喜界島

鹿児島県、奄美群島の島

喜界島(きかいじま、きかいがしま)は奄美群島の北東部に位置する

喜界島
Kikaijima.jpg
2011年3月撮影
座標 北緯28度19分1秒
東経129度56分22秒
座標: 北緯28度19分1秒 東経129度56分22秒
面積 56.93 km²
海岸線長 48.6 km
最高標高 214 m
所在海域 西側は東シナ海・東側は太平洋
所属諸島 奄美群島
所属国・地域 日本の旗 日本鹿児島県
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喜界島の位置(100x100内)
喜界島
喜界島の位置

鹿児島県大島郡に属し、全島が喜界町に属している。奄美大島にほど近い、東経130度線上に位置している。百之台、阿伝集落、トンビ崎海岸、荒木海岸などが奄美群島国立公園に指定されている[1]

目次

地形編集

隆起性サンゴ礁の島で全島ほとんどがサンゴを起源とする石灰岩で出来ている。約12万年前に島として現れたと見られ、現在も年間約2mm隆起を続けている。低い丘陵地が多く、サトウキビ畑などの開発が進んでいるため、手付かずの山林が少なく、奄美大島などと比べて固有の動植物が少ない。

自然編集

動物

ハブは生息していない。

植物

歴史編集

古代では大宰府と密接に繋がっていたことが、文献上、記録されている。『日本紀略長徳4年(998年)の記述として、大宰府が喜界島に対して、暴れ回っている南蛮人を捕えるように命じている。ここで記述されている「南蛮人」とは、西に位置する奄美大島の島民を指しているものと考えられ、『小右記』長徳3年(997年)の記述から判断されている。また、長徳5年(999年)に大宰府が朝廷に対して、南蛮人を追討したと報告していることからも、喜界島には、それだけの機関や勢力が存在していたと考えられている。これらのことから、奄美大島人と喜界島人が区別されていたことがわかる。

9世紀から15世紀にわたる城久遺跡群からも、白磁器やカムィヤキ土器など、島外の遺物が多く、南西諸島の中でも独自性が強いとされる[2]

中世以来、琉球王国薩摩藩など、周辺の大勢力の支配を受けてきた。

マシュー・ペリーが日本に到来した際に喜界島を「クレオパトラ・アイランド」と名付けたとして地元の観光業などがPRしていたが、2000年に文献が再検討された結果、喜界島は「バンガロー・アイランド」と名付けられていたことが判明した(「クレオパトラ・アイランド」は十島村横当島上ノ根島ではないかとされる)。

古代から中世にかけて流刑地として存在した鬼界ヶ島をこの島に比定する説が古くから唱えられているが、喜界島は火山島でないため逸話との齟齬があることから硫黄島とする説も有力視されており、結論は出ていない。島内には『平家物語』において鬼界ヶ島に流された逸話で知られている俊寛の像が建てられている。

沿革編集

産業編集

農業
島一面にサトウキビ畑が広がる。米作はほとんどない。かつての農業用水の水源は、ため池に頼るのみであったが、地下ダムの建設と用水路の敷設により生産量が安定した。また、国内首位の生産量の白ゴマ、花良治みかん、喜界島みかん、タンカンなどの柑橘類ソラマメパパイヤの産地としても知られる。近年はトマトマンゴーメロンの栽培も増えている。
水産業
近海の魚やクルマエビ海ぶどうなどの養殖や漁が行われている。
工業
サトウキビを絞って作った黒砂糖と米から奄美群島特産の奄美黒糖焼酎が作られる。喜界島には朝日酒造喜界島酒造がある。

文化編集

言語編集

喜界島の方言は、国際SILでは、琉球語の中の喜界島方言とひとまとめにされてKZGというコードが与えられているが、現地調査に基づけば、音韻的特徴から北部喜界島方言(小野津、志戸桶など)は奄美大島方言、徳之島方言とならぶ北奄美方言に属すが、南部喜界島方言(湾、阿伝、上嘉鉄など)は沖永良部島方言与論島方言とならぶ沖永良部与論沖縄北部諸方言に属すとする説[3]が有力である。北部喜界島方言には中舌母音2種があり、母音は7種(i、ɪ、u、e、ɘ、o、a)であるが、南部喜界島方言では5種(i、u、e、o、a)である。本土の単母音の[e]は[ɪ]に、単母音の[o]は[u]に対応し、[e]、[o]、[ɘ]はそれぞれ [ai]、[au]、[ae] など、母音の連続(連母音)から変化した例が多い。また、北部喜界島方言ではハ行の子音が [p](パ行音)または [ ɸ ](ファ行音)と対応する例が多いが、南部喜界島方言ではハ行音である(例:は北部で [peː]、南部で [heː])。北部喜界島方言ではツ、ヅの音が[ tsu ]、[ dzu]である例が多いが、南部喜界島方言ではトゥ [tu]、ドゥ [du] と対応する例が多く、キの音が南部喜界島方言ではチ [ tɕi]と対応する例が多いが、北部喜界島方言ではキ [ki]である(例:傷は北部でキズ [kidzu]、南部で チドゥ [tɕidu] など[4])。これらの各音韻の違いの境界線は一致しておらず、アクセントの違いを含め、島内各集落間でグラデーションのように徐々に異なっている。カの音がハ [ha](または [ xa])となる例は、全島共通している(例:金は北部でハネィ [hanɪ]、南部でハニ [hani])。

