中村橋派出所警官殺害事件

1989年5月に日本の東京都で発生した強盗殺人事件

中村橋派出所警官殺害事件(なかむらばしはしゅつじょけいかんさつがいじけん)は、1989年平成元年)5月16日未明に東京都練馬区中村北で発生した強盗殺人公務執行妨害銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反事件[4]

中村橋派出所警察官殺害事件
場所 日本の旗 日本東京都練馬区中村北四丁目2番4号「警視庁練馬警察署 中村橋派出所[注 1][4]
座標
標的 現場派出所勤務の警察官巡査A・巡査部長B[4] / 事件後に2階級特進[5]
日付 1989年平成元年)5月16日[4]
2時50分ごろ[4] (UTC+9日本標準時・JST〉)
概要 加害者の男が銀行強盗などにより大金を得ることを企て、そのための手段として警察官を襲撃して拳銃を奪うことを考えた[6]。そして事件当日に中村橋派出所で執務中の警察官2人をサバイバルナイフで襲撃して刺殺したが、拳銃強奪の目的は達せなかった[4]
攻撃手段 サバイバルナイフで刺突する[4]
攻撃側人数 1人
武器 サバイバルナイフ(刃体の長さ約17 cm / 平成元年押第1132号の6)[4]
死亡者 2人[4]
犯人陸上自衛官の男S(事件当時20歳・店員)[7]
動機 銀行強盗をするための拳銃奪取[6]屈辱感の解消のため[8]
防御者 被害者・巡査部長Bが拳銃を3発発砲[4]
対処 加害者Sを警視庁が逮捕[9] / 東京地方検察庁起訴[10]
謝罪 捜査段階で被害者への謝罪の言葉を述べ[11]、公判でも反省の言葉を述べた[12]
刑事訴訟 死刑[13]上告棄却により確定 / 未執行[14]
管轄 警視庁(捜査一課・練馬署)[3] / 東京地検
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概要編集

 
中村橋交番(2020年)

陸上自衛官の男S(事件当時20歳)が銀行強盗などのために拳銃を奪取しようと[6]警視庁練馬警察署の「中村橋派出所[注 1]を襲撃し、勤務していた警察官2人(巡査A・巡査部長B)をサバイバルナイフで刺殺したが、被害者らの抵抗に遭い拳銃強奪は未遂に終わった[4]

警察庁によれば、派出所勤務中の警察官2人が同時に殺害され殉職した事件は1955年(昭和30年)以降では初で[15]、1979年(昭和54年)以降の10年間で勤務中の警察官が一度に複数人殺害され殉職した事例も三菱銀行人質事件(1979年1月26日発生)以来2件目だった[2]。本事件は「警視庁創立140年特別展」の来館者らに対し実施された「みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート(2014年1月10日 - 5月6日に実施)[16]にて30票を得票し、第60位(うち警視庁職員の投票による順位では19位)に選出された[17]

加害者・死刑囚S編集

本事件の加害者S・S(イニシャル / 以下、姓のイニシャル「S」で表記)は1969年昭和44年)1月1日生まれ(現在51歳)[14]。事件当時は東京都中野区上鷺宮三丁目14番13号のアパート[注 2]に居住していた[6]

刑事裁判の第一審で死刑判決を受け、控訴棄却判決を経て1998年(平成10年)に最高裁判所上告棄却の判決を受けたことで死刑が確定し[19]2019年令和元年)10月1日時点で[20]死刑囚として東京拘置所収監されている[14]。死刑確定後の2003年(平成15年)8月には犯行時の責任能力を問題として再審を請求している[21]

Sの生い立ち編集

Sは東京都板橋区出身で[注 3][7]、板橋区内の保育園を経て1975年(昭和50年)4月に板橋区立志村第六小学校へ入学したが、母親Xが仕事上で様々な苦労を抱え、父親Y(プラスチック加工会社の社員)も次第にギャンブルに凝ったことなどから家庭内の諍いが絶えず、1977年(昭和52年 / 当時8歳)ごろに妹とともに母Xに連れられて実父Yと別居した[注 4][22]

その後、母Xは自身が所長を務めていたポーラ化粧品株式会社志村橋営業所の部屋でSやその妹とともに3人で生活していたが、相談相手の男性Z(トラック運転手)と懇意になり、1978年(昭和53年 / Sは当時9歳)夏ごろにSやその妹とともに埼玉県戸田市内のZ宅[注 5]に転居した[22]。Sは戸田市立喜沢小学校へ転校したが、ZにはSと保育園から一緒で折り合いの悪い長男がいたことに加え、SはZから度々いじめられていたほか、ZがSの実母Xや自身の長男に対し些細なことで暴力をふるう姿を目の当たりにさせられていたことなどから、次第にZ父子との同居生活に不快感を募らせていた[22]。しかし粗暴なZに対する恐怖心から反抗もできず、それに耐える日々を送っていたが[注 6]、1983年(昭和58年 / 当時14歳)ごろには母Xが仕事上の悩み・Zの暴力的な振る舞いなどによる心労が積み重なったことによりうつ病に罹患し、症状が重い際には家事もできず終日家に閉じこもるようになってしまったため、Sは妹やZとともに自ら食事の支度などをする生活を余儀なくされた[22]

このような特異な同棲生活は浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)卒業直前の1986年(昭和61年 / 当時17歳)11月に母XがZとの同棲を解消したことで終わったが、Sはそのような8年余りの特異な生活体験から「すべての不快な事態は自分なりの理屈で解釈し、それが説明できるときはそれなりに納得する一方、説明できないときは『そもそも不快な事態ではない』などと思い込む」ようになり、様々な生活関係による憤懣・不安の念などの感情を表面に出さず心中で押し殺すことで外見上の平静さを保とうとするようになった[22]。その結果、元来の明朗な性格は鳴りを潜めて神経質・自閉的な性格傾向を深め、次第に友人も少なくなっていった[注 7][22]。そのような生活の中で1985年(昭和60年 / 当時16歳)ごろからは漠然と「自分の不幸な家庭生活はすべて貧困に起因するものだ。金さえあれば嫌な人に頭を下げたり一緒に生活する必要はないから、大人になったらとにかく大金が欲しい。しかし真面目に働いても『お人よし』で終わるだけで幸福にはなれないから、大金を手に入れるためには銀行・ギャンブル場(競馬場など)のように金の集まるところを襲うしかない」などといった特異な生き方を考えるようになった[22]

また少年時代から武器に興味があり、中学時代には玩具の銃に強い興味を示していたほか、中学1年生の時にはプラスチック弾を発射するライフル銃(エアソフトガン)を何度か学校に持ち込んで他生徒に見せびらかし、教師から叱られたこともあった[23]。しかし母親はそのことについて「銃にしても、一時的に興味を持っていただけです。学校にライフルのモデルガンを持っていって先生に叱られたなどと出ていましたが、あれは銃の好きな友だちに貸していたのを、友だちが返すのに学校へ持ってきちゃったんです。Sは、そんなものより本や映画の好きな子でした」と語ってる[24]。成績は上位で理数系に強く、スポーツとは無縁で苦手は体育。3年生の時には数学の授業中に隣の男の子にからかわれてSはカッとなり相手の頬をコンパスの針で刺したことがあった[25]。一方で担任教師は「みんなとも仲良くやっていました。運動会について書いていた作文がとても素直で印象的でした。まさかねえ」と首をかしげている[26]

高校時代の成績は中位。自分の意見と合わないことはせず、球技大会にもバカバカしいと参加しなかった。一人きりでいることが多く、北方謙三大藪春彦が好きだった。当時の友人はSについて「一浪すれば駒沢か中央に入れたと思う」と語る[25]。部活動は全くやっておらず担任教師は全く印象に残っていなかった[27]。事件後の取材に対しクラスメートはいちように「ヘンな人だった」という感想を返していた。授業中におもむろにオペラグラスを取り出して黒板をじっと見だし、周りが気づいてクスクスと笑いだしても平然とノートを取り続け、教師に注意されてもやめなかったので気味悪がられた。また昼食はパンや缶詰で、からかわれても平然と缶切りで開けて食べていた。普段は無口だがときどき突然「バカヤロー」とわめいたり、からかわれてハサミを片手にクラスメートを追い回したこともあった。このことについて同級生は「まぁ半分冗談なんだろうけど、顔が真顔だからちょっと怖いですよね」と語る。友人宅の父親のだらしなさに怒って「バカヤロー」と捨て台詞を吐いて帰ったこともあった[27]。修学旅行では枕投げにも参加せず、また極端な写真嫌いで、うつむいたり人の陰に隠れようとし集合写真でも一人で離れようとして注意されていた[27] [28]

