HOUND DOG
HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)は、1976年(昭和51年)に結成された大友康平を中心とした日本のロックバンドである。代表曲に「ff(フォルティシモ)」(1985年)、「ONLY LOVE」(1988年)、「BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜」(1992年)など。1980年代後半に絶大なライブ動員力を誇った。バンド自体は2005年に解散したが、その後大友がバンド名を使用して1人でライブ活動を続けている。
HOUND DOG | |
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出身地 |
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ジャンル | ロック |
活動期間 | 1976年 - 現在 |
レーベル |
CBSソニー(1980年 - 1986年) Mother & Children→MMG→イーストウエスト(1987年 - 1995年) 日本コロムビア(1996年 - 2001年) よしもとアール・アンド・シー(2002年 - 現在) HATSUNLIMITED→ ブロウグロウ(現在) |
事務所 |
フライングハウス(1980年 - 1983年) マザーエンタープライズ(1983年 - 2004年) iehok(2005年 - 現在) |
共同作業者 |
ツイスト 松井五郎 葉山たけし |
公式サイト | HOUND DOG Official Site |
メンバー | 大友康平(ボーカル) |
旧メンバー |
高橋良秀(ギター) 玉手(ベース) 八島順一(ギター) 蓑輪単志(キーボード) 海藤節生(ベース) 佐藤証(ドラムス) 畑山広志(ギター) 藤村一清(ドラムス) 鮫島秀樹(ベース) 橋本章司(ドラムス) 西山毅(ギター) |
来歴編集
1976年(昭和51年)、東北学院大学在学時に、初代ギターの高橋良秀が大友康平に「一緒にやろう」と声を掛けた事がきっかけで結成。バンド名は、大友が敬愛するエルヴィス・プレスリーのヒット曲から採用した。1980年、シングル『嵐の金曜日』でデビューを果たす(メンバーは、大友康平・高橋良秀・八島順一・蓑輪単志・海藤節生・藤村一清)。以後、1984年のメンバーチェンジなど紆余曲折を経ながらも、日本のロックシーンで息の長い活動を続けてきた。
その活動は、ライブに主眼を置くとされる。ヒット曲が全くない中で1万人を集めた日本武道館初公演、足掛け3年間のライブツアーや、チケットを買ったにも関わらず学校の指導で行けなくなったある地方の学生のために、卒業証書がチケット(無料)で、安全のためライブ終了時間を早め、危険性の無い定められた場所で「音楽は素晴らしいものなんだよ」と伝えるために、もう一度その地でライブを行うなど、過去に無い実績を残している。1989年には、日本武道館史上最多の15日連続ライブを決行。この記録は、2018年現在も破られていない。
1981年からはロックンロールオリンピックを仙台市近郊で開催し、日本の野外ロック・フェスティバルの先駆けの1つとなり、また、広島の『ピース・コンサート』、『夢の島ライブ』など募金やチャリティー・ライブの活動を通しての社会参加活動も行っている。
大友が最も影響を受けているのがロッド・スチュワートであり、それを彷彿させるマイクスタンド捌きなどを行っている。
サザンオールスターズの桑田佳祐はHOUND DOGの才能を認めており、「ライブでの煽りが俺たちより上手い」と述べている。
事務所移籍とメンバーチェンジ編集
初期のHOUND DOGは、仙台市にある音楽事務所「フライングハウス」に所属する傍ら、東京の事務所「エイプリル」及び「ウオーター」にも所属して活動を始める。1983年(昭和58年)に「マザーエンタープライズ」に移籍し、初の日本武道館ライブを成功させた。なお、マザーエンタープライズには大友のみが取締役として加入し、他のメンバーは「バックミュージシャン」の扱いで、いつでも契約解除出来る状態であった。アルバムレコーディング中に海藤が脱退し、ツイストの鮫島秀樹がサポートメンバーとして就いた。後に高橋・藤村も脱退する。大友は藤村に対しクビにはするが、楽曲は引き続き提供するよう命令したが、藤村はこれを拒否している。その後、サポートメンバーを経て正式メンバーとなった鮫島と、蓑輪・鮫島の推薦による西山毅、八島の推薦による橋本がサポートメンバーとして加入する(後に正式メンバーとなる)。橋本はオーディションが行われたが、西山は大友含め事務所関係者が西山の演奏を一度も聴かないまま加入決定した。なお、鮫島は大阪時代からの橋本の素行不良を熟知しており、橋本加入に猛反対した。
