ユヴェントスFC

イタリアのサッカークラブ

ユヴェントスFC(Juventus Football Club, イタリア語発音: [juˈvɛntus])は、イタリアピエモンテ州トリノをホームタウンとするプロサッカークラブ。

ユヴェントスFC
原語表記 Juventus Football Club S.p.A.
愛称 I Bianconeri (白と黒)[1]
La Vecchia Signora (老貴婦人)[2]
La Fidanzata d'Italia (イタリアの恋人)[3]
La Madama (ピエモンテ語で、「婦人」)[2]
Le Zebre (シマウマ)[1]
クラブカラー    
   
創設年 1897年
所属リーグ セリエA
所属ディビジョン 1部(2023-24
昨季リーグ順位 7位(2022-23
ホームタウン ピエモンテ州の旗トリノ
ホームスタジアム
アリアンツ・スタジアム
収容人数 41,507
代表者 イタリアの旗 ジャンルカ・フェッレーロ
監督 イタリアの旗 マッシミリアーノ・アッレグリ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

1897年創設[4]。イタリアに現存するサッカークラブでは、ジェノアCFCの1893年に次ぐ2番目に古いクラブである[5]スクデット獲得回数はセリエA最多の36回[6]、国内カップ戦であるコッパ・イタリアでは最多の14回の優勝[7]、国内スーパーカップであるスーペルコッパ・イタリアーナでも最多の9回の優勝を果たしている[8]。欧州の舞台では、UEFAチャンピオンズリーグで2度の優勝[9]旧UEFAカップで3度の優勝を果たしており[10]、イタリアで最もタイトル獲得数の多いサッカークラブである[11]

1923年以来、多数の実業家を輩出するイタリアの名門一族アニェッリ家がオーナーとなっており、2023年1月現在アニェッリ家の投資会社「エクソール」がクラブの株式の63.8パーセントを所有している[12][13]

世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表した2022年度版のデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2021-22シーズンのクラブ収入は4億3350万ユーロであり、世界9位、イタリアでは1位である[14]

名称・愛称 編集

ユヴェントスを創設したマッシモ・ダゼーリオ高校の学生たちは最年長でも17歳で、ラテン語で「若者」や「青春」を意味するユウェントゥス (juventus/iuventus) がクラブ名に採用された[4]。採用されなかった候補名には、「ルドゥス」、「ファティガンド・デレクタムル」、「マッシモ・ダゼーリオ」、「ヴィゴル・エ・ロブル」などがあった[15]。愛称は、ユニフォームの配色からビアンコネーロイタリア語で白と黒)、選手を含むチーム全体の場合は複数形になりビアンコネーリと呼ばれる[1]。配色以外で有名な愛称は「老貴婦人」を意味するラ・ヴェッキア・シニョーラだろう[16][17]。この愛称には、クラブを創設した高校生たちがサッカーをしていた広場にいたイレアーナ(Ileana)という年配の女性が最初のファンだったという説と[18]、1930年代当時の主力選手達の年齢が30代中心で、若者というクラブ名にそぐわないことからシャレで対義語の愛称を付けたという説がある[2]。地元の人はLa Madamaという愛称も使っており、これはピエモンテ方言でフランス語のマダムとほぼ同じ意味の言葉である[2]シマウマを意味するLe Zebreは白と黒の配色からで[1]、そこから「JAY」という名前のシマウマのマスコットが採用されている[19]。「イタリアの恋人」を意味するLa Fidanzata d'Italiaは、1930年代にラジオのアナウンサーが名付けたとされる[3]。全国的な人気があることと、本拠地トリノにはフィアット社で働くために出稼ぎに来た南部からの移住者が多く、ラジオでユヴェントスの活躍を聴く南部の人々が北部の家族に想いを馳せたことが由来となっている[3]。1956年に導入したユニフォームが空気が入りやすかったため、背中が膨らんで見えたことからせむしを意味するgobbaという呼ばれ方もあったが、ネガティブな意味を持っているため他クラブのサポーターから蔑称として使われている[20][21][22]

歴史 編集

創設期 編集

 
1898年の選手

クラブは1897年11月1日にマッシモ・ダゼーリオ高等学校の生徒らによってスポルト・クラブ・ユヴェントス (Sport Club Juventus) として創設され[23]、2年後にフットボールクラブとなった[15]1900年よりイタリア選手権(後のセリエAに相当する全国大会)に参加[24]1903年1904年と2年連続で決勝戦に進出するも、ジェノアの牙城を崩すことはできなかった[25][26]。翌1905年、決勝ラウンドでジェノアを1ポイント上回り[27]、イタリア選手権で初優勝を果たした[28]。ユヴェントスは他のクラブに比べ外国人選手の比率が低く、イングランド・スタイルのジェノアや、スイス・スタイルのミランと異なり、我流の全員サッカーで勝利したことはイタリアサッカーの転機になった[25][28]

 
1905年の選手

1906年の選手権でも決勝ラウンドに進出し、ミランと勝ち点で並んだため優勝決定のためのプレーオフが開催されることになった[29]。試合は0-0で決着が付かず2戦目が行われることになり、ユヴェントスは中立地としてジェノヴァでの開催を提案した[29]。しかし協会はUSミラネーゼのホームグラウンドであるミラノでの開催を決定し、これに抗議したユヴェントスは延長試合を放棄し、ミランの優勝が確定した[29]。さらに、スイス人のアルフレド・ディック会長がトリノからの移転を主導したことや、民族主義的なイタリア人のグループとの間に対立が起こったことにより、ディックはクラブへの出資を打ち切るとユヴェントスを去った後にFBCトリノ(現トリノFC)の創設に関わることとなる[4][29][30][31]

1908年にイタリアサッカー協会が外国人選手の抑制に動くと、ミラン、トリノ、ジェノアに続きユヴェントスも一旦選手権から撤退することとなった[32]。同年にタイトルを獲得した同じピエモンテ州のクラブであるプロ・ヴェルチェッリが台頭すると[33]、以降ユヴェントスは地域グループ予選を突破できず、しばらくタイトル争いから遠ざかることとなる[27][34][35]

1920年代 編集

 
エドゥアルド・アニェッリ

地域リーグを突破できないシーズンが続いた中[36][37][38]、1923年に地元の自動車会社フィアット創業者の息子であるエドゥアルド・アニェッリ英語版がクラブを買い取り、会長に就任した[39]。当時エドゥアルドはフィアットの経営に深く携わっておらず、自動車レースやサッカーなどのスポーツに熱中していた[40]。好きが高じて、トリノで有力チームだったユヴェントスのオーナーになるが、アニェッリ家との関係は金持ち息子の趣味の延長から始まった[40]

1925–26シーズンには21年ぶりに、2度目のイタリア選手権優勝を果たす[4][41]ゴールキーパーには、ユース出身でイタリア代表のジャンピエロ・コンビ[42]、プロ・ヴェルチェッリから移籍してきたヴィルジーニオ・ロセッタイタリア語版はヨーロッパ有数のディフェンダーとして評価されていた[43][注釈 1]。中盤のヨージェフ・ヴィオーライタリア語版とガゼルと称されたフォワードのフェレンツ・ヒルツァーイタリア語版ハンガリー人選手であった[43][注釈 2]。ユヴェントスにおける最初の公式監督とされているハンガリー人のイェネー・カロリイタリア語版は、練習と技術の習得に重きを置いた指導をした[43]。北部リーグ決勝では、ボローニャ相手に2戦連続で引き分けたが、3戦目の直前にカロリが心筋梗塞で亡くなってしまう[46]。タイトル獲得を誓った選手たちは3戦目を2-1で勝利し、ファイナルでもアルバ・ローマ相手に2試合で12ゴールを量産し亡き監督に捧げる優勝となった[46]

1926-27シーズンに優勝したのはトリノであったが、決勝リーグで対戦したユヴェントスの選手のルイージ・アッレマンディイタリア語版が八百長に関与したとされ、トリノの優勝ははく奪されている[47][48][注釈 3]

ユヴェントスは1928年のアムステルダム五輪で結果を残したアルゼンチン代表ライムンド・オルシにいち早く目を付け、決勝戦翌日には契約条件として破格の10万リラと、フィアット509を提示した[49][注釈 4]。この契約についてアルゼンチン側から多く批判が寄せられ、イタリア系であることを確認するため実際にプレーしたのは翌シーズンからとなってしまった[49]。1929-30シーズンから1リーグ制の全国選手権が発足し、前年度に成績上位であったユヴェントスは初年度から参加した[51]

1930年代 - 最初の黄金期 編集

 
ルイス・モンティ

1930年から35年にかけてユヴェントスは5シーズン連続の優勝を飾り、「クインクエンニオ・ドーロ (黄金の5年間)」と呼ばれるクラブの歴史上最初の黄金時代を築いた[20][52]。1934年のFIFAワールドカップ・イタリア大会に優勝したイタリア代表には、実に9人ものユヴェントス選手を送り込んでおり[53]、代表主将を務めたGKジャンピエロ・コンビに加えて、「オリウンディ」[54]と呼ばれるアルゼンチン出身のFWライムンド・オルシやMFルイス・モンティら帰化選手が活躍した[55]。イタリア大会はムッソリーニファシズム宣伝のために力を入れており、助っ人としてイタリア系のオルシやモンティがイタリア代表に加わることとなり[56]、ユヴェントスでも黄金時代の原動力となった[57]

新任監督のカルロ・カルカーノイタリア語版は、アレッサンドリアからジョヴァンニ・フェッラーリイタリア語版を伴ってユヴェントスにやってきた[58]。イタリア代表でも最高の頭脳とされたフェッラーリとオルシのコンビは抜群で、フェッラーリのロングパスが効果的に働き、オルシはチーム総得点79のうち18点を記録した[58]。わずか4敗で2位のローマに4ポイント差を付けて3度目の優勝を果たすと[59]、1931-32シーズンもエドゥアルド・アニェッリは改革の手を止めず、再びアレッサンドリアからルイージ・ベルトリーニイタリア語版を獲得した[59]。アルゼンチンから獲得したモンティが太りすぎでダイエットが必要だったり、自分にパスを出されないと不満に思ったオルシがレナート・チェザリーニイタリア語版を外す要求をするなどトラブルがあったが、それでも前年より総得点を10伸ばし連覇を達成した[60][61]

 
フェリーチェ・ボレル

フィアットの経営哲学をクラブ運営に活かし、アニェッリ家の強い経済基盤を基にしたチーム作りが行われたが[58]、トリノのユースチームに所属していたフェリーチェ・ボレルイタリア語版を発掘し無名選手も登用した[62]。契約のトラブルで前年にチームに加わるはずだったピエトロ・セルナジョットイタリア語版とオルシ、ボレルのトリオは強力で、前年から失点を改善しながらゴール数を維持し2位のアンブロジアーナ・インテルに8もの勝ち点差を付けて3連覇を達成した[62][63][注釈 5]。1933-34シーズンにはボレルが2年連続で得点王に輝き、4連覇を達成すると守護神のコンビが現役引退した[64][65]。1934-35シーズンの優勝でユヴェントスは5連覇を達成するものの、シーズン中盤に監督が交代しオルシもシーズン終了前にアルゼンチンに帰国した[66]。最終節の時点でアンブロジアーナ・インテルと勝ち点が並んでいた優勝はサイクルの終わりを象徴し、1935年6月15日にエドゥアルド・アニェッリが飛行機事故で亡くなると栄光の時代は終わりを告げた[66]。エドゥアルドの死によってアニェッリ家との関係が途切れることはなかったが[39]、財政的に問題を抱え黄金期のメンバーを維持することはできなかった[66]

1937-38シーズンはインテルと最後まで優勝争いをするものの、格下であるリグーリアに敗れ勝ち点差2で優勝を逃すこととなった[67]。一方、コッパ・イタリアではトリノを破り初優勝を果たした[68]。それ以外の4シーズンでは優勝争いに絡むことはできなかった[69][70][71]

1940年代 編集

 
ジャンニ・アニェッリ(左)

1940年代の主役は「グランデ・トリノ」と称された地元のライバルチームのトリノであった[72]。1940-41シーズンのコッパ・イタリアを制覇したヴェネツィアの中心選手であるヴァレンティーノ・マッツォーラエツィオ・ロイクの争奪戦に敗れ、両選手はトリノの栄光の中心選手となる[73][74]。また、トリノはユヴェントスから、ボレル、グリエルモ・ガベットイタリア語版アルフレド・ボドイーライタリア語版を引き抜き、強力なチーム作りを進めていった[75]。トリノの5連覇中は2~4位の好成績を残すが、1942-43シーズンは7ポイント差、1946-47シーズンの2位でも10ポイントの差をつけられてしまった[76][77][注釈 6]。1947年にエドゥアルドの息子ジャンニ・アニェッリが会長に就任し、再びアニェッリ家が実権を握ることになった[79]

スペルガの悲劇の翌年、不幸にも有力チームがいない1949-50シーズンの選手権を制したのはユヴェントスであった[80]。拡大された外国人枠にはデンマーク人のジョン・ハンセン英語版カール・プラエスト英語版、アルゼンチン人のリナルド・マルティーノイタリア語版が加わり、イタリア人選手も1947-48シーズン得点王のジャンピエロ・ボニペルティをはじめ一流選手が揃っていた[81]。イングランド人監督のジェス・カーヴァー英語版は、母国からゾーンディフェンスを持ち込み守備陣から素早く前線にボールを配給させ、攻守にハードワークするトルナンテと呼ばれるサイドのポジション[82]を採用し、攻守のバランスを取った時代の先駆けとなるサッカーを展開した[80]

1950年代 編集

オリンピックでの北欧の躍進やハンセンの活躍により、ユヴェントスとミランはヨハネス・プロエゲル英語版をめぐって争奪戦となる[83]。友人であるハンセンを交渉の席に派遣することでミランを出し抜いたユヴェントスは、代わりに獲得寸前だったグンナー・ノルダールを融通した[84]。目論みとは違いノルダールは得点王の活躍でミランを優勝に導き、デンマーク人トリオが不発だったユヴェントスは1950-51を3位で終えた[85][注釈 7]。厳しい練習から選手と確執を生んだカーヴァーが監督の座を追われ、後を継いだベルトリーニも1951-52シーズンの途中に退任する[85][86]。首位のチームを率いることになったジョルジョ・サロージは戦術的に柔軟性を持ったジャンピエロ・ボニペルティを軸に据え、選手権を制しスクデットを奪取した[86]

 
魔法のトリオ 左からチャールズ、シヴォリ、ボニペルティ

1952-53、1953-54シーズンはわずかながらインテルに及ばず2年連続の2位だったが[87][88]、1954年から57年まで中位に沈み降格の危機さえあった[89][90][91][92]。1955年頃にジャンニ・アニェッリが会長から退いたが、後任のずさんな運営により1年でウンベルト・アニェッリへ交代された[89]。再び手綱を握ったアニェッリ家は再建にあたり、ジョン・チャールズリーズから1億1500万リラで、リーベル・プレートに所属していたシヴォリの獲得には更に1億9000万リラを費やした[89][93]。「魔法のトリオ (Il Trio Magico)」[55]と称されたボニペルティ、シヴォリ、チャールズの攻撃陣と若手選手たちが融合した勢いは凄まじく、2位に8ポイント差を付け10度目の優勝を達成した初めてのクラブとなった[94][93]。1959-60シーズンには、全得点の92のうち50点をシヴォリとチャールズが記録しており11度目の優勝を果たした[95]

1960年代 編集

性格が評価されていたチャールズとは対照的にシヴォリの気性は激しく、リュビサ・ブロチッチ英語版はシヴォリとの確執で解任となり[93]、ボニペルティを冷遇しシヴォリを擁護した南米派閥のチェザリーニはアニェッリ家の意向とそぐわずテクニカルディレクターを解任され、内部の状況は決して芳しくなかった[89][96][97]。ユヴェントスは連覇を達成するものの、前年ほど圧倒した結果ではなかった[95][97]。その後スクデットから遠ざかっているユヴェントスでは、1964-65シーズンにパラグアイ人であるエリベルト・エッレーライタリア語版が就任するまで監督交代が相次いだ[98][99]。エリベルト・エッレーラは偶然の一致か、「魔術師」と称されたインテル監督のエレニオ・エレーラと名前だけでなく手法も通ずるところがあり、規律を重要視しチームを変革した[100][99]。チームのエースだったシヴォリとは噛み合わずナポリへ移籍する要因になるものの、就任から3年目の1966-67シーズンに待望の優勝を果たした[99]

1930年から1960年代まで10回以上の国内優勝を果たすユヴェントスだったが、ミランとインテルが欧州のカップ戦で2度ずつ優勝しているのとは対照的にタイトル獲得までは至らなかった[101]

1970年代前半 編集

 
ロベルト・ベッテガ

エッレーラの後任にふさわしい監督はなかなか見つからず、選手としてグランデ・インテルで活躍したアルマンド・ピッキにようやく落ち着いた[102]。ローマから獲得したファビオ・カペッロルイジアーノ・スピノージイタリア語版ヴァレーゼからロベルト・ベッテガパレルモからフランコ・カウジオが復帰しメンバーが揃いつつあった[103]。1970-71シーズン半ばにピッキの不治の病が発覚すると、ズデネク・ゼーマンの叔父のチェストミール・ヴィツパーレクを下部組織のコーチから昇格せざるをえなかった[101][103]。1971-72シーズンは前半の折り返し地点で首位に立つものの、ベッテガの病、ヴィツパーレクの身内の不幸と災難が相次ぐ[104]。ここで心が折れなかったユヴェントスは終盤戦を戦い抜き、2位のミラン、トリノとわずか勝ち点差1でピッキらに捧げる優勝を果たした[104]

1972-73シーズンでは、当時最高の評価を得ていたディノ・ゾフナポリから獲得し守備の穴を埋めることに成功する[105]。しかし、前半戦終了時点ではラツィオとミランが上回り、ユヴェントスは勝ち点で5ポイント離されている状態だった[105]。また、チャンピオンズカップの両立とワールドカップの予選にイタリア代表メンバーが駆り出されていたこともあり、残り6節時点で優勝の可能性はほぼ閉ざされていた[106]。しかしここから怒涛の追い上げを見せたユヴェントスは、最終戦のローマに終了間際の逆転弾で勝利し、最終節で首位ミランとの1ポイント差をひっくり返し連覇を達成した[106]。1972-73シーズンは、初めてチャンピオンズカップの決勝に進んだシーズンでもあった[101]。国内リーグとコッパ・イタリアを制しており3冠がかかる試合には、GKにゾフ、MFにカペッロとフランコ・カウジオ、FWにはジョゼ・アルタフィーニピエトロ・アナスタシ、ベッテガの3トップと初優勝が期待できるメンバーが揃っていた[101]。しかし、決勝の相手は3連覇を達成する黄金時代のアヤックス・アムステルダムで、試合開始わずか5分にヨニー・レップのゴールで失点すると、そこからスコアは動かず0-1で敗戦し優勝を逃した[107]。トンマーゾ・マエストレッリのラツィオに及ばず2位で1973-74シーズンを終えると、翌1974-75シーズンではヴィツパーレクが監督から身を引きオブザーバーとしてクラブに関わることになり、1959年から2年連続優勝を果たしたカルロ・パローラに再び監督を任せることになった[108][109]。前年に加入したクラウディオ・ジェンティーレに加え、オスカル・ダミアーニイタリア語版、後にクラブのレジェンドになるガエターノ・シレアを補強したユヴェントスは16度目の優勝を果たす[109]。敗北した試合は2位ナポリよりも多く、得点・失点においても優れた成績ではなかったが、シーズンを通して安定感のある戦いを続けた[110]。1975-76シーズンは前シーズンの調子のまま首位で3月を迎えるが、ミラン戦の引き分け後の3連敗で5ポイントのリードを失い、地元のライバルであるトリノに27年ぶりの優勝を許してしまった[111]

1970年代後半~1980年代前半 - トラパットーニ政権の黄金期 編集

 
ジョヴァンニ・トラパットーニ

ジョバンニ・トラパットーニが監督に就任した1976年から退任する1986年までの10年間に、セリエAでは6度の優勝、1976-77シーズンにクラブ初の欧州タイトルとなるUEFAカップで優勝しユヴェントスは多くのタイトルを獲得した[112]

37歳でユヴェントスの監督に就任したジョバンニ・トラパットーニは、ミランでDFとして活躍した後にネレオ・ロッコの下で経験を積んだ若手監督だった[113]。チームの中心選手だったアナスタージやカペッロを放出するものの、引き換えに獲得したロベルト・ボニンセーニャロメオ・ベネッティがその穴を埋め安定感のあるチーム構成になった[113][114]。1976-77シーズンは勢いのあるユヴェントスとトリノが他クラブを15ポイント以上引き離し優勝争いをしており、最終節の勝利により1ポイント上回ったユヴェントスが監督就任1年目での優勝を果たした[114][115][116]。スクデット獲得の直前にはUEFAカップの決勝に進出し、アウェーゴールの差でアスレティック・ビルバオを上回り欧州カップ戦で初優勝を果たした[117][118]。翌シーズンはアントニオ・カブリーニの台頭というポジティブな要素があったものの、ピエトロ・パオロ・ビルディスら新加入選手は定位置を掴むまでには至らず、地力を押し通した2連覇となった[119][120]。調子の上がらないユヴェントスはその後2シーズンを3位、2位と順位を落とし、その後の2シーズンを再び連覇する[121][122][123][124][125]。1980年からの2回の優勝にはいくつか不可解な判定があったと指摘されており、特に1981-82シーズン最終節でユヴェントスがPKを得て優勝したことは、1ポイント差で2位になったフィオレンティーナが長く抱く遺恨の始まりとされている[126][127][128][129]

 
ミシェル・プラティニ

1980年に解禁された外国人選手の登録により、1982-83シーズンにはズビグニェフ・ボニエクミシェル・プラティニらと契約しプラティニは早速得点王に輝く[130][131]ワールドカップの優勝メンバーにユヴェントスから6人も選出されていたこともあり、コンディション面からリーグでは振るわず2位に甘んじるものの、欧州の舞台では2度目のチャンピオンズカップ決勝に進出した[131][112]。メンバーにはイタリア代表のディノ・ゾフクラウディオ・ジェンティーレガエターノ・シレアアントニオ・カブリーニマルコ・タルデッリパオロ・ロッシロベルト・ベッテガが揃っていたが、ハンブルガーSVに敗れまたしても優勝を逃した[132]。この敗戦で奮起したユヴェントスは、翌年UEFAカップウィナーズカップを制す[132]。この勝利で出場権を得たUEFAスーパーカップでは、チャンピオンズリーグ決勝で相対するリヴァプールとの前哨戦となり、2-0で勝利している[133]

1983-84シーズンは前シーズンと同様にユヴェントスとローマの一騎打ちの構図となったが、シーズン中盤過ぎからは首位を明け渡すことなくスクデットを獲得した[134]。また、プラティニが2年連続の得点王に輝いた[134]。1984-85シーズンにも得点王に輝いたプラティニは3年連続でバロンドール受賞となったが、主力の故障でリーグでは6位と大きく順位を落とした[135][136][137]。残るチャンピオンズカップ獲得へ目標を定めると、準決勝でボルドーに競り勝ち、ヘイゼル・スタジアムで行われる決勝へ駒を進めた[133][138]。決勝ではプラティニのPKゴールを守り切り、クラブ創設から88年目で初の欧州チャンピオンに輝いた[139]。しかし、試合前にはリヴァプールサポータを原因とする群衆事故で39人が亡くなっており、心から喜べる戴冠にはならなかった[139][140](詳細はヘイゼルの悲劇を参照)。