また、高校の途中から今まで漫画や文学などを読んでいたのが哲学の本を読むようになり、母親に「自分のやりたいことをやって、自殺した人の話を知っている」と話したことがある。事件後もアパートの部屋に難しそうな本が沢山あったという[24]

陸上自衛隊時代編集

1987年(昭和62年)1月、当時18歳だったSは母親X・妹とともにZ父子と別れて初めて水入らずの正月を迎えたが、同年3月に高校を卒業すると同時に「母親Xから離れて自活しよう」と考え[注 8]、2任期4年間の勤務を志して自衛隊への就職を志望した[22]。1987年3月25日付で陸上自衛隊二等陸士として採用され、その直後には滝ヶ原駐屯地静岡県御殿場市)所在の普通科教導連隊に教育入隊した[22]。その後、約4か月間の新隊員前期・後期課程を経て、同年9月には同連隊第二中隊に小銃手として配置され、19歳になった1988年(昭和63年)1月1日には一等陸士に昇進し、20歳になった1989年(昭和64年)1月1日には陸士長へ昇進した[22]。自衛官時代は上官・同じ班の者からは「物静かで真面目なごく普通の隊員」として評価されていたが、[注 9]陸上幕僚監部に残っている調査書には「粘り強く計画性がある。射撃能力に優れている」と記されており[27]、射撃は同期30人の中でもトップクラスだった[29]。隊員と共に「プラトーン」を見に行ったこともあり、Sは「自分たちが使っている武器が実際に使われていた」と嬉しそうにしていた[27]

また1988年から「本の置き場にする」と事件当時の住居だったアパートを借り[30]、月に一、二度外泊許可を貰って来ていた。上京してもこの部屋に閉じこもって読書することが多く[31]、元旦は20歳の誕生日だったが正月もこのアパートで一人で過ごした[27]。向かいの部屋に住む[27]大学生Aを招いて数回酒を飲んだことがあるが、その時には「オレはネクラだ」「権力が何だ」[30]「アルバイトでお金を貯めていい暮らしをしたい。なんか大きなことをやりたい」と語った[31]。また自衛隊については「わざわざ自分たちで勝手に仕事をつくってやってるみたい。あまりおもしろくない。表面では落ち着いているけど、心の中ではムカついているんだ」[31] 「自衛隊は人と金を浪費している」[27]「自衛隊で、挨拶はしたが、内心ではコノヤロウと思ってた」[32]と批判する一方で「戦闘訓練は本当に楽しい。いいストレスの解消になる」[33]と目を輝かせていた[34]。1988年3月4日、アパートの近所のビデオ店で会員になり「ブラックサンデー」「プラトーン」「マイアミバイス」など5本を借りた[27]

隊内でのスポーツ活動には参加せず、Sは隊内での生活になじめなかったため、他人に束縛されずに働けるフリーターを希望するようになった。1989年(平成元年)3月24日には「就職先を紹介しようか」という上司の言葉に「フリーのアルバイターになるのが自分の夢」と固辞し[34]除隊後の就職斡旋の話に応じず、1任期満了で陸上自衛隊を除隊した[22]。大学生Aは自衛隊を辞めることを知り話を聞いて続けるよう勧めたがSはキッパリと辞めると話し、「これからだ」と言っていた[26]。遊んで騒いでいた小学生に対して「静かにしろ」と怒鳴りつけたり[35]、鬱憤を晴らすようにアパートの部屋の壁を叩くこともあったという[36]

事件の経緯編集

除隊後編集

 
事件現場(赤色「×」)周辺の航空写真。加害者Sは◎(自宅アパート)[注 2]から車を運転して「P」付近に路上駐車し[6]、「※」から被害者巡査Aの動向を観察した上で襲撃した[4]

陸上自衛隊除隊後、Sは母親と全く連絡を取らずに事件当時の住居だったアパートの居室へ転居し、同年4月9日 - 25日まで山形県内の自動車教習所で合宿教習を受けて普通自動車免許・自動二輪車免許を取得したほか、同年5月2日にはアルバイト情報誌で知ったコーヒー豆挽き売り店(東京都杉並区荻窪)でアルバイト店員として働き始めた[6]

アルバイト先の店長に「マジメそうだったから」「世間ずれしてなく、礼儀正しいので採用した」と10人以上応募があったうちの2人に選ばれ採用され、時給600円、週4日、朝9時半から19時まで働いていた。8時半には家を出て、定刻30分前には必ずやってきて遅刻することはなかった[23][26][27]。普段外食はせず、出勤前にいつも80円のメロンパンやクリームパンなどの菓子パンを一つだけ買ってきて、休憩時間30分のところを10分くらいで食べるとすぐに仕事に戻った。店長が「そんなものばっかり食べていて大丈夫か」と聞くとSは「店長も、そんな贅沢したらだめですよ」と逆に注意し、大学生Aには「食い物に金かけたくない」と話して自炊も質素だった[25][29][31]。一度コーヒー豆の配達に出たきり2時間ほど戻ってこなかったことがあり、その時は600円のコーヒー袋を一個だけ落とし雨の中ずっと探していたほど責任感も強かった[31][36]。店長はSを信頼して鍵を任せており、また自分の朝食用に買ってきたハンバーガーや客からの差し入れを渡したり、焼肉屋に連れて行ったことがあった。しかしSは遠慮して皿に肉をとってやらないと食べなかったという[26][32]。Sは大学に対してコンプレックスがあったようで店長に対して「大学出ているのに何でこういう仕事をしているのですか」「出身のW大学ってどんなふうですか」と聞いたこともあった。また、履歴書には趣味は読書、得意な学科は英語と書いている[26]。アパートには女性どころか男友達すら訪ねてくることはなく、店長が「カノジョいるの」と訊くとSは「とんでもないっ」と答えた[31]

犯行計画の立案編集

このころは特段生活に困窮する状態ではなく[注 10]ローンなどもなかった[23]、16歳(高校2年生)時から抱いていた大金入手の願望が再び頭をよぎるようになり、「まともに働いていたら何年かかっても大金は手に入らない。大金を得るためには銀行・ギャンブル場へ強盗に入るなど、法に触れることを覚悟しなければいけない」という思いが次第に強くなり、やがて「どうすればうまく大金を奪えるか?」などと思いを巡らすようになった[6]

また、アルバイト先に務めて最初の定休日(火曜日)となる5月9日にはレンタカー[注 11]を運転して約2年ぶりに埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)内の母親X宅を訪れたが、その際にはXと今後同居するつもりがないことを察せられるやり取りを残して自宅アパートに戻ったほか、このころには「銀行強盗などをして大金を奪うためにはまず拳銃を入手しなければいけない。そのためには常時拳銃を腰に着装している警察官を襲うしかない」などと考え、警察官を標的とした具体的な拳銃強取方法を考えるようになった[6]

5月11日ごろ、Sは「自宅アパート(中野区上鷺宮三丁目14番13号 / 画像中の黄色「◎」)[注 2]の近くにあり、犯行後の逃走が容易だ」との理由から現場となった「中村橋派出所」[注 1](練馬区中村北四丁目2番4号 / 画像中の赤色「×」)を実行場所として狙いを付けたほか[注 12]、拳銃強奪の具体的実行方法として「人通りの少ない深夜に警察官が1人で派出所にいる隙を狙う。先端が鋭利なサバイバルナイフで警察官を背後から突き刺して殺し、拳銃を奪ってそのまま自宅アパートに逃げ帰る」という方法を考え付いた[6]。そしてその決行の日については「犯行の翌日に勤務先の者と会わない日」として、翌週の勤務先の定休日(火曜日)の前夜である5月15日夜 - 翌16日未明にかけて敢行することを決めたほか、凶器は事件2年前(1987年 / 昭和62年)に東京・上野のモデルガンショップで購入していた鋼製両刃・刃体の長さ約17センチメートルのサバイバルナイフ(平成元年押第1132号の6 / ガーバー社製「マークII」)[注 13]を使用することにした[6]

