原千晶

日本の女優、タレント (1974-)

原 千晶(はら ちあき、1974年4月27日 - )は、日本女優タレントアロマインストラクターアトミックモンキー所属(2023年4月1日から)[1]

はら ちあき
原 千晶
プロフィール
生年月日 1974年4月27日
現年齢 51歳
出身地 日本の旗 日本北海道帯広市
血液型 O型
公称サイズ(2008年時点)
身長 / 体重 165 cm / kg
スリーサイズ 86 - 64 - 88 cm
活動
デビュー 1995年 -
ジャンル キャンペーンガールグラビアアダルトモデル
モデル内容 水着ヘアヌード
備考 モデル
他の活動 タレント
事務所 アトミックモンキー
その他の記録
以上、本人ブログの情報に拠る
モデル: テンプレート - カテゴリ

北海道帯広市出身[2]千葉県長生郡一宮町在住[3]川越市立高階西中学校北豊島高等学校(東京都荒川区)全日制課程普通科理系)卒業。

来歴

1974年昭和49年)、北海道帯広市に生まれる。その後は生命保険会社に勤務していた父親の転勤に伴い[4]、北海道釧路市福岡県北九州市小倉大阪府埼玉県川越市千葉県などを転々とした[5]

高校は淑徳巣鴨高校(東京都豊島区)に入学、翌年北豊島高等学校(同荒川区)に再入学した。

1994年(平成6年)、1995年度の『クラリオンガール』に選出され、芸能界デビューした。当時のキャッチコピーは「ブラックドルフィン」。

翌年の1995年(平成7年)9月渡辺ミキが新たに設立した芸能事務所・ビスケットエンターティメントに籍を置き、テレビ番組『ワンダフル』(TBS)、『ウンナンのホントコ!』(同)、『力の限りゴーゴゴー!!』(フジテレビ)などに出演した。

また、ラジオDJとしても『サンデーサウンドウォーカー』(ニッポン放送)など、多くの番組に出演した。

このうち、初代の女性MCとして出演したテレビ番組『ワンダフル』(TBS)では、番組制作にも本格的に携わり、共演のワンダフルガールズ(通称・ワンギャル)に共感し「ワンギャルの中から売れる子が出ないと番組としては失敗だ」との意識を持って懸命にサポートして、『ワンダフル』の番組としての認知度や視聴率のアップに貢献した。

1997年(平成9年)には、写真家篠山紀信撮影によるヌード写真集 『BORA BARA』、1999年(平成11年)にはセミヌード写真集 『月刊原千晶』を発売するなど、ヌードモデルとしての活動も行った。

その後心身に疲れを感じたことから、2003年平成15年)から約1年程、本業のタレント活動を一時休業[注釈 1]。かねてからアロマセラピーに興味を持っており、アロマインストラクターの資格を取得後、2004年(平成16年)から「Seribu Kristal Sabun」のブランド名で石鹸(手作り石鹸)の製造も開始した[5][6]。そして、自身のブログを開設して[7]本業のタレント活動の他にアロマセラピーの情報も発信している。

2005年初めに精密検査で子宮頸がんと診断される。仕事を一時休業し、子宮を残す円錐形切除を受けて復帰した。しかし、2009年末に子宮頸がんと子宮体がんの併発に加えリンパ節への転移も発見され、年明けに子宮全摘出手術・治療に専念し[8]2010年5月まで抗がん剤治療を受けていた[9][10]

2010年10月10日、1度目の復帰の際に関わった仕事で知り合った番組制作会社プロデューサーと結婚した。

2011年10月、女性特有の病気やがんを患った人が集う「よつばの会」を設立した[11][2]

2016年1月10日椎間板ヘルニアと診断されたことを明らかにした[12]

2020年3月31日付で、25年間在籍したワタナベエンターテインメントを退所[13]。同年、千葉県長生郡一宮町に移住[3]

2023年4月1日付で、アトミックモンキーに所属[1]

2023年7月、リンパ浮腫を発症し保存療法を受けることを明らかにした[14]

家族

人物

  • クラリオンガールを務めていた1995年(平成7年)当時、同社のカーナビの音声案内には原の声が使用されていた。
  • 芸能界では「オセロ」の松嶋尚美や、「Take2」の東貴博らが親友である。
  • スポーツでは剣道が得意であり、有段者(初段)である。
  • 2009年(平成21年)1月26日、自身の生まれ故郷である北海道帯広市の『帯広市観光大使』に任命され活躍中である[5]
  • 千葉の外房の海が好きで(いつ頃からかは不明だが)プライベートで時々訪れており、ある日リフォームされた売出中の一軒家を見つけ、気に入ったことから移住を決めた[2]2020年に移住してから外房で海釣りにハマり、以後外房の海や仕事で海沿いの街に行った時など週に1回は釣りを楽しんでいる[3][15][2]
  • 『ワンダフル』の当時(原は1999年9月まで出演)の共演者やスタッフたちとは2024年12月現在も仲が良く、年に一度番組の同窓会を開いている[2]

