メインメニューを開く

広瀬叔功

日本の野球選手

広瀬 叔功(ひろせ よしのり、1936年8月27日 - )は、広島県佐伯郡大野町(現:廿日市市)出身の元プロ野球選手外野手内野手)・監督野球解説者南海ホークスがパ・リーグの盟主として君臨した1950年代後半-1960年代に「鷹の爪」とも呼ばれたリードオフマン[1][2]。愛称は「チョロ[3]

広瀬 叔功
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県佐伯郡大野町(現:廿日市市
生年月日 (1936-08-27) 1936年8月27日(82歳)
身長
体重
176 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手遊撃手
プロ入り 1955年
初出場 1956年4月26日
最終出場 1977年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1999年
選出方法 競技者表彰

通算盗塁数歴代2位、通算盗塁成功率歴代1位。

目次

経歴編集

プロ入り前編集

大工の父・千代治と母・マツ子の間に生まれた7人兄弟の6番目[4]で、小学生だった1945年8月、学校での朝礼中に広島市への原子爆弾投下を目撃している[4]。7歳上の姉は中学校教師で嫁ぎ相手も中学校教師、次の姉の嫁ぎ相手も広島大学教授という教員一家に育ち、広瀬自身も大野小学校・大野中学校では[5]教員になることを目指し、普通科のある広島県立大竹高等学校に進学した[5][6]。父、二人の姉は広瀬が高校で野球を続けることに反対し、「野球をやらない」という一礼を広瀬本人から取っていた。父は「広大にでも入ってもらいたい」と思っていたが、入学後に野球部から熱心に勧誘され、ついに家族に黙って「とうとう野球部に入ってしまった」という[7][8]

高校時代は2年秋から投手を務め、3年夏にはエース・4番として活躍する[9]。二塁走者を牽制しようとするが野手が動かないため、自分でマウンドから二塁へ向かって走って走者を刺した、という逸話を残している[10]。また俊足で、高校時代の後輩には後にプロでも俊足で活躍した簑田浩二がいる。2年生の頃、先輩だった森内勝巳に誘われて地元・広島東洋カープの入団テストを受験し、森内と共に合格したが[9][11]、卒業と同時に入団した森内に対し、広瀬は遊び半分で受験したために入団しなかった[9]

広瀬が在籍していた大竹高校は全国高等学校野球選手権大会の予選でも勝利できない弱小高校[※ 1]で、広島の入団テストを受験して合格したとはいえ、広瀬への注目は集まらなかった。しかし、1954年の広島大会予選で敗れた際に、南海ホークス監督の鶴岡一人の知人で、広島商業高校時代の同期だった上原清治の強い勧めで、南海ホークスの入団テストを受験した[8][12]。上原は、広島県内の有望な高校生を次から次へと南海へ送り込んでおり、弱小高校ながら広瀬の活躍が上原の眼に留まったもので、テストでは中百舌鳥球場での二軍練習へ参加し、翌日に大阪スタヂアムで行われる対近鉄パールス(二軍)戦への先発登板というものだった。広瀬は3回を投げて1被本塁打3失点と結果を出せず、ネット裏で見守った鶴岡は「大したピッチャーとちゃうで。法政に行かせとけ」と言ったが、上原の推薦で高校卒業後の南海ホークスへの入団が決まった[12]

南海の入団テストを受験後、高校を卒業するまでは陸上競技に手を染め、走幅跳で広島県2位になったのを始め、円盤投砲丸投でも表彰状を受け取り、早稲田大学順天堂大学から陸上選手として勧誘された[13]。教員志望だったため早稲田に心が傾いたが、高校の教師から「(南海ホークスは)あの鶴岡さんが監督をされている名門チームだから」と入団を勧められた[13]

プロ入り後編集

1955年に南海ホークスの一員となった広瀬は、首脳陣にアピールするために肩を作らないまま投げ込み練習を続けた結果、肘を痛めて投手としての練習を行えなくなった[14]。そこで広瀬は、高校時代から武器にしていた持ち前の俊足と強肩を活かすために野手転向を決意し、同年6月に自ら二軍監督へ申し出て転向した[15]。当初は外野手だったが、後に内野手へ変更された[16]

1956年4月26日の対阪急ブレーブス戦で米田哲也から公式戦初打席初安打を放ち、同年7月29日の対高橋ユニオンズ戦では先発出場して4打数4安打、初盗塁も記録するなど活躍する。7月31日の対大映スターズ戦でも2打席連続で安打を放ち、プロ初打席から7打席連続安打を記録した[※ 2]。当時、パ・リーグ記録部に勤務していた宇佐美徹也は広瀬について、「塁間をスルスルと滑るようなトカゲを思わせる走塁に、当時のネット裏では『大変な選手が出てきたものだ』と異常な興奮に包まれたのを覚えている」と語っている[17]1957年シーズン途中からは遊撃手に抜擢され、114試合の出場で規定打席に到達していないものの打率.284、25盗塁を記録してレギュラーに定着、1958年も120試合に出場し、33盗塁・打率.288を残して、成績を上げて行った。

1959年にはついに打率が3割を越え(.310)、遊撃手としてチームの日本一に貢献するなど、充実したシーズンを送った。この頃は盗塁王ではなく、盗塁成功率も6~7割程度だったが、1957年のレギュラー定着時から「プロ随一の快足」と評価されていた[18]。一方で、遊撃手としては守備範囲が広く無類の強肩だったが悪送球が多く(後述)、1958年には葛城隆雄と並ぶリーグ42個の失策を記録している。

1961年に守備位置が同一のルーキー・小池兼司が入団すると、小池の遊撃守備を見た広瀬は「自分より堅実な小池に任せた方がチームのためになるのではないか」と考え、監督の鶴岡一人に自ら提案し、8月から中堅手へ転向した。同年には打率.296・42盗塁で晴れて盗塁王に輝くと、1965年まで5年連続で盗塁王のタイトルを獲得し、南海のリードオフマンとして杉浦忠野村克也皆川睦雄と黄金時代を築いた。いわゆる「ダイヤモンド」を一周13秒9、50メートル5秒5で駆け抜ける俊足と、遊撃手としてプレーしていた頃からの守備範囲の広さで鳴らし、「プロ野球のスピード感を変えた男」とも言われた。また、広瀬の活躍は日本野球機構シーズン最多盗塁を公式の個人表彰項目として新設する大きな要因となった。

1963年にはリーグ5位の打率.299(1963年と1964年のパ・リーグは150試合制)を記録、187安打を放って最多安打記録を打ち立て、1994年イチローオリックス・ブルーウェーブ)が210安打を放って更新するまでの31年間にわたってパ・リーグ記録となっていた。また同年の676打席は2005年赤星憲広阪神タイガース)に抜かれるまで日本記録、2010年西岡剛千葉ロッテマリーンズ)に抜かれるまでパ・リーグ記録だった。

1963年オフ、当時存在したA級10年選手制度が近かったことから満額のボーナスを目当てに初めての猛練習を自身に課した。後年、「後にも先にもあれほど練習したことは無い」と語るほどの状態で迎えた1964年シーズンは、3月14日の開幕戦から安打を量産し、89試合目まで打率4割を維持(1989年ウォーレン・クロマティ読売ジャイアンツ)に抜かれるまでプロ野球最長記録)した。前半には3番に座り、2本塁打を含む5安打・7打点の大活躍を見せた試合[19]もあるなど、広瀬の好調ぶりはチームの快進撃に欠かせないものとなった。しかし、6月17日の対東映フライヤーズ戦にて尾崎行雄の速球を打ち返した際に左手首を負傷し、以降は腱鞘炎に苦しむようになった[20]。負傷後は中軸どころか先発を外れる試合も増えたが、優勝争いを繰り広げていたチームに迷惑をかけまいと治療を続けながら代走で出場し、8月中旬には先発出場に復帰した。それでも腱鞘炎の影響は治まらず、右手一本で打つようなシーンも見られ、後半戦は完全に調子を落としてしまった。それでも最終的には張本勲の打率.328に大きく差を付ける打率.366、72盗塁と自己最高の成績を収め、史上初となる首位打者と盗塁王を同時で獲得、なかでも打率は1985年落合博満ロッテオリオンズ)に抜かれるまで、右打者の歴代最高打率だった。また、開幕から100安打に到達した試合数は61と、1994年にイチローが60試合で到達するまで日本記録だった[※ 3]。広瀬の好調ぶりは日本シリーズでも発揮され、打率.345を記録し、南海ホークスは日本一を達成した。

