ジョニー・ダンフリーズ
第7代ビュート侯爵ジョン・コラム・クライトン=ステュアート(John Colum Crichton-Stuart, 7th Marquess of Bute, 1958年4月26日 - )は、イギリスの貴族、元レーシングドライバー。1984年イギリスF3チャンピオン、1988年ル・マン24時間レース優勝者。
ジョニー・ダンフリーズ | |
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基本情報 | |
フルネーム | ジョン・コラム・クライトン=ステュアート |
国籍 |
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出身地 | 同・ビュート島ロスシー |
生年月日 | 1958年4月26日(62歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1986 |
所属チーム | '86 ロータス |
出走回数 | 16 (15スタート) |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 3 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1986年ブラジルGP |
最終戦 | 1986年オーストラリアGP |
1993年に爵位を継承するまでダンフリーズ伯爵の儀礼称号で称されていたため、ジョニー・ダンフリーズ(Johnny Dumfries)とも呼ばれる。
経歴編集
F1以前編集
イギリスの貴族の第6代ビュート侯爵ジョン・クライトン=ステュアートとその妻ベアトリス(旧姓ウィルド=フォレスター)の間の長男として生まれる[1][2]。ビュート侯爵ステュアート家はステュアート朝の最初のスコットランド王ロバート2世の私生児ジョン・ステュアート (John Stewart) を祖とするスコットランド貴族の家系であり、先祖の当主の一人に18世紀中期に英国首相を務めた第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートがいる[3]。
高等教育ではなくレースに興味を持ち、1980年に100ccカートでキャリアをスタートさせ、1981年からはフォーミュラ・フォードに参戦。1982年まで2年間参戦した。
1983年にはイギリスF3にステップアップを果たし、最高3位。2年目の1984年には10勝を挙げ、圧倒的な差でチャンピオンを獲得した。またこの年はヨーロッパF3にも参戦、4勝でランキング2位となっている。
この頃よりF1チームからも注目され始め、1985年にはフェラーリからテストドライバーに抜擢された。このためダンフリーズはマシン開発に1年を費やしたが、傍らで国際F3000にスポット参戦、入賞1回を記録している。
F1編集
1986年、ロータスはアイルトン・セナとデレック・ワーウィックのラインナップでF1に参戦する予定だったが、セナが「トップドライバーが2人いることは、チーム力の分散になる」とワーウィックを拒否。このため急遽ダンフリーズに白羽の矢が立ち、F1参戦が決定した。セナは1983年のイギリスF3チャンピオンであり、1983年・1984年のチャンプ同士が組む結果となった。
しかしダンフリーズは全16戦中、予選ではベストグリッド8位、決勝でも入賞2回(最高位5位)に終わり、ランキングは13位。予選で8回のポールポジション、決勝で2勝を記録し、チャンピオン争いの末ランキング4位となったセナと比較すると大きく見劣りする結果となった。特に予選の平均タイムではセナに3秒以上の遅れを取っていた。
元々チーム力の分散を危惧して急遽抜擢されたということもあり、支給されるパーツやチーム内での立場においてダンフリーズはぞんざいな扱いを受けていた。しかしその点を考慮してもこの成績はチームを納得させるに至らなかった。またロータスは翌1987年よりホンダからエンジン供給を受けることになり、それに伴いセナのチームメイトに中嶋悟を迎え入れることを決めた。これによりダンフリーズは1年でF1から去る結果となった。
F1後編集
1987年は世界スポーツプロトタイプカー選手権(以下:WSPC)にジャガーで参戦、スパ1000kmで総合優勝を記録した。ル・マン24時間レースではザウバーから参戦、最終的にはリタイヤに終わったものの、ファステストラップを記録している。
1988年も、WSPCに前年から引き続き参戦するが、好成績は残せなかった。しかしル・マン24時間レースにおいては、ジャガーからヤン・ラマース、アンディ・ウォレスとのトリオで参戦、総合優勝を果たした。またデイトナ24時間レースでも、エディ・チーバー、ジョン・ワトソンと共に参戦し2位の成績を収めている。この年より3年間は、ベネトンF1チームのテストドライバーとしても活動[4]。アクティブサスペンションの開発を任されてのものだった。
1989年には、トムスよりトヨタのマシンでWSPC、ル・マン24時間レースに参戦。翌1990年も同様にトヨタから参戦、ル・マン24時間レースの際には、チームメイトの1人に鈴木亜久里がいた。
