武市瑞山

日本の尊攘派志士
武市半平太から転送)

武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日1829年10月24日〉- 慶応元年閏5月11日1865年7月3日〉)は、幕末志士土佐藩郷士土佐勤王党の盟主。通称武市 半平太(たけち はんぺいた)で称されることも多い。

 
武市 瑞山
『獄中自画像』高知県立歴史民俗資料館蔵 元治元年(1864年)夏ごろ[注釈 1]
時代 江戸時代末期
生誕 文政12年9月27日1829年10月24日
死没 慶応元年閏5月11日1865年7月3日
別名 幼名:鹿衛
通称:半平太
:小盾
:瑞山、茗澗
変名:柳川左門、柳川吹山
墓所 瑞山神社
官位 正四位
主君 山内容堂豊範
土佐藩
父母 父:武市正恒、母:大井氏
兄弟 瑞山田内衛吉
富子(島村氏)
養子:半太(大甥)
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概略 編集

幼名鹿衛小楯(こたて)。は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。

土佐藩郷士・武市正恒(白札格[1]、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女富子板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる[2]

優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。

生涯 編集

剣術家 編集

 
武市邸と道場跡の碑(高知市菜園場町)

文政12年9月27日1829年10月24日)、土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。白札郷士とは上士として認められたことを意味する。

天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ[3]嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている[4]。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。

嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している[5]。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き[6]、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。

安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった[7]。この道場の門下には中岡慎太郎岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡香美郡での出張教授を行う[8]

安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流士学館桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている[9][10]

これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる[11]

安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信大老井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった[12][13]

同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが[14]、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した[15]。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている[16]

土佐勤王党結成 編集

 
武市瑞山肖像(『少年浜口雄幸』より)

文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、7月に江戸に到着し、長州藩桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作薩摩藩樺山三円水戸藩岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した[17][18]

土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した半平太は久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうと提案し、この提案は一同の同意を得ることとなった[19][20]

8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成し、大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた[21][22]。9月に帰国した半平太は同志を募り、坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となり[23]間崎哲馬平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟した。加盟者の大半は下士・郷士地下浪人の下級武士や庄屋で、上士は2人しか加わっていない[24]

このころの土佐藩は容堂の信任厚い参政・吉田東洋と配下の新おこぜ組が政を司り、意欲的な藩政改革を進めていた。故に藩論は東洋の唱える開国・公武合体であり、また初代・山内一豊徳川家康の格別の抜擢によって土佐一国を拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府を尊崇する気風が強かった。10月23日、半平太は藩論を刷新すべく大監察・福岡藤次および大崎健蔵に進言するが書生論であると退けられ、半平太はなおも東洋宅を訪問して時勢を論じ勤王と攘夷を説くが、東洋は「そこもとは浪士の輩に翻弄されているのであろう。婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか。山内家と幕府との関係は島津毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意の極みである」と一蹴した[25]

半平太は藩論を転換すべく各方面に運動するとともに、長州の久坂玄瑞に大石弥太郎・坂本龍馬らを使者に送り、薩長土勤王密約実現のための連絡を緊密にした。長州でも長井雅楽の開国論(「航海遠略策」)が藩論となっており、久坂は自藩の萎微を痛嘆する返書を寄こす情勢だった[26]。だが、翌文久2年(1862年)2月、久坂の元へ送った吉村虎太郎から薩摩藩国父・島津久光が精兵2,000をもって率兵上京するとの報がもたらされた。久坂ら攘夷派はこれを攘夷のための挙兵であると解釈しており、吉村は半平太に脱藩して薩摩の勤王義挙に参加すべしと説くが、半平太は飽くまでも一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促した。吉村はこれに納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ向かい、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩してしまった。龍馬の脱藩について半平太は後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。広い処へ追い放してやった」と語っている[27]

吉田東洋暗殺 編集

半平太は吉田東洋の専横を憎む守旧派で連枝の山内大学山内兵之助山内民部、家老の柴田備後五藤内蔵助らと気脈を通じるようになる[28]。半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説くが、山内民部の「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」との言葉を暗殺の示唆と受け取り、半平太はついに東洋暗殺を決断した[29]。これには来る4月12日に藩主・山内豊範参勤交代のため出立することが決まり、東洋ら佐幕派に囲まれた藩主・豊範が江戸へ行ってしまえば、久坂らとの三藩藩主勤王上洛の密約は水泡に帰すとの情勢の切迫もあった。

4月8日夜、豊範に「本能寺凶変」の進講をして帰宅途上にあった吉田東洋を、半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾大石団蔵安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩した。東洋派の藩庁は激怒し、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死にも辞さぬ構えを示し、一触即発の事態になった。この事態を打開すべく半平太は山内民部に書簡を送り、これを受けた山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総(酒井勝作)と謀って政権を掌握し、半平太率いる土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政の主導権を握った。12日に東洋派は藩庁から一掃され、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げとなっている[30]

