権藤博
権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(投手、内野手)・監督、野球指導者、野球評論家。
![]() 中日一軍投手コーチ時代 (2012年8月28日、こまちスタジアム) | |
基本情報 | |
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国籍 |
![]() |
出身地 | 佐賀県鳥栖市 |
生年月日 | 1938年12月2日(82歳) |
身長 体重 |
177 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手、三塁手、遊撃手 |
プロ入り | 1961年 |
初出場 | 1961年4月9日 |
最終出場 | 1968年9月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2019年 |
得票率 | 76.7%(133票中102票) |
選出方法 | 競技者表彰(エキスパート部門) |
この表について
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経歴編集
プロ入り前編集
鳥栖高校では内野手であったが、投手不在となり投手に転向。1956年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが佐賀商に惜敗。甲子園には行けなかったもののその活躍からプロ野球の西鉄ライオンズにスカウトされたが、その後に受けた社会人野球のブリヂストンタイヤのテストに合格したことでプロのスカウトを断って入社[1]、同社の久留米工場野球部でプレーしていた。もとより身体能力は抜群で、他分野からも高い評価を受けていた。織田幹雄が「何とかコイツを1964年東京オリンピックに出せないものか。出れば金メダルは確実」とため息をついたという[2]。東京オリンピックに向けて陸上競技400mハードルの選手に転向してほしいという要請があったという逸話がある[3]。
1960年の都市対抗に日鉄二瀬の補強選手として出場し、2試合で好投[4]。日鉄二瀬の監督を退任した濃人渉が中日二軍監督となり、濃人の働きかけで中日が獲得に動き[3][5][6]、他にもいくつもの球団からスカウトされたが、最終的に「契約金はどの球団よりも高くする」と言われた読売ジャイアンツの誘いを断り、1961年に中日ドラゴンズに入団[3][7]。
現役時代編集
杉下茂の後の背番号20を受け継ぐ。同年のオープン戦で28.1回を投げて自責点1(防御率0.31)の成績を残すと、一軍監督となっていた濃人から「今年はおまえを軸にしていく」と言い渡された[5]。1年目よりエースとして活躍し、同年はチーム試合数130の半分以上にあたる69試合に登板、そのうち先発登板は44試合。35勝19敗、投球回数429.1回、奪三振310、防御率1.70を記録。沢村賞、新人王を受賞した[8]。長嶋茂雄には相性が悪く、奪三振無し、打率.448と打ち込まれた[9]。
連投に連投を重ねる権藤を指した「権藤、権藤、雨、権藤(雨、雨、権藤、雨、権藤と続く)」という流行語も生まれた[3][10]。この言葉が生まれたきっかけは、当時巨人の投手であった堀本律雄が「中日の投手は権藤しかおらんのか、つぶれてしまうぞ。権藤、雨、旅行(移動日)、権藤、雨、権藤や」と記者に語ったことからだという[5]。1961年(昭和36年)7月4日からは「雨・完封・雨・移動日・完投・雨・移動日・先発(5回を投げる)・雨・雨・移動日・先発(5回を投げる)」という、このフレーズに近い12日間だったということもあった[11]。
翌1962年(昭和37年)、61試合に登板(先発登板39)、30勝17敗、投球回数362.1回、奪三振212、防御率2.33の成績を残し、2年連続最多勝に輝いた[12]。
過酷な登板に加え、当時の誤ったトレーニング・リハビリテーション方法(投球直後に肩を温めていた)により肩を痛め、3年目の1963年(昭和38年)からは球威も落ちて10勝しか挙げられず、1964年(昭和39年)は6勝と調子を落とした。
1965年(昭和40年)の開幕を控えたころ、監督の西沢道夫から野手転向の話を受けた[13]。しかし当時の権藤は1年目の成功体験が邪魔して周囲のアドバイスも素直に受け入れられなかったという[13]。西沢から強いリストを生かした打撃の可能性を評価し野手転向の勧めに従った[13]。内野手に転向し、同年は伊藤竜彦らと三塁手のレギュラーを争い81試合に出場。1966年には開幕から二番打者、遊撃手として起用されるが、打撃の低迷が続く。1967年にはには主に三塁手として80試合に先発出場し、セ・リーグ最多犠打を記録した。ようやく打撃の何たるかをつかみかけたと感じたがこの3年間で西沢の期待に答えたというほどの結果は残せなかったという[13]。
1968年キャンプイン直前に西沢が辞任、一方で徳武定之の移籍入団も決定した。杉下茂が監督に就任し、権藤の内野手としてのスローイングを見て、投手陣が弱体化していたこともあり「やっぱりお前はピッチャーだろう。もう一回やってみないか」とブルペンで投手練習を再開した[13]。投手として投げ始めた途端おとなしかった右肩の痛みが訴え始める[13]。4月27日の広島戦の勝利投手になったもののこれが最後の白星になった[13]。1969年キャンプ終盤2軍メンバーと共に名古屋に帰るように通達され、プロ入り9年目で初この時点で引退を決意した[13]。投手時代の酷使体験は本人のみならず球界にも波及し、現役時代に投手コーチを務めていた近藤貞雄は「投手分業制」を発案するなど、後の日本プロ野球に大きな影響を与えた。権藤自身は後に連投に次ぐ連投だった新人時代を振り返り「あの頃、もう一人の僕が居たような気がして、自分でもすごいと思った」と話している[11]。現役時代バッテリーを組んだ木俣達彦は著書の中で「しなやかで弾力的な足腰を使ったフォームで、おそらく150キロを超える直球を投げていた」と記している[14]。その浮き上がるような速球は、かつて沢村栄治と対戦した松木謙治郎から「一番沢村に近い」と評されている[15]。