1985-86シーズンは、ボニエクとロッシを放出する一方、ミカエル・ラウドルップをラツィオから呼び戻し、トリノからはアルド・セレーナを獲得した[141]。セレーナの獲得にはサポーターの反発もあったが、シーズンを通して21ゴールと活躍した[141]。残り2節で勝ち点で並んでいたローマとの首位争いを制し22度目の優勝を果たした[142][143]。同年末にはトヨタカップでアルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズと対戦し、2-2で決着がつかずPK戦までもつれ込んだものの[144]、GKのタッコーニが2本セーブする活躍で世界一に輝き、この勝利により欧州クラブが獲得できる国際タイトルを全て獲得した初のクラブとなった[145][146]。後半にはプラティニのテクニカルなボレーシュートのゴールが取り消されており、プラティニが芝生に寝転んで抗議している有名な写真はこの時に撮られたものである[144]

トラパットーニ監督時代の10年間で、セリエAで6度の優勝、コッパ・イタリアで2度の優勝、チャンピオンズカップ、カップウィナーズカップ、UEFAカップの欧州3大タイトルも制覇した[147]

1980年代後半~1990年代前半 - 低迷期 編集

トラパットーニがインテルの監督に就任しプラティニが引退したことで黄金期が終わり、マラドーナ擁するナポリベルルスコーニが会長に就任したミランが台頭するとユヴェントスは長い低迷期に入る[148][149][150]。クラブOBであるゾフに監督を託すも状況は好転せず、プラティニの代わりを期待されたイアン・ラッシュが振るわない等、補強でも活躍する選手を獲得できなかった[151][152]。1989-90シーズンにはコッパ・イタリアとUEFAカップを制するものの、ルイージ・マイフレディイタリア語版に監督の座を譲ることとなる[153]。UEFAカップ決勝の数日後には、対戦相手のフィオレンティーナから花形選手のロベルト・バッジョの引き抜きに成功したが[154][155]、7位と結果を残すことができなかったマイフレディは1年で解任となり、黄金期の監督だったトラパットーニに再び指揮を委ねた[156][157]ジャンルカ・ヴィアッリディノ・バッジョファブリッツィオ・ラバネッリアンジェロ・ペルッツィアントニオ・コンテらを補強し優勝争いができるまでチームの力が戻り、ディノとロベルト二人のバッジョの活躍により再びUEFAカップを制するものの、時代遅れとなったカテナチオではアリゴ・サッキゾーンプレスで革新を起こしたミランに及ばず、1985-86シーズン以来のスクデットまでは至らなかった[158][159][160][161][162][163][164]

1990年代後半 - リッピ政権の黄金期 編集

 
マルチェロ・リッピ

体制の刷新が行われ、副会長にロベルト・ベッテガGMルチアーノ・モッジ、取締役にアントニオ・ジラウドイタリア語版が就任し、監督にはマルチェロ・リッピが招聘された[165]。チーム編成も見直され、アンドレアス・メラージュリオ・セザールディノ・バッジョらスター選手を放出した一方、チロ・フェラーラディディエ・デシャンパウロ・ソウザら黄金期を象徴する選手たちが1994年に加入しチームの強化がはかられた[166][167]。前シーズンに加入したアレッサンドロ・デル・ピエロも主力として定着し、強力なFW陣が得点を量産しリッピ体制初年度でスクデットを獲得した[166]。リッピはトラパットーニの守備的なメンタリティを捨て、前線からハイプレスを仕掛ける攻撃的なサッカーへ転換を図り、守備にも貢献できる若いデル・ピエロをチームの主軸としていくことに決めたユヴェントスは、1995-96シーズンにミランから届いたバッジョへのオファーを受け入れた[161][168]。翌シーズンはミランに8ポイント差を離されて優勝を逃すものの[169]、チャンピオンズリーグではレアル・マドリード、ナントを下して決勝に進出した[170]。決勝の相手は前年王者でありシーズンで52戦無敗の強さを誇るアヤックス・アムステルダムだったが、ラヴァネッリのゴールで1-1となったPK戦で勝利し、2度目の欧州制覇を果たした[139][171]。副会長のロベルト・ベッテガは、「1985年の優勝は祝えなかった、この時を待っていた」と喜びを口にした[172]。更に11月には東京の地で再び世界一の称号に輝いている[173]

 
アレッサンドロ・デル・ピエロ

1996-97シーズンには、更にジネディーヌ・ジダンパオロ・モンテーロマルク・ユリアーノクリスティアン・ヴィエリらが加わりチームが強化された[174]。ライバルであったミランが大失速し、パルマに競り勝ったユヴェントスはスクデットの奪還に成功する[174][175]。翌シーズンはデル・ピエロとインザーギの「デルピッポ」コンビとジダンの組み合わせでゴールを量産し、連覇を果たしたリッピ監督は4年で3度のリーグ優勝を勝ち取った[176][177]ボスマン判決後で移籍が活発になり優勝メンバーが様変わりしたものの、勢いは国内に留まらず攻守にアグレッシブなサッカーの質を高めてチャンピオンズリーグ決勝に3年連続で進出した[139][178]。事前予想では有利とされていたものの、流れを掴めなかったユヴェントスは2年連続で決勝敗退となった[139][179][180]

独立採算体制への移行で選手の入れ替わりが激しかったものの、モッジは監督のサッカーに適合する選手の獲得でリッピをサポートし、4年連続でタイトルを獲得しクラブ史上でも有数の黄金期となった[181][161]

2000年代初頭 編集

1998-99シーズンは、11月8日、第8節のウディネーゼ戦において、後半ロスタイムにデル・ピエロが靭帯損傷の大怪我を負い、直後に同点弾を決められ首位から陥落すると、インザーギやジダンら主力も怪我に苦しみ7位でシーズンを終えることとなった[182][183][注釈 8]。20節のパルマ戦に敗北すると、リッピは急遽辞意を口にしそのまま監督の座を降りてしまう[186][187]。後任にはカルロ・アンチェロッティが選出されたが、サポーターからの歓迎は受けられなかった[188]

アンチェロッティが留任して迎えた1999-2000シーズンは、ジャンルカ・ザンブロッタファン・デル・サールが加入したが、振るわなかった前シーズンのメンバー構成に大きな変化はなく、メディアからも優勝候補とは見られていなかった[189][190]。安定感のある守備に支えられ、徐々に順位を上げ前半戦を首位で折り返すと、スクデット争いはラツィオとの一騎打ちとなった[190][191]。中盤戦の連勝で勢いに乗ると、残り8試合で2位ラツィオとの差は9まで広がり、メディアもユヴェントスの優勝を有力とした[190][192]。しかし、直接対決の敗北を含む7試合で3敗を喫すると、最終節のペルージャ戦にも敗北し最後の最後で1ポイント上回られ優勝を逃した[190]

2000-01シーズンは、戦力は十分と判断し移籍市場では消極的で、層に厚みを持たせるためダヴィド・トレゼゲらを獲得した[193]。記者の事前予想ではタイトル獲得へのリベンジが期待されていたものの、コッパイタリアで早くも3回戦で敗北すると、チャンピオンズリーグでもグループリーグで最下位になり2つのタイトル争いから脱落してしまう[194][195]。11月初めに残されたタイトルがリーグだけというのは19年ぶりとなる不振で、サポーターは練習場やスタジアムで批判の声を上げた[195]。移籍市場で積極的に動き、ワルテル・サムエルガブリエル・バティストゥータらを獲得したローマほどの勢いはなかったが、10節終了時点で2位につけスクデット争いに望みをかけた[194][196]。第29節は首位ローマと直接対決となり勝ち点差6を縮めるチャンスであったが、中田英寿が2得点に絡み終了間際に同点となり追撃に失敗する[197]。最終節の逆転優勝に望みをかけたが叶わず、2年連続で2位という結果でアンチェロッティは監督の座から退くこととなった[198]。アンチェロッティには次シーズンの契約が残っていたが、リッピの監督就任の確約を得たクラブから最終節直前に解雇通知を受け取ることとなった[186]

リッピ時代の補強の成功とは打って変わって、アンチェロッティが就任してから獲得した選手がなかなか主力として定着せず[195]、 ジダンやデル・ピエロのような代えのきかないタレントの調子に左右され続けた[182]。アンチェロッティは「ユヴェントスで監督を務めることは楽しいか?」というインタビューに「ノー」と答えており[199]、ファミリーのようだったパルマ監督時代と比べてユヴェントスは会社のようだったと回想している[200]

2000年代前半 第二次リッピ政権 編集

 
パベル・ネドベド

2001年5月6日のローマ戦直後、モッジはリッピへ新シーズンの監督を打診する[186]。バルセロナからもオファーを受け取っていたリッピだったが、最終的にユヴェントスを選んだ[187]。移籍市場では従来の堅実な方針を転換し、チームの大改革に取り組んだ[201]フィリッポ・インザーギジネディーヌ・ジダンの移籍により巨額の資金を獲得すると、リーグ屈指の選手であるパベル・ネドベドジャンルイジ・ブッフォンリリアン・テュラムを引き抜いた[201][202]。優勝経験監督が帰還したものの、主力級選手の入れ替えにより評価が未知数なシーズンスタートとなった[203]。開幕節を4-0で勝利し不安を吹き飛ばしたかに思えたのは束の間で[204]、出場停止処分が解けたダーヴィッツとネドヴェドの相性が噛み合わず、9月15日から2カ月勝利することができない不調で、第14節時点で首位インテルと9ポイント離された6位に沈んでいた[205][206]。しかし後半戦になると、新戦力のネドヴェドがトップ下のポジションを掴み、トレゼゲ、デル・ピエロと強力な攻撃陣となってからは連勝で上位に浮上する[207]。残り5試合の時点で首位と6ポイントの差があったが、最終節までの5連勝で1ポイント上回り大逆転優勝を果たした[205][208]

続くシーズンではリーグ最少失点を記録した守備陣を維持し、中盤にマウロ・カモラネージ、トレゼゲが負傷した攻撃陣にマルコ・ディ・ヴァイオが加わった[209]。安定感のある守備で前半戦を1敗で乗り切ると[210]、中盤戦の11試合で10勝1分けと勢いに乗り[211]、最終節を待たずに優勝が決定するのは5年ぶりのことであった[212]。FWの調子が万全とはいえないシーズンだったが、リッピは攻守に切り替えが早いチーム戦術を浸透させ、その中でネドベドは獅子奮迅の活躍を見せた[212][213]。チャンピオンズリーグでは決勝に進出し、ACミランと初のイタリア勢対決となった[214]。リーグ優勝の立役者のネドヴェドを出場停止で欠き、トゥドール、ダーヴィッツの故障で効果的な交代策を講じれず、メディアによって「史上最も退屈なファイナル」、「退屈な試合」と形容されたこの試合は延長含めた120分でスコアが動くことはなかった[214][215]。PK戦ではブッフォンが2本のシュートをセーブするものの、相手GKのジーダから2本のゴールしか奪えず、あと一歩のところで優勝を逃すこととなった[214]

2003-04シーズンは連覇を達成したメンバーに大きな変更はなく、開幕前から3連覇に期待が寄せられた[216]。しかし11節、12節の連敗で順位を落としたことに加え[217]エドガー・ダーヴィッツとの関係が悪化し冬にバルセロナに放出すると、守備にほころびが出始め最終的に42失点を記録してしまう[218][219]。前年のチャンピオンズリーグにおける敗戦で「来年このタイトルを獲得できなければ、ユーベを去る」という発言をしていたリッピだが、最低限のノルマであるチャンピオンズリーグ出場権を獲得すると退任を発表し、第2次リッピ政権は幕を閉じることとなった[218][220]

2004-06 カペッロ政権 編集

 
ファビオ・カペッロ

後任の監督としてデシャンが有力とされている中、2004年5月27日にローマからファビオ・カペッロを引き抜いたことが急遽発表された[221][注釈 9]。カペッロの教え子であるエメルソンをローマから連れてくることに成功するものの、新監督を迎えるための即戦力補強の動きは見られなかった[223]。しかし、移籍期間最終日である8月31日にファビオ・カンナヴァーロズラタン・イブラヒモビッチの2選手の獲得を発表する[224]。特にイブラヒモビッチの交渉は水面下で行われており、電撃的な移籍ニュースとなった[224]。前シーズンの課題であった守備の不安定さ、ダーヴィッツが抜けた穴、怪我がちのトレゼゲに新戦力が完全な解答となり、新体制初年度での優勝を果たした[225]

2005-06シーズンは、プレシーズンマッチでブッフォンが負傷するアクシデントがあったものの、優勝メンバーにパトリック・ヴィエラが加わったことでチームが強化され、セリエA記録となる開幕9連勝という最高のスタートを切った[226]ターンオーバーを好まないカペッロの方針で、シーズン中盤には選手に疲労が見られたが[227]、シーズンを通して敗戦は1試合のみで、勝ち点91を積み上げ2連覇を達成した[228]

シーズン末の5月初旬にカルチョ・スキャンダルの問題が噴出し、FIGCによる裁判により2004-05、2005-06シーズンの優勝の剥奪とセリエBへの降格という判決が下された[229][230]。主力選手のエメルソン、カンナヴァーロ、テュラム、ザンブロッタ、ヴィエラ、イブラヒモビッチが退団し戦力を大きく失うことになった[230][231]

カルチョポリ 編集

カルチョポリとは、ルチアーノ・モッジアントニオ・ジラウドイタリア語版らユヴェントス経営陣が、サッカー連盟や審判協会と癒着し、圧力をかけ審判の選出の操作などで恩恵を受けていたとされる不正事件である[232]。不正の首謀者とされるユヴェントスには、フィオレンティーナ、ラツィオ、ミランと比べ重いペナルティが課せられた[229]。外部の賭博が絡み選手の敗退行為が行われる八百長とは性質が異なり、選手は事実を知らずクラブ、サッカー協会、審判部それぞれの上層部の間でやり取りが行われた[233]。また、金品の授受の事実も無いことから、買収事件でもない[233]

2004年からナポリ検察によって行われた盗聴捜査でモッジによる圧力が明るみに出ると、2006年6月にイタリアサッカー連盟によるスポーツ裁判が開かれユヴェントスには2シーズンの優勝タイトル剥奪とセリエCへの降格が求刑された[229]。裁判の中で担当弁護士は、容疑を認めつつも3部への降格は重過ぎると訴え、第一審ではセリエB降格とマイナス30の勝ち点減点の判決となり、上訴審ではマイナス17まで軽減され確定した[229][230]。一旦は判決を受け入れる姿勢を見せていたものの、他の3クラブが降格処分を免れたことによりサッカー連盟を統括するイタリアオリンピック委員会イタリア語版へ提訴し、調停により最終的に勝ち点はマイナス9まで軽減されることになった[231][234]

また、公判中にモッジの弁護団から「インテルの幹部も口利きを受けていた」という証言がなされ、インテルの前会長であった故ジャチント・ファッケッティによる審判への口利きの証拠のテープが提出された[235][236]。2011年7月18日のイタリアサッカー連盟の役員会でインテルも不正に関わっていた事実が認められたが、時効を理由に2005-06シーズンのインテルのタイトルは剥奪されなかった[235][236][237]。2011年11月8日にモッジに5年4カ月の実刑判決が下ると、判決文に「クラブとしてユヴェントスの法的責任を問わない」という一文が添えられていたこともあり、ユヴェントスはモッジ個人の責任として改めて無実を訴えた[237][238]。最終的にはモッジ、ジラウドらは2015年3月に下された判決により、時効による罪の免除となった[239]。モッジらの罪は認定されたが、ユヴェントスと他3クラブの罰則の重さの違い、処分の対象にならなかったインテルについては議論の余地があると片野道郎は指摘している[239]

セリエBの戦い 編集

カルチョポリでの厳しい処分により経営陣は刷新を迫られ、それまでサッカー界に関わりのなかったジョヴァンニ・コボッリ・ジッリが会長に、ジャン=クロード・ブランが代表取締役に就任した[240]。また、2005-06シーズンの経営赤字は3545万ユーロ(約53億円)になっており、前年から赤字が10倍に膨れ上がるほど厳しい状態だった[240]。 さらに、勝ち点を-17した状態からセリエBを戦わなければならなかった[241]。クラブOBのデシャンに監督を託すと、開幕戦引き分け後の6連勝で8節には早くも借金を返済し、カルチョポリの再審議により勝ち点マイナスは9まで軽減されることになった[161][241][234]。2007年1月20日には、デルピエロの500試合目となったバーリ戦に勝利し単独首位に立つと[242][243]、2007年5月19日、閉幕まで3節を残し1年でのセリエA復帰を決めた[244][245]。セリエBは所属22クラブ、6月末までシーズンが続く過酷なリーグだが[246]、セリエBでの闘いについて、ブッフォンは「ファンと触れ合うことと、プレーすることの喜びを再発見したんだ。」とポジティブに振り返っているが[247]、ネドヴェドは「セリエBでの1年は厳しく、困難で、長く、骨の折れるだった。」と述べている[248]。また、20ゴールで得点王を獲得したデルピエロは、降格した年にも関わらず「もう一度体験したい時」に2006年を挙げている[249]。一方、カモラネージやサラジェタら数人の選手がデシャンと問題を抱え、1年での復帰に貢献したデシャンはクラブを去ることになった[161]

安定感のない新体制 編集

セリエB優勝が決定した2007年5月26日の試合後、1年での昇格に貢献したデシャン監督の退任が発表された[250]。6月4日には後任にクラウディオ・ラニエリの就任が発表された[251]。 開幕前の予想では、UEFAカップ出場権獲得も難しいだろうという声もあったが[252]、2008年4月12日のミランとの直接対決を制しチャンピオンズリーグ出場権をほぼ手中に収めることになった[253]。シーズンは20勝12分6敗で3位で終え、セリエA復帰1年目、また夏の補強失敗を考えると奇跡的な復活になった[254]。シーズン前半はベンチスタートも多かったデル・ピエロだが、21ゴールの内ラスト8試合で10ゴールを決める勢いで33歳で初のセリエA得点王に輝いた[254][255]。ユヴェントスとしても2年連続の得点王排出となった[254]

翌シーズンは開幕から常に10人前後の負傷者が発生し[256]、前シーズン41点を決めたトレゼゲとデル・ピエロも、トレゼゲは膝の手術で離脱、デル・ピエロは開幕5試合でノーゴールと勝ちきれない試合が続き[257]、11位まで順位を落とした[258]。一時は首位インテルと3ポイント差まで迫るも、徐々に順位を落としチャンピオンズリーグ出場権が危うくなってきたユヴェントスは、2009年5月18日、ラニエリ監督の解任を発表した[259][260][261]。ユヴェントスがシーズン途中に監督を解任するのは40年ぶりのことだった[262]。ユースチームを率いていたチロ・フェラーラが暫定監督に就任し[263]、シエーナ戦に勝利しチャンピオンズリーグ出場を確定させた[264]。最終節のラツィオ戦は、退団が決まっていたネドヴェドのラストゲームとなった[265][注釈 10]。327試合に出場したネドヴェドは最後の試合でもアシストを記録し勝利に貢献、21勝6敗11分で2位という成績でシーズンを終了した[265]

新シーズンに正式に監督に就任したフェラーラは、前線からのプレッシングとショートカウンターを基本とする戦術でリッピ監督時代を彷彿とさせ[263][268]、サンプドリアと並び首位に立つ勢いを見せた[269][270]。しかし、その後3戦で1敗2分と勢いにブレーキがかかり3位まで順位を下げてしまうと[271][272][273]、年明け後はさらに故障者も増え[274]、ホーム3連敗で6位まで順位を落とす[275]コッパ・イタリアの準々決勝、インテル戦に敗れた翌日の2010年1月28日、フェラーラ監督の解任と後任にアルベルト・ザッケローニが就任することが発表された[276]。ザッケローニは、監督2戦目で得意の3バックを導入するが、初勝利は3戦目のジェノア戦となり[277]ベッテガは「良い監督だが、魔法の杖は持っていない」と皮肉交じりのコメントを残した[278]。シーズンは7位で終了し、なんとかヨーロッパリーグ予選枠を得たものの、38戦16勝15敗7分という結果は過去数シーズンでも最悪の成績で、敗戦数、総得点、総失点では、20チーム制になってから最も悪い記録となった[279][280][281]

2009年から会長に昇格したブランは、2006年当時「スクデットを争うのに3年かかる」と見込んでいた[282]。1年でセリエAに復帰し2年連続で好成績を残すなど順調に進んでいると思われたが、経営陣に強力なリーダーシップを発揮する人物が存在せず、2年連続でシーズン途中に監督が交代し盤石な基盤を整えることはできなかった[282][283]。モッジの後任にスポーツディレクターに就任したアレッシオ・セッコは、2004年から2年間チームマネージャーを務めたが、記者からは「モッジのカバン持ち」として知られていた[284]。アマチュアのセッコにユヴェントスの重職は荷が重く、元上司のモッジに助言を求めることはイメージ悪化のためにクラブから禁じられ名門復活のための的確な補強ができず、特に目玉補強だったジエゴとフェリペ・メロの不調には悩まされた[284][285]。2009-10シーズン終了後、オーナーであるアニェッリ家は運営体制の改革に踏み切り、プロジェクトは4年で幕を閉じることとなった[280]

アンドレア・アニェッリの会長就任 編集

アニェッリ家当主のジョン・エルカーンは、より深く経営にコミットするため、1956年から5年間会長を務めたウンベルト・アニェッリの息子であるアンドレア・アニェッリに会長を委ねた[286]。移籍市場やチーム強化のプロがいなかったことを反省し、サンプドリアでゼネラルマネージャーを8年間務めたジュゼッペ・マロッタを引き抜いた[286][注釈 11]。マロッタはセリエCからキャリアを積み上げてきた叩き上げで、サンプドリアをセリエBからチャンピオンズリーグ出場まで引き上げた実績があった[286]。また、限られた予算で結果を出すことからも、イタリアで高く評価されていた[286]。マロッタはサンプドリアで仕事を共にしたルイジ・デルネーリを新監督に任命し、右腕の部下のファビオ・パラティチ英語版も引き抜いた[286]。デル・ネーリ監督は、2000年代前半にミラクル・キエーヴォと称されたチームを率いていた頃から一貫して、スピードに乗ったサイド攻撃を活かした速攻攻撃型サッカーを志向していた[288][289]。マロッタは、サイドを主戦場とするシモーネ・ペペミロシュ・クラシッチホルヘ・マルティネスらを補強し、監督の戦術を後押しした[288]

第5節から第17節まで7勝6分という負けなしの成績で一時は2位まで順位を押し上げるものの[290][291][292][293]、クアリャレッラがシーズン終了の大けがを負ったりと浮き沈みが激しく[294][295]、第34節の引き分けでチャンピオンズリーグ出場が絶望的になり[296]、15勝10敗13分で7位という成績でシーズンを終えヨーロッパリーグ出場も逃した[297][298]。2011年5月21日、デルネーリ監督の解任が発表され[299]、5年で5度目の監督解任と継続性の無さがあらわになった[300]。シーズンの不振について、中心選手の負傷と補強選手が活躍できなかったことが指摘されている[301]。新加入のボヌッチはしばしば失点に絡んだが、冬に加入したバルザーリと合わせて、後に「BBC」と呼ばれる守備ユニットの礎が誕生したシーズンとなった[301][302]