決行予定日の1989年5月15日、Sは「中村橋派出所」を車内から見張るために使用する自動車を用意するため、9時ごろにニッポンレンタカー東京株式会社鷺宮営業所(中野区鷺宮)でレンタカーの借用を予約し、13時 - 16時ごろまでの間は北としまえん自動車教習所(東京都練馬区)で継続して受講中の二輪免許限定条件解除のための教習を受けた[6]。その後、18時ごろにレンタカー1台(トヨタ・カローラ)を借用した上で見張りに用いる双眼鏡を購入するため、カローラを運転して豊島区東池袋の「ビックカメラ本店」[注 14]へ赴き、18時58分ごろに同店地下2階売場で双眼鏡1台(本体・ケース・レンズ部分のキャップのセット)[注 15]を購入した上でアパートに戻った[6]

アパートに戻ったSは犯行時の服装についても特に目立たない色彩の物[注 16]を用意し、24時ごろに着替えて身支度を整えると、犯行現場へ携行する物を入れるため双眼鏡を購入したビックカメラの手提げ紙袋1袋(平成元年押第1132号の1)を用意し、その袋の中にサバイバルナイフ・双眼鏡と緑色軍手片方[注 17]、タオル1枚[注 18]を入れて準備を完了し、アパート前に駐車してあったレンタカーにその紙袋を積み込んだ上でレンタカーを運転して中村橋派出所へ向かい、派出所内部が偵察できる場所に駐車すべく走行・移動した[6]

その後、Sは派出所の東方約87.5メートル(m)に位置する「西友 中村橋店」(練馬区中村北三丁目15番6号 / 画像中の黄色「P」)の南側商品搬入口に車の後部を乗り入れた状態で路上駐車し、車内から双眼鏡で派出所の様子を偵察した[6]。しかし当時は警察官2人が見張り勤務に立っており[注 19]、かなりの時間が経過しても警察官が1人になる気配が一向に感じられなかったため「派出所に近づいて1人になったところを隙を見て襲うしかない」と判断した上で、双眼鏡を車の後部座席に置き、サバイバルナイフなどの入った手提げ袋を持って車を降りた[6]。Sはそのまま徒歩でいったん派出所まで接近したが、容易に襲撃の機会を見出すことができなかったため、警察官に気付かれないよう派出所付近の路上を行きつ戻りつしながらも執拗に警察官を襲撃する機会を窺った[6]。一方で2時すぎ - 2時50分ごろには派出所近くで少年3人が職務質問されていたが、A・B両被害者とも当時派出所にいた[46]

警察官2人を殺害編集

 
交番の裏口

1989年5月16日2時50分ごろ、加害者Sは「中村橋派出所」裏側路上で警察官から拳銃を強取する目的でA・B両警察官をサバイバルナイフで襲い、2人を刺して殺害することで両警察官の職務の執行を妨害したほか(強盗殺人罪および公務執行妨害罪)、派出所裏側路上で正当な理由なく凶器のサバイバルナイフ1本を携帯した(銃砲刀剣類等所持取締法違反)[4]

事件発生時刻ごろ、Sは派出所の西方約70メートルに位置する「練馬区中村橋集会所」(中村北四丁目2番8号 / 画像中の黄色「※」)前路上に差し掛かった際、執務中の被害者・巡査A(警視庁練馬警察署警邏第三係巡査・30歳没)[注 20]が派出所出入り口前(東側)に一時保管していた遺留自動二輪車を派出所裏側(西側)の遺留自転車等保管場所[注 21]へ移動作業中であることを確認し、巡査Aの動静を窺った[4]

するとAが保管場所で自動二輪車の出し入れをしており、その背後が全く無防備になっていたため、Sは「この機会にAを殺害して拳銃を強奪しよう」と決意して東進し、派出所と集会所の間(中村北四丁目2番8号)にあった飲食店脇の電柱(中村24)の陰に身を隠し、所持した手提げ紙袋の中から凶器として用いるサバイバルナイフを取り出して右順手に持った[4]。Sは用意した軍手片方を左手に着用する余裕もないまま小走りに巡査Aへ背後から近づき、背中をサバイバルナイフで突き刺したが、Aが振り向いて「やめろ」と言いながら両手でSの上腕部を掴み、その場に倒れ込む格好となった[4]。さらにAは上半身を起こし、なおもSの身体から手を放そうとしなかったため、Sは正対したままAの胸部などを力任せにサバイバルナイフで突き刺してAをその場に仰向けに倒れさせた[4]。そしてSはAに致命傷を負わせると、そのままAが着装していた拳銃を奪おうと右腰あたりの拳銃ケースに手を掛けたが、Aが拳銃を奪われまいと抵抗したことに加え、S自身も慌てていたためケースカバーを外せず、拳銃を奪うことには失敗した[4]

そのころ、派出所内で執務していた被害者・巡査部長B(練馬署警邏第三係巡査部長・35歳没)[注 22]が同僚Aの急を察知してSがAを襲っていた派出所裏へ駆けつけ、警棒を振り上げながらSに対し「おい!」と声を掛けた[4]。その場で立ち上がったSは咄嗟に「このままでは捕まる」と考えたため「いっそのことBも殺して、拳銃を奪って逃げよう」と決意し、Bが振り下ろした警棒を左手で払いのけ、右手に持ったサバイバルナイフでBの胸部を力任せに突き刺した[4]。BはひるまずSと組み合い、路上に転倒したまま揉み合ったが、SはBの胸部などをサバイバルナイフで数回にわたり力任せに突き刺して致命傷を負わせ、Bが着装していた拳銃ケース(「平成元年押第1132号の17」)に手を掛けて拳銃を強奪しようとしたが、Bの激しい抵抗に遭い失敗に終わった[4]。Sはそのまま逃走したが、BはなおSに対し拳銃を3発発射して威嚇したほか、最後の力を振り絞って派出所へ戻り、事件発生を電話連絡した[12]

犯行後、Sは凶器のサバイバルナイフ・犯行時に着用した衣服・靴・軍手などを[47]武蔵関公園内の池[注 23]に投棄して罪証隠滅工作を図った[48]。また犯行5時間後の5月16日8時ごろにはレンタカー営業所へレンタカーを返却したが[注 24]、その際には車の左側ドア・右後部パンパ―など数か所がへこんでおり、Sは係員に対し「近くの路地に入り込んでしまい、何回かぶつけてしまった」と説明した[49]。そのため営業所側は保険請求手続きの必要性から警察に届けるように求め、Sは自ら近くの野方署鷺宮駅前派出所へ出頭し、同署内にいた警官を伴ってレンタカー会社へ一緒に戻り、車を見せながら事情を詳しく説明していた[49]

翌日の朝、洗面所で大学生AはSに「警官殺されたね」と話しかけると、Sは「そうですね、大変なことになりましたね」と平然と言ったきり前を向いたまま目をぴくりとも動かさなかった。[29]

捜査編集

遺留品編集

一連の刺突行為により巡査A・巡査部長Bともに致命傷を負い、Bは同日3時55分ごろに帝京大学医学部附属病院にて右肺・肝臓への刺創(刺し傷)に基づく失血などにより死亡したほか、Aも同日4時18分ごろに東京医科大学病院にて心臓・肝臓などの刺切創(刺し傷および切り傷)による失血などにより死亡した[4]。警視庁捜査一課・練馬署は殺人事件として特別捜査本部を設置し[3]、警視庁は同日付で殉職した被害者の警察官2人を(巡査Aを警部補・巡査部長Bを警部に)それぞれ2階級特進させたほか、警察庁も両被害者の遺族に警察勲功章を贈った[5]

