川崎憲次郎

日本のプロ野球選手

川崎 憲次郎(かわさき けんじろう、1971年1月8日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者、野球指導者。妻は堀恵子

川崎 憲次郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県佐伯市
生年月日 (1971-01-08) 1971年1月8日(49歳)
身長
体重
182 cm
87 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年5月9日
最終出場 2004年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

現役時代はヤクルトスワローズ1989年 - 2000年)で主力投手として活躍し[1]、通算234試合に登板して88勝を挙げ[2]、特に対読売ジャイアンツ(巨人)戦では通算29勝を挙げた[1]。その活躍を買われてフリーエージェント(FA)移籍した中日ドラゴンズでも「巨人キラー」として活躍を期待されたが[1]、中日時代(2001年 - 2004年)は怪我に悩まされて1勝もできず現役を引退した。

経歴編集

プロ入り前編集

佐伯市立鶴岡小学校佐伯市立佐伯城南中学校出身[1]大分県立津久見高等学校3年時の1988年の甲子園大会、第60回選抜高等学校野球大会及び第70回全国高等学校野球選手権大会に春夏連続出場し、いずれもベスト8に進出した。

1988年度年ドラフト会議にて読売ジャイアンツヤクルトスワローズが1位指名で競合し、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得。後に契約金6000万円、年俸480万円(金額は推定)で合意[3][4]

ヤクルト時代編集

1989年(1年目)は13試合に先発し、4勝(うち1勝は読売ジャイアンツ戦での初完封)を挙げた。

1990年に12勝(13敗)を挙げ、先発ローテーションに定着する。9月8日の対巨人戦では、吉村禎章に巨人の優勝を決めるサヨナラ本塁打を浴びた[5]

1991年、チーム2位の14勝を挙げチーム11年ぶりのAクラス入りに貢献した。

1992年はチームは14年ぶりのリーグ制覇をしたものの、自身は故障でシーズン一軍未登板に終わる。

1993年、先発ローテーションに復帰し見事二桁勝利を挙げカムバック賞を受賞、1993年の日本シリーズでは2勝を挙げシリーズMVPに選出された[6]

1994年、自身初の開幕投手に抜擢され見事勝利投手になったが、年間通しては不振の投球が目立ち、8月頭に怪我で二軍落ちするとそのまま一軍復帰することが出来ずシーズンを終えてしまった。

1995年可愛かずみとの交際が発覚する[7]川崎は学生時代から可愛の熱烈なファンで、当時、川崎はマスコミに対しても交際宣言をしている[要出典]

その後は故障によって成績が下降したが、1997年シュートを覚えて復活。シーズンオフの11月にキャンペーンガール女優堀恵子と結婚。

1998年に17勝で沢村賞と最多勝を獲得。

2000年は20試合に登板して8勝10敗(防御率3.55)の成績で、対巨人戦では5勝2敗・防御率1.84(投球回数63回2/3)だった[8]。シーズン終了後にフリーエージェント(FA)権の行使を宣言したところ[8]星野仙一が監督を務めていた中日ドラゴンズが同時に獲得に名乗りを上げたほか[1]MLBボストン・レッドソックスが獲得の意向を示したが[9]、最終的には星野の呼びかけに応え[10]、12月17日に[11]年俸2億円の4年契約(3年間総額6億円+4年目は本人に選択権あり)[注 1]で中日へ移籍した[13]。同シーズンの中日はリーグ2位ではあったが巨人戦で9勝18敗と大きく負け越しており[注 2][1][10]、同年までに対巨人戦で(当時現役選手としては最多の)通算29勝を挙げていた川崎の「巨人キラー」っぷりを買っての補強で[8]、背番号も杉下茂権藤博・星野・小松辰雄宣銅烈らエース級投手たちが背負ってきたエースナンバーである20を引き継いだ[注 3][10]

中日時代編集

中日では星野仙一監督以下首脳陣やファンから大きな期待を掛けられ[10]2001年の公式ファンブックでも「Vの使者」「川崎が巨人戦であと6勝すれば星野監督の巨人戦通算勝利数(35勝)に並ぶが、それが達成されれば中日の2年ぶりの優勝もより近くなる」と紹介されたが[1]、同年3月14日のオープン戦・大阪近鉄バファローズ戦で右上腕三頭筋の違和感を訴えて途中降板し、同月23日には長期離脱が発覚する[14]。同年は二軍ウエスタン・リーグ)でわずか1試合(2イニング)を投げただけで終わり[注 4][16]、中日は川崎の離脱に加えて先発投手として計算していた武田一浩川上憲伸や新外国人(ティム・アンローオジー・ティモンズ)の不調などから5位に低迷し、星野はシーズン閉幕を待たず9月25日に辞任を表明した[17]

