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鈴木 善幸(すずき ぜんこう、1911年(明治44年)1月11日 - 2004年(平成16年)7月19日)は、日本政治家位階勲等正二位大勲位

鈴木 善幸
すずき ぜんこう
Zenko Suzuki 198007.jpg
内閣総理大臣就任に際して公表された肖像写真
生年月日 1911年1月11日
出生地 日本の旗 日本 岩手県下閉伊郡山田町
没年月日 (2004-07-19) 2004年7月19日(93歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都
出身校 農林省水産講習所(現・東京海洋大学
前職 大日本水産会会長秘書
全国漁業組合連合会職員
岩手県漁業組合連合会水産部長
中央水産業会企画部次長
所属政党日本社会党→)
社会革新党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
親族 鈴木俊一長男
麻生太郎娘婿
サイン SuzukiZ kao.png

内閣 鈴木善幸内閣
鈴木善幸改造内閣
在任期間 1980年7月17日 - 1982年11月27日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第48代 農林大臣
内閣 福田赳夫内閣
在任期間 1976年12月24日 - 1977年11月28日

日本の旗 第43代 厚生大臣
内閣 第1次佐藤第1次改造内閣
第1次佐藤第2次改造内閣
在任期間 1965年6月3日 - 1966年12月3日

内閣 第3次池田改造内閣
在任期間 1964年7月18日 - 1964年11月9日

日本の旗 第15代 郵政大臣
内閣 第1次池田内閣
在任期間 1960年7月19日 - 1960年12月8日

その他の職歴
日本の旗 衆議院議員
1947年4月26日 - 1990年1月24日
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郵政大臣第15代)、内閣官房長官第26代)、厚生大臣第43代)、自由民主党総務会長(第15・17・23代)、農林大臣第48代)、自由民主党総裁(第10代)、内閣総理大臣第70代)などを歴任した。

目次

来歴・人物編集

前半生編集

岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。水産学校を経て水産講習所(後の東京水産大学・現東京海洋大学)に入学、学生時代の弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったこともあり、就職時には思想傾向を理由に不採用になったこともある(共産主義思想と見なされた)。水産講習所卒業後、日本水産界の総帥と言われた大日本水産会会長の伊谷似知次郎の秘書となり、全国漁業組合連合会、岩手県漁業組合連合会に勤務したのち、中央水産業会企画部次長を務めた。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には秋田県歩兵連隊に赤紙召集され3ヶ月の訓練を受けるも、分隊長の「君は水産物の供出とか集荷とか、水産の大事な仕事をしていたようだから軍隊よりそちらで働く方がお国のためになる」という計らいにより、召集を解除され元のポストに復帰する。

議員としての活動編集

1947年(昭和22年)に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。水産常任委員会の委員として、水産庁の設置をはじめ漁業法水産業協同組合法の成立等戦後の水産政策に大きな役割を果たす。後、社会革新党に移る。しかしカスリーン台風アイオン台風襲来により地元が大きな被害を受けると復興のため奔走するも弱小政党だった社会革新党の議員ゆえに何も成果を残せない現実に幻滅、ついに次期総選挙への不出馬を明言するに至るも一方で支持者からは鈴木の与党移籍を求める声が高まり、同郷の先輩代議士小沢佐重喜の引き合いで吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。保守合同後は池田勇人宏池会に所属。池田に側近として可愛がられたこともあり、その後はトントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる[1]1960年第1次池田内閣郵政大臣として初入閣。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった[注釈 1]。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。『三木おろし』では大平派の参謀として、福田派の園田直、田中派の二階堂進らと共に挙党体制確立協議会(挙党協)を主導する。三木武夫の退陣後の『大福密約』でも大平派の大番頭としてこれを取りまとめ、大平正芳が総理総裁になった際には、自民党幹事長に起用されかけたが、田中角栄・二階堂進と関係が近すぎるとして福田派など反主流派が反発し取りやめになっている(斎藤邦吉が就任)。