事件発生直後に捜査員はSの住むアパートに訪れ聞き込みを行なっていたが、この時Sは極めて協力的な態度で対応し、「大変な事件が起きて、本当にごくろうさまです。早く犯人が捕まるといいですね」と、ねぎらいの言葉をかけており、その対応は特捜本部内では事件に無関係の住人と心証を得たほどだった[50]

被害者・巡査Aが倒れていた派出所北側の歩道にはサバイバルナイフの鞘(ナイフケース)・タオル・手袋の入った「ビックカメラ」の紙袋が残されており[51]、紙袋からは指紋が複数個検出された[52]。また、派出所から約200メートル西方の十字路まで約3メートル間隔で靴などによる血痕が残されていたほか、そこから右折して約30メートル先の道路脇にあった水道洗い場(クリーニング店敷地内)数か所や300メートル先の工場社員寮の門[注 25]からも血痕が検出され[53]、5月21日には武蔵関公園・富士見池(逃走経路の延長線上)にて犯人が着用していた衣服や靴・凶器のサバイバルナイフ[47]・双眼鏡のレンズカバーが発見された[45]赤色の靴下[54]や、緑色の軍手も片方捨てられており軍手は「ゴコーグローブ」社の「ゴコーシームレス」というもの[34]。衣服の黒の背広上下は群馬県内の衣服製造会社で1987年(昭和62年)9月から10月にかけて製造され、上下組み合わせで3万円前後。シャツは黒地に白色縦縞のスタンドカラー(高さ2.5センチ)のもので、名古屋市内の衣服製造会社が1987年(昭和62年)9月から10月にかけて百着製造し一着3900円で売られていた。衣服には血がついており、サイズが26センチの茶色のカジュアルシューズの靴底には血がべったりとついていた。レンズカバーは「ケンコー」社製の「アートス」という定価1万7500円、倍率10倍のワイド型の双眼鏡のものだった[55][56]。また、市販の履歴書を入れるための封筒も袋の中に入っていた[57]

なお21日には当時未解決だった東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件[注 26]の犯人が名乗っていた「今田勇子」の偽名で警察官殺しを祝うような声明文が派出所裏にばら撒かれたが、この件に関しては事件に便乗した第三者による愉快犯とみられている[58]

特捜本部は被害者の刺し傷が心臓に達するほど深いものだったことから「最初から生命を奪うことを目的にした刺し方」と判断し[59]、「犯人は現場付近に居住するか土地勘のある者だ」として[注 27]遺留品(計13点)などを詳細に調査した[61]

犯人像編集

しかし本事件は遺留品の数そのものは豊富だったが、それらの販売元をくまなく調べてもどこの店員も販売した客について全く覚えていなかったことに加え[62]、事件直後に加害者Sが巧みな罪証隠滅工作を図ったこともあり、事件解決には時間を要した[48]。その間に以下のような犯人像が推測された。

  • 現場周辺の不審者説 - 事件前日未明(3時40分ごろ)には現場付近でタクシー運転手がナイフを持った男に襲撃される事件が発生していた点から、同事件と同一犯である可能性が指摘された[63]
  • 逆恨み説・顔見知り説 - 最初に巡査Aが背後から刺されていた点から「練馬署・同派出所で過去に職務質問・検挙された者が被害者たちを逆恨みし、計画的に犯行に及んだ」と推測された[注 28][64]。また屈強な警察官2人が無抵抗同然の形で刺殺された点から「2人とも犯人の様子から凶行を全く予想し得なかったか、犯人と顔見知りで無警戒だった可能性がある」「犯人は警察官2人がいることを承知した上で犯行に及んだ」とも推測された[46]
  • 過激派説 - 一部の過激派セクトに属する活動家が護身用として常時大型ナイフを所持していたため、警視庁公安部が「過激派メンバーによる犯行の可能性もある」と関心を寄せていた[注 29][51]

その後、「事件直前の2時45分ごろに派出所裏の歩道橋段下付近(紙袋が遺されていた場所)に黒っぽい上下の服を着た男が潜んでいた」という目撃情報があり、事件10分前から待ち伏せていたことが「計画的犯行」説を補強することに加え、目撃された男は人相・着衣や犯人像(20歳前後で黒い上下の服を着た男)とも一致した[65]

また遺留品となった凶器のサバイバルナイフ・着衣などから犯人像は「ナイフにこだわる趣向を持つ若者でミリタリーマニア」[66]もしくは「サバイバルゲームの愛好者」という線が浮上した[62]。これに加え、犯行現場と武蔵関公園にはそれぞれ緑色の軍手が片方ずつ残されていたが「双方は色・糸が違う別製品で、うち武蔵関公園に投棄されていた軍手はほとんどが自衛隊駐屯地内の売店で販売されていた」という事実も判明した[注 30][34]。そのため特捜本部は「犯人は自衛隊関係者の可能性が高い」と絞り込み[61]、現場周辺で聞き込み捜査を続けたところSが浮上し[34]、「犯人像と酷似していた上に事件当時のアリバイがなく、凶器と同じサバイバルナイフを持っていたことがある」点から犯人として断定される格好となった[61]

逮捕編集

警察はビデオ店に戦争ものやアクションものを見ている者がいるかもしれないと貸し出しリストを求めたが、若い店長は「プライバシーの問題があるので、貸し出しリストは見せられない」と一点張りした。しかし毎晩のように店に通って顔見知りになるうちに、次第に警戒心が解け、「リストは渡せないですけど、犯人像を教えてくれたならば協力できると思います。こんな客がいるというぐらいは教えてもいい」と言い、巡査部長は年齢二十歳前後、身長168cmくらい、やせ形、「もしかしたら自衛隊員かもしれない。そうなら戦争ものを借りていることも考えられる」と説明した。事件から二週間後、ビデオ店の店長が「実はぴったりの男が……」「自衛官なんです」と巡査部長にSの住所や名前を教えた。

しかしその時Sは部屋におらず、しばらく見かけないという。大家に「帰宅したら連絡してほしい」と告げ、戻ったと連絡があったのはさらに一週間後であった。6月6日、Sの4畳半ほどの部屋に入ると二段ベッドの脇に茶箪笥があり、そこには池から見つかったものと同じ封筒が立て掛けてあった。「履歴書持ってるんだねぇ。仕事変わるの」と訊くとSは「そうです」と答え、その時Sは怯えた様子がなく、態度が堂々としていた。「きょう署に来てもらえます」と訊いてみると「わかりました。でも今教習所に行っているので終わってからでいいですか」と素直に応じ、夕方練馬署に姿を現した。経歴や今の生活などとりとめのないことを聞き、疑いは強くなる一方だったが、現場から検出された両被害者(O型)と異なるB型血痕と[67][68]Sの血液型が違うことや、怯えがなく堂々としていたためSの存在はシロでもクロでもない灰色とされた。翌朝6月7日、巡査部長はSをもう一度署に呼び「念のため、指紋をとっていいかな」と訊いてみるとSは「別にいいですよ」と抵抗せず十指の指紋を採らせた。その日のうちに指紋が池に捨てられていた袋に残っていたものと一致し、巡査部長はあわてて逮捕状や捜索令状を請求するため捜査報告書を作成した。本来ならば取り調べで容疑者を落とすためには家族関係や生い立ち、周囲の証言を洗う基礎調査を行う必要があるが、九日の警視庁葬が控えていたことから捜査一課長は「基調は必要ない。明日には引け」と命じた[57]

なお、Sはこの日の夜、逮捕を予感していたのか貰ったプロ野球と遊園地の入場券をアルバイト先の店長に「お世話になったから」と渡していた[36]

特捜本部は1989年6月8日早朝に加害者Sのアパート居室へ出向き、Sを任意同行したが、その部屋には犯行後に発見された2種類の軍手のそれぞれ片方ずつが遺されていた[34]

警視庁本庁舎二階の取調室に連れて行かれSはそこで背筋をピンと伸ばして座っていた。事件番の四係長が「ここへ来てもらった理由はわかるね」と静かに語りかけるがSは「なんのことかわからない。なんでいきなり」とぶっきらぼうに答え「ぼくを犯人とみているなら、話し合っても仕方ないでしょう」と薄笑いを浮かべたと思うと、Sは両手を堅く握り、だんまりを通した。係長が「堅くなるな」と肩の力を抜かせて緊張を解かせようと思い拳を開かせた。その手を握ると、汗でべとべとだった。