監督が山田久志に交代した2002年も二軍で3試合に登板したのみ(0勝2敗・防御率9.00)で[18]2003年は二軍ウ・リーグで13試合に登板し4勝4敗(防御率5.58)の成績を挙げたが、同年まで3年連続で一軍登板なしに終わった[19]

原因不明の右肩故障に悩まされつつも治療のため全国を歩き整体・鍼・耳ツボなどの治療を試みたほか、右肩のお祓いも受けたが症状は改善せず[20]2003年のオールスターゲームのファン投票で「川崎祭」と呼ばれるネット上の嫌がらせ騒動に巻き込まれた。これを受け、川崎は6月23日に選手会公式ホームページに「多少のケガを押してプレーしている選手に申し訳ない気持ちでいっぱい。今の状況で出場することはできません。1票、1票を自分への叱咤激励だと思って、1日でも早く一軍で投げられるように頑張ります。」と声明文を掲載した。2003年12月16日には事前の契約条項により年俸25%減(5,000万円減)となる年俸1億5000万円で契約を更改したが[12]、その際には「年俸ゼロ円でいいから何とか恩返しがしたい」とつぶやいていた[21]

2004年1月2日、この年から中日の監督に就任した落合博満は川崎に電話し、4月2日の開幕投手を告げる[注 5][21]。川崎は「すべてを掛けるつもりで」この突然の打診を引き受け、痛み止めの座薬・飲み薬を併用して1,274日ぶりの一軍マウンドに臨んだが[23]、開幕戦は初回こそ三者凡退に抑えたものの、その後打ち込まれて2回途中で降板したが、チームは逆転勝利したため敗戦投手は免れた。4月30日の対横浜ベイスターズ戦で再び先発するも、1死もとれずに5失点で降板し敗戦。結局、その1敗が中日移籍後の最初で最後の成績となった。2011年に監督を退任した落合は退任会見で監督時代一番印象に残った試合について3年間登板のなかった川崎を開幕投手に指名した一戦を挙げた[24]

チームの優勝が決まった翌日の10月2日に落合から戦力外通告を受けて引退を決意[23]。10月3日の対ヤクルト戦は引退試合として行われ、1回表に3者三振(古田敦也宮本慎也岩村明憲)を取る[23]。古田は三振のあと、川崎と抱擁を交わした。試合後に中日・ヤクルト両ナインから胴上げされた[20]

引退後編集

テレビ東京(2009年まで)、ニッポン放送(2011年まで)、J SPORTSフジテレビONE2010年にゲスト解説として出演)の野球解説者となった。2005年オフに東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した野村克也から投手コーチ就任を打診されたが、川崎は解説者として少し外側から野球を見たいなという気持ちがあって断ったという[25]。また、テレビ愛知のゲスト解説者として、テレビ愛知 ドラゴンズ戦中継 もっと!LIVE2011で解説を務めることもある。2013年からは千葉ロッテマリーンズの一軍ブルペンコーチに就任する[26]。9月4日から体調不良で休養した齊藤明雄に替わりにベンチ担当となり、斉藤が復帰後もベンチを担当した。2014年10月5日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された[27]2015年からはJ SPORTS解説者。

2015年以降、地元・佐伯でケーブルテレビ釣り番組に出演して地元をPR活動していた。それらの近況も含め、2018年2月3日のテレビ東京系『追跡LIVE! Sports ウォッチャー』の密着取材特集で紹介された[28]

2018年3月7日四国アイランドリーグplus香川オリーブガイナーズの投手コーチに就任することが発表された[29]。「主に公式戦に合わせてチームに合流し、指導する」と報じられた[30]。12月12日に今季の契約期間満了をもって退団することが発表された[31]

