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山田 康雄(やまだ やすお、本名:同じ[1]1932年9月10日 - 1995年3月19日[1])は、日本俳優声優司会者ナレーターである。愛称は「ヤスベエ」。テアトル・エコーに所属していた。

やまだ やすお
山田康雄
プロフィール
本名 同じ
出生地 日本の旗 日本東京市大森区南雪谷
(現:東京都大田区南雪谷)
死没地 日本の旗 日本・東京都大田区東雪谷東京都立荏原病院
生年月日 (1932-09-10) 1932年9月10日
没年月日 (1995-03-19) 1995年3月19日(62歳没)
血液型 A型
身長 167 cm
職業 俳優声優司会者ナレーター
配偶者 あり
著名な家族 山田浩康長男
徳川ミキ ()
活動
活動期間 1953年 - 1995年
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

東京府東京市大森区(現:東京都大田区南雪谷出身。身長167cm、体重56kg。血液型A型星座おとめ座早稲田大学文学部英文科中退長男山田浩康

目次

生涯編集

幼少から学生時代編集

役人の家系で、父は日本銀行勤務だったが、3歳の頃に死別。

幼少時から映画を好み、高校在学時は授業をサボって毎日映画館に通いつめていた。そんなある日、コメディ映画である『虹を掴む男』を見て、主演であるダニー・ケイのコミカルな演技に惹かれ、「人を楽しませるようなコメディを演じられる喜劇役者になりたい」という憧れを抱いた。

1945年に東京都立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)に進学。在学中は野球部に所属していた。六大学野球の出場校のうち、野球部のレベルが低く、唯一レギュラーを取れそうな大学として(インタビューによる)、東大を受験するも失敗。ただし、卒業時の成績は71位だったということであり、あながち無謀な挑戦というわけでもなかった。

役者としてのキャリア編集

早稲田大学文学部英文科入学後、学生劇団である自由舞台に入団し、役者としての一歩を踏み出した。1953年に難関とされる劇団民藝の試験に合格し[注 1]、大学を中退して研究生として入団する。しかし、自分のやりたいコメディができず、厳しい基礎練習ばかりの毎日に耐えられず1年で退団、フリーとなる。稽古に参加することなくサボってばかりいたために、サボリーマンという二つ名が付いたという。ただし、野球の試合だけはきっちり出ていたとも伝わる。

1958年熊倉一雄に誘われて[注 2]劇団テアトル・エコーに入団、8月に初舞台を踏んだ。

同年、ヒッチコック劇場吹き替えの仕事を依頼され、声優業を兼任するようになる。なお、吹き替えの仕事を持ってきたのも熊倉であり、「ヤスベエは容姿も良く口も達者だったのでピッタリの仕事だった」ため依頼したとのことである。

当時、吹き替えの仕事は舞台役者の副業という認識が強い故に軽視されており、山田も「口の動きに合わせて日本語を喋ればいいだけだ」とたかを括っていた。しかし初めての収録の際、本番前のテスト中に突然降板させられ、監督から「君の芝居は吹き替えに合わない」と言われる。山田はこの時、今までの自分の考えが非常に甘かったと反省。その日から「吹き替えもまた役者の演技」と心機一転し、芝居の原点に戻って稽古を続けた。その約1年後である1959年に、海外テレビドラマ『ローハイド』の吹き替えにおいてクリント・イーストウッド演じるロディ役に抜擢され、「クリント・イーストウッドの吹き替えは山田康雄」と世間から認知されるほど有名になり、死後においても「クリント・イーストウッドといえばこの人」といわれている[2][3]

1965年結婚、一男一女をもうける。

テアトル・エコーでは看板俳優として活躍。特に、1969年に熊倉演出で上演された一連の井上ひさし書き下ろし作品では『日本人のへそ』の会社員・ヤクザ・助教授の3役、『表裏源内蛙合戦』の表の源内役など主役や準主役を多くつとめた。トレードマークとなった独自の頭髪は、井上の『11匹のネコ』初演のためのもので、以後そのままになったという。

洋画ではクリント・イーストウッドの他にジャン=ポール・ベルモンドの日本語吹き替えを担当。また、アニメではルパン三世が代表的なキャラクターで、1971年に抜擢されて以後、23年半務め、自身のライフワークとなった。『お笑いスター誕生!!』等でテレビの司会者としても活躍し、独特なヘアスタイルやひょうきんなトークで、声だけでなく顔もお茶の間のおなじみだった。

