パトリック・クライファート

オランダのサッカー選手・監督

パトリック・ステーフェン・クライファートPatrick Steven Kluivert1976年7月1日 - )は、オランダアムステルダム出身の元サッカー選手、現サッカー指導者・TV解説者。オランダ代表の前歴代最多得点者である。現役時代のポジションはフォワードオランダ語読みに近いクライフェルトと表記されることもある。

パトリック・クライファート
PSVでのクライファート (2006年)
名前
本名 パトリック・ステーフェン・クライファート
Patrick Steven Kluivert
愛称 黒いファン・バステン
ドン・キホーテ、気まぐれの天才
ラテン文字 Patrick Kluivert
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
スリナムの旗 スリナム
生年月日 (1976-07-01) 1976年7月1日(47歳)
出身地 アムステルダム
身長 191cm[1]
体重 81kg
選手情報
ポジション FW (CF)
利き足 右足
ユース
1983-1984 オランダの旗 ASVデ・ダイク
1984-1994 オランダの旗 アヤックス
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1994-1997 オランダの旗 アヤックス 70 (39)
1997-1998 イタリアの旗 ミラン 27 (6)
1998-2004 スペインの旗 バルセロナ 182 (90)
2004-2005 イングランドの旗 ニューカッスル 25 (6)
2005-2006 スペインの旗 バレンシア 10 (1)
2006-2007 オランダの旗 PSV 16 (3)
2007-2008 フランスの旗 リール 13 (4)
通算 343 (149)
代表歴
1990-1991  オランダ U-16 2 (0)
1991-1992  オランダ U-17 10 (2)
1992  オランダ U-18 3 (2)
1992-1994  オランダ U-19 20 (6)
1994-2004[2] オランダの旗 オランダ 79 (40)
監督歴
2008-2010 オランダの旗 AZ (アシスタントコーチ)
2010 オーストラリアの旗 ブリスベン・ロアー (アシスタントコーチ)
2010-2011 オランダの旗 NEC (アシスタントコーチ)
2011-2012 オランダの旗 ヨング・トゥウェンテ
2012-2014 オランダの旗 オランダ (アシスタントコーチ)
2015-2016 キュラソー島の旗 キュラソー
2016 オランダの旗 アヤックス・アカデミー
2016-2017 フランスの旗 パリ・サンジェルマン (フットボールディレクター)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴 編集

初期の経歴 編集

1976年7月1日、パトリック・クライファートはオランダの首都アムステルダムに生まれた。スリナムのCalcutta出身の父親はプロサッカー選手であり、母親はキュラソー島出身である[3]。ストリートサッカーで技術を習得し、Schellingwoude というクラブに1年間通った後、7歳の時にアヤックス・アムステルダムの下部組織に入団した。この頃はディフェンダーなどのポジションでもプレーしていた。技術の高さやインテリジェンス、スピードなどが持ち味であったが、調子に波がありすぎることが欠点だった[4]

現役時代 編集

クラブ 編集

アヤックス

1994年8月21日、18歳の時にトップチームのルイス・ファン・ハール監督に見出され、オランダ・スーパーカップフェイエノールト戦でデビューした。この試合でトップチーム初得点を決めると、デビューシーズンの1994-95シーズンは高い得点能力を発揮し、デニス・ベルカンプ(93年移籍)、エドガー・ダーヴィッツクラレンス・セードルフエトヴィン・ファン・デル・サールなど同じ下部組織出身の若手選手たちとともにUEFAチャンピオンズリーグで旋風を巻き起こし、ついには優勝を果たした。ウィーンで行われた決勝のACミラン戦では途中出場して85分に決勝点を決め、クラブにとって22シーズンぶりとなる欧州でのタイトルを獲得した。1995年夏にはオランダ・スーパーカップUEFAスーパーカップというふたつのスーパーカップを制覇し、1995年冬のインターコンチネンタルカップではグレミオFBPAをPK戦の末に破って世界一の座に輝いた。1995-96シーズンにはエールディヴィジ2連覇を果たした。