1965年も打率.298(リーグ5位)・39盗塁を記録してチームのリーグ連覇に貢献した。またこの年で実働10年となり、前述のA級10年選手制度が適用されたが、南海球団側は広瀬が前年に腱鞘炎を患ったことと、同年のシーズンも故障で離脱していた時期があったことから、広瀬が期待する満額のボーナス支給を渋った。長年、主力選手としてチームに貢献してきたにも関わらずプライドを傷つけられた広瀬は当然納得するはずが無く、球団と揉めた。結果的に、この件が球団側の掲示する給与面に不満があった鶴岡の監督退任を考えさせる一因にもなった。広瀬を襲った手首の腱鞘炎は、同時期に西鉄ライオンズで強打者として活躍した中西太も苦しんでおり、また当時は有効な治療法が確立されていないなど、打者が恐れる負傷の一つとも考えられていた。広瀬の打法は手首の強さと速いスイングで、投球を出来るだけ手元に引きつけてからコンパクトに打ち返すものだったが、中西と同様に、手首の強さは故障の原因にもなる「諸刃の剣」だった[21]。1965年までは通算打率も3割に限りなく近い数字を残していたが、1966年1967年は欠場・長期離脱によって規定打席未到達となり、球団側の懸念が当たってしまうこととなった。それでも広瀬は1968年に打率.294(リーグ5位)、1969年には打率.284(リーグ13位)を記録したが、これ以降は成績を落としていき、全盛期の成績を残すことは出来なくなった。

手首の腱鞘炎によって打撃面では調子を落とすが、走塁では引き続き活躍を見せる。1970年8月2日の対近鉄バファローズ戦(日本生命球場、ダブルヘッダー第2試合)で通算480個目の盗塁を記録し、チームの先輩である木塚忠助が保持していた日本記録を更新した[※ 4]。同年10月14日の対阪急ブレーブス戦ではこの試合でのみ投手として登板し、2回2被安打3四球と荒れたものの無失点で切り抜けた[24][25]。この試合は阪急側のワンサイドとなった時点で、南海の選手兼任監督だった野村が広瀬に「(敗戦処理として)投げてみいひんか?」と声をかけたものだった[24]

1972年7月1日の対西鉄ライオンズ戦で史上6人目の通算2000本安打を達成したが、左手首の腱鞘炎に加え、右肩を痛めるなど、広瀬の現役晩年は故障との戦いだった[26]1973年からは極端に出場機会が減ったことで引退も考えたが、球団から「もうちょっとやってくれ」と言われ[27]、野村からも「(辞められたら)ピンチヒッターがおらんやないか」として断られ、現役を続行せざるを得なくなった[28]。広瀬は1977年シーズンで引退することを決め、同年7月6日のパ・リーグ後期初戦だった対阪急ブレーブス戦(西宮球場)に出場した際には、福本豊が自身の保持していた通算盗塁記録を更新する597個目の盗塁を記録した[29]瞬間を守備に就いていた中堅から見つめていた。広瀬はその直後、福本に対し「日本新(記録)や600盗塁などと小さいことを言わず、世界記録を狙ってほしい」というコメントを残し、途中交代して球場を去った。なお、引退後に一年間渡米してメジャーリーグを視察する計画を立てていたが、実現しなかった[30]

引退後編集

1977年シーズン最終盤に公私混同を理由に南海ホークスの監督を解任された野村の後を受け、南海ホークスの監督に就任、1978年から3年間にわたって務めた。しかしこの交代は突然だったため、「球団代表も困り果てていて、『何とか引き受けてくれ』という感じで頼まれては断りきれるものではない」として否応なく承諾した[31]。就任後は野村解任騒動でバラバラになった選手の気持ちをまとめようと「団結と和」を基本理念に掲げてスタートを切った[32]が、広瀬が監督に就任した段階で江夏豊柏原純一は野村に同調し、球団のやり方には納得できないとして江夏が広島東洋カープへ、柏原は日本ハムファイターズへ移籍した[33][※ 5]

いきなり投打の軸を失った南海と広瀬だったが、在任中には金城基泰の抑え転向(1979年に最優秀救援投手)、片平晋作の一塁レギュラー定着(1979年には打率.329)、村上之宏の新人王(1978年)など明るい話題もあったものの[34]、野村退団による江夏、柏原の移籍、主砲・門田博光のアキレス腱断裂(1979年)[35]もあり、戦力は整わず成績は下位に低迷した。広瀬は恩師・鶴岡の「古き良き鶴岡時代」への回帰を目指し[32]、野村の野球を継承せず、「泥まみれ野球」を標榜、ユニフォームも復古調の物へ変更(鶴岡監督時代の象徴だった、肩と袖の太いラインが復活)することも含め、野村カラーを一掃した[※ 6]。また、広瀬はスコアラーの提出するデータをあまり重視しなかったため、南海に29年もの長きにわたり在籍していた尾張久次は退団、西武ライオンズへ移籍した[36]。結局、広瀬の提唱する「団結と和」は達成されたものの、成績には結びつかなかった。藤原満は「広瀬さんが監督になられて、従来とは全く違う野球になった。(野村さんの)良い所だけを上手く継承しても良かったかなとは思いました」と語っている[27]。広瀬自身も「(監督をやる人物が)『誰もおらんからやってくれ』、そんな感じだった」「その頃の南海電鉄には昔のように資金も無いし、球団の人気も無い[※ 7]。だから選手を集めることも出来ない」「投手不足でマネージャーの上田さんを現役復帰させたりした」「(南海時代は)楽しい思い出が殆ど無い監督生活だった」と語っている[27][8][37]

監督辞任後は、1981年から1990年にかけてNHK野球解説者(この時は全国中継にも出演)を務め、1990年にはスポーツニッポン野球評論家も兼務した。1991年からは古巣・南海の後身である福岡ダイエーホークスの守備走塁コーチに就任し、現役時代に武器とした俊足と走塁技術を徹底的に叩き込み、大野久(42個、盗塁王獲得)・佐々木誠(36個)・湯上谷宏(30個)とチームから30盗塁以上の選手を3人輩出させ、両リーグトップとなるチーム141盗塁を記録した[38]1992年には佐々木に自身以来史上2人目となる首位打者・盗塁王を同時に獲得させ、同年限りで退任した。1999年野球殿堂入りを果たす。

1993年からはNHK広島放送局野球解説者(基本的にローカル放送のみ出演)を2015年まで務め、現在は日刊スポーツの野球評論家を担当、居住地も大阪府から故郷の広島県に移している。

プレースタイル編集

広瀬の盗塁術編集

通算盗塁数は歴代2位(2018年現在)の596個である。シーズン最多盗塁死は一度も記録せず、通算盗塁成功率は82.9%(596盗塁、123盗塁死)は、通算盗塁数300以上の選手では歴代1位である。

「僅差の場面でしか走らない」「打者が2ストライクと追い込まれたら(三振・併殺を防ぐために)走らない」など、有用な場面でのみ盗塁を仕掛ける職人肌の選手で、高い盗塁技術を誇る。1964年3月から5月にかけては「31回連続盗塁成功」と、1968年にシーズン盗塁成功率95.7%(成功44、失敗2)という、いずれも日本記録を保持している[※ 8]

広瀬の盗塁は、一塁から3.80メートルという並外れたリードを取り[40]、スタートしてからすぐスピードに乗り、二塁ベースの手前まで全力で走ってから短いスライディングで二塁を陥れるものだった。1964年に4割近い打率を挙げ、さらにあまりにも走ることから日本野球機構は「盗塁王」を同年から連盟表彰にした[8]。それまで日本では盗塁はあまり評価されておらず、広瀬は盗塁を認知させた最初の選手である[8]

ライバルから見た広瀬の脚編集

ロッテオリオンズ内で一番の俊足、かつプロ野球史上屈指の投手守備を誇った荒巻淳[17]は、1956年9月8日の対南海ホークス戦で、一塁に代走で出場した広瀬に対し、次打者(木塚忠助)の送りバントで二塁に送球し野選、次々打者(蔭山和夫)の送りバントで三塁へ送球して再び野選とされた時に受けた衝撃を、「バントが転がされた瞬間、アウトに出来るか出来ないか、経験上ピンとくる。95%は的中します。(この時も)アウトだと確信して二塁、三塁へ送球した。ところがセーフなんです。送りバントで二封出来る、三封出来ると私が判断してセーフになったのは広瀬が最初でした」「(広瀬は)野球革命者なんですよ。単なる盗塁王とか、脚が速いというだけでなく、彼のスピードは野球を革命しました」と述べている。また、スポーツライターの近藤唯之は「本塁打革命者は大下弘、脚の革命者は広瀬」と表現している[40][41]。木塚は通算479盗塁、通算盗塁成功率80.8%を誇る「先輩」盗塁王だが、広瀬の盗塁を「僕の全盛時代と彼を比較すれば、スピードとスタートでは負けないと思うけど、真似できないのはベース寸前でも全然スピードの落ちないあのスライディングだ」と評している[7]

