない一方、反政府側のスーダン人民解放軍や民兵集団が台頭し、組織の分裂や支配地域が広がる状況にある[26]。政府軍は、南部のエクアトリア地方一帯などで反攻を続けているが、一方でエクアトリア出身の元政府軍副参謀総長が反政府組織を立ち上げるなどの混乱が続いている[27]

政治編集

南スーダン議会の定数は170議席でほとんどの議席をスーダン人民解放運動が独占している。主な政党はスーダン人民解放運動 (SPLM) で、ジョン・ガランが結成した。現在の大統領はサルバ・キール・マヤルディ

外交と軍事編集

国連編集

政情が不安定なため、国際連合平和維持活動として国際連合南スーダン派遣団が派遣されている。医療や教育、インフラ整備や農業など、その支援分野は多岐に渡る。

日本編集

2013年5月31日、日本安倍晋三首相とサルバ・キール・マヤルディ大統領の会談で、南スーダンに日本大使館を設置することが決定した[28]。同年7月1日、首都のジュバに駐南スーダン日本国大使館が開設[29]赤松武参事官に就任し[30]、同年10月11日に特命全権大使に昇格した。

地方行政区分編集

 
2015年以降の南スーダンの州
 
南スーダンの州区分。アビエイカフィア・キンギ英語版スーダンとの係争地。イレミ・トライアングルは、ケニアエチオピアとの三ヶ国間で係争地となっている。

10州からなり、それらは歴史的に3つの地方に大別される。10の州は86の地区に細分化される。(括弧内は州都)

独立後のアビエイ地域の帰属問題や、ケニアやエチオピアも領有を主張しているイレミ・トライアングル地域の帰属問題がある。独立後もスーダン共和国が南ダルフール州の一部として実効支配しているカフィア・キンギ地域英語版は、1960年に西バハル・アル・ガザール州から南ダルフール州に移管されたため、1956年の境界線を南北国境とする南北包括和平合意 (CPA) によれば南スーダンに移譲されるべき地域であるが、2011年現時点では最終的な帰属は未定である。

主要都市編集

首都となるのはジュバで、他にルンベク(南部スーダン自治政府時代の首都だった)、ワーウアウェルなどの都市が人口10万を超える。ジュバが南過ぎることと再開発が難しいことから首都を中央部のレイク州ラムシール英語版に移す予定。

地理編集

 
南スーダンの地図

内陸国で、北にスーダンがあり、東はエチオピア、南はケニアウガンダコンゴ民主共和国、西は中央アフリカと国境を接する。北西はスーダン・ダルフール地域。スーダンとの国境線は長さ1,937kmに達し、エチオピアとの国境線がそれに次いで883kmである。最高地点は南部のイマトング山地にあるキヌエティ山(標高3187m)である。

ウガンダからスーダンへ南北に白ナイル川バハル・アル=ジャバル川と呼ばれる)が流れ、ジュバの北から国境にかけて大湿地帯スッドがある。南下するほど雨量が増えていき、熱帯雨林サバナの地域もあり、世界第二の多様な野生動物の宝庫となっている。白ナイル川は、スッドにて西からのガザル川(ダルフール南部からのアラブ川と、南西部から流れてくるジュル川を合わせている)と、東から流れてくるソバト川に合流する。特にソバト川は雨季の流量が増大するが、スッドは酷暑のまっ平らな低地であり、ここが蒸発皿の役目を果たすため、ここ以北を流れるナイル川は流量が半減する。ここの流量を増やし、北部で利用できる水資源を増やすために、第二次世界大戦直後にエジプトが、スッドをショートカットするジョングレイ運河英語版を計画し、1978年にスーダンとともに開削を始めたが、全長360kmのうち240kmを終えた1984年に、蒸発量減による気候の乾燥化の懸念[31]や自然破壊などの理由により工事は中止された。

