大脱獄 (1975年の映画)

大脱獄』(だいだつごく)は、1975年(昭和50年)4月5日東映系で公開された日本映画である。91分。なお、ジョセフ・L・マンキウィッツ監督作品の『大脱獄』(1970年公開)とは別の作品である。

目次

製作経緯編集

最初は高倉健渡哲也五木ひろしの3大スター共演を予定していたが[1]、五木がギャラ問題で降りた[1]。代わりに菅原文太が抜擢され[1][2]、これにより高倉、渡、菅原の3大スター共演で予定され[2]、実際に3人の名前の書かれたポスターも製作された[3]。渡は1972年から石原プロモーションに所属していたが、岡田茂東映社長(当時)が「高倉健の次の東映の看板スターにしたい」と東映に引き抜こうとして熱心に誘い[4][5]、渡自身も強く東映入りを希望したため[4]、渡は東映入りの報道もされた[4]。岡田社長はこの1975年の東映大作に渡を続々出演させて「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の"渡路線"を確立することだ」とぶち上げ[5]、"東映スター渡"をイメージ付けようとした[5]。ところが、渡はこの年2月に公開された『仁義の墓場』前後の全国キャンペーンで再び体調を崩し、3月に入院して、本作を含め以降全ての仕事をキャンセルした[4][6][7][8]。高倉、渡、菅原の共演は以後も実現せずに終わり、渡と高倉、渡と菅原の共演も実現することはなかった[5]

あらすじ編集

網走刑務所を脱獄した7人の死刑囚のうち生き残りの一人・梢一郎は、極道仲間の剛田と手を組み銀行強盗を起こしたが、剛田は梢一人に罪を重ねて逃亡した。

梢は自分の妻子を殺した剛田の黒幕・松井田に国岩邦造と共に復讐する。

逸話編集

高倉健は1970年に大川博東映社長(当時)の了承をもらい、東映所属のまま高倉プロを設立したが[9][10]、1971年に大川が死去して社長が岡田茂に代わると、特例は認めないとそれを反故にされた[9][11]プログラムピクチャーの量産時代には高倉は年に10本以上の映画に出ていたが、1972年以降は東映の映画に出たがらなくなり[9]、1972年が5本、1973年が3本、1974年は1本のみの出演で、1975年の本作出演後、『新幹線大爆破』と『神戸国際ギャング』に出演して東映を退社する[12]

スタッフ編集

出演者編集

以下ノンクレジット

同時上映編集

脚注編集

  1. ^ a b c 「日本で急落、米で急騰の高倉健株」、『サンデー毎日』、毎日新聞社、1975年5月25日号、 38頁。
  2. ^ a b 「新作映画グラビア」、『キネマ旬報』1975年4月下旬号、 31-33頁。
  3. ^ 大脱獄|一般社団法人日本映画製作者連盟
  4. ^ a b c d 「随想 東映スター渡哲也が誕生するまで」、『キネマ旬報』1975年2月下旬号、 48-49頁。
  5. ^ a b c d 「邦画新作情報」、『キネマ旬報』1975年4月春の特別号、 201-202頁。
  6. ^ 石原まき子 『石原裕次郎・渡哲也 石原プロモーション50年史 1963-2013』 石原プロモーション2014年、153-155頁。
  7. ^ 「渡哲也インタビュー 高平哲郎」『渡哲也 さすらいの詩』 芳賀書店〈シネアルバム(67)〉、1978年、153-168頁。ISBN 4-8261-0067-1
  8. ^ 「アングル76' 幻の映画を追って」、『キネマ旬報』1976年正月特別号、 166-167頁。
  9. ^ a b c 「悪化する高倉健と東映のいがみ合い」、『サンデー毎日』、毎日新聞社、1972年11月12日号、 50頁。『サンデー毎日』、毎日新聞社、1972年12月10日号、 26-29頁。
  10. ^ 嶋崎信房 『小説 高倉健 孤高の生涯(下・流離編)』 音羽出版、2015年、125-131頁。ISBN 978-4-901007-61-0
  11. ^ 嶋崎信房 『小説 高倉健 孤高の生涯(下・流離編)』 音羽出版、2015年、140-144、150頁。ISBN 978-4-901007-61-0
  12. ^ <第21回>高倉健に少しも臆していない菅原文太の芝居 - 日刊ゲンダイ

外部リンク編集