セ・リーグの盗塁王、柴田勲とは格が違うとも言われる。1963年週刊朝日による、広瀬と柴田によるダイヤモンド一周競走の企画(別々に走る二人を一緒に走ったかのように写真で合成したもの)では、広瀬が本塁を踏んだ時、柴田はまだ本塁より3メートル手前を走っていたという[40]

通算350盗塁を記録し、盗塁王も二度獲得している吉田義男は、「(広瀬の脚は)私らとは桁違いに速かった。ベスト3は広瀬、福本、3番目は…も速かったけど、屋敷かなぁ」として、広瀬を一番に挙げている[8]。広瀬と同時代に南海ホークスの主力として、福本豊とも対決した野村克也も「福本も確かに速い。だけどあのバネと速さは、やっぱり広瀬の方が上やと思うね」と述べている[10]

大沢啓二は「(広瀬は)ここ一番って時にだけ走るわけよ。勝負のかかった大事な場面でな」「試合が終わってみると、あの盗塁が試合を決めたということが多かったな」と語っている[42]。また、阪急ブレーブスの正捕手だった岡村浩二は自身のブログで、現役時代に“この選手は本当に速いな”と感心したのは福本と広瀬、とした上で、「ここで走られたら困る場面で必ず成功させるのは広瀬さんでした。南海ホークス戦前夜は広瀬選手がケガで休んでいれば良いのにと、何回も思いました」と語っている[43]。同じく、阪急ブレーブスの二塁手だったダリル・スペンサーは、「広瀬が一塁に出たときは、ムダなことはしない。僕はもう二塁ベースに入らない。河野遊撃手も入るな。そして捕手は二塁に投げずに三塁に投げたらいいんだ」と自嘲気味に語ったという[7]。また、杉浦忠は「数字だけを狙っていたら、おそらく毎シーズン100盗塁以上はやっていたでしょう」と述べている[44]

松下電器時代、監督に「社会人野球の広瀬になれ」と言われ、広瀬と同じ背番号12をもらい、広瀬を見たい一心で大阪球場に頻繁に通ったという福本豊は、「広瀬さんは神様やもん。プロに入ってからもそれは一緒よ。相変わらず雲の上の存在やった」「盗塁や走塁で魅せてくれる足も、守備(センター)の際の動きにしても、広瀬さんのスピードは他の選手とかけ離れていた」と述べている[45][46]

福本と広瀬の盗塁編集

パ・リーグの記録部で勤務していた宇佐美徹也も、広瀬の盗塁について「さっと滑り込んで送球が届いたときにはベース上、すっくと立ち上がっている姿に何度ほれぼれしたことか」と賛辞を贈っている[17]。出し惜しみせずもっと走れば通算最多盗塁記録を現役晩年の年に、目の前で福本に更新されることも無かっただろうと惜しむ[17]が、記録のために走るのではなく、元来淡泊な性格で、記録に執着することも無かった。「週刊ベースボール」(1969年5月12日号)誌上でも、「記録を必要以上に意識することの多い現在(1969年)のプロ野球選手の中にあって、広瀬のような存在はまことに珍しい(記録の手帖)」と評されている[47]。この姿勢は現役最後まで貫かれ、通算600盗塁が目前に迫っても記録達成にこだわることなく引退した。広瀬の盗塁スタイルを福本と比較すると、宇佐美が「広瀬ほど余裕のある盗塁を見せた選手はほかに見たことがない」[17]と評した姿が浮かび上がる。

  1. 福本の盗塁は、有能な2番打者に支えられたものだった。西本幸雄は「(2番打者の)阪本は福本の足を生かすために、自分を犠牲にした。自分のボールカウントが悪くなるケースが多かったが、黙って耐えた。阪本の役目はその後、大熊忠義へと引き継がれた」[48]と評し、福本自身も「クマさん(大熊)は自分のボールカウントを悪くしてでも、2ストライクに追い込まれるまでは僕の盗塁を支えてくれた」「(捕手が一歩前に出て送球出来ないように)ちょっとタイミングを遅らせた空振りをしてくれた」[46]と語っている。一方で広瀬は、前述のように打者のカウントが悪くなる場面では決して走ることはなく[49]、また、打順も必ずしも1番に固定されておらず(2・3番を任されたり、代走として出場することも多かった)[27]、特定の後続打者の協力・負担を必要とするものではなかった。野村克也も「広瀬が3番、私(野村)が4番を打っていた頃、広瀬が走るまで打つのを待つそぶりを見せるたび、『俺に関係なく打っていいですよ』と気を使ってくれた」と証言している[50]。「初球か2球目にスタートを切る。それが打者へのエチケット」という広瀬の盗塁哲学が実践されていたことは、例えば1964年は盗塁企図数81回(成功72、失敗9)のうち、2球目までに64回(約8割)、1968年は盗塁企図数46回(成功44、失敗2)のうち、2球目までに33回(約7割)スタートを切っているという数字からも裏付けられる。また、「僅差の場面でしか走らない」という哲学も徹底しており、1964年の盗塁企図数81回のうち2点差以内での企図が66回(約8割)であった[47]
  2. 福本の盗塁が投手のクセを見抜いて走るものであったのに対し、広瀬は、相手に関係なく成功する技術を身に付ける必要がある(クセを見抜いて走るレベルではクセを盗めない投手では走れない)として、このスタイルを否定している[51]。最大限にリードをとりながら、どんなけん制球が来ても塁に戻れる技術(スタートと帰塁は表裏一体であると捉え、スタートの反動を利用して塁へ戻る技術)を会得し[52]、投手のクセに頼ることなく、投手が誰であろうと素早いスタートを切ることが出来た。
  3. 二塁への滑り込みについても、広瀬は捕手からの送球が逸れる方向を欺こうとする野手の体の動きに惑わされないよう、滑り込む直前にベースカバーに入る野手の目を見て、その視線と逆方向に滑り込むという高度な技術を身に付け、「ベース際の魔術師」とも呼ばれていた。広瀬はこれを、「グラブの位置や小さな仕草で送球方向を誤魔化せても、目だけはウソがつけない」と語っている[53][26]。このスタイルは、福本の「高校のころ“ベースカバーに入る野手の目線を見て送球をかわせ”と言われ、かわすスライディングをして酷い捻挫をした。そんな危ないスライディングはそれっきりにした」「プロに入ってからは、二塁送球をかわさんように努めた。最短距離を狙って、キャッチャーからの送球に関係なく、セカンドベースへ正面から滑り込むようにした」というスタイルとは対照的である[46]
  4. クイックモーションの導入・普及は、広瀬の現役最晩年のころであるが、福本登場後(1970年以降)の広瀬の盗塁成功率は83.2%(企図数155・成功数129)、クイックモーションの普及した1974年以降では82.6%(企図数23・成功数19)であり、成功率への影響はみられない。

なお、広瀬は福本について、盗塁技術の向上のために試合中も失敗を恐れずに走るべきだという福本の主義には「私の考え方と相容れない」としながらも、「ゲームの中で走ることによって、彼は彼なりの方法で盗塁の技術を極限まで高めた。いかなる接戦の中でも1点を取るために盗塁ができる。そんな域まで上り詰めた男である」「私がとやかく言えるような選手ではない」と評している[54]

他球団の対策編集

西鉄ライオンズのエース、稲尾和久との一瞬を巡る駆け引きは、西鉄打線と杉浦忠の対決とともに、西鉄-南海戦の白眉だった。稲尾は当初、通常の左周りの牽制で広瀬に対抗したが、広瀬を防ぎ切れず、通常とは逆の右回りの牽制を編み出した。これは右肩越しに広瀬を視角に捉え、視野の右隅に広瀬の爪先が入ったら逆回転のひねりで牽制するもので、稲尾曰く「それほど彼(広瀬)には手こずったということなんだ」「俊敏というよりエキセントリックな盗塁というかなぁ」「足を封じるために右回りを用いた。彼がランナーのときだけ…」というものであった。広瀬もこれに対抗し、撒き餌を撒くように稲尾の視界に足を入れ、牽制が来ると、上半身の反動を利用してフルスピードで二塁を奪ったという[55]

他球団が広瀬の足を封じるのにいかに必死であったかについて次のエピソードがある[41]

