足利義政

室町幕府の第8代将軍
足利義成から転送)

足利 義政は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代征夷大将軍[2](在職:文安6年4月29日1449年5月21日) - 文明5年12月19日1474年1月7日))。

 
足利 義成 / 足利 義政
伝足利義政像[注釈 1](伝土佐光信画、東京国立博物館蔵)
時代 室町時代中期 - 戦国時代初期
生誕 永享8年1月2日1436年1月20日
死没 延徳2年1月7日1490年1月27日
改名 三寅、三春(幼名)→義成(初名)→義政
戒名 慈照院喜山道慶
墓所 京都市上京区相国寺
官位 征夷大将軍従一位右馬寮御監内大臣右近衛大将左大臣太政大臣
幕府 室町幕府 第8代征夷大将軍
(在任:1449年 - 1473年
氏族 足利氏足利将軍家
父母 父:足利義教、母:日野重子
兄弟 義勝政知義政義視、ほか
正室:日野富子
側室:大舘佐子、ほか
実子:義尚等賢同山義覚光山聖俊堯山周舜、ほか
養子:義視(実弟)義稙(義視の子)義澄(政知の子)
特記
事項
銀閣寺建立
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第6代将軍・足利義教の五男[3][4]。母は日野重子。第7代将軍・足利義勝の同母弟にあたる。

幼くして兄の跡を継ぎ、成長後は近習や近臣とともに親政に取り組むが、有力守護の圧力に抗することはできなかった。守護大名の対立はやがて応仁の乱を引き起こすこととなる。東山文化を築くなど、文化人的側面も多く見られるようになったが、大御所として政治に関与し続けた[5]

名称 編集

元服して義成と言い、後に義政に改名した。

当時の主な呼称は室町殿[6]。足利義政は後世の便宜上の歴史用語である。前近代の日本人は通称を併記せずに名字(苗字)+実名で名乗ったり、公文書に署名することは基本的に無い[7]。義政含め歴代室町将軍は署名にもっぱら本姓を使い、室町殿や公方様などの通称で呼ばれ、区別をつける必要がある場合も例えば足利尊氏等持院殿と書かれるなど、実際に足利を名乗ったり呼称された記録は確認できない[8]。妻の「日野富子」も歴史用語に過ぎず、夫婦別名字の例として挙げるのは不正確である[9]

生涯 編集

将軍職就任 編集

永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍・足利義教と側室・日野重子の間の庶子として生まれた[3][4]。義教にとっては五男であり、嫡子・足利義勝の同母弟であった[3][4]。幼名は三寅、のちに三春と呼ばれている[10]

嫡子である兄・義勝が政所執事・伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、義政は母・重子の従弟である烏丸資任の屋敷にて育てられた[11][12]。そして、後継者の地位から外された他の兄弟と同じく慣例に従い、出家して然るべき京都の寺院に入寺し、僧侶として一生を終えるはずであった[10]

嘉吉元年(1441年)6月24日、父が嘉吉の乱赤松満祐に殺害された後、兄・義勝が第7代将軍として継いだ[10]

嘉吉3年(1443年)7月21日、義勝も早逝したため、義政は管領畠山持国などの後見を得て、8歳でその後継者として選出された[10]。 後継者と決まった直後より、三春は将軍家の家長たる呼称「室町殿」と呼ばれている[13]

文安3年(1446年)12月13日、三春は後花園天皇より、義成の名を与えられた[14]。このとき、後花園天皇が宸筆を染め、天皇による命名といった形式が取れられていることから、先例に倣ったものとされる[14]。また、「成」の字が選ばれた理由としては、「義成」の字にどちらも「戈」の字が含まれていることより、戊戌の年に生まれた祖父・足利義満の武徳が重ねられたと考えられている[14]

文安6年(1449年)4月16日、義成は元服し、同月29日に将軍宣下を受けて、正式に第8代将軍として就任した[14]。また、同日のうちに吉書始を行って、宮中に参内している。

義政の初政 編集

義成は将軍宣下からまもなく、先例より一年早い14歳で政務をとる「判始」の儀式を行った[15]。判始の後に管領・細川勝元が一旦辞意を表明しており、これは将軍親政が始まる際の慣例であった[15]。享徳4年(1455年)ごろまでは管領の命令書である管領下知状が発給されていたが、義成も度々自筆安堵状を発給しており、享徳元年(1452年)には最初の御判御教書を発給している[15]

