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大森一樹

日本の映画監督、脚本家

略歴編集

大阪府大阪市生まれ。兵庫県芦屋市育ち・在住。医師の家に育つ。芦屋市立精道中学校六甲高等学校京都府立医科大学医学部卒業。

もともと漫画少年であり、手塚治虫真崎守の作品などに影響を受ける。高校生時代から映画監督を目指して自主映画を制作し、村上知彦と知合う。大学在学中の1973年から、村上・西村隆らと映画自主上映グループ「グループ無国籍」を結成し、新開地の映画館で邦画のオールナイト上映企画を行った。また、やはり大学時代に完成させた16ミリ映画『暗くなるまで待てない!』が、自主映画ながらキネマ旬報ベスト10で21位に入るなど、高く評価される。

1978年、「城戸賞」受賞のシナリオを自ら監督した『オレンジロード急行』で商業映画デビュー。前年の東宝の大林宣彦、同年の日活の石井聰亙らとともに、自主映画作家が助監督経験なしに大手撮影所でいきなり監督をつとめるムーブメントとして話題を呼ぶが、CFの分野で商業映像の経験が豊富だった大林、澤田幸弘との共同監督という形だった石井に対し(脚本もそれぞれ別のプロが執筆している)、まったくのアマチュアでありながらメジャー松竹の番線作品で単独の脚本兼監督を担当した大森の事例は際立っており、今日に至るまで類例がない。この作は必ずしも高い評価を受けられなかったが、自身の体験を元にして大学病院を舞台にした作品『ヒポクラテスたち』で映画作家としてブレイクする。以降、中学校の先輩である村上春樹作品の映画化『風の歌を聴け』を経て、1982年6月には長谷川和彦相米慎二らと若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立[2][3]。 1984年からの吉川晃司主演三部作あたりから、会社企画の娯楽映画もきちんと仕上げられる監督として東宝の信頼が厚くなり、斉藤由貴主演の三部作、平成ゴジラシリーズなど、コンスタントに作品を作り続けている。

1998年に『日本沈没1999』の監督に起用されたが、松竹の経営不振により、製作中止になった。

都内に事務所を持っているものの、デビューから一貫して関西を拠点としている。2000年4月から2005年3月大阪電気通信大学総合情報学部メディア情報文化学科教授。 2005年4月から大阪芸術大学芸術学部映像学科・同大学院教授。

2015年第28回東京国際映画祭のコンペティション部門審査員を務める[4]

監督作品編集

映画編集

(以上自主制作作品)

テレビドラマ編集

脚本作品編集

映画編集

未製作脚本編集

テレビドラマ編集

ラジオドラマ編集

著書編集

単著編集

  • 1978年『MAKING OF オレンジロード急行』ぴあ出版
  • 1981年『虹を渡れない少年たちよ』PHP
  • 1986年『星よりひそかに 大森一樹の作った本』東宝出版事業室
  • 1987年『トットチャンネル シナリオ写真集』東宝出版事業室
  • 1987年『「さよなら」の女たち シナリオ写真集』東宝出版事業室
  • 1989年『映画物語』筑摩書房
  • 1998年『震災ファミリー』平凡社
  • 2001年『あなたの人生案内』平凡社

共著編集

出演編集

カメオ出演編集

ラジオ編集

CM編集

その他編集

脚注編集

  1. ^ 大森一樹監督インタビュー INTRO 2018年7月9日閲覧。
  2. ^ 長谷川和彦・根岸吉太郎・相米慎二「ディレクターズ・カンパニーの監督たち シンポジウム報告」司会・大久保賢一『キネマ旬報』1990年5月下旬号、pp.140-143
  3. ^ 大森一樹監督名作『ヒポクラテスたち』初BD化記念、80年代を中心に邦画特集 2018年7月9日閲覧。
  4. ^ 東京国際映画祭コンペ部門の審査委員6名が決定” (2015年9月24日). 2015年9月24日閲覧。
  5. ^ a b 平成ゴジラパーフェクション 2012, p. 144 「平成ゴジラバーニング・コラム」No.006。

出典・参考文献編集

  • 『平成ゴジラクロニクル』キネマ旬報社、2009年。ISBN 4873763193
  • 監修:川北紘一『平成ゴジラパーフェクション』アスキー・メディアワークス〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2012年。ISBN 978-4-04-886119-9

関連項目編集

外部リンク編集