死去編集

1993年頃からカリウム欠乏症による体調不良で歩くことがままならなくなり、入院する程までに悪化していた他、晩年での収録時は椅子に座って行う事が増えた。 1995年2月17日午後3時30分、脳出血で自宅で倒れ、東京都立荏原病院に搬送、意識不明のまま3月19日午前6時35分に死去。満62歳(享年64)没。葬儀・告別式は3月23日に執り行われ、墓所は多磨霊園に納められた。

山田の死を受け、日本テレビは朝のワイド番組の内容を急遽変更し『追悼特別企画 ルパン三世の山田康雄さん逝く』を放送。3月31日には追悼企画として『金曜ロードショー』で『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』を再放送した[注 3]。テレビ朝日も洋画の吹き替えで馴染みがあることから『日曜洋画劇場 山田康雄追悼企画』として追悼番組を組み、フジテレビを含む各局もワイド番組内にて追悼番組が組まれた。NHKも山田が死去した翌日の3月20日に朝のニュース番組及びバラエティ番組の一部において「人気アニメ『ルパン三世』でお馴染みの俳優の山田康雄さん急逝」と放送した。しかし、同日に地下鉄サリン事件が発生して以降は報道特別番組の編成に変更されたため、訃報は大々的に報じらず、数日遅れて山田の死を知って愕然としたファンもいたという。

人物編集

自由に生きたいため『信念を持たないこと』が自身のモットーで、「そんなにいつまで生きられるかわかんないのにさ。信念なんか持ってて、大上段に振りかぶるなんてのはだいっきらいなんだ」と発言している[4]

自己主張の強い性格で歯に衣着せぬ物言いも多く、「オレだってガキじゃないんだ。ファンの人に喜ばれるような優等生的発言ぐらいできるさ。でもそればっかりしていたら、息苦しくなって、結局はオレ自身がつぶれちゃうんだ」「世の中って、いろんな考え方の人が集まって成り立ってるんだ。それでいいんだよナ。全員が同じ考え方になったら危険だ。ファッショへの行進がはじまる」「オレはヒトサマがどんな考え方をしようが干渉はしない。それが自分の自由を守るための絶対条件だからだ」としている[5]

本人曰く「働くのは嫌い」で、役者を目指したのも「朝寝坊ができると思ったから」という[注 4]。また、「やりたくない物は無理をしてやることはない」という考えを持っていたため、そのような仕事は(生活に困らない限り)基本的に断っていた[4]

初恋は高校時代で、相手は東京女学館の生徒。同じ電車に乗りたいがために、ほぼ毎日学校を遅刻していたとのこと。

仲間内では電話魔としても有名で、深夜に度々電話をしてくるところから「ヤスベエの定期夜行便」などと呼ばれていた。実際に電話をかけられたことがある小林清志[注 5]後に山田の追悼本で「当時はかなり迷惑だったが、ヤスベエが亡くなった今では良い思い出かもね」と語っている。

基本的にはアニメが嫌いであり「この世にはくだらないものが多すぎる」という言葉が残っているなど、アニメに対する辛辣な辛口評論家としても有名だった。特に、少年期にアメリカ軍空襲を経験した世代であることから、1970年代のアニメブーム時に隆盛を誇っていたSFアニメには「正義のためだとか言っているけど、やっていることは要するに戦争」と、強い嫌悪感を示していた。ただし、数少ない山田のレギュラーだったSFアニメ『宇宙の騎士テッカマン』のアンドロー梅田役は、事前に作品の設定を聞き「単なる勧善懲悪ではない」ことに納得して出演している。

英語が堪能であり、英語圏に住む友人も多かった。

愛車は白い日産・初代レパード。近所のディーラー、日産サニー新東京・馬込営業所(当時)で整備を行っていた。

趣味はアメリカンラグビーの観戦。相手の「こう来るだろう」と思う裏をかいて騙し、まさかと思った所へボールを入れることが、役者が芝居で観客を錯覚させる感覚と似ているため、面白かったという[4]