  • 1964年4月29日、対東京オリオンズ11回戦で、東京の坂井勝二は一塁走者・広瀬に、実に13回続けて牽制球を投げた。坂井が牽制に疲れ、ようやく打者に投球した瞬間、広瀬はスタートを切り盗塁を成功させた。スポーツライターの近藤唯之は「公式記録員は牽制球を一切記録していない。しかし、一人の一塁走者に13球も続けての牽制球は舞台裏日本記録だろう」と記している(なお、近鉄の牧野伸は、広瀬に対して坂井を上回る14回の牽制球を投げたともいう[7])。
  • また同年、連続32回目を封じた東映の嵯峨健四郎の投球は、セットポジションに入ったか入らないかわからないほどのルール違反すれすれのクイック投法で、今なら間違いなくボークを取られるものだった。広瀬の盗塁を刺した嵯峨と種茂雅之のバッテリーは、試合の終わった夜、「よく広瀬をアウトにしてくれた」と水原茂から食事を奢ってもらったという。

また、塁間で一旦挟まれても、動物的カンと走力でなかなかアウトにならなかった。野村克也は「アイツの挟殺プレーはベンチから見ているだけで楽しかった」と述懐しており、広瀬の挟殺プレー見たさに球場へ足を運んだファンもいたほどだという[10]

1971年秋のドラフトで近鉄バファローズに入団した梨田昌孝は、晩年の広瀬について「一塁から二塁までは、当初良いようにあしらわれた。広瀬さんに初めて“プロのすご味”を教えられた」「私の知る広瀬さんは三塁へのスチールが天下一品でした。ところが、僕がその三盗をアウトにしたのです。嬉しかった…。でもその時、広瀬さんは逆に『時の流れ』を感じたのかも知れませんね」と振り返っている[55]

また、広瀬はオールスターでも7回盗塁を仕掛け、全て成功させている。

打撃編集

広瀬オリジナルフォーム編集

広瀬の打撃フォームは、打席内で左膝を深く内に入れた状態で構える独特な形だが、同世代の豊田泰光は広瀬の連続写真を見ながら「こんな構えは(本来なら)絶対してはいけない。(中略)普通の人は初めから左膝を深く入れていたらとても打てない」と解説している。さらに豊田は「ミートした直後からバットで打球をコントロールしながら、同時に(一塁へ)走り出している。身体の中心線を守りつつ、他の打者より2歩は先んじていた印象。内野安打の技術はイチローの比では無かった」とも語っており[56]、あくまでも広瀬だけのオリジナルフォームであることを述べている。このフォームで広瀬は全盛期においては打率3割前後の好成績を残しており、打率ランキングにおいては必ず上位に入るほどの「常連」だった。中でもベスト5入りは五度記録し、真面目に練習に取り組んだという1964年は4割に近づいた。広瀬自身もこのことについて、「確かに『夢中で打つ』タイプに近かったろう」「(10年目のボーナスが懸かっていた1964年を除いて)工夫も素振りもあまりした記憶が無い」「(腱鞘炎に悩まされて以降、)素振りはほとんどしなくなった」「首位打者のタイトルも取ったから目標達成。『あとはもうエエわ』、そんな感じ。まあ、今度生まれ変わったら努力するけど、無頓着にやったのが逆に良かったのかも知れんしなぁ[57][27][8]」と述べている。

南海ホークスで共に主力選手として戦った野村克也は、打者を「A型」から「D型」の4タイプに分け、「A型」を「常にストレート(速球)に合わせて変化球に対応する理想型」としている[58]が、広瀬は自著で「(『広瀬は何も考えないで打ちよる』とノムやん(野村)が言っていたのは知ってるが)何も考えなかったわけではない」と前置きしたうえで、「その相手投手の最も速い球にタイミングを合わせ、変化球ならば一呼吸おいてからバットを振りだす」と述べており[57]、まさに「A型:速球に合わせて変化球に対応する」の打撃スタイルである。

周囲から見た広瀬の打撃編集

野村は広瀬について、「野球の天才は(自分は)二人しか知らない。長嶋茂雄と広瀬や。彼らは何も考えないでも凄いプレーが出来た[8][59]」「野球生活で出会った天才が三人いる。一人は長嶋、一人は広瀬、そしてイチロー[60]」「彼(広瀬)は来た球を自在に打ち返せる技術を持っていた[61]」「(広瀬が)バットの素振りしてるのなんて見たこと無いですよ[62]」「バッティングに関しては天才肌。ピッチャーから野手へ転向した時も素振りくらいするだろうと思っていたら、全体練習でバッティングをちらほらする程度[50]」などと語っている。

南海ホークス一筋で選手からコーチまで務めた堀井数男は、「ちょっと特殊で他の選手は真似出来ない。ああいう選手はもう出てこないだろう」「足が速い。肩が良い。(野球の)勘が良い。人の打てないボールを打つ。そういう特殊な技能を持っていた[63]」と述べ、1953年に首位打者およびMVPを獲得した岡本伊三美は「初めて対戦するピッチャーだったとしても、ストライクであれば初球からバットの芯で捉えてヒットを打つことが出来た。残念ながら私には出来ないことだった[64]」と述懐している。エースだった杉浦忠は「(走塁だけでなく)打撃も天才的」としたうえで、広瀬が1964年に腱鞘炎で打席に立てない際に代走で起用され、味方の攻撃が続いて広瀬に打席が回って来た際に「(通常右打者の広瀬が)なんと左打席に立ってセンター前へヒットを打った」と驚愕した[44]が、監督だった鶴岡一人は広瀬を「天才的だが、ちょっと軽はずみな所がある」と評し、森下整鎮国貞泰汎と共にチームを引き締めるための「叱られ役」としていた[65]

広瀬が打率4割をキープしていた1964年当時、近鉄バファローズ監督だった別当薫は、「日本一の選手は誰か」との問いに対し、「みんな長嶋、と騒ぐが、本当の意味の日本一ということなら、それは広瀬をおいて他にない」と言い切っていた[7]

全盛期を過ぎてから南海へ入団した門田博光藤原満は、天才としての広瀬を「選手としてはとにかく別格」(門田)、「とにかく半端じゃなかった。もうあんな選手は出てこんかもしれんね」(藤原)と表現している[66][67]

広瀬の打撃記録編集

広瀬は1964年に打率.366を記録しているが、一方で記録には執着しない淡泊な性格は打撃面にも影響し、鶴岡曰く「勝負の帰趨に自分の一打が関係無いと見ると、雑な打ち方をする」という面もあった[7]

1950年代から1960年代にかけては、リーグの平均打率が.240~.250ほどの「投高打低」時代だったが、打率傑出度(RBA)(各年度のリーグ平均を考慮して補正した相対的な打率)でみると、広瀬の通算RBAは歴代10位(通算7000打数以上の打者41名中)に相当する。これは右打者においては長嶋茂雄山内一弘落合博満江藤慎一に次ぐ歴代5位であり、先頭打者(リードオフマン)としては福本豊阪急ブレーブス)、柴田勲読売ジャイアンツ)よりも上位である[※ 9]

先頭打者の能力を示す指標の一つである「生還率」((得点-本塁打数)÷(出塁率-本塁打数))を見ると、広瀬の通算生還率は.421で、この数字は前述の通算RBAでも挙げた福本豊(.401)、柴田勲(.370)を上回る。さらに通算6000打数以上の打者81名において、通算生還率が4割を超えるのは広瀬と福本の2名のみで、通算300盗塁以上を記録した選手28名においては木塚忠助(.434)に次ぐ歴代2位である[68]。無用の盗塁企図を削ぎ落とした上でのこの記録は、野村も「(広瀬が三塁走者の場合は)ピッチャーゴロでも何でも良いから、とにかく前へ転がす。前へ転がしたら(広瀬が)絶対ホームへ帰って来る。なんせ反射神経が凄かった[69]」、杉浦も「(走者になったときの広瀬が)スタートを切る勘の良さは天才的。あの勘の良さは『動物的カン』というしかない[44]」と語っており、広瀬の際立った得点能力の高さを示している。

快速選手の広瀬らしく、二塁打・三塁打も多く記録している。通算88本の三塁打は歴代5位、右打者としては歴代1位である。さらに通算二塁打数と三塁打数を合わせた数字(482本)は、歴代7位(右打者としては山内一弘、長嶋茂雄に次ぐ歴代3位)である。その一方で本塁打は実働22年間で通算131本と多くないが、シーズン2桁本塁打を7度記録しており、それ以外にもポストシーズンやオールスターゲームなどの大舞台での印象的な本塁打が多い。