一方では、盟友の田中角栄と組み、後の三陸鉄道の前身となる国鉄宮古線久慈線盛線の開通を進め、また県内の選挙戦勝利の見返りとして国立岩手山青年の家の設置を佐藤栄作首相に働きかけたり、岩手と秋田を結ぶ仙岩トンネル仙岩道路)の建設、国民休暇村雫石町への誘致、地元選挙区の岩手県田老町(現・宮古市)にはグリーンピアを建設したり、実施第一次計画では仙台駅までの予定であった東北新幹線を、地元の盛岡駅まで延伸させるよう強い圧力をかけたとされる[注釈 2]など利益誘導による地元還元をする政治家としての側面も存在した。自民党総務会長、鉄建審会長として地元の鉄道網、漁港、港湾、道路、東北自動車道三陸縦貫自動車道の整備に影響力を発揮した。ただ、早期のインフラ整備は「オリンピックに向けての公共事業が少なすぎる」と、1998年盛岡オリンピック構想を長野に持っていかれた一面を指摘する声もある。[要出典]

大平内閣期編集

自民党総務会長として、日中国交正常化後3度訪中し当時の中国の最高指導者であった鄧小平とも会談しており、第1次大平内閣1979年5月[注釈 3]の会談では尖閣諸島の領有権問題の棚上げと、日中両国による海底資源の共同開発の提案があったという[2]改革開放論者であった鄧はさらに鈴木に、日本からの政府借款を受け入れたいという旨と、土地を提供するから共同で中国国内に兵器工場を作りましょうという話を持ち出してきた。鈴木は「これには正直言って驚いた。日本としては対米関係などを考えると大変なことで、出来るわけはない。私は、日本は日本国憲法の趣旨から言って諸外国とそういう面での共同の仕事は基本的に出来ないし、考えてない、と即座に断った」「この話は単なる外交上の駆け引きとして出してきたという印象ではなかった。真剣だった。今思うに当時、中国としても軍備の近代化を考えていたんだろう。(中略)日中共同の兵器工場建設の提案を断った代わりに、円借款の件は約束通り実行した。」と語っている[3]

大平首相の急死編集

1980年(昭和55年)5月、自民党が過半数を占める衆議院で、社会党提出の大平正芳内閣不信任案採決に、三木派福田派などの反主流派自民党議員が多数欠席し、不信任案が可決された。大平首相はこれに対抗して衆議院を解散ハプニング解散)することとし、参議院選挙の日程を繰り上げて、初の衆参同日選挙を行うことにした。だが、大平は選挙戦突入の初日に心臓発作で倒れ、選挙戦中盤に死亡する展開となった。選挙結果は、首相の憤死への同情から、衆参両院における自民の圧勝となる。この結果は予想されたものではなく、解散時における世論調査では、大平内閣の支持率21%に対して不支持率は41%だった。国民は自民の内紛に嫌気がさして、野党支持が自民党支持を上回っていた。このような状況での内閣不信任案可決と解散とに財界は困惑し、経団連土光敏夫会長は、記者会見で「1番悪いケースになった。……不満を禁じえない。この際、自民党がもっと結束してことに当たってほしかった」と述べた。自民党は、この同日選挙に向かって、財界に50億円の政治資金拠出を要請、財界側は自民党の分裂回避を条件として応ずることとなった。これを契機に、反主流派の新党論も消滅し、同時に主流派の側も、不信任案審議時の欠席者の責任を不問にした。

大平首相が死去したとき、伊東正義官房長官が内閣法の規定により首相臨時代理を、西村英一自民党副総裁が総裁臨時代行を務めたが、選挙は主流派を代表する形で、総務会長の鈴木善幸が財界との交渉も含め取り仕切った。鈴木は総理を目指すのではなく、大平を総理にすることに努力してきた人間であった(ただし鈴木は大平首相が緊急入院した際、選挙後の大平の自発的な退陣とその後の暫定政権論を記者団にもらしており、病床の大平を「浅薄な腹黒者。不謹慎極まりない」と激怒させている[注釈 4])。選挙が圧勝で終わったとき、不信任の可決から始まった騒動だけに、大平を追い込んだ形となった河本敏夫福田赳夫ら反主流派が名乗りを上げるのは困難だった。田中派は依然として総裁を出しにくく、暫定案として考えられていた西村副総裁も落選していた。また中曽根康弘は不信任案に反対したものの、キングメーカーであった田中角栄の信頼をまだ勝ち取っていなかった。こうして、引き続き大平派から総裁を出すのが自然な流れとなったが、首相臨時代理であった官房長官の伊東は「親友が亡くなったばかりなのに、とても首相になる気はしないよ」と固辞。派の次世代リーダーである宮澤喜一は本命であったが田中から嫌われており、また大平との関係もやや疎遠だったことがマイナスに作用した。結果として大平・田中連携の要の位置にあった鈴木が大平政権を継承する形で総理・総裁の座に就任することになった。