音楽編集

食文化編集

  • 伝統的な肉料理ではヤギが重要な位置を占める。海岸周辺で放牧されており、臭みが少ないのが特徴。塩味の山羊汁、野菜とヤギモツを炒めた「カラジュウリ(唐料理)」、イッチャーシー(すき焼き風炒め物)、刺身などの料理がある。
  • 沖縄料理と共通するものも多く、ヤキムッチー(ぽーぽー)、フクリカンなどの節句菓子、ムチグミテンプラ(糯米天麩羅)というサツマイモ糯米の揚げ菓子、油そうめん、油うどん、型菓子(落雁)、ゲットウの葉で包んだ黒いよもぎなどがある。
  • 薩摩料理の影響は小さいが、甘さ、醤油、酢味噌などの味付けや調味料に共通性が見られる。
  • 特産の黒糖を使った菓子が多く作られ、サタ豆(がじゃ豆)、胡麻菓子などがある。
  • ヒザラガイが「クンマー」という呼び名の高級食材として取引されている。茹でたあと甲羅を取り、酢味噌和えで食べられることが多い。

建造物編集

台風の被害を避けるため、珊瑚礁の石を使った石垣が民家の周りに作られた。また、アカテツの木も暴風垣として集落に植えられた。

水源に乏しい土地のため、横穴式斜面井戸が掘られ、ウリガー、ウリハー(降り川)と呼ばれた。近年は農業に利用するための地下ダムが多く作られている。水位を肉眼で見ることができる国内唯一の地下ダムもある。

第二次世界大戦時に戦闘機を格納するための掩体壕(えんたいごう)が数多く作られたが、湾集落には現在も残されている。

宗教編集

祖霊信仰、自然崇拝が主で、女司祭ノロによる祭礼が行われていた。民間では巫女であるユタに霊的に各種問題の解決、判断を依頼していた。

葬法に関しては、琉球王国とも共通する風葬の風習が中世から20世紀まではあった。1966年に火葬場ができてからは全て火葬に代わっている。崖下に喪屋(ムヤ)と呼ばれる横穴墓を掘り、そこに遺体を安置する[5]

その他編集

19世紀末から20世紀初頭も首里など、沖縄本島からの文化移入は盛んで、泡盛の製法、赤土を使った陶器の窯などの技術が移入されている。

交通編集

空路編集

喜界空港

航路編集

喜界港(湾港)

路線バス編集

観光編集

 
百之台展望台からの眺望

その他編集

脚注編集

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  1. ^ a b c d e 喜界島ナビ.com 喜界島の国立公園指定地” (日本語). 喜界島観光物産協会 (2017年3月10日). 2017年3月12日閲覧。
  2. ^ 『発掘された日本列島2008 文化庁編』 朝日新聞出版 ISBN 978-4-02250415-9 p.62
  3. ^ 中本正智、中松竹雄、「南島方言の概説」『講座方言学10 沖縄・奄美の方言』、1984年、東京、国書刊行会
  4. ^ 木部暢子、窪薗晴夫 ほか、『消滅危機方言の調査・保存のための総合的研究 喜界島方言調査報告書』、2011年、東京、国立国語研究所
  5. ^ 安陪光正、「与論島と喜界島における風葬の変遷」『西日本文化』2012年2月号pp42-47、福岡、西日本文化協会
  6. ^ 路線バス(島バス) - 喜界島ナビ.com(ポータルサイト、2010年11月1日閲覧)

参考文献編集

  • 『日琉交易の黎明 ヤマトからの衝撃』(叢書・文化学の越境17)谷川健一編、森話社、2008年
  • 『古代中世の境界領域 キカイガシマの世界』池田榮史編、高志書店、2008年

外部リンク編集