現役引退後編集
引退後、球団からは1軍マネージャーの地位を提示されるが固辞[16]。中日退団後声をかけてくれたのは地元の東海ラジオでのプロ野球の解説で、報酬は1試合ごとの歩合制であったため(蓄えがなかったわけではないが)経済的に最も苦しい時期だったという[17]。野球解説の仕事は月2・3度で時間があった為知人とゴルフに出かけ月の半分はコースに出るようになった[17]。「権藤はプロゴルファーになるのか」と言われたこともあったが本人にはそんな気持ちはなかったという[17]。そんな状況をみかねたダンロップスポーツ中部の経営者だった相羽義朗に「フラフラと遊んでばかりいたらいかん」と説教され「野球解説の仕事しながらでいい。私の会社で働きなさい」と救いの手を差し伸べられ、ブリヂストン以来2度目のサラリーマン生活が始まった[17]。権藤はこのことについて「名古屋市内にある会社で伝票を書き、デパートなどでは棚卸し作業を行い、野球解説の日は午後から球場に出向いた[17]。知らぬ間に道を踏み外そうとしていた私を軌道修正してくれた相羽社長は野球をまっとうさせてくれた大恩人だ」と述べている[17]。監督の与那嶺要に招かれ[17]1973年から1980年まで中日二軍投手コーチ、1981年から1983年まで中日一軍投手コーチを務め、1974年及び1982年のリーグ優勝に貢献。郭源治、都裕次郎らを育成した[18]。
1984年から1987年までフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ野球解説者、中日スポーツ野球評論家を経て、1988年から近鉄バファローズ一軍投手コーチを務め、くすぶっていた山崎慎太郎を先発ローテーションに入れ、加藤哲郎を再生し、吉井理人をストッパーに抜擢した[19]。近鉄コーチ1年目は前年リーグ最下位だったチーム防御率(4.22)がリーグ2位の3.23になった。翌1989年もチーム防御率2位を記録しリーグ優勝に貢献したが、監督の仰木彬と折り合いが悪く、違約金1300万円を支払って同年限りで辞任した[20][21]。
1990年は東海テレビ野球解説者・日刊スポーツで野球評論家し、同年オフ福岡ダイエーホークスと古巣中日から投手コーチの打診が来た、同年夏にダイエーから要請があったのとフロント入りしてた杉浦忠には南海監督時代にコーチとして誘われながら、先約の近鉄を優先した為、生活の拠点を置く名古屋のチームだが、先に声をかけたダイエーを選択した[22]。1991年から1993年までダイエー一軍投手コーチを務め、チーム防御率を5.56から4.22にまで改善させたが、それでもチーム防御率リーグ最下位から抜け出すことはできなかった[23][24][25]。村田勝喜、本原正治を指導し、池田親興を抑えで起用した[26]。1994年から1996年までフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ野球解説者、中日スポーツ野球評論家を務めた。
1997年に横浜ベイスターズの一軍バッテリーチーフコーチを務め、投手陣を整備し、チーム防御率は前年最下位だった4.67から3.70に改善し、チームの2位躍進に貢献。1998年に横浜一軍監督に昇格[27]し、1年目にチームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。その後2000年まで監督を務め、いずれもチームはAクラス入りを果たした。
横浜監督退任後は、東海テレビ(2009年から2011年まで)・東海ラジオ(2001年から2011年まで)・スポーツ報知(2001年から2008年まで)の野球評論家として活動していた。この期間、巨人[28]やその他の球団からコーチの誘いが公式、非公式含めてあったという[29]。
現役時代の同僚でもある高木守道が中日ドラゴンズの監督に復帰した2012年には、同球団の一軍投手コーチに再び就任[30][31][32]。日本プロ野球球団の現役監督・コーチでは最高齢となる73歳で、12年振りに現場への復帰を果たした。投手コーチという肩書ではあったが、ヘッドコーチ格として髙木監督を支えた。
復帰後は、新人・若手投手の積極的な起用やそれまで先発要員だった山井大介の救援(セットアッパー→クローザー)転向などを通じて、チームのセントラル・リーグ2位と6年連続クライマックス・セ進出に貢献。しかしシーズン終盤にエースの吉見一起が故障で今季絶望となり、中田賢一、エンジェルベルト・ソトも登板不可能となる。残る先発投手はシーズン10勝の山内壮馬を除けば4勝の大野雄大、3勝の川上憲伸、山本昌、1勝の伊藤準規という状況であったが、ファイナルステージ第1戦から第3戦まで巨人に3連勝。しかしその後は3連敗で敗退。その直後となる10月24日に、退団が発表された[33][34]。
2013年からは、東海テレビ・東海ラジオの野球解説者へ復帰するとともに、日刊スポーツの野球評論家としても活動。
2016年1月28日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs 台湾」の日本代表投手コーチを務めることが発表された[35]。
2017年度WBCでも日本代表の投手コーチを務めた。
指導者として編集
アメリカ・フロリダ教育リーグでのコーチ修業時代の経験から、選手を大人扱いする「Don't over teach(教え過ぎない・口を出し過ぎない)」という主義をコーチ・監督業を通して貫いている。権藤自身はこの指導スタイルを「奔放主義」と名付けている[36]。選手の感性と自主性を尊重しながらチームを勝利に導く手腕は当時の各メディアでも話題となり[37]、球界内でも評価が高い。