  • 1960年7月17日の対大毎オリオンズ17回戦(後楽園球場)は皇太子美智子妃の台覧試合で、広瀬は先制本塁打を放った。後年、この本塁打を「試合前に整列してお迎えした時から『どうにかして本塁打を打ちたい』と狙っていた」と述懐している[70]。試合は延長10回に野村が2点適時三塁打を放ち、4-2で南海が勝利した。
  • 1961年の日本シリーズ第4戦では、9回表に逆転2点本塁打を打った。この本塁打は9回裏のドラマ(寺田陽介の落球、スタンカ宮本敏雄への一投のボール判定とその直後のサヨナラ打)の序幕となっている。
  • 1973年の阪急とのプレーオフ最終戦で、9回表に山田久志からソロ本塁打を放った。結果的にこの1点が決勝点となり、南海がパ・リーグ覇者となった。
  • オールスターゲームでは、通算3本塁打を放っている(1961年第1戦、1966年第1戦、1969年第2戦)。このうち1961年、1966年は同試合のオールスターMVPに選ばれている。

固め打ちやサヨナラ安打も多く、猛打賞は通算169回(歴代9位)[71]、サヨナラ安打は通算14本(長嶋茂雄と並び歴代5位)を記録している。

三振の少ない打者でもあり、通算三振率(三振÷打数).074は、6000打数以上の打者81名では歴代7位、7000打数以上の打者41名では川上哲治(.056)、新井宏昌(.060)に次ぎ3番目に低い数字である[※ 10]。また、右打者でありながらシーズン2桁併殺打を記録した年は存在せず、通算2000本安打を達成した右打者としては唯一である(左打者では福本豊石井琢朗新井宏昌柴田勲(両打ち)が記録)。

守備編集

投手から野手に転向した当初は二軍で外野手であり、当時から外野守備には自信を持っていた[15]。その後、内野手に抜擢されたが、鶴岡一人曰く「併殺プレーのトスでも、鉄砲玉のような球を投げるという調子であぶなくて見ていられないくらいだった」という状態だった[72]。コーチの岡村俊昭に徹底的に鍛えられ、三塁手・二塁手としてデビューし、1957年からは木塚忠助の後継遊撃手として定着した。遊撃手時代は強肩かつ守備範囲が広く「木塚二世」といわれたが、エラーも多く、強肩が過ぎて大阪球場の内野スタンドに飛び込みかねない悪送球を何度もした。実際に送球がフェンスを飛び越え、スタンド中段に突き刺さったこともあった[10][73]。阪神の吉田義男を真似をして「捕球と送球の一体化を目指し」たが、早く投げようとすれば意識すればするほど、ボールよりも手のほうにボールが当たり、指先を突き指ばかりしたという(その後遺症で右手中指は太くなり先は曲がった)[73][74]

遊撃手時代の1958年には、最終戦(東映戦)で9回に敗戦に繋がるタイムリーエラーをし、1ゲーム差で西鉄に逆転優勝される一因を演じている[34]。「阪神の吉田が南海にいたら南海は優勝していただろう」とのファンの声を聞いて「穴があれば入りたいくらいだった」「もう遊撃手としての資格はないのか…」と思い詰めたという[18]。なお、同年5月10日の東映戦では、山本八郎の放った遊ゴロに対する広瀬の一塁への送球が右にそれたことが原因で(一塁手の足がベースから離れたようにも見えたが判定がアウトであったことに山本が激高)、山本が審判をビンタした上に蹴り倒し、無期限出場停止処分になるという騒動がおこっている。広瀬は「(審判を蹴り倒し、退場宣告がなされたあと)次はボールを処理したショートの私の方へ一目散に走ってくるのではないか、と腰が引けた」と回想している[75][76]

野村克也はそのような遊撃手時代の広瀬の守備を、「守備範囲が広く、強肩。誰も捕れないような強烈なゴロを、横っ飛びで捕った。超ファインプレーの連発である。しかし面白いもので、広瀬の弱点はイージーゴロにあった。真正面にゴロが飛ぶと、かえって危ないのだ。真正面のイージーゴロを、何度ファーストへ悪送球したことか。」と評している[50]

前述のように、1961年8月から外野手に転向し、「名センター広瀬」[10]が誕生した。強肩に加え、センターから左右両翼まで走りこんで捕球できるほどの守備範囲を誇り、「広瀬の守備範囲は両翼のポールまで」「もっとも守備範囲の広い中堅手」といわれた。両翼の外野手であった杉山光平穴吹義雄らには、フライが飛ぶとすぐに「広瀬!任せたぞ」と声を掛けられたという[1]。外野手としてシーズン353守備機会の日本記録と、1試合10守備機会・1試合10刺殺のパ・リーグ記録を持っている。1972年(広瀬がレギュラーとして過ごした最後のシーズン)には、その年に創設されたダイヤモンドグラブ賞を受賞している。

広瀬の中堅手としての水準の高さは以下の指標からも確認できる。

  • 守備範囲を評価する指標としてのアウト寄与率(レンジファクター(RF)、簡易的には「守備機会(刺殺+補殺+失策)÷試合数」で評価される)をみると、外野手に転向後の広瀬のRFは、晩年に至るまで毎年2.5前後(2.5超えは6度記録)で同時代の外野手では群を抜いている[※ 11]。通算RFも2.33であり、これは守備機会3000以上の外野手において歴代3位に相当する数字である(1位・2位は戦前・1リーグ時代からの選手である坪内道典古川清蔵[※ 12]
  • 強肩・送球の優劣を示す目安としての補殺数をみると、外野手として通算102補殺(1505試合)を記録している。1補殺あたりの試合数は14.75となるが、この数字は、同じく強肩中堅手と評価される飯田哲也の14.2(92補殺/1303試合)、新庄剛志の14.65(92補殺/1348試合)、山本浩二の14.76(154補殺/2273試合)とほぼ同じであり、最上位群に属する[※ 13]

外野手転向後においても、1964年までは内野手(二塁・三塁・遊撃)を毎年数~数10試合務めている。

人物編集

ニックネーム編集

「チョロ」については、監督の鶴岡(当時は山本姓)が新人時代の広瀬を見た際に発した広島弁の語尾「ちょる」から来ているとされる。その発祥については

  1. 野手転向後、よく練習する広瀬を見た鶴岡(当時は山本姓)が「広瀬はようやっちょる」と褒めたのを、選手たちが「ちょる」だけ取って広瀬のことを「チョル」と呼んだ。鶴岡がそれを聞き違えて「チョロか、おいチョロ」と呼んだ[3]
  2. 「叱られ役」だったことから「何しちょる」「どうしちょる」と言われていたところから[77]

と複数の見解がある。

なお、広瀬は著書で「塁上でチョロチョロするから、と思われがちだが、もう一つの意味もある」と前記2の見解を記しており、由来はともかく「チョロチョロする」という意味を否定はしていない[77]

身体能力編集

広瀬が超人的なバネをもっていたことに関する逸話は数多い。野村・杉浦としばしば寮の門限を破ったが、寮に帰ると、2階へ飛び上がって開いている窓から部屋に忍び込み、玄関に回って開錠するのは広瀬の役目であったという[8][78]大沢啓二は、遠征先の宿舎で、深夜、鍵のかかったホテルの正面玄関の雨除けのヒサシに手を掛け這い登り、自分の部屋に戻っていったという話を挙げ「当時の南海には天才的な運動神経の持ち主がぞろりと揃っていたが、ヒサシのぼりの芸当ができたのは広瀬ひとりだね」と証言している[41]杉浦忠も、「自分の身長より高いへいに片手をちょっと掛けただけで、ピョンと尻から飛び乗った」のを見て「まるで忍者」と語っている[44]中百舌鳥球場の高さ3メートルほどのフェンスに飛び乗って腰掛け(麻雀での負けを「帳消し」にする条件として長谷川繁雄から持ち出されたという)、周りを驚嘆させたこともあった[8][79]

野村は広瀬の運動能力について、「とにかく全身これバネ。飯田哲也も凄かったが格が違う」と述懐している[80]

広瀬自身は高校3年生の時に陸上競技、特に走幅跳をしたことで、「大きく跳ぶコツのようなものは会得できたのかもしれない」とその理由を説明している[79]

飛行機恐怖症編集

広瀬は大の飛行機嫌いで知られていた。1969年のオールスターゲームでは、第2戦が甲子園球場で行われたあと(この試合で広瀬は江夏豊から本塁打を打っている)、第3戦が中一日おいて平和台球場で行われたが、同じく飛行機嫌いであった江藤慎一と話し込みながら一緒に寝台特急で移動するところを近藤唯之に目撃されている[40]。現役時代は遠征は全て列車移動をしていたが、監督をしていた3年間は「もし、事故が起きて監督ひとりが生き延びたりしたら二度と人前には出られない」との思いから、必死で苦手な飛行機に乗り続けたという[33]

