山田康雄

日本の俳優、声優、司会者(1932−1995)

山田 康雄(やまだ やすお、1932年昭和7年〉9月10日 - 1995年平成7年〉3月19日[1])は、日本俳優声優司会者テアトル・エコーに所属していた[3]長男演芸作家山田浩康

やまだ やすお
山田 康雄
プロフィール
本名 山田 康雄[1]
愛称 ヤスベエ
性別 男性
出生地 日本の旗 日本東京市大森区南雪谷
(現:東京都大田区南雪谷)[2]
死没地 日本の旗 日本・東京都大田区東雪谷東京都立荏原病院
生年月日 (1932-09-10) 1932年9月10日
没年月日 (1995-03-19) 1995年3月19日(62歳没)
血液型 A型[2]
職業 俳優声優司会者
事務所 テアトル・エコー(最終所属)[3]
配偶者 あり
著名な家族 山田浩康長男
徳川ミキ
公称サイズ([3]時点)
身長 / 体重 167 cm / 56 kg
俳優活動
活動期間 1953年 - 1995年
ジャンル テレビドラマ映画舞台
声優活動
活動期間 1958年 - 1995年
ジャンル アニメ吹き替えナレーション
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

代表作に、ルパン三世の声(初代)や、クリント・イーストウッドジャン・ポール・ベルモンド吹き替えがある[2][4][5]

生涯編集

生い立ち編集

東京府東京市大森区(現:東京都大田区南雪谷に生まれる。役人の家系であり、父親は日本銀行に勤務していたが3歳の頃に死別している。

1945年、東京都立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)に進学。在学中は野球部に所属し熱中する一方で、授業をサボってまで映画館に通うほど映画も好んでいた。そんなある日、コメディ映画虹を掴む男』でのダニー・ケイのコミカルな演技に惹かれ、「人を楽しませるようなコメディを演じられる喜劇役者になりたい」という憧れを抱いた[6][7]。また、野球部内の友人の家族が鶴田浩二の妻だったことから撮影所へよく訪れたといい、それが役者を目指すきっかけだったかもしれないことを山田本人は後に明かしている。

大学受験の際、本人曰く「六大学野球内でレベルが低く、唯一レギュラーを取れそうな大学」として、東京大学を受験するも失敗。但し、卒業時の成績は71位だったということであり、あながち無謀な挑戦というわけでもなかった[6]

キャリア編集

早稲田大学第一文学部英文科[8]入学後に、学生劇団である自由舞台に入団。役者としての一歩を踏み出した。

1953年、難関とされる劇団民藝の試験に合格[注 1]。大学を中退し、研究生として入団する。しかし、自分のやりたいコメディができず厳しい基礎練習ばかりの毎日に耐えられず1年で退団、フリーとなる。ちなみに入団中は、稽古に参加せずサボってばかりいたため”サボリーマン”という二つ名が付く一方、野球の試合だけはきっちり出ていたという[9]

フリー転身後はラジオやテレビに出演。1958年3月、それまで何度か共演していた熊倉一雄に誘われ[注 2]劇団テアトル・エコーに入団[10]、8月に『男の中の男』の広口役で初舞台を踏んだ[11]

同年、『ヒッチコック劇場』の「オレゴンの靴」という回で主演である犯人役の吹き替えを依頼される[注 3]。しかし、浅いキャリアで舞台の主役どころをすぐに掴んでいた山田は慢心で収録に臨んだ結果、リハーサル中に5・6回のNGを出してしまい、最終的にその役を降板させられる[7][12]。監督からは「主役なのに普通のチンピラのよう」「君の芝居は吹き替えに合わない」と演技面で酷評され、山田はこの時、悔しい思いをすると同時に今までの自分の考えは非常に甘かったと反省。その日からは心機一転し、原点に戻って芝居の稽古を続けた。

