山中 貞則(やまなか さだのり、1921年大正10年〉7月9日 - 2004年平成16年〉2月20日)は、日本政治家鹿児島県囎唹郡末吉村大字深川(現曽於市)出身。位階勲等正三位勲一等称号沖縄県名誉県民竹富町名誉町民。

山中 貞則
やまなか さだのり
生年月日 (1921-07-09) 1921年7月9日
出生地 日本の旗 日本 鹿児島県末吉村
(現・曽於市
没年月日 (2004-02-20) 2004年2月20日(82歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院[1]
出身校 台北第二師範学校
(現・中華民国の旗 国立台北教育大学
前職 南日本新聞記者
所属政党自由党→)
自由民主党(無派閥→旧河野派中曽根派→無派閥→旧渡辺派→山崎派亀井派
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
衆議院永年在職議員
沖縄県名誉県民
沖縄県竹富町名誉町民

内閣 第1次中曽根内閣
在任期間 1982年11月27日 - 1983年6月10日

日本の旗 第31代 防衛庁長官
内閣 第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
在任期間 1973年5月29日 - 1974年11月11日

内閣 第3次佐藤改造内閣
在任期間 1972年5月15日 - 1972年7月7日

内閣 第3次佐藤内閣
在任期間 1971年7月1日 - 1971年7月5日

内閣 第3次佐藤内閣
第3次佐藤改造内閣
在任期間 1970年1月14日 - 1972年7月7日

その他の職歴
日本の旗 衆議院議員
旧鹿児島3区→)
鹿児島5区
当選回数 17回
1953年4月20日 - 1990年1月24日
1993年7月18日 - 2004年2月20日
鹿児島県の旗 鹿児島県議会議員
1947年4月23日 - 1953年3月24日
第23代 自由民主党政務調査会長
(総裁:田中角栄
(1974年 - 1974年)
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衆議院議員(17期)、沖縄開発庁長官初代)、防衛庁長官第31代)、自由民主党政務調査会長(第23代)、通商産業大臣第41代)などを歴任した。

税制のスペシャリストとして長年にわたり自民党税調に君臨し、「税調のドン」と呼ばれた。ニックネームは「ヤマサダ」、「ヤマテイ」。浜田幸一や一部の官僚達からは「テイソク」と呼ばれた。

来歴

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旧制都城中学校(現・宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校)、台湾台北第二師範学校を卒業後、高雄州国民学校で教職を務める。その後出征し、1946年復員。師範学校時代の教師に屋良朝苗(後の琉球政府行政主席・沖縄県知事)がいた。郷里に戻り南日本新聞記者、鹿児島県議会議員を経て、1953年第26回衆議院議員総選挙旧鹿児島3区から自由党公認で出馬して初当選。1955年(昭和30年)、保守合同自由民主党結党に参加。河野一郎河野派に入会。1958年(昭和33年)、岸内閣大蔵政務次官に就任(当時の森永貞一郎大蔵事務次官らがこの人事を覆そうと試みたが失敗に終わった)。感激した山中は財政や税制に関する勉強に励み、当時品目ごとに利害が複雑に絡み合って税率の設定は困難であるといわれた物品税の大改正を成し遂げた。このことが後に官僚以上に税に精通した政策通との異名に繋がる。1961年(昭和36年)、自民党副幹事長に就任。1963年(昭和38年)、衆議院大蔵委員会委員長に就任。1970年(昭和45年)、第3次佐藤内閣総理府総務長官として初入閣し、アメリカ側との極秘交渉や通貨危機の回避など沖縄返還に尽力した。1971年(昭和46年)、初代環境庁長官を兼任(内閣改造までの4日間のみ)、翌年には沖縄返還にあたって初代の沖縄開発庁長官に就任した。1973年(昭和48年)、第2次田中角栄内閣防衛庁長官を1年半に亘って務め、たて続けに入閣した。1974年(昭和49年)、政務調査会長に就任するが、就任後1ヶ月で田中内閣が倒れ、無役になる。この処遇で中曽根康弘と不仲となり、中曽根派を脱会。1978年に復帰するまで無派閥を通す。この間に山中派結成を画策したこともあるが実現しなかった。1979年(昭和54年)、税制調査会長に就任。以来、税制のドンとして重きをなし、「税の神様」や「ミスター税調」などと呼ばれた。四十日抗争など一連の派閥抗争では、強硬な反大平派として行動した。1982年(昭和57年)、第1次中曽根内閣誕生により主要閣僚である通商産業大臣として入閣するが、糖尿病のため任期途中で辞任した。1990年(平成2年)、税調の最高幹部として消費税導入を積極的に推し進めたことなどが祟って、第39回衆議院議員総選挙では最下位当選の有川清次日本社会党)に28票差の落選。この時「山中当選確実」と報じられ、万歳三唱までしてしまった。しかし、当確が取り消された直後の事務所中継があり、現場には支持者が誰も映っていなかった。当確報道の先走りが問題になった。1991年(平成3年)、勲一等旭日大綬章受章[2]1993年(平成5年)、第40回衆議院議員総選挙で当選し、国政復帰。1998年(平成10年)、山崎拓後見人として山崎派の結成に参加するが、翌年に山中の意向に反して山崎が自民党総裁選挙に出馬したため、同派を離脱して中曽根の在籍する江藤・亀井派に出戻る形になった。2003年(平成15年)、第43回衆議院議員総選挙でも当選し、最年長、最多当選の国会議員となるが、当選から3ヵ月後の2004年2月20日に肺炎のため死去。82歳没。通算17回当選。山中の死により、保守合同並びに55年体制成立以前に初当選した現職の国会議員は姿を消した。2014年4月、鹿児島県曽於市末吉町の旧山中邸に山中貞則顕彰館が開館。式典には仲井真弘多沖縄県知事も出席した。山中は沖縄名誉県民第一号でもある。