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1989 ヤクルト 23 13 4 1 0 4 4 1 -- .500 399 98.1 81 12 30 1 0 86 4 0 45 43 3.94 1.13
1990 29 26 15 4 2 12 13 0 -- .480 850 202.1 194 26 73 1 1 154 7 0 97 91 4.05 1.32
1991 28 25 15 3 1 14 9 1 -- .609 772 191.2 159 22 65 2 6 148 4 0 69 62 2.91 1.17
1993 27 20 5 1 0 10 9 0 -- .526 582 139.2 120 13 61 1 0 108 4 0 55 54 3.48 1.30
1994 20 18 4 0 0 6 9 0 -- .400 514 114.2 117 10 52 1 5 67 10 0 69 61 4.79 1.47
1995 7 5 0 0 0 3 0 0 -- 1.000 124 29.2 28 3 8 1 2 19 0 0 9 6 1.82 1.21
1996 5 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 41 9.1 12 2 2 0 1 2 0 0 4 4 3.86 1.50
1997 22 19 4 1 1 7 5 0 -- .583 496 116.0 118 20 46 2 3 48 8 0 61 54 4.19 1.41
1998 29 28 9 3 2 17 10 0 -- .630 845 204.1 195 22 55 4 3 94 4 0 79 69 3.04 1.22
1999 24 24 6 2 0 7 11 0 -- .389 705 166.0 188 17 41 4 7 79 6 0 71 71 3.85 1.38
2000 20 20 2 0 0 8 10 0 -- .444 576 137.0 136 11 39 3 5 66 2 0 58 54 3.55 1.28
2004 中日 3 3 0 0 0 0 1 0 -- .000 18 2.1 8 0 3 0 1 3 0 0 9 9 34.71 4.71
通算:12年 237 202 64 15 6 88 81 2 -- .521 5922 1411.1 1356 158 475 20 34 874 49 0 626 578 3.69 1.30
  • 各年度の太字はリーグ最高。

タイトル編集

表彰編集

記録編集

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1998年7月14日、対阪神タイガース13回戦(明治神宮野球場)、1回表2死目に桧山進次郎を一塁ゴロ併殺で達成 ※史上277人目
その他の記録

背番号編集

  • 17 (1989年 - 2000年)
  • 20 (2001年 - 2004年)
  • 84 (2013年 - 2014年)
  • 81 (2018年)

その他編集

関連情報編集

著書編集

単著編集

監修編集

関連書籍編集

  • 『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』(美山和也・加藤慶・田口元義共著、宝島SUGOI文庫、2012年5月、ISBN 9784796697262

出演番組編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 入団当初は3年契約と発表されていたが、実質的には4年目の契約について川崎にオプション契約の選択権がある契約だった[12]。なお出来高の権利は2003年オフの契約更改で本人が放棄している[12]
  2. ^ 1997年 - 1999年の中日は巨人戦で3年連続で勝ち越しを記録していたが、2000年は本拠地ナゴヤドームで2勝12敗と大幅に負け越した[1]
  3. ^ 1999年オフにそれまで背番号20を着用していた宣が引退しており、2000年シーズンは1年間空き番号となっていた。
  4. ^ 2001年5月12日にナゴヤ球場で開かれた対サーパス神戸オリックス・ブルーウェーブの二軍)6回戦にて先発登板したが、2回を投げ7打数2被安打で2番手投手・中里篤史に交代し降板した[15]
  5. ^ 後に落合は「投手コーチに話をせずに(川崎を)開幕投手を決めたのは、あの一度きりだ」と語っている。落合は川崎の開幕起用理由について「補強なしの全選手横一線のチームに刺激を与えることと、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめること」と後に語っている[22]