1959年、海外ドラマ『ローハイド』においてクリント・イーストウッド演じるロディの吹き替えにオーディションで抜擢され声優デビュー。同作のヒットにより「クリント・イーストウッドの吹き替えは山田康雄」と世間から認知されるほど有名になる。

テアトル・エコーでは看板俳優として活躍。特に、1969年以降は『日本人のへそ』『表裏源内蛙合戦』など井上ひさしによる多数の書き下ろし作品で主役や準主役を多くつとめた。トレードマークとなった独特の髪型は、井上の『11匹のネコ』初演のためのもので、以後そのままになったという。

吹き替えでは、クリント・イーストウッドの他にジャン=ポール・ベルモンドも担当。アニメでは、ルパン三世役を1971年に抜擢されて以後、亡くなるまで約23年半演じる代表作となり、自身のライフワークとなった。また、『お笑いスター誕生!!』の司会などテレビタレントとしても活躍していた。

1980年代からはテレビタレントやナレーターとしての仕事が増加し、ナレーション以外の声優業は持ち役の再演や単発のものが多くなる。なお、アニメ出演に関してはこの頃から「ルパンだけ」と決めていたようで、新規でレギュラー出演するオファーは基本的に辞退するようになったという[13]。舞台活動は1978年の『ホーム・ドラマ』から離れており、後年には復帰意欲をみせたものの、結果的にこれが最後の出演となった(声の出演を含めると、1984年の『サンシャイン・ボーイズ』が最後であった)。

死去編集

1993年春、低カリウム血症により入院。この頃から歩行困難で入退院を繰り返すほど体調が悪化し、収録は椅子に座って行う事が増えた。また、自身の死期を悟っている様な言動をとることがあった(後述)他、便箋に「ハヤイ ハナシガ イショ(早い話が遺書)」と家族へ感謝を述べた文章を綴り、自宅の机にしまったりしていた[14]

1995年2月17日午後3時30分、脳出血のため自宅で倒れ、東京都立荏原病院に搬送される。意識不明の入院状態が続き、医師は「予断を許さない」と診断。家族は毎日看病に通い詰めたが、3月18日夜に引き揚げた後に容体が急変、3月19日午前6時35分死去。62歳没。

山田の死を受け、3月20日には日本テレビは朝のワイド番組の内容を急遽変更し『追悼特別企画 ルパン三世の山田康雄さん逝く』を放送。3月31日には追悼企画として『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』を再放送した[注 4]。そのほか、NHKを含む各局も朝のニュース番組などで追悼特集が組まれたが、同日に地下鉄サリン事件が発生。すぐにそちらを報道する編成に変更されたため、その訃報が大きく報じられることはなかった。

葬儀告別式3月23日に執り行われ、遺骨多磨霊園に納められた[15]5月30日にはテアトル・エコー劇場で「山田康雄をしのぶ会」が行われた。

特色編集

声種ハイバリトン[16]

声質について、過去に専門家から悪声と評されたことがあり、自身も「チンチクリンな声、常にフィルターのかかってるような声」と評していた。そのため、声優としては「多少リズミカルで歯切れがよく、ほんの少し爽やかさがある」部分をセールスポイントにしていたという[7]

演じる役柄は大きく二分すると、陰影のある異常性格の役、飄々としてとぼけた役が多かった[7]。また、生粋の東京人である本人の性格も相まって、アウトローなど洒落た一面を持つ個人主義者の役も得意としていたという[17]

人物編集

生前に「笑いとばして しゃれのめして 生きたいね。」という言葉を残している。

普段は陽気で明るい性格で、話術が高く人をよく笑わせていたという。その一方で照れ屋な部分もあった。また、役者稼業には自他共に厳格であった(後述)が、他人に直接干渉することはなく努力を決して人に悟らせることはなかった。後年には追悼本で「水面下では必死で水をかきながら、見かけは優雅に水上をすべる白鳥の美学」だと評されている。