趣味・特技

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  • 柔道四段
  • 刀剣鑑賞(財団法人日本美術刀剣保存協会会長)
  • 和歌雅号は隼人) ・・・歌集に『慟哭』、『南回帰線』。鹿児島県の現代歌人の列伝である「現代短歌・かごしま」(春苑堂出版)にも収録。若き日の戦地での総攻撃を前に詠んだ「いささかの愛惜を断ち焚き捨つる万葉代匠記の炎よ赤し」は、「昭和万葉集」(講談社)に収録された。
  • 読書(1962年8月の衆議院大蔵委員会の席上「私は推理小説の鬼と言われるほど乱読する方であります」と発言し、松本清張の長編『黄色い風土』を一読することを当時の警察庁刑事局長に薦めている)

エピソード

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豪快な人柄、特に税制面での政策通ぶり、国士とも評された政治姿勢などから「山中伝説」と呼ばれる数々のエピソードを残した。

  • 県議会議員の選挙では「民族再建」と書かれたを掲げに跨って街宣していた。
  • 国会初登院時の服装は、アロハシャツだった。
  • 一年生議員の頃は名を上げるため積極的に先輩議員を殴り、時には本会議場入口で待伏せしていた。当時の吉田茂首相に会釈したが無視された時に、「こら待て吉田、なんだその態度は!」とあわや乱闘になろうかという騒ぎを起こした。
  • 大蔵政務次官就任後の初登庁時に紋付羽織袴で乗込み、職員たちを驚かせた。
  • 大蔵政務次官時代に省議で主税局長と銀行局長が銀行の利子課税を巡って対立して議論が堂々巡りになった際に、佐藤栄作大蔵大臣に向かって「大臣、暫時人事権を委譲してください」と要請し、佐藤大臣が「よく理由はわからないが、人事権を暫く山中次官に委譲します」と言葉を得ると、「それでは発令します。只今から銀行局長は主税局長に、主税局長は銀行局長に発令します。論争を続行するように」と発言し、省議は爆笑に包まれ、その後2人の局長は歩み寄った[3]
  • 防衛庁長官時代、74式戦車の名前を「山中式戦車」にしてくれと装備局に頼むも却下された。
  • 中曽根派に属し、領袖である中曽根康弘よりも年少、かつ当選回数も少ない後輩であったが、関係は良好とは言えず中曽根のことを死ぬまで「中曽根君」と呼んでいた。晩年には、「中曽根元首相を君付けで呼ぶ唯一の人物」となっていた。中曽根内閣当時、税制改革に関して中曽根をバカ、マヌケ呼ばわりしたこともあった。
  • 佐野眞一のルポルタージュ集 『畸人巡礼怪人礼讃 新忘れられた日本人2』(毎日新聞社、2010年7月)に沖縄と山中の関係を取り上げた文章がある。ニクソンショック直後に沖縄だけ1ドル360円で交換、首里城の復元工事を推進し、選挙区でもない沖縄のために683本の特例法を通した背景には、鹿児島県出身者として薩摩藩琉球支配への贖罪意識があったという。また「米軍が沖縄に上陸していなければ、志布志湾に上陸し、鹿児島がひどい目に遭っていた」と、沖縄戦の犠牲に報いる意味もあった[4]
  • 消費税導入の議論を党税制調査会でする際には冒頭で「今日から消費税の議論をする。全員落選の覚悟で議論しろ」と述べた[5]。党税調正副会長会議での消費税議論において党税調副会長の武藤嘉文が「消費税は広く国民に理解してもらうためにも急がずにせめて1年間はPR期間を置くべきで、施行するにしても、1年後の1990年の1月又は4月に考えた方がいいのではないか」と問題提起をした時は、山中は「おまえ、いつから新しい税は1年のPR期間をおくとどこで決めたんだ? 俺は1989年4月1日と決めてるんだ」と述べ、消費税導入は1989年4月施行が事実上決まった[6]。消費税導入の際の税率について大蔵省では5%を主張する中で、自民税調において低所得者への配慮を考慮した山中の鶴の一声で3%になることが決定したが、5%を当然視していた吉野良彦大蔵事務次官は自民税調の3%という決定を聞いた時に椅子から転がり落ちたと言われる。