1991年はトムスを離れ、クラージュ・コンペティションからル・マン24時間レースに参戦。この年もリタイヤに終わり、優勝した1988年以外は全てリタイヤという結果となった。1992年にレーサーを引退。1993年に父が死去し、第7代ビュート侯爵位を継承。日本円にして総資産1,800億円とされる一族の財産を引き継ぎ、スコットランド・ビュート島のマウント・ステュアート・ハウスやカムナックのダンフリーズ・ハウスを住居とする[1]。
栄典編集
爵位/準男爵位編集
1993年7月22日に父ジョン・クライトン=ステュアートの死去により以下の爵位を継承した[1][2]。
- 第7代ビュート侯爵(7th Marquess of Bute)
- (1796年2月21日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
- 第12代ダンフリーズ伯爵(12th Earl of Dumfries)
- 第10代ビュート伯爵(10th Earl of Bute)
- 第7代ウィンザー伯爵(7th Earl of Windsor)
- (1796年2月21日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
- 第12代エアー子爵(12th Viscount of Ayr)
- 第10代キンガース子爵(10th Viscount Kingarth)
- 第7代ワイト島のマウントジョイ子爵(7th Viscount Mountjoy, of the Isle of Wight)
- (1796年2月21日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
- 第20代サンカーのクライトン卿(20th Lord Crichton of Sanquhar)
- (1488年1月29日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
- 第12代サンカー卿(12th Lord Sanquhar)
- (1622年2月2日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
- 第12代サンカー及びカムナックのクライトン卿(12th Lord Crichton of Sanquhar and Cumnock)
- 第10代カムラーおよびインチマーノックのマウントステュアート卿(10th Lord Mount Stuart, Cumra and Inchmarnock)
- (1703年4月14日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
- 第8代ヨーク州ウォートレイのマウント・ステュアート男爵(8th Baron Mount Stuart , of Wortley in the County of York)
- (1761年4月3日の勅許状による創設グレートブリテン貴族爵位)
- 第7代カーディフ城のカーディフ男爵(7th Baron Cardiff, of Cardiff Castle)
- (1776年5月20日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
- 第12代(ビュートの)準男爵(12th Baronet, of Bute)
子女編集
1984年にキャロリン・ワデル(Carolyn Waddell)と結婚し、彼女との間に以下の3子を儲けた[1][2]。
- 第1子(長女)キャロライン・クライトン=ステュアート嬢(Lady Caroline Crichton-Stuart, 1984年生)
- 第2子(次女)キャサリン・クライトン=ステュアート嬢(Lady Cathleen Crichton-Stuart, 1986年生)
- 第3子(長男)マウント・ステュアート卿ジョン・ブライソン・クライトン=ステュアート(John Bryson Crichton-Stuart, Lord Mount Stuart, 1989年12月21日生) マウント・ステュアート卿は儀礼称号。爵位の法定推定相続人
キャロリンと1993年に離婚。1999年にセリナ・ウェンデル(Serena Wendell)と再婚。彼女との間に以下の1子を儲けた。
- 第4子(三女)ローラ・アフリカ・クライトン=ステュアート嬢(Lady Lola Affrica Crichton-Stuart, 1999年生)
補足編集
引退後、世界の富豪を紹介する番組内で、ダンフリーズが紹介されたことがある。この際、城の内部やプール、読書などの様子が流れた。僅かではあるが、レーサーだったことにも触れられ「レースをしていた頃は、毎日が刺激だったが、今は退屈でうんざりする」との発言もあった。
この内容は、日本でも『世界まる見え!テレビ特捜部』を通じて紹介されている。
レース戦績編集
イギリス・フォーミュラ3選手権編集
年 | チーム | エンジン | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 順位 | ポイント | 参照 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984年 | デイヴ・プライス・レーシング | VW | A | SIL 1 |
THR 1 |
SIL 1 |
ZOL 2 |
THR 1 |
THR 1 |
DON 1 |
SIL 4 |
SNE 1 |
DON 9 |