鈴木は、大平の初盆の日に自民党両院議員総会で総裁に選出されたとき、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」と、異例の挨拶を行った。なお、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている[4]。なお、日本社会党在籍経験のある内閣総理大臣としては、片山哲以来であり、社会党在籍経験のある初めての自民党総裁である[注釈 5]

首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた[注釈 6]。明治生まれとしては、最後の内閣総理大臣であった。

鈴木政権編集

(「鈴木善幸内閣」「鈴木善幸改造内閣」も参照)

自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、南部人らしく「和の政治」をスローガンに掲げた。財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため、財政改革では1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却を目標としながら増税論を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示し「増税なき財政再建」を掲げた。第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ、伴食大臣にみなされがちな行政管理庁長官に「ポスト鈴木」に意欲を燃やしていた中曽根康弘を充てる、反主流派からも河本敏夫・中川一郎を中曽根と釣り合うポストで処遇、宏池会からも官房長官に政策通の宮澤喜一を起用し伊東正義・田中六助斎藤邦吉など有力議員を入閣させる、など人事調整も巧みであった。様々な派閥及び族議員による支出要求に揉まれる中で鈴木は持ち前の絶妙なバランスを生かしながら主流派離脱を抑えながら少しずつ支出の削減を進め、最終的には全派閥を主流派入りさせた上で反執行派閥という存在を事実上無くし、自民党内で究極の「和の政治」を実現した。行政改革方針は後の中曽根行革への道筋を付けることになったが、「和の政治」からの昇華以上に、中曽根行革では新自由主義に邁進することになる。

金権選挙の問題があった参議院全国区選挙については拘束名簿式比例代表制に改めた。また現職の内閣総理大臣として初めて北方領土と、復帰後の沖縄を視察した。また財政難から月例給の4.58%給与引き上げの人事院勧告の実施を見送り、国家公務員の60歳定年制を導入した。

鈴木行革編集

鈴木内閣発足時、国債残高が82兆円まで達しており財政再建は目下の課題であった。1981年3月、土光敏夫を会長とする第二次臨時行政調査会が発足する。鈴木は「昭和57年度予算編成への具体的改革案を今夏までに求める」と臨調に要請し、また日本商工会議所の総会において行政改革に「政治生命をかける」と発言し並々ならぬ意欲を見せた。鈴木の意向を受けた大蔵省では前年度予算からの伸び率をゼロにする、ゼロシーリングが正式に決定された。7月には第二臨調が医療の適正化や行政の合理化を唱えた一次答申を示し、臨調の答申を最大限尊重し実施することが閣議決定された。鈴木はまとめられる省庁の歳出削減事項を一本化した法律にまとめて成立させる方向で、行革関連特例法として10月には衆議院で11月には参議院を通過して成立した。こうした中成立した昭和57年度予算は稀にみる抑制予算となった。

翌昭和58年度予算は原則5%のマイナスシーリングの導入と、臨調の第三次答申の尊重と実施を図ることが閣議決定されたが、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ5~6兆円の税収不足の恐れが出てきたため、1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却が困難な状況に直面した。1982年9月16日には「財政非常事態宣言」と言われるテレビ演説を行い、更に徹底した歳出削減と赤字国債の増発で「未曽有の困難」を乗り切る必要があると訴えている。その翌月の10月には鈴木は退陣するものの、鈴木が敷いた行革への方針は続く中曽根康弘内閣へと引き継がれていく。