コンテ政権での3連覇 編集

 
アントニオ・コンテ

カルチョポリによりいち早く体制の一新を迫られたユヴェントスは2011年に開場した新スタジアムで収益を改善し、オーナーの資金力に頼り競争力を落としていくライバルクラブのミランやインテルとは違い、長期的な視点でチームを強化しカルチョポリ後の低迷から抜け出すと新しいサイクルを築いていった[303][304][305][306]

2011年5月31日、現役時代に「"闘将"」と呼ばれ、ユヴェントスで13シーズンプレーしたアントニオ・コンテが新監督として就任した[307][308]。失いかけていた名門の誇りと、勝利に対する精神をチームに蘇らせることを期待され、コンテ本人も「ユベントス・スピリットを取り戻す」ことを第一目標に挙げた[308]。不振の前シーズンを受けて増資がなされ、フロントも積極的な補強を宣言し[309]ステファン・リヒトシュタイナーアルトゥーロ・ビダルミルコ・ヴチニッチらを獲得し、ミランで契約延長に至らなかったアンドレア・ピルロはフリーでの加入となった[310][311]。 サイド攻撃を軸にした4-2-4と、ピルロ、マルキージオ、ヴィダルのコンビネーションを活かす4-3-3を使い分け開幕2連勝を飾る[312][注釈 12]。4-3-3のシステムが固まり、迎えた第13節ラツィオ戦は首位攻防戦で、試合をコントロールしたユヴェントスが1-0で勝利し首位で前半戦を終えた[314][315]。ユヴェントスが冬の王者になるのは、2005-06シーズン以来のことであった[315]。前半戦の戦いについて、使い慣れていた4-2-4の布陣より、4-3-3が機能すると分かると即座に戦術変更を決断し、デル・ピエロのようなバンディエラをベンチに置くこともためらわないチームマネジメントを評価されている[316]。「スクデット決定戦」と喧伝された第25節のミラン戦から、降雪で延期された第23節も含み4戦連続で引き分けとなり、勝利より引き分けの方が多くなってしまうとコンテは無敗を強調したが、首位ミランとの差が広がり始めていた[317][318][319][319][320]。ミランを追う形となったユヴェントスは、第28節の快勝を皮切りに[321]、4試合で12得点、523分間無失点継続と、怒涛の4連勝で首位に返り咲いた[322]。連勝は8まで伸び[323]、第37節の勝利で9シーズンぶりの優勝が決定した[324]。就任1年目で優勝を達成したコンテは、試合終了後のインタビューを「今日、ユベントスが帰ってきた」という言葉で締めた[324]。シーズン前半の10月18日の株主総会で、アニェッリ会長自らデル・ピエロとの契約が終了することを明言しており[325]、シーズン最終試合は退団試合となった[326]。前半28分に得点を決め、後半57分の交代では満員のスタンディングオベーションに見送られた[326]。最終成績は38戦23勝15分で、無敗での優勝となった[327]。総失点の「20」は、セリエAにおける最少失点記録更新となり、「20人」からゴールが生まれたことも最多得点者数の記録更新となった[327]

2012-13シーズンはチャンピオンズリーグ参戦のため、戦力補強としてウディネーゼからクワドォー・アサモアマウリシオ・イスラを獲得し、マンチェスター・ユナイテッドからは、ポール・ポグバを獲得した[328][329]。一方コンテは、シエナ監督時代に八百長の事実を知りながら報告を怠ったとして、10ヶ月の資格停止処分が下された[330][注釈 13]。コンテ不在の間、代行監督としてアシスタントコーチのマッシモ・カレーラが指名された[332]。第8節のナポリ戦から5連勝で迎えたイタリアダービーで敗北すると、2011年から続いていたリーグ無敗記録は49でストップしてしまった[333][334]。資格停止処分が4か月に軽減されたコンテが第16節からベンチに復帰し[335][336]、リーグでも2位と勝ち点8差の首位で年内最終戦を終えた[337]。年明けは、ピルロ、マルキージオ、キエッリーニら主力の故障でクオリティが低下したが[338]、2位との直接対決となった第27節のナポリ戦では、引き分けという結果で差を縮めさせなかった[339]。ナポリ戦以降8連勝で勝ち点を積み上げ[340]、2013年5月5日に3節を残し2連覇を達成した[341]。最終成績は、27勝6分5敗であり[342]、開幕から1度も首位の座を譲ることがなかった[343]

前年に4-3-3で固まったとみられていたフォーメーションだが、コンテは改善の手を緩めず3バックを導入する[344]。見た目上は3-5-2であるが、より攻撃的にするためサイドの選手を前線に押し上げ、4-2-4の4トップの考え方を活かした3-3-4という布陣にたどり着く[344]。また、3バックの導入は移籍当初から守備のミスで批判されていたボヌッチの負担を軽減し、長所であるビルドアップ能力をより活かせるようになった[345]。2トップにはヴチニッチとマトリを起用し、前線からの積極的なプレッシングを要求することでインテンシティが高まった[346]。相手を選ばず、常に主導権を握っていく「強者のスタイル」が浸透したシーズンとなり、コンテも「今季のチームは昨季より強かった」と讃えている[343]

ガゼッタ・デロ・スポルトに補強の必要性が指摘されていた大型FWには[347]マンチェスター・シティからカルロス・テベスと、2013年1月に加入内定が発表されていたフェルナンド・ジョレンテが加入した[348][349]。前シーズンの3-5-2を土台にしながら、リヒトシュタイナーが担っていた右ウィングのポジションをヴチニッチに変えることで、より重心を前に置いた3-3-4のフォーメーションを完成させようと目論んだ[348]。ハードワークが要求されるコンテの2トップの元で、テベスは開幕1カ月でシステムに適応し、DFとの駆け引きやポストプレーでの組み立てに参加しながら6試合で4ゴールの活躍ぶりを見せた[350]。開幕8試合で無得点試合がないという攻撃の充実ぶりながら、前シーズンからの課題であるチャンピオンズリーグとの両立には悩まされた[351]。それでも新戦力のジョレンテがレギュラーに定着し攻撃にバリエーションが増え、序盤戦に勢いのあったローマ、ナポリの両クラブが停滞している間に6連勝で首位に躍り出た[352][353]。マルキージオの怪我で出場機会が回ってきたポグバも[354]、ビダルとのコンビで中盤を制圧しており、ヨーロッパでも屈指のレベルにあると評価された[355]。リーグ戦では、38戦33勝3分2敗という成績で通算30回目の優勝を果たし、3連覇を達成した[356][357]。12連勝1回、7連勝2回とシーズンで大崩れすることがなく、勝ち点「102」はセリエだけでなく欧州主要リーグの最多勝ち点記録を更新し、ホーム開催試合19試合全てで勝利する圧倒的な強さを示したシーズンとなった[356][358]

国内では圧倒的な強さを見せ、3年間の114試合のうち敗北したのは7試合だけだった[359]。しかし欧州の舞台では結果が振るわず、ヨーロッパリーグでもホームスタジアムで行われる決勝にたどり着けなかった[359]。コンテもフロントもチャンピオンズリーグ制覇の気持ちは同じだったが、積極的な補強を望むコンテに対してフロントは健全な財政を優先し、納得のいかないコンテはサマーキャンプ初日に電撃辞任した[359]

アッレグリ政権の黄金期 編集

 
マッシミリアーノ・アッレグリ

アントニオ・コンテ辞任の翌日に後任としてマッシミリアーノ・アッレグリの就任が発表された[360]。アッレグリは2010-11シーズンにミランでスクデットを勝ち取っているものの、ピルロを冷遇しユヴェントスへ移籍する原因となったことや、ユヴェントスへの批判を口にしていたためサポーターから歓迎されず、「#NoAllegri」というハッシュタグがTwitter上で拡散してしまった[360][361]。また、3連覇チームの3-5-2を基本方針とする発言をしたものの、アッレグリはキャリアで一貫して4バックと3センターの中盤のシステムを用いてきたため、短い準備時間でどのように戦術を浸透させていくかが最初の課題となった[360][361]。開幕から2カ月後の11月に入り、アッレグリは4バックの4-3-1-2のフォーメーション移行へ踏み切ると、トップ下に加えて中盤に下りて組み立てに参加するテベスの5人でポゼッションを維持することが可能になり、得点率、失点率ともに数値が改善した[362]。リーグ後半戦が始まると2位ローマが徐々に勝ち点を取りこぼすのに対し、安定感のあるユヴェントスは独走態勢に入っていき[363]、2015年5月2日、4試合を残し2位ラツィオとの勝ち点差が17となりリーグ優勝が確定、コンテ時代から合わせて4連覇達成となった[364]。最終成績は、26勝9分3敗で前年に比べれば勝ち点は減少したものの、コッパイタリアで20年ぶりの優勝、チャンピオンズリーグで決勝進出と3つのコンペティションを戦い切った[365]。単純に控え選手と入れ替えるターンオーバーではなく個々の体調に合わせて出場時間を調整し、コンディションの悪化を防いだ[366]。チャンピオンズリーグ決勝トーナメントで息切れした試合はなく、リーグでも突出して出場時間が多かったのはブッフォン、ボヌッチ、マルキージオの3名に限られた[366]

チャンピオンズリーグ準決勝に進出したチームの中で唯一格下と見られていたユヴェントスだったが、前年王者のレアル・マドリードから移籍してきたアルバロ・モラタが古巣相手に2試合連続ゴールの活躍で決勝に進出した[367][368][369]。チャンピオンズリーグ決勝のバルセロナ戦では、前半4分に失点するものの後半55分にモラタのゴールで振り出しに戻す[370]。しかし、逆転しようと攻めあがったところにMSNトリオのカウンターで2失点すると、前評判を覆せず1-3で敗戦した[370][371]

夏のマーケットではテベス、ピルロ、ビダルが移籍し、4連覇の核だったセンターラインが総入れ替えとなったものの[372][373]マンジュキッチケディラの獲得に加え、ウィングのポジションでも起用できるクアドラードは攻撃のオプションを増やし、ディバラルガーニのような若い選手の加入で中期的なチーム作りへの投資も行った[373][374]

迎えた新シーズンはクラブ史上初の開幕2連敗を喫すると、10試合で勝ち点を12しか積み上げられずクラブ史上最悪の成績で14位まで沈んでしまった[375][376]。浮上のきっかけは11節のトリノダービー[377]、マルキージオ、ケディラが復帰しディバラ、マンジュキッチのコンビがチームにフィットし始めた11月から本来の調子を取り戻し[378]、首位ナポリとの天王山となった第25節に勝利し15連勝で首位まで順位を上げた[379]。3月20日のトリノダービーにおいてブッフォンは、1992-93シーズンにセバスティアーノ・ロッシが記録した930分間無失点という記録を更新し、973分間無失点のセリエA新記録を樹立した[380]。15連勝から引き分けを挟み、更に10連勝と26試合無敗で順位を上げていき、最終成績は29勝4分5敗で圧倒的強さを見せつけ5連覇を達成した[377][378][381]

前年と同様に主力選手であるポグバがマンチェスター・ユナイテッドへ移籍したものの、前年にセリエAの得点記録を更新したゴンサロ・イグアインミラレム・ピャニッチダニエウ・アウヴェスを補強[377][382]。ピャニッチ、イグアインの獲得はローマ、ナポリの両チームに契約解除金を払っており、移籍交渉をせず優勝を争うライバルから引き抜いた形となった[383]

マルキージオの長期離脱でレジスタを任せられる選手がおらず試行錯誤が続いた中[384]、2017年1月22日のラツィオ戦において、スターティングメンバーにイグアイン、ディバラ、マンジュキッチ、クアドラード、ケディラ、ピャニッチという攻撃的なメンバーが並んだ[385]。それまで用いていた3-5-2でも4-3-1-2の布陣でもなく、ワントップにイグアイン、ツーボランチにケディラとピャニッチ、左サイドにマンジュキッチという4-2-3-1の構成だった[385]。トップ下のディバラはスペースを自由に移動しながらプレーし、マンジュキッチはフィジカルで優位に立つ等新たな可能性を示した[385]。アッレグリは起床時にこのフォーメーションを思いついたと言い、攻撃的な選手を同時に5人起用することから、イタリアの政党・五つ星運動になぞらえてメディアは「チンクエ・ステッレ」と呼んだ[386]。システム変更で最適解を発見しコッパイタリアでも3連覇を達成する力の配分で、終盤には引き分け試合が増えたものの一度も首位を譲ることなく29勝4分5敗の最終成績でリーグ6連覇を達成した[387][388]

チャンピオンズリーグでは2年前の決勝で敗れたバルセロナやキリアン・エムバペを擁し勢いに乗るASモナコを退け、レアル・マドリードと相対する決勝へ2年ぶりに駒を進めた[389]。「可変システム」対「不変システム」の対決となったチャンピオンズリーグ決勝は、ユヴェントスが前半からプレスをかけレアルマドリードに効果的な攻めをさせず1-1の同点で折り返すものの[390][391]、プレスの圧力が弱まり受けに回った後半61分、64分に立て続けに失点し、為す術がなく1-4で敗戦した[391][392]

2017-18シーズンは、前シーズンのパレルモ戦でアッレグリと言い争いになり、直後のチャンピオンズリーグのポルト戦でベンチ外処分になるなど関係悪化が噂されていたボヌッチが移籍志願し、ACミランへ加入する不穏なスタートとなった[393][394]。アッレグリは毎年序盤戦にシステムの最適解を試行錯誤しながら、後半戦にピークパフォーマンスを持ってくる戦略を取っている[395]。それでも例年通りの首位独走とはいかず、ナポリと1ポイント差の2位で冬の中断期間を迎えることとなった[396]。12月には調子の上がらないディバラをスタメンから外し、ピャニッチを中心にケディラとマテュイディの3人の中盤で攻守のバランスを改善した4-3-3の布陣を採用し始めた[395]

独走して優勝した過去2シーズンと同等の勝ち点を積み上げたものの、欧州5大リーグで唯一最終盤まで優勝争いが決着せず、ユヴェントスの7連覇が確定したのは2018年5月13日のことだった[397][398]。12月から用いられた4-3-3のシステムではチームのエースであるディバラを活かすことができず、4-4-2や3-5-2のフォーメーションも試されたものの最終形が固まることはなかった[397]。また、バルザーリの衰え、ブッフォンの退団、マルキージオの相次ぐ故障と連覇を支えてきたメンバーが中心ではなくなり、サイクルの終わりを感じさせるシーズンとなった[397]

アッレグリが就任してからの4年間は、リーグだけでなくコッパ・イタリアでも勝ち続け、4年連続で国内2冠を達成した[399]。また、2015年8月23日から2017年10月14日までのおよそ2年間、ホームスタジアムで開催した57試合で無敗を継続しその内45勝する圧倒ぶりだった[400]。高いインテンシティで相手を圧倒するようなコンテのサッカーから、ポゼッションで試合をコントロールしながらゆっくり相手を料理するサッカーへ変化し[401]、積極的な補強策で毎年メンバーを入れ替えながらもアッレグリのマネジメント力でタイトルを獲得し続けた[402][注釈 14]

拡大路線とコロナ禍 編集

 
クリスティアーノ・ロナウド

ユヴェントスの課題は収益改善で、新スタジアムや継続的なチャンピオンズリーグ出場によりイタリアのクラブで唯一健闘していたが、欧州のトップクラブとは2008-09シーズンからの10年間で大きく差をつけられておりトップ10に入るのがやっとという状況であった[404][405]。最初は噂話だと思われていた2018年のクリスティアーノ・ロナウドの獲得は、あと一歩で届かなかったチャンピオンズリーグ制覇のための戦力補強以上にマーケティング改善の狙いがあった[406][407]。マドリーやバルセロナ、マンUといったマーケットにおいて知名度のあるクラブはSNSでも影響力を持っており、ユヴェントスと大きな差があった[406]Instagramだけで1億人を超えるフォロワーを持つロナウドの宣伝効果は凄まじく、移籍から1カ月経たない間にユヴェントスのInstagramのフォロワーは1.5倍に増加している[406]。33歳を超えた選手に総額3億ユーロもの資金を投じることは、フィナンシャル・タイムズ紙にギャンブルだと評された一方、ユニフォームの売り上げは1日で52万枚に達し、さらに株価は33%上昇し、KPMGによるレポート「ロナウド・エコノミクス」では、コマーシャル収入は3年で1億ユーロの増収になり投資が回収できる見込みがあると分析された[406][407]。ロナウドの獲得では意見の対立があり、反対意見のマロッタの契約が更新されなかったことからインテルへ移ることになり、アニェッリ会長と一緒に交渉を進めていたパラティチが強化責任者に昇格することになった[408]。2019年10月24日の株主総会では、アニェッリの就任から9年間で売り上げが3.6倍、株価が9倍になったことが紹介され、2019年を「新たなゼロ年」とし、テレビ視聴者の減少に触れながらよりグローバルなマーケットへの方向性が示された[409]

この路線は競技面にも影響し、ロナウドを巨額の資金で獲得した時点で「優勝は当たり前、チャンピオンズリーグを制覇できなければ失敗」という空気ができあがってしまった[410]。開幕15試合で14勝1分けは5大リーグの記録となる勢いで、第16節時点で既に2位ナポリと8ポイントの勝ち点差を付けており、「11月にリーグは終わった」「早くも8連覇は確実」という声すらあった[411][412]。初黒星は3月19日に行われた第28節のジェノア戦で、その頃にはナポリと20もの勝ち点差が開いていた[410]

4月20日のフィオレンティーナ戦に勝利し前人未到の8連覇を達成したものの喜びは一瞬で、4日前のチャンピオンズリーグ・ベスト8のアヤックス戦の敗戦を忘れさせてくれるものではなかった[413][414]。求めるところは国内リーグの外側にあり、サポーターを満足させるスペクタクルなサッカーを実現できなかったことから、5年連続でリーグ優勝に導いたアッレグリは事実上の解任となってしまった[410][415]。アッレグリ解任の意見はパラティチやネドヴェド副会長から出ていたとされ、会長のアニェッリはアッレグリの退任会見において、会長の一存ではなく企業として下された決断だということを強調した[416]

後任のマウリツィオ・サッリ監督は、よりモダンな特徴を持ったマタイス・デ・リフトに出場機会を与え、センターバックに高い位置を要求し積極的にビルドアップに参加させた[417]。26勝5分7敗の成績で優勝し9連覇を果たしたものの、「サッリボール」とメディアが称したショートパスで相手を崩していくサッカーと、ブランドイメージのためにロナウドを中心にするタスクは噛み合わず、試行錯誤の末首脳陣を満足させられず「サッリのユヴェントス」という具体的な形を提示できずにシーズンは終了してしまった[418][419][420]

年度[421] スポンサー収入 MD収入 コマーシャル総収入
2017-18 8690万€ 2780万€ 1億1470万€
2018-19 1億880万€ 4400万€ 1億5280万€
2019-20 1億2950万€ 3170万€ 1億6120万€

2020年3月に新型コロナの感染拡大でリーグが中断されると、拡大路線で売り上げの中で人件費の占める割合が7割まで達していたユヴェントスは財政的な苦境に陥った[422][405][423]。実質的な親会社フィアット・クライスラー・オートモービルズのブランド・Jeepの契約でスポンサー収入を確保したものの、営業収入は20~30%減少する厳しい見通しで、全体的な売り上げが8%減少することで人件費の割合は80%に達してしまった[405][421]。コロナ禍という不運があったとはいえ、2016年から3年間でバランスを取っていた収支が一気に傾き、FFPの基準を超える赤字が積み重なっていた[421][注釈 15]

サッリの解任により、監督経験が無いアンドレア・ピルロをBチームから急遽トップチームに抜擢したのは会長の判断だった[425][426]。ピルロの志向するサッカーは、UEFAライセンスの修了論文「私の望むサッカー (Il calcio che vorrei)」[427]に書かれているモダンでイタリア代表のゲームモデルと通ずるものであり、ロナウドのような守備のタスクが少ない選手を前線に置きながらハイプレスをどのように実現するか手腕が問われた[425][428]。しかし新人監督にとって故障者、世代交代、ロナウドと相性の悪かった可変システムの断念と問題が積み重なり、スクデット10連覇を逃し最終節でなんとかチャンピオンズリーグ出場権は確保するという結果に終わった[429][430]。ネドヴェドと共にアッレグリ解任を強く主張していたパラティチはマロッタと同様に契約を更新されず、2年連続で監督の哲学との妥協点を探ったシーズンの後に再びアッレグリを呼び戻したことに迷走が表れていた[426][430]

2021年4月18日に発表されたスーパーリーグ構想では、ユヴェントスは参加クラブに名を連ねた[431]。アニェッリ会長は欧州クラブ協会の代表であり、UEFAとチャンピオンズリーグのフォーマットについて協議していたが、コロナ後の人件費高騰、経営悪化などを理由に寝返る形でスーパーリーグ構想を主導した[432]。サッカー界の反発が強く構想はすぐさま頓挫してしまったが、ユヴェントスサポーターも拒否反応を示し、スタジアムではアニェッリ会長を非難するバナーが掲げられた[431][432]

タイトル 編集

 
トロフィールーム

国内タイトル 編集

国際タイトル 編集

過去の成績 編集

シーズン カテゴリ 順位 コッパ・イタリア UEFA CL UEFA EL 監督
2010-11 セリエA 38 15 13 10 57 47 58 7位 準々決勝敗退 グループリーグ敗退 ルイジ・デルネーリ
2011-12 38 23 15 0 68 20 84 1位 準優勝 アントニオ・コンテ
2012-13 38 27 6 5 71 24 87 1位 準決勝敗退 ベスト8
2013-14 38 33 3 2 80 23 102 1位 準々決勝敗退 グループリーグ敗退 ベスト4
2014-15 38 26 9 3 72 24 87 1位 優勝 準優勝 マッシミリアーノ・アッレグリ
2015-16 38 29 4 5 75 20 91 1位 優勝 ベスト16
2016-17 38 29 4 5 77 27 91 1位 優勝 準優勝
2017-18 38 30 5 3 86 24 95 1位 優勝 ベスト8
2018-19 38 28 6 4 70 30 90 1位 準々決勝敗退 ベスト8
2019-20 38 26 5 7 76 43 83 1位 準優勝 ベスト16 マウリツィオ・サッリ
2020-21 38 23 9 6 77 38 78 4位 優勝 ベスト16 アンドレア・ピルロ
2021-22 38 20 10 8 57 37 70 4位 準優勝 ベスト16 マッシミリアーノ・アッレグリ
2022-23 38 22 6 10 56 33 72→62[注釈 16] 7位 準決勝敗退 グループリーグ敗退 ベスト4
2023-24 38