伝説のライブと「誓いの日」編集
1985年(昭和60年)8月10日、「TYPHOON PARTY TOUR 1985」の一つとして西武球場でライブが開催された。メンバーチェンジを乗り越え、再出発を祈願するライブであったが、台風の接近により大雨が降る中での開催になってしまった。客入りは1万数千ほど、終始楽器やPAは不具合を起こしたが、それでも彼らは果敢に演奏を続けた。トラブルに見舞われながらもなんとか無事にライブが終わろうとしていた終盤、「ラスト・ヒーロー」を演奏中に演出用の特効花火が突如暴発し、その火花が瞼を掠めた大友がステージ上で倒れた。
スタッフにより大友が舞台袖に抱えて運ばれると客席は騒然となり、ステージ上のメンバーも動揺した。しかし演奏は止まらず、鮫島が客席に背を向け、メンバーと顔を合わせて最後まで演奏し、パニックに陥るのを防いだ。大友は舞台裏で応急手当を受け、すぐにステージに復帰した。アンコールの際、感極まった大友が「来年もここでやるぞ!」と発言したことから、1986年(昭和61年)8月10日「誓いの日」として同じく西武球場でライブを行った。このときは快晴で、前年と違い満員の観客が球場を埋め尽くした。
イベント「夢の島」開催編集
1990年(平成2年)から1999年(平成11年)まで行った夏の野外ライブ。第1回夢の島は、1990年(平成2年)8月25日に、NO OBJECTION TOURの中の一公演として東京夢の島公園にて行われた。タイトルは「でっかい太陽 8/25夢の島 勝手に決めた!ILY(国際識字年)チャリティイベント ハウンドドッグ夏の日、いよっ!日本一!! Jump Jump Jump!めざせ西暦2001年」。
第2回目以降の概要は以下の通り。
- 第2回 1991年7月27日 西武球場&同年8月3日 阪急西宮スタジアム
- 第3回 1992年8月8日 静岡つま恋
- 第4回 1993年8月1日 福岡県海の中道海浜公園野外劇場
- 第5回 1994年8月27日 東京夢の島公園
- 第6回 1995年8月19日 宮城県みちのく杜の湖畔公園
- 第7回 1996年8月3日 大阪舞洲スポーツアイランド
- 第8回 1997年8月23日 - 8月24日 愛知県名古屋商科大学ラグビー場
- 第9回 1998年8月22日 兵庫淡路島ウェルネスパーク五色特設会場
- 第10回 1999年8月28日 静岡ATAMI PORT SIDE AREA
NHK紅白歌合戦直前辞退編集
1991年(平成3年)、『第42回NHK紅白歌合戦』の出場歌手に選ばれたが、この年のHOUND DOGは特にヒット曲がない状況であった。NHKは『ff(フォルティシモ)』を選曲したが、メンバーは「古い曲だから歌いたくない」とし、翌年リリースの新曲『BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜』の演奏を希望。しかしNHKはその申し入れを拒否し、結局出場を辞退することとなった(代わりにバブルガム・ブラザーズが出場した。大友とバブルガムは親友同士であり、バブルガムは紅白のステージ上で、HOUND DOGにメッセージを送った)。
解散騒動と訴訟編集
デビュー25周年目となる2005年(平成17年)、大友と所属事務所マザーエンタープライズとの間で意見対立が発生し、その結果大友は個人事務所(イエホック(iehok))を設立し、4月に独立した。これを受けてマザー側は、7月の日本武道館公演をもってHOUND DOGに関する一切の業務を終了する事を発表した。また6月に発売されたアルバム「OMEGA」についても、マザーは「事実上、現メンバーによる最後のオリジナル・アルバムになる可能性がある」とし、ジャケットや曲のタイトルが解散を示唆する内容となっていた。しかし大友は事務所に反発し、今後もステージに立つことを武道館公演時に明言したが、解散やメンバー脱退は否定しなかった。