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h 中日ドラゴンズ 2001, p. 18.
  2. ^ 中日ドラゴンズ 2001, p. 20.
  3. ^ 『朝日新聞』1988年12月4日付朝刊 (14版、27面)
  4. ^ 焼肉は1回10万円以上。川崎憲次郎が明かす「プロ野球とお金」の話
  5. ^ 川崎は、1989年に吉村が大怪我から復帰した初打席にも投球し、内野ゴロに打ち取っている。
  6. ^ 『朝日新聞』1993年11月2日付朝刊 (14版、25面)
  7. ^ 早世のマドンナたち② 可愛かずみ(3)」『アサ芸+』、徳間書店、2012年7月9日、2013年6月28日閲覧。
  8. ^ a b c ホームラン 2001, p. 47.
  9. ^ 『朝日新聞』2000年12月3日付朝刊 (14版、19面)
  10. ^ a b c d 桃園書房 2006, p. 81.
  11. ^ ベースボール・マガジン社 2001, p. 37.
  12. ^ a b c 島田明「川崎、「捨て身ではい上がる!!」 25%減の1億5000万円でサイン、出来高放棄」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年12月17日。2020年2月4日閲覧。, オリジナルの2004年12月10日時点におけるアーカイブ。
  13. ^ 青山卓司「川崎、「どんな条件でも判」 勝負の4年目 「投げられるだけで幸せ」」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年11月28日。2020年2月4日閲覧。, オリジナルの2004年12月9日時点におけるアーカイブ。
  14. ^ ベースボール・マガジン社 2001, pp. 40-41.
  15. ^ ベースボール・マガジン社 2001, p. 743.
  16. ^ 『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2002』第26巻第3号(通算264号)、手塚宣武、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2002年3月号増刊〉、2002年3月31日、97頁。
  17. ^ ベースボール・マガジン社 2001, pp. 16-17.
  18. ^ 『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2003』第27巻第3号(通算270号)、手塚宣武、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2003年3月号増刊〉、2003年3月29日、65頁。
  19. ^ 『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2004』第28巻第3号(通算278号)、手塚宣武、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2004年3月号増刊〉、2004年3月29日、49頁。
  20. ^ a b 月刊ドラゴンズ & 2004-11, p. 13.
  21. ^ a b 月刊ドラゴンズ & 2004-11, pp. 13-14.
  22. ^ 森繁和著、参謀―落合監督を支えた右腕の「見守る力」講談社、2012年、P54-P55,P58
  23. ^ a b c 月刊ドラゴンズ & 2004-11, p. 14.
  24. ^ 中日・落合前監督、一番印象に残ったのは川崎の開幕投手 - 2011年11月22日[リンク切れ]
  25. ^ [虎四ミーティング]川崎憲次郎(プロ野球解説者)<後編>「“怖さ”の松井と“嫌らしさ”の川相」 - 2012年3月23日
  26. ^ 川崎憲次郎氏 一軍ブルペンコーチ就任のお知らせ - 2012年10月31日
  27. ^ コーチとの来季契約についてロッテ球団公式サイト2014年10月5日配信
  28. ^ a b SPORTS ウォッチャー プロ野球キャンプ 中畑清が舞台裏潜入取材!(他) 2018/02/03(土)23:00放送 テレビ東京 TVでた蔵
  29. ^ 香川OG 新コーチ就任のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2018年3月7日)
  30. ^ “香川OG 投手コーチに川崎氏(元ヤクルト)元広島、天野氏(高松市出身)も”. 四国新聞. (2018年3月8日). https://www.shikoku-np.co.jp/sports/iblj/20180308000146 2018年3月9日閲覧。 
  31. ^ 香川OG 川崎憲次郎投手コーチ退団のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2018年12月12日)
  32. ^ テレビ愛知。関東地方の試合を中心として不定期出演だが、年に1度だけ、ナゴヤドーム主催試合で行われる「ゆかたデー」開催日に担当する事が多い(川崎自身も浴衣姿で解説を務めたことがある)。
  33. ^ 2005年 - 2011年。基本的にセ・パ問わず裏送り中継での出演が中心で、本番を担当するのは年に数試合と非常に少なかった。2011年のシーズンは裏送り・予備のみで本番カードの出演はなかった。中日OBであることから、東海ラジオ ガッツナイターの裏送り制作時は解説者として出演することが多く、テレビ愛知のゲスト解説者でもあることから、テレビ愛知が関東の試合などを中継した翌日などに出演することもある。
  34. ^ saiki.tvの投稿(1587879841332484) - Facebook

参考文献編集

  • 『中日ドラゴンズ 2001ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、2001年3月9日、64頁。ISBN 978-4806204251
  • 『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2001』第25巻第2号(通算258号)、手塚宣武、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2001年3月号増刊〉、2001年3月31日、47頁。
  • 『ベースボール・レコード・ブック 2002』ベースボール・マガジン社編集、ベースボール・マガジン社(発行人:池田哲雄)〈日本プロ野球記録年鑑〉、2001年12月25日、第1版第1刷発行、16-17,37,40-41,743。ISBN 978-4583036779
  • 文・寺西雅広「古巣相手ラストマウンド 川崎万感」『月刊ドラゴンズ』通巻第259号2004年11月号、中日新聞社、2004年11月1日、 12-15頁。
  • 佐々木だんきち「実録・川崎憲次郎物語~ドラゴンズ風雲編~」『中日力-なぜ中日は強いのか!?』桃園書房〈TOEN MOOK〉、2006年10月15日、80-84頁。ISBN 978-4807842698

関連項目編集

外部リンク編集