  • 1990年の総選挙では、消費税問題の逆風、同じ選挙区の二階堂進が政治力を大きく低下させていたことによる「自民党で落ちるのは二階堂」というムードの影響で、県連が山中より二階堂にてこ入れしたため、最下位当選の有川清次に28票差で落選。しかし、「消費税を通す犠牲になった」ということになり、1993年の総選挙では山中は72歳の高齢ながら返り咲きに成功し、発言力はむしろ増大した。
  • 親台派議員として、日華議員懇談会会長も務めた。1971年には、美濃部亮吉東京都知事に託した周恩来宛の書簡について当時の保利茂自民党幹事長に抗議するも、「山中君、君の中華民国を思う信念は尊いし、今後も実行し続けてほしい。この一振りは私の心だと思って受け取ってほしい」と日本刀を差し出されて退散した[7]
  • 1979年の税調会長就任以降は、信条として税制に関する限り一切の陳情及び取材を受け付けなかった。そのせいか、山中の影響力が絶大だった時期にも、選挙区の主要産業である葉タバコ焼酎の増税案が通過している[8]。ただし、肉用牛に関する所得税の時限の免税特例措置は1967年に山中の尽力で導入され、山中の税調会長就任後も何度か延長されて事実上の恒久措置となった。
  • 法令(府令)で設置が定まっている組織である政府税調と方針が対立して「政府税調を軽視しているのではないか」と聞かれた際に、「軽視ではない。無視しておる」と発言した[9][10]
  • 税制調査会では会長退任後も最高顧問として事実上の最高実力者であった。税のプロを自認し、「党三役ごときに相談しない」「首相の裁断を仰ぐような無様なことはしない」と発言したこともある[8]森内閣の頃には、自3党と関係閣僚が合意した経済対策が、税制の部分に山中が同意しないことを理由にストップしたことすらあったという。
  • 2001年小泉純一郎が「聖域なき構造改革」を掲げて総理大臣に就任すると、道路特定財源など税制のあり方も改革の俎上に上がった。小泉は税制について山中の事務所をたびたび訪れ協力を要請、総理も無視できない税制分野における山中の権勢に注目が集まった。山中は報道陣に対し、「税のことは50年しかやっていないのでよくわかりません」と煙に巻いた。
  • 晩年は糖尿病の悪化もあって杖をついて歩いていたが、決して杖をついている姿を撮らせなかった。
  • 自民党総務を晩年に至るまで務め、自民党総務会の重鎮として重きをなした。
  • 例外的に夫婦の別姓を実現させる会最高顧問。2002年に家裁の許可を要件とする例外的夫婦別姓制度を議員立法で試みた。
  • 遺言で「後継は山中家から出してはいかん」と世襲を否定し、身内からの後継出馬を当然視していた自民党鹿児島県連が大騒ぎになった(山中死去に伴う補選では自民党は森山裕を擁立し当選した)。
  • 鹿屋市の発展に対してライバル視しており、本来必要ではない報告であるが、地元及び国政の有力者である山中へ東九州自動車道の計画路線について、当初垂水市から鹿屋市経由の経路を担当者が報告した際に「こげな経路にすっちはないごっか!こげんなおさんか!(このような経路にするとは何事か!このように直せ!)」と手が付けられないほどに激怒し、現在の岩川経由の線形が悪い経路に変更させた。
  • 大蔵官僚および自民党税調会メンバーとして長年付き合いのあった津島雄二は、「ちょっと神格化されすぎている」と評している[11]
  • 議員バッジを自前で作成しており、裏に山中貞則と刻印がされたものを着けていたということが衆議院議員の河野太郎により明かされている[12]