「今の野球は抑えで8割が決まる」「抑え投手は打者の4番に該当する。先発3本柱より格上」などと言った持論を呈している。
現場復活への道を開いてくれた相羽社長と与那嶺の2人を恩人として挙げている[17]。
投手コーチとして編集
「投球フォームはその投手の主張」が持論で、投手のフォームにはほとんど口を出さなかった。コーチとしてフォーム矯正を施したのは都裕次郎だけだという[38]。
近鉄コーチ時代に指導を受けた加藤哲郎は「当時、投手陣はみんな権藤さんの事は慕っていました。僕の野球人生の中で恩師と呼べる人がいたら、それは唯一、権藤さんですね。現役時代、登板過多で肩を壊した経験があるので、ピッチャーの立場になって考えてくれる人でした」と述べている[39]。
同じく近鉄コーチ時代に指導を受けた吉井理人は、最も影響を受けた尊敬するコーチとして権藤の名を挙げ[40]「それまではベンチの首脳陣の目を気にしながら投げていたんですが、(権藤さんから)「打たれた時は俺のせいやから」と日々言われていました。マウンドに勇気を持って投げられたのはこの時からです」と述べている[41]。
中日の投手だった平沼定晴は「プロに入って最初に出会った権藤博さんのインパクトは凄かったですね。投手コーチなのに監督みたい。しばらく最初は、顔を合わせるだけで体調が悪くなっちゃう。でも、育つためのやりやすさを作ってくださった」と述べている[42]。
カウント2ストライク0ボールから明らかなボール球で外すことについて「投手が有利なのに何故わざわざ外すのか」と、3球勝負をしないバッテリーが多いことに苦言を呈している[43]。
- 監督との対立
コーチとしては直言居士で、たとえ上司(監督)であっても間違いだと思う言動には徹底して異論を唱えるタイプであり、近鉄コーチ時代には仰木彬と、ダイエーコーチ時代には田淵幸一と[44][注 1]、中日コーチ時代には高木守道との不仲説も噂され、特に高木監督との対立はメディアでたびたび取り上げられた(後述)。
近鉄コーチ時、権藤は投手の育成・心理体調の面から、戦略として頻繁に中継ぎなどをした仰木の投手起用に異議を訴えていた[45]。一方の仰木は自著において「コーチは監督ではなく投手の利益代表でもない」ということから権藤の姿勢を「コーチという職分、位置をわきまえていなかった」と批判している[46]。
中日コーチ時(2012年)には高木監督(当時)と投手起用などで持論をぶつけ合い、また当時の高木は報道陣の前やチーム内部で自軍の選手を名指しで批判・叱咤することが多かったため「マスコミの前で選手の悪口を言わないでほしい。選手は一番こたえるものです」[47]「打たれた・打てないはコーチの責任。勝った負けたは監督の責任」と諭したこともあった[48]。著書の中でも「プロ野球界に長く携わってきた私はコーチ時代に最悪の怒り方が分かった。人前で怒るのは最悪の怒り方。人前で怒られて嬉しい人はいないだろう。本人にとっては人前で怒られるのは恥以外の何事でもないからその事によってプライドは大きく傷つく。」と記している[49]。その一方で、退任の際に「高木監督に対するわだかまりはない」と発言している[50]。
- 江夏豊は「名監督は数多くいても、名コーチは少ない。その中で打つほうの名コーチは中西太さん、投げるほうの名コーチは権藤さん」と語っている[51]。また、江夏は2012年のクライマックスシリーズでは巨人との対戦では継投策を絶賛し、退団を惜しんでいる[52]。豊田泰光も権藤と高木の対立を「お互いの職務を全うしようとしたが故のバトルだった。こういうエネルギーのはらむチームを相手にするのはかえって嫌なもの」と評価しており、権藤の退団を惜しんだ[53]。
- この中日退団に際して、1989年の近鉄退団のときと重ね合わせる見方、なかでも、2012年のクライマックスシリーズと1989年の日本シリーズのいずれも投手起用をめぐる監督との対立で退団への方向が決定的となったと見られることがある[54][55]。
監督として編集
大洋、横浜、DeNAの歴代監督の中で唯一監督就任中に全てAクラスでシーズンを終えた監督である。
横浜監督時代は「オレの事を『監督』と呼ぶな!」というユニークな方針を打ち出し、自らを「権藤さん」と呼ぶように指示していた[56]。これは監督を退いた後を見据えていたのと、肩書きを捨てることで選手との垣根をなくすことも目的だった。このルールは選手・スタッフ一同だけでなく、取材陣も対象とされ、違反した場合は罰金1,000円を支払うという名目になっていた。実際に谷繁元信は権藤に「監督!」と呼び掛け、権藤が聞こえていないフリをし、それに気付かず再び「監督!」と呼んだところで権藤に「ハイお前、罰金2,000円な!」と言われ唖然とした、と語っている。
夜間練習の強制はせず、各選手の自主性に任せた[57]。また選手全員を集めるミーティングは基本的に行わず、実施しても「皆さんはプロですからプロらしくやってください」など簡単な一言ですぐ退出することが多かった。その代わりグラウンド等で個別にコミュニケーションを取ったという。
監督の就任して間もない時期にコーチ陣に「選手に練習をしやすい環境を整えてしっかりと練習を観察してほしい。ただし、選手がアドバイスを求めてくるまで技術的な指導はしなくていい」と述べており[58]、これに対し山下大輔は「プロになる選手は当然ながらそれなりの素質を備えています。まして1軍の選手ともなれば、技術だけではなく野球になる考えもしっかり持っています。もちろん、プロになって間もなかったり不調で悩んだりしている選手からアドバイスを求められたら、適切に指導する必要があります。でも、そうではない選手にコーチが『ああでもない、こうでもない』と声を掛けると、かえって混乱を招きかねません。権藤さんが徹底した『何もしない』という考えは、選手一人一人を最大限を認め尊重することだったと思います。つまり、何もしないことによって選手の自主性を引き出したのです。当時のベイスターズには個性的な野手や投手が多く、選手同士で刺激しあい切磋琢磨していました。決して仲が良いわけではないけれどチームが同じ方向を向いて一つにまとまっていたんです。リーグ優勝・日本シリーズ制覇を果たすことが出来たのも、言葉ではなく態度で個々の選手を尊重し自主性を促した権藤さんの考えによるところが大きかったと思います」[58]と述べている。