仕事に対する姿勢編集

普段は陽気で明るく、様々な業界の人々と交流があった一方で、役者の仕事には誇りを持っていたため同業者にはかなり厳しかった。『ルパン三世』TV第2シリーズ以降永らく共演していた井上真樹夫は「凄く神経質で怖い人だった」「人にも緊張を強いるところがあった」と語っている[6]。井上は山田をこう評した上で「(山田さんが演じたルパンは)実にいいルパンだった」「キャラクターを演じる俳優によって作品が一段上のものになる好例」と語り、山田の同業者に対する厳しい姿勢についても「みんなピリッとする。それが(『ルパン』が)良い作品になった理由の1つだと思うよ」と話している[6]。また、収録の際に筋が通っていないことがあると激怒してスタジオから帰ってしまったことも何度かあったというが、古谷徹は「それは出演者皆の気持ちを代弁したもの」と語っている。神谷明等からも「山田さんは怖い先輩だった」と言い伝えられてきたものの、山田は誰もが認める名優であり、神谷や古谷は彼を尊敬していた。

山田は生前、「皆さんは『声優』というけど、『声優』という商売はないんです。『声優』というのは、役者がやっているいろんなジャンルの一部分です」と語っており[4]、「『声優業』とは『役者』の仕事の1つである」というスタンスを徹底的に守っていた。山田のもとには、「声優になりたい」という人が多くやってきたが、山田は「声優になりたいと思うのならやめなさい。でも、役者になりたいのなら、やってみてもいいかもね」と返答していた。この言葉には、「声優業とは役者の一部分。一部分を目指すだけでは成功しない」という意味がこめられており、山田の役者としての誇りが窺えるエピソードである。また、新人に対する指導の際は「声優を目指すな、役者を目指せ。演技は全身でするものだ。それでこそ『声優業』も活きてくるんだ」という言葉が口癖だったという。こういった考えを持っていたこともあり、山田は『声優』という呼称を好まなかったが、声優業そのものに対しては、「役者としての感性が重要視される仕事」として誇りを持っていた。

声優業で一番難しいのは、絵がなく、声だけで表現するラジオドラマだと発言している。また、アニメに対しては上記の評論以外に、演じる側からしても「(叫びなど)若くて声が出れば誰でもできる」「ある程度はニュアンスとかがなくてもいける」「(叫ぶ、悲しむなど)三つ位の(演技)パターンを持ってればできる」などの理由から、それでは他の役者が育たないこともあり「あまり好きじゃない」と発言している[4]

声優のギャランティの向上などを求めてテレビ局にデモを起こしたことがある。昭和40年代、声優は吹き替えをすると再放送分のギャラは支払われなかったうえに、山田の仕事仲間の代役を務めた俳優宇津井健のギャラは45万円だった(当時は作品1本につき、最低3000円から最高で3万円であった)。このため、山田はこれらを「声優全体の問題」と考えこの問題を解決するべく奮闘したのだという。結果、山田らの善戦の甲斐あって再放送のギャラが認められるようになった。

演技は全て地声で行っており、声を作ることはほとんどしなかった[注 6]。このことに関して山田は「あまり作ると無理が出てくるんです。ニュアンスが消えるようになっちゃう。だからあまり作らない」「同じ人間がやってて(声を)どう変えてもね、絶対に変わるもんじゃないです。もしそれが本当に変わっちゃうんだったら、悪口を言うわけじゃないけど、トーキングマシーンでしょ」と発言している[4]

アドリブが多いことで有名であり、事前に考えたり研究することはなく、役やキャラクターを理解すると「ポコポコと自然に出てくる」ため、本番で直観的に思った事をやってみるスタイルだった(アフレコでは、それを採用するかしないかはディレクターに任せていたという)[4]。ただし、東八郎に「そりゃ、今お前の言った方が面白いよ。でも俺は何て答えりゃいいの」と言われるなど、このことを晩年には「すばらしい仲間にずい分迷惑をかけた」と反省している面もあった[7]

交友関係編集

お笑いスター誕生!!』で司会を担当する等、お笑い界と縁は深かった。ザ・ドリフターズにコントの演技指導をしたこと[注 7]が縁でいかりや長介と交流を持つようになり、『8時だョ!全員集合』に出演(前半コントにおける敵役等)した他、プライベートの場においていかりやと杯を交わすなどの交流を行っていた[8]。また『夢で逢えたら』や『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』などのバラエティー番組にゲストとして登場したこともあった。

ルパン三世役の後任である栗田貫一は、ものまねのレパートリーにルパン三世を持っていた事から山田と親交があり、還暦祝いのゴルフコンペに誘ったり、『ものまね王座決定戦』で栗田と共にルパンを演じた事もある。