ACミラン

1997年、ボスマン・ルールを行使してイタリア・セリエAのACミランに移籍した。ユヴェントスとの親善試合で鮮烈なデビュー弾を決めて見せたが、1997-98シーズンはわずか6得点に終わった。1997年、激しい自動車事故を起こし、同乗していた演出家のカートン・パットマンが死亡した。クライファートは起訴され、運転免許の剥奪と社会奉仕活動を課された。

FCバルセロナ

1998年8月28日、移籍市場が閉まる直前にスペイン・リーガ・エスパニョーラFCバルセロナと4年契約を結んだ[5]。移籍金は875万ポンド。アヤックスで指導を受けたファン・ハール監督と再会し、1998-99シーズンのリーグ戦を制した。1999-2000シーズンにはリーグ戦3連覇を逃したものの、チーム内得点王となる15得点を挙げた[6]。1998-99シーズンからはリバウドルイス・フィーゴと3トップを組むことが多く、2001-02シーズンにはリバウド、ハビエル・サビオラと3トップを組むことが多かった。トップ下としてプレーしたこともある。1998-99シーズンから2002-03シーズンまで5シーズン連続でリーグ戦15得点以上を挙げたが、2003年夏にフランク・ライカールト監督が就任して脱オランダ化を図り、パリ・サンジェルマンFCからロナウジーニョが加入したこともあって出場機会が減少した。2003-04シーズンはリーグ戦21試合の出場にとどまり、FCバルセロナ移籍後最少となる8得点に終わった。FCバルセロナでは6シーズンでリーグ戦182試合に出場して90得点を挙げた。2004年3月4日、FIFA100に選出された。

ニューカッスル・ユナイテッドFC

2004年7月21日、イングランド・プレミアリーグニューカッスル・ユナイテッドFCに移籍し、チームの象徴であるアラン・シアラーとコンビを組んだ。ニューカッスルと契約した理由として、FCバルセロナ時代にUEFAチャンピオンズリーグの試合でニューカッスルと対戦し、その際に強い感情を受けたためだとしている。FAカップでは、2005年2月20日のチェルシーFC戦 (1-0) [7] や3月13日のトッテナム・ホットスパーFC戦 (1-0) [8] などで重要かつ華麗な得点を決め、ともに1-0で勝利している。2004-05シーズンには公式戦通算13得点を挙げたが、リーグ戦では14位に沈み、契約延長には至らなかった。

バレンシアCF

2005年夏、スペインのバレンシアCFに移籍した。2005-06シーズンは絶えず負傷に悩まされて202分間しか出場できず、2006年7月には移籍先を探すことを許された。

 
PSV在籍時のクライファート
PSVアイントホーフェン

2006年夏には古巣アヤックスへ復帰する噂もあったが、移籍市場終了直前の8月31日にアヤックスのライバルであるPSVアイントホーフェンと1年契約を結んだ。アヤックスの時と同じようにフェイエノールト戦 (2-1) で途中出場してデビューすると、ライバルクラブ出身のクライファートに対してスタンディングオベーションが贈られた。2006-07シーズンは前半戦だけで2度の負傷に悩まされ、出場機会を阻まれた。フィリップス・スタディオンで行われたアヤックス戦では古巣相手に得点したが、古巣に対しての愛情からゴールセレブレーションを拒否した。2007年7月、契約満了によりPSVを離れた。

LOSCリール・メトロポール

2007年7月25日、イングランドのシェフィールド・ウェンズデイFCのトライアル受験に誘われたが、これを拒否し[9]、フランス・リーグ・アンリールと契約を結んだ[10]。若いチームに自身の経験を伝え、先発出場は10試合だったが4得点を挙げ、価値あるアシストを何度も決めてチームに貢献した。2008年5月、クロード・ピュエル監督に対してチームを離れる意向を示し、現役引退を発表した。

代表 編集

U-15、U-16、U-17オランダ代表に選ばれた経験がある[4]