これより前の文久2年(1862年)3月に薩摩藩国父・島津久光が入洛したが、攘夷派の期待と異なり久光の真意は公武合体にあり、4月23日には寺田屋騒動が起きて有馬新七ら薩摩藩攘夷派は粛清され、彼らと行動を伴にしていた吉村虎太郎ら土佐脱藩浪士も送還させられた。過激攘夷派を弾圧して暴発を防いだ久光は朝廷を押し立てて将軍上洛、五大老の設置そして一橋慶喜の将軍後見職松平春嶽の大老就任による幕政改革を要求する。4月27日には長州藩世子・毛利定広が入洛して国事周旋の勅命を受けた[31]。この後、長州藩では攘夷派が優勢になり、7月に開国派の長井雅楽が罷免されて破約攘夷が藩論となる。

半平太は長州と同様の勅命を土佐にも下させるべく同志を京に派遣して朝廷に働きかけ、これを受けた朝廷は薩長両藩に続き土佐藩を入洛させるべく山内家と姻戚関係にある三条実美を介して入洛催促の書簡を送った。しかし、守旧派が多数を占める藩庁は婉曲にこれを拒否する返書を送った[32]。吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範の参勤交代出立は6月28日となり、人数は通常600人程を2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ[33]、半平太をはじめ島村衛吉・平井収二郎ら土佐勤王党の同志数十人も供奉した。参勤交代の一行は播磨国姫路麻疹の集団感染が発生して、豊範も罹患したため大坂での約一ヵ月の逗留を余儀なくされた。この大坂逗留中の8月2日に吉田東洋暗殺の下手人探索をしていた元下横目の井上佐市郎が岡田以蔵ら土佐勤王党に殺害されている。

国事周旋と天誅 編集

 
武市瑞山寓居跡(京都市中京区木屋町)

参勤交代の行列を京都に留めようとする半平太の狙いとは逆に、守旧派は京都に立ち寄らずに江戸への東下を策謀していた。このため土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門が江戸へ下って老公・容堂に藩主の入洛を説き、遂に容堂は朝命を拝受せよと決断した。8月25日、豊範は京都河原町の土佐藩邸に入り、在京警備と国事周旋の勅命を受けた[34]

閏8月に半平太と小南五郎右衛門・平井収二郎・小原与一郎谷守部ら尊攘派が他藩応接役に任じられた[35]

半平太は周旋活動のために藩邸を離れて三条木屋町に寓居を構え[36]、藩主・豊範の名で朝廷に向けた建白書を起草した。この建白書の内容は、山城摂津大和近江4力国を天皇の直轄地とし、直轄地に配置した親王以下の国司は諸国浪士を家来として召し抱えること、江戸への参勤交代を5年ないし3年に1度へと軽減させることなどを建言すると共に、政令は全て天皇から諸大名へ直接発すべきであるとし、王政復古を主張するなど、時代に先んじたものであった。同時に、長州の久坂玄瑞ら他藩の志士、三条実美や姉小路公知を始めとした朝廷内の尊攘派公卿とも緊密に連携し、朝廷を代表して幕府に攘夷督促する勅使を江戸へ東下させる画策の下、朝廷工作に奔走する。これらの動きが功を奏し朝廷が攘夷の朝議を決定した際、一橋慶喜がこれを覆そうと入京を画策したが、半平太は裏工作によりこれを一時妨害することに成功している。

この時期、京都では過激な尊王攘夷派による天誅、斬奸と称する暗殺が横行し、半平太も少なからず関与していた[37][38]

半平太の下で動いた人物では、後に「人斬り」の異名を持つことになる門弟・岡田以蔵と薩摩藩士・田中新兵衛が有名である。半平太が関与したとされる天誅には、越後の志士・本間精一郎の暗殺(閏8月21日)、安政の大獄で志士を弾圧した目明し・文吉の虐殺(9月1日)、石部宿における幕府同心・与力4名の襲撃暗殺(9月23日)がある。しかし、同月に関白近衛忠煕が半平太に対し洛中での天誅・斬奸を控えるように命じてから後は、半平太の直接指揮による京での暗殺事件は確認されていない。また、侍従中山忠光から前関白・九条尚忠岩倉具視ら幕府に通じる三卿両嬪の暗殺のための刺客の貸与を申し入れられたが、これは断り、軽挙を止めさせている[39]

10月、幕府に対する攘夷督促と御親兵設置を要求する勅使として正使・三条実美、副使・姉小路公知が派遣されることになり、山内豊範には勅使警衛が命ぜられた。警固役には土佐勤王党の者が選ばれ、半平太は姉小路の雑掌となり、柳川左門の仮の名が下賜されて江戸へ随行。勅使の雑掌として江戸城に入城した際は将軍・徳川家茂にも拝謁し、幕府から饗応を受けている。幕府は勅命への対応に苦慮したが、容堂の働きかけもあって曖昧ながら攘夷の勅命は受け入れ、御親兵設置については謝絶している。

また、この時期に長州藩の高杉晋作と久坂玄瑞が横浜異人館襲撃を計画し、久坂は半平太にも参加を呼びかけるが、久坂の口から土佐勤王党の弘瀬健太がこれに加わっている事を知った半平太は山内容堂に訴えて収拾を乞い、容堂の警告を受けた長州藩世子・毛利定広が高杉らを説諭して襲撃は中止となった。この事件の余波で、長州藩の周布政之助が容堂に放言をして、長州藩士と土佐藩士が衝突しかける騒ぎが起こっている。江戸滞在中に半平太は7回、容堂に拝謁しており、その感激の思いを妻・富子に書き送っている[40]