声質編集

長男で演芸作家の浩康の声が山田とそっくりだといい、山田の没後に一緒に飲んでいた栗田は「コツとか教えるからルパンやってよ」とルパン役の後継を依頼するも、「嫌だよ」と固辞されたと語っている。

劇団の後輩にあたる多田野曜平は、声の雰囲気が山田と似ている事から、海外映画の吹き替え版で山田が担当した役柄の追加収録部分を担当する機会が多い。

洋画の吹き替え編集

クリント・イーストウッドの吹き替えは山田が存命時にほとんどの作品を担当していた[注 8]が、山田本人は「『ローハイド』の頃のイーストウッドはナイーヴな青年といった感じだったけど、その後彼はどんどん男臭い俳優になったので、軽い僕には合わない」と自分にイーストウッドの吹き替えは合わないことを度々語っていた。ただし、『ルーキー』の吹き替え収録時、スタジオに来て台本を開くと即座に「これはイーストウッドの台詞じゃない!」とその台本を貶したというエピソードがある[9]など、誰よりもイーストウッドを理解していたと思われる。また、山田とイーストウッドは『ローハイド』のキャストが来日した1962年に一度だけ対面している。

ジャン=ポール・ベルモンドの吹き替えも数多く担当している。山田は、自身の吹き替えた俳優の中で一番好きなのがベルモンドだとよく言っており、「映画スターにしては芝居がうまいし、彼のやる役柄って、しっくりくるんです。やってて、楽しくってしかたがない」「アテレコをやっていて(芝居の上手さに)すごく刺激を受けた人」と語っている[10]。山田の代表作であるルパン三世(下記)のキャラクターデザインは『リオの男』のベルモンドをモデルにしており(吹き替えも山田が担当)、これについて「ベルモントとルパンは大体同じ調子でやっている」「ルパンを実写化するなら、出来るのはベルモンドだけだと思う」とも語っていた。

ルパン三世編集

世間一般には「ルパン三世の山田康雄」として知られていた。また、山田は風貌や振る舞いまでルパンに似ており、常にキャラクターと一心同体のイメージでお茶の間に知られていた例の一つである[注 9]

出会い編集

山田とルパンの出会いのきっかけは、前述の舞台『日本人のへそ』での役作りに悪戦苦闘していた際に、熊倉一雄が「参考になるから」と『漫画アクション』から切り抜いた『ルパン三世』の原作を渡した事だった。当初「漫画でアドバイスはないだろう」と思いつつも、読み始めると「こりゃビックリ!日本にこんなすごいマンガがあったの?」と、たちまち夢中になり、それ以降は毎週『漫画アクション』を買っては作中のルパンの「エッセンス」を自らの役にも盛り込んでいったという。

そして舞台本番、客席にはルパンの声優を探していた大隅正秋(現・おおすみ正秋)がいた。舞台での山田の演技は、彼のイメージしていたルパン像に合っており、舞台終了後、山田に「ルパン、やる?」と聞いたところ「やる!」と即答で承諾したという。おおすみは後に当時を振り返って「ルパンがここにいると思った」と語っている[11]。また、山田はこの一連の出来事を後に「宿命的な出逢い」と表現している[7]

エピソード編集

自分の名刺にルパンの顔を入れるなど、ルパンには非常に強い愛着を持っていた。また、ルパンに「出会えて幸せ」だとインタビューでよく語っていた。

山田はルパンに対して、生きる姿勢や考え方が自身とよく似ていると言っており、「自由奔放で信念を持ってないこと」「義賊でないこと」「盗めそうもないものがあると、それが価値のないものであっても全知全能を傾けて盗むような、無目的の目的」が特に気に入っていると発言している[12]。また、ルパンは銭形がいて初めて成立するキャラクターであり、「超一流の泥棒と超一流の警部が追いつ追われつつするうちに、相手の才能を認めあった上で芽生えた奇妙な友情、これなくしてルパン三世は成立しないのです」と語っている[7]

ルパンと山田のイメージが不可分になってしまったため、舞台でもコソ泥の役ばかりが回ってくるようになったこともあった。また、青春ラジメニアにてゲスト出演した際にはルパンに対して聞かれ、「(同一視されてしまうため)ありがたさ50%、迷惑さ70%」と語っている。