交友関係編集

野村克也との関係編集

現役時代は南海の同僚である杉浦忠野村克也と非常に仲が良かった[44]。三人で行動を共にすることも多く、鶴岡一人からは、黒澤明監督の映画「隠し砦の三悪人」をもじって「南海の三悪人」と呼ばれていた[44][81][※ 14]。杉浦とは家が近いこともあり、1959年の日本シリーズで最高殊勲選手に輝き、賞品に自動車をもらった杉浦に連日球場の送り迎えをしてもらっていた[82]。その後、気を遣った広瀬は自動車を衝動買いしたが、買ってから免許をもっていないことに気付き、練習して免許をとったという[8][82]

野村とはともに下積み暮らしをした間柄で長らく良好な関係だったが、野村が兼任監督になってから悪化する。広瀬は著書の中で「(当時は愛人だった野村沙知代が)球場へ出入りするなどしたことも、私は快く思っていなかった。以心伝心というものか、彼女も私が嫌いだったのだろう。用兵にまで口出したかどうかは知らないが、73年頃から私の出番は確実に減っていった」と記している[83]。加えて、野村が自らの代打に投手の村上雅則を起用したり、ヘッドコーチのドン・ブレイザーから「1本出れば勝てる」という9回二死満塁の打席でカウント3ボール1ストライクになっても(押し出し四球の方が期待できるという判断から)「待て」のサインを送られるなど、「プライドをこなごなに粉砕する」ような扱いを受けたことで、「ほとんど口もきかない間柄」になったという[83]

野村の著書[61]の中に、広瀬に相手投手の球種を教えようとしたが断られ絶句した、というエピソードが出てくる。これに対して広瀬は「何も考えずに打つ(のでそのような情報はむしろ邪魔)」という野村の見当について否定はしていないものの、「そういう(相手投手の投球が何なのか教えてもらうという)方法で打っても意味がない」として、相手バッテリーのサインを盗むような野村流の手段を選ばぬやり方への抵抗があったとの本心を披歴している[83]

2000年代に入ると、当時楽天監督を務めていた野村と、セ・パ交流戦の対広島戦に来場した際に試合前に取材を兼ねて会談。その際のエピソードを中継内で披露するなど、野村との関係も一時期と比較して修復されている。

2013年には福岡ソフトバンクホークス始球式に、野村とともに招かれ、久しぶりに談笑したという[81]

門田博光との関係編集

1969年秋のドラフト2位でホークスに入団した門田博光は、自身が若手のころの広瀬との思い出について、「今の時代と違って、年が2つも違えば口がきけなかった時代で、球場では話し相手がいなかった。ただ、その中でも広瀬さんは気さくでよく話しかけてもらっていた」「1つ年上の富田(勝)さんが広瀬さんと仲が良かったので、富田さんから声がかかって、『博光、飲みに行くぞ』と3人で街に出ることが多かった」と語っている[66]。 また、門田は、センター(広瀬)とライト(門田)で「先輩-後輩の臨機応変の理解のやりとりがあった」として、「(広瀬の)目がウルウルしておりまだ(前夜の)酒が残っていそうだな、と思えば、『今日はそっちまで追いかけていきましょうか』と言い、『おう、頼むぜ』という言葉が返ってきた」「そんな会話があってけっこう面白かった」と述懐している[84]

広瀬も著書にて「(若いころの門田に)やがて日本を代表するスラッガーになるだろうと思い、『カド、球種やコースが分かって打つのは勝負師やない。プロとプロの勝負に打ち勝ってこそ、初めて一流と言われる打者なんやぞ』と言ったことがある」と述べており[83]、野村流のサインを盗むようなやり方への抵抗の一方で、正義感が強く職人かたぎの門田に共感し将来に期待していたようである。監督時代には「このサムライみたいな男に命令口調は通じない」「監督と選手の間柄ではあっても、こちらが素直な気持ちで向き合うしかなかった」とも語っている[85]

鶴岡一人との関係編集

鶴岡一人は、前述のように広瀬をチームの「叱られ役」としていたが、一方で、「広瀬にはいうところない。あいつゼニの取れる選手や」とも評価し、可愛がっていた[7]。広瀬が鶴岡に可愛がられていたことは、用兵に感情が交ざると困るという理由で部下の仲人を断り続けていた鶴岡がその禁を自ら破り、1960年1月の愛弟子・広瀬の結婚式の仲人を務めたことからも窺われる[86]

広瀬の登場する作品編集

トキワ荘のリーダー格的な存在であった寺田ヒロオの代表作である『スポーツマン金太郎』では、1950-60年代の選手が数多く実名で出てくるが、広瀬も多くの場面で登場する。一例として、1959年および1961年の巨人との日本シリーズではその快速ぶりが描かれ、「巨人に金・桃(主人公の金太郎と親友でライバルの桃太郎)あれば、南海には広瀬あり」とアナウンサーに実況されている(完全版収録)[87]。また、桃太郎の南海への入団テストで桃太郎からホームランを打ったり、1965年のオールスターゲームで金太郎のセンターへの大飛球をファインプレーでキャッチしたりしている(講談社漫画文庫収録)[88]

水島新司の『あぶさん』では、主人公景浦安武のチームメイト(現役時代)および監督として登場する。前記の飛行機恐怖症を踏まえた描写がある(マネージャーだった鈴木正を取り上げた回[要文献特定詳細情報]。通訳だった市原稔が、事故のために次の遠征先への移動手段が飛行機に変更された際、「飛行機ぎらいの桜井さんと広瀬さんも乗せる」と話す)。

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1956 南海 19 26 25 4 10 1 1 0 13 5 2 0 0 0 1 0 0 3 1 .400 .423 .520 .943
1957 114 339 317 47 90 19 3 2 121 30 25 14 4 2 13 0 3 29 4 .284 .318 .382 .700
1958 120 536 504 82 145 36 5 7 212 31 33 10 2 1 25 1 4 36 2 .288 .326 .421 .747
1959 126 526 507 86 157 27 6 8 220 45 17 11 2 1 16 0 0 24 5 .310 .331 .434 .765
1960 128 542 521 70 140 24 10 10 214 46 25 4 0 0 20 1 1 38 9 .269 .297 .411 .708
1961 135 567 537 82 159 33 7 6 224 46 42 6 0 1 25 2 4 45 9 .296 .332 .417 .749
1962 130 577 515 99 144 21 6 12 213 54 50 9 3 6 50 2 3 57 4 .280 .347 .414 .760
1963 149 676 626 92 187 27 8 14 272 60 45 7 3 3 41 0 2 45 4 .299 .344 .435 .778
1964 141 505 456 110 167 35 6 12 250 58 72 9 0 7 39 4 3 31 1 .366 .420 .548 .968
1965 122 524 490 71 146 33 10 15 244 55 39 8 2 5 24 2 3 29 8 .298 .335 .498 .833
1966 110 395 376 49 98 17 6 12 163 39 28 5 2 0 16 1 1 33 3 .261 .293 .434 .726
1967 76 167 152 26 31 2 1 4 47 14 6 3 1 2 10 0 2 15 2 .204 .262 .309 .571
1968 121 445 412 73 121 25 7 5 175 40 44 2 1 4 25 1 3 25 5 .294 .339 .425 .763
1969 110 447 423 55 120 16 2 11 173 38 39 9 0 8 15 2 1 23 8 .284 .310 .409 .719
1970 124 528 483 63 108 15 2 7 148 31 28 7 4 2 38 1 1 29 4 .224 .282 .306 .588
1971 121 513 466 81 129 29 4 4 178 36 36 6 3 2 39 0 3 36 6 .277 .337 .382 .719
1972 110 419 374 54 90 14 2 0 108 25 42 7 2 5 38 0 0 28 9 .241 .311 .289 .599
1973 40 49 41 11 10 2 0 0 12 3 4 2 1 1 4 0 2 5 0 .244 .340 .293 .633
1974 65 123 111 16 31 5 1 2 44 17 6 2 0 0 11 0 1 10 2 .279 .350 .396 .746
1975 52 153 126 15 35 5 0 0 40 14 10 2 3 1 21 1 2 8 2 .278 .389 .317 .707
1976 27 64 56 6 10 2 0 0 12 4 2 0 0 0 8 0 0 6 4 .179 .281 .214 .496
1977 50 125 119 13 29 6 1 0 37 11 1 0 1 2 3 0 0 9 1 .244 .262 .311 .573
通算:22年 2190 8246 7637 1205 2157 394 88 131 3120 705 596 123 34 53 482 18 39 564 93 .282 .326 .409 .737
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB最高