エピソード

子供時代

生命保険会社に勤める父、母、3歳下の弟がいる[2]。子供の頃は、父の仕事の都合で数年おきに引っ越した[2]。父の実家である平屋の一軒家に住んでいたが2歳半で釧路市に引っ越して2年間住んだ後、大阪府枚方市の賃貸マンションに転居[2]。幼稚園の卒園直前に神奈川県横浜市の2LDKの社宅に引っ越した[2]

小学4年生の時に福岡県北九州市小倉の4LDKの賃貸マンションに転居[2]。小倉の小学校時代は横浜の方言でからかわれて悩んだが、5年生になってから友達ができて本来の明るい自分を取り戻した[2]。小学校卒業直前に埼玉県川越市に2階建ての借家に転居し、中学卒業前後に千葉県浦安市の賃貸マンションに引っ越した[2]

高校時代

高校1年生の夏、友達に口止めされたことをうっかり他の子に漏らしたことでトラブルになり、夏休み明けからクラス中から無視されるようになった[2]。以後学校にほとんど行けなくなって留年が決まったため自主退学を決め、荒川区内の私立高校を受験して1年生からやり直した[2]。同級生は皆1歳年下だったが年齢が気にならないほど仲良くなり、友達と当時ブームのコギャルファッションを楽しんだ[2]。ほどなくして雑誌の街角スナップに、ほんの小さな写真ではあったが原の写真が何度か掲載されるようになった[2]

高校3年生の頃に行ったディスコで、男性向けファッション誌「Fine」の編集者から雑誌に掲載する人気モデルのhitomiとの写真撮影に誘われ、彼女の大ファンだったため「行きます!」と即答[2]。後日訪れた新島伊豆諸島)で水着などを着て写真撮影を行い、hitomiとのツーショット写真が表紙に採用された[2]。上記の写真撮影を体験したことで有頂天になり、芸能界に強く憧れを持った[2]

芸能界入りと住居

高校卒業後にクラリオンガールのオーディションを受けて芸能界入りし、以後1年間はクラリオン社のカーオーディオの販促(キャンペーン)のため、全国を周った[2]。高校卒業前後に実家が新浦安から西船橋の3DKの社宅に引っ越したため、そこから仕事現場に通った[2]。1997年に生放送の深夜バラエティ番組『ワンダフル』に東幹久と共に初代MCに抜擢[2]。出演者は皆若い世代ということもあって放送終了後はよく朝までお酒を飲むなど親しくしていた[2]

『ワンダフル』出演開始からほどなくして両親が北海道に引っ越したのを機に、原宿表参道にある1LDKのマンションで一人暮らしを始めた[2]。当時は仕事が忙しくて寝に帰るだけの生活で、掃除をする暇もないほどだったという[2]。1年半後に一時的に弟が居候することになったため、世田谷区内の3LDKのマンションに転居し、その後20代後半の芸能活動休業中に同区内の2LDKのマンションに引っ越した[2]。30代前半の頃に神奈川県川崎市二子新地の2LDKのマンションに引っ越し、結婚後に品川区の借家に転居[2]

がん闘病

その後気力が戻って芸能活動を再開したが、直後に子宮頸がんが発覚して患部の切除手術を受けて仕事復帰[2]。当時医者からは子宮全摘を勧められたが、まだ31歳だったため子宮を残し、医師と相談の上で定期的に経過観察することになったという[2]。しばらくは検診に通ったが、仕事が忙しかったことや「手術で悪い所を取って2年経ったから、もう大丈夫だろう」と安易に自己判断したことで、だんだん検査に行かなくなった[2]

35歳の時に突然腹部に激痛が走り、病院の診察でがんの再発や転移が発覚したため、検査を怠ったことを激しく後悔したという[2]。当時は、プロデューサーの男性と3年交際していて結婚を考え始めていた時だったため、子供を産めなくなることを恋人に謝罪[注釈 2]。手術後は抗がん剤治療の副作用に悩まされたが、恋人に精神的に支えられながら半年間に渡る治療を終えた[注釈 3]。がん公表後にブログに多くの人からコメントをもらい、ネット上で悩みを共有したことがきっかけでその後「よつばの会」を立ち上げた[2]