この頃、義成の側近であったのは、乳母の今参局(御今)、育ての親とも言える烏丸資任、将軍側近の有馬元家であった。この三人は「おい」、「からす」、「あり」と、「」がついており、落書で「三魔」と呼ばれた[16]。一方で、これに対抗する母・重子も度々人事に介入を続けた[17]。近臣や女房衆が台頭するのは親政期の特徴であり[17]、この時期の室町幕府を「義政専制」体制にあったとする説も存在している[18]

宝徳2年(1450年)、義成は独断で尾張守護代を織田敏広から織田郷広に交替させようとし、抗議した母・重子が出奔するという事件が起きている[19]

享徳2年(1453年)6月13日、義成は改名し、義政と名乗った[20]。その理由としては、後花園天皇の第一皇子(のちの後土御門天皇)のが、成仁親王と決まったことであった[20]。諱を口にすることは古来より忌避されており、天皇候補者の名が決まった際には臣下はその字が含まれた名を改名するのが常であり、義政も慣例に従ったのであった[20]

当時の守護大名では家督相続に関する内紛が多く、義成はこれらの相続争いに積極的に介入した。しかし、加賀守護であった富樫氏の内紛(加賀両流文安騒動)では管領細川勝元の反対を受けて義成の意のままに相続権を動かすことができなかった。享徳3年(1454年)、畠山氏お家騒動が起こり、8月21日山名宗全と細川勝元が畠山持国の甥畠山政久を庇護して持国と子の畠山義就を京都から追い落とした。義政はこの問題で義就を支持、29日に政久を匿った勝元の被官を切腹させ、11月2日に宗全退治を命令、翌3日の宗全隠居で撤回、12月6日に宗全が但馬に下向した後、義就が13日に上洛、義政と対面して家督相続を認められ、政久は没落した。

享徳4年(1455年)には関東で享徳の乱が発生、関東管領上杉房顕駿河守護今川範忠越後守護上杉房定らを出陣させ、幕府軍は鎌倉を落とし、成氏は古河に逃れた(古河公方)。

義政の義就支持は、細川氏山名氏に対抗するため、尾張守護代問題で今参局を介して持国を抱き込んだからで、宗全の退治命令も義就復帰の一環とされ、同時に嘉吉の乱で宗全に討伐された赤松氏の復興を狙ったとされる。赤松則尚は11月3日に播磨に下向しているが、翌享禄4年(康正元年、1455年5月12日に宗全に討たれている。

幕府財政は義教の死後から、土一揆の激化で主要な収益源である土倉役を失い、困窮を深めていた。しかし、康正元年(1455年)の分一銭徳政改正などの税制政策により、義政の親政期から幕府財政は急速に回復していった。

康正2年(1456年)には長年の懸案であった内裏再建を達成し、7月には義政の右近衛大将拝賀式が盛大に執り行われた[21]。さらに義政は寺院や諸大名の館への御成を頻繁に行ったが、これは贈答品を受け取ることによって幕府の収入を増加させることにもつながった[22]。義政は「毎日御成をしてもかまわない」と側近に語っている[22]。一方で、康正3年には義就が上意と称して度々軍事活動を行い、激怒した義政は度々その所領を没収している[23]

享徳2年頃から義政は父義教の儀礼を復活させ、長禄2年(1458年)には「近日の御成敗、普光院(普広院、義教の号)御代の如くたるべし」と宣言し、義教の側近であった季瓊真蘂を起用し、義教路線の政策を推し進めていくことになる[24]。特に武士に横領された寺社本所領の還付を求める不知行地還付政策は、義政終生の政策課題となった[24]

近江国の六角氏では、康正2年10月に京極持清と対立した近江守護の六角久頼が憤死(自害とも)し、幼少の亀寿丸(後の六角高頼)が家督を継承した。しかし、長禄2年6月に突然亀寿丸が追放され、先に家督簒奪によって幕命で攻め滅ぼされた六角時綱(久頼の兄)の遺児である六角政堯が当主になった。従来は伊庭満隆ら家臣団の意向とされてきたが、近年では若年の亀寿丸による近江統治を不安視する義政による六角氏への介入の結果とする説が出されている[25]

