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東三河(ひがしみかわ)とは、愛知県の東部を指す。豊川流域および渥美半島で、遠州灘に面する地域である。地方中心地は豊橋市

東三河地方のデータ
日本
地方 中部地方東海地方
面積 1,817.09km2
総人口 770,918
(2009年4月1日)

目次

概要編集

豊川流域に位置し、浜名湖遠州灘三河湾・三河山地・新野峠弓張山地に周囲を挟まれた地域である。本宮山から三ヶ根山に至る丘陵を西三河との境とする。大化の改新以前には、穂国造の支配領域であったという説もある。

現在は愛知県に属しているが、伝統的に美濃国岐阜県南部)や伊勢国三重県北部)、近畿地方と近い関係にあった尾張地方との歴史的連関は浅い。むしろ遠州灘に面する位置や、戦国時代には有力大名である今川義元武田信玄の領土に入った歴史などから、遠江国静岡県西部)や信濃国南部(長野県南部、伊那地方)との繋がりが深く、中でも遠江地方との繋がりが深い。

このため方言宗教食文化などをはじめとして文化的にも尾張地方や西三河地方とは大きな差異があるとされ、現在でも愛知県内において独特の風土や文化を保っている。

自動車のナンバープレートは、地域全体が「豊橋」ナンバーのエリアである。人口752,191人、面積1,723.47km²、人口密度436人/km²。(2018年10月1日、推計人口

地理編集

気候は南部が温暖な太平洋側気候に属する。温暖な気候を利用したメロンの栽培が盛んであり、静岡県西部や茨城県南東部と列ぶ大産地になっている。一方北部の山岳地帯は内陸性気候との混合形態であり、気温の年較差が大きい。冬季には積雪や氷点下10度以下の低温も見られる。

地形

歴史編集

律令時代以前編集

紀元1~2世紀にかけて弥生土器が伝えられ、この地方における弥生時代が始まったと考えられている。

東三河はもともとは三河国ではなく穂国造の治める穂国(ほのくに)であり、三河国とは三河国造の治めた現在の西三河地方のみを指したという説がある。ただ現在はまだ詳細が確認されていない。

律令時代以後編集

律令時代になると、穂国と三河国は合併させられ、合併した際の令制国名は「三河国」となった。この三河国の国府一宮(砥鹿神社)、総社国分寺および国分尼寺のすべては、旧穂国の東三河(現在の豊川市)にできた。

7世紀の末葉に古代国家の土地制度である条里制が施行され、口分田が斑給された。豊川市国府町から八幡町、白鳥町、小田渕町、為当町、御津町などの音羽川下流の沖積地に広がる条里制のあったことが確認されている。為当地区では圃場整備事業に伴い、埋没条理の確認を目的にした発掘が行われ、坪[1]の境界、水路や畦畔、散在した弥生古墳時代の遺跡も確認され、前代からの連続した水田耕作が行われたことも確かめられた。さらに、地層や遺物の詳細な検討から条里制施行が平安時代中期を下ることも推定された。また、東三河には、豊橋市、蒲郡市、田原市等にも条理痕跡が認められている。


東三河で現存する寺院では、普門寺 (豊橋市)赤岩寺財賀寺東観音寺が奈良時代、行基による開創と伝え、鳳来寺大宝2年、利修仙人による創建と伝えるが、いずれも伝承の域を出ない。これらの寺院に伝来した仏像や考古資料などからは、概ね平安後期~鎌倉時代にかけて天台宗真言宗の影響のもと、山寺として創建或いは中興され、山内に多数の坊や院を含む伽藍が展開した場合が多く、この地域の地形的特徴を反映したものとみられる。なお、鎌倉初期に三河守護安達盛長が造営したとされる「三河七御堂」には、金蓮寺、丹野御堂(廃寺)、陀羅尼山財賀寺観音堂、赤岩山法言寺弥陀堂(現在の赤岩寺)、船形山普門寺観音堂、龍田山長泉寺、鳳来寺弥陀堂が挙げられ、金蓮寺(西尾市)以外は東三河に所在する。

承久の乱の後、鎌倉幕府の有力御家人であった足利義氏が三河守護となり、矢作川流域を拠点として西三河に勢力を拡大した。その後長く三河は足利氏一族の重要な基盤となり、足利尊氏室町幕府を築くにあたって京都鎌倉の中間地点に当たるこの地域を掌握していたことは重要な意義を持った。一方、中世には国衙の活動は殆ど見られなくなり、政治の中心は東三河から西三河へと次第に移っていった。