アフレコの収録のためにスタジオに入る際、山田はいつも「かったりぃよ」「やってらんねぇよ」などとやる気のない言葉を言っていたといい、『ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎』放送時の対談でも、「いい加減に演じている」と話している。しかし、「収録が始まると、全くミスがなかった」と共演者は語っている。

ルパン三世 (TV第2シリーズ)』のアフレコで渡された台本の中に「不二子ちゃん」「ルパン三世」の台詞があり、山田はアドリブを効かせて「ふ〜じこちゃ〜ん」「ルパ〜ンさ〜んせ〜」と独特の抑揚で表現。以後これらはルパンの代名詞的な台詞となる。他にも、同シリーズからアドリブを多用するようになり、ルパンのキャラクターに山田の個性が強く反映されていった。これらについて、古川登志夫は「絵を見た途端に、モノマネをする他人にも無意識の内に真似をさせてしまうのは、役者として人間国宝級の凄さ」と語っている。なお、山田個人としては『TV第1シリーズ』の方が好みで、ややコメディタッチ[注 10]になった『TV第2シリーズ』には多少不満があったらしい。

スタッフとはプライベートでの交流も多く、特に大野雄二とは大野の自宅スタジオに招かれて酒を飲み交わすほどの仲だった(山田のアルバムはすべて大野がプロデュースと音楽を担当している)。また、自身の戦争体験から、ルパンにはあまり人殺しをさせないようスタッフに頼んでいたという。

ルパン三世のアフレコ時、絵が完成していないからという理由でアフレコを中止させたことがある。「画が揃っていないんじゃ、あてるものがないのでやれないよ」と平気でスタジオを後にしたという。銭形役の納谷悟朗によると、ただ「やめよう」と言うだけではなく、「ダメだ、出来ないよこんなの。ねぇ悟朗さん、出来ないよね?」と必ず納谷に話を振ってきたため、納谷は「うーん、まあなぁ。これなぁ」と同調せざるを得なかったという。ルパン三世声優陣によると実際に中止になったのは2回、その内の1回に居合わせた松井菜桜子によると、その時動いていなかった絵はワンカットだけだったという。神谷明が後年、直に聞いたところによれば、「俺たちは別に絵がなくたってアテることはできるけど、ゲストで来てくれた役者に対してそれは失礼だろう」というのが真意だったそうである。

「ルパンの魅力は義賊ではないところ」が山田のルパン像だったが、最も義賊意識が強いとされる『ルパン三世 カリオストロの城』はいたく気に入っていた。アフレコの際、宮崎駿から「今度のルパンはクリント・イーストウッドを吹き替える時のようにクールな抑えた声で演技してほしい」と注文を受けるが、「ルパンは自分で持っている」という自負心のあった山田は「今さらごちゃごちゃ言われたくねえよ!ルパンは俺が決めてるンだ!ルパンは俺に任しときな!」等と言って突っぱねたという。宮崎は山田の横柄な態度に苦虫を噛み潰し、大塚康生は「ヤスベエは生意気だから降ろそう」と助言をしている。しかし、音が入る前の状態の試写を見終わった山田はそのクオリティの高さに感動して態度を一変させ、「先ほどは失礼なことを申しました。どんな無理な注文でも仰って下さい。やらせて下さい!何百回でもやり直しますので」と宮崎に頭を下げたという[13]。同時期に放送されていた『TV第2シリーズ』に不満のあった山田は、『カリオストロの城』の作画やコミカルなだけではないルパン像に感動したらしく、「こういうのを映画の真髄というんだ」と後に語っている。TVスペシャル第五弾『ルパン三世 ルパン暗殺指令』のアフレコの際にも、おおすみから宮崎と同様の指示をされ、「宮崎さんにも同じことを言われたよ」と嬉しそうに回想したという。

ルパン三世は今後も続編が作り続けられると考えていた山田は「ルパン三世 PARTIII」の最終回のアフレコの際、本編収録後にお別れのメッセージの収録を依頼されたところ『「これでお別れだ」なんて言っておいて、どうせまた新しいのをやるんだろ? そんな嘘はつきたくない』とメッセージの収録を拒否してスタジオを後にしたこともあるという[14]

お笑いスター誕生!!』に挑戦者として出場していたカージナルスギャグに、ガダルカナル・タカつまみ枝豆に向かって「俺は大泥棒の知り合いがいる。それはルパン三世だ!」と言って山田に同意を求めるものがあった。山田は自分を指差し「俺がギャグなのか!?」という顔をしたため、場内は爆笑に包まれた。