経済編集

 
首都ジュバ

経済は南北内戦により荒廃し、特にインフラの整備が進んでいない。IMFの推計によると、2013年の南スーダンのGDPは140億ドルである[1]。一人当たりのGDPは1,289ドルであり、ケニアとほぼ同額で、エチオピアよりずっと多いが[1]、その98%は石油によるものであるので、実際の庶民の生活は決して裕福ではない。一部の富裕層が裕福な暮らしを営み、物価をつりあげ、庶民の生活を圧迫している。またクーデター未遂事件の影響もあり、2014年はマイナス成長が見込まれている[1]

通貨の最小単位は1SSP (South Sudan Pound) =約30円であった[32]。2011年10月19日に5、10、25、50ピアストルの各補助紙幣が導入されている[33]

南北合わせスーダン全体における石油資源の80%が南スーダンに集中する[34]ため、石油経済に将来性があると言われているが、スーダンの紅海沿岸ポートスーダンを原油積み出し港としているため、油田地帯から延びるパイプラインや石油精製技術をスーダンに握られ、独立前から原油収入は非常に不利であった。スーダンが南スーダンとの石油の利益配分交渉を有利に進めるため石油製品供給を停止し、深刻な燃料不足に陥しいれた[35]。2012年現在もスーダンがパイプライン使用料として莫大な金額を要求したため、南スーダンは原油供給を停止し、輸出による外貨獲得に困難が生じている。最盛期日量45万バレルだった原油生産は内戦で6万バレルに減少したが2015年には25万バレルまで回復している。紅海ではなくケニアを通過しインド洋から輸出するためのパイプライン計画がある。天然資源としては他に鉄鉱石雲母クロームタングステン亜鉛、金、銀、ダイアモンドなども産出する。農産物としては綿花ピーナッツサトウモロコシ雑穀アラビアガムキャッサバサトウキビマンゴーパパイアコムギサツマイモなどがある。木材は主要輸出品でアフリカ最大のチークプランテーションがある。経済は農業に大きく依存しているが、潜在的電力資源もある。

2011年現在、アメリカ中国などを中心に道路などのインフラや教育面などの援助が行われている。日本は最大部族になるディンカ族以外にも幅広い援助を行っている[35]

交通編集

 
ワーウへ向かう列車

内戦の影響でインフラは殆ど進んでいない。道路も未整備が多い。独立前の状況は、舗装道路は国内で約60km、ナイル川にかかる橋は1本しかない[34]

スーダン国境からワーウまで248kmのスーダン鉄道が延びているが、1980年代の内戦時に鉄道橋が破壊され運行が停止されたままになっている。路線の規格は、単線軌間1,067mmの狭軌であった。ワーウからジュバへの延伸計画がある。ウガンダとケニアからジュバまでの鉄道計画もある。

空港としてはジュバ空港があり、南スーダンのフィーダー航空 (Feeder Airlines) の拠点となっている。ジュバ空港からは近隣国の首都へは定期便がある。他の地方に国内線も幾つかある。しかし空港も滑走路の未整備など、まだ問題が多い。国営航空会社設立の計画がある。2012年の時点で、ジュバ空港には大型機の離着陸ができないので、建設用の重機は近隣国から(困難な)陸路で運ばれる。

国民編集

民族編集

 
スカリフィケーションを施した南スーダンの女性

民族構成はディンカ人が最も多く、約100万人。他にもヌエル人シルック人などのナイル系の民族がいる。西部はアザンデ人とジュチャル人、南部からウガンダにアチョリ人やロツフ人がいる。南スーダンは、ナイル系の民族が国家の主流派を占める初の独立国家である[36]

イスラームを信仰する民族はカリギ人Kaligi(17,000人)、インドリ人Indri(1,300人)、バンダトグボ人Banda Togbo(2,300人)以上、アダマワ・ウバンギ語族、アジャ人Aja(300人)、ドンゴトノ人Dongotono(1,100人)以上シャリ・ナイル語族、ンジャルグルグレ人Njalgulugule(2,200人)マバ語族など、きわめて少数の民族である。