UEFA EURO 1996

1995年にオランダA代表としてデビューし、UEFA EURO 1996出場メンバーにも選ばれたが、膝の負傷で満足にプレーできなかった。それでもグループリーグのイングランド戦ではデニス・ベルカンプのアシストから得点し、スコットランドを得点数の差で上回って決勝トーナメント進出を決めた。準々決勝のフランス戦はPK戦の末に敗れ、大会からの敗退が決まった。

1998 FIFAワールドカップ

1998 FIFAワールドカップにも出場したが、ベルギー戦ではロレンツォ・スターレンスに挑発され、肘打ちを見舞って退場処分を受けた。準々決勝のアルゼンチン戦では改心し、先制点を挙げて準決勝進出に貢献した。準決勝のブラジル戦でも輝きを見せ、ヘディングで同点ゴールを挙げたが、PK戦で敗れた。

UEFA EURO 2000

UEFA EURO 2000にも出場し、準々決勝のユーゴスラビア戦 (6-1) ではハットトリックを達成して相手を粉砕した。準決勝のイタリア戦で、オランダ代表は90分の間に2度もペナルティキックを蹴る機会があったが、2本とも外し(1本はクライファート)、PK戦にもつれ込んだ。PK戦でもオランダ代表の選手はなかなかゴールネットを揺らせず、2年前のブラジル戦や4年前のフランス戦と同じくPK戦の末に敗れた。自身は大会通算5得点を挙げ、ユーゴスラビア代表のサボ・ミロシェビッチとともに大会得点王に輝いた。

UEFA EURO 2004

UEFA EURO 2004にもやはり、背番号9番を付けて臨んだ。しかし、頑固なディック・アドフォカート監督はクライファートに出場機会を与えず、オランダ代表のフィールドプレーヤーとして唯一、試合に出場することがなかった選手であった。UEFA EURO 2004後に就任したマルコ・ファン・バステン監督からは2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選には1試合も招集されなかった。

指導者時代 編集

2008年4月29日、オランダメディアはクライファートがオランダサッカー協会 (KNVB) の指導者養成コースに参加する可能性があると報じた[11]。2008年7月18日、Goal.comはクライファートがAZアルクマールのコーチングスタッフの一員となる可能性を報じ、2009年3月21日にはサッカーAMのインタビューにてAZアルクマールでフォワードを指導している事を認めた。2010年1月24日、オーストラリア・Aリーグブリスベン・ロアーFCで2週間限定で指導を行うことを発表した[12]。同年5月19日、現役復帰の可能性があり得ないことをジャーナリストに伝えた[13]。2010年8月、NECナイメヘンのアシスタントコーチに就任し、チームのフォワードを指導した。2011年6月にはFCトゥウェンテのユースチームの監督に就任した[14]。また2012年夏よりオランダ代表のコーチも兼任し2014年まで務めた。

2015年3月5日、母親の故郷であるキュラソー島代表の監督(当初の役職はテクニカル・アドバイザー)に就任した[15]

キュラソーはクライファートのもとでワールドカップ予選第1ラウンドと第2ラウンドを突破したが、第3ラウンドでエル・サルヴァドルに敗戦して敗退。しかし好成績を残したことでキュラソーのフットボール協会は2016年2月23日にクライファートを正式に代表監督として迎え入れると発表した。

2016年5月6日にアヤックス・アカデミーの監督に2年契約で就任[16]。しかし仕事に入る前に2016年7月にその契約を解除してパリ・サンジェルマンFCのフットボールディレクターに就任することが発表された[17][18]