金曜ロードショーに2度のゲスト出演をしている。最初は先述の『ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎』放送前に原作者のモンキー・パンチと共にスタジオに登場。この時、水野晴郎からルパンを演じることについて聞かれた際、「自分はいい加減に演じていて、そんなに力を入れて演じていない。」「(ルパンは)他人じゃないような気がする。」「イーストウッドとは(演じ方が)全然違う。」と答えている。2度目は『ルパン三世 ロシアより愛をこめて』放送時で、本編の前の収録現場公開にて登場。ここでは、水野から今作品の見どころについて質問されると、「頭(本編開始)からエンディングテーマまで」と答えている。またこの時、山田はTVスペシャルを「七夕みたいなもの[注 11]」と話している。

今後もルパンを演じることについては「オレがもうだめだ、できないってわかった場合は、『ルパン三世』の新作をつくるってことはやめて欲しいね、テレビ局であれ、映画会社であれ。これは悪いけど、共に老いさらばえて墓の中にもって行かしてもらいたいね。」という言葉を残している[15]

『風魔一族の陰謀』での確執編集

OVA第一弾『ルパン三世 風魔一族の陰謀』では、レギュラーの声優陣が山田康雄らから変更され、ルパン役は古川登志夫が担当した。

ある日、モンキー・パンチのもとに「ルパンをこういう配役でやりたい」という連絡が来た。ところがパンチはこの配役に納得できず、会社の会議に足を運んだ。当時のプロデューサーによれば、理由はギャランティの問題であり、当時の東京ムービーの経営は非常に苦しかったとのこと。パンチはこれまでレギュラー声優陣に世話になった経緯からこれを承諾しきれず、「5人の声優さんに前もって話をして、その上で了承を得ること」を条件に許可を出した。

ところが声優陣交代の話は山田には伝わっておらず、公開から1年ほど経過した頃に同作でルパン役を担当した古川から初めて事実を聞かされて激怒。夜中の1時頃、酒が入った山田はパンチに電話越しで30分に渡って不平不満をぶつけた。時間の経過で失念していた事に加え、勢いに押されて無意識にとぼけてしまうパンチに対して「これはあんたが許可したんだろう」と大きく非難。翌日、パンチは真相を確かめるべく東京ムービーに電話をしてみたが、すでにこの映画のプロデューサーは辞めており、当時この件に関わっていた人物は全員いなくなっていた。パンチはこれをきっかけにアニメ業界が信用できなくなったという。

この映画でルパンを演じた古川の話によると、このことは現場から固く口止めされており、オフレコで本当はやりたくないと悩んでいた。山田の物真似ではなく自分の尺での演技をしたのは、製作側からの指示によるものだった。キャスティングの変更はギャラの問題だけでなく、アニメーションの絵にうるさく、ディレクターでもないのに現場を仕切り、声優のギャラの値上げの闘争まで起こした山田の強烈な性格が現場では重い負担となっていたというのが、本当のところであった(しかし、『風魔一族の陰謀』のアニメーションの絵としてのレベルは高いものであった)。

結局、同作の不振もあって1989年に始まったテレビスペシャルシリーズでは声優陣は元に戻ったものの、山田とパンチの間にはギクシャクした雰囲気が残ってしまい、先述した金曜ロードショーでゲスト出演することになった際にパンチは改めて山田に謝罪したが、誤解が解けたかまでは結局最後まで分からずじまいとなった。

晩年編集

1993年、TVスペシャル第五弾『ルパン三世 ルパン暗殺指令』のアフレコの際には立っているのが辛くなり、途中から椅子に座って収録した。アフレコ終了の帰り際におおすみ正秋が「体を治して元気になり俺が書く芝居に出て欲しい」と呼びかけ普段であれば喜んで引き受けるはずが、その日に限り寂しそうな表情で首を縦に振らずに帰ったという。

同じ頃、ルパンのCDであり自身のアルバムCDでもある「ルパン三世・Tokyo Transit〜featuring YASUO YAMADA」制作後、大野雄二に「次のアルバム早く作ろうよ。でないと俺死んじゃうよ」とたびたび電話をかけていたという。当時、多忙だった大野は「また冗談言っているよ」と気にしていなかったが、山田の死後は次のアルバムを作ってやれなかった事を今でも悔やまれることとして述べている他、「山田さんがいなければルパンじゃない」と山田の死の翌年である1996年にルパン三世の音楽担当を一時降板している(1997年からは復帰)。関係者の間では、この時期にはすでに自らの寿命を悟っていたのではと山田の死後に語られていたようで、同時期に山田は家族に向けての「ハヤイハナシガイショ(早い話が遺書)」という文章を綴っている(いずれも山田の追悼本より)。

