平松政次

日本の元プロ野球選手、野球解説者

平松 政次(ひらまつ まさじ、1947年9月19日 - )は、岡山県高梁市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者

平松 政次
Masaji HIRAMATSU 20200310.jpg
高木豊YouTubeチャンネルに出演する平松
(2020年3月)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県高梁市
生年月日 (1947-09-19) 1947年9月19日(73歳)
身長
体重
176 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1966年 第2次ドラフト2位
初出場 1967年8月16日
最終出場 1984年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2017年
得票率 75.0%(112票中84票)
選出方法 競技者表彰(エキスパート部門)

カミソリシュート」の異名を取る、高速かつ凄まじい切れ味を誇るシュートを武器に、大洋ホエールズで18年間活躍した。愛称は「カミソリ平松」。風邪をよく引いたり故障が多かったりしたことから「ガラスの平松(ガラスのエース)」とも。

経歴編集

3歳で父親と死別[1]

岡山県立岡山東商業高等学校時代の1964年湊山球場での秋季中国大会決勝で米子東に敗れたが、準優勝の成績を収め、翌1965年春の第37回選抜高等学校野球大会に出場。39イニング連続無失点の大会新記録を樹立し、決勝で藤田平のいた市和歌山商を、延長13回サヨナラ勝ちで降し優勝した[2]。同年夏は県予選準決勝で倉敷商松岡弘、東中国大会決勝で関西高校森安敏明に投げ勝ち甲子園出場を決める。この大会では春夏連覇が期待されたが、1回戦で降雨ノーゲームによる再試合の末、日大二高に敗れた。

同年の第1回ドラフト会議中日ドラゴンズに4位指名を受けるが入団拒否。社会人野球日本石油に入社しエースとして活躍。翌1966年都市対抗では広瀬幸司とバッテリーを組み、準決勝に進むが熊谷組に9回サヨナラ負けを喫する。同大会では小野賞を獲得。同年のアマチュア野球世界選手権日本代表に選出され日本の優勝に貢献、また第1回社会人ベストナインにも選出される。第2回第2次ドラフト会議大洋ホエールズから2位指名を受けるが入団保留。このドラフト会議では巨人から1位指名の確約を受けていたが、巨人は槌田誠を指名した。巨人は競合した槌田の抽選に外れた場合、平松を指名する予定であったといわれている。1967年都市対抗では枝松道輝石山建一ら打線の援護もあり、2完封を含む4連勝で決勝に進出、8月8日に行われた決勝でも日本楽器を完封で降し優勝。同大会の橋戸賞を受賞した。大会終了の2日後、大洋に入団[注 1]。入団説得のために、高校の先輩でもあり当時の大洋の主力選手であった秋山登土井淳も平松の元に訪れた。

1年目は途中入団ということもあって3勝に終わる。しかし2完封を記録したこともあり、1968年には開幕第3戦から先発として起用され、2年目の飛躍を期待されたが5勝12敗と伸び悩む。当人はひそかに「俺のプロ野球生活は3,4年で終わりだな」と覚悟したという。3年目春のキャンプ、一軍選手が雨天のため体育館で練習をした際に、打席に立った近藤和彦から冷やかしで投げさせられたのが「ちゃんと投げたのは初めてというシュート」であった。初めて投げたシュートは鋭く胸元に食い込み、驚いた一軍選手がコーチに報告してチャンスが到来した[4]

3年目の1969年に14勝をあげ、規定投球回(リーグ7位、防御率2.56)にも到達。翌年の1970年は25勝をあげ[注 2]最多勝利投手のタイトルを獲得。防御率1.95も村山実に次ぐリーグ2位の好成績であり、同年の沢村賞を受賞。また、セ・リーグ最優秀投手ベストナインにも選出された。1971年も17勝で2年連続最多勝を達成、最優秀投手に選出される。12年連続2桁勝利をあげるなどエースとして低迷するチームを支えた。1979年には最優秀防御率2.39を記録する。現役末期は怪我に泣き「ガラスのエース」と呼ばれたが、1983年に200勝を達成した。