12月に役目を終えて京都に戻った半平太は、入京以来の功績に報いる形で上士格留守居組への昇進を命じられる。さらに翌文久3年(1863年)3月には京都留守居加役となった。白札郷士から上士格への昇進は、それまで土佐藩において前例の無いことであったが、同志たちはこれを半平太を勤王運動から引き離すための容堂の策謀と考えた[41]

勤王党弾圧 編集

勅使護衛の任に当たっていた半平太の留守中に京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太とともに青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯に国元にいる先々代藩主・山内豊資(藩主・豊範の実父)に働きかけて藩政改革を断行しようと動いていた。このころ、容堂は土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示し始めており、半平太を除く勤王党志士に対し、他藩士との政事交際を禁じる通達を出した[42]。文久3年(1863年1月25日に入京した容堂は、青蓮院宮から平井・間崎らの動きを知らされ「僭越の沙汰である」と激怒して両名を罵倒して罷免した上で土佐へ送還させた。

容堂は3月に土佐へ帰国すると直ちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門、国老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞は辞職を余儀なくされた。このころの半平太はかねてより不和が生じていた薩摩と長州の融和に腐心していたが、土佐勤王党をとりまく情勢が険悪化する中、4月に半平太は薩長和解調停案の決裁を容堂に仰ぐために帰国する事となった。久坂玄瑞は危険であるとこれを止め、帰国せずに脱藩して長州へ亡命するよう勧めるが、半平太は亡命を拒否し、同志たちに諌死の決心を以て一藩勤王の素志を貫徹すべきであると告げて帰国した[43]

平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太は入牢させられ、厳しく尋問された。帰国した半平太は三名の助命を容堂に嘆願するが、6月7日に死罪が決定し、翌8日に三人は切腹した。半平太は尚も望みを捨てずに容堂に謁見して藩政改革の意見書を提出するとともに国事を論じた。容堂は半平太を罰しないが意見を容れることもなかった。

8月18日会津藩と薩摩藩による政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。同時期に大和国で吉村虎太郎・那須信吾ら土佐脱藩浪士らを中心とする天誅組が挙兵するが、翌月には壊滅して吉村らは討ち死にしている(天誅組の変)。

尊攘派の情勢が急激に悪化する中、9月21日に「京師の沙汰により」の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。獄吏が半平太の人物に傾倒したために彼らに便宜を図ってもらえたとされ、獄吏らを通じて家族や在獄中の同志と秘密文書をのやり取りも可能となった。これにより、長期にわたる獄中闘争の中で同志の団結を維持し続けると共に、軽挙妄動を戒めた。取調べの際、上士である半平太は結審に至るまで拷問される事はなかったものの、軽格の同志たちは厳しく拷問された。半平太らはまだ捕らえられていない獄外同志やその他の協力者への連累を食い止めるべく吉田東洋暗殺事件を初めとした被疑事実を否認し続け、長い獄中闘争を耐えた。だが、京都に残留していた岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛されて土佐に送還され、監察府の拷問に耐えかねて、京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名を次々と自白したことで事態は悪化し、新たな逮捕者が相次ぐこととなる。

捕縛後 編集

 
武市瑞山殉節地(高知市帯屋町)

7月に安芸郡で郷士・清岡道之助ら23名が半平太たちの釈放を要求して挙兵し、藩庁から派遣された足軽800人によって鎮圧される野根山屯集事件が起き、9月に清岡らは斬首に処された。このころより監察府の陣容が一新され、小笠原唯八乾退助そして吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになると尋問は更に厳しさを増し、同志達は厳しく拷問された。

この時、平井善之丞の甥である乾退助は、役務上、取調べを行わざるを得なかったが、退助も勤王派であったためきつく尋問する事には消極的であった。退助が武市を尋問したのは一度きりで「土佐勤王党の首領である武市から犯人の名を明らかにさせ、他はあまり深く究明しないつもりである」と述べている[44]。当時の状況から、武市の関与があったかは曖昧で、証拠不充分で武市自身は釈放されると退助を含め多くの人から考えられていた。退助は半平太に同情的であったため藩庁の意見と合わず、ついに国許土佐での役職を干されて江戸での騎兵術修行を申し付けられ、遠避けられてしまう。監察府の陣容一新の噂を耳にし、これまで以上の厳しい追及を覚悟した半平太は盂蘭盆の休日を利用して三枚の獄中自画像を揮毫し、それぞれ妻と姉に送った。

以蔵の自白により窮地に 編集

以蔵の自白によって新たな逮捕者が相次ぎ、半平太らに対する取調べも厳しさを増していった。半平太の実弟・田内衛吉は監察府による厳しい拷問に耐えかねてついに自供を始めてしまい、更なる自白を恐れて服毒自殺。島村衛吉も拷問死した。また、上士である自身に対しても拷問が行われることを覚悟した半平太は、これが現実になれば、獄中生活による衰弱も相まって拷問に耐えきれず自白してしまう可能性を憂慮し、自殺用の毒を自身にも調達するよう外部に依頼している。獄内外の同志は、なおも自白を続ける以蔵の存在が事態をさらに悪化させる事を恐れ、彼らの間で以蔵を毒殺する(あるいは、半平太の実弟と同様の服毒自殺を促す)計画が浮上した。