権藤が監督を務めている間、大活躍を見せたロバート・ローズに「最高のボス」と慕われている。ローズは毎年のように自分に取って代わる外国人を獲得したり、年俸を渋ったりする横浜フロントにわだかまりを持ち、引退も考えていた。1999年の夏頃、権藤は球団の通訳ではなく英語を話せる自分の娘のみを同伴させて1対1でローズと腹の割った話をした。結果「権藤が監督でいる間は引退を考えないようにするよ」と権藤に全幅の信頼を置き、大活躍の下地を作った。
座右の銘は「Kill or be Killed(殺るか、殺られるか)」。横浜監督時代、開幕ベンチ入り投手全員にこの一文を入れたサインボールを渡したという。
ダッグアウトで采配を取る時、ベンチに座らず立ち上がったまま、顎もしくは頬に掌を当てる姿がしばしば中継カメラに映された。このスタイルは権藤のトレードマークとなり、当時のスポーツ新聞や週刊誌の風刺漫画ではよくネタにされていた。コーチ時代も同じポーズを取ることが多い。
1998年の日本シリーズでは相手の西武の監督が以前から親交のある東尾修だったため、シリーズ直前にマスコミ公開での食事会を行っている。そこで非公式とはいえ、予告先発を約束した。グラウンド外での腹の探りあいや舌戦、駆け引きを排除し、選手同士の力と技の勝負を堪能してもらいたいという意味合いであった。シリーズ終了後、『Sports Graphic Number』で東尾と対談を行っている。シリーズ終了後から数週間後に監督同士が対談するのは非常に稀である。
- 采配の特徴
「(自分は)8割はピッチングコーチ」と公言し、試合でもベンチから配球のサインを出したり、自らマウンドへ出向き投手への指示や投手交代を行っていた[59]。一方、野手に対してはヘッドコーチの山下大輔や打撃コーチの高木由一に一任し、打者・走者へのサインも最小限にし、選手の判断に任せていた[60][61]。山下は権藤に「攻撃では迷ったら、下手に動かず何もしないことですよ」とアドバイスし「その言葉をうのみしたわけではないしょうが、何もしないことを徹底してサインはほぼ出さなかった」[58]「(1998年は)一度もバントのサインを出していない。あの年はエンドランのサインも一度も出していない」[62]と語っている。しかしあまりにもサインが出ないため、最下位に沈んでいた2000年の前半には選手が主導して開かれたミーティングで、もう少し攻撃面の戦術も考えてサインを出すよう求められたという。
自身の現役時代の体験から「投手の肩は消耗品」が持論である。横浜の監督となった1998年には抑え投手の佐々木主浩を不動の中心とし、リリーフ投手にも『中継ぎローテーション』を確立し[63]、連投による酷使を極力避けさせた。谷繁は「基本的に3連投はさせていないと思います。2日投げたら、翌日は絶対に休み。チームを“ブラック企業”にさせなかったんです。しかも、勝ちゲームで使える中継ぎを二手に分けていた。右なら五十嵐英樹、島田直也がいて、左は阿波野秀幸さん、森中聖雄など。そこでローテーションを組みながら、同じ日に五十嵐と島田を行かせないようにしていました。そうして万全の備えをした上で、先発が7回まで行ってくれれば楽なゲーム展開になります。極端にいえば、8回に3人でも突っ込めるわけですから。権藤さんは監督時代に「俺はピッチングコーチだ」と言っていましたし、投手陣のやりくりはさすがというしかありません」と述懐している[64]。ただしダイエーコーチ時代の下柳剛に関してだけは例外扱いし、制球力をつけさせるため毎日のように練習や試合で登板させた。これは当時監督だった根本陸夫が下柳自身の体の強さや社会人時代から行っていた練習の質・量を把握しており、根本から「アイツは壊れん」と諭されたことによるものである[65]。
「送りバントというのは、わざわざ敵にアウトを献上するという世にも馬鹿馬鹿しい作戦だ」「監督としては一貫して犠打の必要性を否定してきた」などと述べており、実際にも限られた場面でしか送りバントを用いなかった。このため横浜監督在任時のチーム犠打数は3年間ともリーグ最少である[66]。いわゆるマネー・ボール理論で語られるものと類似しており「投手の肩は消耗品」「中継ぎローテーション」という持論などからもメジャーリーグでみられる思想と通じるものがある[66]。ただし終盤1点を争うような展開での送りバントまでは否定しておらず[67]、チームが優勝争いの輪に加わっているシーズン終盤からは監督は勝利のためなら何をやってもいいという考えも持っていた。
「審判は絶対」「抗議しても覆らない」という持論を遵守し、判定にほとんど異議を唱えることはなかった。岡田功によると、ある日の試合で、ストライク・ボールの判定で揉めて選手に押されて抗議には向かったが、審判の前に立つなり「選手の手前、黙ってるわけにはいかんから、世間話していいかな? ちょっと時間くれな」というなり世間話をはじめ「ありがとう」といってベンチに戻っていったという[68]。また1998年8月7日の広島戦では、鈴木尚典が打ったホームラン制の辺りを二塁打と判定され、権藤はベンチから出るも審判に一言確認しただけでベンチに下がっていった。これには選手たちから「いつも戦えと言ってるのに自分は戦わないのか?」と不信感を持たれ、権藤は翌日に「みんなに戦えと言ってきた。そう言っていながら俺は昨夜審判と戦っていなかった。すまん、今後気をつける」と謝った。その言葉通り、翌日の試合で波留敏夫が守備妨害をとられた際、ベンチを飛び出し声を荒げながら5分間にわたって猛抗議をした。