200勝を置き土産に一度は現役引退を表明するも慰留され、翌1984年限りで現役引退。リーグ優勝は経験できなかった[注 3](Aクラス経験はある)。同じ岡山県出身の星野仙一(中日)、松岡弘(ヤクルト)と共に「打倒巨人」に燃え、巨人キラーとして活躍。彼の投げるシュートボールは「カミソリシュート」と呼ばれ、数多くの右打者バットを根元からへし折った。全盛期には「ど真ん中のボールが右打者の体に当たるくらいまで変化した」とまで言われている。

引退直後、近藤唯之が「あなたは巨人戦51勝、200勝も達成した。悔いはないでしょう。」と尋ねたところ「自分は現役生活で1度も優勝できなかった。それに鈴木啓示はまだやっている(鈴木は同学年でライバルかつ親交があった)。2つも悔いがあるんですよ」と語っている[5]

また、投手としては打撃にも優れ、投手では歴代4位の通算25本塁打を記録した。引退後はフジテレビフジテレビONEプロ野球ニュース』などで司会を担当することもある)、ニッポン放送(2005年まで)、テレビ神奈川の野球解説者を務め、現在に至る。大洋や後身の横浜、DeNAの監督・コーチなどに就任することはなかったが、1998年に横浜が日本一になった時には我がことのように喜んでいた。また、2006年に発足したNPO法人・横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ(現ベイスターズ・ベースボールアカデミー)の初代理事長に就任した。この団体はベイスターズがJXTGエネルギーと提携して、スポーツを通じて地域貢献を目指す法人である。平松がベイスターズ・日本石油(現ENEOS)野球部双方のOBに当たる縁から就任要請を受けたものである。

2006年6月2日、横浜スタジアムの右翼外野部分に名球会入りした選手を称えるプレートが設置された。

2012年12月1日、ホエールズ・ベイスターズOB会の会長に就任した。

2017年1月16日、同郷で同じ1947年生まれの星野仙一(学年では星野が1期上)と同時に2017年度野球殿堂エキスパート部門表彰者に選出された[6]

2018年夏の第100回全国高等学校野球選手権記念大会で、8月9日の第1試合直前に甲子園レジェンド始球式へ登場。投げたボールは外角高目にストライクが決まり、ガッツポーズを見せていた[7]

2018年12月1日、6年間務めてきたホエールズ・ベイスターズOB会の会長を任期満了に伴い勇退し、かつての同僚齊藤明雄にその座を譲った[8]

選手としての特徴編集

シュートボール編集

平松の代名詞であるシュートだが、社会人時代に投げ方を教わっていたものの、本気で投げたことはなかった。アマチュア時代はカーブですら平松本人に言わせると「(完全な『カーブ』ではなく)カー」程度にしか曲がらず、投げる球種の大半がストレートだったが、それでも打者を打ち取れていたためシュートを投げる必要がなかったのである[9]。しかしプロ入り後、1969年春のキャンプの草薙キャンプの室内練習場で平松が投球練習をしていると近藤和彦近藤昭仁に「こんな球しか投げられないのか」といったことを言われ、カッとなって、それまでまともに投げたこともないシュートを全力で6球投げてみた。するとボールは平松自身も驚くほど鋭く打者に向かって変化、近藤和彦は腰を抜かしていたという。この時の6球でカミソリシュートが誕生したといい[10]、間もなく一軍に昇格しその後の活躍に至った。

シュートを投げる際の投球フォームはストレートと同じで、一瞬左肩を早く開いて右腕を遅らせる[11]。晩年に球威が落ちると腕を内側にねじる投げ方に変えたが、平松は全盛期の右腕を遅らせる投法を理想として後輩に教えている。しかしその感覚を他者に伝達するのは難しいらしく、教えてもなかなかモノにできないと嘆いている[11]

1974年7月9日の対巨人戦では、平松の投じたシュートが河埜和正の左手に当たってバックネットに転がりデッドボールかと思われたが、球審の平光清は「ストライクのコースに入った球を河埜が打ちに行き、グリップエンドに当たった」としてファールボールを宣告。この判定に激高した巨人の川上哲治監督が平光にしつこく食い下がったため、平光は川上に退場を宣告。これが川上の37年に及ぶプロ生活で最初で最後の退場となった[12]

長年にわたって代名詞となったシュートボールであったが、後に平松は「できればシュートではなく、(アマチュア時代のように)ストレートとカーブで勝っていきたかった」と語っている。