この以蔵毒殺計画に関しては、後年の小説やドラマ等の創作の影響から、保身に走った半平太が以蔵の自白を恐れ、獄外の同志に指令を発して以蔵毒殺計画を実行したため、以蔵がこれに憤怒し、半平太に対する憤りから自白を重ねたとする風説が流布されている。しかし、「武市瑞山獄中書簡」の編註者である横田達雄の研究によれば、前述の通り、以蔵は早々と拷問に屈して自白を重ねた事、半平太は同志間で持ち上がった強引な以蔵毒殺計画には反対し、以蔵の実家からの承諾を優先させた事、以蔵の実家から承諾を得られないまま獄が結審を迎えたため、最終的に毒殺計画は実行に移されていない事が判明している。さらに以蔵本人は、自身の自白によって同志らが一層厳しい境遇に追いやられた事を後悔し、以後の取調べにおいては、自身の自白内容について曖昧にボカすなどしていた事も判明している[注釈 2]

以蔵ら4名の自白はあったものの、半平太らが一連の容疑を否認し続けたため、監察府は半平太や他の勤王党志士の罪状を明確に立証するまでには至らなかった。そして慶応元年閏5月11日1865年7月3日)、業を煮やした容堂の御見付(証拠によらない一方的罪状認定)により「主君に対する不敬行為」という罪目で、半平太は切腹を命じられる。岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎岡本次郎の自白組4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まった。半平太ら勤王党志士が一連の容疑を頑なに否認したことで、死刑は盟主である半平太の切腹と以蔵ら自白組4名の斬首のみとなり、獄外同志やその他協力者への連累は食い止められた。

即日刑が執行され、以蔵ら4名は獄舎で斬首。切腹を命じられた半平太は体を清めて正装し、同日20時ごろ、南会所大広庭にて、未だ誰もなしえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37(満35歳没)。

辞世の句は、

ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり[45]

であった。

没後 編集

 
武市半平太夫妻の墓

武市の死によって土佐勤王党は事実上壊滅した。中岡慎太郎ら一部の同志は見限って脱藩し、浪士となって討幕活動を進めた。後に中岡の仲介によって乾退助西郷隆盛薩土討幕の密約を結び、退助は土佐勤王党の志士らを釈放し、土佐藩は薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになる。また、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり坂本龍馬と邂逅して大政奉還を主導したが、勤王の志士を再結集して戊辰戦争を戦い土佐藩兵を率いたのは武市と縁ある退助であった[2]

維新後、木戸孝允が山内容堂との酒席で酔った勢いで「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」と詰めたが、彼は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言われる。しかし、病に臥せた晩年の容堂は、武市を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる[46]

名誉回復と顕彰 編集

武市に関しては、土佐藩内で罪人として処罰された経緯があったが、維新後、有志の盡力により、明治10年(1877年)に名誉回復される。

明治17年(1884年)に元土佐藩士の土方久元田中光顕佐々木高行らが中心となって瑞山会が結成されて土佐勤王党殉難者の記念碑建立と武市半平太の伝記編纂が決められた。翌年、高知縣護國神社に「南海忠烈碑」が建立される。

さらに、明治24年(1891年4月8日坂本龍馬中岡慎太郎吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。5月8日、東京・九段坂上(靖國神社)において、武市の追贈(贈正四位)奉告式が挙行された。この式典に際し、富子夫人は、実弟の島村笑児を伴って上京し参列。清華家からの代表者として右大臣岩倉具視、旧土佐藩主山内豊範、 旧土佐藩大監察後藤象二郎、板垣退助、佐々木高行土方久元、田中光顕らを初め土佐勤王党の同志ら朝野の済々多士が参列。山内、板垣、後藤らが神前に深々と頭を垂れ、懇ろに拝したのを見て、富子は感極まって涙したという。

勤皇烈士武市瑞山以下贈位祭典 祭文

故武市半平太、坂本龍馬中岡慎太郎吉村寅太郎君のみたまに告ぐ。 嗚呼ああ君等きみたちが二十餘年前、鞠躬きくきゅうくにつくし、たほれて而後のちみしまさ大丈夫ますらを忠烈ちゅうれつこころざしかずと云ふべし。
聖天子すめらみこと、其功勳いさをほめて、ここに特旨正四位をおくらる。君等きみたち死して餘榮よえいありとふべし。抑々そもそも幕末紛々ふんうんかんしょして、く國が爲めに薩長の協一はかる坂本、中岡二君の如きあり。維新の大業、實にこれもとゐとす。それ富嶽ふがくの高きをのぞみて皆なこれあふくを知る。しかしてこれあふ所以ゆえんを知る者すくなし。今や外交多難、民力みんりょく日につかれ、國家百年の長計いまだ立たず、吾等果して先君せんくんはじるなき嗚呼ああ丈夫ますらをみたまよろし丈夫ますらを御社みやしろもって祭らむと、故友こいう くらゐまうけ、旨酒うまざけにはかぐはす。英霊えいれい髣髴ほうふつきたりけよ[47]