ただし、これらの権藤の方針は就任2年目以降チーム内で軋轢を生み始め、特に野手陣はほぼ全てコーチ任せにしていたこともあってか上手く意思疎通ができていなかったとされる[69]。その象徴的な出来事として、就任3年目の2000年6月18日の対広島12回戦で、相手の右投手ネイサン・ミンチーに対し、左打者の駒田徳広に代えて右打者の中根仁を代打に送ったことで、プライドを傷つけられた駒田が激怒し試合中にもかかわらず無断で帰宅するという造反事件が起きた[69]。この出来事の以前から駒田は権藤の指揮官としての指針に不満を蓄積していたのもこの造反の理由の1つとされている(駒田徳広の項目も参照)。なお駒田はこのシーズン終了後に現役を引退。一方の権藤も、当時球団社長の大堀隆とは兄弟のように蜜月だったが、他のフロント陣や石井琢朗ら一部主力選手との対立も相俟って同年限りで契約満了による退任を余儀なくされた。これについて駒田は「権藤さんは一部の可愛がっている選手とばかりつるんでおり、これに危機感を抱いた選手会長の石井琢朗らに促されたのもあって自分がチームの現状や権藤さんの方針に苦言を呈したところ、その後は口もきいてもらえなくなった」といった旨を語っている[70]。また「無断帰宅」と言うのも誤りで「権藤の駒田への扱いに同情した山下大輔ヘッドコーチが帰宅を勧めてくれたので帰った」と語っている[70]。
- 野村克也との対立
監督としての権藤は「何よりも野球は選手がやるもの。監督は、選手個々の考え方や才能を自由に発揮できる環境を作るだけ」という哲学を貫いた。リーグ優勝を果たして胴上げ直後の勝利監督インタビューも一言二言だけで終わらせ、その後の個別インタビューも「主役は選手だから」と出演を断るなど、ファンや取材陣の前で選手より目立つような言動も控えていた。これに対し、同時期にヤクルト・阪神の監督であり「野球は監督の采配如何で勝敗が決する」「監督というのは、広報も兼ねている」[71]という持論を展開する野村克也は、権藤の采配スタイルやマシンガン打線を「勝って無礼(勝手無礼)な行儀の悪い野球」と評し、権藤や横浜選手の人格に至るような部分まで公然と批判を展開した[56]。1998年、優勝マジック3の横浜は10月3日 - 10月6日と地元・横浜スタジアムでヤクルトとの4連戦を迎えた。この連戦以前の横浜は上記の因縁から権藤が「ID野球なんてクソくらえ」と選手にハッパをかけていたこともあり、ヤクルト戦では特に闘志をむき出しにして戦い、大きく勝ち越していた。地元胴上げの期待は最高潮に達していたが、野村は「1年目の権藤に簡単に優勝させるわけにはいかない」と闘争心を露にし、当時好調だった川崎憲次郎、石井一久、伊藤智仁らをぶつけて3連勝し、自身の目の前での胴上げだけは阻止した[43]。
野村は自著で、権藤を「典型的な投手タイプの性格」「監督になってからも豪快な野球を好み」「酒豪だった」ことなどから「私とはすべてに対照的な野球人である」と評している[72]。
一方で、野村が楽天監督に就任した際、『週刊ポスト』の『危険球座談会』で、江本孟紀と東尾修が野村の監督就任に否定的な意見を述べたのに対し権藤は「楽天の選手は野球を知らなすぎる。この際に野村さんからきちんと野球を教わったほうが良い」と述べ、2020年に野村が逝去した際には「野村さんのすごさは人材を見極める眼力。人のやらないことをやるアイデアマン、すごい野球人」などと語り、野村の監督的手腕については高く評価している[73]。
人物編集
同じ九州出身の大投手・稲尾和久を尊敬しており、投球フォームから普段の歩き方まで稲尾を模写するという私淑ぶりだった[3][72]。
ラグビーに造詣が深く、親交のある森重隆とテレビで対談した時には該博な知識を見せた。
ゴルフが趣味である。現役引退後に一時期ゴルフ関係の仕事に就いたことがある。プロゴルファーへの誘いもあったが断った[74]。飛ばし屋で72歳にしてヘッドスピード48m/sを記録した[75]。
詳細情報編集
年度別投手成績編集
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961 | 中日 | 69 | 44 | 32 | 12 | 8 | 35 | 19 | -- | -- | .648 | 1645 | 429.1 | 321 | 20 | 70 | 8 | 3 | 310 | 3 | 1 | 97 | 81 | 1.70 | 0.91 |
1962 | 61 | 39 | 23 | 6 | 3 | 30 | 17 | -- | -- | .638 | 1421 | 362.1 | 307 | 26 | 69 | 2 | 3 | 212 | 5 | 0 | 108 | 94 | 2.33 | 1.04 | |
1963 | 45 | 31 | 9 | 0 | 1 | 10 | 12 | -- | -- | .455 | 922 | 220.2 | 205 | 29 | 79 | 2 | 4 | 88 | 1 | 1 | 105 | 94 | 3.83 | 1.29 | |
1964 | 26 | 16 | 3 | 0 | 1 | 6 | 11 | -- | -- | .353 | 458 | 105.1 | 105 | 12 | 45 | 1 | 3 | 47 | 4 | 0 | 53 | 49 | 4.19 | 1.42 | |
1968 | 9 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 95 | 18.1 | 32 | 5 | 11 | 0 | 2 | 10 | 0 | 0 | 23 | 22 | 10.80 | 2.35 | |