Sに被害者の遺族のことを話すと、目に涙を浮かべはじめ、取り調べ開始から一時間二十分後「ちょっと待ってください。水が欲しい」と漏らし、「もうしわけないことをしました」と泣きじゃくりながら犯行を自供した[27][35] [57]

Sは取り調べに対し「大金欲しさに銀行強盗をやろうと拳銃を狙った」と犯行を自供したため[61]、特捜本部は事件発生から23日目となる同日午後(警視庁による公葬の前日)に被疑者Sを殺人容疑で逮捕した[9]。練馬署に入る際に係長は「顔を隠すか」とSに訊いたが「私がやったことですから仕方ありません」と答え、顔を隠さなかった[57]。後の家宅捜索では富士見池に投棄されていたレンズカバー(キャップ)と同じ種類の双眼鏡の本体も発見されたほか[69]、Sは犯行時の経緯について「派出所裏に潜んで様子を窺い、巡査Aが派出所脇に置いてあった自転車を整理しようと1人で外に出てきたところを背後から襲った」と述べたほか、動機について「なぜ危険を冒してまで拳銃を奪うことにこだわったのか?」と追及されると「銀行強盗では窓口で100万円単位の金しか奪えないから、億単位の金を手に入れるためには三億円事件などのように現金輸送車を襲撃するしかないと思った」と供述した[70]

特捜本部は6月9日午後に被疑者Sを殺人容疑で東京地方検察庁身柄送検したほか[49]、警視庁は同日に殉職した被害者2人の公葬を行い、金澤昭雄警察庁長官大堀太千男警視総監鈴木俊一東京都知事ら警察・東京都の代表者らが列席した[71]

なお逮捕後Sは動機について「お金ほしさじゃなくて哲学的なことからだ」「だけど警察にそんなこというと、気がふれたと思われるから、お金目的ということにした」とまるで違うことを面会にて母親に打ち明けている[24]

刑事裁判編集

一審編集

東京地方検察庁は1989年6月10日付で被疑者Sの容疑を強盗殺人・公務執行妨害・銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反に切り替え[11]、1989年6月29日に被疑者Sを強盗殺人・公務執行妨害・銃刀法違反の罪で東京地方裁判所起訴[72]、同年10月18日に東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)で被告人Sの初公判が開かれた[73]。初公判で行われた罪状認否にて被告人Sは被害者への殺意を否認したほか、弁護人も「傷害の故意はあるが殺意はない」として傷害致死罪の成立を主張した上で、動機について「理解困難。ごく普通の青年がこのような犯行に及んだ経緯を解明するには生育の経緯・心理構造の解明が必要だ」と述べた[74]。一方で東京地検の検察官は1991年(平成3年)2月15日に開かれた論告求刑公判で被告人Sに死刑求刑した[75]

Sは法廷にて独自の人生哲学を述べた。警官を刺した時のことを「ためらいを感じたが、その気持ちを自分で消した」と語り、そのことについて「いまでは間違った哲学だったと思う」と振り返った。男性Zの長男から「いつもいじめられていた」ことから「同居は恐怖だった。自分の方が折れて我慢し、ストレスが続いた」という。Zが母親を殴り、その都度Zを憎み、不快になった。それが「感情を消す哲学」のきっかけになった。「なぜ不快になるのか考えたが、言葉で説明できないのだから、不快の根拠はないとの結論に達した。そうしたら、憎い気持ちがなくなり、感情を消すことができた。それから、不快な時、いつもそのように考える癖がついた」と述べ、事件については「このままだと、屈辱感を解消しないまま一生を終えると焦りを感じ、それで犯行を計画した」とも述べた[76]

1991年5月27日に判決公判が開かれ、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)は東京地検の求刑通り被告人Sに死刑判決を言い渡した[13][77]。判決理由で同地裁は弁護人の「被告人Sは被害者2人への殺意を有しておらず傷害致死罪に該当する。また精神分裂病の遺伝的素因を有している疑いがあり、犯行当時は偽躁うつ病型分裂病による心神喪失ないし心神耗弱状態だった」とする主張を退け「被害者の受けた傷はいずれも身体枢要部に達するもので、『拳銃を奪う』という動機に照らせば捜査段階における『殺意を有した上で計画的にやった』という供述は十分信用できる。犯行後に周到な罪証隠滅工作を行っていることなどを考慮すれば是非弁識能力・行動統御能力の面に異常は認められず、刑事責任能力に問題はない」と事実認定したほか[48]量刑についても「社会の秩序維持のために勤務中の警察官2人の生命が奪われた、法治国家における秩序に対する反逆・挑戦ともいうべき事件だ。被告人Sは自衛隊で国の安全を守るための必要な教育訓練を受けた経歴を有するにも拘らず、除隊後わずか2か月で『拳銃を奪い強盗を行う』ために凶悪・身勝手な犯行に及んでおり、酌量の余地はない。社会に与えた衝撃の大きさや被害者の無念・遺族の峻烈な処罰感情などを考慮すれば極刑をもって臨むほかない」と結論付けた[12]

死刑確定編集

被告人S側は判決を不服として東京高等裁判所へ即日控訴[78]、控訴審では「被告人Sは犯行当時は精神障害責任能力を失った(心神喪失の)状態だった」と主張したが[79]、東京高裁第10刑事部(小林充裁判長)[80]は1994年(平成6年)2月24日に開かれた控訴審判決公判で第一審・死刑判決を支持して被告人Sの控訴を棄却する判決を言い渡した[81]。同高裁は判決理由で「被告人Sは恵まれない環境で育ったために人格の偏向があることはうかがえるが、精神障害は認められない」と認定し[82]、量刑についても「拳銃を奪う目的のために警察官を犠牲にすることもいとわず、他人の生命に対する一片の配慮もうかがえない非情な犯行に及んだ。被害者遺族の被害感情も考慮すれば、死刑制度が存置されているわが国の法制下では極刑もやむを得ない」と結論付けた[81]

弁護人は最高裁判所上告し、上告審でも「被告人Sの犯行当時の責任能力には疑問があり、再度の精神鑑定が必要だ」と主張したが、最高裁第一小法廷井嶋一友裁判長)は1998年(平成10年)9月17日に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人S・弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑が確定した[19]

Sの人物評編集

  • 「本好きで何時間でも読み続ける。生真面目で四角四面の所があった」[32](運転手の男性Z)
  • 「しっかりした子でね。よく勉強していたし、顔を合わせると向こうからあいさつしてくるの。主人とも、近ごろ珍しいいい子だねと話していたのに」[26](埼玉県戸田市の近所の主婦)
  • 「ビッグコミックの戦争マンガ、『エリア88』が好きでしたね」[26](高校時代の同級生)
  • 「まぁ、口数は少ないヤツだったけど、頭はよかったよ。理屈っぽくてね、自分の意見と合わないことはしないやつだった」[26](高校時代の同級生)
  • 「おとなしかった、という印象です。特定の仲のいい子はいなかったんですが、かといって孤立しているということもありませんでした。しいて言うなら、視界に入らない空気のような存在、です」[33](高校時代の同級生)
  • 「クラスをリードするだけの力があるのに、それを自覚せず、自分の遊びで満足させるタイプだった」[29](中学時代の教師)
  • 「とにかく目立たない生徒で、ごくフツウの生徒だった」[29](高校二年の担任)
  • 「ネクラでちょっと気持ち悪いやつだった」[29](同級生のおおかたの評)
  • 「おとなしいけれど、変なヤツだなという印象がありましたね。ちょっとほかにないタイプで、アブナイやつって感じ。彼が犯人と分かって、ぼくらは”まさか”と思うより、”あいつなら”と思いましたね」[27](高校時代の元クラスメート)
  • 「クールなヤツなのに、銃とか武器の話になると異常に饒舌なんだ」[27](高校時代の同級生)
  • 「礼儀正しい」「優しい感じ」[83](アパートの住人、アルバイト先の同僚) 
  • 「今どきあんな生まじめな男は見たことがない。無口でオートバイだけが趣味と思ってた。それが犯人とは…」[84]「大学に対するコンプレックスがあったようです」「客に対してもわたしに対しても礼儀正しい子でした。まさか、あの子がやったとはね」「だいたい、金目当ての犯行っていうならウチのレジから持っていくんじゃないですか。信頼できるっていうんで、店の鍵も渡してあったんだから…」[26]「テレビでは平然としてフテブテしい印象だったでしょうが、従順ですべてに控え目な男でした。ボクらはボーゼンとしています、とても信じられない」[31](アルバイト先の店長)
  • 「部屋でジャズ系の音楽を聴いたり、漫画本もたくさんあって『ゴルゴ13』とか、ずいぶん読んでました」[31]「事件の朝に、彼がいなかったので、ひょっとして……と胸騒ぎがしたんですよ。犯人と身長や年齢が似ているし部屋で酒を飲みながら話したとき、表面には出さないが、かなり激しやすい性格だと感じてましたから」[27]「激しやすい性格で犯人と直感した」[85]「大人しい反面、激しやすく、感情の起伏の大きい変わり者」[34]「彼の部屋でいっしょにビールを飲んだこともありますよ。柿のタネをつまみに2〜3本飲んだかな。でも、いわれてるようなコンバットマガジンとかモデルガンとか何もなかったですよ。テレビ、ビデオ、CDがあるくらいで、ネクラな武器マニアなんて感じはまったくありませんでしたね」[26](アパートの向かいの部屋に住んでいた大学生A)
  • 「高校を出てまだ二年、社会的な経験もなく、単純で、根はまじめな青年なんだが……」[35](捜査一課課長)
  • 「ひ弱な少年」[57](管理官)