各民族は敵対関係にあるものも多く、特に東部のジョングレイ州では複数の民族が土地をめぐって武力衝突を起こしている。スーダンの内戦時に流出した武器が出まわっており、多数の死者、負傷者、難民が発生している[37]

言語編集

イギリス統治時代の影響で英語公用語であり、教育や北部との取引などで幅広く使われている。ナイル系が多数派であり、母語としてはディンカ語ヌエル語シルック語英語版が主な言語である。共通語として、ピジン言語であるジュバ・アラビア語英語版がジュバ周辺で話されている。

宗教編集

アニミズム伝統宗教(大地の神クウォスイタリア語版、クモの姿をしたトリックスター「トゥール[38] Tule」)とキリスト教を信仰するアフリカ在来の諸民族が多数を占める。

北部スーダンでイスラームを信仰するアラブ人が多数を占めているのとは対照的である。この信仰の違いは、南スーダンの独立運動が過激化した理由の一つでもある。南スーダンは周辺諸国と比較しても例外的にムスリムの人口比率が極めて低い。

教育編集

文化編集

祝祭日編集

日付 日本語表記 英語表記 備考
1月1日 独立記念日 Independence Day
1月9日 和平合意記念日 Peace Agreement Day
5月16日 スーダン人民解放軍記念日 SPLA Day
7月30日 殉教者の日 Martyrs Day
12月25日 クリスマス Christmas Day
12月26日 ボクシング・デー Boxing Day

スポーツ編集

2012年にイギリスで開催されたロンドンオリンピックに、ディンカ族出身の第二次スーダン内戦元難民でアメリカ在住のグオル・マリアル独立参加選手団として出場した。なお、2015年8月に国内オリンピック委員会が承認された[39]