8月、大友はイエホック公式サイトにて、「バンド内に将来に対する考え方の違いが生まれた」として蓑輪・鮫島を除いた4名(大友・八島・橋本・西山)で活動を続けることを表明した。マスコミには蓑輪・鮫島が「脱退」したと報じられたが、当人たちは「脱退はしていない」とコメント。鮫島はその後も折りにつけ脱退否定発言を繰り返したが、大晦日のカウントダウン・ライブや2006年(平成18年)2月からのツアーは、両者を除いた4名にサポートメンバーを加えるかたちで開催された。大友は蓑輪・鮫島の解雇の理由を後述の裁判で、蓑輪については「福田信会長の秋の解散ツアー案に同意したため」、鮫島については「前事務所と密接な関係にあって情報が漏れ、信用できなかった」と述べている[1]。
また、大友は2005年11月8日付日刊スポーツ紙上で「ハウンドドッグは僕のものですから。大学時代にオレがつくった。ぶっちゃけ言っちゃうと、オレだけだっていい。オレが歌えばハウンドドッグですから」といった発言をした。
2006年のメンバー「解雇」編集
その後、大友が活発にバラエティ番組に出演する一方で、大友のラジオ番組から八島が降板したり、夏のライブ情報が橋本の個人サイトに掲載されなかったり、橋本がサイトのBBSで「信じていた人から裏切られた」と発言するなど、不可解な動きがあった。そして2006年(平成18年)6月3日、「HANBUN DOG(6-3)」と題した、橋本・八島・西山によるパーティーの開催が橋本のサイトにて発表された。
6月18日、大友は「ハウンドドッグを守るため」自分ひとりで活動を続けるとイエホック公式サイトにて表明。イエホックの代表者(楠山寸賀子)は「ハウンドドッグを操ろうという動き」という表現で前事務所の干渉を示唆し、橋本らのパーティー開催をそれに飲み込まれたものであるとみなして、バンドが大友ひとりになる理由とした。
これに対して橋本のサイトには、橋本・八島・西山の反論コメントが掲載。橋本は「私たち三人は脱退したのではありません」とした。その後、橋本のサイトやパーティーで3名が語ったところによれば、イエホックは当初から、3名を大友のバックミュージシャン扱いしていた。新曲の権利をすべて無償でイエホックに譲り渡すことを要求してきた。橋本が株売却のために旧事務所とコンタクトをとったことを口実に解雇し、新メンバーをオーディションで加えようとした。反発した3名は大友との話し合いを求めたが、大友は携帯の番号を変えて連絡がとれない状況であった。3名が事務所に不満を募らせていたところ、代理人弁護士から携帯メールで一方的に解雇を告げられた。「HANBUN DOG(6-3)」は元の6人でもう一度やり直したいという意味を込めたものであり、前事務所の干渉や、一部で噂された宗教団体の関与などは全くない、というものであった。
7月22日、大友以外すべてサポートメンバーで、HOUND DOG名義のライブが大阪野音で開催された。八島・橋本・西山が自腹でチケットを購入して現れ、会場は騒然となる。また、元の6人での活動を求める署名活動がファンにより会場外で行われた(この署名は、大友のもとに届けられたといわれる)。また、一部有志は同年9月1日付日刊スポーツに意見広告を掲載し、同じく6人での活動再開を求めた。しかし、大友は例年通り昔の曲(そのほとんどは蓑輪と八島が作曲したものである)を歌い、MCでは一連の騒動について明確な説明をしなかった。9月2日には、同じサポートメンバーを従えて「HOUND DOGとして50回目」と称した日本武道館公演が行われた。ここでも大友は明確な説明をしなかったが、「後悔はない。1歩ずつ前を向かって歩いていく」と話し、旧メンバーとやり直す気がないことを暗示した。ようやく10月31日、大友はインターネットマガジン「Manyo」連載のエッセーにおいて、一連の経緯に関するファンへのメッセージを発表。自らの決意が変わらないことを強調し、「いずれ時間と良識と世論が本当の答えを出して理解してくれるはずだ」と結んだ。
一方、八島・橋本・西山の3人は「新生ハウンドドッグ」として、八島が書き下ろした「We are the Hound Dog」のレコーディングを9月14日に行った。ボーカルは、緊急募集された199名のファンである(当初、199名の中には冗談半分で応募した大槻ケンヂが含まれていたが、結局辞退している。)。八島いわく「大友康平に歌ってほしいと思って作ったが、今のところ実現は困難なのでこの曲は、みんなに歌ってほしい。7人目のメンバーと一緒に歌いたい」「200人目は大友に」とのことであった。その後3人は「We are the Hound Dog」発売を記念したライブも行っている。
訴訟編集
