ルイス・ペレス=サラ
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はペレス=サラ、第二姓(母方の姓)はヴァルズ=タベルネルです。 |
ルイス・ペレス=サラ・ヴァルズ=タベルネル(Luis Pérez-Sala Valls-Taberner, 1959年5月15日 - )は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ出身の元レーシングドライバーである。HRT F1のチーム代表。
ルイス・ペレス=サラ | |
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基本情報 | |
フルネーム | ルイス・ペレス=サラ・ヴァルズ=タベルネル |
国籍 |
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出身地 | 同・カタルーニャ州バルセロナ |
生年月日 | 1959年5月15日(63歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1988-1989 |
所属チーム | '88-'89 ミナルディ |
出走回数 | 32 (26スタート) |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 1 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1988年ブラジルGP |
最終戦 | 1989年オーストラリアGP |
日本では「サラ」と呼称される場合が多いが、「ペレス=サラ」が正しい苗字である。
経歴編集
初期の経歴編集
1983年よりアルファサッドスプリントカップに参戦。1984年よりイタリアF3に参戦した。その後、1986年に国際F3000に移り、1987年にはイギリスのバーミンガムとイタリアのエンナで優勝を遂げるなどし、ステファノ・モデナとタイトル争いを演じ、シリーズを2位で終えた。
F1ドライバーとして編集
前年のモデナとのタイトル争いが評価され、1988年のF1世界選手権よりペレス=サラはF1にステップアップすることに成功し、ミナルディからデビューを果たした。チームメイトは、前年から所属していた同じくスペイン人のエイドリアン・カンポス。同チームにとっては初めてイタリア人以外の「外国人」コンビで臨んだシーズンとなった。 ペレス=サラはすぐにチームメイトをしのぐようになり、結果的に第5戦まででカンポスに予選、決勝とも全勝し、予選落ちを繰り返したカンポスは第5戦で解雇され、第6戦からは1985年にもミナルディでフル参戦ピエルルイジ・マルティニとコンビを組むことになった。最高完走位8位。ペレス=サラはカンポスには完勝したものの、マルティニは移籍初戦のアメリカGPからいきなり6位入賞を果たすなど、チームメイトに対して大きく遅れをとった。尚、この年のミナルディの予選落ちはペレス=サラ、マルティニ共に2回ずつの予選落ちを喫している。(※:余段ではあるが、カンポスは5戦中3戦の予選落ちであった。)
1989年もミナルディに残留し、引き続きマルティニとコンビを組んだ。第8戦イギリスGPでは6位入賞を果たす[1]。これがペレス=サラ自身のF1キャリアの中で最初で最後のポイント獲得となった。この年もマルティニに対して大きく出遅れた感は否めなく、マルティニはパオロ・バリッラにシートを1戦だけ譲った日本GP以外全て予選通過し、5位2回、6位1回の計3回の入賞を果たしているのに対し、ペレス=サラは前述の通り6位入賞1回のみに留まり、予選落ちも4回喫しており事実上の完敗であった事は否めなかった。
ペレス=サラは1988年と1989年の全32戦にエントリーし、計6回の予選落ちを記録している(1988年2回、1989年4回)。決勝への出走回数は26戦を数えるにとどまり、最後のレースとなった1989年オーストラリアGPで予選落ちを喫したため、最後に決勝に出走したレースはその前戦である日本GPとなる。
ツーリングカー編集
その後、ペレス=サラはスペイン国内のツーリングカー選手権に参戦した。同カテゴリーにて1991年には、アルファロメオ・75を駆り、シリーズチャンピオンを獲得した。1993年にも日産・スカイラインGTーRで自身2度目のチャンピオンを獲得[2]。その後も1996年まで参戦し、チーム・メイトで同じく元F1ドライバーのエリック・ヴァン・デ・ポールと共に日産・プリメーラで参戦[3]。1996年もシリーズ3位となる。2003年にはバルセロナカップ24時間レースで優勝を果たした。レーシングドライバーとしては2008年に引退。それまでに計46回の勝利を収めている。
その他の活動編集
F1から退いた後、上記のツーリングカー選手として活動する傍らにペレス=サラはスペイン国内のテレビ局でレース実況・解説や、エル・パイスをはじめとする新聞にコラムを寄稿する等、様々なメディアで解説者やコメンテーターとして活動した。又、新人発掘にも特化しており、上記の経験から自動車競技のトレーニングコーチや講師としても活躍し、現在ペレス=サラの甥であるダニエル・ジュンカデラ(フンカデージャ)もF3ユーロシリーズやGP3などで活躍している。
再度F1へ編集
エピソード編集
- F1時代、自分のレースカーに乗り込む前にエアーサロンパスをシートにたっぷり吹き付けてから乗るという変わった習慣をもっていた。
- HRTのアドバイザーとして就任した為、23年ぶりに再びカンポスと同じチームに在籍した事になる。
レース成績編集
国際F3000選手権編集
年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | パベッシー・レーシング | SIL 12 |