1994年、自身の遺作となったTVスペシャル第六弾『ルパン三世 燃えよ斬鉄剣』でも体調不良を押しての出演となり、この収録も椅子に座って行う形となった[16]

急逝直前に製作が決定していたルパン三世の劇場映画第五作『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』では、予告編の収録を山田が担当していた[注 12]。声優陣の話では、すでに体調を崩していた山田は収録の際に車椅子に乗って現れたという。また、同作のプロデュースを務めた日本テレビプロデューサーの中谷敏夫は、この収録が最初で最後の山田との対面だったという[17]

その後、1995年に山田が本編のアフレコに入る直前に倒れ、栗田貫一代役としてルパンを担当、山田の死去により栗田は正式に2代目ルパン役の声優として引き継ぐことになった。

葬儀の席では、モンキー・パンチが山田の死後も前述の『風魔一族の陰謀』事件に対し、山田に十分な説明ができなかったことを後悔し、深く悲しんでいた。弔辞を担当した納谷悟朗は山田の遺影に向かい、銭形の口調で「おい、ルパン。これから俺は誰を追い続ければいいんだ!?」、「お前が死んだら俺は誰を追いかけりゃいいんだ」と涙ながらに呼びかけた。

『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』では、スタッフロールが流れたあとに、哀悼の意を込めて「永遠のルパン三世 山田康雄さん ありがとう」という追悼テロップが付け加えられている。

後任編集

山田の没後、生前に担当していた持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

また山田が専属で担当していたイーストウッドの吹き替えは野沢、多田野以外にも小林清志瑳川哲朗等が複数の作品で担当した。

出演編集

太字は主役・メインキャラクター。

テレビドラマ編集

テレビ番組編集

映画編集

テレビアニメ編集

1964年

1965年

1967年

1968年

1969年

1970年

1971年

1972年

1973年

1974年

1975年

1976年

1977年

1980年

1983年

1984年

1989年

1990年

1991年

1992年

1993年

1994年

劇場アニメ編集

1970年

1972年

1973年

1978年

1979年

1982年

1985年

1990年

1995年

吹き替え編集

俳優編集

洋画編集

邦画編集

テレビドラマ編集

アニメ編集

人形劇編集

ゲーム編集

特撮編集

CM編集

太字はルパン三世が登場するCMで同キャラクターの声を担当したもの

  • その他館内CM各種。

CD編集

レコード編集

ラジオ編集

舞台編集

1958年

  • 男の中の男(初の舞台出演作:8月上演)
  • どん底

1960年

1961年

1962年

1964年

  • 四人の隊長の恋

1965年

  • 青年が皆死ぬ時

1966年

  • オレンジ色の罪状
  • 海賊

1967年

1968年

  • 赤ちゃん今晩は

1969年

  • 日本人のへそ

1970年

  • 表裏源内蛙合戦

1971年

1972年

1973年

  • 珍約聖書

1975年

1976年

  • 法界坊悪行極楽
  • みにくいあひるのこ

1977年

  • ノーセックス・プリーズ

1978年

  • ホームドラマ(最後の舞台出演作:4月上演)

1980年

  • 二番街の囚人(声の出演)

1984年

  • サンシャイン・ボーイズ(声の出演:2002年、テアトル・エコーの再演時にも山田の声が使用された)