3月には嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が、後南朝から神璽を奪還し、8月30日朝廷に安置された。義政はこの功績で10月14日赤松政則を北加賀の守護に任命、赤松氏を復帰させた。これに先立つ8月9日に、赤松氏の旧領播磨国守護であった宗全が赦免されているが、これは勝元と相談の上で行った懐柔策とされる[26]

同年に異母弟の政知を鎌倉公方として下向させたが、政知は鎌倉へ入れず堀越に留まった(堀越公方)。 それが原因の1つとなり甲斐常治と斯波義敏が越前で長禄合戦を引き起こした。義敏は享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前守護代であった常治の反乱の鎮圧を行ったため、義政は抗命を理由に斯波氏の当主交代を行い、義敏の子・松王丸(義寛)へ当主を交代させた。長禄合戦は常治が勝利したが、直後に常治も没し、関東派遣は見送られた。

伊勢貞親の勢力拡大と混乱 編集

長禄3年(1459年)正月9日、富子との間に第一子となる男子が生まれるが、その日のうちに夭折した。母・重子らによって今参局に呪詛の疑いがかけられると、同月のうちに彼女を琵琶湖沖島に流罪とした(本人は途中で自刃)。また、2月8日に義政の側室4人(大舘佐子(佐子局)、阿茶子局、赤松貞村の娘、北野一色妹)も今参局の呪詛に同意したとして、御所から追放された[27]。なお、側室4人はいずれも、宝徳3年(1451年)3月以降に義政の娘を出産していた[27]

今参局にかわって、近臣の伊勢貞親が急速に影響を強め、義政の親政は強化されていった[28]。また同年には畠山政久が赦免された。年末には、長年住み慣れた烏丸殿から新造された花の御所の「上御所」に移り[29]、親政の拠点として位置づけようとした[30]。貞親は義政の将軍職就位前から「室町殿御父」と呼ばれる存在であり[31]、幕府財政再建についても大きな功績があり、右大将拝賀式では大名並みの扱いを受けている[32]。一方で守護大名達の反発は強まっていった[31]

政久が死去した後は弟の政長が勝元に擁立され、宗全も復帰したため、長禄4年(1460年)9月に畠山家家督を義就から政長に交代させた。義就は河内国嶽山城に逃れて2年以上も籠城し、政長との戦闘を繰り広げた。このため戦乱を逃れた流民が大量に京都に流入した。 しかし長禄4年ごろから飢饉や災害が相次いており、特に寛正2年(1461年)の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらしていた。流入した流民の多くは飢え、一説では2ヶ月で8万2千の餓死者を出し[33]賀茂川の流れが死骸のために止まるほどであったとされる。同年春に後花園天皇が漢詩で義政に「満城紅緑為誰肥」と訓戒する詩を送っているが、尋尊が「公武御成敗諸事御正体なし」と批判するように、当時の世上では朝廷も含めて批判の対象となっていた[33]

文正の政変 編集

寛正2年(1461年)に斯波氏の家督交代を行い、松王丸を廃嫡して渋川義鏡の子義廉を当主に据えた。この行為は堀越公方政知の執事である義鏡を斯波氏当主の父という立場で斯波氏の軍勢動員を図ったのだが、義鏡は寛正3年に扇谷上杉家と対立、失脚してしまった。

寛正4年(1463年)8月、母・重子が没したために恩赦を行い、畠山義就と斯波義敏父子は赦免された。ただし、追討令解除と身の安全の確保に過ぎず、当主復帰は認められなかった。義敏の赦免に動いたのは伊勢貞親であり、義敏を斯波氏家督に復帰させようと計画していた[34]。この状況に焦った義廉は、山名宗全と縁組をし、畠山義就との関係も深めた[34]