OUL | SIL 1 |
SPA 7 |
ZAN | BRH Ret |
THR 1 |
SIL 1 |
1位 | 106 | [5] |
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権編集
年 | チーム | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984年 | デイヴ・プライス・レーシング | VW | DON 1 |
ZOL 2 |
MAG | LAC 2 |
ÖST | SIL 1 |
NÜR 1 |
MNZ Ret |
PER | MUG 4 |
KNU Ret |
NOG 4 |
JAR 1 |
2位 | 54 |
国際F3000選手権編集
年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | オニクス・レーシング | SIL Ret |
THR 7 |
EST Ret |
NÜR C |
VAL 6 |
PAU | 16位 | 1 | ||||||
ローラ・モータースポーツ | SPA Ret |
DIJ 10 |
PER | ÖST | ZAN | DON | |||||||||
1988年 | GEMモータースポーツ | JER | VAL | PAU | SIL | MNZ | PER | BRH | BIR | BUG | ZOL Ret |
DIJ 13 |
NC | 0 |
F1編集
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | ロータス | 98T | BRA 9 |
ESP Ret |
SMR Ret |
MON DNQ |
BEL Ret |
CAN Ret |
DET 7 |
FRA Ret |
GBR 7 |
GER Ret |
HUN 5 |
AUT Ret |
ITA Ret |
POR 9 |
MEX Ret |
AUS 6 |
13位 | 3 |
ル・マン24時間レース編集
年 | クラス | No. | タイヤ | 使用車両 | チーム | コ・ドライバー | 周回 | 順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987年 | C1 | 62 | M | ザウバー・C9 メルセデス・ベンツ M117 5.0L V8ターボ |
クーロス・レーシング | チップ・ガナッシ マイク・サックウェル |
37 | DNF | DNF |
1988年 | C1 | 2 | D | ジャガー・XJR-9LM ジャガー・7.0L V12 |
シルクカット・ジャガー トム・ウォーキンショー・レーシング |
ヤン・ラマース アンディ・ウォレス |
394 | 1位 | 1位 |
1989年 | C1 | 37 | B | トヨタ・89C-V トヨタ・R32V 3.2L V8ターボ |
トヨタ・チーム・トムス | ジェフ・リース ジョン・ワトソン |
58 | DNF | DNF |
1990年 | C1 | 37 | B | トヨタ・90C-V トヨタ・R32V 3.2L V8ターボ |
鈴木亜久里 ロベルト・ラヴァーリア |
64 | DNF | DNF | |
1991年 | C2 | 13 | G | クーガー・C26S ポルシェ・Type-935 3.0L 水平対向6気筒ターボ |
クラージュ・コンペティション | アンデルス・オロフソン トーマス・ダニエルソン |
45 | DNF | DNF |
脚注・出典編集
- ^ a b c d Lundy, Darryl. “John Colum Crichton-Stuart, 7th Marquess of the County of Bute” (英語). thepeerage.com. 2015年8月5日閲覧。
- ^ a b c “Bute, Marquess of (GB, 1796)”. Cracroft's Peerage. 2019年11月25日閲覧。
- ^ Stewart Clan Scots Connection (2020年2月4日閲覧)
- ^ ベネトン・テストドライバーのダンフリーズ アクティブ・サス仕様のベネトン・B188を走らせる F1GPX 1989カレンダー号 3頁 山海堂
- ^ “Formula 3 1984 - Race Index - Great Britain”. www.the-fastlane.co.uk. 2021年1月28日閲覧。
外部リンク編集
グレートブリテンの爵位 | ||
---|---|---|
先代: ジョン・クライトン=ステュアート |
第7代ビュート侯爵 1993年–現在 |
次代: 受爵中 |
イギリスの儀礼席次 | ||
先代: 第9代ハートフォード侯爵 |
ジェントルメン | 次代: 第9代ウォーターフォード侯爵 |
タイトル | ||
先代: アイルトン・セナ |
イギリス・フォーミュラ3選手権優勝者 1984年 |
次代: マウリシオ・グージェルミン |
先代: デレック・ベル ハンス=ヨアヒム・スタック アル・ホルバート |
ル・マン24時間優勝者 1988 with: ヤン・ラマース アンディ・ウォレス |
次代: ヨッヘン・マス マヌエル・ロイター スタンレー・ディケンズ |