VAL Ret |
PAU 5 |
SPA 4 |
IMO 5 |
MUG DNQ |
PER 1 |
ÖST 5 |
BIR 1 |
BUG 5 |
JAR 8 |
4位 | 24.5 |
1987年 | ローラ・モータースポーツ | SIL Ret |
VAL 2 |
SPA 18 |
PAU Ret |
DON 1 |
PER Ret |
BRH 9 |
BIR 4 |
IMO 3 |
BUG 1 |
JAR 5 |
2位 | 33 |
F1編集
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | ミナルディ | M188 | BRA Ret |
SMR 11 |
MON Ret |
MEX 11 |
CAN 13 |
DET Ret |
FRA NC |
GBR Ret |
GER DNQ |
HUN 10 |
BEL DNQ |
ITA Ret |
POR 8 |
ESP 12 |
JPN 15 |
AUS Ret |
NC (22位) |
0 |
1989年 | M188B | BRA Ret |
SMR Ret |
MON Ret |
28位 | 1 | ||||||||||||||
M189 | MEX DNQ |
USA Ret |
CAN Ret |
FRA DNQ |
GBR 6 |
GER DNQ |
HUN Ret |
BEL 15 |
ITA 8 |
POR 12 |
ESP Ret |
JPN Ret |
AUS DNQ |
(key)
スペインツーリングカー選手権編集
年 | チーム | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991年 | アルファロメオ・75アメリカ | アルファロメオ・75 | 1位 | 100 | ||||||||||||||||||||
1992年 | チーム・レプソル・ニッサン | 日産・スカイラインGT-R | 4位 | 103 | ||||||||||||||||||||
1993年 | 1位 | 134 | ||||||||||||||||||||||
1994年 | 日産・プリメーラ | JAR 5 |
ALB 3 |
CAL 3 |
ALB 3 |
BAR Ret |
JER 2 |
CAT 2 |
ALC | JAR Ret |
JER Ret |
5位 | 74 | |||||||||||
1995年 | JER 1 7 |
JER 2 5 |
JAR 1 4 |
JAR 2 9 |
BAR 1 DNS |
BAR 2 DNS |
EST 1 8 |
EST 2 6 |
ALB 1 1 |
ALB 2 Ret |
CAL 1 2 |
CAL 2 1 |
ALB 1 5 |
ALB 2 4 |
JER 1 7 |
JER 2 6 |
BAR 1 DNS |
BAR 2 DNS |
JAR 1 2 |
JAR 2 2 |
6位 | 144 | ||
1996年 | JAR 1 8 |
JAR 2 DNS |
ALB 1 2 |
ALB 2 4 |
BAR 1 3 |
BAR 2 6 |
EST 1 5 |
EST 2 5 |
CAL 1 1 |
CAL 2 1 |
JER 1 5 |
JER 2 3 |
JAR 1 6 |
JAR 2 7 |
BAR 1 6 |
BAR 2 4 |
3位 | 153 |
FIA ツーリング・カー・ワールド・カップ編集
年 | 国籍 | エントラント | 車両 | 1 | 2 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1994年 | スペイン | オールド・スパイス ニッサン・レーシング | 日産・プリメーラ | DON 19 |
19位 | 2 | |
1995年 | チーム・レプソル・ニッサン | LEC 1 27 |
LEC 2 Ret |
36位 | 0 |
スパ・フランコルシャン24時間レース編集
年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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1987年 | チーム・ビガッツィ | ウィンフェルド・ヴォグト オリビエ・グルイヤール |
BMW・M3 | Div.2 | 473 | 2位 | 2位 |
1992年 | NISMO | ディアク・ショイスマン 木下隆之 |
日産・スカイラインGT-R | N3.0 | DNF | DNF |
脚注編集
- ^ スペイン人ドライバーがF1世界選手権でポイントを獲得したのは1957年のアルゼンチンGPでアルフォンソ・デ・ポルタゴによる5位入賞以来、32年ぶりの出来事。
- ^ “Luis Pérez Sala wins the Spanish touring championship with the Nissan Skyline R32 GT-R. - Repsol 50th Anniversary Competition” (英語). Box Repsol. 2021年2月22日閲覧。
- ^ “Luis Pérez-Sala” (英語). Super Touring Register. 2021年2月13日閲覧。
- ^ “ルイス・ペレス・サラ、HRTのアドバイザーに就任”. F1 Gate.com. (2011年7月22日) 2011年7月23日閲覧。
- ^ “HRT、ルイス・ペレス・サラが新チーム代表に就任”. F1 Gate.com. (2011年12月15日) 2011年12月16日閲覧。