Sの発言編集

  • 「親父は競艇が好きで小さい頃連れてってもらった。『儲けて家を買ってやる』と言ったけど、そのうちいなくなっちゃって」[31]
  • 「自分のやりたいことをやって、自殺した人を知っている」[24]  
  • 「フリーのアルバイターになるのが自分の夢」[34]
  • 「射撃はストレス解消になるが、自衛隊なんてどうしようもないところ。道徳観念がなくて給料ドロボーだ。仕事をわざと作って僕らにやらせてるだけ。そんなに長くやる仕事じゃない」[29]
  • 「上司に逆らったことはないが、心の中では”何だこの野郎”と思っていた」[27]
  • 「自衛隊の仕事はあほらしい。命令には言うことをきくが、心の中では歯向かうんだ」[83]
  • 「自衛隊は人と金を浪費している」[27]
  • 「自衛隊に反感を抱いていたのでやめた。将来は事業をやりたい。自分は友人も恋人もいないし、家族とも仲が悪い。ネクラな人間だ」[86]
  • 「昼と夜は簡単にすますけど、朝はホットプレートでいろんなもの焼いて食べてるから心配いりません。一日千円あれば十分、生活できる。店長も、そんな贅沢したらだめですよ」[29]
  • 「人間社会は誰かが犠牲になる。ぼくは犠牲になる方になりたくない。被害者のことを考えたら何も出来ない。最後は自分を大切にする。犯罪をすることは高校生の頃から決めていた。尊敬する人は『ゴルゴ13』の主人公デューク東郷。自分のルールで生きているのが好きだ」[57]
  • 「オヤジもオフクロも嫌いだ」[27]
  • 「何もできないが、亡くなった二人に線香をあげたい」[86]
  • 「迷惑かけてごめんなさい。こんなことになるんなら、初めからあんなことしなければよかったんだ」[24]
  • 「遺族の人に詫びたくても、どんな言葉でも詫びることは不可能だ。刑が出たら、素直に従って償いたい」[24]
  • 「早く裁きを受けたい」[24]
  • 「ためらいを感じたが、その気持ちを自分で消した」「今では間違った哲学だったと思う」[76]
  • 「ぜいたくな生活をするためじゃない。大金を持つことが、人生では勝利のシンボルと思ったからだ」[76]
  • 「同居は恐怖だった。自分の方が折れて我慢し、ストレスが続いた」[76]
  • 「なぜ不快になるのか考えたが、言葉で説明できないのだから、不快の根拠はないとの結論に達した。そうしたら、憎い気持ちや不快感はなくなり、感情を消すことができた。それから、不快な時、いつもそのように考える癖がついた」[76]
  • 「このままだと、屈辱感を解消しないまま一生を終えると焦りを感じ、それで犯行を計画した」[76]

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ a b c 2020年4月1日現在は「中村橋交番[1]西武池袋線中村橋駅から南へ約20メートル離れた東京都道439号椎名町上石神井線(通称:千川通り)沿いに位置する交番で、周囲は事件当時から商店・マンションが立ち並び[2]、深夜も人通りが絶えない場所だった[3]
  2. ^ a b c Sが住んでいたアパートは現場派出所から西方へ約500メートル離れた場所にあり[18]、自衛官時代の1988年夏から「本の置き場所にする」との理由で借りていた[9]
  3. ^ 本籍地は「東京都板橋区船渡一丁目1番地」[7]
  4. ^ その後、1978年9月11日付でY・X夫婦は協議離婚(子供2人の親権者は母X)した[22]
  5. ^ Sが母親Xや妹+男性Zとその長男の計5人で生活していた当時の居宅は2間(6畳+4畳半)のアパートだった[22]。1983年にアパートを出て近くの一戸建てに移住したが、その後も特異な同居生活は好転せずさらに深刻さを増すばかりだった[22]
  6. ^ その間、Sは1981年(昭和56年 / 当時12歳)に小学校を卒業して戸田市立喜沢中学校へ進学し、1984年(昭和59年 / 当時15歳)で浦和市立南高校へ入学した[22]
  7. ^ Sの人物像は周囲から見ると「真面目で温厚だが、無口で感情を表さず、暗い感じの孤独を好むタイプ」と受け取られるようになっていた[22]
  8. ^ Sは化粧品セールスをしていた母親Xが借金を抱えていたために大学進学を断念しており、自衛隊を就職先に選んだ理由は「心身の鍛錬になり、職場として安定しているから」だった[9]
  9. ^ 自衛官時代は賞罰ともなかった[9]
  10. ^ 自衛隊時代に120万円を貯金し、除隊時に約43万円の退職金を受け取った[37]。その後、750 ccオートバイの購入や運転免許取得などにより約90万円を遣ったが[37]、逮捕時には額面約80万円の預金通帳を持っていた[9]
  11. ^ この時には(14 - 18時30分まで)犯行時と同じ営業所で同じ白いカローラを借りており、走行距離も犯行当日の距離数(48キロメートル)とほぼ同じ(46キロメートル)だった[38]。当時Sは運転免許を取得したばかりの初心者だったため、特捜本部は「Sは犯行後の逃走用に車を使うことを計画し、あらかじめ走行コースを決めた上で目立たず運転しやすい昼間を選び、下見を兼ねて試走・練習していた」と推測した[38]
  12. ^ Sの自宅アパートから最も近かった派出所は野方警察署上鷺宮駐在所だったが、同駐在所は夜間に駐在員がいなかった[38]
  13. ^ 事件3年前(1986年)に大阪府大阪市西区の輸入代理店が輸入し[39]、「アメヤ横丁」のナイフ専門店にて1987年(昭和62年)6月以降に販売されていた[40]。現場で発見されたナイフケース(鞘)とセットになったサバイバルナイフは「マークII」以外に片刃の「コマンドII」もあったが、2種類とも1986年(昭和61年)に計百数十本を日本へ代理店などを通じて輸出しただけで[41]、1987年11月以降は製造されていなかった[42]
  14. ^ 東京地裁(1991)ではビックカメラ東口店(本店)の住所が「東京都豊島区東池袋一丁目11番7号」となっているが、同住所は2020年4月時点で「ビックカメラ アウトレット池袋東口店」の所在地になっており[43]、本店(池袋本店)の住所は「東池袋一丁目41番5号」である[44]
  15. ^ 双眼鏡本体は「平成元年押第1132号の8」、ケースは「同号の9」、キャップは「同号の7」[6]。双眼鏡は倍率10倍(ケンコー社製)で、1989年4月中旬に発売されて以降同店で10台前後しか売れていなかった[45]
  16. ^ 黒色のジャケット・ズボンおよび縦縞シャツなど[6]
  17. ^ 左手のみに着用するため[6]
  18. ^ 血液・指紋を拭き取るため[6]
  19. ^ 同派出所では15日16時から被害者2人(巡査A・巡査部長B)のほか別の巡査1人が勤務していたが、この巡査は事件当時派出所2階で仮眠中だった[3]
  20. ^ 巡査Aは1959年(昭和34年)4月29日生まれ[4]
  21. ^ 派出所とその西側の「中村橋歩道橋」との間にある空き地[4]
  22. ^ 巡査Aは1954年(昭和29年)2月26日生まれ[4]
  23. ^ 派出所から西方約6キロメートル地点の「富士見池」[47]
  24. ^ この時点では事件当時目撃された黒い服装ではなく、白いワイシャツ・ジーンズ姿だったため、犯行後に車内で着替えたものと推測された[49]
  25. ^ 現場から約600メートル離れた自動車部品会社の男子寮敷地内[39]
  26. ^ 同年8月に加害者・宮崎勤が逮捕され解決した。
  27. ^ 血痕から犯人が分かりにくい路地を巧みに右左折したことが判明したことに加え[39]、凶器などが投棄された富士見池は地元の人間以外はほとんど知らない場所だったため[60]
  28. ^ 1988年12月初めに派出所近くの雑居ビルにあった女子トイレに侵入して巡査部長Bら派出所の警官2人に現行犯逮捕されたシンナー常習者の若い男や[5]微罪で派出所の警官に職質された人物なども捜査線上に挙がっていた[59]
  29. ^ 1987年7月には過激派非公然部隊の武器製造アジトが現場付近で摘発されていた[51]
  30. ^ もう1つの濃い緑色の軍手(派出所付近に遺留)は雑貨店・作業衣店などで販売されていたが、一般向けにはほとんど売れず、自衛隊などに大量に納入されていた[42]