洒落た生き方を追求し、物事に対しては斜に構える面があった[18]。一方で、人に対する優しさや細やかな心遣いは一流であったという[18]。芸人のおぼんは後に「大御所ぶる人物の多い芸能界で、著名なのに一切奢らず独特の雰囲気があった」と述べている。

神経質な性格も持ち合わせており、小林清志は吹き替えの現場で初めて山田と会った際、出番の直前になると必ずマイクが拾わない程度の咳払いを繰り返す山田を見たことから、第一印象は「神経質な青年」だったと後に語っている[19]

英語が堪能であり、英語圏に住む友人も多かった。

好きなスポーツは野球ゴルフ。野球では、高校時代に城南地区代表として選手権に出場した他、1953年から鶴田浩二主催のチーム「鶴田ヤンガーズ」で活躍。東京都の軟式大会で優勝し、国体にも出場している[20]。ゴルフは、1976年頃に戸部信一の勧めで始めたのがきっかけで[21]、晩年まで熱中していた。

趣味はアメリカンラグビーの観戦。相手の「こう来るだろう」と思う裏をかいて騙し、まさかと思った所へボールを入れることが、役者が芝居で観客を錯覚させる感覚と似ているため、面白かったという[4]

特技はジャズピアノナット・キング・コールの「トゥー・ヤング」等の洋楽を弾いていたという[20]

1965年結婚し、一男一女をもうけている[14]

エピソード編集

自由に生きたいため『信念を持たないこと』が自身のモットーで、「そんなにいつまで生きられるかわかんないのにさ。信念なんか持ってて、大上段に振りかぶるなんてのはだいっきらいなんだ」と発言している[4]

将来は「不良老年」になりたいとよく言っており、老いても父兄のようにならず、いつも男女の危険をはらんだ感じで若い女性と手をつないで歩くのが夢だと語っている。一方で「結局はあしながおじさんで終わったりしてね」とも語っていた[22]

自己主張の強い性格であった。これについて「オレだってガキじゃないんだ。ファンの人に喜ばれるような優等生的発言ぐらいできるさ。でもそればっかりしていたら息苦しくなって、結局はオレ自身がつぶれちゃうんだ」「世の中って、いろんな考え方の人が集まって成り立ってるんだ。それでいいんだよナ。全員が同じ考え方になったら危険だ。ファッショへの行進がはじまる」という考えから「オレはヒトサマがどんな考え方をしようが干渉はしない。それが自分の自由を守るための絶対条件だからだ」と述べている[23]。なおこの性格について、小林清志は後に「『お笑いスター誕生!!』で司会を務めて、山田を慕う人物が増えた頃から顕著になった」としている[19]

演じる作品のジャンルは、所属するテアトル・エコーの特色でもある喜劇を好んでいた。本人曰く「何の足しにもならないバカバカしいことを一生懸命やるってのがたまらなく好きなんだよナ」とのこと[9]

本人曰く「働くのは嫌い」で、役者を目指したのも「朝寝坊ができると思ったから」という[注 5]。また、「やりたくない物は無理をしてやることはない」という考えを持っていたため、そのような仕事は(生活に困らない限り)基本的に断っていた[4]

1984年、ナレーションとして声の出演をしたテアトル・エコーの舞台『サンシャイン・ボーイズ』が文化庁芸術祭優秀賞を受賞。これに対して「俺達はいつからお上に尻尾をふる劇団になったんだ」「今後、俺のナレーションは絶対に使わせない」と激怒した。熊倉の「康よぅ、そんなに怒るなよぅ。洒落だよ洒落」となだめる電話で「シャレじゃぁしょうがねえや」と怒りを収めたといい[24]、山田没後の再演ではこのナレーションが再び使用された。