室町・戦国時代編集

応仁の乱などを経て室町幕府の支配が動揺すると、東三河では三河牧野氏戸田氏などが台頭した。一方、駿河遠江を基盤に台頭した今川氏今川義元の頃三河にも進出し、尾張への進出も窺うほどであったが、桶狭間の戦いに敗れ、没落した。西三河の土豪松平氏の出である徳川家康は、幼少期には今川氏の人質も経験しているが、これを期に今川氏から独立して版図を広げ、関ヶ原の戦いを経て天下を統一し、戦乱の時代に終止符を打った。家康は東三河を吉田城を中心に酒井忠次に統治させた。

徳川家康関八州移封編集

天正(1590年)、徳川家康豊臣秀吉により、関八州へ移ることを命じられた。東三河へは豊臣秀吉の命で池田照政(後の輝政)の入封と成った。15万2000石である。本拠を吉田城に据えた。元牧野氏牛久保城と元戸田氏田原城を支城にし、元戸田氏の二連木城は近いため廃城とした。

幕藩体制から廃藩置県編集

太閤時代、吉田城(豊橋市)中心に統一されていた東三河は、徳川家康征夷大将軍就任以降、分割された。吉田城吉田藩田原城田原藩新城城新城藩牛久保城は幕府天領となった。また、第2代征夷大将軍には東三河の八名郡南部(豊橋市西郷校区辺り)を本拠地とする三河西郷氏(三河国守護代の西郷家と同族と言われる)の西郷局(お愛)の子徳川秀忠が継ぎ、征夷大将軍は世襲と成リ、戦国の面影は徐々に消えて行き天下泰平の江戸時代の安定期に入る。

明治維新を経て、明治2年(1869年吉田藩は藩名変更を命じられ豊橋藩となった。廃藩置県を受け、豊橋藩豊橋県に、田原藩田原県になる。新城藩は一旦、伊那県に編入された。明治4年(1871年) 、旧三河国各県と旧尾張国知多郡岡崎城辺りを県庁とする額田県に統合する。また、これに伊那県に入っていた旧新城藩額田県に合流する。明治5年(1872年大区小区制により、県の下に区(町村にあたるが、この区には現在の市町村と異なり自治権は無い)を設立した。

今の県、郡、市町村へ編集

明治5年(1872年)、名古屋県から改名した愛知県と額田県は合併し、現在の愛知県が成立する。明治11年(1878年郡区町村編制法制定を受け、東三河は郡及び各町村に分かれ、現在の郡及び町村の原型が出来上がる。明治20年代の明治憲法発布に合わせ、郡制町村制が施行される。豊橋市は明治市制を施行した。大正10年(1921年)には郡制廃止法が発布され、大正12年(1923年)に郡会が廃止され、大正15年(1926年)に郡長郡役所が廃止された。(廃止時、渥美郡は豊橋市、宝飯郡は国府町、八名郡は八名村、南設楽郡は新城町、北設楽郡は田口町に郡役所が置かれていた。)
豊川市は太平洋戦争終戦前に市制を施行した。戦後、地方自治法の施行を受けても市町村の区画は明治時代の区画を基本に合併して出来上がっている。現行地方自治法施行後、町村合併促進法による合併で、蒲郡市及び新城市が、平成の大合併により田原市が市制を施行した。

2012年、東三河の地域振興をはかる目的で県の東三河総局(東三河県庁と通称)が豊橋市に設置され、担当する副知事が常駐している。また2015年には東三河地域の市町村で構成される「東三河広域連合」が結成されている。

自治体編集

交通編集

東三河は、太平洋岸から天竜川流域に当たる伊那谷への連絡口という機能を担っている。

鉄道編集

道路編集

県の地方機関編集

その他編集

市外局番編集

  • 0531(田原MA):田原市
    • 田原MAは、0569(半田MA)および0599(20~39、鳥羽MA)と海を挟んで接するが、隣接区域とはなっていない。
  • 0532(豊橋MA):豊橋市豊川市三上町のうち豊川東岸
  • 0533(豊橋MA):豊川市の大半、蒲郡市
    • 0532,0533は、市外局番が異なるが市内料金で通話できる。なお、市外局番を統一する予定はない。
  • 0536(20~59、新城MA):新城市
  • 0536(60~89、設楽MA):北設楽郡
    • 新城MAと設楽MAは、市外局番が同じだがMAが異なるので、市外局番からダイヤルする必要がある。
    • 豊田市のうち旧稲武町の地域は2007年4月1日、0536(設楽MA)から0565(豊田MA)に変更された。

郵便番号編集

東三河には日本郵便地域区分局として郵便番号44Xの地域を担当する豊橋南郵便局がある。なお豊根村のうち旧富山村の区域は浜松西郵便局が地域区分局である。

脚注編集

  1. ^ 六町四方を基礎に、原則として東西・南北の方向にそれぞれ条と里に区切り、里の一辺を六等分して36の坪に分割し、一坪=一町を十段とし、一段を360歩とした。

関連項目編集

外部リンク編集