一連の騒動の流れで明らかになっている訴訟は以下の通り。
- 蓑輪・鮫島が大友・八島・橋本・西山に対して起こしている民事訴訟。HOUND DOGは6人の演奏活動によって成り立っていると主張し、「HOUND DOG」の名称の使用権がメンバー6人にあること、2人をバンドに復帰させること、大友独立の巻き添えで前事務所との契約が白紙になったことに対する金銭補償を求めた。ロックバンドの活動方針はリーダーの一存で決められるのかどうかが問題の焦点となった。2006年(平成18年)9月1日、八島・橋本・西山については和解が成立した。
- マザーエンタープライズがイエホック及び大友・八島・橋本・西山に対して起こしている民事訴訟。大友がマザーの役員だったにもかかわらず大手企業新年会でのミニライブを事務所に隠れて引き受けたこと、そのギャラを事務所を通さず着服したこと、大友の独立によって全国ツアーが中止になったこと、大友が南こうせつ主宰の北海道・岩見沢フォークジャンボリー(2006年7月)への出演をキャンセルしたことなどに対して損害賠償を求めている。また、マザーがバンドを解散に追い込もうとしたかの如く発言したことに対しても、事実無根であるとして損害賠償と謝罪広告の掲載を求めている。刑事告訴ではなく民事告訴となっていることについて、マザー側の「温情」を指摘する見解がある。なお、11月13日の東京地裁の弁論において、大友側は証拠を提出して反論。事前にマザー側からソロ活動の許可を得ていたこと、独立時点で全国ツアーの詳細は決まっていなかったことを主張した。さらに、大手企業新年会でのミニライブを「裏営業」などと報じられたことによる名誉棄損で、損害賠償を求める反訴を行った。本件については、マザーと八島・橋本・西山の間では和解が成立している。大友は、2007年(平成19年)12月5日の証人尋問に出廷。前述のメンバー切り捨ての経緯や、福田信会長から「ハウンドドッグは事務所のお荷物だから解散しろ。独立は認めない。解散ツアーをすれば2000万円ずつ退職金が出る」と言われ、大友がそれに反対した所、「メンバーを連れていけ」と言われ収拾がつかなくなった事や当初は音楽活動をマザー、俳優業などをイエホックでマネジメントする予定だったことを主張し、八島・橋本が傍聴席にいるという状況のもと、質問に対し「意味がわかりません」という発言を繰り返した[2][1]。裁判は、2008年(平成20年)12月22日に東京地裁において判決[3]が下された。大友の「裏営業」の事実と大友が出演を予定しながらキャンセルした南こうせつ主宰の北海道・岩見沢フォークジャンボリー(2006年7月)のマザーに対する損害については、それが認められるとともに大友側からの名誉毀損の反訴は退けられた。また、大友の独立による全国ツアー中止についての損害賠償については、訴えが棄却され、マザーがメンバーを巻き込み、解散計画を進めていたことも認められた。この一連の判決を不満としてマザーエンタープライズ側が東京高裁に控訴したが、2009年(平成21年)5月に控訴を棄却[4]され、訴訟費用の9割負担を命じられ、3年に渡る法廷闘争は結果的に終結した。
- この訴訟と関連し、大友が自身の名義でハウンドドッグの楽曲を再録音し、2008年5月に発売する予定だったアルバムが、八島の「今は歌って欲しくない」という反対の意向で発売延期となった[5]。
延期となったアルバムの発売編集
法廷闘争の終結と前後して2009年5月20日に、大友康平名義でハウンドドッグの楽曲14曲を再録音した「HOUND DOG ULTIMATE BEST」が発売。7月12日にはShibuya O-EASTで、購入者を対象として限定ライブを行った[4]。
30周年ライブ編集
2010年3月21日に渋谷C.C.Lemonホールで30周年記念ライブが行われ、ファンによるベスト投票の30曲をもとに31曲が歌唱され、大友は「ずっとハウンドドッグの歌を歌っていきたい。誰が何と言おうと」と語った[6]。
エピソード編集
東京ドームなど大きな会場で公演を成功させる一方で、地方でのホール公演も継続していたため、常に各地方都市の駅や公共施設に彼らの公演を伝えるポスターが多く掲示されていた。取材旅行で地方を旅することの多い映画監督の山田洋次が、どこへ旅行しても目にする彼らのポスターに興味を持ち、「男はつらいよ」で渡世人の寅さんとドサ回りするハウンドドッグを共演させる企画も暖めていたが、渥美清の体調不良、急逝などもあり、実現することは無かった。「メンバーは大変残念がっていた」と、鮫島が音楽誌の「ルーディーズクラブ」の連載コラムに寄稿している[要ページ番号]。