著書

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  • 『顧みて悔いなし─私の履歴書』(日経事業出版、2002年)

脚注

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  1. ^ 山中元通産相が死去/ミスター消費税の異名も”. 四国新聞ニュース. 株式会社四國新聞社 (2004年2月20日). 2024年11月3日閲覧。
  2. ^ “秋の叙勲 勲三等以上および在外邦人、帰化邦人、在日外国人、外国人の受章者”. 読売新聞. (1991年11月3日) 
  3. ^ 三宅久之「三宅久之の書けなかった特ダネ」青春出版社、P170、2010年
  4. ^ 岩見隆夫「佐藤栄作に学ぶべきだ」『岩見隆夫の近聞遠見』(毎日新聞2010年5月14日付朝刊)
  5. ^ 毎日新聞 2008年6月2日東京朝刊
  6. ^ 真鍋繁樹「大蔵省 懲りない権力」P56-57、二期出版、1992年
  7. ^ “日中関係打開めざした「保利書簡」 「いぶし銀の調整役」保利茂(7)”. 日本経済新聞. (2011年10月30日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2401G_V21C11A0000000/ 2017年5月3日閲覧。 
  8. ^ a b “[一筆経上]ミスター税調の本音 編集委員・大橋善光”. 読売新聞. (2004年2月22日) 
  9. ^ 千葉商科大学経済研究所-機関紙
  10. ^ 民主党の税調改革で「法人税減税」「社会保障と税の一体化」は実現するか ダイヤモンド・オンライン 政局LIVEアナリティクス第61回 2010年11月2日
  11. ^ 津島雄二元厚相「山中貞則さん神格化されすぎた」”. 日本経済新聞 (2015年1月11日). 2021年8月12日閲覧。
  12. ^ Facebookにログイン”. Facebook. 2022年4月7日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
安倍晋太郎
  通商産業大臣
第41代:1982年 - 1983年
次代
宇野宗佑
先代
増原惠吉
  防衛庁長官
第31代:1973年 - 1974年
次代
宇野宗佑
先代
床次徳二
  総理府総務長官
第20代:1970年 - 1972年
次代
本名武
先代
創設
  沖縄開発庁長官
初代:1972年
次代
本名武
先代
創設
  環境庁長官
初代:1971年
次代
大石武一
議会
先代
臼井荘一
  衆議院大蔵委員長
1963年 - 1964年
次代
吉田重延
党職
先代
水田三喜男
自由民主党政務調査会長
第23代:1974年
次代
松野頼三
先代
倉成正
加藤六月
自由民主党税制調査会長
第18代:1979年 - 1982年
第21代:1986年 - 1989年
次代
村山達雄
三塚博
名誉職
先代
奥野誠亮
最年長衆議院議員
2003年 - 2004年
次代
中山太郎