明治二十四年五月八日 靖國神社に於て 伯爵 板垣退助[47]

式典の後、九段坂上の富士見軒で開かれた直会の席において、武市の親族[2]でもある板垣は「当時の経緯は種々あったとはいえ、土佐藩が瑞山先生を殺した処断は、日本における損失であり洵に誤りで有ったと断言できる」と両者の間に立って心痛の思いを吐露し、後藤も同意した。この一言は、土佐勤王党の同志らの思いを代弁するもので、当時の藩庁側、勤王側、身内側の立場を知る板垣にしか発せられない言葉であったため、一同は永年の溜飲が一時に下がり心から晴々としたと言う[48]。瑞山への取調べが激化した時、板垣は武市を救おうとしたが、藩庁側と意見が合わず「不念の儀あり」と讒言を受けて職を解かれ、左遷されるかのように遠避けられ、江戸で軍学修行を仰せ付けられていた[49]

伝記の編纂とその後 編集

伝記は坂崎紫瀾が主筆となり20年余の史料収集・編纂作業を経て大正元年(1912年)に『維新土佐勤王史』が刊行されている。

半平太の切腹後に武市家の家禄は召し上げとなり、未亡人となった富子の生活も困窮した。明治39年(1906年)、宮内大臣に出世していた田中光顕が富子に援助の手を差し伸べ、田中をはじめとする瑞山会の庇護によって晩年の富子は手厚く遇され、武市家の養子の半太も医学の道に進むことができ、梼原村(現高知県高岡郡梼原町)で開業している[50]

高知市にある半平太の旧宅と墓所は国の史跡に指定されており、旧宅近くに半平太を祀る瑞山神社がある。また、彼の生涯や業績を紹介する瑞山記念館が地元の住人らによって運営されており、絵師弘瀬金蔵(絵金)の門人でもあった瑞山の手による美人画や「童女遊戯図」なども展示されている[51][52]

土佐藩士姻族関連系図 編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣退助
 
宮地軍子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮地茂秋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮地自然
 
宮地茂春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮地茂光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
柳村惟政
 
さよ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鹿持雅澄
 
 
女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野見自守
 
柳村惟則
 
 
 
 
 
 
 
鹿持孫平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菊子
 
 
田内衛吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武市正久
 
 
武市正恒
 
 
武市瑞山
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
島村雅事
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
島村正壽
 
 
島村雅風
 
武市富子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐尾子
 
 
沢辺琢磨
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山本信敬
 
山本信固
 
山本信年
 
山本信道
 
 
桑津重時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
坂本直足
 
 
坂本直方
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
坂本龍馬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
坂本直澄
 
坂本幸
 
 
 
 
 
福岡孝弟
 
福岡秀猪
 
宮地呉子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮地信貞
 
宮地茂好
 
 
 
 
 
宮地自然
 
宮地茂春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾直建
 
乾正聰
 
乾信武
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮地茂秋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾正成
 
板垣退助
 
宮地軍子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
女子
 
 
女子
 
 
寺村道成
 
寺村成潔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平井政実
 
 
板垣勝子
 
 
女子
 
 
 
 
 
 
 
 
谷村自貞
 
谷村自熈
 
 
谷村自雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日野成文
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺村成雄
 
 
山田信子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
谷村自高
 
谷村自輝
 
谷村自庸
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
女子
 
山田清廉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋本寅直
 
 
橋本孝直
 
橋本直道
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武藤好直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
女子
 
 
後藤正晴
 
 
 
 
 
 
後藤猛太郎
 
後藤保弥太
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後藤象二郎
 
 
岩崎早苗
 
 
岩崎小弥太
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大塚勝従
 
女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎俊弥
 
 
 
 
 
 
後藤正刻
 
後藤吉長
 
 
 
 
 
 
岩崎弥次郎
 
 
 
 
 
岩崎弥之助
 
 
岩崎輝弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥太郎
 
岩崎久弥
 
福沢綾子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本山茂直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福沢諭吉
 
福沢捨次郎
 
福沢堅次
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清岡公張
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清岡春勝
 
 
清岡成章
 
清岡邦之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後藤吉正
 
後藤正澄
 
琴子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉田正春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉田正幸
 