寛正5年、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定した。寛正6年(1465年)11月に富子に男児(後の足利義尚)が誕生した。『応仁記』などでは富子が義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名宗全に協力を頼み、義視は管領の細川勝元と手を結んだとされる[31]。しかし義視は義尚誕生後も順調に官位昇進を続けており、また義視の妻は富子の妹であった[35][36]。義政には大御所として政治の実権を握る意図があり、義尚誕生後も義視の立場を変えなかったのは義尚が成長するまでの中継ぎにするためともされる[35]。しかし義尚の乳父であった伊勢貞親ら近臣は義政の将軍継続を望んでおり、義視を支援する山名宗全・細川勝元らとの対立は深まっていった[35]。また12月30日に義敏が上洛して義政と対面し、義廉派の焦燥はいよいよ深まっていった。

文正元年(1466年)7月28日には琉球国王の来朝使者である芥隠承琥が上洛した。義政は庭先に席を設けて引見し、芥隠はその上で三拝した。礼物も「進物」と呼ばれていた(『斎藤親基日記』)(『蔭凉軒日録』)[37]

7月23日に義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じて義敏を家督に据え、8月25日に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与えた。7月30日河野通春を援助して幕府から追討命令を受けていた大内政弘も赦免したが、これは大内氏と斯波氏の引き入れを図ったとされる。しかし山名宗全・細川勝元らはこれに抵抗し、義政が発出した義廉の追討命令にも従わなかった[38]。また義廉は義視に接近しており、これも貞親らの疑念を駆り立てた[39]

9月6日、貞親はついに義視の排除に動き、謀反の疑いで義視を切腹させるよう訴えた。義政も一旦は義視を切腹させるよう命じたが、細川勝元・山名宗全等によって制止され、貞親・真蘂・義敏らは逃亡、義政側近層は解体に追い込まれた(文正の政変[40]。しかしこれによって急速に権力を拡大した勝元と宗全は対立するようになり、畠山家の家督争いに介入するようになった[41]

応仁の乱 編集

文正元年12月に畠山義就が宗全の呼び出しで上洛した。文正2年(1467年)正月、義政は義就支持に転じ、家督と認めた。これに反発した政長は義就と合戦に及び、敗走した(御霊合戦)。義政は各大名に介入を禁じたが、細川勝元は従ったものの山名宗全は公然と義就を支援し、勝元の面目は丸つぶれとなった。勝元は捲土重来を期して味方を集め、5月からついに山名方との戦闘が始まった(上京の戦い)。義政は当初は停戦命令を出したが、6月に東軍の勝元に将軍旗を与え、西軍の宗全追討を命令した[42]。戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。

8月になって後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所(室町殿)に避難すると、義政は急遽御所を改装して仮の内裏とした(上皇は直後に出家して法皇になる)。以後、文明8年(1476年)に花の御所が焼失して天皇が北小路殿(富子所有の邸宅)に御所を移すまで、天皇と将軍の同居という事態が続くことになる。天皇家と足利将軍家の同居という事態は様々な波紋を生み出した。後花園法皇は天皇在位中より義政と蹴鞠の趣味を通じて親交が厚かったが、同居によって公武関係に引かれていた一線が崩れ去り、義政と富子は度々内裏に充てられていた部屋において法皇や天皇とともに宴会を開いた。応仁の乱の最中に義政は度々「大飲」を繰り返したとされているが、実はその場に常に共にしていたのが後土御門天皇であった(『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条など)。なお、この間の文明2年12月に後花園法皇が崩御しているが、その最期を看取ったのは義政と富子であり、義政は戦乱中の徒歩での葬列参加に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀・法事に関する全ての行事に参列した[12]

義視は東軍の総大将とされたものの、一時は伊勢国に出奔するなど立場は不安定であり、応仁2年(1468年)には義政が没落していた伊勢貞親を呼び戻したことで、反発した義視は西軍に身を投じた[43]。 また、西軍の有力武将朝倉孝景の寝返り工作も行い、文明3年(1471年5月21日に越前守護職を与える書状を送っている。

文明5年(1473年)、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は12月19日に将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居した。しかしまだ義尚は幼少であったため実権は義政にあり、富子の兄日野勝光伊勢貞宗がこれを補佐した。また近習を使って和平工作に取り組んでいた[44]。大乱の前後を通じて義政は政務を引き続き行い、管領を除外して奉行衆や女房衆を中心とした体制が構築されていった[45]。一方で享楽的な生活を送っていたとされており、尋尊は「公方は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の如くなり」と批判している[46]