総合安全保障編集

デタントの時代が終焉し米ソ冷戦が激しくなる中で鈴木は、「わが国は平和憲法のもと、非核三原則を国是とし、シビリアンコントロールのもとに専守防衛に徹した施策をとっており、近隣諸国に脅威を与えるような軍事大国になる考えは毛頭持っておりません」「わが国に対する核の脅威や攻撃に対しては、米国との安全保障体制に基づき、米国の核の抑止力に依存するとともに、これを抑止することが最も賢明な道と考えるものでございます。政府としては、このような考え方を変える考えは持っておりません。」[5]と、米国の核の傘の下で専守防衛の原則を貫き、防衛計画の大綱に基づく着実な防衛力の整備を示した。鈴木はロナルド・レーガン大統領との会談で専守防衛の日本の防衛政策を「吼えるライオンより、賢いハリネズミでありたい」と表現している。また大平政権のブレーンであった高坂正堯らの唱えた『総合安全保障』の概念を導入し、軍事力のみに頼らない経済や外交を含めた総合的な安全保障体制を目指すとして、1980年12月、国防会議とは別の組織として内閣総合安全保障関係閣僚会議を設置した。

日米『同盟関係』問題編集

元々社会党から政界入りしたこともあり外交面ではハト派スタンスが時折出る一方で、苦手だった安全保障外交について隙が出る発言を度々修正することがあった。1981年(昭和56年)5月7・8日のレーガン大統領との会談後の共同声明では、日本の公式文書では初めて『同盟関係』という文言が記されたことから、新たな軍事的密約を懸念したマスコミ側から記者会見の場で「今度は同盟関係ということが初めて謳われたが何か軍事的に変わったことがあるか」と、質問がなされた。鈴木は「自由民主主義自由市場の経済体制という価値観では日米は全く同じだ。これを守っていこうという立場を含めて同盟関係といっている。軍事的意味合いは持っていない。日本は、平和憲法のもとに、自衛のための防衛力しか持てない。専守防衛に徹する。軍事大国にはならないという点をはっきりさせているので、軍事同盟ということは全然、共同声明の中にも入っていない。」と発言[注釈 7]

鈴木の帰国後、国会等で、『同盟』は軍事同盟を意味し個別自衛権から集団的自衛権への逸脱ではないかと問う声が共産党社会党から起こり、5月11日の外務委員会において伊東正義外相は社会党の土井たか子の「日米軍事同盟、安保条約という意味を含んだ同盟ということを認識せざるを得ない」という質問に対し、

「軍事的な何らかの関係のあるものを同盟というような言葉を使うのだということであれば、片務的とはいえ安保条約というのは軍事的に関係がありますから、同盟と使ってもいいと私は思うのでございまして」
「軍事というのを日本で考えますと憲法でも制約があるわけでございまして、日本は日本を守ることしかできないのだというのはもうはっきりしているわけでありますから、それ以上広げて軍事同盟なんということはできない、日本は軍事的には個別自衛権しかないのだということはもうはっきりしていることでございます。さっきから土井先生と私がやりとりしております片務的な安保条約、それが軍事的な同盟のようなものじゃないかと言われれば、安保条約を結んだときからこれはあるわけでありますから、それは何も否定しませんが、広い意味ではこれはそういうことも入った軍事関係だということを先ほどから申し上げているわけでございまして」

等と発言[6]日米安全保障条約や同盟の解釈を巡り、軍事的意味はないとする鈴木の発言との相違が問題視された。また高島益郎外務事務次官も「軍事的な関係、安全保障を含まない同盟はナンセンス」と鈴木を批判。また鈴木も共同声明文が有馬龍夫ら外務省の事務側で一方的に作成され、自身の意向が全く反映されていないことに対し強い不満を示した。外務省内では米側の反応も受けて緊急の協議が行われ、13日、日本政府は統一見解を発表し、『同盟には軍事的側面はあるものの新たな軍事的意味を持つものではない』[注釈 8]として鈴木の発言を事実上修正した[注釈 9][注釈 10]