国産のアニメーションについては「生身の役者に絶対できないギャグや飛躍などができる素晴らしい魅力的な世界」と語る[23]一方、晩年には「基本的にアニメ嫌いなんです」と答えたこともあった[25]。特にSFアニメには、少年期にアメリカ軍空襲を経験した世代であることから「正義のためだとか言っているけど、やっていることは要するに戦争」と、強い嫌悪感を示していた。ただし、数少ない山田のレギュラーだったSFアニメ『宇宙の騎士テッカマン』のアンドロー梅田役は、事前に作品の設定を聞き「単なる勧善懲悪ではない」ことに納得して出演している[26]。アニメブームについては「ブームになれば製作本数が増える。本数がふえりゃ優秀なスタッフが分散する。分散すれば質的にレベルは低下する。質的に補充しようったって、才能というのはそんな簡単に育つものじゃない」と語っていた。

仕事に対する姿勢編集

役者としてのプライドから同業者に厳しい面もあり、自身も常に真摯な姿勢で演技に取り組んでいた。また、仕事に対してきちんと筋を通す性格であったため、収録で理に適わないことがあると激怒して帰ってしまったことが何度かあったというが、この行動について古谷徹は「それは出演者皆の気持ちを代弁したもの」と語っている。

仕事中の山田について、後輩の神谷明は「もう怖かったですよ」と語る一方、「『演技』と『仕事に取り組む姿勢』を特に厳しく教えて頂き、それがその後の自分を支えてくれました」とも語っている[27]増山江威子は山田の姿勢や発言について、「良い作品を作るための主張であり、我が儘や闇雲に言っていたわけではなく、『怖い人物』と伝わっている部分にも必ず理由があった」と語っている[28]

山田は生前「皆さんは『声優』というけど『声優』という商売はないんです。『声優』というのは、役者がやっているいろんなジャンルの一部分です」と語り、「『声優業』とは『役者』の仕事の1つである」というスタンスを徹底的に守っていた[4]。山田のもとには「声優になりたい」という人が多くやってきたが、山田は「声優になりたいと思うのならやめなさい。でも、役者になりたいのなら、やってみてもいいかもね」と返答していた。それには「声優業という一部分を目指すだけでは役者として成功しない」という意味がこめられており、山田の役者としての誇りが窺えるエピソードである[29]。また、新人に対する指導の際は「声優を目指すな、役者を目指せ。演技は全身でするものだ。それでこそ『声優業』も活きてくるんだ」という言葉が口癖だったという。こういった考えから山田は『声優』という呼称を好まなかったが、声優業そのものに対しては、「役者としての感性が重要視される仕事」として誇りを持っていた。

『声優』という呼称を好まなかった一方、自身が『声優』と呼ばれることに対しては、「どう言われようが、才能や力量が変わるわけではない」ため平気だと述べていた。ただし、「セイユーと言われるとスーパーの店員になったみたい」と皮肉交じりに語ることはあった[22]

声優業で一番難しいのは、絵がなく、声だけで表現するラジオドラマだと発言している。また、アニメに対しては演じる側からして「(叫びなど)若くて声が出れば誰でもできる」「ある程度はニュアンスとかがなくてもいける」「(叫ぶ、悲しむなど)三つ位の(演技)パターンを持ってればできる」などの理由から、それでは他の役者が育たないこともあり「あまり好きじゃない」と発言している[4]。ただし、上述のような「生身の役者に絶対できないギャグや飛躍」を演じられることは楽しいと語っていた。

絵が完成していない状態でアフレコを行うことは、「録音した台詞と後からニュアンスや長さの違う絵が完成しても、リテイクの時間的余裕は無くそのまま放送される。その場合、演技で恥をかくのは役者である」という理由から嫌っていた。実際に『ルパン三世』では、絵が完成していないからという理由でアフレコを中止させ、出演者全員で引き上げたことがある(後述)。また「こんな録音状況が業界でまかり通るようになってしまった責任の一端は、それを許した役者側にもある」とも語っていた[30]

演技編集

役者は役になり切るのではなく、役を操るもの」という言葉を残している[16]