現所属メンバー 編集

2023-24シーズン 開幕戦フォーメーション[443]
2024年1月22日現在[444]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK   ヴォイチェフ・シュチェスニー
2 DF   マッティア・デ・シリオ
3 DF   ブレーメル
4 DF   フェデリコ・ガッティ
5 MF   マヌエル・ロカテッリ
6 DF   ダニーロ ( ) ★
7 FW   フェデリコ・キエーザ
9 FW   ドゥシャン・ヴラホヴィッチ
10 MF   ポール・ポグバ ( )
11 MF   フィリップ・コスティッチ
12 DF   アレックス・サンドロ
14 FW   アルカディウシュ・ミリク
15 FW   ケナン・ユルディズ ( )
16 MF   ウェストン・マッケニー
No. Pos. 選手名
17 FW   サミュエル・イリング・ジュニオール
18 FW   モイーズ・キーン ( ) ☆
20 MF   ファビオ・ミレッティ
21 MF   ニコロ・ファジョーリ
22 MF   ティモシー・ウェア ( )( )( )
23 GK   カルロ・ピンソーリョ
24 DF   ダニエレ・ルガーニ
25 MF   アドリアン・ラビオ
26 MF   カルロス・アルカラス
27 DF   アンドレア・カンビアーゾ
33 DF   チアゴ・ジャロ ( )
36 GK   マッティア・ペリン
41 MF   ハンズ・ニコルッシ・カヴィーリャ
監督

※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、★はEU圏外選手を、☆はクラブ育成選手を示す。

Bチーム 編集

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
No. Pos. 選手名

ローン移籍 編集

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
26 MF   カルロス・アルカラス (サウサンプトン)
No. Pos. 選手名
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- DF   ルカ・ペッレグリーニ (ラツィオ)
-- DF   ファクンド・ゴンサレス (サンプドリア)
-- DF   ジャンルカ・フラボッタ (コゼンツァ)
-- DF   ディーン・ハイセン (ローマ)
-- MF   アルトゥール (フィオレンティーナ)
No. Pos. 選手名
-- MF   ニコロ・ロヴェッラ (ラツィオ)
-- FW   マルレー・アケ (イヴェルドン)
-- FW   マティアス・スーレ (フロジノーネ)
-- FW   カイオ・ジョルジ (フロジノーネ)

プリマヴェーラ 編集

エンブレム 編集

いくつかのデザインの変化を経ながら100年以上使われていたエンブレムには真ん中に牡牛が描かれており、トリノの語源がタウリーニ(牛の人々)であることが由来である[445][446]。しかし、ユニフォームの配色やマスコットにシマウマが使われていることもあり、「牛ではなくシマウマなのではないか?」とネットで論争になったこともある[1]。ACミランと形が近い楕円形はイタリアの紋章の特色であり[447]、クラブ名の下の金色の曲線は「栄光」を表している[448]。2017年に一新された現在のロゴは、ユヴェントスのイニシャルの「J」をモチーフにしたシンプルなものになっており、グッズやアパレル商品に馴染む大胆な変更となった[445]。また「J」という文字はイタリア語のアルファベットには元々存在せず、クラブ名がラテン語由来であるアイデンティティを強く押し出している[446]。ロゴは世界的なブランディング会社であるインターブランドのデザインによるもので、「ユヴェントス・ファンズ」というフォントも合わせて開発されている[446][449]。変化の背景には、ユヴェントスが資金力のある欧州のトップクラブとの競争に後れを取り、特に売り上げの中でコマーシャル分野が占める割合が低いことがあった[450]。片野道郎は、シンプルなロゴとフォントを用いてグッズ展開していくことから、「クラブエンブレム」から「ブランドロゴ」へ再定義する狙いがあると分析している[449][451]

ユニフォーム 編集

クラブカラーは白と黒の縦縞[452]。クラブ創設当初はピンクのシャツに黒いパンツ、加えて黒いネクタイを着用していた[453]。当時のユニフォームは色褪せしやすいという問題があり、1903年に共同経営者で選手としてもクラブに所属したイングランド人ジョン・サヴェージはユニフォームの新調を決めた[454]。サヴェージは当初、ノッティンガム・フォレストのような赤いユニフォームにしようとしていたが[454]、代替ユニフォームを頼まれた母国の友人は、色褪せたピンク色のユニフォームを白いユニフォームが汚れたと勘違いしてしまい、更にノッツ・カウンティのファンであったため勝手に黒のストライプを追加してしまった[23]。依頼していたものとは全く違うものが届くこととなったが、開幕直前で代わりのものが用意できずそのまま白と黒のユニフォームを着用した[454]。次第に白と黒は攻撃的な色で優雅なイメージだと考えるようになり、クラブを象徴するユニフォームとなった[23]。2011-12シーズンや2015-16シーズンには、アウェイユニフォームの配色にピンクが使われている[455]

シーズン サプライヤー[456][181] スポンサー[456][181]
1979–1989 Kappa Ariston
1989–1992 UPIM
1992–1995 Danone
1995–1998 Sony
1998–1999 D+Libertà digitale/Tele+
1999–2000 CanalSatellite/D+Libertà digitale/Sony
2000–2001 Lotto Sportal.com/Tele+
2001–2002 Fastweb/Tu Mobile
2002–2003 Fastweb/Tamoil
2003–2004 Nike
2004–2005 Sky Sport/Tamoil
2005–2007 Tamoil
2007–2010 FIAT (New Holland)
2010–2012 BetClic/Balocco
2012–2015 FIAT/ FCA Italy (Jeep)
2015– Adidas[351]

1979年に胸元のスポンサー広告が解禁されてから、ダノンSony[457]といった会社がスポンサーになってきた[458]。2003年からリビアのオイル会社であったTamoil英語版がスポンサーになったが、サプライヤーであるナイキのロゴが入らなかった[458]。政治的な関係からナイキが拒否したといわれるが、2006年にはユヴェントスがセリエBに降格し契約破棄条項があったため、Tamoilはスポンサーから撤退した[458]

2017-18シーズンからは背中側のスポンサーを採用し、日本企業であるCygamesと3年間の契約を締結した[459]。Cygamesの渡邊耕一代表取締役社長はスポンサードの理由について、Cygamesがオフィシャルスポンサーをしていたサガン鳥栖と名前の語呂が近いことと、Cygamesのコーポレートカラーがユヴェントスと同じ白と黒だったことを挙げている[459]。Cygamesより配信されているShadowverseでは、ユヴェントスのロゴがデザインされたコラボエンブレムやスリーブが入手できるキャンペーンが行われた[459][460]

スタジアム 編集

ユヴェントス・スタジアム 編集

総工費は1億500万ユーロ[461]。カルチョ・スキャンダルによる収入の悪化や、EURO2012招致の失敗により一時計画が危ぶまれた[461]。ユベントスは建設費の調達のため、スタジアム完成前の2008年からマーケティング会社の「Sportfive」社と提携し、イタリアのクラブで初めて命名権を売却した[462][463]。12年間で総額7500万ユーロの契約になり、建設額の7割ほどの担保を確保している[461]。しかし、命名権は行使されずユヴェントス・スタジアムのまま使用されていたが[464]、2017年にアリアンツが命名権を取得しアリアンツ・スタジアムの名称を用いている[465]。2020年には契約が2030年まで延長されている[466]

年度 平均観客動員数[467] 占有率
2014-15 38,553人 約92.9%
2015-16 38,662人 約93.1%
2016-17 39,936人 約96.2%
2017-18 39,316人 約94.7%
2018-19 40,082人 約96.6%

オープニングセレモニーは2011年9月8日に行われ、こけら落としとして白と黒のユニフォームの元となったノッツ・カウンティFCとの試合が行われた[464][468]。2010-11シーズンに2万2000人程だった平均入場者数は、新スタジアムで3万6千人まで上昇した[469]。この数字は10節終了時点であるが、前年比で64%増の改善となった[469]。これは一時的なものではなく、2018-19シーズンまで最大収容人数における占有率で90%以上の数字を維持し続けた[467]。また、入場料収入も2010-11シーズンの1160万ユーロから、2013-14シーズンには4100万ユーロまで大幅に改善し、この数字は2010-11シーズンに優勝したACミランのサン・シーロの入場料収入を、半分の収容人数ながら上回っていることになる[470]

スタジアム住所には、交通事故で亡くなったガエターノ・シレアの名前が冠されている[471]。スタジアムには、ミュージアム、公式ショップ、「Area12」というショッピングモールが併設され複合施設となっており[464][472]、なかでもトロフィーや写真が展示されクラブの歴史を知ることができるミュージアムは、2012年の開館から2018年までで112万の来館者が訪れた[473][474]

過去のスタジアム 編集

スタディオ・コムナーレ 編集

 
1930年代のスタディオ・コムナーレ

スタディオ・コムナーレはイタリア語で市営スタジアムという意味で、1934年から1990年までユヴェントスとトリノのホームスタジアムとして使用されていた[475]スタディオ・デッレ・アルピが完成すると、ユヴェントスとトリノの練習場として使われていた[476]。2006年にトリノオリンピックのために改築され、トリノFCのホームスタジアムになる[475]。しかし、2006年からデッレ・アルピの改修のため、ユヴェントスもホームゲームを開催した[475]

スタディオ・デッレ・アルピ 編集

 
1990年W杯でのデッレ・アルピ

1990年のワールドカップ・イタリア大会のために新設されたスタジアムで[477]トリノアルプス山脈の麓にあることから、イタリア語で「アルプスのスタジアム」という意味のデッレ・アルピ (Delle Alpi)と命名された[478]。市街地から離れている、アルプスの北風が吹きつける、陸上トラックがありピッチと客席が遠い等の問題があり、ファンからは「イタリアで最悪のスタジアム」と揶揄されていた[479]。加えて、トリノ市所有のため使用料が高く、ユヴェントスはデッレ・アルピを利用するにあたり、年間85億リラ(約4億7000万円)の使用料をトリノ市に支払っていた[480]。スタジアムは自治体の所有物であるためクラブが自由に改築を行うこともできず、入場料収入も伸び悩み他国のクラブと比べると著しく低い割合となっていた[481][482]。開場まもない1994年から新スタジアムの計画がされており[478]、2003年には市と合意を得たがカルチョポリの影響で計画に支障が出てしまった[478]。2007年には、2012年の欧州選手権開催を目指すイタリアサッカー連盟と建設計画を進める予定だったが、イタリアが開催国から落選[478]。それでも、2008年には建設計画を発表し、2009年に着工した[478]

ライバル 編集

ユヴェントスはイタリア国内で多くのファンを持つクラブである一方、2015年の調査では「嫌いなクラブ」で40%を超える票を集めるほど圧倒的に嫌われているクラブでもある[483]。フィオレンティーナサポーターからは、タイトル争いでの不可解な判定、ロベルト・バッジョの移籍で恨みを買っており[129][484]、ナポリの人々の持つ嫌悪感情の根底には、イタリア経済の南北問題があると神尾光臣は指摘している[485]

トリノFC 編集

 
1976-77シーズンのデルビー・デッラ・モーレ

トリノFCとの対戦は、街の象徴的な建物モーレ・アントネリアーナからデルビー・デッラ・モーレと呼ばれる[486]。フィアットがオーナーで上流階級の学生により創設されたユヴェントスに対し、1906年に方針の違いから離脱し新クラブを設立したトリノFCは地元の労働者階級から支援された[487]。地元ファンの支持層を端的にまとめると、ブルジョア vs プロレタリアートとなる[487]。トリノFC創設の翌年である1907年1月に初対戦が行われており、イタリア国内最古のダービーである[487]。また、ユヴェントス・スタジアム完成以降、イタリア国内で唯一異なるホームスタジアムで行われるダービーとなっている[487]

インテル 編集

 
1973-74シーズンのイタリアダービー

インテルとの対戦はホームタウンが異なるものの、ライバル心や因縁からイタリアダービーデルビー・ディタリアと呼ばれる[488]。この2クラブの対戦がイタリアダービーと呼ばれ始めたのは1960年代の頃で、優勝回数の多い両クラブの対決がスクデットの行方を争う大一番となったためである[489]。1980年代にACミランが優勝回数で追い抜くと、一時期はユヴェントスvsミランの方がイタリアダービーにふさわしいのではないかという声もあった[489]

移籍市場 編集

2023年時点で、ユヴェントスは4度の移籍金最高額の記録を更新しており、ACミランとインテルと並び2番目に回数の多いクラブである[490]。1957年にCAリーベル・プレートからオマール・シボリの獲得で9万3000ポンド、1968年にヴァレーゼからピエトロ・アナスタージの獲得で50万ポンド、1990年にフィオレンティーナからロベルト・バッジョの獲得に800万ポンド、1992年にサンプドリアからジャンルカ・ヴィアッリの獲得に1200万ポンド支払った合わせて4回である[491][492][493][490][注釈 17]

選手の獲得だけでなく、売却でも2度の最高額取り引きに関わっている。2001年に、ジネディーヌ・ジダンレアル・マドリードへ移籍した際に支払われた移籍金は4600万ポンドで、前年に移籍したルイス・フィーゴの移籍金記録を900万ポンドも更新している[497]。ユヴェントスは、ジダンの移籍金を補強資金に充て、同移籍期間にパベル・ネドベドリリアン・テュラムジャンルイジ・ブッフォンを獲得しており[498][499]、特にブッフォンの移籍金3260万ポンドは当時のゴールキーパー最高額で[500]アリソン・ラムセス・ベッカーリヴァプールFCへ移籍するまで17年最高記録であり続けた[501]ラ・スタンパのアントニオ・バリッラ記者は、ユヴェントスの優れた選手獲得のランキングにおいてブッフォンとネドベドの取り引きを1位と3位にそれぞれ挙げている[502]。2016年にマンチェスター・ユナイテッドへ移籍したポール・ポグバには1億500万ユーロが支払われており、元々マンチェスター・ユナイテッドからフリートランスファーで移籍してきたことから、代理人であるミノ・ライオラへの手数料を差し引いても7500万ユーロの利益を得ている[503][504][注釈 18]

一方、ジュゼッペ・マロッタGM時代にはクラブの再建期ということもあり、就任から5年間は1人の移籍金は2000万ユーロまで抑えられ、アンドレア・ピルロ、ポール・ポグバ、フェルナンド・ジョレンテキングスレイ・コマンサミ・ケディラダニエウ・アウヴェスエムレ・ジャンら主力級選手をフリートランスファーで獲得し、健全な財政でチームを強化していった[506][507]

禁断の移籍 編集

フィオレンティーナサポーターから愛されたロベルト・バッジョの移籍が報道されるとサポーターは抗議のため広場に集まり、100人の逮捕者が出る大騒ぎとなった[508][509]。それ以来フィオレンティーナとの取り引きは禁断の移籍とされている[484]。しかしサポーターの拒否反応はありつつも、ユース出身のフェデリコ・ベルナルデスキフェデリコ・キエーザ、得点ランキングトップの活躍だったドゥシャン・ヴラホヴィッチら主力選手の移籍が成立している[510][511][512]

ナポリに所属していたエディンソン・カバーニは、ユヴェントスからの移籍オファーに対し「サポーターを裏切ることになる」と断っており、ドリース・メルテンスはナポリの道化師であるプルチネッラのタトゥーを見せ即座に断ったという[513][514]ゴンサロ・イグアインは契約解除金を支払っての移籍であり、ナポリとの交渉を通していない[513]

協力関係 編集

ミランとは選手獲得で争い合わないという紳士協定を結んでいるとされる[515]グンナー・ノルダールを融通したり、デ・シリオとボヌッチの交渉では協調関係で取引をまとめた[84][516]。当初バッジョはミランへの移籍で合意していたが、横やりを入れたユヴェントスはジャンニ・アニエッリ本人が直接ベルルスコーニと交渉し、出版社のモンダドーリを買収できるよう便宜を図ることで取引を成功させた[517][518]

モッジGM時代には、出身地に近く関係が深かったシエーナイゴール・トゥドールダニエレ・ガスタルデッロがレンタル移籍し、出場機会や安価な選手確保の手段として両クラブにメリットがある傘下クラブのような関係を築いていた[519]。一方、サッスオーロとはシモーネ・ザザドメニコ・ベラルディとの取引で共同保有や優先的な交渉権など協調関係があったが、あくまでビジネスの関係である[519]

フィーゴの二重契約 編集

スポルティングからパルマへの移籍で合意していたルイス・フィーゴだが、ユヴェントスは関係の深かったポルトガル代表パウロ・ソウザの助言により獲得に興味を持つ[520][521]。UEFAカップでポルトガルに遠征した1994年10月18日に接触し、即日条件で合意に達し契約書へのサインに至った[521]。11月にフィーゴから「公証人がいなかったから契約は無効だ」という申し立てがあったものの、1995年1月に移籍市場が開くとユヴェントスは契約書を提出する[521]。パルマは2月1日に契約書を交わし2重契約状態になった問題は、イタリアサッカー連盟が介入し2年間フィーゴはイタリアのクラブと契約できないという痛み分けに決着した[522][523]

育成組織 編集

ユヴェントスの育成組織のU-19カテゴリであるプリマヴェーラは、カンピオナート・プリマヴェーラで4度の優勝[524]、コッパ・イタリア・プリマヴェーラでは4度の優勝[525]スーペルコッパ・プリマヴェーラでは3度の優勝を果たしている[526]

古くはジャンピエロ・ボニペルティロベルト・ベッテガが育成組織出身で、トンマーゾ・ロッキマッティア・カッサーニアントニオ・ノチェリーノドメニコ・クリッシトチーロ・インモービレイタリア代表経験者を輩出してきた[527]。しかし、1970年から80年代のユヴェントスでは、イタリア国内のプロビンチャや海外のクラブから選手を獲得した方がコストや手間がかからず、育成組織は重要視されていなかった[528]。1990年代に入り、ミランやインテル、ローマといったライバルクラブが移籍市場のライバルとなりコストが増したことと、プロビンチャクラブも育成力を強化したことによりそれまでの方針を改めることとなった[528]。1994年からジャン・ピエロ・ガスペリーニが指導を始めるとユースが活性化し、特にクラウディオ・マルキージオセバスティアン・ジョヴィンコパオロ・デ・チェリエらが在籍した2000年代中頃には、カンピオナート・プリマヴェーラでの優勝、スーペルコッパ・プリマヴェーラでの連覇を達成し黄金世代と称された[527][529]

しかしながら、ユース組織に力を入れていたインテルやローマと違いトップチームに昇格する選手が少なく、2010年代から予算を使った若手タレントの青田買いに方針転換していた[527][530]。片野道郎はその理由について、トップチームでは欧州の舞台で戦うための即戦力が求められていたことを挙げている[531]。また、イタリア人の戦術アナリストであるマッシモ・ルッケージは、ユヴェントスの育成部門をイタリアで最も優れていたと評価しているが、2006年に9人の若手選手が昇格したのは、皮肉なことにカルチョポリによって規模が縮小し、トップチームから主力が移籍したためだったと述べている[532]

ユヴェントス・スタジアム周辺開発であるJヴィレッジ構想で本部機能が移転すると、郊外にあるヴィノーヴォのトップチーム練習施設は育成組織専用で使われることになり、イタリアでは初の育成選手のための私立高校が開校されている[304][533]

2014年のワールドカップでイタリア代表の結果が振るわなかったことを契機にセリエAの選手登録の規定が改訂され、4名の下部組織出身者の優遇枠が設定されたこと[534]、19歳までのカテゴリではレンタル以外に選手をサポートできる仕組みがないこと[535]、加えてFIFAが選手のレンタルに規制をかけようとしていることなどから[536]、2018年8月にBチームであるユヴェントス Next Genを発足しセリエCに参入することが発表された[537][注釈 19]。同時に育成組織の見直しを行い、Bチームの対象である19歳から23歳までを育成の最終段階と定義し、育成目標を23歳の時点で欧州5大リーグで通用する選手を輩出することに定め、トップチームとの連続性を意図的に切り離した[531][535]。Bチームが発足した2018年から15年遡ってもトップチームに定着できた選手がマルキージオ、ジョビンコのみという現実を受けとめ、高い結果を求めるのではなく選手売却益をトップチームの強化に充てることを狙いとした[535][注釈 20]。2019年の夏の移籍市場では、若手選手の放出で8000万ユーロの利益を上げている[531]

Bチーム発足から4年経過しU-19の若手選手が自クラブ内で昇格していくと、Bチームで選手獲得にかかった費用が2019-20シーズンの2500万ユーロから2022-23シーズンには0まで削減された[539]。2023年9月8日にはトップチームに昇格したニコロ・ファジョーリファビオ・ミレッティマティアス・スーレ3名同席の記者会見が行われた[539]。片野は3名の昇格について、コロナによる影響でコストカットが求められていた財布事情に合致していたとみているが、一方トップチームに定着する選手が出てきた長期的な取り組みを評価している[539]

サポーター 編集

ホームタウンという概念が確立しているヨーロッパ[540]には珍しく全国的な人気を持つクラブで[12]フィレンツェ以外の大都市には必ずサポータークラブが存在するといわれる[541]。2008年に行われたラ・レプッブリカのアンケートによると、イタリアのサッカーファンの32%の400万人がユヴェントスのファンであるという結果が出た[542]。また、同アンケートによると、国外では欧州で4300万人、全世界では1億7000万ものファンがいることが示された[543]。2022年に行われたStageUpとイプソスの調査では、イタリア国内で800万人のファンがいると推定されている[544]第二次世界大戦後、特に1960年代のイタリアの奇跡と呼ばれた高度経済成長期には、フィアットがあるトリノへイタリア南部から出稼ぎに来た移民が集中した[545]。元々トリノに住んでいた住民はトリノFCを応援していたため移住者はユヴェントスファンになっていく[543]。1970年代のオイルショックで職を失った労働者[546]は、それぞれの地元へ帰っていきファンが全国へ広がっていった[547]。また、1970年代にフランコ・カウジオのような南イタリア出身選手を獲得したことからシチリアプーリアで強い人気があり、1990年代に行われたアバカスの調査によると700万人のサポーターの内、200万人が南イタリア在住という結果が出た[541][548]

 
スタディオ・コムナーレで応援するティフォージ(1973)

イタリアでは、高熱に侵されたように熱狂して応援する様から、サポーターのことをチフス患者から転じてティフォージと呼ぶ[549]。ユヴェントスのティフォージはクラブ名から、ユヴェンティーノ(単数形)[550]や、ユヴェンティーニ(複数形)[551]と呼ばれている。そんなティフォージの中でも、集団で過激な応援をする一団をウルトラスと呼ぶ[549][552]。ユヴェントスでは、ルチアーノ・モッジの傘下にあった「ドゥルーギ」や、モッジ失脚後に勢力を拡大した「バイキング」のようにいくつかグループが結成されていて、派閥争いの激しさはイタリアでもトップクラスである[547]。力を持ったウルトラスにはクラブから供与される無料のチケットの利権があり、横流しで幹部が生活できるほどの巨大な利益になりウルトラス間の抗争の火種となっている[553][554]。ユヴェントスはスタジアムでの安全を第一に考え、ゴール裏チケットの融通でコントロールしようとする苦肉の懐柔策だった[555]。2017-18シーズンには、チケットの提供を断られたグループによってカリドゥ・クリバリへの差別チャントが行われ、スタンド封鎖の処分を受けている[556]

2017年にはゴール裏のビジネスにイタリアマフィアンドランゲタが関与している容疑で、アニエッリ会長ら幹部の捜査が行われた[555]。ユヴェントスは捜査に全面協力し[557]、最大派閥であった「ドゥルーギ」のリーダーが逮捕され50人近いメンバーがスタジアムから出禁になった[558][注釈 21]

エピソード 編集

モットー 編集

ユヴェントスには「最後の最後まで」を意味するFino Alla Fineというモットーがあり、SNSのハッシュタグとして使われている[559]。また、ボニペルティによる「勝利は重要なのではなく、唯一のもの」という言葉は勝利至上主義のユヴェントスを象徴するものとなっている[559][560][561]