政府見解を受けた14日の外務委員会では伊東外相も、「日本とアメリカの間には日米安保条約がありますことは、これはもう厳然たる事実でございますので、そういうことを前提にしておりますことが中に入っているということは、これはもう間違いない、だれもが否定することではないわけでございます。そういう関係を同盟関係と、広い関係を同盟関係という言葉で表明したわけでございまして、そういう言葉を使ったから、何か日米関係の中に新しい枠組みをつくって、そしてそれが従来の枠組みを変えて、新しい枠組みをつくって新しい軍事的意味を持たせる、そういうような意味でこの言葉を使ったのではなく、安保条約の五条関係は憲法からしても個別自衛権であることは間違いないのであり、これを集団自衛権とかそういうものに直していこうとか、そういう意図は毛頭ない」[7]と説明するも、翌15日の閣議では中川一郎渡辺美智雄鯨岡兵輔ら閣僚から外務省側の対応に批判の声が上がり、翌16日、責任を取る形で伊東外相・高島次官の両名とも辞表を提出し、事務次官は慰留を受けたものの外相は辞任する。この問題では、鈴木は同盟の解釈について「新たな軍事的意味を持つものではない」「米国の対ソ軍事戦略に巻き込まれるものではない」「わが国が集団的自衛権の行使を前提とするような軍事的な役割りを分担するといったようなことを意味するようなものでは全くない」「安保条約が日米双方による集団的自衛権の行使を前提とする条約に該当しないことは明らかであり、日米双方とも、安保条約の性格をいかなる意味でも変える考えのないことは一致しているところである」[8]などと、軍事同盟を否定する考えを一貫して示した。

ライシャワー発言への対応編集

1981年5月18日、毎日新聞朝刊に元駐日アメリカ合衆国大使エドウィン・O・ライシャワーが、古森義久(当時毎日新聞記者)に対して語った「非核三原則の規定する持ち込みとは陸揚げを指し、核兵器を搭載した艦船の寄港は含まない」「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」「これについては日米安保条約の規定する"事前協議"の対象とならないことを日本側も了解していた」との発言が報道され、「非核三原則」違反を大使まで務めた外交官が認めたとして日本国内で騒動になった。「国防情報センター」のジーン・ロバート・ラロック所長(元海軍少将)による「核兵器搭載艦船は日本寄港の際にわざわざ兵器を降ろしたりしない」の「ラロック証言」と並び有名な「ライシャワー発言」であり、「日米核持ち込み問題」の一つである。20日、園田直外相はマイケル・マンスフィールド駐日大使と会談。ラロック証言を否定したロバート・スティーヴン・インガーソル国務長官代理による米政府見解を確認しライシャワー発言を否定したが、同20日、鈴木は日本記者クラブの昼食会で「日本政府は核の持ち込みについて一貫して航空機であろうと艦船であろうと事前協議の対象となる、という立場を堅持している」と言明したうえで、「事前協議は現実的に対処する。事前協議は予見できるものではなくイエスもノーもある」と協議次第では核持ち込みを許容するかの発言をし、問題となる。後、官邸で宮澤官房長官らと協議し自身の発言を否定する。日米同盟問題もあり国会では社会党から「鈴木・レーガン共同声明による日米同盟なるものが、実は、対ソ同時多発報復戦略に基づく核同盟にほかならない」などと、厳しく追及され対応に追われることとなった。