演技は全て地声で行い、声を作ることはほとんどしなかった[注 6]。このことに関して山田は「あまり作ると無理が出てくるんです。ニュアンスが消えるようになっちゃう。だからあまり作らない」「同じ人間がやってて(声を)どう変えてもね、絶対に変わるもんじゃないです。もしそれが本当に変わっちゃうんだったら、悪口を言うわけじゃないけど、トーキングマシーンでしょ」と発言している[4]

アドリブが多いことで有名で、役やキャラクターを理解すると「ポコポコと自然に出てくる」ため、本番で直観的に思った事をやってみるスタイルだった(アフレコでは、それを採用するかしないかはディレクターに任せていたという)[4]。ただし、「今お前の言った方が面白いよ。でも俺は何て答えりゃいいの」と言われたこともあり、このことを晩年には「すばらしい仲間に随分迷惑をかけた」と反省している面もあった[31]

役作りに関して、本人はよくインタビューにおいて「”ヤマ”と”カン”だけを頼りにやってるし、舞台稽古はよくサボっている」と語っていたが、一つの舞台に出演すると必ず体重が数キロ落ちたといい、実際にはかなり計算づくされていたのではないか、と追悼本では評価されている。

役者業について「好きだということは大切」とした上でプロの場合は才能が必要だと語り、「どんなにいい人、好かれる人でも才能がなきゃダメ。オレたちの仕事は、ちょっとキザに言えば才能と才能のつきあいなんだから――」と述べている[32]。また「芝居というものが人間の生活を描くものである以上、いろんなタイプの役者が必要」との考えを持ち、「役者である以上どんな役でもこなさなきゃ、というのは素人の考え」と語っていた[33]

自身の演技については、演劇は教育ではなく娯楽であり何かを解らせようという姿勢はないとの考えから、「どうとって下さっても構わない」と語っている[34]

待遇改善活動編集

声優のギャランティの向上などを求めてテレビ局にデモを起こしたことがある。昭和40年代、声優は出演作の再放送分のギャラは支払われず、当時は作品1本につき最高で3万円であったのに対し、山田の仕事仲間の代役を務めた俳優・宇津井健のギャラは45万円だった。このため、山田はこれらを「声優全体の問題」と考え、この問題を解決するべく奮闘したという。結果、山田らの善戦の甲斐あって再放送のギャラが認められるようになった[35][36]

このことについて、後で知った神谷明は「照れ屋だから絶対に(奮闘する部分を)見せない」と語り、「自分たち後輩を(影で)守ろうとしてくれていた」と述べている[27]

交友関係編集

お笑いスター誕生!!』で司会を担当する等、お笑い界と縁は深かった。このことを山田は「役者として感覚が現代的でなくなることは一番恐ろしい。そのため自然とそういう分野の人と交友関係を求めていると思う」と述べている[37]

ザ・ドリフターズにコントの演技指導をしたこと[注 7] が縁でいかりや長介と交流を持つようになり、『8時だョ!全員集合』に出演(前半コントにおける敵役等)したほか、プライベートでもいかりやと杯を交わすなどの交流を行っていた[38]

『お笑いスター誕生!!』の司会者を長年務めたこともあり、当該番組に出場経験のあるダウンタウンウッチャンナンチャンが出演する『夢で逢えたら』や『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』などのバラエティー番組に、ゲストとして登場したこともあった。

ルパン三世役の後任である栗田貫一は、ルパンのものまねをしていたことから山田と親交があり、還暦祝いのゴルフコンペに誘ったり、『ものまね王座決定戦』ではご本人として栗田と共演したこともある[39]。長男で演芸作家の浩康の声が康雄とそっくりだといい、康雄の没後に一緒に飲んでいた栗田は「コツとか教えるからルパンやってよ」とルパン役の後継を依頼するも、「嫌だよ」と固辞されたと語っている。