晩年 編集

 
銀閣寺

隠居後の文明8年(1476年)に花の御所が京都市街の戦火で焼失、小川殿に移ったが、富子と義尚が小川殿へ移ると、義政は富子の居所を造営した。文明9年(1477年)に応仁の乱は終わったが、尋尊が「日本国は悉く以て以て(将軍の)御下知に応ぜざるなり」と嘆いたように、幕府権力は低下した[47]

文明11年には義尚が判始めを行い、政務をとることとなったが、義政は権限をほとんど手放さなかった[48]。そのため、義尚は奇行に走るようになり、翌年・翌々年と髻を切って出家しようとする騒ぎを起こすこととなる[48]

文明13年(1481年)、義政は富子から逃れるように長谷の山荘に移り、翌年から東山山荘の建築を本格化させる[49] が、諸大名からは石の献上はあっても、費用の取り立ては思うようにいかず、京都がある山城国の公家領・寺社領からの取り立てで補うこととなった。

文明14年(1482年)には東山山荘(東山殿)の造営をはじめ、祖父義満が建てた金閣を参考にした銀閣などを建てた。この年、7月に義政は天下の政務を譲ることを表明した[50]。また同年11月、義政は古河公方・足利成氏と和睦し、20年以上に渡った京都と関東の対立を終結させた(都鄙和睦)。

文明15年(1483年)6月、建物がある程度完成した東山山荘に移り住み、以降は義政は「東山殿」、義尚を「室町殿」と呼ぶこととなった[51][48]。だが、実際には義尚は多くの分野で義政の承認が無ければ裁許を行うことが出来なかった[52]。また義尚が畠山義就支援に転換しようとすると、義政はこれに猛反発して朝廷に義就治罰の綸旨を出させている[53]

文明16年(1484年)には赤松政則浦上則宗の対立を仲介して和解へ導き、文明17年(1485年)4月には後土御門天皇直々に御料所からの年貢の滞りの相談を受けて自腹で5000疋を用立てて皇室の財政難を救うなど、依然として影響力の大きさを示していた[12]。だが、5月に義尚の側近奉公衆と義政の側近奉行衆が武力衝突する事件が起こるなど、義政と義尚の対立は激化する。そのため、6月に義政は剃髪して出家し、事実上政務から離れることを決め、翌文明18年(1486年)12月には改めて政務からの引退を表明した[53]

しかし、対外関係と禅院関係(所領問題や公帖の発給)については最後まで義政は権限を手放そうとせず[48]伊勢貞宗亀泉集証の補佐を受けて自身で裁許した。例えば、和泉守護が堺南荘の代官を得て支配に乗り出そうとした際、領主である崇寿院の依頼を受けて同荘を崇寿院の直務支配にすることを決定している[54]。更に幕府権威回復のために義尚が六角討伐を行うと、幕府軍(義尚の側近や奉公衆)らによる現地の寺社本所領兵粮料所化による事実上の押領が行われ、却って被害を受けた寺社などの荘園領主達からは義政の政務への関与による救済が期待される状況となってしまった[52]。そのため、義政は度々政務に介入することとなった。

最期 編集

義尚の生前から、富子の支持により、美濃土岐成頼の下に亡命していた義視とその子の義材を呼び寄せ、義材を義尚の名代とする計画が進行していたが、義政はこれを全く知らなかった[55]

延徳元年(1489年)3月、義尚は六角討伐の陣中で死去した。だが、義政はここで再び政務をとる意思を明らかにし、実際に政務をとることとなった[56]。しかし、8月に義政が中風に倒れ、10月に再び倒れて病床に伏した。この時、義政はようやく、義視と義材の面会を許している[57]

延徳2年(1490年)1月7日、義政は銀閣の完成を待たずして、義尚の後を追うように死去した。享年55(満54歳没)。

人物・評価 編集

 
足利義政の墓

文化面では、義政は功績を残している。庭師の善阿弥狩野派の絵師狩野正信土佐派土佐光信宗湛能楽者の音阿弥横川景三らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた(後に慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る)。この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。初花九十九髪茄子など現在に残る茶器も作られた。