出典編集

  1. ^ 練馬警察署 中村橋交番” (日本語). 警視庁公式ウェブサイト. 警視庁 (2018年2月28日). 2020年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月1日閲覧。
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  3. ^ a b c d 読売新聞』1989年5月16日東京夕刊一面1頁「未明の東京・練馬の派出所で2警官が刺殺される 酔っ払い風の若い男追う」(読売新聞東京本社
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 東京地裁 1991, 罪となるべき事実.
  5. ^ a b c 『読売新聞』1989年5月17日東京朝刊第一社会面31頁「警官殺し犯 ビル侵入男と酷似 88年、近くで逮捕歴 シンナー常習、恨みか」(読売新聞東京本社)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 東京地裁 1991, 本件犯行に至る経緯.
  7. ^ a b c 東京地裁 1991, 被告人.
  8. ^ 『毎日新聞』1991年4月6日東京夕刊社会面10頁「[取材帳から]身につけた哲学「感情を消す」被告─東京・練馬2警官刺殺事件」(毎日新聞社)
  9. ^ a b c d e f 毎日新聞』1989年6月9日東京朝刊第一社会面27頁「2警官刺殺事件で元自衛官を逮捕 『銃奪おうと』と自供」(毎日新聞東京本社
  10. ^ 『読売新聞』1989年6月30日東京朝刊第一社会面31頁「警官殺しの『S』を起訴/東京・練馬の中村橋派出所事件」(読売新聞東京本社)
  11. ^ a b 『読売新聞』1989年6月11日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺の『S』10日間拘置」(読売新聞東京本社)
  12. ^ a b c 東京地裁 1991, 量刑の理由.
  13. ^ a b 東京地裁 1991, 主文.
  14. ^ a b c 年報・死刑廃止 2019, p. 255.
  15. ^ 『毎日新聞』1989年5月16日東京夕刊一面1頁「東京練馬の派出所で警官2人、刺殺される 職質の若い男、逃走」(毎日新聞東京本社)
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  17. ^ 警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件 > アンケート結果 第51位から100位まで” (日本語). 警視庁公式ウェブサイト. 警視庁 (2016年3月31日). 2020年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月27日閲覧。
  18. ^ 『読売新聞』1989年6月9日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺『S』逮捕 執念で迫った『緑の軍手』 自衛隊内部の“専売品”」(読売新聞東京本社)
  19. ^ a b 『読売新聞』1998年9月18日東京朝刊第一社会面35頁「元自衛官の2警官刺殺に死刑確定 S被告の上告棄却/最高裁」(読売新聞東京本社)
  20. ^ 年報・死刑廃止 2019, p. 275.
  21. ^ 年報・死刑廃止編集委員会『無実の死刑囚たち 年報・死刑廃止2004』(編集委員:岩井信・江頭純二・菊池さよ子・菊田幸一・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓)、インパクト出版会、2004年9月20日、第1刷発行、92頁。ISBN 978-4755401442
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 東京地裁 1991, 被告人の身上・経歴.
  23. ^ a b c 『朝日新聞』1989年6月9日夕刊第一社会面17頁「警官刺殺事件、犯人の動機追及 少年時代から銃マニア」(朝日新聞社)
  24. ^ a b c d e f g 『週間テーミス』1989年10月18日27頁「「あの事件」の「あの人」の運命が意外! 練馬2警官殺しの犯人は「哲学」」(学習研究社)
  25. ^ a b c 『FOCUS』1989年6月23日16頁「「銀行強盗のために短銃が欲しかった」練馬の警官殺しの犯人は元自衛官」(新潮社)
  26. ^ a b c d e f g h i j 『アサヒ芸能』1989年6月22日189頁「東京・練馬警官2名惨殺事件の犯人は元自衛官「大金・強盗・拳銃」を短絡させた20歳の衝撃!」(徳間書店)
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『週間宝石』1989年6月29日「練馬警官殺しの犯人"尊敬する人物”はナント『ゴルゴ13』」(光文社)
  28. ^ 『週間宝石』1989年6月29日32頁「警官殺人犯の「奇癖」、病的な写真嫌いだったSの高校時代」(光文社)
  29. ^ a b c d e f g h 『週刊朝日』1989年6月23日167頁「警官殺しの元自衛官 冷めた20歳の狙撃兵」(朝日新聞出版社)
  30. ^ a b 『朝日新聞』1989年6月9日第一社会面31頁「バイト志願で「もっといい生活を」警官殺しの容疑者」(朝日新聞社)
  31. ^ a b c d e f g h i 『週間読売』1989年6月25日158頁「練馬の警官2人刺殺犯人!優しい顔に隠された元自衛官(20)狂気のウォーゲーム」(読売新聞東京本社)
  32. ^ a b c 『FOCUS』1989年6月23日16頁「「銀行強盗のために短銃が欲しかった」練馬の警官殺しの犯人は元自衛官」(新潮社)
  33. ^ a b 『FLASH』1989年6月27日8頁「警官2人を刺殺した元自衛隊員・20歳の歪んだ青春」(光文社)
  34. ^ a b c d e f g h 『読売新聞』1989年6月9日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺『S』逮捕 執念で追った『緑の軍手』 自衛隊内部の“専売品”」(読売新聞東京本社)
  35. ^ a b c 『日本経済新聞』1989年6月9日朝刊35頁「2警官刺殺の元自衛官逮捕──犯人の柴嵜、泣きじゃくり自供、読書家の一面も」(日本経済新聞社)
  36. ^ a b c 『日本経済新聞』1989年6月10日大阪夕刊社会面19頁「2警官刺殺の犯人S、戦闘ビデオに熱中──凶暴になった軍用品マニア。」(日本経済新聞社)
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  39. ^ a b c 『読売新聞』1989年5月23日東京朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺から1週間 300人の大捜査網で追う 犯人は現場付近に土地カン」(読売新聞東京本社)
  40. ^ 『毎日新聞』1989年5月24日東京朝刊第一社会面27頁「2警官刺殺事件のナイフはアメヤ横丁で販売」(毎日新聞東京本社)
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  51. ^ a b c 『毎日新聞』1989年5月17日東京朝刊第一社会面27頁「派出所そば歩道にナイフケース入り紙袋 2警官刺殺の犯人遺留か」(毎日新聞東京本社)
  52. ^ 『毎日新聞』1989年5月17日東京夕刊第一社会面15頁「遺留の紙袋から指紋--東京・練馬の警官刺殺事件」(毎日新聞東京本社)