メンバー編集
1976 - 1978年編集
1978 - 1980年編集
- 大友康平(ボーカルに専念)
- 八島順一(1956年2月19日 -、ギター):宮城県出身。
- 蓑輪単志(1959年12月17日 -、キーボード):宮城県出身。
- 海藤節生(1958年3月3日 -、ベース):玉手に代わって加入。
- 高橋良秀(ギター)
- 佐藤証(ドラムス):プロになるつもりはなくプロデビュー前に脱退。
- 畑山広志(ギター)
1980 - 1984年編集
- 大友康平(ボーカル)
- 八島順一(ギター)
- 蓑輪単志(キーボード)
- 海藤節生(ベース):脱退後は仙台を拠点にソロ活動および市民活動家として活動している。
- 高橋良秀(ギター)
- 藤村一清(ドラムス):脱退後は仙台を拠点に、kacooを平間邦義とともに結成し、主にライヴ活動などをおこなっている。
1984 - 2005年編集
- 大友康平(ボーカル)
- 八島順一(ギター)
- 蓑輪単志(キーボード)
- 鮫島秀樹(1955年4月19日 -、ベース 元ツイスト)
- 橋本章司(1955年10月11日 -、ドラムス):兵庫県出身。
- 西山毅(1962年1月7日 -、ギター):神奈川県出身。
2005 - 2006年編集
- 大友康平(ボーカル)
- 八島順一(ギター)
- 橋本章司(ドラムス)
- 西山毅(ギター)
2006年 7月 -編集
- 大友康平(ボーカル)
変遷編集
プロデビュー以降のみを以下に記す。
Vocal | Guitar | Guitar | Key | Bass | Drums | |
---|---|---|---|---|---|---|
1980-1984年 | 大友康平 | 八島順一 | 高橋良秀 | 蓑輪単志 | 海藤節生 | 藤村一清 |
1984-2005年 | 大友康平 | 八島順一 | 西山毅 | 蓑輪単志 | 鮫島秀樹 | 橋本章司 |
2005-2006年 | 大友康平 | 八島順一 | 西山毅 | 橋本章司 | ||
2006年 7月~ | 大友康平 |
ディスコグラフィ編集
シングル編集
- 嵐の金曜日(1980年3月21日)
- 作詞・作曲:八島順一。デビューシングル。
- おまえはB-88(1980年10月1日)
- イギリスのグラムロック・バンド、ジョーディー(Geordie・AC/DCのブライアン・ジョンソンが在籍した)の『All because of you』のカヴァー。訳詞は糸井重里。
- おちょくられた夜(1981年3月21日)
- スクールデイズ(1981年9月21日)
- 浮気な、パレット・キャット(1982年1月15日)
- 涙のBirthday(1982年9月1日)
- 作詞・作曲:八島順一。
- STILL!(1983年5月21日)
- Please Please Please(1984年3月5日)
- グッバイ・ドリーマー(1984年6月21日)
- ff (フォルティシモ)(1985年8月25日)
- ROCKS(1986年8月27日)
- DIAMOND EYES(1986年12月1日)
- AMBITIOUS(1988年4月1日)
- 作詞:松井五郎、作曲:蓑輪単志。日本テレビ系「チョモランマがそこにある」主題歌。
- ONLY LOVE/Destiny(1988年10月1日)
- 作詞:松井五郎、作曲:蓑輪単志。日本テレビ系ソウルオリンピック〜世界陸上東京大会スピリッツソング。
- No Name Heroes(1988年12月1日)
- 15の好奇心(1989年2月21日)
- 大地の子供たち/KISSで極楽 (パラダイス)(1989年6月1日)
- 日本テレビ系ドラマ『ハロー!グッバイ』オープニングテーマ。
- TELL ME WHY(1989年10月25日)
- でっかい太陽〜Jump Jump Jump〜(1990年8月10日)
- GLORY(1990年12月21日)
- FLY(1991年4月25日)
- 日野自動車企業CM「夢はいつでも 地球サイズ。」編CMソング。
- BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜(1992年2月9日)
- 作詞:大友康平&松井五郎、作曲:蓑輪単志&後藤次利。アサヒスーパードライCMソング。