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1970 南海 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 10 2.0 2 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0.00 2.50
通算:1年 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 10 2.0 2 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0.00 2.50

年度別監督成績編集

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 前後期
順位
チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1978年昭和53年) 南海 6位 130 42 77 11 .353 6位・6位 78 .239 4.01 42歳
1979年(昭和54年) 5位 130 46 73 11 .387 5位・6位 125 .276 4.86 43歳
1980年(昭和55年) 6位 130 48 77 5 .384 5位・6位 183 .274 5.63 44歳
通算:3年 390 136 227 27 .375 Bクラス3回
  • 1978年から1996年までは130試合制

タイトル編集

  • 首位打者:1回 (1964年)
  • 盗塁王:5回 (1961年 - 1965年)※1964年に達成した首位打者と盗塁王の同時獲得は史上初。後に佐々木誠(1992年)、イチロー(1995年)の2人が記録。

表彰編集

記録編集

節目の記録
  • 1000試合出場:1964年6月17日 ※史上85人目
  • 2000試合出場:1974年4月13日
その他の記録
  • 通算盗塁成功率:.829(596盗塁123盗塁死) ※300盗塁以上では、日本記録。
  • 通算ランニング本塁打:4本 ※歴代3位タイ。
  • シーズン盗塁成功率:.957(1968年) ※30盗塁以上では、日本記録。
  • シーズン連続盗塁成功:31(1964年) ※日本記録。
  • シーズン打席:676(1963年) ※パ・リーグ記録。
  • シーズン打数:626(1963年) ※日本記録。
  • シーズン打率:.366(1964年) ※右打者の歴代4位。
  • シーズン守備機会:353(1963年) ※外野手としての日本記録。
  • シーズン刺殺:353(1963年) ※外野手としてのパ・リーグ記録。
  • 1試合守備機会:10(1971年9月19日) ※外野手としてのパ・リーグタイ記録。
  • 1試合刺殺:10(1971年9月19日) ※外野手としてのパ・リーグタイ記録。
  • 22年連続シーズン盗塁(1956年 - 1977年) ※衣笠祥雄と並んで日本タイ記録。
  • 27試合連続安打(1964年5月14日 - 6月13日)
  • 21試合連続安打(1961年4月22日 - 5月17日)
  • 6年連続サヨナラ打
  • オールスターゲーム出場:9回(1958年 - 1963年、1965年、1966年、1969年) ※左記以外に、1964年、1968年はファン投票で選出されるも出場辞退。

背番号編集

  • 57 (1955年 - 1960年)
  • 12 (1961年 - 1979年)
  • 70 (1980年)
  • 82 (1991年 - 1992年)

関連情報編集

出演番組編集

脚注編集

[ヘルプ]

注釈編集

  1. ^ 広瀬は自著で「修学旅行と試合が重なったら躊躇なく修学旅行を取るような野球部だった」と述懐している[9]
  2. ^ 新宮正春「私のベストナイン プロ野球超人列伝」講談社 2000年 - 同著に次のエピソードが紹介されている。「広瀬が(一軍デビュー早々に)4安打した2日後のダブルヘッダー第1試合、てっきりスタメンに入れると思っていた広瀬を、鶴岡はベンチに置いたままそっぽを向き、2日前に広瀬の起用でスタメンを外れた森下を先発させた。第2試合の直前、鶴岡は、第1試合の間泣きそうな顔でベンチを暖めていた広瀬の肩をどやしつけ、「どや?試合に出てゼニを稼ぐことがどんなにえらいことかわかったか」と言った。広瀬が黙ってうなずくと“親分”は『よっしゃ!第2試合は蔭山の代わりにおまえが1番で三塁や。はじめから行け!』とドスのきいた声で言った。広瀬は胸がジーンとなったという。」
  3. ^ 「イチローのすべて」 朝日ソノラマ 1994年 p134 - 100安打到達時のイチローの打率は.398だったが、広瀬は.412だった。
  4. ^ 1970年当時は木塚の通算記録は478盗塁とされており、7月31日の対近鉄戦(日本生命球場)に記録した通算479個目の盗塁が日本新記録と報じられた[22]。しかし、その後木塚の記録が479に訂正されたため、現在ではこの試合での盗塁[23]が日本新記録だったことになる。
  5. ^ 柏原は日本ハムで移籍1年目から4番打者となっている。
  6. ^ 1984年の穴吹義雄監督時代に強豪時代の南海のシンボルカラー「ダークグリーン」が復活したが、野村監督時代からドン・ブレイザー監督時代までのチームカラーは明るい緑だった。
  7. ^ 南海電鉄3大事故による賠償、大阪南部・和歌山の南海沿線の人口・輸送人員の伸び悩み、マスコミのセ・リーグ(特に巨人)偏重・黒い霧事件・球団売却の頻発などの様々な要因によるパ・リーグ全体の人気低迷など。
  8. ^ 盗塁死2のうち、1つは一塁牽制時に追い出され、(投)-(一)-(遊)-(一)-(遊)-(一)と逃げ回った末に挟殺された記録上の盗塁死で、自分の意志で走って二塁で刺されたのは1回だけだった[39][要ページ番号]。当時の内規では、牽制死は一度でも先の塁に向かおうとしたら「盗塁死」とする決まりで、もし逃げ回らずに塁間で刺されたら盗塁死の記録にはならなかった。このように刺されまいと最善を尽くしたための記録上の盗塁死のため、1968年の連続盗塁成功数は23でストップしたが、この盗塁死が無ければその後の10回連続盗塁成功と合わせ、「33回連続盗塁成功」となっていた。参考記録ながら、福岡ソフトバンクホークス福田秀平が2011年から2015年の5シーズンにまたがり、32回連続で盗塁を成功させている。
  9. ^ 打率傑出度(RBA)については、『RBA通算記録[1956-2013]”. 日本プロ野球RCAA&PitchingRunまとめblog. 2015年5月16日閲覧。』などのサイトを参照。前述サイトによれば、平均打率.270を基準にした場合、NPB通算7000打数以上で通算2000本安打以上かつ通算300盗塁以上を記録した打者の通算RBAは、張本勲(.333)、松井稼頭央(.304、2015年まで)、広瀬(.302)、福本(.299)、高木守道(.289)、柴田勲(.282)、石井琢朗(.281)、秋山幸二(.278)である。
  10. ^ 野球の記録で話したい 良く三振する打者はだれか?”. 2015年5月16日閲覧。』 - 同サイトによれば、4000打数以上の打者で最も通算三振率(三振÷打数)が低いのは吉田義男(.047)である。
  11. ^ アウト寄与率(RF)については、『野球の記録で話したい 張本勲は本当に守備が下手だったのか”. 2015年4月30日閲覧。』等の諸サイトを参照方。前述サイトによれば、広瀬の簡易RFは、故障欠場の多かったシーズン(1964、66、67)を除き、1962-69まで全てリーグ1位、晩年にあたる1970-72においても2-4位である(シーズン100試合以上外野手として出場した選手での比較)。
  12. ^ 小野俊哉「プロ野球 最高のベストナイン」PHP新書 2010年 - 同書によると、守備機会3000以上の外野手の通算RFは、1位坪内道典2.73(3842守備機会/1407試合)、2位古川清蔵2.43(3690守備機会/1518試合)、3位広瀬叔功2.33(3507守備機会/1505試合)、4位中利夫2.303(4128守備機会/1792試合)、5位福本豊2.299(5272守備機会/2293試合)、6位新庄剛志2.27(3715守備機会/1638試合)である。
  13. ^ 「1補殺あたりの試合数」という簡易指標は、千葉功「プロ野球 記録の手帖」ベースボールマガジン社 2001年 (「週刊ベースボール」1989年7月24日号掲載記事)で用いられている。「1補殺あたりの試合数」を、名中堅手といわれた歴代選手で比較すると、飯田哲也14.2(92補殺/1303試合)、新庄剛志14.65(92補殺/1348試合)、広瀬叔功14.75(102補殺/1505試合)、山本浩二14.76(154補殺/2273試合)、中利夫17.4(103補殺/1791試合)、柴田勲18.2(113補殺/2056試合)、赤星憲広18.6(60補殺/1118試合)、秋山幸二20.3(96補殺/1948試合)、福本豊21.0(109補殺/2293試合)となる。補殺数と強肩とは必ずしも正の相関を示すとは限らないが(強肩を警戒して走者が自重したり、弱肩の外野手を中継に入る内野手がカバーする場合もあるため)、この指標は、各選手の肩・送球の優劣に対する評価と比較的整合しているように思われる。
  14. ^ 野村克也は、自身が南海監督時代に、個性が強く手を焼いた江本孟紀江夏豊門田博光の三人を、かつて自分が鶴岡から呼ばれたように「三悪人」と呼んでいる(「野村ノート」小学館 2005年)。