追悼本編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 審査員には宇野重吉らがいたという。
  2. ^ 山田の追悼本に掲載されていたエッセイによれば、本人曰く「さらわれた」とのこと。また「熊ちゃんは人さらいだった」とも語っている。
  3. ^ 再放送自体は、山田が亡くなる前から予定されていた。
  4. ^ ただし、実際にはできなかったため、後に「おどろきましたね、これには」と発言している。
  5. ^ 一緒に飲んでいた知り合いに「次元大介と話をさせてやる」と言って小林の家にかけてきたという。
  6. ^ ただし、場合によってトーンの高低を変えるという事はあった。
  7. ^ 山田の追悼本において小林清志が、ルパン三世のアフレコ中のスタジオに、当時小林の子供もテレビで夢中になっていたというドリフのメンバーが入ってきて、山田に丁重に挨拶するのを見て驚いたと語っている。
  8. ^ 存命時に担当しなかったのは『センチメンタル・アドベンチャー』のみである。
  9. ^ 鶴ちゃんのプッツン5』にゲスト出演し、腕相撲をすることになった際、客席からの応援コールが「ルパン頑張って!」「ルパン!ルパン!」だった。
  10. ^ 後に山田は、原作文庫本「ルパン三世」第1巻のあとがきで、「ガキ志向が強まったことは不満だった」と表現している。
  11. ^ 当時、TVスペシャルは毎年夏に放送されていた。
  12. ^ 前年7月頃に予告編を、翌年明けてすぐに予定していた劇場スポット2編を全て担当していたが、3月の死去後劇場にて放映していた予告編は栗田が山田の部分を再録する形で放映されている。テレビ用CMに関しては山田が収録した物をそのまま放送している。

出典編集

  1. ^ a b 『声優名鑑』成美堂出版、1999年7月、677頁。ISBN 978-4415008783
  2. ^ 戦略大作戦 吹替の力”. ワーナー・ブラザース. 2016年11月13日閲覧。
  3. ^ 『続・夕陽のガンマン MGM90周年記念ニュー・デジタル・リマスター版』公式PV”. YouTube. 2016年11月13日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 月刊OUT 1978年7月号より
  5. ^ アニメージュ 1979年9月号
  6. ^ a b 声優・井上真樹夫が語る『巨人の星』『ルパン三世』『機動戦士ガンダム』伝説のアニメ制作秘話”. otocoto. 2019年7月14日閲覧。
  7. ^ a b c 原作文庫本「ルパン三世」第1巻あとがきより
  8. ^ いかりや長介『だめだこりゃ』より
  9. ^ 映画秘宝 2017年8月号 池田秀一のインタビューより
  10. ^ 『映画はブラウン館の指定席で―淀川長治と『日曜洋画』の20年』87頁より
  11. ^ 原作文庫本「新ルパン三世」第1巻あとがきより。
  12. ^ ルパン三世 カリオストロの城』映画パンフレットより
  13. ^ 大塚康生『作画汗まみれ』より。
  14. ^ [1]ゲスト出演した古川登志夫井上真樹夫との対談で証言。
  15. ^ アニメージュ 1989年6月号
  16. ^ ルパン三世officialマガジン』Vol.17、双葉社、2008年、p.162
  17. ^ ルパン三世 Master File』 -ルパン三世クロニクル―より。
  18. ^ 小原乃梨子・山田康雄による新録版ビアンカの大冒険シリーズは続編『ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!』の方が先に作られていたため。
  19. ^ “ルパン三世 1st series”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=52 2016年5月2日閲覧。 
  20. ^ 宇宙の騎士テッカマン”. メディア芸術データベース. 2016年11月6日閲覧。
  21. ^ “ルパン三世 2nd series”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=53 2016年5月2日閲覧。 
  22. ^ “坊っちゃん”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=19 2016年5月9日閲覧。 
  23. ^ “ルパン三世 PartIII”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=331 2016年5月2日閲覧。 
  24. ^ “ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=455 2016年5月2日閲覧。 
  25. ^ “ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=456 2016年5月2日閲覧。 
  26. ^ “ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=457 2016年5月2日閲覧。 
  27. ^ “ルパン三世 ロシアより愛をこめて”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=458 2016年5月2日閲覧。 
  28. ^ “ルパン三世 ルパン暗殺指令”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=459 2016年5月2日閲覧。 
  29. ^ “ルパン三世 燃えよ斬鉄剣”. トムス・エンタテインメント. http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=460 2016年5月2日閲覧。 
  30. ^ a b c “作品データ”. ルパン三世NETWORK. オリジナルの2016年4月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160420200256/http://www.lupin-3rd.net/sakuhin_ova.html 2016年5月2日閲覧。 
  31. ^ “[/pg_info/detail/010518/index.php 新・猿の惑星]”. WOWOW (2016年6月24日). 2016年7月25日閲覧。
  32. ^ “[/pg_info/detail/010521/index.php 続・猿の惑星]”. WOWOW (2016年6月24日). 2016年7月25日閲覧。
  33. ^ この作品だけは存命中に制作された作品のためルパン役としては唯一の出演作となる。

外部リンク編集