巨人キラー編集

平松の巨人戦通算51勝は金田正一(65勝)に次ぐ歴代2位。通算201勝の1/4以上を巨人から挙げている。

特に長嶋茂雄が最も苦手にしていた投手として知られている。長嶋と平松の通算対戦成績は181打数35安打8本塁打打率.193、三振33、内野ゴロ65(内併殺打7)で、25打数無安打の時期もあった。一方で、長嶋と並ぶ巨人打線の中核であった左打者の王貞治に対しては多くのホームラン(25本)を打たれている。

人物編集

現役時は短気で気が強い性格として知られた。

  • 若手時代にはエラーをしたベテランの江尻亮に対し砂を蹴飛ばしてチーム首脳陣から大目玉をくらう[13]
  • 1978年7月20日の対ヤクルト19回戦(横浜スタジアム)では、5-1でリードしていた3回表に4点を奪われて降板した際、土井ヘッドコーチの叱責に対する怒りのあまり、利き手である右手でベンチに設置されていた扇風機を叩き壊したことがある。当時の扇風機の羽根は金属製であったため大怪我をしても不思議ではなく、無傷で済んだのは幸運であった。本人も「一歩間違えば投手生命が終わっていたかも。無茶をやった」と述懐している[14]。この試合はヤクルトが4回表に2点入れて逆転した後、大洋が同点に追いついたが同僚の野村収が勝ち越し打を打たれて敗戦投手となった。
  • ミスをした周囲に対して怒るのでコーチから「みんな懸命にやった結果なのだから変なプレーをしてもお前が助けろ」と諭されても、負けん気の強さから「俺は勝ちたいんだ! 変なプレーをして巨人に勝てるのか!」と反論したという[15]
  • 松岡弘とは学校やチームが一緒になることは無かったが、同じ岡山県出身で同学年で右投手同士、すなわち岡山時代からプロ球界に至るまでの長年のライバルであり、友人でもある。
  • 2020年現在、NPBの200勝投手の中で春の選抜高校野球または夏の甲子園の優勝投手でもあるのは野口二郎(1937年夏、1938年春・プロ237勝)と平松政次(1965年春・プロ201勝)の2人だけである。そして、200勝投手の中でプロで優勝を経験していないのもまた野口と平松のみである。
  • 甲子園優勝投手で、投手として名球会入りしたのは2020年現在平松のみである(「甲子園優勝投手でもある名球会会員」はほかに王貞治柴田勲がいるが、この二人は「打者として」名球会入りしている)。甲子園優勝投手で日本プロ野球通算200勝を記録した投手としては先述の野口二郎(237勝)がいるが、野口は大正生まれなので名球会入り資格がない為会員ではない。

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1967 大洋 16 10 2 2 1 3 4 -- -- .429 291 70.1 66 13 14 1 3 42 2 1 31 28 3.60 1.14
1968 51 13 2 1 1 5 12 -- -- .294 531 120.1 119 14 54 0 7 77 4 0 71 57 4.28 1.44
1969 57 25 8 5 1 14 12 -- -- .538 991 245.2 215 24 56 4 14 157 3 1 78 70 2.56 1.10
1970 51 38 23 6 5 25 19 -- -- .568 1279 332.2 226 18 68 6 13 182 1 2 80 72 1.95 0.88
1971 43 32 11 3 1 17 13 -- -- .567 1112 279.0 211 18 82 5 10 153 3 2 78 69 2.23 1.05
1972 41 26 10 0 2 13 15 -- -- .464 998 243.2 211 32 84 8 11 118 4 0 111 93 3.43 1.21
1973 49 19 9 1 2 17 11 -- -- .607 842 207.2 180 15 56 8 4 110 0 0 78 70 3.03 1.14
1974 46 30 12 1 0 15 16 2 -- .484 1004 243.2 222 37 74 4 7 175 2 1 112 99 3.65 1.21
1975 28 22 9 1 0 12 10 2 -- .545 696 172.1 145 25 50 1 6 134 1 0 71 62 3.24 1.13
1976 41 35 16 2 1 13 17 2 -- .433 1089 260.1 227 40 95 7 9 170 0 0 121 110 3.81 1.24
1977 32 21 10 2 0 10 9 1 -- .526 723 166.0 182 25 50 3 6 105 2 0 75 73 3.96 1.40
1978 36 15 4 0 0 10 5 7 -- .667 622 146.2 142 18 49 3 7 83 1 0 73 64 3.92 1.30
1979 30 25 11 3 2 13 7 1 -- .650 784 196.0 155 20 50 4 6 138 4 0 58 52 2.39 1.05
1980 30 29 9 0 0 10 11 0 -- .476 855 199.1 227 26 57 4 6 107 1 1 108 95 4.30 1.42
1981 17 16 4 0 0 6 7 1 -- .462 464 110.2 109 9 31 2 3 70 1 0 45 43 3.49 1.27
1982 25 25 1 0 0 9 10 0 -- .474 603 140.1 150 15 31 1 5 83 1 0 65 62 3.99 1.29
1983 23 22 4 1 1 8 8 0 -- .500 577 131.0 136 14 53 4 1 83 2 0 67 57 3.92 1.44
1984 19 18 0 0 0 1 10 0 -- .091 430 95.0 114 11 36 2 2 58 0 1 63 60 5.68 1.58
通算:18年 635 421 145 28 17 201 196 16 -- .506 13891 3360.2 3037 374 990 67 120 2045 32 9 1385 1236 3.31 1.20
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル編集