吹き替え編集

クリント・イーストウッドの吹き替えは、出世作となった『ローハイド』以降、存命時にほぼ全作品で担当し[注 8]、死後においても「クリント・イーストウッドといえば山田康雄」といわれている[40]。山田本人は生前「『ローハイド』の頃のイーストウッドはナイーヴな青年といった感じだったけど、その後の彼はどんどん男臭い俳優になったので、軽い僕には合わない」と自分にイーストウッドの吹き替えは合わないことを度々語っていたが、『ルーキー』の吹き替え収録時、台本を見た山田がスタジオに来て即座に「これはイーストウッドの台詞じゃない!」と貶したというエピソードがある[41]など誰よりもイーストウッドを理解していたと思われ、本人も収録時にイーストウッドと逢うと「何故かホッとする」と「好き嫌いやキャラクターを突き抜けた何かがある」ことを語っていた。また、山田とイーストウッドは『ローハイド』のキャストが来日した1962年に一度だけ対面しており、その後しばらくは文通をしていたという[42]

ジャン=ポール・ベルモンドの吹き替えも数多く担当している。山田は、自身の吹き替えた俳優の中で一番好きなのがベルモンドだとよく言っており、「映画スターにしては芝居がうまいし、彼のやる役柄って、しっくりくるんです。やってて、楽しくってしかたがない」「アテレコをやっていてすごく刺激を受けた人」と語っている[43]。また、山田の代表作であるルパン三世はベルモンドをモデルにしており[44]、これについて「ベルモントとルパンは大体同じ調子でやっている」「ルパンを実写化するなら、出来るのはベルモンドだけだと思う」とも語っていた他、一番思い出深い吹替出演作にベルモンド主演の『あの愛をふたたび』を挙げている[22]

何度か吹き替えを担当したジェラール・フィリップについては、ベルモンドと共に個人的に好きな役者の一人としている[7]

ルパン三世編集

世間一般には「ルパン三世の山田康雄」として知られていた。また、山田は風貌や振る舞いまでルパンと似ており、常にキャラクターと一心同体のイメージでお茶の間に知られていた例の一つである。

ルパン役の後任である栗田貫一は後に「(アニメの)ルパンは山田さんが作ったもの」「ルパンの8割くらいは、山田さんのそのままの姿なんだと思うんです」と語っている[45]

出会い編集

山田とルパンの出会いのきっかけは、舞台『日本人のへそ』での役作りに悩んでいた山田が演出家の熊倉に参考として、当時『漫画アクション』に掲載されていた原作の切り抜きを渡された事だった。

最初「漫画でアドバイスはないだろう」と思いつつも、読み始めるとたちまち夢中になる。それ以降は毎週『漫画アクション』を買うようになると同時に、作中のルパンの”エッセンス”を自らの役にも盛り込んでいったという。

そして舞台本番、客席にはルパンの声優を探していたおおすみ正秋が偶然いた。山田の演技はおおすみの目に留まり、舞台終了後の山田へ直ちに出演を打診したところ、山田も「やる!」と即答で承諾したという。

山田はこの一連の出来事を後に「宿命的な出逢い」と表現している[31]

エピソード編集

自分の名刺にルパンの顔を入れるなど[46]、ルパンには非常に強い愛着を持っていた。また、ルパンに「出会えて幸せ」だとインタビューでよく語っていた。

山田はルパンに対して、生きる姿勢や考え方が自身とよく似ていると言っており、「自由奔放で信念を持ってないこと」「義賊でないこと」「盗めそうもないものがあると、それが価値のないものであっても全知全能を傾けて盗むような、無目的の目的」が特に気に入っていると発言している[47]

銭形警部については、ルパンは銭形がいて初めて成立するキャラクターとしており「超一流の泥棒と超一流の警部が追いつ追われつつするうちに、相手の才能を認めあった上で芽生えた奇妙な友情、これなくしてルパン三世は成立しないのです」と語っている[31]。銭形役の納谷悟朗は山田の死後、このことを「すごく嬉しかったよ」と回想している[48]