通算:5年 | 210 | 131 | 67 | 18 | 13 | 82 | 60 | -- | -- | .577 | 4541 | 1136.0 | 970 | 92 | 274 | 13 | 15 | 667 | 13 | 2 | 386 | 340 | 2.69 | 1.10 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別打撃成績編集
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961 | 中日 | 70 | 163 | 144 | 18 | 31 | 7 | 0 | 1 | 41 | 8 | 1 | 0 | 13 | 0 | 6 | 0 | 0 | 24 | 4 | .215 | .247 | .285 | .531 |
1962 | 61 | 130 | 117 | 10 | 25 | 5 | 0 | 4 | 42 | 13 | 0 | 0 | 8 | 1 | 4 | 0 | 0 | 19 | 3 | .214 | .238 | .359 | .597 | |
1963 | 49 | 83 | 76 | 8 | 18 | 5 | 0 | 3 | 32 | 8 | 0 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | 0 | 12 | 2 | .237 | .275 | .421 | .696 | |
1964 | 29 | 39 | 38 | 3 | 7 | 2 | 0 | 1 | 12 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 1 | .184 | .205 | .316 | .521 | |
1965 | 81 | 212 | 196 | 28 | 39 | 11 | 0 | 3 | 59 | 18 | 3 | 3 | 2 | 0 | 14 | 0 | 0 | 24 | 3 | .199 | .252 | .301 | .553 | |
1966 | 74 | 198 | 179 | 17 | 32 | 7 | 1 | 1 | 44 | 7 | 2 | 5 | 4 | 1 | 12 | 0 | 2 | 28 | 0 | .179 | .237 | .246 | .483 | |
1967 | 107 | 331 | 288 | 34 | 62 | 8 | 3 | 5 | 91 | 27 | 6 | 6 | 26 | 4 | 11 | 0 | 2 | 50 | 3 | .215 | .246 | .316 | .562 | |
1968 | 12 | 3 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:8年 | 483 | 1159 | 1041 | 119 | 214 | 45 | 4 | 18 | 321 | 85 | 12 | 14 | 56 | 6 | 52 | 0 | 4 | 163 | 17 | .206 | .245 | .308 | .553 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績編集
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998年 | 横浜 | 1位 | 136 | 79 | 56 | 1 | .585 | - | 100 | .277 | 3.49 | 60歳 |
1999年 | 3位 | 135 | 71 | 64 | 0 | .526 | 10.0 | 140 | .294 | 4.44 | 61歳 | |
2000年 | 3位 | 136 | 69 | 66 | 1 | .511 | 9.0 | 103 | .277 | 3.92 | 62歳 | |
通算:3年 | 407 | 219 | 186 | 2 | .541 | Aクラス3回 |
- ※1 順位の太字は日本一
- ※2 1998年から2000年までは135試合制
タイトル編集
- 最多勝利:2回 (1961年、1962年)※2年連続はセ・リーグ最長タイ記録(他は金田正一、村山実、平松政次、江川卓、遠藤一彦、斎藤雅樹、山本昌、セス・グライシンガー、内海哲也、菅野智之)
- 最優秀防御率:1回 (1961年)
- 最多奪三振:1回 (1961年)※当時はタイトルではない
表彰編集
記録編集
- 初記録
- その他の記録
- 投手三冠王:1回 (1961年)※史上10人目
- シーズン429.1投球回(1961年) ※セ・リーグ記録
- 新人記録(1961年)
- 勝利数:35
- 完封勝利数:12 ※林安夫と並ぶタイ記録
- 無四球完投試合数:8
- 奪三振数:310
- シーズン30勝以上:2年連続2度(1961年、1962年) ※2年連続はセ・リーグ記録。2度は杉下茂、金田正一と並ぶセ・リーグタイ記録。パ・リーグ、1リーグ時代を含めるとヴィクトル・スタルヒン、別所毅彦、杉浦忠と並ぶ歴代3位タイ記録。
- オールスターゲーム出場:3回 (1961年 - 1963年)
背番号編集
- 20 (1961年 - 1968年)
- 64 (1973年 - 1977年)
- 76 (1978年 - 1983年)
- 70 (1988年 - 1989年、1991年 - 1993年)
- 72 (1997年 - 2000年、2012年)
関連情報編集
著書編集
- 『教えない教え』(2010年11月17日、集英社、ISBN 978-4087205671)
- 『もっと投げたくはないか 権藤博からのメッセージ』(2014年10月7日、日刊スポーツ出版社、ISBN 978-4817203250)
- 『継投論 投手交代の極意』(2017年12月1日、廣済堂出版、ISBN 978-4331521281)- 二宮清純と共著
- 『打者が嫌がる投球論 投手が嫌がる打撃論』(2019年11月30日、廣済堂出版、ISBN 978-4331522653)- 二宮清純と共著