吉田正清
 
吉田東洋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

人物 編集

 
武市半平太立像(高知県須崎市
 
武市半平太旧宅(高知市仁井田)
  • 言説さわやかで人格も高潔にして誠実、武士道仁義を重んじていた。見た目は色白・美形・堂々たる体格(180cm前後)であったと伝わり、行友李風戯曲月形半平太』の題名役(主人公)のモデルともなった。ただし劇中の半平太は女性を魅了する色男として描かれているが、半平太は1歳年下の妻・富子とは睦まじい暮らしぶりであったという。
  • 顎が大きかったと言われる。龍馬は半平太を「顎(アギ)どの」と呼んだ書簡を残している。
  • 剣の腕も一流で教養もあり、指導者としての資質を十二分に持ち合わせていた。芸術方面では南画の腕もあり、獄中自画像や美人画など多くの作品を残している[注釈 3]
  • 甘党の煙草飲みである一方、酒豪の多い土佐人の中では珍しく、猪口2杯ほどで大酔いになるほどの下戸であった。
  • 武市夫妻に子が授からないことを心配した吉村虎太郎が、富子に七去を説いて実家へ帰らせ、その留守に若い娘を女中として送り込んだが、武市は次々と送り込まれた娘たちに手をつけず、吉村の計略に気づいて、彼を叱りつけた。
  • 浄瑠璃を好み、蔵の中で一人小声で唸ることもあったが、大変な音痴であった。富子は「非常に不器用な人で、撃剣は朝から晩まで遣ったが、あるとき義太夫を稽古して唸りました処、それはそれは下手の骨頂で、節も文句も滅茶々々でした」と述懐しており、半平太が蔵の中で義太夫を唸りだすと、姉の奈美らは「下手の横好きよ」とクスクス笑ったと言う。
  • 投獄後、富子に対して留守宅を訪問する牢番に酒などを振舞ってやるよう指示する気遣い、獄中での牢番との交流などを通じて牢番からも心服を受け、妻や姉、同志らとの秘密裏の往復書簡の遣り取りが可能になると共に、牢番衆は武市に酒、ウナギ、かまぼこ、鰹、菓子などの食料や煙草、ネズミ対策用の蛍や猫、季節の花々などを競うように差し入れた。ウナギの幼魚をあまり好まなかった武市が、牢番に気を遣い、差し入れられたこれを「うまい」と言いながら食べると、これに喜んだ牢番が「また持ってこよう」と言ったため、さすがに困惑したことを富子宛の書簡に書き残してもいる。
  • 武市が投獄されて切腹するまでの1年9か月間、富子は夫と苦労を共にすべく板の間で寝起きし、夏は蚊帳を吊らず、冬は布団を使わずに過ごした。また、毎日3食を欠かさず牢に差し入れ、夫を慰めるため書籍や自作の押絵なども共に差し入れていた。武市が切腹の際に身につけていた衣装も、富子が縫いあげて届けた死装束であった。富子は大正6年(1917年)まで存命し、夫の墓の隣に埋葬された。
  • 剣術家時代は愛弟子として岡田以蔵に目をかけ、江戸修行や西国遊歴にも従者として同行させるなど非常に親密であったことが窺える。しかし以蔵が勤王活動から脱落した末に無宿人にまで落ちぶれ、あげくは藩庁の拷問にも早々と屈して自白を重ねて多くの同志を道連れにしてしまったころには彼を軽蔑していたとも言われ、そうした内容の手紙を実弟や実家に対して書き送っている。
  • 生前から牢番の門谷貫助に対して、切腹の際は腹を1度切り裂く通常の切腹法ではなく、十字に切り裂く切腹法と3度切り裂く三文字割腹の法のいずれかを用いることを予告していたと伝えられる[53]
  • 藩との対立に敗れて切腹に追い込まれたにもかかわらず、武市の遺体が生家の吹井村に帰ってきた際は、村人が沿道に列を作り、彼を出迎えたという。また、翌日の葬儀では、吹井から五台山近傍までの約3キロメートルにわたる会葬者の列が出来たとされる。

評価 編集

一部の創作の影響により、暗殺者の黒幕としてのイメージも強いが、 半平太の人格を評する「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」や「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」といった言葉が残されており、中岡慎太郎西郷隆盛に対面した時の印象に付いて「その誠、武市に似る」と評していることから、至誠の人と謳われた西郷に匹敵するほどの誠実な人柄だったことが窺える。他方で、高杉晋作らの過激派からは穏健的と見られたり、半平太を切腹へと追いやった山内容堂からは視野狭窄といった趣旨の批評もなされていた。