応援歌 編集

試合開始前に流れる応援歌は、「Juve, Storia Di Un Grande Amore」という曲名で、パオロ・ベッリ英語版という歌手が歌っている[479]。この曲の採用にはファンが関わっており、TV番組内の投票で3つの候補の中から選ばれた[479]

ヴィッラール・ペローザでの紅白戦 編集

アニェッリ家のルーツの地であり、1980年代までユヴェントスの練習拠点だったヴィッラール・ペローザで、シーズン開幕前の紅白戦が行われるのが伝統行事になっている[562][563][564]。トップチームと対戦するBチームは、ユース所属選手やU23チームから構成される[563]。1955年から開催されており、最初の試合ではBチームが3-2で勝利している[562]。試合後半になると写真撮影やユニフォームをお願いするファンが乱入し、試合が途中で打ち切られるのがお馴染みの光景になっている[565][566]クリスティアーノ・ロナウドのユヴェントス移籍後初得点は、2018年の紅白戦でのゴールで[567]、この試合では4000人程の小さな村に5000人の観客が来場した[568]

キエッリーニはこの紅白戦について、チームだけでなくオーナーやファンが小さな自治体のピッチに集まることで、クラブの団結を感じることができると語っている[563]

イタリア国外での活動 編集

日本 編集

ユヴェントスは1994年にトリノにあるマネジメント会社であるコンパクト[1]と契約し、アジアマーケットに力を入れていく[569]。コンパクト創業者の1人であるマリオ宮川は、後に中田英寿のユベントス短期留学をサポートしている[570]Jリーグ発足直後の日本ではサッカー熱が高まり、国内だけでなく国外へも関心の目が向けられていた[571]。それまでは現地でしか手に入れることが出来なかったテレホンカードやTシャツなどのグッズ開発、ビデオ販売によりユヴェントスの人気が高まり、日本企業のスポンサー獲得につながった[572]スズキもその内の一つで、欧州向けのコマーシャルデル・ピエロを起用し[573]ホームスタジアムに広告を掲載した[572]

東京で開催されたトヨタカップでは2度優勝しており[145][173]アントニオ・コンテはインタビューで日本について訊ねられると、1996年にトヨタカップで優勝したことについて述べている[574]。また、マルチェロ・リッピも2度目の監督就任の記者会見において、「もっとも記憶に残っているタイトルは?」という質問に1996年の世界一の称号を挙げている[187]

2005年にユヴェントスは初めてアジアツアーを企画し、6月1日に日産スタジアム横浜F・マリノスと対戦し1対0で勝利した[575]香港での2戦目を挟み、6月7日には味の素スタジアムFC東京に4-1で勝利した[576]。両試合とも平日にもかかわらず入場観客は3万人を超え、ツアーを好評で終えることとなった[577]トゥットスポルトイタリア語版の記者であるアントニーノ・ミローネは、多くの観客が訪れた様子を報じたニュースに驚きユヴェンティーノとして誇りを感じたと語っている[578]

ユヴェントスは日本代表と試合を行っており、1992年8月に神戸にて行われた試合では1戦目が2-2、2戦目が1-1と2試合続けて引き分けている[579][580]。遠征メンバーにはロベルト・バッジョディノ・バッジョジャンルカ・ヴィアッリアントニオ・コンテイタリア代表の選手に加えて、アンドレアス・メラーデビッド・プラットもいたが、ロベルト・バッジョの「チームの誰一人、日本がこんなに強いと思っていなかった」というコメントにあるように、プレシーズンで観光気分だったと指摘されている[579][580]。翌年2月の日本代表のイタリア遠征においてレッチェで再び試合をしており、こちらは3-1で勝利している[579][581]

2015年5月4日には、ユヴェントスOBと九州出身Jリーガーによる親善試合「九州レジェンズ vs ユヴェントスレジェンズ レジェンドマッチ 2015」が開催された[582][583]。九州レジェンズの監督にはユヴェントスと日本代表の監督経験があるザッケローニが務め、1万5千人の観客が来場した[583]。また、2014年にはベガルタ仙台OBと、2016年には元日本代表経験者も参加した「日伊国交150周年ユヴェントスレジェンドチャリティーマッチ」が開催された[584][585]

2014年には、青山のフィアットカフェにおいて、ユヴェントスとのコラボイベントであるJUVENTUS Loungが世界で初めて開催された[586]。会場には、ユベントスミュージアムでも飾られているビッグイヤーや有名選手のユニフォームが展示され、オープニングイベントにはエドガー・ダーヴィッツアンドレア・アニェッリ会長、駐日イタリア大使のドメニコ・ジョルジらが登壇した[587]。2015年にはJR博多シティの駅構内でも開催され、ダヴィド・トレゼゲが挨拶を行った[588][589]

アメリカ 編集

マイアミ・ドルフィンズを保有するスティーブン・ロスが立ち上げたインターナショナル・チャンピオンズ・カップにユヴェントスは初年度から参加し、2013年、2017年、2018年の3回に渡り北米でツアーを行った[590][591][592]。2022年には「サッカー・チャンピオンズ・ツアー」に参加し、4年ぶりにアメリカ遠征を行いレアル・マドリードFCバルセロナと対戦した[593]。2017年のツアーにはニューヨーク・シティFCへ移籍したアンドレア・ピルロが、2022年にはロサンゼルスFCへ移籍したジョルジョ・キエッリーニが古巣であるユヴェントスのツアーを訪問している[594][595]

中国 編集

ユヴェントスは2012年と2015年に中国で開催されたスーペルコッパ・イタリアーナでタイトルを獲得しており、中国市場を重要視しSNSを通じてマーケティングを行っている[596]。2016年3月には、パートナーシップを結んでいるLuvfansの名を冠した「Luvfansカップ・フォーエヴァーレジェンズ・フレンドリー・マッチ」としてユヴェトスと上海のOB選手による親善試合が行われた[597]

2019年7月24日に行われたインターナショナル・チャンピオンズ・カップでは、中国でイタリア・ダービーが実現しPK戦でインテルに勝利した[598]。8月にはアジア地域の拠点として香港にオフィスが開設され、ビジネス部門の責任者であるジョルジオ・リッチは、アジア地域の視聴者のためにセリエAの試合時間を早めることを提言するなど、アジア地域でのマーケティング戦略が示された[599][600][601]

歴代記録 編集

出場試合数 編集

名前 試合数 期間
1 アレッサンドロ・デル・ピエロ 705 1993-2012
2 ジャンルイジ・ブッフォン 685 2001-2018, 2019-2021
3 ジョルジョ・キエッリーニ (#) 561 2005-2022
4 ガエターノ・シレア 550 1974-1988
5 ジュゼッペ・フリーノ 528 1965-1966, 1969-1984
6 レオナルド・ボヌッチ (#) 502 2010-2017, 2018-2023
7 ロベルト・ベッテガ 482 1966-1969, 1970-1983
8 ディノ・ゾフ 473 1972-1983
9 ジャンピエロ・ボニペルティ 465 1946-1961
10 サンドロ・サルヴァドーレ 453 1962-1974
名前 試合数 期間
11 フランコ・カウジオ 446 1970-1981
12 アントニオ・カブリーニ 440 1976-1989
13 アントネッロ・クックレドゥ 432 1969-1981
14 アントニオ・コンテ 420 1991-2004
15 クラウディオ・ジェンティーレ 411 1973-1984
16 アレッシオ・タッキナルディ 404 1994-2007
17 マリオ・ヴァーリエン 402 1927-1942
18 クラウディオ・マルキジオ 389 2005-2018
19 ジョバンニ・ヴァーリエン 388 1929-1947
20 ジャンフランコ・レオンチーニ 382 1958-1970

得点 編集

名前 期間 合計 国内リーグ 国内カップ 欧州カップ その他
1 アレッサンドロ・デル・ピエロ 1993-2012 290 208 25 50 7
2 ジャンピエロ・ボニペルティ 1946-1961 179 178 1 0 0
3 ロベルト・ベッテガ 1966-1969, 1970-1983 178 129 22 27 0
4 ダヴィド・トレゼゲ 2000-2009 171 138 2 30 1
5 オマール・シヴォリ 1957-1965 167 135 24 8 0
6 フェリス・ボレル 1932-1941, 1942-1946 158 138 9 0 11
7 ピエトロ・アナスタージ 1968-1976 130 78 30 22 0
8 ヨン・ハンセン 1948-1954 124 124 0 0 0
9 ロベルト・バッジョ 1990-1995 115 78 14 22 1
9 パウロ・ディバラ (#) 2015-2022 115 82 11 18 4
11 フェデリコ・ムネラーティ 1922-1933 113 110 0 1 2
12 ジョン・チャールズ 1957-1962 105 93 12 0 0
13 ミシェル・プラティニ 1982-1987 104 68 16 19 1
14 クリスティアーノ・ロナウド (#) 2018-2021 101 81 4 14 2
15 グリエルモ・ガベット 1934-1941 100 84 11 0 5
16 フィリッポ・インザーギ 1997-2001 89 57 2 20 10

(#) は現役選手であることを示す。成績はtransfermarktによる[602][603]

歴代監督 編集

氏名 国籍 期間
イェネー・カロリ   ハンガリー 1923-1926
ヨージェフ・ヴィオーラ 1926-1928
ウィリアム・エイトケン   スコットランド 1928-1930
カルロ・カルカーノ   イタリア 1930-1934
カルロ・ビガット 1934-1935
ヴィルジニオ・ロゼッタ 1935-1939
ウンベルト・カリガリス 1939-1940
フェデリコ・ムネラティ 1940-1941
ジョヴァンニ・フェラーリ 1941-1942
ルイス・モンティ 1942
フェリーチェ・ボレル 1942-1946
レナト・チェザリーニ 1946-1948
ウィリアム・チャーマーズ   スコットランド 1948-1949
ジェス・カーヴァー   イングランド 1949-1951
ルイージ・ベルトリーニ   イタリア 1951
ジョルジョ・サロージ   ハンガリー 1951-1953
アルド・オリヴィエーリ   イタリア 1953-1955
サンドロ・プッポ 1955-1957
リュビサ・ブロチッチ   ユーゴスラビア 1957-1958
カルロ・パローラ   イタリア 1959-1962
パウロ・アマラウ   ブラジル 1962-1963
エラルド・モンゼーリオ   イタリア 1963-1964
エルコーレ・ラビッティ 1964
エリベルト・エレーラ   パラグアイ 1964-1969
氏名 国籍 期間
ルイス・カルニグリア   アルゼンチン 1969
エルコーレ・ラビッティ   イタリア 1969-1970
アルマンド・ピッキ 1970-1971
チェストミール・ヴィツパーレク   チェコ 1971-1974
カルロ・パローラ   イタリア 1974-1976
ジョヴァンニ・トラパットーニ 1976-1986
リノ・マルケージ 1986-1988
ディノ・ゾフ 1988-1990
ルイジ・マイフレディ 1990-1991
ジョヴァンニ・トラパットーニ 1991-1994
マルチェロ・リッピ 1994-1999
カルロ・アンチェロッティ 1999-2001
マルチェロ・リッピ 2001-2004
ファビオ・カペッロ 2004-2006
ディディエ・デシャン   フランス 2006-2007
ジャンカルロ・コッラディーニ   イタリア 2007
クラウディオ・ラニエリ 2007-2009
チロ・フェラーラ 2009-2010
アルベルト・ザッケローニ 2010
ルイジ・デルネーリ 2010-2011
アントニオ・コンテ 2011-2014
マッシミリアーノ・アッレグリ 2014-2019
マウリツィオ・サッリ 2019-2020
アンドレア・ピルロ 2020-2021
マッシミリアーノ・アッレグリ 2021-

情報はtransfermarktによる[604]

歴代所属選手 編集

背番号10番 編集

1960年代のシボリ、80年代のプラティニ、90年代にはバッジョが10番を身に着けていた[605]。1995-96シーズンからセリエAにおいて固定番号制が導入されると、デルピエロが17年背負い続け象徴的な番号になった[605]。その後はカルロス・テベスポール・ポグバパウロ・ディバラらが10番を背負っている[605]。2021年にガゼッタ・デロ・スポルトが実施した「ユベントス歴代最高の“10番”は?」というアンケートでは、半数近いファンがデルピエロを選んでいる[606]

ユヴェントスとバロンドール 編集

ユヴェントスはバロンドール賞において8回、6名の受賞者を輩出している[607]ファビオ・カンナヴァーロは受賞時点でレアル・マドリード所属であったが、自クラブでの活躍としてミュージアムで讃えている[608]

  オマール・シボリ 1961年

  • 1960-61シーズンのリーグで25得点と活躍した[609]

  パオロ・ロッシ 1982年

  ミシェル・プラティニ 1983年、1984年、1985年

  • 1982-83シーズンから3年連続でセリエA得点王に輝く活躍をする[611]

  ロベルト・バッジョ 1993年

  ジネディーヌ・ジダン 1998年

  • リーグ優勝とワールドカップでの活躍により、バロンドールとFIFA最優秀選手賞をダブル受賞した[613]

  パベル・ネドベド 2003年

  • 中盤の選手ながら9ゴールでリーグ優勝とスーパーカップ優勝に貢献した[614]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ロセッタ事件イタリア語版と呼ばれるロセッタ移籍にまつわる係争は、イタリアサッカーで最初のスキャンダルとされ、移籍やプロのルール整備のきっかけとなった[44]
  2. ^ 1924年頃から外国人選手がイタリアサッカー界に参入する流れがあった[45]
  3. ^ 弁護側は、むしろ対象試合でアッレマンディが他の選手より良くプレーしていたと容疑に対し否認している[48]
  4. ^ アムステルダム五輪でウルグアイとアルゼンチンが結果を残したことから、イタリア系外国人選手の登録許可へつながった[50]
  5. ^ イタリア渡航中にセルナジョットは偽の契約書にサインしてしまい、協会は二重契約状態になったセルナジョットに出場停止処分を下した[62]
  6. ^ 1945-46シーズンはトリノに1ポイント差の2位だったが、戦後まもない変則的な開催で8クラブの総当たりで全14試合で行われた[78]
  7. ^ ノルダールは後に10年で225ゴールを挙げ、5度の得点王に輝いた[84]
  8. ^ 勝ち点では5位ローマ、6位ウディネーゼと並んでいるが直接対決の結果等から7位となっている[184][185]
  9. ^ ローマ監督時代にカペッロは公にモッジを批判し、モッジもそれに応戦する形で舌戦を繰り広げていたため、二人が同じクラブで仕事をすることはありえないとみられていた[222]
  10. ^ 2月の時点で引退意向を示していたものの[266]、正式な引退表明はシーズン終了後の8月26日だった[267]
  11. ^ マロッタを引き抜かれたサンプドリアは、チャンピオンズリーグ出場からわずか1年でセリエBに降格した[287]
  12. ^ "開幕"2連勝としているが、第1節が延期されたため、正しくは第2節・3節の連勝である。イタリアサッカー選手協会とクラブ側で、統一労働契約の更新について合意に至ることができなかった[313]。選手会は統一契約書の更新が認められなければストライキをするという声明を出し、2011年8月26日、セリエA・第1節の延期が確定した[313]
  13. ^ 2016年に関与疑惑について無罪判決がされている[331]
  14. ^ 2012年からの6シーズンの内、チャンピオンズリーグの決勝に進出したクラブの中で、ユヴェントスの平均在籍年数は2.39年ともっとも短かった[403]
  15. ^ FFPには、3年間の収支を参照し赤字を出さないようにする「ブレイクイーブン」という基準がある[424]。2017-18シーズンに1922万ユーロ、2018-19シーズンには3989万ユーロまで増加していた赤字だが、2016-17シーズンに4257万ユーロの黒字を計上していたため3年間で基準をクリアしていた[421]。しかし、2017-18シーズンからコロナの影響があった2019-20シーズンまでの3年間では1億4000万ユーロを超える程悪化しており、影響が大きいクラブの救済のためUEFAは基準の一時的な緩和措置を講じている[421][424]
  16. ^ 財務違反処分としてFIGCから勝点10が剥奪された[442]
  17. ^ パオロ・ロッシの移籍金記録は、正確には共同保有の交渉がまとまらず行われたブラインド形式の入札[494]であり、オークション時の価格[495]。175万£の移籍金が支払われた[492][496]
  18. ^ ポグバは2022年に再びフリートランスファーでユヴェントスへ加入している[505]
  19. ^ インテル、ミラン、フィオレンティーナ、アタランタがBチームに興味を示していたものの、セリエCの登録枠がなかなか確定せず、割り当て順位で上位にいたユヴェントスだけの参加となった[538]
  20. ^ 2010年代以降の5大リーグへの排出数ではユヴェントスが13人なのに対し、バルセロナ、マドリー、リヨンでは30人を超え大きな差がある[535]
  21. ^ ユヴェントスに限らずウルトラスがゴール裏を占有し非合法なビジネスをしているのは、人種差別チャントを行う行為含めてイタリア全体の問題である[558]