義教の死後中断していた勘合貿易宝徳3年(1451年)に復活した。以後貿易は16世紀半ばまで続き、経済交流と文化発展に寄与することとなった。財政再建策が功を奏して、義政の治世前半は義満の時代と並んで、幕府財政は安定期であったとされている。しかし応仁の乱以降幕府財政は弱体化していった。東山御物の名で知られる将軍家の宝物は、その名のイメージと異なり義政の代は逆に流出期であった。その後、貿易の実権は細川家や大内家によって握られ、将軍家は経済的にも衰退した。

永井路子は、義政の先々代・足利義教の独裁とその末路を考慮して、「周囲の人々は義政を『死なぬように、生きぬように』お飾りとして育てた。義政の人格と治世は、そうした歪んだ教育の結果だ」と評している[58]。また、史料に見える義政は将軍としてのスケジュールには従順であり、永井はそこから源実朝によく似た人物だと義政を評した[59]

赤松俊秀は、「無能の烙印を押すのは可哀想だ。将軍として立派に行動しようとしたが、結果は幕府の衰退という失敗に終わってしまっただけ」と評している[60]。また、赤松は「将軍でありながら、彼ほど『人に抑えられた』人物はいないだろう」と指摘している[61]

経歴 編集

※ 日付=旧暦

系譜 編集

偏諱を受けた人物 編集

(※ > より右の人物は、>より左の人物から1字を賜った人物を示す。詳しくは該当項目の「偏諱を与えた人物」を参照のこと。)

義成時代 編集

*「成」の読みは「しげ」。

公家
武家

義政時代 編集

(*享徳2年(1453年)、「義成」から改名。)

公家(*出身者僧侶も含む)
武家

足利義政を主題とした作品 編集

小説
TVドラマ

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ この肖像は、江戸時代後期から足利義政像とされてきたが、この肖像画の人物が義政であるという確証はない。実際この画中にて、像主の家紋を入れる故実(大和絵肖像画上のルール)があるの縁、鏡台蒔絵指貫などの装束に「左三つ巴」紋が散りばめられている。足利家の紋は桐紋で、他の足利家の肖像画でもそのように描かれるのが通例なため、この伝足利義政像の像主は足利家の人物(それも当主の義政)とするには疑問が残る。そこで、左三つ巴紋は西園寺家庶流の家紋であり、画中に親王か大臣以上が用いる大紋縁の畳が描かれていることから、家紋は不明だが大臣を輩出する洞院家の誰か、特に東山左大臣と呼ばれた洞院実熙の可能性が高い。この肖像が画中の家紋を無視して義政像とされてきた理由は、本来の表具や箱などに記されていたと思われる「東山左大臣」を、義政の称号「東山殿」と混同し、「東山左大臣」の表記が失われた後も義政像という伝承だけは残ったためだと推定する説がある[1]
  2. ^ 政知は庶子であったため、初めは出家して「清久(せいきゅう)」を名乗っていたが、還俗の際(義政が改名して後の長禄元年(1457年))に義政から偏諱の授与を受けて「政知」に改名。(庶子であるがゆえに実際は弟として扱われていたのだろうが)兄が弟から偏諱の授与を受けるのは極めて珍しいことである。
  3. ^ 義政最晩年の命名で、本来なら次代の義尚から偏諱の授与を受けるところだが、義尚は直前に亡くなっていた。

出典 編集

  1. ^ 落合謙暁「土佐家伝来の伝足利義政像について」『日本歴史』772号、吉川弘文館、2012年。 
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 34頁。
  3. ^ a b c 家永遵嗣 2014, p. 6.
  4. ^ a b c 石田 2008, p. 114.
  5. ^ 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 294-296.
  6. ^ 森田(1993)40頁
  7. ^ ジョアン・ロドリゲス著、池上岑夫訳『日本語小文典(下)』岩波書店、1993年、126-127頁、尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、291-292頁
  8. ^ 上島有『日本文書学論集8中世IV』吉川弘文館、1987年、8頁以下
  9. ^ 後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館、2009年、138-139頁
  10. ^ a b c d 榎原 & 清水 2017, p. 205.
  11. ^ 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 236,284.
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  13. ^ 榎原 & 清水 2017, pp. 205–206.
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参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集