瑞山身長六尺、隆準修腭、眼に異彩あり。其の顔蒼白、喜怒色に見はれず。人或は墨龍先生と呼ぶ。一たび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹す。長藩の久坂等は、一見傾倒、死生相許し、清岡道之助の傲岸なるや、瑞山の無学を侮る。其の之に接するや忽ち推服し、山内容堂眼中人なく、意気一世を壓するも、瑞山来りて謁を請へば、為めに容を改むと云う。其の堂々と犯すべからざるの儀表、瑞山の人格一世に高きもの、蓋し天授なり。 — 『維新土佐勤王史』
  • 久坂玄瑞
    • 「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」
    • 「その熱誠、西郷の上にあり」
    • 「真に国士の風あり」
    • 「松陰の学問文章、人材教育の手腕は遠く瑞山に優る、然れど風雲を叱咤して、旋乾轉坤の活劇を演出する将略に至っては、瑞山遥かに松陰に優る」
  • 高杉晋作 「あれ(半平太)は正論家である。正々堂々として乗り出すことには賛成するが、権道によって事を成すということは何時も嫌っている」
  • 田中新兵衛 「至誠忠純、洛西にその比を求むるならば、わが大島三右衛門(西郷隆盛)か」
  • 樺山三円 「このうちより武市氏のこと承りおよび候ところ、はじめて面会。健なる人物と相見え、武術師範のよし。よく西郷吉之助に似たり。真に君子なり」
  • 坂本龍馬 「武市の窮屈」
  • 板垣退助 「土佐藩が瑞山先生を殺した処断は、日本における損失であり洵に誤りで有ったと断言できる」(明治24年(1891年)5月8日、東京九段・富士見軒での武市瑞山の追贈(贈正四位)を祝う席上の来賓挨拶において)
  • 大石弥太郎 「自分よりは一層慷慨家で、朝廷のことを申せば涙を流すので、平生『天皇好』と綽名のある男」
  • 佐々木三四郎
    • 「武市という男はごく渋い男で、痩せてはおらぬが背の高い方で、顔が細長く、眼光人を射るというような、所謂丈夫らしい人物であった。いっこう笑うことをしない。親しく話してみるとそうでもないが、俗人からはいかにも憎体な人であった。学問も和漢をかね、剣術は中々上手であった。至誠鬼神を泣かしむるというのは、まずこういう人であろうと思った」[54]
    • 「武市はああいう誠実な方であるから(吉田東洋暗殺推進派を)『マアマア』というて制していた」
    • 「武市はああいう着実の男であったから、血気の勇の大事を成すべからざるところを論じて(久坂玄瑞らの外国人刺殺計画の)中止を勧告した」
    • 「どこまでも真面目な男で、上京中門下の激徒数百人は長州に脱走をすすめ、久坂玄瑞などもこれを諷したが応じない。『諸君は水長二藩に投じて、大いになさんとするならそれでも宜しい。予は国に帰って鞠躬尽力。老公を諌め藩庁に説いて、倒れてのち止む決心である。何の面目あって他藩の食客となろうぞ』と。いずれもその精神に感動したそうだ」
  • 安岡覚之助 「人となり、かねて承知には候えども、これほどの好男子とは存知もよらず。(中略)この先生の腸はなかなか太く、頼もし頼もし」
  • 上田定蔵
    • 「なるほど武市半平太は聞きしに違わぬ豪傑の士なり」
    • 「その罪をにくんで人をにくまざるは、これ聖賓の教えなり。半平太は稀代の業物にして、瑕があるかは知らねども、兎に角五郎入道正宗の作なり」
  • 酒泉彦太郎
    • 「顔色蒼白、状貌雄偉なり。性沈深寡黙にして喜怒色にあらわれず。頗る撃剣の術に長じ、傍ら書史に渉り兼ねて書を善くす」
    • 「深沈寡黙、頗る風采に富み挙止、人を服せしむるに足る」
  • 楢崎龍 「武市さんが江戸から国へ帰るとき京で『一緒に帰らぬか』と言うと龍馬は『今お国ではだれでもかれでも捕まえて斬っておるから、帰ったら必ずやられる』と止めました。けれども武市さんは無理に帰って、はたしてあのとおり割腹しました。龍馬が『おれも武市と一緒に帰っていたもんなら命はないのじゃった。武市は正直すぎるからやられた。惜しいことをした』とため息をついて話しました」
  • 三宅謙四郎妻女 「武市半平太さんにもよく使いに行きて会いたり。立派なる人なりき。馬術をよくし、九反田の馬場に馬を乗りに来られたり」
  • 村井修理少進 「土州武市半平太初て入来、名望これある人物。(中略)この人の説、諸藩見込みのうち第一等の論」
  • 小原輿一郎 「これ壮弱輩の聞こえ善くするの文にて、業において行われ難き義、いまだ御内々のケン議もこれなきうち、村井(村井政礼)ごとき吐出すこと、言語道断。名利を貪るの甚だしきこと。君上の大事を存ぜざる者なり」
  • 中山忠光 「なかなか半平太のごとき因循者に相談は致さず」
  • 山内容堂
    • 「半平太はあまりに極端すぎて困る」
    • 「半平太は困った男なり」
    • 「(半平太の勤王論を揶揄し)あまり無学で困る」
  • 田中光顕 「一死君国のため脱藩した志士達は、全部土佐言葉丸だしで、オンシ、オラを使ったよ。それは、年齢の後先はなかった。身分の上下も越えて、みんなオンシ、オラだった。わたしが坂本君や中岡君にオンシが、オラがといい、坂本君も中岡君も、わたしにオンシが、オラがで話したよ。オンシ、オラが勤皇志士の合言葉であった。なつかしいのう。もっとも武市瑞山先生(半平太)は別じゃった。瑞山先生は一枚上であったので、みなが瑞山先生とか、武市先生とか呼んだ。例の墨絵の龍というのがあるだろう。瑞山先生は、墨絵の龍に似ているというので、墨龍の異名があった。それで、墨龍先生とも呼んだ。今ひとつは、アゴがうんと長かったので、アゴ先生と呼んだ。このように、瑞山先生には、必ず先生をつけて呼んで、呼び切りにしたり、オンシ、オラで話すものは一人もいなかった。陰で、噂をしてもアゴ先生といったよ。さすがに勤皇党の首領だけあって、皆が畏怖尊敬していたよ。ただ、坂本君だけは、瑞山先生の前であぐらをかいて、アゴが、アゴがと放談をやっていた。この時には、瑞山先生も顔をほころばせて、アザが、アザがとからかっていた。とにかく、瑞山先生は桁違いの大人物であった」