シーレーン防衛編集

海上幕僚長中村悌次は日本の防衛すべき範囲として東京グアムおよび大阪バシー海峡をそれぞれ結ぶ2本のライン(中村ライン)を提示した。この概念を元にワシントンD.C.訪問中の鈴木は「シーレーン海上交通路につきましては約1000海里、1000マイル、こういうものを憲法の了承とも照らし合わせまして、我が国自衛の範囲内としてそれを守っていく、と」と発言。翌1982年(昭和57年)3月には来日したキャスパー・ワインバーガー国防長官の「日本の防衛力は憲法の範囲内ですら不十分だ。いろいろ難しいのは分かるが日本の空とシーレーンの防衛は実質的な改善を要求する。」と発言があり、ソ連の軍事力増強とアフガニスタン紛争への介入などで米ソ関係が緊張する中で日本の防衛力強化への圧力が高まり、P-3CF-15Jの本格配備を想定した56中業が、1982年7月の国防会議で了承された。鈴木のシーレーン防衛の発言はアメリカの国防報告(1985年度版)において、『日本の領域の防衛、その空域と1000マイルまで外のそのシーレーンが日本の憲法のもとに合法的で、実際、その国家政策であると彼が1981年5月に述べたとき、鈴木首相は日本の役割と任務のためにゴールを明確に述べた。』と肯定的に記されることとなる [9]。一方で米側から日本に対し武器技術の供与を求められた際は「武器が売れるといいなと思うような産業界の人をつくりたくない」という思いから、要請を拒否した[10]

園田外相による共同声明否定発言編集

1981年6月12日、ホノルルで日米安保事務レベル協議が開催され、米側から日本に対し、防衛計画の大綱の見直しと、1000海里シーレーンの防空・戦闘継続能力二ヶ月以上との要求がなされた。6月19日、マニラでのASEAN拡大外相会議でヘイグ米国務長官と会談した園田直外相は米側の過大な要求に対し、財政状況などから困難であるとの旨を伝えた。翌20日、ホテルの自室に集まった記者に日米間の相違について問われた園田は、先の鈴木・レーガン共同声明を「声明には鈴木総理の意思が反映されていない。声明は条約・協定・覚書とは異なる。外交上の拘束力はない。」などと発言し、新聞などで報じられ大きな問題となる。園田は緊急の記者会見を開き釈明したものの、アメリカからの対日信用を落とす形となった。日米同盟問題、非核三原則問題などと合わせ、鈴木・園田コンビが対米外交で失点を重ねたことは小室直樹など評論家から厳しく批判された。

第一次教科書問題編集

1982年6月に起きた第一次教科書問題に直面した際には、中国韓国からの反発を受け、近隣諸国条項を定めた。

中曽根政権へ編集

首相就任以来、一部マスコミからは角影内閣暗愚の宰相[注釈 11]と揶揄されていた。 伊東の後任で外相に就いた園田直の日米同盟関係見直し姿勢もあって対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年(昭和57年)の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982年(昭和57年)10月に至って突然総裁選不出馬を表明。10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。この際、退陣を明らかにして人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。真の挙党体制を作りたい」と述べた。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたことが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない[注釈 12]。一方で、外遊のたびに首相臨時代理中曽根康弘を指名して後継候補であることを示し政争の芽を予め摘んでおくなど、引き際の調整力は巧みであった。首相在任記録は864日間で、首相在任中に大型国政選挙を経験していない首相としては日本国憲法下では最長記録である。退任後自由民主党最高顧問

晩年編集

鈴木は内閣退陣後も当面宏池会の会長を務めたが、中曽根おろしを目論んだ二階堂擁立構想が頓挫し影響力が低下した。1986年(昭和61年)、会長職を宮澤喜一禅譲する。1990年(平成2年)に政界を引退した。

1992年(平成4年)2月、共和汚職事件に絡み国会の衆議院予算委員会に参考人招致された際に「カネは善意の保管者として預かった」などと発言し、物議をかもした。

2002年(平成14年)9月30日、長男の衆議院議員・鈴木俊一第1次小泉改造内閣環境大臣として初入閣した。91歳の鈴木はテレビカメラの前で自宅の炬燵にあたり、寝ころんでテレビの報道を見ながら「大臣になってうれしいよ」と語った。

2004年(平成16年)7月19日肺炎のため93歳で死去した。 死後、正二位大勲位菊花大綬章が贈られた。明治生まれの首相経験者としては最後の生存者だった。三女・千賀子は麻生太郎に嫁いだ。