人物 編集

所属クラブ 編集

選手 編集

指導者 編集

タイトル 編集

選手 編集

クラブ 編集

アヤックス・アムステルダム
FCバルセロナ
PSVアイントホーフェン

個人 編集

指導者 編集

クラブ 編集

ヨング・トゥウェンテ

個人成績 編集

クラブ 編集

クラブ シーズン リーグ戦 国内カップ 国際大会 その他 合計
ディヴィジョン 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
アヤックス 1994-95 エールディヴィジ 25 18 1 1 10 2 1 1 37 22
1995-96 28 15 2 1 8 5 4 2 42 23
1996-97 17 6 1 0 4 2 - 22 8
クラブ通算 70 39 4 2 22 9 5 3 101 53
ミラン 1997-98 セリエA 27 6 6 3 - - 33 9
バルセロナ 1998-99 リーガ・エスパニョーラ 35 15 3 1 - - 38 16
1999-00 26 15 2 1 14 7 2 2 44 25
2000-01 31 18 5 2 12 5 - 48 25
2001-02 33 18 0 0 17 7 - 50 25
2002-03 36 16 0 0 15 5 - 51 21
2003-04 21 8 2 0 3 2 - 26 10
クラブ通算 182 90 12 4 61 26 2 2 257 122
ニューカッスル・ユナイテッド 2004-05 プレミアリーグ 25 6 6 2 6 5 - 37 13
バレンシア 2005-06 リーガ・エスパニョーラ 10 1 1 0 5 1 - 16 2
PSV 2006-07 エールディヴィジ 16 3 2 0 3 0 - 21 3
リール 2007-08 リーグ・アン 13 4 1 0 - - 14 4
キャリア通算 343 149 32 11 97 41 7 5 479 206

代表での出場成績 編集


オランダ代表国際Aマッチ
出場得点
1994 1 0
1995 5 3
1996 5 1
1997 5 2
1998 11 7
1999 8 4
2000 14 12
2001 9 4
2002 6 3
2003 11 4
2004 4 0
通算 79 40

代表でのゴール 編集

出典[20]

# 開催年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1. 1995年3月29日   ロッテルダムデ・カイプ   マルタ 4-0 4-0 UEFA EURO '96予選
2. 1995年12月13日   リヴァプールアンフィールド   アイルランド 0-1 0-2
3. 0-2
4. 1996年6月18日   ロンドンウェンブリー・スタジアム   イングランド 1-4 1-4 UEFA EURO '96
5. 1997年3月29日   アムステルダムアムステルダム・アレナ   サンマリノ 1-0 4-0 1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
6. 1997年9月6日   ロッテルダム、デ・カイプ   ベルギー 2-0 3-1
7. 1998年2月24日   マイアミガーデンズプロ・プレイヤー・スタジアム   メキシコ 0-1 2-3 親善試合
8. 0-2
9. 1998年6月1日   アイントホーフェンフィリップス・スタディオン   パラグアイ 3-1 5-1
10. 1998年6月5日   アムステルダム、アムステルダム・アレナ   ナイジェリア 3-0 5-1
11. 4-0
12. 1998年7月4日   マルセイユスタッド・ヴェロドローム   アルゼンチン 1-0 2-1 1998 FIFAワールドカップ準々決勝
13. 1998年7月7日   ブラジル 1-1 1-1
(PK:4-2)
1998 FIFAワールドカップ準決勝
14. 1999年6月5日   サルヴァドールエスタディオ・オクタヴィオ・マンガベイラ   ブラジル 2-1 2-2 親善試合
15. 1999年9月4日   ロッテルダム、デ・カイプ   ベルギー 3-2 5-4
16. 4-4
17. 5-4
18. 2000年2月23日   アムステルダム、アムステルダム・アレナ   ドイツ 1-0 2-1
19. 2000年3月29日   ブリュッセルボードゥアン国王競技場   ベルギー 2-1 2-2
20. 2-2
21. 2000年5月27日   アムステルダム、アムステルダム・アレナ   ルーマニア 2-0 2-1
22. 2000年6月4日   ローザンヌスタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ   ポーランド 2-1 3-1
23. 3-1
24. 2000年6月16日   ロッテルダム、デ・カイプ   デンマーク 0-1 0-3 UEFA EURO 2000
25. 2000年6月21日   アムステルダム、アムステルダム・アレナ   フランス 1-1 2-3
26. 2000年6月25日   ロッテルダム、デ・カイプ   ユーゴスラビア 1-0 6-1 UEFA EURO 2000準々決勝
27. 2-0
28. 4-0
29. 2000年10月7日   ニコシアGSPスタジアム   キプロス 0-4 0-4 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
30. 2001年3月24日   バルセロナミニ・エスタディ   アンドラ 0-1 0-5
31. 2001年3月28日   ポルトエスタディオ・ダス・アンタス   ポルトガル 0-2 2-2
32. 2001年4月25日   アイントホーフェン、フィリップス・スタディオン   キプロス 3-0 4-0
33. 2001年6月2日   タリンア・ル・コック・アレーナ   エストニア 2-3 2-4
34. 2002年2月13日   アムステルダム、アムステルダム・アレナ   イングランド 1-0 1-1 親善試合
35. 2002年9月7日   アイントホーフェン、フィリップス・スタディオン   ベラルーシ 2-0 3-0 UEFA EURO 2004予選
36. 2002年11月20日   ゲルゼンキルヒェンアレーナ・アウフシャルケ   ドイツ 0-1 1-3 親善試合
37. 2003年4月30日   アイントホーフェン、フィリップス・スタディオン   ポルトガル 1-0 1-1
38. 2003年6月7日   ミンスクディナモ・スタジアム   ベラルーシ 2-0 2-0 UEFA EURO 2004予選
39. 2003年9月6日   ロッテルダム、デ・カイプ   オーストリア 2-1 3-1
40. 2003年10月11日   アイントホーフェン、フィリップス・スタディオン   モルドバ 1-0 5-0