子孫 編集

  • 武市と富子の間には子が無かったため、大甥(甥の子)である半太を養子とし、後継とした。
  • 中央大学法学部教授であった武市楯夫は、生前に半太の子であることを学生に公言していた[55]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 題詞は「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可耻 只有赤心明」。本作は、半平太の子孫が高知県立歴史民俗資料館に寄贈した(京都国立博物館編集 『特別展覧会 坂本龍馬生誕170年記念 龍馬の翔けた時代 ─その生涯と激動の幕末─』 京都新聞社、2005年7月、p.252。なお同図録には、半平太筆「椿美人図」(財団法人角屋保存会蔵)も掲載されている(p.227、281)。
  2. ^ 横田がこれらの研究の成果を平尾道雄海音寺潮五郎に報告したところ、平尾からは「正論。大いに吹聴すべし」、海音寺からは「武市半平太の暗きイメージ、払拭されたり」との評価を得たとされ、今日においては、半平太から以蔵に毒が送られることは無かったという見方が通説となってきている。
  3. ^ 半平太の絵は、『近世土佐の美術』(高知県立美術館編集・発行、2001年11月、p.117)や『極彩の闇 絵金』(高知県立美術館監修、2012年10月)などに掲載されている。また、瑞山記念館にも美人画や「童女遊戯図」が展示されている。

出典 編集

  1. ^ 上士待遇
  2. ^ a b c 板垣退助の婿の伯父と、武市瑞山の叔母の娘が婚姻
  3. ^ 松岡司『武市半平太伝』p21
  4. ^ 入交好脩『武市半平太』p25
  5. ^ 『維新土佐勤王史』p36
  6. ^ 入交好脩『武市半平太』p26
  7. ^ 入交好脩『武市半平太』p26-27
  8. ^ 入交好脩『武市半平太』p27
  9. ^ 安政4年8月17日付武市半平太書簡。『坂本龍馬歴史大事典』p343
  10. ^ 入交好脩『武市半平太』p28-29
  11. ^ 松岡司『武市半平太伝』p27
  12. ^ 『維新土佐勤王史』p61-62
  13. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p122-123
  14. ^ 『維新土佐勤王史』p63
  15. ^ 『維新土佐勤王史』p63-66
  16. ^ 半平太会『維新土佐勤王史』p64
  17. ^ 『維新土佐勤王史』p68-69
  18. ^ 入交好脩『武市半平太』p43
  19. ^ 『維新土佐勤王史』p74
  20. ^ 『幕末土佐の群像』p62
  21. ^ 『維新土佐勤王史』p70-72
  22. ^ 『幕末諸隊録』p60
  23. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p17-18
  24. ^ 入交好脩『武市半平太』p49
  25. ^ 『維新土佐勤王史』p85
  26. ^ 『維新土佐勤王史』p91-92
  27. ^ 『維新土佐勤王史』p108
  28. ^ 『維新土佐勤王史』p113
  29. ^ 『維新土佐勤王史』p113-114
  30. ^ 入交好脩『武市半平太』p69
  31. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p162
  32. ^ 入交好脩『武市半平太』p78-79
  33. ^ 『官武通紀』。入交好脩『武市半平太』p79
  34. ^ 入交好脩『武市半平太』p81
  35. ^ 松岡司『武市半平太伝』p76
  36. ^ 松岡司『武市半平太伝』p78
  37. ^ 入交好脩『武市半平太』p87-95
  38. ^ 松岡司『武市半平太伝』p90-102
  39. ^ 瑞山会『維新土佐勤王史』p178-182
  40. ^ 入交好脩『武市半平太』p101
  41. ^ 入交好脩『武市半平太』p104
  42. ^ 松岡司『武市半平太伝』p150-151
  43. ^ 瑞山会『維新土佐勤王史』p341-343
  44. ^ 『武市瑞山関係文書(1)』
  45. ^ 勇猛・悲壮 辞世の句150 戦国武将・維新志士・帝国軍人…日本男児が遺した最後の言葉!p.140 DIA Collection
  46. ^ 松岡司『武市半平太伝』p359
  47. ^ a b 『詔勅類纂祝辞演説一千題』内山正如編、東京博文館、明治25年(1892年)4月25日
  48. ^ 『千賀覚書』
  49. ^ 『板垣退助君傳記』
  50. ^ 松岡司『武市半平太伝』p361-364
  51. ^ 有限会社生活創造工房『瑞山記念館』(2011年)
  52. ^ 産経ニュース『結婚後も描く?武市半平太の美人画見つかる 高知で初公開』(2011年5月11日)
  53. ^ 松岡司『武市半平太伝』p335
  54. ^ 『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』
  55. ^ 『月刊歴史百科』創刊号(1980年)

関連項目 編集

関連作品 編集

映画
テレビドラマ
テレビアニメ
漫画
ゲーム

参考文献 編集