出典編集

  1. ^ a b ベースボールマガジン社、2013年[要ページ番号]
  2. ^ 「さらば!南海ホークス」ベースボール・マガジン社、1988年[要ページ番号]
  3. ^ a b 新宮正春 「プロ野球を創った名選手・異色選手400人」 講談社 1999年 p336-337
  4. ^ a b 広瀬、2014年、p.148
  5. ^ a b 日刊スポーツ連載《伝説》 元祖スピードスター 広瀬叔功(2) 2008年6月11日
  6. ^ 広瀬、2014年、p.149
  7. ^ a b c d e f g 夏堀、1964
  8. ^ a b c d e f g h i j k 大阪日刊スポーツ、2011年、pp.162 - 189
  9. ^ a b c d 広瀬、2014年、p.16
  10. ^ a b c d e 「ベースボールマガジン」1977年11月号 ベースボールマガジン社
  11. ^ 日刊スポーツ連載《伝説》 元祖スピードスター 広瀬叔功(3) 2008年6月12日。
  12. ^ a b 広瀬、2014年、p.17
  13. ^ a b 広瀬、2014年、p.18
  14. ^ 広瀬、2014年、pp.115 - 116
  15. ^ a b 広瀬、2014年、pp.19、116 - 117
  16. ^ 広瀬、2014年、p.117、125
  17. ^ a b c d e 宇佐美、1993pp.697-699
  18. ^ a b ベースボールマガジン 1959年9月
  19. ^ 「ベースボールアルバム No.119 イチロー オリックス・ブルーウェーブ」 ベースボールマガジン社 1994年 p59
  20. ^ 日刊スポーツ連載《伝説》 元祖スピードスター 広瀬叔功(9) 2008年6月20日。
  21. ^ Sports Graphic Number 1986[要ページ番号]
  22. ^ 「広瀬、盗塁に日本新」朝日新聞1970年8月1日20頁
  23. ^ 朝日新聞1970年8月3日16頁
  24. ^ a b 広瀬、2014年、p.110
  25. ^ 日刊スポーツ連載《伝説》 元祖スピードスター 広瀬叔功(4) 2008年6月13日。
  26. ^ a b 「週刊ベースボール 1977年10月10日号」ベースボールマガジン社
  27. ^ a b c d e ベースボール・マガジン社、2012[要ページ番号]
  28. ^ 広瀬、2014年、p.74
  29. ^ 朝日新聞1977年7月7日、16頁
  30. ^ 広瀬、2014年、pp.77 - 78
  31. ^ 広瀬、2014年、p.174
  32. ^ a b 日刊スポーツ連載《LEGEND伝説》栄枯盛衰~消滅球団の光と影(10)(南海編(5))2010年4月10日
  33. ^ a b 広瀬、2014、p.176
  34. ^ a b ベースボール・マガジン社、2008年[要ページ番号]
  35. ^ 「傷だらけの野アザミ 打席に咲けない南海の主砲 門田博光」、『サンデー毎日』、毎日新聞社、1979年5月27日号、 158-161頁。
  36. ^ 戸部良也「ID野球の父 プロ野球に革命を起こした「尾張メモ」再発見」 ベースボール・マガジン社 2012年
  37. ^ 広瀬、2014年、p.176
  38. ^ 「ホークス九州20年史 1989-2008 飛翔!若鷹軍団」 ベースボール・マガジン社 2008年 P29
  39. ^ 宇佐美、1993
  40. ^ a b c d 近藤唯之 「プロ野球 名人列伝」PHP文庫 1996年 p214-230
  41. ^ a b c 近藤唯之 「プロ野球 男の美学」PHP文庫 1996年 p106-119
  42. ^ 大沢啓二「こんな野球をやってきた 球道無頼」集英社 1996年
  43. ^ 野球鳥ブログ”. 2015年6月27日閲覧。[リンク切れ]
  44. ^ a b c d e f 杉浦、1995年、pp.182-184
  45. ^ 別冊宝島』1517号「プロ野球情念の天敵対決」2008年 宝島社 p87-p88
  46. ^ a b c 福本、2009年[要ページ番号]
  47. ^ a b 千葉功「日本プロ野球記録史2 昭和41年-昭和44年」ベースボールマガジン社
  48. ^ 「私の履歴書 プロ野球伝説の名将」(西本幸雄)日経ビジネス文庫 2007年
  49. ^ 「日本プロ野球偉人伝 5」ベースボールマガジン社
  50. ^ a b c 野村克也の本格野球論 本物の野球はどこへ行った! 野村克也が語る「広瀬叔功」”. ベースボール・マガジン社 (2017年1月23日). 2018年2月28日閲覧。
  51. ^ レジェンドに聞け! 第25回広瀬叔功「クセを見抜く盗塁は間違ってる」”. ベースボール・マガジン社 (2014年8月25日). 2018年2月28日閲覧。
  52. ^ 広瀬、2014年、pp.157 - 158
  53. ^ 広瀬、2014年、p.167
  54. ^ 広瀬、2014年、pp.161 - 162
  55. ^ a b Sports Graphic Number、1989年[要ページ番号]
  56. ^ 「20世紀のベストプレーヤー 100人の群像」(ベースボールマガジン社刊、2000年)、P38。
  57. ^ a b 広瀬、2014年、pp.68 - 69
  58. ^ 野村克也の本格野球論 本物の野球はどこへ行った!「捕手の仕事」”. ベースボール・マガジン社. 2015年9月13日閲覧。
  59. ^ 伝説-スポーツ王国日本 歴史を作った者たち- - nikkansports.com [リンク切れ]
  60. ^ 野村克也「女房はドーベルマン」 双葉社 2002年
  61. ^ a b 野村克也「「攻め」と「守り」の管理学」 PHP文庫 1987年
  62. ^ 浅草キッド「濃厚民族」スコラマガジン 2003年 p228-229
  63. ^ 「南海ホークス50年 栄光の歴史」1988年
  64. ^ 岡本伊三美「岡本、少しは野球 面白ぅなってきたか-名将・鶴岡一人に学んだこと」SIC 2011年 p59
  65. ^ 「私の履歴書 プロ野球伝説の名将」(鶴岡一人)日経ビジネス文庫 2007年
  66. ^ a b LEGEND HAWKS #01”. 福岡ソフトバンクホークス. 2015年7月6日閲覧。
  67. ^ LEGEND HAWKS #02”. 福岡ソフトバンクホークス. 2015年7月6日閲覧。
  68. ^ 広瀬以下は、ロベルト・バルボン(.411)、福本(.401)、呉昌征(.400)の3名しか存在しない。
  69. ^ 野村克也の本格野球論 本物の野球はどこへ行った!「ドラフト/天才だと思った選手」”. 2015年6月3日閲覧。
  70. ^ 広瀬、2014年、p.42
  71. ^ “王に並んだ!楽天・松井稼、歴代7位の171度目猛打賞(4)”. サンケイスポーツ. (2015年4月25日). http://www.sanspo.com/baseball/photos/20150425/gol15042505020003-p4.html 2015年9月13日閲覧。 
  72. ^ 鶴岡一人「栄光と血涙のプロ野球史」恒文社 1977年
  73. ^ a b 広瀬、2014年、p.183
  74. ^ 週刊ベースボール「20世紀の偉球人 吉田義男 - 語り手 広瀬叔功」 2000年
  75. ^ 週刊プロ野球 セ・パ誕生60年 Vol.11(1958年)
  76. ^ 広瀬、2014年、p.137
  77. ^ a b 広瀬、2014、p.22。これは広瀬による推測である。
  78. ^ 広瀬、2014年、p.65
  79. ^ a b 広瀬、2014年、pp.150 - 151
  80. ^ 野村克也「私の教え子ベストナイン」光文社 2013年
  81. ^ a b 広瀬、2014年、pp.65 - 66
  82. ^ a b 広瀬、2014年、p.98
  83. ^ a b c d 広瀬、2014年、pp.72 - 76
  84. ^ 門田博光「門田博光の本塁打一閃」ベースボールマガジン社 2006年
  85. ^ 広瀬、2014年、p.56
  86. ^ 日刊スポーツ連載《伝説》 元祖スピードスター 広瀬叔功(8) 2008年6月19日。
  87. ^ 寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎[完全版]」MSS 2009年
  88. ^ 寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」講談社漫画文庫 1976年

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集