  53. ^ 『毎日新聞』1989年5月18日東京朝刊第一社会面27頁「東京・練馬区の警官刺殺犯人、現場近くの水道使う 洗い場に血痕」(毎日新聞東京本社)
  54. ^ 『朝日新聞』1989年5月25日朝刊東京面「「犯人はこんな格好」遺留品の写真公開 東京・練馬の警官刺殺」(朝日新聞社)
  55. ^ 『読売新聞』1989年5月22日東京朝刊社会面31頁「警官刺殺のナイフ発見 現場から6キロ、公園の池で 血のついた服、靴も」(読売新聞東京本社)
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  59. ^ a b 『毎日新聞』1989年5月27日東京朝刊第一社会面27頁「警官刺殺事件、不審者数人に絞る 計画的犯行と判断--捜査本部」(毎日新聞東京本社)
  60. ^ 『毎日新聞』1989年5月22日東京朝刊第一社会面27頁「公園の池に凶器、衣類 2警官刺殺現場から6キロ--東京・練馬」(毎日新聞東京本社)
  61. ^ a b c d 『読売新聞』1989年6月8日東京夕刊一面1頁「東京・練馬の2警官刺殺事件 元自衛官が自供」(読売新聞東京本社)
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  63. ^ 『毎日新聞』1989年5月18日東京夕刊第一社会面15頁「現場近くでタクシー運転手がナイフ男に襲われる--警官刺殺事件」(毎日新聞東京本社)
  64. ^ 『毎日新聞』1989年5月19日東京朝刊第一社会面27頁「恨みの可能性も 中村橋派出所警官刺殺事件」(毎日新聞東京本社)
  65. ^ 『毎日新聞』1989年5月31日東京朝刊第一社会面27頁「2警官刺殺事件の派出所裏に男がいた 犯行10分前に目撃」(毎日新聞東京本社)
  66. ^ 『毎日新聞』1989年5月26日東京夕刊第二社会面14頁「犯人はミリタリーマニア?東京・2警官刺殺事件から10日」(毎日新聞東京本社)
  67. ^ 『朝日新聞』1989年5月22日朝刊第一社会面「犯人の血染めの着衣発見、現場の西約8キロ 警視庁2警官刺殺事件」(朝日新聞社)
  68. ^ 『日本経済新聞』1989年5月19日夕刊19頁「警官殺害、現場の血痕BとO型──犯人は負傷の可能性。」(日本経済新聞社)
  69. ^ 『読売新聞』1989年6月12日東京夕刊第二社会面18頁「警視庁中村橋派出所2警官刺殺事件 S宅で双眼鏡を発見」(読売新聞東京本社)
  70. ^ 朝日新聞』1989年6月15日朝刊第一社会面19頁「現金輸送車狙うため『警察の銃』と自供 練馬の警官殺人事件」(朝日新聞社
  71. ^ 『毎日新聞』1989年6月10日東京朝刊第一社会面27頁「遺児の姿、悲しみ新た 逮捕の翌日、東京・練馬の刺殺2警官公葬」(毎日新聞東京本社)
  72. ^ 朝日新聞』1989年6月30日朝刊第二社会面30頁「東京・練馬の2警官殺しで男を起訴」(朝日新聞社
  73. ^ 『朝日新聞』1989年10月19日朝刊第一社会面31頁「2警官刺殺事件の被告、殺意を否定 東京地裁で初公判」(朝日新聞社)
  74. ^ 『毎日新聞』1989年10月19日東京朝刊第一社会面31頁「S被告が殺意を否認--練馬の2警官殺し初公判の罪状認否で」(毎日新聞東京本社)
  75. ^ 『読売新聞』1991年2月16日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の2警官殺害事件 検察側が元自衛官に死刑を求刑」(読売新聞東京本社)
  76. ^ a b c d e f 『毎日新聞』1991年4月6日東京夕刊社会面10頁「[取材帳から]身につけた哲学「感情を消す」被告─東京・練馬2警官刺殺事件」(毎日新聞社)
  77. ^ 『読売新聞』1991年5月28日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の派出所2警官刺殺 元自衛官に死刑判決/東京地裁」(読売新聞東京本社)
  78. ^ 『毎日新聞』1991年5月28日東京朝刊第二社会面22頁「警視庁練馬署派出所の2警官を刺殺 元自衛官に死刑--東京地裁判決」(毎日新聞東京本社)
  79. ^ 毎日新聞』1994年2月24日東京夕刊第一社会面11頁「一審判決を支持 控訴審も死刑--練馬の2警官刺殺」(毎日新聞東京本社
  80. ^ 東京高裁 1994.
  81. ^ a b 『読売新聞』1994年2月24日東京夕刊第二社会面18頁「練馬の2警官刺殺事件 『非情な犯行』と元自衛官に二審も死刑/東京高裁」(読売新聞東京本社)
  82. ^ 『毎日新聞』1994年2月24日東京夕刊第一社会面11頁「一審判決を支持 控訴審も死刑--練馬の2警官刺殺」(毎日新聞東京本社)
  83. ^ a b 『週刊時事』1989年7月1日16頁「警官刺殺のSは”優しく礼儀正しい青年だった”?」(時事通信社)
  84. ^ 『毎日グラフ』1989年6月25日62頁「2警官刺殺事件の犯人は元自衛官「銀行強盗の道具として」けん銃うばい」(毎日新聞社)
  85. ^ 『中日新聞』1989年6月9日朝刊朝刊社会面31頁「2警官視察事件 ビデオ店で浮かぶ 事件の3日後 身辺調査で追い込む」(中日新聞社)
  86. ^ a b 『中日新聞』1989年6月9日朝刊朝刊社会面31頁「いい生活、事業したさ 20歳の元自衛隊逮捕 2警官刺殺 夢を追い屈折した青春」(中日新聞社)

参考文献編集

刑事裁判の判決文・法務省発表

  • 第一審 - 東京地方裁判所刑事第2部判決 1991年(平成3年)5月27日 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28166310、平成1年(合わ)第96号、『強盗殺人公務執行妨害銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件』。
    • 裁判官中山善房裁判長)・杉田宗久・山本由利子
    • 判決内容:死刑・押収品2点を没収(求刑:死刑 / 被告人・弁護人側控訴)
      • 押収品:サバイバルナイフ1本(平成元年押第1132号の6)・サバイバルナイフケース1本(平成元年押第1132号の2)
    • 検察官:杉山茂久
  • 控訴審 - 東京高等裁判所第10刑事部判決 1994年(平成6年)2月24日 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28166997(本文は未収録)、平成3年(う)第709号、『強盗殺人、公務執行妨害、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件』。
  • 裁判官:小林充(裁判長)・中野保昭・宮嶋英世
  • 判決内容:被告人・弁護人側控訴棄却(死刑判決支持 / 被告人・弁護人側上告)

書籍

関連項目編集

  • 勝田清孝事件 - 同事件では1982年(昭和57年)10月に犯人・勝田清孝(2000年に死刑執行)が本事件の死刑囚Sと同様に強盗目的で警察官からの拳銃強奪を試み成功。勝田は後にその拳銃を用い、翌1983年1月に逮捕されるまでの間に連続強盗殺傷事件(警察庁広域重要指定113号事件)を起こした。
  • 東村山警察署旭が丘派出所警察官殺害事件 - 1992年(平成4年)に本事件と同じく東京都内(清瀬市)で発生した警察官殺害・拳銃強奪事件(警察官1人死亡)。2007年(平成19年)に公訴時効が成立し未解決事件になった。
  • 富山市奥田交番襲撃事件 - 2018年(平成30年)に富山県富山市で発生した警察官殺害・拳銃強奪事件(警察官・警備員の計2人死亡)。同事件の加害者は本事件の死刑囚Sと同様に元陸上自衛官だった。