出典 編集

  1. ^ a b c d e 斉藤 2010 206頁
  2. ^ a b c d 斉藤 2010 209頁
  3. ^ a b c 斉藤 2010 210頁
  4. ^ a b c d "レジェンド物語". juventus.com. 2022年5月29日閲覧
  5. ^ "【コラム】100年以上の歴史を誇るイタリアの古豪、消えた最古のクラブとウディネーゼの伝説". dazn. 2021年12月18日. 2022年8月2日閲覧
  6. ^ "ユベントスが前人未到9連覇!36回目のスクデッド獲得". ゲキサカ. 2020年7月27日. 2022年7月28日閲覧
  7. ^ "ユヴェントスが3季ぶりのコッパ・イタリア制覇!…キエーザ決勝弾でアタランタを撃破". サッカーキング. 2021年5月20日. 2022年7月28日閲覧
  8. ^ "C・ロナウドが決勝弾!…ユヴェントス、PK失敗のナポリ破りスーペルコッパ制覇". サッカーキング. 2021年1月21日. 2022年7月28日閲覧
  9. ^ "ユヴェントスが最後にチャンピオンズリーグを制覇したのはいつ?デル・ピエロ、コンテら豪華布陣". GOAL. 2022年7月5日. 2022年7月28日閲覧
  10. ^ "UEFAヨーロッパリーグ(EL)歴代優勝チーム一覧". GOAL. 2022年5月19日. 2022年7月28日閲覧
  11. ^ "総タイトル獲得数が世界トップのクラブは? ランキング形式で紹介". サッカーキング. 2021年3月15日. 2022年7月28日閲覧
  12. ^ a b Marco Bonetto. "Derby della Mole 1つの街に同居する2つの心". サッカーキング. Vol. 2021年3月号. Translated by 小川光生. フロムワン. pp. 86–89.
  13. ^ "ユベントス、新会長に公認会計士のフェレーロ氏を指名". 超WORLDサッカー. 2023年1月18日. 2023年1月20日閲覧
  14. ^ "Deloitte Football Money League 2022" (PDF). Deloitte. 2022年. 2022年6月18日閲覧(2022年3月に国際監査法人『デロイト』が公表した2021-2022シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)
  15. ^ a b Cerretti 2000 20頁
  16. ^ "「"老貴婦人"のスタイルに合う監督か?」「ジャージ姿の愛煙家」 EL制覇のサッリにユベンティーノからは疑問の声". サッカーダイジェスト. 2019年5月30日. 2022年7月24日閲覧
  17. ^ "「老貴婦人の口説き方」". qoly. 2013年4月6日. 2022年7月24日閲覧
  18. ^ "ユベントスのちょっと面白い話。クラブ愛称が"老貴婦人"の理由とは?". フットボールチャンネル. 2016年6月1日. 2022年7月24日閲覧
  19. ^ "愛らしいものから"問題児"まで…海外クラブのマスコットたちを紹介". サッカーキング. 2019年2月18日. 2022年7月24日閲覧
  20. ^ a b 小川 2008 75頁
  21. ^ "Paulo Sousa silences hunchback taunts by putting Juventus in a straitjacket". The Guardian. 2017年1月16日. 2022年10月3日閲覧
  22. ^ "Perché gli juventini vengono chiamati "gobbi"". il Post. 2014年11月24日. 2022年10月3日閲覧
  23. ^ a b c "ユニフォームの歴史〜ユベントス編(2)〜". 超worldサッカー. 2022年5月29日閲覧
  24. ^ Cerretti 2000 19頁
  25. ^ a b Cerretti 2000 24頁
  26. ^ Cerretti 2000 25頁
  27. ^ a b Cerretti 2000 308頁
  28. ^ a b Cerretti 2000 26頁
  29. ^ a b c d Cerretti 2000 27頁
  30. ^ Cerretti 2000 28頁
  31. ^ Digby 2015 15頁
  32. ^ Cerretti 2000 32頁
  33. ^ Cerretti 2000 33頁
  34. ^ Cerretti 2000 309頁
  35. ^ Cerretti 2000 310頁
  36. ^ Cerretti 2000 311頁
  37. ^ Cerretti 2000 312頁
  38. ^ Cerretti 2000 313頁
  39. ^ a b "コラム:アニェッリ家はユーヴェを救えるか". 2010年5月9日. 2022年8月27日閲覧
  40. ^ a b 片野道郎. "ユーベの支配者 アニエッリ家の思惑とは?". footballista. Vol. 2010年8月4日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 6–7.
  41. ^ Cerretti 2000 314頁
  42. ^ Digby 2015 18頁
  43. ^ a b c Cerretti 2000 55頁
  44. ^ Digby 2015 18-20頁
  45. ^ Cerretti 2000 53頁
  46. ^ a b Cerretti 2000 56頁
  47. ^ Cerretti 2000 57頁
  48. ^ a b Cerretti 2000 58頁
  49. ^ a b Cerretti 2000 62頁
  50. ^ Cerretti 2000 60頁
  51. ^ Cerretti 2000 67頁
  52. ^ 小川光生. "ユーヴェはなぜこんなに強いのか?". ワールドサッカーキング. Vol. 2019年3月号. フロムワン. p. 7.
  53. ^ "リッピは暴君か、賢帝か? アズーリをめぐるイタリア大論争。". Number. 2009年11月14日. 2022年5月29日閲覧
  54. ^ ""オリウンディ"頼み?何をもって自国選手とみなすか 人材難イタリア代表". スポニチ. 2015年9月12日. 2022年8月27日閲覧
  55. ^ a b 西部 2020 27頁
  56. ^ 後藤 2003 163頁
  57. ^ 後藤 2003 164頁
  58. ^ a b c Cerretti 2000 71頁
  59. ^ a b Cerretti 2000 72頁
  60. ^ Cerretti 2000 73頁
  61. ^ Cerretti 2000 74頁
  62. ^ a b c Cerretti 2000 76頁
  63. ^ Cerretti 2000 316頁
  64. ^ Cerretti 2000 77頁
  65. ^ Cerretti 2000 80頁
  66. ^ a b c Cerretti 2000 81頁
  67. ^ Cerretti 2000 87頁
  68. ^ Chris 2002 156頁
  69. ^ Cerretti 2000 318頁
  70. ^ Cerretti 2000 319頁
  71. ^ Cerretti 2000 320頁
  72. ^ 後藤 2000 50頁
  73. ^ Cerretti 2000 93頁
  74. ^ Cerretti 2000 94頁
  75. ^ Cerretti 2000 97頁
  76. ^ Cerretti 2000 99頁
  77. ^ Cerretti 2000 107頁
  78. ^ Cerretti 2000 104頁
  79. ^ Digby 2015 35頁
  80. ^ a b Cerretti 2000 115頁
  81. ^ Cerretti 2000 114頁
  82. ^ "「位置」と「属性」。カルチョの奥深さを表す2つのポジション名". footballista. 2017年11月23日. 2022年11月11日閲覧
  83. ^ Cerretti 2000 116頁
  84. ^ a b c Cerretti 2000 118頁
  85. ^ a b Cerretti 2000 119頁
  86. ^ a b Cerretti 2000 122頁
  87. ^ Cerretti 2000 329頁
  88. ^ Cerretti 2000 330頁
  89. ^ a b c d Cerretti 2000 138頁
  90. ^ Cerretti 2000 331頁
  91. ^ Cerretti 2000 332頁
  92. ^ Cerretti 2000 333頁
  93. ^ a b c Cerretti 2000 140頁
  94. ^ Cerretti 2000 137頁
  95. ^ a b Cerretti 2000 147頁
  96. ^ Cerretti 2000 148頁
  97. ^ a b Cerretti 2000 149頁
  98. ^ Cerretti 2000 168頁
  99. ^ a b c Cerretti 2000 170頁
  100. ^ Cerretti 2000 156頁
  101. ^ a b c d 西部 2020 28頁
  102. ^ Cerretti 2000 185頁
  103. ^ a b Cerretti 2000 186頁
  104. ^ a b Cerretti 2000 188頁
  105. ^ a b Cerretti 2000 189頁
  106. ^ a b Cerretti 2000 190頁
  107. ^ Digby 2015 59-60頁
  108. ^ Cerretti 2000 194頁
  109. ^ a b Cerretti 2000 195頁
  110. ^ Cerretti 2000 196頁
  111. ^ Cerretti 2000 202頁
  112. ^ a b 西部 2020 30頁
  113. ^ a b Cerretti 2000 203頁
  114. ^ a b Cerretti 2000 204頁
  115. ^ Cerretti 2000 206頁
  116. ^ Cerretti 2000 353頁
  117. ^ Digby 2015 66頁
  118. ^ Digby 2015 67頁
  119. ^ Cerretti 2000 207頁
  120. ^ Cerretti 2000 208頁
  121. ^ Cerretti 2000 210頁
  122. ^ Cerretti 2000 355頁
  123. ^ Cerretti 2000 356頁
  124. ^ Cerretti 2000 357頁
  125. ^ Cerretti 2000 358頁
  126. ^ Cerretti 2000 217頁
  127. ^ Cerretti 2000 218頁
  128. ^ Cerretti 2000 219頁
  129. ^ a b ポール・ギバルシュタイン (2008年9月4日). "遺恨――フィオレンティーナとユベントスの場合". sportsnavi. 2022年11月27日閲覧
  130. ^ Cerretti 2000 216頁
  131. ^ a b Cerretti 2000 224頁
  132. ^ a b Digby 2015 74頁
  133. ^ a b Digby 2015 80頁
  134. ^ a b Cerretti 2000 228頁
  135. ^ Cerretti 2000 231頁
  136. ^ Cerretti 2000 232頁
  137. ^ Cerretti 2000 361頁
  138. ^ Digby 2015 81頁
  139. ^ a b c d e "ユヴェントス チャンピオンズリーグ史". ワールドサッカーキング. Vol. 2014年9月号. フロムワン. pp. 28–31.
  140. ^ 片野 2019 59頁
  141. ^ a b Digby 2015 83頁
  142. ^ Cerretti 2000 234頁
  143. ^ Cerretti 2000 235頁
  144. ^ a b Digby 2015 94頁
  145. ^ a b Digby 2015 84頁
  146. ^ "VICTORY IS IN THE DNA". juventus.com. 2023年4月16日閲覧
  147. ^ "名伯楽が整えた伝統のイタリア式戦術。勝ちまくった要因を探る". Sportiva. 2020年7月2日. 2022年12月2日閲覧
  148. ^ Cerretti 2000 238頁
  149. ^ Cerretti 2000 240頁
  150. ^ Cerretti 2000 241頁
  151. ^ Cerretti 2000 248頁
  152. ^ Digby 2015 97頁
  153. ^ Cerretti 2000 255頁
  154. ^ Digby 2015 103頁
  155. ^ Digby 2015 105頁
  156. ^ Cerretti 2000 268頁
  157. ^ Cerretti 2000 367頁
  158. ^ Cerretti 2000 263頁
  159. ^ Cerretti 2000 270頁
  160. ^ Cerretti 2000 274頁
  161. ^ a b c d e 細江克弥. "「ユベントス監督」列伝". サッカー批評. Vol. 87号. 双葉社. pp. 36–41.
  162. ^ Digby 2015 110頁
  163. ^ Digby 2015 111頁
  164. ^ Digby 2015 112頁
  165. ^ Cerretti 2000 277頁
  166. ^ a b Cerretti 2000 278頁
  167. ^ "第7章 さらばユベントス". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2000年1月6日号. 日本スポーツ企画. pp. 52–55.
  168. ^ Cerretti 2000 280頁
  169. ^ Cerretti 2000 283頁
  170. ^ 片野 2019 58頁
  171. ^ 片野 2019 57頁
  172. ^ Digby 2015 117頁
  173. ^ a b Digby 2015 119頁
  174. ^ a b Cerretti 2000 286頁
  175. ^ Cerretti 2000 287頁
  176. ^ Cerretti 2000 290頁
  177. ^ "記憶に残るユベントスの最強攻撃ユニット「4選」". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2018年4月5日号. 日本スポーツ企画. p. 51.
  178. ^ 片野 2019 65頁
  179. ^ 片野 2019 66頁
  180. ^ 片野 2019 73頁
  181. ^ a b c "ユベントスの10年史". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2006年3月2日号. 日本スポーツ企画. pp. 28–29.
  182. ^ a b "ALESSANDRO DEL PIERO 復活宣言". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2000年1月6日号. 日本スポーツ企画. pp. 4–11.
  183. ^ Qoly 2015 151頁
  184. ^ Cerretti 2000 375頁
  185. ^ "NORME ORGANIZZATIVE INTERNE DELLA F.I.G.C. Art. 51.6" (PDF). FIGC. 2023年2月8日閲覧
  186. ^ a b c Paolo FORCOLIN. "JUVENTUS 「栄光との再会」". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2001年7月19日号. Translated by 利根川晶子. 日本スポーツ企画. pp. 32–35.
  187. ^ a b c Paolo FORCOLIN. "名称たちの挑戦". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2001年7月19日号. Translated by 小宮良之. 日本スポーツ企画. p. 59.
  188. ^ Digby 2015 122頁
  189. ^ Qoly 2015 152頁
  190. ^ a b c d 片野道郎. "1999-2000 campionato di SERIE A 激闘の結末". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2000年6月15日号. 日本スポーツ企画. pp. 44–49.
  191. ^ "ビッグ7の通信簿". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2000年1月6日号. 日本スポーツ企画. pp. 34–35.
  192. ^ "JUVENTUS 栄光へのカウントダウン". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2000年4月20日号. 日本スポーツ企画. pp. 48–51.
  193. ^ "2000-2001 SERIE A ユベントス ビッグ7徹底分析". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2000年9月7日号. 日本スポーツ企画. pp. 8–9.
  194. ^ a b Alessandro BOCCI. "2000-2001 セリエA 完全予想". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2000年10月5日号. Translated by Minato TAKAYAMA. 日本スポーツ企画. pp. 6–9.
  195. ^ a b c Paolo FORCOLIN. "北の逆襲 JUVENTUS". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2000年12月21日号. Translated by 利根川晶子. 日本スポーツ企画. pp. 6–9.
  196. ^ "カルチョ通信簿". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2001年1月4日号. 日本スポーツ企画. p. 16.
  197. ^ "カペッロの英断 中田の投入ですべてが変わった". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2001年6月7日号. 日本スポーツ企画. pp. 40–41.
  198. ^ "ユベントスの嘆息 奇跡は起こらず…". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2001年7月5日号. 日本スポーツ企画. p. 6.
  199. ^ 後藤 2000 23頁
  200. ^ カルロ・アンチェロッティ『戦術としての監督』KADOKAWA、2018年、34頁。ISBN 978-4041051627 
  201. ^ a b Carlo ANCELOTTI. "カルロ・アンチェロッティのS級カルチョ講座". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2001年9月6日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. p. 16.
  202. ^ Paolo VIGANO. "2001-2002 狂乱のメルカート". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2001年8月2日号. Translated by Minato TAKAYAMA. 日本スポーツ企画. pp. 4–7.
  203. ^ "2001-2002 SERIE A ビッグ6徹底分析". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2001年8月16日号. 日本スポーツ企画. pp. 16–17.
  204. ^ "新生ユベントスにはジダン離脱の傷跡すら見当たらなかった". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2001年9月20日号. 日本スポーツ企画. pp. 8–9.
  205. ^ a b 内海浩子. "あの「5月5日」はどん底の前半から". footballista. Vol. 2015年1月号. 株式会社ソル・メディア. p. 35.
  206. ^ "2001-02 EUROPEAN LEAGUE ビッグクラブの通信簿". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2002年1月3日号. 日本スポーツ企画. p. 49.
  207. ^ "2001-2002 Canpionato di SERIE A JUVEが来た!!". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2002年2月21日号. 日本スポーツ企画. p. 49.
  208. ^ Carlo ANCELOTTI. "カルロ・アンチェロッティのS級カルチョ講座 第10回 2001-02シーズン セリエA総括". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2002年6月6日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. pp. 54–56.
  209. ^ "2002-2003 Campionato di SERIE A JUVENTUS". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2002年10月3日号. 日本スポーツ企画. p. 34.
  210. ^ "冬の通信簿". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2003年1月2日号. 日本スポーツ企画. p. 10.
  211. ^ "ヨーロッパが変わる「今シーズンのまとめ」&「新シーズンの展望」". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2003年6月5日号. 日本スポーツ企画. pp. 10–11.
  212. ^ a b Simone BOLDINI. "CALCIO 解体新書 チームスピリットの勝利". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2003年6月19日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. pp. 26–29.
  213. ^ Antonio FINCO. "「2002-2003シーズン総評」ヨーロッパ3大リーグの「謎解き」セリエA編". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2003年6月5日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. pp. 28–29.
  214. ^ a b c Jiro YOSHIDA. "2002-2003 CHAMPIONS LEAGUE FINAL JUVENTUS vs AC MILAN イタリアの流儀". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2003年6月5日号. 日本スポーツ企画. pp. 26–29.
  215. ^ 細江克弥 (2019年5月28日). "なぜ、頂上決戦は「最も退屈なファイナル」になったのか?【CL決勝 同国対決の激闘史/セリエA編】". サッカーキング. 2023年3月11日閲覧
  216. ^ "2003-2004 EUROPEAN LEAGUE シーズン展望 JUVENTUS". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2003年8月21日号. 日本スポーツ企画. pp. 10–11.
  217. ^ "前半戦総括「冬の通信簿」". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2004年1月1日号. 日本スポーツ企画. p. 10.
  218. ^ a b 細江克弥. "白と黒、光と闇の20年史". サッカーキング. Vol. 2021年3月号. フロムワン. pp. 64–65.
  219. ^ koly 2004 14頁
  220. ^ Antonio FINCO. "ユベントスをめぐる噂". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2004年2月19日号. 日本スポーツ企画. p. 15.
  221. ^ Antonio FINCO. "THE JUDGE その選択は正しいか?". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2004年6月17日号. 日本スポーツ企画. p. 65.
  222. ^ Digby 2015 139-140頁
  223. ^ "ヨーロッパ109クラブの「開幕フォーメーション」JUVENTUS". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2004年8月19日号. 日本スポーツ企画. p. 9.
  224. ^ a b Antonio FINCO. "「8・31」の舞台裏". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2004年10月7日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. pp. 4–7.
  225. ^ "2004-05 SERIE A CHAMPIONS JUVENTUS". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2005年6月16日号. 日本スポーツ企画. pp. 46–47.
  226. ^ Simone BOLDINI. "CALCIO 解体新書 JUVENTUS 完全無欠の信憑性". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2005年12月1日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. pp. 40–43.
  227. ^ Maurizio CROSETTI. "先行逃げ切りは妥当な策?". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2005年12月1日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. p. 28.
  228. ^ 細江克弥. "白と黒、光と闇の20年史". サッカーキング. Vol. 2021年3月号. フロムワン. pp. 66–67.
  229. ^ a b c d 片野道郎; Antonio FINCO. "緊急レポート JUVENTUS カルチョ・スキャンダルの後始末". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2006年8月3日号. 日本スポーツ企画. pp. 32–35.
  230. ^ a b c "名門解体 セリエB降格でユベントスはどう変わるのか". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2006年8月17日号. 日本スポーツ企画. pp. 56–57.
  231. ^ a b 片野道郎. "名門クラブの「内幕」 SERIE B編 JUVENTUS". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2006年11月2日号. 日本スポーツ企画. pp. 28–29.
  232. ^ 片野道郎. "CALCIO おもてうら 第237回 カルチョポリの呪縛。ユーベの審判批判キャンペーンの背景". footballista. Vol. 2012年3月21日号. 株式会社ソル・メディア. p. 23.
  233. ^ a b 片野 2017 189頁
  234. ^ a b 片野道郎. "Round Up". footballista. Vol. 2006年11月1日号. 株式会社ソル・メディア. p. 14.
  235. ^ a b 片野道郎. "カルチョポリ再燃 暗躍するモッジ". footballista. Vol. 2010年4月21日号. 株式会社ソル・メディア. p. 6.
  236. ^ a b 神尾光臣. "インテルお咎めなしにユーベ激怒 損害賠償求め、民事訴訟へ発展か". footballista. Vol. 2011年7月27日号. 株式会社ソル・メディア. p. 34.
  237. ^ a b 片野道郎. "サッカーの影を歩く 第42回 「カルチョポリの歴史を書き換えたいユベントス」". footballista. Vol. 2011年11月30日号. 株式会社ソル・メディア. p. 39.
  238. ^ 神尾光臣. "モッジに5年4カ月の実刑判決 ユベントスとは新たな遺恨が勃発". footballista. Vol. 2011年11月16日号. 株式会社ソル・メディア. p. 42.
  239. ^ a b 片野道郎. "CALCIO おもてうら 第288回 カルチョポリ裁判に最終判決 : モッジらは「時効による免罪」". footballista. Vol. 2015年5月号. 株式会社ソル・メディア. p. 108.
  240. ^ a b 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第83回 ユベントスFC株式会社の現在と未来". footballista. Vol. 2006年11月1日号. 株式会社ソル・メディア. p. 26.
  241. ^ a b 佐藤貴洋. "ユベントス セリエA昇格プロジェクト①". footballista. Vol. 2006年10月25日号. 株式会社ソル・メディア. p. 19.
  242. ^ 片野道郎. "Round Up". footballista. Vol. 2007年1月24日号. 株式会社ソル・メディア. p. 15.
  243. ^ "<サッカー セリエB>デル・ピエロ ユベントス通算500試合目の出場を果たす - フランス". AFP. 2007年1月21日. 2022年9月2日閲覧
  244. ^ "サッカー=ユベントス、来季からセリエA復帰". reuters. 2007年5月20日. 2022年9月3日閲覧
  245. ^ 内海浩子. "SerieB Giornata39". footballista. Vol. 2007年5月23日号. 株式会社ソル・メディア. p. 21.
  246. ^ 片野道郎. "A以上? 過酷さを増す"飢えた獣"の闘い". footballista. Vol. 2009年4月1日号. 株式会社ソル・メディア. p. 28.
  247. ^ エマヌエーレ・ガンバ. "BとCLの距離感". footballista. Vol. 2007年6月6日号. Translated by 内海浩子. 株式会社ソル・メディア. pp. 4–5.
  248. ^ エマヌエーレ・ガンバ. "終わらない疾走". footballista. Vol. 2007年8月22日号. Translated by 内海浩子. 株式会社ソル・メディア. pp. 4–5.
  249. ^ "40歳を迎えたデル・ピエロ「キャリア最高の瞬間は2006年」。W杯制覇も2部降格も成長の一因に". フットボールチャンネル. 2014年11月9日. 2022年9月6日閲覧
  250. ^ "ユベントス デシャン監督の辞任を発表". AFP. 2007年5月27日. 2022年9月6日閲覧
  251. ^ "ユベントス ラニエリ氏の新監督就任を発表". AFP. 2007年6月5日. 2022年9月7日閲覧
  252. ^ 内海浩子. "新生ユーベ、期待以上の船出". footballista. Vol. 2008年1月9日号. 株式会社ソル・メディア. p. 23.
  253. ^ 片野道郎. "Match Review". footballista. Vol. 2008年4月16日号. 株式会社ソル・メディア. p. 20.
  254. ^ a b c 片野道郎. "Season Review". footballista. Vol. 2008年5月28日号. 株式会社ソル・メディア. p. 18.
  255. ^ 内海浩子. "Match Review". footballista. Vol. 2007年8月29日号. 株式会社ソル・メディア. p. 25.
  256. ^ 内海浩子. "Match Review". footballista. Vol. 2009年3月4日号. 株式会社ソル・メディア. p. 13.
  257. ^ 内海浩子. "Match Review". footballista. Vol. 2008年10月1日号. 株式会社ソル・メディア. p. 18.
  258. ^ 片野道郎. "悩めるユベントスとローマ 出遅れの原因を探る". footballista. Vol. 2008年10月22日号. 株式会社ソル・メディア. p. 18.
  259. ^ 片野道郎. "ITALY SERIE A". footballista. Vol. 2009年1月28日号. 株式会社ソル・メディア. p. 18.
  260. ^ 神尾光臣. "Round up". footballista. Vol. 2009年2月18日号. 株式会社ソル・メディア. p. 22.
  261. ^ "サッカー=ユベントスがラニエリ監督を解任、後任にフェラーラ氏". ロイター. 2009年5月19日. 2022年9月9日閲覧
  262. ^ 神尾光臣. "ユベントス、ラニエーリ監督を解任". footballista. Vol. 2009年5月27日号. 株式会社ソル・メディア. p. 33.
  263. ^ a b "ユベントスの新監督にフェラーラ氏". スポニチ. 2009年6月6日. 2022年9月9日閲覧