表彰編集

記録編集

初記録
節目の記録
  • 100勝:1974年6月1日、対中日ドラゴンズ6回戦(札幌市円山球場)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回1失点 ※史上61人目
  • 1000奪三振:1974年10月3日、対中日ドラゴンズ22回戦(中日スタヂアム)、5回裏に広瀬宰から ※史上50人目
  • 150勝:1978年6月3日、対中日ドラゴンズ10回戦(札幌市円山球場)、9回1失点完投勝利 ※史上30人目
  • 1500奪三振:1978年9月9日、対中日ドラゴンズ24回戦(横浜スタジアム)、7回表にフレッド・クハウルアから ※史上25人目
  • 500試合登板:1979年5月26日、対読売ジャイアンツ7回戦(石川県立野球場)、先発登板で7回4失点で勝利投手 ※史上38人目
  • 600試合登板:1983年6月23日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で2回2/3を9失点で敗戦投手
  • 200勝:1983年10月21日、対読売ジャイアンツ25回戦(後楽園球場)、先発登板で5回1/3を1失点完投勝利(雨天コールド) ※史上19人目
  • 2000奪三振:1984年5月10日、対広島東洋カープ5回戦(横浜スタジアム)、3回表に山根和夫から ※史上10人目
その他の記録

背番号編集

  • 3 (1967年)
    • 長嶋茂雄に憧れて野球を始めたこともあり、長嶋と同じ数字であった。日本では投手がほとんど付けない番号であり、非常に珍しい例である。
  • 27 (1968年 - 1984年)

関連情報編集

著書編集

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出演番組編集

フィクションでの登場編集

  • 漫画『巨人の星』 - 星飛雄馬の大リーグボール3号から最初に安打を奪った選手として描かれている。「投手なのでスイングがゆるく、バットに当たった」という理由だった。
  • 漫画・アニメ『野球狂の詩』 - 原作・アニメにも時折、登場していた。
  • 漫画『リトル巨人くん』 - 小学館の学年別学習雑誌にて1983年シーズン終了後に掲載された回で、同年限りでの現役引退を表明した名投手の一人として堀内恒夫小林繁と共に登場し、主人公の滝巨人に決め球(堀内:スローカーブ、小林:シンカー、平松:シュート)を伝授。平松は上述のように翻意してもう1年現役を続けることに。
  • アニメ『がんばれ!!タブチくん!!』(第2作) - 安田猛からサヨナラホームランを打っている。