脚注 編集

  1. ^ Patrick Kluivert - Premier League”. 2023年1月2日閲覧。
  2. ^ “Patrick Kluivert - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/kluivert-intlg.html 
  3. ^ Dutch bio 公式サイト
  4. ^ a b English bio 公式サイト
  5. ^ Hicks, Danny (1998年8月30日). “Nou Camp becomes Little Holland”. London: The Independent. http://www.independent.co.uk/sport/football-nou-camp-becomes-little-holland-1174946.html?cmp=ilc-n 2010年8月4日閲覧。 
  6. ^ F.C. Barcelona - Squad season 1999-2000 LFP.es
  7. ^ “Newcastle 1-0 Chelsea”. London: BBC. (2005年2月20日). http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/football/fa_cup/4259719.stm 2009年9月2日閲覧。 
  8. ^ “Newcastle 1-0 Tottenham”. London: BBC. (2005年3月13日). http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/football/fa_cup/4327839.stm 2009年9月2日閲覧。 
  9. ^ Owls fail to woo striker Kluivert BBC Sport
  10. ^ Ligue 1 - Lille announce Kluivert signing - Yahoo! Eurosport UK
  11. ^ Kluivert lines up coaching course Team Talk.com
  12. ^ Kluivert joins coaching staff at Brisbane Roar ESPN Soccernet
  13. ^ Kluivert quits football career definitively Voet Balcentraal.nl
  14. ^ クライファート氏がトゥエンテへ Goal.com、2011年6月10日
  15. ^ クライファート、母親の故郷キュラソーの代表監督に就任決定 Qoly、2015年3月6日
  16. ^ アヤックス、来季からクライファート&ハイティンガがユースで指導 Goal.com 2016/05/07
  17. ^ PATRICK KLUIVERT JOINS THE CLUB AS DIRECTOR OF FOOTBALL psg.fr July 14, 2016
  18. ^ 元オランダ代表クライファート氏、パリ・サンジェルマンのフットボールディレクターに就任 Goal.com 2016/07/15
  19. ^ Kerngezonde zoon voor Patrick Kluivert en Rossana - Telegraaf.nl
  20. ^ Interlands en doelpunten van Patrick Kluivert voetbalstats 2018年5月8日閲覧

外部リンク 編集