著名な出身者編集

脚注編集

  1. ^ a b c d e f World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月18日閲覧。
  2. ^ 外務省 各国・地域情勢>アフリカ>南スーダン共和国
  3. ^ Transitional Constitution of the Republic of South Sudan, 2011”. Sudan Tribune. 2011年8月3日閲覧。
  4. ^ 2011年2月7日放送の「きょうの世界」(NHK BS1) での中国中央テレビ (CCTV) の報道より。
  5. ^ Let It Remain South Sudan: Citizens”. Gurtong (2011年2月6日). 2011年7月14日閲覧。
  6. ^ “南スーダンの加盟承認=国連、193カ国に”. 時事通信. (2011年7月14日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011071400465 2011年7月15日閲覧。 
  7. ^ “South Sudan Launches Bid to Join Commonwealth”. Talk of Sudan. (2011年7月8日). http://talkofsudan.com/sudan/item/9001-south-sudan-launches-bid-to-join-commonwealth 2011年7月9日閲覧。 
  8. ^ “South Sudan: Big trading potential for EAC”. IGIHE. (2011年7月8日). http://en.igihe.com/spip.php?article455 2011年7月9日閲覧。 
  9. ^ “世界脆弱国家ランキング、南スーダンが最も脆弱”. CNN. (2014年6月28日). http://www.cnn.co.jp/world/35050083.html 2014年6月28日閲覧。 
  10. ^ 7月に独立した南スーダンの与党・スーダン人民解放運動 (SPLM) から分離した組織
  11. ^ 上ナイル州で6万4千人を対象に清潔な飲料水の供給を行っていた。
  12. ^ “スーダン全面戦争の恐れ 国連安保理が停戦要求”. テレビ朝日. (2012年4月13日). http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220413008.html 
  13. ^ “スーダン大統領が南の「解放」宣言、油田めぐり対立深刻化”. ロイター. (2012年4月19日). http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE83I00Q20120419 
  14. ^ “南スーダン:戦闘再開の危機 反乱軍、北部州都制圧か”. 毎日新聞. (2014年4月17日). http://mainichi.jp/select/news/20140418k0000m030069000c.html 2014年4月18日閲覧。 
  15. ^ “Tens of thousands killed in South Sudan violence: UN chief”. Press TV. (2014年12月15日). http://www.presstv.ir/detail/2014/12/15/390401/1000s-killed-in-south-sudan-conflict/ 2014年12月19日閲覧。 
  16. ^ “キール大統領、閣僚を任命”. 毎日新聞. (2016年4月30日). http://mainichi.jp/articles/20160430/k00/00m/030/096000c/ 2016年7月11日閲覧。 
  17. ^ 南スーダンの調停案署名を歓迎 Qnewニュース 2015年8月29日
  18. ^ 南スーダン国民統一暫定政府の設立(外務報道官談話) 外務省 2016年4月30日
  19. ^ “「和平協定履行で復興を」第1副大統領”. 毎日新聞. (2016年7月7日). http://mainichi.jp/articles/20160708/k00/00m/030/064000c 2016年7月11日閲覧。 
  20. ^ “建国5年、経済疲弊…急務の和平定着”. 毎日新聞. (2016年7月10日). http://mainichi.jp/articles/20160710/k00/00m/030/096000c 2016年7月11日閲覧。 
  21. ^ “南スーダン 戦闘再燃で日本人身動き取れない状況に”. NHK. (2016年7月11日). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160711/k10010590801000.html 2016年7月11日閲覧。 
  22. ^ 南スーダン 国連PKOの課題NHK
  23. ^ 「南スーダンPKO、住民助けず」 7月の戦闘、人権団体が報告書朝日新聞デジタル
  24. ^ 南スーダンPKOは「機能不全」、ケニアが国連批判で部隊撤退ニューズウィーク
  25. ^ “南スーダンの深刻な国内対立…自衛隊撤収後にできること”. 読売新聞. (2017年4月27日). http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20170427-OYT8T50036.html 2017年5月2日閲覧。 
  26. ^ 南スーダン内戦「壊滅的規模」に、収拾つかない恐れを国連が警告 AFP(2017年2月16日)2017年3月12日閲覧
  27. ^ 南スーダンに新たな反政府組織、政府軍の元副参謀総長が結成宣言 AFP(2017年3月8日)2017年3月12日閲覧
  28. ^ “南スーダンに大使館開設へ=政府”. ウォール・ストリート・ジャーナル. (2013年5月31日). http://jp.wsj.com/article/JJ12746991745940754583918579318213669365202.html 2013年6月20日閲覧。 
  29. ^ 在南スーダン日本国大使館の開設 | 外務省 - 2013年7月1日
  30. ^ オランダ大使に辻氏を起用  :日本経済新聞 - 2013年10月11日
  31. ^ ミリオーネ全世界事典 第10巻 アフリカI(学習研究社、1980年11月)p.279
  32. ^ [1]
  33. ^ Linzmayer, Owen (2012). “South Sudan”. The Banknote Book. San Francisco, CA: www.BanknoteNews.com. http://www.banknotebook.com. 
  34. ^ a b 2011年6月20日放送の「時論・公論」(NHK総合テレビジョン)「アフリカ新国家誕生へ ~求められる長期支援」内(リンク先は「解説委員室ブログ」)。
  35. ^ a b 独立・南スーダン 問われる国づくり」 2011年7月6日放送NHK総合テレビジョンクローズアップ現代』より。
  36. ^ 例えば、ウガンダケニア等も、ナイル系の民族が国民の一部分を占め、かつ国の指導者がナイル系の民族から誕生したことはあったが、国家の主流を占める民族はあくまでバンツー系の民族である。
  37. ^ Hannah MCNEISH (2013年7月15日). “南スーダンで民族衝突が激化、1集落に負傷者200人超”. AFPBB News. http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2955940/11033905 2013年7月24日閲覧。 
  38. ^ アナンシブレア・ラビットに似ている。
  39. ^ IOC:南スーダンの加盟を承認”. 毎日新聞Webサイト. 2015年9月13日閲覧。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集