- 日はまた昇る〜THE SUN ALSO RISES〜(1993年2月27日)
- 作詞:大友康平&松井五郎、作曲:蓑輪単志。前作とおなじくアサヒスーパードライCMソング。
※カップリングの「BEGINNING」は、1992年の日本テレビ系プロ野球中継テーマ曲。放送時はGメジャーのシンプルな楽曲だったが、発売時にはAメジャーの楽曲に変わっていた。
- 作詞:大友康平&松井五郎、作曲:蓑輪単志。前作とおなじくアサヒスーパードライCMソング。
- JEALOUSY(1993年3月25日)
- POWER OF LOVE(1994年7月25日)
- ROCK ME(1994年10月10日)
- この二曲は「CMソングや番組主題歌等に頼らず、歌の力で勝負したい」という大友の意向でタイアップが付かなかったが、セールスは伸びず、結局次作「おまえを決してはなさない」はCMソングとなる。
- 銀河のささやき(1994年10月25日)
- おまえを決してはなさない(1995年6月10日)
- トヨタ・カローラレビンAE111CMソング。
- さよならの向こうに(1995年9月10日)
- 作詞:松井五郎、作曲:八島順一。東京ビューティーセンターCMソング。
※カップリングの「Shining」は、1995年のTBS系プロ野球中継テーマ曲・中国放送(RCC)制作の1995年11月 - 1996年1月放送の駅伝中継(広島県高校女子駅伝・中国中学校駅伝・中国山口駅伝=テレビ山口(TYS)と共同制作・中国女子駅伝。いずれも中国新聞社主催)テーマ曲として使われた。
- 作詞:松井五郎、作曲:八島順一。東京ビューティーセンターCMソング。
- ACROSS THE RAINBOW〜虹の彼方へ〜(1996年10月1日)
- SEASON(1997年2月1日)
- Smile For Me(1997年4月19日)
- これからの人(1998年1月21日)
- BY MYSELF(1998年5月21日)
- JUNCTION(1998年7月18日)
- DO IT(1999年9月1日)
- BIRD(2001年6月20日)
- R★O★C★K★S(2002年11月20日)
- テレビ東京系テレビアニメ『NARUTO -ナルト-』第1期オープニングテーマ。
- POPCORN(2002年12月7日)
- 泣くなよ(2003年9月25日)
- たったひとつの愛のうた(2004年4月21日)
- 作詞:大友康平&Frank Fu、作曲:八島順一&蓑輪単志&Frank Fu。アルバム『11 Rooms For Sky』からのシングルカット。プロモーションビデオは小田和正が監督を務めた。
- SONGS(2005年3月30日)
- 作詞・作曲:蓑輪単志。電気事業連合会CMソング。デビュー直後から、ライブでのみ演奏されてきたバラード。25周年メモリアルシングルとして、スタジオ録音されて発売。かつて大友が「SONGSをシングル化するのは解散するとき」という意味の発言をしたことがあった(西山も同様の発言)ため、この曲の発売はその後の解散説に信憑性を与える結果となった。結局解散はしなかったものの、作詞・作曲の蓑輪はバンドを離脱。アルバム「OMEGA」には「version of Coda」として収録。
- アカペラ(2005年4月20日)
アルバム編集
オリジナルアルバム編集
- Welcome to The Rock'n Roll Show(1980年5月1日)
- STAND PLAY(1981年4月21日)
- POWER UP!(1981年11月21日)
- ROLL OVER(1982年4月1日)
- BRASH BOY(1983年7月1日)
- DREAMER(1984年7月21日)
- レコーディング中に初代ベースの海藤が脱退した。アルバムジャケットに海藤の写真はないが、名前は記載されている。
- Spirits!(1985年8月25日)
- LOVE(1986年12月21日)
- BE QUIET(1987年12月10日)
- それまでのCBSソニーから、Mother&Children(所属事務所が立ち上げたレコード会社)に移籍後最初のアルバム。
- GOLD(1989年1月11日)
- 海外レコーディング作品。ONLY LOVEやAMBITIOUSをはじめ、収録曲ほとんどにタイアップがついた。オリコン1位獲得。
- VOICE(1990年1月1日)
- オリジナルアルバムでは、初の2枚組。西山作曲・橋本作曲(八島との共作)の楽曲が収められている。また、鮫島・橋本・西山が初めてコーラスに参加。