関連書籍編集
- 『権藤語録 プロ野球 横浜優勝への軌跡』(Group21編、1998年10月、ケイエスエス、ISBN 978-4877092924)
- 『勝つ管理 私の流儀 横浜ベイスター38年ぶりの日本一!』(永谷脩著、小学館、1999年1月、ISBN 4093795428)
- 『決断 権藤博と東尾修の1年』(永谷脩著、文藝春秋、1999年1月、ISBN 4163547606)
出演番組編集
- 『東海ラジオ ガッツナイター』
- 『BASEBALL SPECIAL〜野球道〜』(フジテレビ系列のプロ野球中継。東海テレビローカルでは「プロ野球中継」のタイトル)
- 『プロ野球ニュース』(フジテレビ系地上波時代に出演)
- 『ヒロミツのスーパードラゴンズ』(東海テレビ)
- 『プロ野球列伝〜不滅のヒーローたち〜』(テレビ愛知)
- 『談志・陳平の言いたい放だい』(TOKYO MX - 2005年5月7日、ゲスト)
- 『談志の格言』(TOKYO MX - 2009年4月26日、ゲスト)
- 『スーパーベースボール』(メ〜テレ、2008年6月11日(水)福岡ソフトバンクホークス対中日ドラゴンズ。本数契約)
- 『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』(TOKYO FM - 2009年9月8日、9月15日、2010年4月27日、10月12日、ゲスト)
脚注編集
注釈編集
脚注編集
- ^ “権藤博氏1月に野球殿堂入り 球数制限は反対、球児の気持ち最優先に”. 西日本スポーツ. (2019年3月24日) 2020年4月5日閲覧。
- ^ 『スポーツ20世紀』ベースボール・マガジン社、2000年7月、p126
- ^ a b c d e スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球【5月30日】1961年(昭36)(Internet Archive)
- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ a b c 『ベースボールマガジン、2013年9月号 「黄金ルーキーの肖像 投手天下の時代に現れたスーパールーキー 権藤博インタビュー」』ベースボール・マガジン社、2013–9、14–17頁。
- ^ “【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(3)】勝利への執念 伝説の采配 「権藤、権藤”. 産経ニュース. (2015年8月12日) 2017年7月2日閲覧。
- ^ 『週刊文春』2010年10月14日号 新・家の履歴書 権藤 博
- ^ 年度別成績 1961年 セントラル・リーグ
- ^ 310三振の権藤博氏が一つも奪えず 長嶋茂雄の打撃技術語る
- ^ “【レジェンドたちの証言】「権藤、権藤、雨、権藤…」1日に2勝 権藤博氏 1961年10月8日、新人で35勝目”. 産経ニュース. (2014年11月2日) 2017年7月2日閲覧。
- ^ a b 日本プロ野球 仰天伝説199連発!(ベースボールマガジン社、2014年10月)p.19
- ^ 年度別成績 1962年 セントラル・リーグ
- ^ a b c d e f g h 権藤著、もっと投げたくはないか 権藤博からのメッセージ、日刊スポーツ出版社、p87-93、2014年
- ^ 木俣達彦著『ザ・捕手:私が出会った監督・選手たち』、中日新聞社、2011年、P219
- ^ Sports Graphic Number 125号
- ^ これは、自分の性格から、チームに帯同すれば選手にコーチしてしまい、本職のコーチに対する越権行為になると判断したからである。
- ^ a b c d e f g h もっと投げたくはないか 権藤博からのメッセージ、p94-96
- ^ 読む野球-9回勝負-No.8、2015年、P116、主婦の友社
- ^ 読む野球-9回勝負-No.8、2015年、P117、主婦の友社
- ^ 『週刊文春』2010年10月14日号 新・家の履歴書 権藤 博
- ^ 権藤博氏 信念ぶつけ合った仰木監督との確執/連載
- ^ 権藤著、もっと投げたくはないか 権藤博からのメッセージ、日刊スポーツ出版社、p160、2014年
- ^ 年度別成績 1991年 パシフィック・リーグ
- ^ 年度別成績 1992年 パシフィック・リーグ
- ^ 年度別成績 1993年 パシフィック・リーグ
- ^ ホークス九州20年史―1989ー2008 (B・B MOOK 553 スポーツシリーズ NO. 427)、p29、2008年、ベースボール・マガジン社
- ^ 就任1年目は60歳で、監督初就任時の年齢としては当時の史上最年長記録であった(2017年に中日監督に就任した森繁和が63歳で記録更新)。
- ^ 2002年より巨人の一軍投手コーチとして入閣の予定があったが、親交のある長嶋茂雄の退任に伴い、立ち消えになった。
- ^ 悠々球論(権藤博)、高木新監督と私、70歳代コンビが率いる来季の中日は…、2011年10月17日、日本経済新聞
- ^ “中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース ★来季のコーチングスタッフについて”. dragons.jp. 2020年12月17日閲覧。
- ^ “中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース ★高木新監督と新コーチ陣就任会見”. dragons.jp. 2020年12月17日閲覧。
- ^ “【中日】権藤氏、宇野氏ら新コーチ陣発表 - プロ野球ニュース” (日本語). nikkansports.com. 2020年12月17日閲覧。