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 大洋と入団契約を交わした1967年8月10日は大洋の平松との交渉権が切れる当日でもあった。都市対抗野球大会の終了日がこの日以降になった場合、大洋が自動的に平松との交渉権を喪失することを意味した。平松は事前に大洋側に対して、大会の終了後に入団表明を行うとしていた(大会中にプロ入りを表明した場合、即座にアマチュア資格を剥奪されるため)。また当時「巨人が平松の大洋入団を阻止するために、大会終了後直ちに平松を雲隠れさせる」という噂が飛び交っており、そのため大洋の関係者達はひたすら8月10日までに大会が終了することのみを願っていたという[3]
  2. ^ 1970年の25勝のうち、7勝(完封4・防御率1.50)が巨人戦での勝ち星だった。これは、チーム全体の巨人戦勝利数(14勝)の半分にあたる。平松はこのシーズンから、「カミソリシュート」にスライダーを組み合わせるようになった。なお、巨人監督の川上哲治はこの年のペナントレースを振り返って、「平松に抑えられなかったら、ウチはもっと楽に優勝できた(2位阪神とのゲーム差は2)。シュート・直球・スライダーの組み合わせには王も長嶋も手が出なかった。」という趣旨の発言を行っている[3]
  3. ^ 名球会所属投手で優勝未経験なのは平松と野茂英雄だけ。ただし野茂はロサンゼルス・ドジャース時代の1995年、同球団がナショナル・リーグ西地区で優勝した経験はある(ナ・リーグ優勝はならず)。

出典編集

  1. ^ 現役引退後に出演した資生堂「ヴィンテージ」CMより
  2. ^ 藤田平氏、平松投手とのライバル対決振り返る センバツ決勝で名勝負、プロで延長戦」『デイリースポーツ online』、2020年7月14日。2020年9月26日閲覧。
  3. ^ a b 岡邦行『江川になれなかった男たち』三一書房、1983年、91-92頁。OCLC 673103408
  4. ^ テレビ愛知制作『プロ野球列伝』での発言。シュートボール項参照。
  5. ^ 近藤唯之『引退 そのドラマ』新潮社新潮文庫〉、1986年、[要ページ番号]ISBN 4-10-132204-X
  6. ^ “平成29年 野球殿堂入り発表 伊東氏、星野氏、平松氏、郷司氏、鈴木氏が殿堂入り” (プレスリリース), 野球殿堂博物館, (2017年1月16日), http://i.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/news/halloffame2017_02.html 2017年1月16日閲覧。 
  7. ^ “谷繁元信氏が始球式 外角低めにストライク”. 日刊スポーツ. (2018年8月9日). https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/201808090000147.html 2020年9月26日閲覧。 
  8. ^ ベイOB会、新会長に斉藤氏、米挑戦意向の筒香にエール」『神奈川新聞』、2018年12月1日。2020年9月26日閲覧。
  9. ^ 『豪球列伝』Sports Graphic Number 編、文藝春秋〈文春文庫 ビジュアル版〉、1986年、[要ページ番号]ISBN 4-16-810802-3
  10. ^ 長嶋苦しめた平松の「カミソリシュート」 カーッとして誕生”. NEWSポストセブン (2015年1月23日). 2016年6月20日閲覧。
  11. ^ a b 「変化球握り大図鑑 シュート 平松政次」『週刊ベースボール』6月22日号、ベースボール・マガジン社、2009年、 10頁、 雑誌20444-6/22。
  12. ^ 【7月9日】1974年(昭49) 川上哲治が激怒した日 プロ37年、初の退場”. sponichi.co.jp(スポーツニッポン新聞社) (2008年7月3日). 2018年5月8日閲覧。
  13. ^ 村瀬秀信『4522敗の記録 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史』双葉社、2013年、135頁。ISBN 978-4-575-30518-0
  14. ^ 『暴れん坊列伝 プロ野球乱闘史』文藝春秋 編、文藝春秋〈文春文庫 ビジュアル版〉、1988年、[要ページ番号]ISBN 4-16-810807-4
  15. ^ 村瀬秀信 2013, p. 136
  16. ^ “「カミソリシュート」平松政次さんに贈呈 岡山市 /岡山”. 毎日新聞地方版 (毎日新聞社). (2017年8月5日). https://mainichi.jp/articles/20170805/ddl/k33/050/647000c 2017年12月3日閲覧。 
  17. ^ 高梁市市民栄誉賞 (PDF)”. 広報たかはし 2017年10月号. 高梁市 (2017年10月16日). 2017年12月3日閲覧。
  18. ^ 岡山県スポーツ特別顕賞の贈呈について (PDF)”. 岡山県 スポーツ振興課 (2017年10月26日). 2017年12月3日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年12月3日閲覧。
  19. ^ 楽天松井裕樹が記録した3者連続3球三振を過去に達成しているのは?」『BBCrix』、2017年5月6日。2017年12月18日閲覧。オリジナルの2017-12-22時点におけるアーカイブ。

関連項目編集

外部リンク編集