- BACK TO ROCK(1991年1月25日)
- 前作に続き、西山作曲・橋本作曲の他に鮫島作曲(八島との共作)の楽曲が収められているが、三名の楽曲が本格収録されたのは本作が最後。
- BRIDGE(1992年2月22日)
- 前作『BACK TO ROCK』のセールス不振を受け、てこ入れとして後藤次利をプロデューサーとして迎えた作品。レコーディング前の会議で、橋本が蓑輪のこれまでの編曲に難癖を付け、外部アレンジャーの導入を要求している。後藤の方針でスタジオミュージシャンが本格導入され、メンバーはほとんど演奏していない[要出典]。オリコン1位獲得。
- RIVER(1993年4月24日)
- 前作『BRIDGE』と同様のコンセプトで制作された。プロデューサー・アレンジャーも同じく後藤次利。橋本がラジオ出演時に収録曲『貧乏神の警告』について「自身も作曲に携わっている」旨虚偽の発言をしている(実際の作曲者は八島・蓑輪・後藤次利)。
- ROCK ME(1994年11月10日)
- 大友プロデュースではあるが、その大友はレコーディングに際し「良い」「悪い」程度の事しか言えず、プロデューサーとしての具体的な指示は出せなかった。橋本が一部楽曲で作曲者としてクレジットされているが、実際は「八島のモニター兼アドバイザー」である。
- PARADISE LUNCH(COVER)(1995年3月)
- ACROSS THE RAINBOW(1996年10月19日)
- BABY UNIVERSE(1998年7月29日)
- 発売日が再三延期されたが、延期理由は非公表。同名のツアーで大友が「観客の反応を見て、どの曲を収録するか決めようと思う」と発言したが、実際は既にレコーディングを終えていた。
- Happy Star(2000年6月1日)
- 収録曲全てが八島作曲。蓑輪はレコーディング不参加。
- Big Dipper(2002年12月7日)
- 11 Rooms For Sky(2004年2月18日)
- OMEGA(2005年6月29日)
ライブアルバム編集
- ROLL OVER TOUR TOKYO(1982年7月1日)
- STEPPING WOLF 狼と踊れ(1983年12月21日)
- Tender Night...and seated(1999年3月20日)
- LUCKY and HAPPY Live Best Hit(2000年9月19日)
ベストアルバム編集
- Rocks To Roll(1987年7月15日)
- Nothing But Rock And Roll(1988年7月21日)
- Heart of Ballad(1988年12月1日)
- FAVORITE THINGS 〜HOUND DOG BEST 1987-1992〜 (1992年6月27日)
- Home Grown(1997年10月25日)
- GOLDEN J-POP/THE BEST ハウンド・ドッグ(1997年11月21日)
- THE BEST 〜INNOCENT DAYS〜(1998年8月21日)
- Lucky Star(1999年9月22日)
- Early Days(2001年4月)
(5枚組・DVD付…《ROLLOVER TOUR TOKYO & SP》)
脚注編集
- ^ a b 「尾崎豊さんの気持ち分かった」nikkansports.com
- ^ 「尾崎豊さんの気持ちが分かりました」大友康平が告白zakzak
- ^ まだまだ続くハウンドドッグ大友康平“独立泥沼裁判”zakzak
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関連項目編集
- 1980年の音楽#デビュー - 同じ年にデビューした歌手
外部リンク編集
- iehok - 大友康平、HOUND DOG Official Web Site
- Sony Music Online Japan - HOUND DOG(ソニー時代)
- Warner Music Japan - HOUND DOG(ワーナー時代)
- 八島順一 オフィシャルサイト
- 蓑輪単志 (STUDIO MANOMANA)
- 鮫島秀樹 オフィシャルブログ
- 橋本章司 オフィシャルブログ
- 西山毅 Official Web
- HOUNDDOG6事務局 - ウェイバックマシン(2007年3月20日アーカイブ分) - 意見広告を出した有志のサイト