出演

映画

テレビドラマ

ワイドショー・情報番組

バラエティ ほか

ラジオ

著書

  • ROSALBA(美研究インターナショナル)
  • 心と体を癒す セラピー・オール・ガイド 2009(BABジャパン
  • CHIAKI’S LOHAS 〜香福のレシピ〜(ゴマブックス

脚注

注釈

  1. ^ 本人は後年、「深く考えないまま芸能界に入り、周りが才能豊かな人たちばかりで自分が場違いに感じることがあった。知らず知らずのうちに心身が疲れてしまったんでしょうね」と回想している[2]
  2. ^ 本人によると、「謝って泣く私を、彼は『今は病気を治すことが一番。千晶が元気でなければ、子供をどうするかなんて考えられるはずもない』と励ましてくれました」と述懐している[2]
  3. ^ 本人によると、「副作用でイライラしたり不安をぶつける私を彼は黙って受け止めてくれた。感謝すると同時に、検診をサボったせいで子供を持つことに関して大切な人に辛い思いをさせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。あの辛い日々を乗り越えられたのは、彼のおかげです」と語っている[2]

出典

  1. ^ a b 新加入のお知らせ』(プレスリリース)株式会社アトミックモンキー、2023年4月1日https://www.atomicmonkey.jp/news/67962023年6月17日閲覧 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 『週刊文春』2024年12月12日号.
  3. ^ a b c 開催終了【医療者対象ハイブリッドセミナー】もっと話そうがんと性(セクシュアリティ)のこと”. 特定非営利活動法人キャンサーネットジャパン. 2024年11月8日閲覧。
  4. ^ 父親は2008年平成20年)3月に定年退職した
  5. ^ a b c d 本人ブログの情報に拠る
  6. ^ 石鹸の発売元は、所属事務所のワタナベエンターテインメントである。同社ではタレントの副業を禁止しており、所属タレントの副業収入は一旦事務所の収入となった後に、事務所より定率で分配され支払われる
  7. ^ 「CHIAKI HARA OFFICIAL BLOG Seribu Kristal」
  8. ^ 原千晶がリンパ浮腫外来に診察と検査へ「蚊に足を刺され水脹れに」”. 日刊スポーツ (2022年6月29日). 2022年6月29日閲覧。
  9. ^ がんとの闘い振り返った原千晶「私の人生を大きく変えた」(2012年3月6日スポニチアネックス)
  10. ^ 二度のがん経験した原千晶 手術よりつらかった抗がん剤治療(更新2012/9/7 週刊朝日2012年9月14日号|dot.)
  11. ^ 原千晶 よつばの会婦人科のがんを患った人が集まってお話をする会。すこやか健保(健康保険組合連合会発行)VOL806 2016年1月号4ページ 新春スペシャルインタビュー
  12. ^ “原千晶が椎間板ヘルニアに「年末は七転八倒でした」”. スポーツ報知 (株式会社報知新聞社). (2016年1月10日). オリジナルの2016年1月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160114080722/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160110-OHT1T50056.html 2016年1月10日閲覧。 
  13. ^ “原千晶が事務所退所を発表 活動続ける意向も「少し時間が必要」”. SANSPO.COM (産経デジタル). (2020年4月1日). https://www.sanspo.com/article/20200401-BF3DL4RDEFOBLEWB63F6IFFWT4/ 2020年4月1日閲覧。 
  14. ^ 原千晶、がん闘病から13年…リンパ浮腫発症「ショック」 左脚4カ所にリンパ液の漏れ 当面は保存療法”. 2023年7月28日閲覧。
  15. ^ 2度のがんを乗り越えて…50歳・原千晶の今 北海道でサンマ400匹「釣りバカ」になっていた”. デイリー新潮 (2024年9月22日). 2024年11月8日閲覧。
  16. ^ 2012年3月までは月曜日に出演していた。
  17. ^ ひるおび! 2020/03/31(火I10:25 の放送内容|TVでた蔵”. ワイヤーアクション (2020年3月31日). 2020年4月21日閲覧。
  18. ^ ひるおび!10年間ありがとうございました。”. 原千晶ブログ. 2024年9月23日閲覧。
  19. ^ ラジオ「Changeの瞬間~がんサバイバーストーリー」好評放送中 【随時更新】”. 日本対がん協会. 2023年5月7日閲覧。

参考文献

  • 「「新・家の履歴書」No.908 原千晶」『週刊文春』2024年12月12日号、文藝春秋、2024年12月5日、54-57頁、JAN 4910204021243 

外部リンク