評価編集

後継の中曽根内閣では、日米軍事同盟路線を強調し日米関係修復に努める一方で、鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承され、鈴木の「和の政治」は、鈴木退陣後の自民党内抗争にも大きな影響を与えた。1970年代角福戦争のような怨念も絡んだ抗争が繰り広げられることは無くなった。一方、石橋湛山以来の平凡な経歴を持つ首相となり、八幡和郎などのように「鈴木が首相になったことは誰でも首相になれるという前例になり政治を劣化させた」と評する向きもある[注釈 13]池上彰は「大平正芳氏が逝去して、首相のポストが転がり込んできた鈴木善幸氏が、自民党のなかで「誰でも首相になれる」という印象を最初につけた人だった気がします。鈴木さんは外交に疎く、日米同盟についての国会答弁でしどろもどろになってしまったのを覚えています。」と評している[11]

略歴編集

栄典編集

著書編集

  • 『伊谷以知二郎伝』(大日本水産会、1939年)
なおこの著作は直木賞作家の綱淵謙錠日本現代詩歌文学館館長の太田俊穂らが高く評価している[12]

脚注編集

注釈編集

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  1. ^ 当初佐藤からは留任するよう慰留されたものの、池田に殉じる思いからこれを固辞したという。『等しからざるを憂える。 元首相鈴木善幸回願録』p160-162 岩手日報社 2004年
  2. ^ 当時、鉄道建設審議会長であった鈴木は新全国総合開発計画の流れを受けて全国新幹線鉄道整備法を議員立法で制定したが、国鉄の財務状況の悪化により、東北新幹線は採算性を重視する大蔵省運輸省・国鉄側が仙台説を強く打ち出してきた。新全総や当時の鉄建審の法案要綱では青森から青函トンネルを抜け札幌まで延伸させる計画(後の北海道新幹線)であったため鈴木はこれに難色を示す。「しかし大蔵、運輸、国鉄がそう言うんであれば二回に分けてやらざるを得ないが、仙台までといえば、もうかるところしかやらんというようなことになる。国鉄の性格として、そういう民間鉄道と同じように、採算のとれるところしかやらんというのであれば、国鉄の使命というものはないではないかと。だからせめて盛岡までは絶対に譲るわけにはいかない、そうでなければ鉄建審に諮問案としてかけることはまかりならん」と強く反発。結果、『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』において東京都-盛岡市として決定された。『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』p166-168 岩手放送、1991年
  3. ^ この時の中国は中越戦争の勃発と、中ソ友好同盟相互援助条約の不延長という中ソ対立の悪化という状況があった。
  4. ^ 総理となってからの大平は鈴木の進言を受け入れなくなるなど、晩年の大平と鈴木の関係はあまり良好ではなかった。
  5. ^ 歴代の自民党総裁で他党に在籍した経験がある人物は多いが、鈴木以外は全て自民党の前身政党または自民党に吸収された政党であり、自民党と系譜上全くつながりのない政党に在籍したことがあるのは鈴木だけである。
  6. ^ 当時のアメリカ合衆国大統領ジミー・カーター1976年の大統領選挙に出馬した当初は知名度が低く、“Jimmy who?”と呼ばれた(ジミー・カーター#1976年の大統領選挙)。
  7. ^ 鈴木は後に「真意はこういうことだ。それは日米安保条約というものがあるわけですから、日本が外国からの不測の侵略をうけるような場合には、アメリカがこれを支援協力をして防衛をするということなんだけれども、日本の自衛隊は専守防衛に徹する、と。言葉を換えるとこれは日本の個別的自衛権ということであって、アメリカとの間に日米安保条約を結んでおっても、アメリカが他の国と戦争したからといって日本が自衛隊を派遣したりしてアメリカに協力するとか、守ってやるとか、そういうことはやらない。あくまで日本の防衛は個別自衛権という範囲であって、集団的自衛権に逸脱するということは憲法の制約もあるし、日米安保条約にもはっきりうたってあるんです。その点は全然変わっていないんですよ。なにか日米同盟関係ということが新たに出ると、それまでの個別自衛権から今度はNATOのような集団的自衛権に変わったんじゃないかということが心配されますから、私はその点については従来と全然変わっていないということをいった。」と弁明している。『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る』p253-254