  264. ^ 神尾光臣. "Round up". footballista. Vol. 2009年5月27日号. 株式会社ソル・メディア. p. 29.
  265. ^ a b 内海浩子. "Match Review". footballista. Vol. 2009年6月3日号. 株式会社ソル・メディア. p. 21.
  266. ^ "サッカー=ユベントスのネドベド、今季限りで現役引退へ". ロイター. 2009年2月27日. 2022年9月14日閲覧
  267. ^ "ネドベド引退表明、オファー届くも受けず". 日刊スポーツ. 2009年8月27日. 2022年9月14日閲覧
  268. ^ 片野道郎. "ジエゴ=ジダン? 「リッピ時代のユーベ」が復活". footballista. Vol. 2009年9月2日号. 株式会社ソル・メディア. p. 14.
  269. ^ 内海浩子. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2009年9月2日号. 株式会社ソル・メディア. p. 14.
  270. ^ 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2009年9月24日号. 株式会社ソル・メディア. p. 27.
  271. ^ 内海浩子. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2009年9月30日号. 株式会社ソル・メディア. p. 11.
  272. ^ 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2009年10月7日号. 株式会社ソル・メディア. p. 20.
  273. ^ 片野道郎. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2009年10月21日号. 株式会社ソル・メディア. p. 12.
  274. ^ 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2010年1月20日号. 株式会社ソル・メディア. p. 24.
  275. ^ 内海浩子. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2010年1月27日号. 株式会社ソル・メディア. p. 6.
  276. ^ "サッカー=ユベントスがフェラーラ監督解任、新監督にザッケローニ氏". ロイター. 2010年1月30日. 2022年9月15日閲覧
  277. ^ 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2010年2月17日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 18–19.
  278. ^ Taccone 2011 166頁
  279. ^ 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2010年5月19日号. 株式会社ソル・メディア. p. 18.
  280. ^ a b 片野道郎. "次期監督はデル・ネーリ?". footballista. Vol. 2010年5月19日号. 株式会社ソル・メディア. p. 18.
  281. ^ Taccone 2011 170頁
  282. ^ a b 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第190回 混迷するユベントスと「リッピの呪縛」". footballista. Vol. 2010年2月17日号. 株式会社ソル・メディア. p. 20.
  283. ^ 弓削高志 (2010年3月5日). "ユーベの迷走が止まらない。 欧州の名門に何が起きているのか?". Number. 2023年5月21日閲覧
  284. ^ a b ドミニク・アントニョーニ. "第13回 ユーベ不振の元凶は誰だ?". footballista. Vol. 2009年12月16日号. Translated by 片野道郎. 株式会社ソル・メディア. p. 34.
  285. ^ 細江克弥. "白と黒、光と闇の20年史". サッカーキング. Vol. 2021年3月号. フロムワン. p. 74.
  286. ^ a b c d e 片野道郎. "経営陣入れ替えという激震". footballista. Vol. 2010年8月4日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 6–7.
  287. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第217回 サンプドリア、CLからセリエB転落". footballista. Vol. 2011年5月18日号. 株式会社ソル・メディア. p. 18.
  288. ^ a b 片野道郎. "サイドアタック中心の「速攻型」 序盤から波に乗れば、首位戦線に参加も". footballista. Vol. 2010年8月25日号. 株式会社ソル・メディア. p. 8.
  289. ^ 片野道郎. ""雑草集団"が起こしたセンセーション 伝説の「ミラクル・キエーボ」". footballista. Vol. 2016年10月号. 株式会社ソル・メディア. p. 69.
  290. ^ 片野道郎. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2010年9月22日号. 株式会社ソル・メディア. p. 8.
  291. ^ 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2010年12月24日号. 株式会社ソル・メディア. p. 29.
  292. ^ "ユベントス復活の要因". ゲキサカ. 2022年9月17日閲覧
  293. ^ 内海浩子. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2010年12月15日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 18–19.
  294. ^ Emanuele Gamba. "求む救世主! 悩める名門の移籍市場". footballista. Vol. 2011年1月19日号. Translated by 内海浩子. 株式会社ソル・メディア. p. 26.
  295. ^ 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2011年2月9日号. 株式会社ソル・メディア. p. 20.
  296. ^ 内海浩子. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2011年4月27日号. 株式会社ソル・メディア. p. 13.
  297. ^ 片野道郎. "ROUND UP". footballista. Vol. 2011年5月25日号. 株式会社ソル・メディア. p. 26.
  298. ^ 片野道郎. "10-11 欧州カップ戦 予想外はなぜ生まれた?". footballista. Vol. 2011年6月1日号. 株式会社ソル・メディア. p. 21.
  299. ^ "サッカー=ユベントス、デル・ネーリ監督は今季限り". ロイター. 2011年5月22日. 2022年9月18日閲覧
  300. ^ 片野道郎. "そろそろ気になる来季の監督事情". footballista. Vol. 2011年5月25日号. 株式会社ソル・メディア. p. 27.
  301. ^ a b 片野道郎. "10-11 欧州各国リーグ総括". footballista. Vol. 2011年6月8日号. 株式会社ソル・メディア. p. 9.
  302. ^ "ユーベ退団のキエッリーニ、堅守の"BBC"を振り返る「歴史の一部だった」". 超WORLDサッカー. 2022年6月6日. 2022年9月19日閲覧
  303. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら第227回 序盤戦の混戦が象徴するセリエAの「大きなサイクル」". footballista. Vol. 2011年10月26日号. 株式会社ソル・メディア. p. 21.
  304. ^ a b 片野道郎. "CALCIOおもてうら第251回 新たなリーダーへ名乗りを上げたユベントスのアニエッリ会長". footballista. Vol. 2012年11月7日号. 株式会社ソル・メディア. p. 27.
  305. ^ 片野 2017 50頁
  306. ^ 細江克弥. "白と黒、光と闇の20年史". サッカーキング. Vol. 2021年3月号. フロムワン. pp. 76–77.
  307. ^ "サッカー=ユベントス、コンテ氏が新監督就任へ". ロイター. 2011年6月1日. 2022年9月19日閲覧
  308. ^ a b 内海浩子. "新監督たちに、課された使命とは?". footballista. Vol. 2011年8月3日号. 株式会社ソル・メディア. p. 7.
  309. ^ アントニオ・バリッラ. "大嘘だらけの移籍市場を笑え 火のないところに煙を立てる、メディア情報の真実". footballista. Vol. 2011年7月27日号. Translated by 内海浩子. 株式会社ソル・メディア. p. 16.
  310. ^ 内海浩子. "超攻撃的な[4-2-4]で、ユーベは"コンテ色"に". footballista. Vol. 2011年8月17日号. 株式会社ソル・メディア. p. 17.
  311. ^ "サッカー=ピルロ、ACミランからユベントスに移籍". ロイター. 2011年5月25日. 2022年9月20日閲覧
  312. ^ 片野道郎. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2011年9月21日号. 株式会社ソル・メディア. p. 13.
  313. ^ a b 片野道郎. "スペインに続き、イタリアでもスト勃発!". footballista. Vol. 2011年8月31日号. 株式会社ソル・メディア. p. 16.
  314. ^ 片野道郎. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2011年11月30日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 30–31.
  315. ^ a b 片野道郎. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2012年1月25日号. 株式会社ソル・メディア. p. 23.
  316. ^ 片野道郎. "悩めるユーベを復活させたコンテ". footballista. Vol. 2011年12月27日号. 株式会社ソル・メディア. p. 8.
  317. ^ 片野道郎. "「スクデット決定戦」は波乱万丈。ミラン側は不満のドロー". footballista. Vol. 2012年2月29日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 4–5.
  318. ^ 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2012年2月15日号. 株式会社ソル・メディア. p. 17.
  319. ^ a b 片野道郎. "ユーベ、14回目の引き分け。首位ミランの背中が徐々に…". footballista. Vol. 2012年3月14日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 10–11.
  320. ^ 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2012年3月14日号. 株式会社ソル・メディア. p. 13.
  321. ^ 神尾光臣. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2012年3月21日号. 株式会社ソル・メディア. p. 21.
  322. ^ 内海浩子. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2012年4月11日号. 株式会社ソル・メディア. p. 21.
  323. ^ 片野道郎. "ユベントス 優勝への足取り". footballista. Vol. 2012年5月9日号. 株式会社ソル・メディア. p. 7.
  324. ^ a b 内海浩子. "盟主ユーベが帰ってきた! 9シーズンぶり28回目のスクデット". footballista. Vol. 2012年5月9日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 6–7.
  325. ^ 神尾光臣. "ユベントス会長 「デル・ピエーロは今季限り」"フライング退団宣言"の真意とは". footballista. Vol. 2011年10月26日号. 株式会社ソル・メディア. p. 42.
  326. ^ a b 神尾光臣. "ROUND UP". footballista. Vol. 2012年5月16日号. 株式会社ソル・メディア. p. 27.
  327. ^ a b 内海浩子. "無敗だけじゃない! 記録尽くめの一年 "パレッジーテ"は、むしろ伸びシロ". footballista. Vol. 2012年5月30日号. 株式会社ソル・メディア. p. 14.
  328. ^ 内海浩子. "CL参戦へ。今夏の話題は補強一色". footballista. Vol. 2012年7月25日号. 株式会社ソル・メディア. p. 12.
  329. ^ "アントニオ・コンテ セリエA3連覇の軌跡". ワールドサッカーキング. Vol. 2014年9月号. フロムワン. pp. 12–15.
  330. ^ 片野道郎. "賭博・八百長スキャンダル: アントニオ・コンテをめぐる状況". footballista. Vol. 2012年8月29日号. 株式会社ソル・メディア. p. 31.
  331. ^ "コンテ監督無罪に シエナ時代の八百長関与疑惑審理". 日刊スポーツ. 2016年5月16日. 2022年9月20日閲覧
  332. ^ 内海浩子. "好調ユーベをうまく操縦する監督代行カレーラとは何者か?". footballista. Vol. 2012年10月3日号. 株式会社ソル・メディア. p. 37.
  333. ^ 内海浩子. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2012年10月24日号. 株式会社ソル・メディア. p. 26.
  334. ^ "王者ユーベの無敗記録を49で止めたのは宿敵インテル". footballista. Vol. 2012年11月7日号. 株式会社ソル・メディア. p. 19.
  335. ^ "ROUND UP". footballista. Vol. 2012年12月12日号. 株式会社ソル・メディア. p. 26.
  336. ^ "コンテ監督の復帰を喜ぶネドヴェド氏「ユヴェントスに"フォーリクラッセ"が帰ってくる」". SOCCERKING. 2012年12月8日. 2022年9月22日閲覧
  337. ^ "ROUND UP". footballista. Vol. 2012年12月26日号. 株式会社ソル・メディア. p. 32.
  338. ^ 片野道郎. "ユベントス 主力たちの相次ぐ故障". footballista. Vol. 2013年2月6日号. 株式会社ソル・メディア. p. 35.
  339. ^ 内海浩子. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2013年3月6日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 10–11.
  340. ^ 神尾光臣. "ユベントス優勝への足どり". footballista. Vol. 2013年5月8日号. 株式会社ソル・メディア. p. 17.
  341. ^ 内海浩子. "MATCH REVIEW". footballista. Vol. 2013年5月8日号. 株式会社ソル・メディア. p. 16.
  342. ^ "欧州各国リーグ総括。12-13シーズンの喜怒哀楽". footballista. Vol. 2013年6月5日号. 株式会社ソル・メディア. p. 20.
  343. ^ a b 片野道郎. "進化した王者ユーベの[3-5-2]システム". footballista. Vol. 2013年6月5日号. 株式会社ソル・メディア. p. 22.
  344. ^ a b 片野道郎. "なぜイタリアで3バックが急増しているのか?". footballista. Vol. 2012年11月21日号. 株式会社ソル・メディア. p. 5.
  345. ^ 神尾光臣. "「-1」がもたらした恩恵 CBのビルドアップ能力を引き出す". footballista. Vol. 2012年11月21日号. 株式会社ソル・メディア. p. 6.
  346. ^ 片野道郎. "「対策→勝利」の自信か、スタイル定着か". footballista. Vol. 2013年2月13日号. 株式会社ソル・メディア. pp. 20–21.
  347. ^ 神尾光臣. "現実をかみ締め、大型補強を迫る". footballista. Vol. 2013年4月17日号. 株式会社ソル・メディア. p. 16.
  348. ^ a b 片野道郎. "できた! 「前輪駆動型」の[3-3-4]。ホップ、ステップ、ジャンプへ". footballista. Vol. 2013年9月号. 株式会社ソル・メディア. p. 16.
  349. ^ "ユヴェントス加入のジョレンテがトリノに到着、背番号は14に". SOCCERKING. 2013年7月2日. 2022年9月23日閲覧
  350. ^ 片野道郎. "2トップで欧州の頂を狙うなら、戦術的FWが不可欠". footballista. Vol. 2013年11月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 32–33.
  351. ^ a b 内海浩子. "「みそぎ」で失った勝者の心を呼び覚ます". footballista. Vol. 2013年12月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 36–37.
  352. ^ 片野道郎. "ユベントス首位進出の影にジョレンテの台頭あり". footballista. Vol. 2014年1月号. 株式会社ソル・メディア. p. 85.
  353. ^ 片野道郎. "ブラジル大会まで残り半年 中堅国のタレント見本市". footballista. Vol. 2014年1月号. 株式会社ソル・メディア. p. 84.
  354. ^ 神尾光臣. "日本ではつかめない5つの論点". footballista. Vol. 2013年10月号. 株式会社ソル・メディア. p. 82.
  355. ^ 片野道郎. "優勝ペースのローマをさらに上回る規格外ユーベ". footballista. Vol. 2014年5月号. 株式会社ソル・メディア. p. 72.
  356. ^ a b 片野道郎. "13-14 シーズン総括:二極化の進展が著しいシーズン". footballista. Vol. 2014年7・8月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 78–79.
  357. ^ "サッカー=3連覇のユベントス、ホーム全勝キープし優勝祝う". ロイター. 2014年5月6日. 2022年9月24日閲覧
  358. ^ "ユベントス、ホーム全勝&欧州最多勝ち点記録更新!!". ゲキサカ. 2014年5月19日. 2022年9月24日閲覧
  359. ^ a b c グイド・ヴァチャーゴ. "激震 コンテ電撃辞任の真相". ワールドサッカーキング. Vol. 2014年9月号. Translated by 高山港. フロムワン. pp. 8–11.
  360. ^ a b c 片野道郎. "急に開いたユーベの世界 まず踏襲、何より人心掌握". footballista. Vol. 2014年9月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 50–51.
  361. ^ a b "コンテの電撃辞任とアッレグリ就任。ユーベ監督交代劇でセリエが変わる!". Number. 2014年7月24日. 2022年9月24日閲覧
  362. ^ 片野道郎. "コンテなしでも強いユベントス しかし、今後も安泰とは限らない". footballista. Vol. 2015年1月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 28–29.
  363. ^ 片野道郎. "移籍をめぐるノイズ ローマ、ミラノ勢の狂った歯車". footballista. Vol. 2015年3月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 68–69.
  364. ^ "サッカー=ユベントス勝利、セリエ4連覇が決定". ロイター. 2015年5月3日. 2022年9月27日閲覧
  365. ^ 片野道郎. "一つの区切りを迎えたシーズン それぞれの集大成、新時代が始まる". footballista. Vol. 2015年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 64–65.
  366. ^ a b 片野道郎. "複数プランとターンオーバー。欧州を勝ち抜く"模範解答"". footballista. Vol. 2015年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 26–27.
  367. ^ 片野 2019 372頁
  368. ^ 片野 2019 373頁
  369. ^ 片野 2019 374頁
  370. ^ a b 片野道郎. "予想以上の健闘も、足りなかったプラスα 良き敗者として去る". footballista. Vol. 2015年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 12–13.
  371. ^ 片野 2019 379頁
  372. ^ フリオ・フェデーレ. "「みそぎ」で失った勝者の心を呼び覚ます". footballista. Vol. 2015年9月号. Translated by 神尾光臣. 株式会社ソル・メディア. p. 56.
  373. ^ a b 神尾光臣. "大改革の2年目で問われる、本当の信頼関係". footballista. Vol. 2015年9月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 60–61.
  374. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第293回 15-16 夏のカルチョメルカート総括". footballista. Vol. 2015年10月号. 株式会社ソル・メディア. p. 110.
  375. ^ 片野道郎. "最悪のスタート。早くも正念場のアレグリ". footballista. Vol. 2015年10月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 88–89.
  376. ^ "新エース誕生でユーベが完全復活。 テベスを手本に成長を続けるディバラ。". NumberWEB. 2015年12月18日. 2022年9月27日閲覧
  377. ^ a b c "JUVENTUS 7連覇の軌跡". ワールドサッカーキング. Vol. 2019年3月号. フロムワン. pp. 40–43.
  378. ^ a b 片野道郎. "世代交代のデリケートな1年を模範解答でクリア". footballista. Vol. 2016年7月号. 株式会社ソル・メディア. p. 72.
  379. ^ "天王山を制したユーベ ローマ、ミランが来た!". footballista. Vol. 2016年2月号. 株式会社ソル・メディア. p. 92.
  380. ^ 神尾光臣. "38歳で成し遂げた前人未到の大記録". footballista. Vol. 2016年5月号. 株式会社ソル・メディア. p. 85.
  381. ^ 片野道郎. "新旧イタリア式のナポリとインテル 最先端フィオレンティーナの可能性". footballista. Vol. 2016年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 70–71.
  382. ^ 片野道郎. "限界を乗り越えて… 目指すは欧州最強の座". footballista. Vol. 2016年9月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 76–77.
  383. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第304回 セリエA新時代:「バイエルン化」するユベントス". footballista. Vol. 2016年9月号. 株式会社ソル・メディア. p. 110.
  384. ^ レナート・バルディ、ダビデ・ランベルティ. "イグアイン&ピャニッチは、なぜユーベのサッカーにはまらないのか?". footballista. Vol. 2017年1月号. Translated by 片野道郎. 株式会社ソル・メディア. pp. 47–48.
  385. ^ a b c ファビオ・バルチェッローナ. "これが未来のユベントス?". footballista. Vol. 2017年1月号. Translated by 片野道郎. 株式会社ソル・メディア. pp. 40–42.
  386. ^ 弓削高志 (2017年2月9日). ""五つ星の攻撃陣"はCL優勝仕様。守備の権化・ユーベが選んだ道。". Number. 2023年5月21日閲覧
  387. ^ 片野道郎. "欧州各国リーグ戦 総括 セリエA". footballista. Vol. 2017年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 78–79.
  388. ^ 片野道郎. "4-2-3-1導入が転機。冴えるアレグリの柔軟性". footballista. Vol. 2017年7月号. 株式会社ソル・メディア. p. 80.
  389. ^ 片野 2019 426頁
  390. ^ 片野 2019 427頁
  391. ^ a b 木村浩嗣. "可変システム 「15分のみ」の謎。万能ユーベを縛った王者の圧力". footballista. Vol. 2017年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 9–10.
  392. ^ 片野 2019 429頁
  393. ^ 神尾光臣. "強すぎる王者の憂鬱 「変化」を強要されるアレグリ". footballista. Vol. 2017年9月号. 株式会社ソル・メディア. p. 34.
  394. ^ 神尾光臣. "なぜボヌッチが(格下)のミランに!? ユベンティーノを騒がせた移籍の内幕". footballista. Vol. 2017年9月号. 株式会社ソル・メディア. p. 91.
  395. ^ a b 片野道郎. "ユーベの前半戦の不振はなぜ?". footballista. Vol. 2018年2月号. 株式会社ソル・メディア. p. 46.
  396. ^ "17-18前半戦108の謎 SERIE A". footballista. Vol. 2018年2月号. 株式会社ソル・メディア. p. 44.
  397. ^ a b c 片野道郎. "[4-3-3]のプランBの方が強い? アレグリを悩ませ続けた「ディバラ問題」". footballista. Vol. 2018年6月号号. 株式会社ソル・メディア. pp. 76–77.
  398. ^ "サッカー=ユベントスが史上初の7連覇". ロイター. 2018年5月14日. 2022年9月30日閲覧
  399. ^ 弓削高志 (2018年5月16日). "異論承知で言う、MVPはブッフォン!史上初7連覇ユーベのみが持つ強さ。". Number. 2023年5月21日閲覧
  400. ^ "ユーベ、ホームで実に「782日ぶり」の黒星。2年以上の無敗記録に終止符". footballchannel. 2017年10月15日. 2023年5月21日閲覧
  401. ^ 片野道郎. "飽和状態に達したチームをアレグリが異なる方法でリフレッシュ". footballista. Vol. 2015年6月号. 株式会社ソル・メディア. p. 39.
  402. ^ 細江克弥 (2021年2月19日). "【9連覇の軌跡】 マッシミリアーノ・アッレグリ時代編 | 卓越した手腕で築いた"最強"の5年間". soccer-king. 2023年5月21日閲覧
  403. ^ 片野 2019 453頁
  404. ^ 坂本聡. "JUVENTUS 経営力の勝利". サッカーキング. Vol. 2019年3月号. フロムワン. pp. 36–37.
  405. ^ a b c 片野道郎. "もともとが「綱渡り」の経営戦略。給与カット&支払い延期、デリケートな移籍戦略". footballista. Vol. 2020年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 42–43.
  406. ^ a b c d 片野道郎. "CR7とJUVENTUSのブランド戦略". footballista. Vol. 2018年9月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 10–13.
  407. ^ a b ジョバンニ・バッティスタ・オリヴェーロ. "クリスティアーノ・ロナウドを失ったクラブ、獲得したクラブ". ワールドサッカーキング. Vol. 2018年9月号. Translated by 小川光生. フロムワン. pp. 8–13.
  408. ^ Gianluca DI MARZIO. "取材記者が打ち明ける"とっておきの話" ユベントスとミランの「内紛」". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2019年2月7日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. p. 16.
  409. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第343回 サッカークラブからグローバル企業へ。ユベントスFC株式会社のビジョン". footballista. Vol. 2019年12月号. 株式会社ソル・メディア. p. 94.
  410. ^ a b c 片野道郎. "カルチョの王=ローカルモデルの終焉。変質していく「ユベントスという生態系」". footballista. Vol. 2019年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 52–54.
  411. ^ 片野道郎. "ユベントスの「ロナウド効果」とは何なのか?". footballista. Vol. 2019年2月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 64–65.
  412. ^ 片野道郎. "2018-2019シーズン前半戦総括 冬の通信簿 ユベントス". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2019年1月3日号. 日本スポーツ企画. pp. 34–35.
  413. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第337回 ユーベ、ナポリですら不満ばかり…「勝ち組」がいない奇妙なセリエA". footballista. Vol. 2019年6月号. 株式会社ソル・メディア. p. 94.
  414. ^ "サッカー=ユベントスが8連覇達成、ロナルド「とてもうれしい」". ロイター. 2019年4月21日. 2022年9月30日閲覧
  415. ^ 片野道郎. "2018-2019 SEASON in REVIEW ITALY". ワールドサッカーダイジェスト責任編集 2018-2019 EUROPE SOCCER TODAY 完結編. Vol. 2019年6月5日号. 日本スポーツ企画. pp. 124–125.
  416. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第338回 「総力戦」にならなかったセリエA。産みの苦しみを経て「三位一体」が整う?". footballista. Vol. 2019年7月号. 株式会社ソル・メディア. p. 94.
  417. ^ 神尾光臣. "求めるのは「対人」よりも「頭脳」 サッリ流の完全ゾーンディフェンス". footballista. Vol. 2019年11月号. 株式会社ソル・メディア. p. 48.
  418. ^ 片野道郎. "見つからない「ロナウド・システム」 「工事中」の看板を外せないまま終了". footballista. Vol. 2020年9月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 42–43.
  419. ^ 片野道郎. "新監督サッリの仕事をどう評価すべきか?". footballista. Vol. 2020年1・2月合併号. 株式会社ソル・メディア. pp. 50–51.
  420. ^ 片野道郎. "2019-2020 SEASON in REVIEW ITALY". ワールドサッカーダイジェスト責任編集 2019-2020 EUROPE SOCCER TODAY 完結編. Vol. 2020年8月27日号. 日本スポーツ企画. pp. 124–125.
  421. ^ a b c d e 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第349回 「ロナウド・エコノミクス」の中間決算。ピッチ内外の収支は大幅なマイナス". footballista. Vol. 2020年11月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 70–71.