- ^ “中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース ★権藤投手コーチが退団”. dragons.jp. 2020年12月17日閲覧。
- ^ 【中日】権藤コーチ退団(「日刊スポーツ」2012年10月24日付記事)
- ^ 侍ジャパン強化試合「日本vsチャイニーズ・タイペイ」コーチングスタッフ発表! 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2016年1月28日) 2016年2月17日閲覧
- ^ 『教えない教え』集英社、2010年、p17
- ^ 『教えない教え』集英社、2010年、p16
- ^ 文春ビジュアル文庫「ヒーロー列伝」
- ^ プロ野球 歴代監督の「采配力と人間力」、宝島社、2012年、P44-P45
- ^ 『最高のコーチは、教えない。』(2018年11月、ディスカヴァー・トゥエンティワン、ISBN 9784799323854)p97
- ^ 週刊ベースボール2013年5月20日、P21
- ^ 誘われても断ることができる先輩とつき合うこと。プロ野球に関わって35年、平沼定晴さんの根尾への金言 CBC
- ^ a b 別冊宝島420「プロ野球ウラ読み読本」(宝島社)p.8 - 17
- ^ 田淵の参謀だったヘッドコーチの黒田正宏が、権藤と対立して91年限りで退団。奇しくも黒田は、後に権藤を辛辣に批判することになる野村克也の教え子と言える存在の1人にあたる。
- ^ 赤坂英一『Sports Graphic Number790 文藝春秋36頁 -
- ^ 仰木彬『燃えて勝つ』学習研究社、1990年3月、 ISBN 978-4051045821、207頁 -
- ^ “プロ野球「師弟の絆」裏物語 第3回 谷繁元信と権藤博の「一意奮闘」(4)”. Asagei+(徳間書店) (2012年9月18日). 2017年9月11日閲覧。
- ^ “高木監督、権藤コーチと緊急会談”. スポニチ (2012年7月3日). 2017年12月4日閲覧。
- ^ 権藤博、『教えない教え』、集英社新書、2010年、P189
- ^ わずか1年で退団することになった 中日 権藤投手コーチを直撃ゲンダイネット
- ^ 週刊プレイボーイ2012年10月22日号「江夏豊のアウトロー野球論」 721回
- ^ 週刊プレイボーイ 2012年11月12日号「江夏豊のアウトロー野球論」 724回
- ^ 日本経済新聞 2012年10月25日 連載コラム「チェンジアップ」
- ^ 永谷脩(Sports Graphic Number816号)『「悔いはない」と退団した、73歳、権藤博の“性分”。~中日でも起きた指揮官との衝突~』文藝春秋、2013年4月閲覧
- ^ 日本経済新聞『中日・権藤コーチ、1年で退団の必然』日本経済新聞社、2013年4月閲覧
- ^ a b “プロ野球「師弟の絆」裏物語 第3回 谷繁元信と権藤博の「一意奮闘」”. Asagei+(徳間書店) (2012年9月18日). 2017年6月10日閲覧。
- ^ “1998年の横浜優勝時の権藤監督が実践した「三無主義」とは”. Newsポストセブン (2014年5月27日). 2017年6月10日閲覧。
- ^ a b c 相鉄瓦版、第251号、2018年、4月号、特集「ほめる」ってどうですか?、選手を導くために、野球評論家、山下大輔、6-13頁
- ^ “監督も選手も個性を 権藤氏・古田氏が対談(後編)”. 日本経済新聞 (2016年11月2日). 2017年6月10日閲覧。
- ^ 一例としては、1・2番を任せられることが多かった石井琢朗・波留敏夫には送りバント・ヒットエンドランなどの指示を出さず、ノーサインでコンビプレーを任せていたことなどが挙げられる。
- ^ “監督も選手も個性を 権藤氏・古田氏が対談(前編)”. 日本経済新聞 (2016年11月1日). 2017年6月10日閲覧。
- ^ 神田洋 (2020年5月2日). “松井秀喜氏を苦笑させた「横浜のマシンガン打線による12-13x大逆転劇」”. 文春オンライン. 2020年5月2日閲覧。
- ^ 権藤博の「奔放主義」2017年1月6日、日刊ゲンダイ
- ^ 谷繁元信コラム 「権藤さんはチームを“ブラック企業”にさせなかった」
- ^ 高橋安幸『根本陸夫伝』 2016年 集英社 ISBN 9784087807998 p304
- ^ a b “日本にもいた「バントの嫌いな監督」 日米野球比較”. 日本経済新聞電子版. 2016年3月7日閲覧。
- ^ “権藤博「セの采配は“緻密”ではなく“怯懦”」”. 日刊ゲンダイ電子版. 2016年3月7日閲覧。
- ^ 『プロ野球 歴代監督の「采配力と人間力」』p79
- ^ a b “あと30本 駒田徳広 職場放棄「2軍でも何でもいいや!」”. Sponichi Annex (2000年6月18日). 2013年9月13日閲覧。
- ^ a b 【私の失敗(4)】駒田徳広、権藤監督と“確執”…代打出され試合中に帰宅
- ^ “亡くなった野村克也さんが、最後まで嫌った「8人の男たち」”. Smart FLASH (2020年2月21日). 2020年2月28日閲覧。
- ^ a b 野村克也『プロ野球 最強のエースは誰か?』彩図社、2014年。ISBN 9784801300231。p.p.203~206
- ^ “権藤博氏「野村さんのすごさは人材を見極める眼力」”. 日刊スポーツ (2020年2月11日). 2020年2月28日閲覧。
- ^ 『週刊文春』2010年10月14日号 新・家の履歴書 権藤 博
- ^ 権藤博さんは、凄い! -すー の ☆ブッ飛ばしゃ~イイッショ☆ 気まぐれ飛ばし屋 ドラコンLOVEな男の毎日
関連項目編集
外部リンク編集
- 個人年度別成績 権藤博 - NPB.jp 日本野球機構
- 野球殿堂博物館 権藤博