  8. ^ 当時国防次官代理であったリチャード・アーミテージが国防長官に宛てた報告書では『“同盟(alliance アライアンス)”という言葉が、戦後初めて日本の公式文書で使われた。これは、日本が戦時中のドイツとの関係で使って以来のことである。今や自民党の指導者達の多くは“同盟”には軍事的な意味合いがあることを知っている。今回の騒動の最大の敗者(big loser)は鈴木総理自身だ」と記している。 NHKスペシャル『日米安保50年 第3回 “同盟”への道(2010年12月11日放送)』
  9. ^ もっとも、内閣総理大臣秘書官だった畠山襄は外務省からの説明では、「同盟関係とは政治的・経済的・社会的・文化的・その他総合的関係を云うということであって、軍事的関係は入っておりませんので。『軍事的意味合いはありません』という説明は受けてましたね」と語っている。 NHKスペシャル『日米安保50年 第3回 “同盟”への道(2010年12月11日放送)』より
  10. ^ 畠山は『鈴木善幸回願録』でも当時の外務省を批判しており、鈴木の発言は鈴木や畠山、宮澤ら官邸側に対する「同盟に軍事的意味はない」という外務官僚のレクチャー通りに答弁したものだとし、鈴木は「ナンセンスなのはか、ワシントンで説明した彼の部下のどちらかだ」と憤っていたという。
  11. ^ 文藝春秋1981年8月号では田尻育三により「暗愚の帝王」と書かれていた。「暗愚の宰相」とはその後屋山太郎が名付けたものとされる。
  12. ^ 鈴木自身は岸信介をバックに持つ福田赳夫などの党内右派の動きに苦慮していたという。「しかし、福田は岸さんの流れをくんでいる。どちらかというと福田も右寄りだし、反田中、反大平であり、反鈴木。もしも私が総裁に再選となるとまたぞろ腹の虫が動き出すわけだ。それと一部の右寄りの国会議員たちが私の再選阻止ということで騒いだのではないか。」「これ以上居座っていても、むしろ後をやりたい連中がムズムズしてまた党内が乱れるようなことになりかねないという心配があったからだ。」と語っている。『鈴木善幸回願録』p133,166
  13. ^ 例えば八幡「地方維新VS土着権力」文春新書、2012年、P157。鈴木以前の自民党総裁は旧帝大卒の高級官僚出身者が多く、またそれ以外の者も含めて「首相を狙う大物」と自他共に認めてきて要職を歴任した者ばかりであった(鈴木を除く昭和時代の自民党総裁は全て幹事長・外務大臣大蔵大臣のどれかを経験している)。学歴も閣僚歴も平凡で総裁候補として全く名前が挙がっていなかった鈴木の首相就任が多くの政治家に「鈴木がなれるのなら俺も」と思わせ政治の劣化を招いた、という指摘である。

出典編集

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  1. ^ サンデー毎日、1980年7月27日号181頁
  2. ^ 『鈴木善幸回願録』p153-154
  3. ^ 『鈴木善幸回願録』p155
  4. ^ 升味準之輔著『日本政治史4』
  5. ^ 第93国会衆議院会議録第4号
  6. ^ 第94国会衆議院外務委員会議録13号
  7. ^ 第94国会参議院外務委員会議録8号
  8. ^ 第94国会参議院会議録第18号
  9. ^ FY 1985: Annual Report to the Congress p218
  10. ^ NHKスペシャル ドキュメント“武器輸出” 防衛装備移転の現場から 2014年10月5日放送
  11. ^ なぜ“首相育成システム”は崩壊したのか御厨貴・東京大学先端科学技術研究センター教授に聞く【第2回】日経ビジネス
  12. ^ 綱淵謙錠『史談 往く人来る人』(毎日新聞社のち文春文庫)所収の「ある伝記執筆者」

参考文献編集

  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥(鈴木・小川・宮沢家 門閥ゼロからのスタート)』 角川書店 1983年 153-157頁
  • 『等しからざるを憂える。 元首相 鈴木善幸回顧録』 聞き手東根千万億、岩手日報社、2004年9月

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外部リンク編集


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