  422. ^ Maurizio CROSETTI; Antonio BARILLA; 片野道郎. "[オンライン鼎談] 現地記者のセリエA「クライマックス」大展望". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2020年7月2日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. pp. 51–55.
  423. ^ Maurizio CROSETTI. "ユベントスが抱える「困難」の裏側". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2020年11月5日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. pp. 76–77.
  424. ^ a b schumpeter (2020年12月3日). "4つのキーワードで読み解くFFPの仕組み". footballista. 2023年5月16日閲覧
  425. ^ a b 片野道郎. "モダンサッカーの最新トレンドてんこ盛り。初陣から明確だった監督ピルロの哲学と課題". footballista. Vol. 2020年11月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 120–121.
  426. ^ a b 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第353回 ロナウド・エコノミクスの失敗。ユーベ1強時代の終焉と過渡期の始まり". footballista. Vol. 2021年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 106–107.
  427. ^ Andrea Pirlo (2020年). "IL CALCIO CHE VORREI" (PDF). figc.it. 2022年10月1日閲覧
  428. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第350回 育成改革から10年の果実。「1-0のカルチョ」の終焉". footballista. Vol. 2021年1月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 72–73.
  429. ^ "SERIE A JUVENTUS". ワールドサッカーダイジェスト責任編集 2020-2021 EUROPE SOCCER TODAY 完結編. Vol. 2021年6月7日号. 日本スポーツ企画. p. 68.
  430. ^ a b 片野道郎. "2020-2021 SEASON in REVIEW ITALY". ワールドサッカーダイジェスト責任編集 2020-2021 EUROPE SOCCER TODAY 完結編. Vol. 2021年6月7日号. 日本スポーツ企画. pp. 124–125.
  431. ^ a b 神尾光臣 (2021年4月27日). カルチョを揺るがした3クラブの“裏切り”。首謀者のユベントス会長は総すかん状態. footballista. 2023年5月18日閲覧
  432. ^ a b 足立真俊. "対談 片野道郎×利重孝夫 欧州スーパーリーグ構想の是非を考える". footballista. Vol. 2021年7月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 118–123.
  433. ^ "HALL OF FAME". legaseriea. 2023年5月17日閲覧
  434. ^ Qoly 2015 149頁
  435. ^ "HALL OF FAME". legaseriea. 2023年5月17日閲覧
  436. ^ "HALL OF FAME". legaseriea. 2023年5月17日閲覧
  437. ^ a b "VICTORY IS IN THE DNA". juventus. 2023年5月17日閲覧
  438. ^ "Juventus". uefa. 2023年5月17日閲覧
  439. ^ koly 2004 10頁
  440. ^ "Juventus". uefa. 2023年5月17日閲覧
  441. ^ "UEFA Super Cup history". uefa. 2023年5月17日閲覧
  442. ^ Caso plusvalenze, dieci punti di penalizzazione per la Juventus da scontare nella corrente stagione sportiva” (イタリア語). FIGC (2023年5月22日). 2023年6月20日閲覧。
  443. ^ "Udinese vs JuventusResults & Stats,21 Aug 2023". goal.com. 2023年8月21日. 2023年8月21日閲覧
  444. ^ "Juve, tutti i numeri di maglia: la scelta di Yildiz, Huijsen e Nicolussi". tuttosport. 2022年8月18日. 2023年8月20日閲覧
  445. ^ a b "ユベントスの新ブランドロゴは、サッカークラブの常識を覆す". footballista. 2017年6月14日. 2022年5月29日閲覧
  446. ^ a b c 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第310回 ユーベの新ロゴ戦略は、エンブレムの常識を変える". footballista. Vol. 2017年3月号. 株式会社ソル・メディア. p. 110.
  447. ^ 奥平志づ江「紋章の比較研究」『研究紀要』第28巻、文教大学女子短期大学部、1984年12月、28-42頁、CRID 1050564287980536320ISSN 0385-53092023年9月26日閲覧 
  448. ^ 斉藤 2009 110頁
  449. ^ a b 片野 2017 135頁
  450. ^ 片野 2017 132頁
  451. ^ 片野 2017 133頁
  452. ^ Ray, Giancarlo 1994 110頁
  453. ^ 斉藤 2010 207頁
  454. ^ a b c 斉藤 2010 208頁
  455. ^ "ユヴェントス、adidasによる2015-16新ユニフォームを発表!". qoly. 2015年7月1日. 2022年6月7日閲覧
  456. ^ a b Qoly 2015 148-149頁
  457. ^ 岡田 真理 (2017年10月14日). "欧州サッカー、知られざる胸スポンサー効果". 東洋経済. 2022年8月4日閲覧
  458. ^ a b c 斉藤 2009 109頁
  459. ^ a b c 伊藤亮. "「白と黒」の哲学に重ね合わせて". サッカー批評. Vol. 87号. 双葉社. pp. 42-45頁.
  460. ^ "Cygames、『Shadowverse』でユヴェントスF.C. スポンサー記念キャンペーンを開催 特別ログインボーナスでコラボエンブレム&スリーブを配布". gamebiz. 2017年8月7日. 2022年7月2日閲覧
  461. ^ a b c 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第140回 新デッレ・アルピに未来を託すユベントス". footballista. Vol. 2008年4月16日号. 株式会社ソル・メディア. p. 36.
  462. ^ "Juventus sells stadium name rights to Sportfive". ロイター. 2008年3月21日. 2022年8月28日閲覧
  463. ^ 小川光生. "ユーヴェはなぜこんなに強いのか?". サッカーキング. Vol. 2019年3月号. フロムワン. p. 9.
  464. ^ a b c 斉藤 2015 58頁
  465. ^ "ユーヴェ、本拠地名称を「アリアンツ・スタジアム」に変更へ…2023年6月末まで". サッカーキング. 2017年6月2日. 2023年5月4日閲覧
  466. ^ "アリアンツと2030年までパートナーシップを延長". juventus.com. 2020年2月12日. 2023年5月4日閲覧
  467. ^ a b "[クラブ格付け企画] 5つ星の総合評価が付くのはどこ?". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2019年5月16日号. 日本スポーツ企画出版社. p. 18.
  468. ^ 内海浩子. "ユーベの勢いを加速させる新スタジアムの好感触". footballista. Vol. 2011年9月21日号. 株式会社ソル・メディア. p. 13.
  469. ^ a b 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第228回 ガラガラのスタジアムと満員のテレビ桟敷". footballista. Vol. 2011年11月9日号. 株式会社ソル・メディア. p. 19.
  470. ^ 山口祐平. "これからのスタジアムを考える". footballista. Vol. 2015年8月号. 株式会社ソル・メディア. p. 103.
  471. ^ 斉藤 2015 54頁
  472. ^ 片野道郎. "スタジアム探訪 第9回 ビアンコネロのお膝元満喫ルート". footballista. Vol. 2014年6月号. 株式会社ソル・メディア. p. 103.
  473. ^ 斉藤 2015 59頁
  474. ^ "ユベントス・ミュージアムへの来場者が急増 昨シーズンより25%増加". デイリー. 2019年1月7日. 2022年8月28日閲覧
  475. ^ a b c 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第82回 何もかもあべこべなトリノ". footballista. Vol. 2006年10月25日号. 株式会社ソル・メディア. p. 26.
  476. ^ 後藤 2000 32-33頁
  477. ^ "サッカー=ユベントス、新スタジアム建設を承認". reuters. 2020年2月12日. 2023年5月4日閲覧
  478. ^ a b c d e 斉藤 2009 111頁
  479. ^ a b c 斉藤 2009 112頁
  480. ^ 後藤 2000 35頁
  481. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第99回 クラブの収益構造にも垣間見えるイタリアの困難". footballista. Vol. 2007年3月14日号. 株式会社ソル・メディア. p. 26.
  482. ^ "Deloitte Football Money League 2007" (PDF). Deloitte. 2007年. 2022年9月3日閲覧(2007年2月に国際監査法人『デロイト』が公表した2005-2006シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)
  483. ^ "嫌よ嫌よも好きのうち ユベントスがイタリアで最も愛され、嫌われるクラブに". football-zone. 2015年9月26日. 2023年7月12日閲覧
  484. ^ a b アントニオ・バリッラ. "早々にテベス、ジョレンテ決定! あとは強引な根拠で"ゴリ押し"". footballista. Vol. 2013年9月号. Translated by 内海浩子. 株式会社ソル・メディア. p. 82.
  485. ^ "イグアイン、ユーベ移籍はなぜ「禁断」か? 150年に及ぶ南北問題、トリノに軽蔑され続けたナポリの歴史". footballchannel. 2016年8月4日. 2023年5月21日閲覧
  486. ^ 内海浩子. "過去の成績は五分。トリノの街を二分する伝統のダービー". footballista. Vol. 2007年10月3日号. 株式会社ソル・メディア. p. 13.
  487. ^ a b c d 内海浩子. "ダービーは生きている トリノダービー". footballista. Vol. 2015年5月号. 株式会社ソル・メディア. p. 18.
  488. ^ 小川光生. ""デルビー"とは勝つためのものだ". サッカーキング. Vol. 2020年4-5月合併号. フロムワン. p. 35.
  489. ^ a b 片野道郎. "イタリアダービーの今". footballista. Vol. 2007年11月7日号. 株式会社ソル・メディア. p. 11.
  490. ^ a b "「移籍金"世界最高額"更新クラブ」TOP5を発表 名門と肩を並べた意外なクラブとは?". FOOTBALL ZONE. 2019年1月30日. 2022年8月29日閲覧
  491. ^ "さすがの面々…! ユベントスで背番号10を背負った12人の選手。デル・ピエロ、バッジョ…受け継がれるレジェンドの系譜". footballchannel. 2020年2月27日. 2022年8月29日閲覧
  492. ^ a b "1940s to 2010s: Evolution of record transfer fees in every decade". sportskeeda. 2019年4月21日. 2022年8月29日閲覧
  493. ^ "ロベルト・バッジョ―「偉大なるポニーテール」". AFP. 2018年6月11日. 2022年8月30日閲覧
  494. ^ "共同保有". 超WORLDサッカー. 2022年8月29日閲覧
  495. ^ "Italy's co-ownership of players antiquated but purposeful". ESPN. 2014年5月31日. 2022年8月29日閲覧
  496. ^ "Football transfer records broken by teams outside the top division". theguardian. 2016年8月3日. 2022年8月30日閲覧
  497. ^ "移籍金の「史上最高額」を更新した5人のサッカー選手". qoly. 2016年8月10日. 2022年8月30日閲覧
  498. ^ "「移籍金レコード更新」の歴史は? シアラー、ロナウド、ジダン、C・ロナウド、ベイル、そしてポグバ――". サッカーダイジェストWeb. 2016年8月17日. 2022年8月30日閲覧
  499. ^ 片野道郎. "ポグバ売却を後押しする、ジダンの成功例". footballista. Vol. 2015年4月号. 株式会社ソル・メディア. p. 37.
  500. ^ "GK移籍金ランキングTOP10! ブッフォン超えは当たり前、世界で"GK祭り"止まらない". theworld. 2018年8月10日. 2022年8月30日閲覧
  501. ^ "移籍金はGK史上最高ブッフォン超え…リバプールがブラジル正守護神を獲得へ". ゲキサカ. 2018年7月19日. 2022年8月30日閲覧
  502. ^ アントニオ・バリッラ. "クラブ別「歴代補強ランキング」ベスト5&ワースト". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2022年3月17日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. p. 82.
  503. ^ "ポグバがマンU復帰で歴代移籍金ランクトップに…ユーヴェが約119億円と発表". SOCCERKING. 2016年8月9日. 2023年5月19日閲覧
  504. ^ 片野 2017 172頁
  505. ^ "ポグバ、7季ぶりのユーヴェ復帰が決定! マンUから"2度目"のフリー移籍…4年契約". SOCCERKING. 2022年7月11日. 2023年5月19日閲覧
  506. ^ 片野道郎. "CALCIO おもてうら 第330回 敏腕マロッタGDを切った裏事情。アニエッリ会長の「脱イタリア計画」". footballista. Vol. 2018年11月号. 株式会社ソル・メディア. p. 94.
  507. ^ "チャルハノールも仲間入り…"ゼロ円移籍の達人"マロッタ氏が獲得した大物10選手". SOCCERKING. 2021年6月23日. 2023年5月19日閲覧
  508. ^ ディ・マルツィオ 2021 116頁
  509. ^ ディ・マルツィオ 2021 119頁
  510. ^ "ベルナルデスキがユーベ移籍内定!「栄光の10番」を継承か?". サッカーダイジェストWEB. 2017年7月22日. 2023年5月5日閲覧
  511. ^ "「恥を知れ」「道化師め」ユベントスへ"禁断の移籍"をしたキエーザに、フィオレンティーナのファンが激怒!". サッカーダイジェストWEB. 2020年10月6日. 2023年5月5日閲覧
  512. ^ "冬のビッグディール。ユベントス、フィオレンティーナから現セリエA得点王を獲得". footballista. 2022年1月29日. 2023年5月5日閲覧
  513. ^ a b ディ・マルツィオ 2021 77頁
  514. ^ ディ・マルツィオ 2021 78頁
  515. ^ Antonio FINCO. "ヨーロッパ66クラブの「強化プラン」 ユベントス". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2005年2月3日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. p. 28.
  516. ^ "ボヌッチ電撃移籍の舞台裏。「最初は代理人に馬鹿にされていると…」". サッカーダイジェストWEB. 2017年7月23日. 2023年5月2日閲覧
  517. ^ ディ・マルツィオ 2021 117頁
  518. ^ ディ・マルツィオ 2021 118頁
  519. ^ a b 神尾光臣. "COLUMN #3 ユベントスとサッスオーロの不思議な関係". footballista. Vol. 2016年2月号. 株式会社ソル・メディア. p. 23.
  520. ^ ディ・マルツィオ 2021 23頁
  521. ^ a b c ディ・マルツィオ 2021 24頁
  522. ^ ディ・マルツィオ 2021 25頁
  523. ^ ディ・マルツィオ 2021 26頁
  524. ^ "COMPETIZIONE PRIMAVERA 1 TIM ALBO D'ORO". legaseriea. 2022年1月10日閲覧
  525. ^ "COMPETIZIONE PRIMAVERA TIM CUP ALBO D'ORO". legaseriea. 2022年1月10日閲覧
  526. ^ "COMPETIZIONE SUPERCOPPA PRIMAVERA TIM ALBO D'ORO". legaseriea. 2022年1月10日閲覧
  527. ^ a b c "[総力特集] 強豪クラブの育成哲学]". ワールドサッカーキング. Vol. 2012年1月19日号. フロムワン. p. 56.
  528. ^ a b マッシモ・ルッケージ. "タレント発掘・淘汰のメカニズム". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2005年3月3日号. Translated by 片野道郎. 日本スポーツ企画. pp. 54–55.
  529. ^ "カルチョ大好き"3人衆"がセリエA全20クラブに言いたい放題!(1)". サッカーキング. 2020年6月17日. 2022年12月30日閲覧
  530. ^ 片野道郎. ""育成大国"の最新クラブユース事情". footballista. Vol. 2011年4月27日号. 株式会社ソル・メディア. p. 27.
  531. ^ a b c 片野道郎. "【変化するメガクラブの戦略】ユベントス 育成とトップチームを切り離す、という結論". footballista. Vol. 2019年10月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 20–21.
  532. ^ "「育成部門のお国事情」 ITALY]". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2006年12月7日号. 日本スポーツ企画. p. 53.
  533. ^ "JTCヴィノーヴォ". 2023年7月13日閲覧
  534. ^ 神尾光臣. "イタリアで始まった「超・育成改革」". サッカー批評 ユベントス 「ユーベメソッド」世界最強の教科書. Vol. 2017年87号. 双葉社. p. 76.
  535. ^ a b c d 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第334回 ユベントスのアカデミー改革。「育てる」ではなく「売る」時代". footballista. Vol. 2019年3月号. 株式会社ソル・メディア. p. 94.
  536. ^ 片野道郎. "「未来のスタンダード」を育てて売る ユーベで機能する新たなアカデミーの形". footballista. Vol. 2021年1月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 18–21.
  537. ^ "ユヴェントスU23チームが発足". 2018年8月3日. 2023年4月25日閲覧
  538. ^ 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第331回 若手に出番を!カルチョ復活の福音?ようやく実現したBチーム制度の現状". footballista. Vol. 2018年12月号. 株式会社ソル・メディア. p. 94.
  539. ^ a b c 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第361回 ユベントスの育成戦略は変わったのか? 「内部昇格3人」記者会見の意図を読む". footballista. Vol. 2022年11月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 124–125.
  540. ^ 井上典之. "連載 スポーツ法とEU法 第11回 EU市民法とプロ・サッカー". 有斐閣. 2022年8月4日閲覧
  541. ^ a b Ray, Giancarlo 1994 116頁
  542. ^ 斉藤 2009 106頁
  543. ^ a b 批評 2009 110頁
  544. ^ "セリエAで人気のインテルとミラン、イタリアや全世界でファンの数が多いのは?ミラノ市内では驚きの結果も". dazn. 2023年6月10日. 2023年7月12日閲覧
  545. ^ 斉藤 2009 107頁
  546. ^ 堺憲一「「危機の時代」におけるイタリア経済と構造再編」『東京経大学会誌(経済学)』第255巻、東京経済大学経済学会、2007年10月、15-20頁、CRID 1050845762417433856hdl:11150/635ISSN 1348-64032023年9月26日閲覧 
  547. ^ a b 批評 2009 111頁
  548. ^ Ray, Giancarlo 1994 104頁
  549. ^ a b 批評 2009 94頁
  550. ^ "ユベントス・サポーターの「観戦会」に潜入!「ピャニッチに譲れ(笑)」この日一番の声援を受けたのは…". thedigestweb. 2020年1月3日. 2022年9月12日閲覧
  551. ^ "ユヴェンティーニ日本地図が完成!". juventus.com. 2019年12月26日. 2022年9月12日閲覧
  552. ^ 片野 2017 201頁
  553. ^ 批評 2009 112頁
  554. ^ 片野 2017 203頁
  555. ^ a b 片野道郎 (2017年9月27日). "ユベントス会長が活動禁止処分?伊ゴール裏ビジネスの実態". footballista. 2023年4月1日閲覧
  556. ^ 弓削高志 (2019年10月2日). "脅迫、暴行、報復上等の半グレ集団。ウルトラスの実態を潜入記者が語る。". Number. 2023年5月21日閲覧
  557. ^ "クラブ声明". juventus.com. 2017年1月26日. 2023年4月1日閲覧
  558. ^ a b 片野道郎. "CALCIOおもてうら 第342回 ルカクへの人種差別問題があぶり出す伊ウルトラスの歪んだ価値観". footballista. Vol. 2019年11月号. 株式会社ソル・メディア. p. 94.
  559. ^ a b 片野道郎. "サッカー界では最先端のブランド戦略。その一方で「ユーベ・スタイルはない」". footballista. Vol. 2019年3月号. 株式会社ソル・メディア. pp. 46–47.
  560. ^ Digby 2015 13頁
  561. ^ "Morto Giampiero Boniperti, sua la frase : Vincere è l'unica cosa che conta". ilmattino. 2021年6月18日. 2023年5月16日閲覧
  562. ^ a b "ヴィッラール・ペローザのすべて". juventus.com. 2018年8月11日. 2022年7月5日閲覧
  563. ^ a b c 細江克弥. ""JVUE"とは何なのか。". ワールドサッカーキング. Vol. 2019年3月号. フロムワン. pp. 44–45.
  564. ^ Digby 2015 27頁
  565. ^ "C・ロナウドが大人な対応 乱入者との"頬寄せショット"に英紙驚愕「喜んでポーズ」". フットボールゾーン. 2018年8月13日. 2022年7月5日閲覧
  566. ^ "ディバラが移籍報道払いのける2得点、恒例の一戦は51分で打ち切りに". AFP. 2019年8月15日. 2022年7月5日閲覧
  567. ^ "「素晴らしい結婚だ」C・ロナウドの"初戦"ゴールにユーベ親会社も歓喜! アッレグリは欧州制覇に意欲". サッカーダイジェスト. 2018年8月13日. 2022年7月5日閲覧
  568. ^ "村の人口を超える観衆殺到! イタリア席巻の"C・ロナウド狂騒曲"に英メディアも注目". フットボールゾーン. 2018年8月15日. 2022年7月5日閲覧
  569. ^ マリオ 2012 114頁
  570. ^ マリオ 2012 194頁
  571. ^ マリオ 2012 116頁
  572. ^ a b マリオ 2012 117頁
  573. ^ "SUZUKI". 2022年8月27日閲覧
  574. ^ エマヌエーレ・ガンバ「目標実現への揺るぎない歩み」『footballista』 2011年8月31日号、株式会社ソル・メディア、18-19頁。 
  575. ^ “ユベントスが横浜M下す サッカー国際親善試合”. (2005年6月2日). http://j.people.com.cn/2005/06/02/jp20050602_50572.html 2022年8月26日閲覧。 
  576. ^ “試合結果”. https://www.fctokyo.co.jp/game/1079 2022年8月26日閲覧。 
  577. ^ マリオ 2012 126頁
  578. ^ アントニーノ・ミローネ. "ユヴェントスを愛するということ". サッカーキング. Vol. 2021年3月号. Translated by 小川光生. フロムワン. pp. 8–11.
  579. ^ a b c 加部究『日本サッカー戦記』カンゼン、2018年、227頁。ISBN 978-4862554345 
  580. ^ a b 戸塚啓『青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992~2007』ソニー・マガジンズ、2007年、20頁。ISBN 978-4789732178 
  581. ^ 戸塚啓『青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992~2007』ソニー・マガジンズ、2007年、39頁。ISBN 978-4789732178 
  582. ^ "ザッケローニ氏が九州レジェンズの監督に就任…ユヴェントスレジェンズと対戦". soccer-king. 2015年4月16日. 2023年5月21日閲覧
  583. ^ a b "レジェンドマッチに1万5千人が熱狂…トレゼゲ氏がハットトリックで会場沸かす". soccer-king. 2015年5月4日. 2023年5月21日閲覧
  584. ^ "ユーヴェOBが仙台OBに勝利、決勝弾の矢野前日本代表通訳「ザックの言っていた形」". soccer-king. 2014年8月17日. 2023年5月21日閲覧
  585. ^ 田丸英生 (2016年11月5日). "ユーヴェOBが群馬で魅せた! トレゼゲ、スキラッチがゴールもジャパンレジェンズが計9点の打ち合い制す". soccer-king. 2023年5月21日閲覧
  586. ^ 樺田卓也 (2014年3月10日). "世界初!「ユベントス」のオフィシャルカフェが期間限定でオープン". MOTA. 2023年5月21日閲覧
  587. ^ Shota Kato (2014年3月12日). "世界初、<ユベントス ラウンジ>がフィアットカフェに期間限定オープン!". jeepstyle. 2023年5月21日閲覧
  588. ^ "博多駅に「ユヴェントスラウンジ」-「ユヴェントスFC」グッズやトロフィー展示". 博多経済新聞. 2015年1月28日. 2023年5月21日閲覧
  589. ^ "ユーヴェイベントに出席のトレゼゲ氏が現役復帰に意欲?「早く九州でプレーがしたい」". soccer-king. 2015年1月31日. 2023年5月21日閲覧
  590. ^ 片野 2017 60-61頁
  591. ^ "ユーヴェ、夏のアメリカツアー". juventus.com. 2017年3月22日. 2023年7月13日閲覧
  592. ^ "レアルがユーベ下す、途中出場アセンシオが2得点 ICC". afp. 2018年8月15日. 2023年7月13日閲覧
  593. ^ "ユベントスがアメリカ開催の「サッカー・チャンピオンズ・ツアー」参戦を発表!R・マドリー、バルセロナと対戦". サッカーダイジェストweb. 2022年6月11日. 2023年7月13日閲覧
  594. ^ "Andrea Pirlo meets up with his old Juventus team-mates as mercurial midfielder hangs out with Gianluigi Buffon and Co in New York". dailymail. 2017年7月21日. 2023年7月17日閲覧
  595. ^ "Juventus, Chiellini fa visita a sorpresa alla squadra in ritiro negli USA". dailymail. 2022年7月24日. 2023年7月17日閲覧
  596. ^ "ユベントス、中国デジタル・ファン・コミュニティ". juventus.com. 2016年3月14日. 2023年7月13日閲覧
  597. ^ "ユベントス・レジェンズ、上海を締めくくります". juventus.com. 2016年3月25日. 2023年7月13日閲覧
  598. ^ "CR7の2戦連発にPK戦でブッフォンが圧巻の3セーブ! ユーベがインテルとのイタリア・ダービー制す!《ICC》". 超WORLDサッカー. 2019年7月24日. 2023年7月13日閲覧
  599. ^ "ユベントス、中国市場を見据えキックオフ時間前倒しをリーグに要求". 超WORLDサッカー. 2019年8月22日. 2023年7月13日閲覧
  600. ^ "ユヴェントス香港オフィスを開設". juventus.com. 2019年8月21日. 2023年7月13日閲覧
  601. ^ "香港部門". juventus.com. 2023年7月13日閲覧
  602. ^ "選手記録". 2023年5月17日閲覧
  603. ^ "通算得点ランキング". 2023年5月17日閲覧
  604. ^ "現および元スタッフ ユヴェントスFC". 2023年5月21日閲覧
  605. ^ a b c "メガクラブ「10番の系譜」JUVENTUS". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2020年6月4日号. 日本スポーツ企画. p. 29.
  606. ^ "「ユベントス歴代最高の"10番"は?」伊紙のアンケートで断トツだった名手は…". soccerdigestweb. 2021年11月4日. 2023年5月18日閲覧
  607. ^ "バロンドール受賞者を最も輩出しているクラブはどこ 全"19クラブ"の頂点は". theWORLD. 2019年12月5日. 2022年8月29日閲覧
  608. ^ "シェフチェンコは本物、フリットはレプリカ、ジダンはなし…ビッグクラブのミュージアムに見る《バロンドールの価値》とは?". Number web. 2021年11月11日. 2023年3月15日閲覧
  609. ^ "43本目にしてようやく…C・ロナウドがユヴェントスでの初FK弾を決める". soccer-king. 2020年7月5日. 2023年3月14日閲覧
  610. ^ 神尾光臣 (2020年12月14日). "イタリア国民に最も愛された選手パオロ・ロッシ、64年の生涯を閉じる". footballista. 2023年3月14日閲覧
  611. ^ Richard 2007 160頁
  612. ^ Richard 2007 256-257頁
  613. ^ Richard 2007 315-316頁
  614. ^ Palo FORCOLIN. "2003 BALLON D'OR Pavel NEDVED 努力の結晶". ワールドサッカーダイジェスト. Vol. 2004年2月5日号. Translated by 利根川晶子. 日本スポーツ企画. pp. 56–58.

参考文献 編集

和書 編集

洋書 編集

  • Adam Digby (2015). Juventus: A History in Black and White. Ockley Books Ltd. ISBN 978-0957141087 (Kindle版 2022年9月16日ダウンロード)

雑誌記事 編集

外部リンク 編集

公式