ルパン三世 (TV第2シリーズ)』で渡された台本の中に「不二子ちゃん」「ルパン三世」の台詞があり、山田はそれを「ふ〜じこちゃ〜ん」「ルパ〜ンさ〜んせ〜」と独特の抑揚で表現。以後、これらはルパンの代名詞的な台詞となる。また、山田のアドリブから銭形が「とっつぁん」と呼ばれるようになり[注 9][49]、他にも「アララララ…」など独特の節回しやアドリブを多用したことで、ルパンのキャラクターに山田の個性が強く反映されていった。

生前のインタビューで、山田個人としては「いろんな意味で本当の『ルパン三世』に近い」と『TV第1シリーズ』の方が好みだと語っていた。『TV第2シリーズ』には「『俺はルパンだ』で随分通してきたから変な言い方は出来ない」としつつ、視聴率を重視したテレビ局の意向で子供向けになり過ぎたことへは不満を表している。

ルパンと山田のイメージが不可分になってしまったため、舞台でもコソ泥の役ばかりが回ってくるようになったこともあった。また、同一視されてしまうためルパンに対して「ありがたさ50%、迷惑さ70%」と答えたこともある[50]。テレビなどで同一視されている趣旨の発言を受けた際は「じゃあ俺はマンガかあ!?」と返すのが定番だったという[18]

ルパンの役作りについては「感性の問題」と語り、原作から感じていたものと、映像の第一印象でひらめいたもののみ大事にして演じていた。また、ルパンは国籍や年齢が不詳という設定上、基本的に「何者か」などは深く考えずに演じていたと述べている。ただし「ルパンだけは『ふざけた人も危機になると真面目になる』ということはやめよう。追いつめられてヤバイときこそオチャラケていよう」という基本線は最初から決めていたという[51]

スタッフとはプライベートでの交流も多く、特に大野雄二とは大野の自宅スタジオに招かれて酒を飲み交わすほどの仲だった(山田のアルバムはすべて大野がプロデュースと音楽を担当している)[52]。また、自身の戦争体験から、ルパンにはあまり直接的な人殺しをさせないようスタッフに頼んでいたという[50][51]

脚本について、起承転結がはっきりして理屈詰めになることは「ルパンにならない」と嫌い、見た後の視聴者に想像の余地を残すような「なげっぱなし」の展開を気に入っていた[34]

山田は収録でスタジオに入るといつもやる気のないようなことを言っていたが、納谷悟朗によると、それはシャイな部分の裏返しや山田なりのシャレであり、いざ収録が始まると全くミスがなかったという[27]。また、収録後の夜には、音響監督加藤敏のもとへ酔った山田から「あそこはうまくいってたかなぁ」「ここはこうした方がよかったかな」と自身の演技を心配する電話がよくかかったという。

ルパンのアフレコ時、絵が完成していないからとアフレコを中止させたことがある。「画が揃っていないんじゃ、あてるものがないのでやれないよ」と平気でスタジオを後にしたという。納谷悟朗によると、ただ「やめよう」と言うだけではなく、「ダメだ、出来ないよこんなの。ねぇ悟朗さん、出来ないよね?」と必ず納谷に話を振ってきたため、納谷は「うーん、まあなぁ。これなぁ」と同調せざるを得なかったという[注 10]。納谷によると実際に中止になったのは2回[48]、その内の1回に居合わせた松井菜桜子によると、その時動いていなかった絵はワンカットだけだったという[53]神谷明が後年、直に聞いたところによれば、「俺たちは別に絵がなくたってアテることはできるけど、ゲストで来てくれた役者に対してそれは失礼だろう」というのが真意だったそうである。

ルパン三世 カリオストロの城』はいたく気に入っていた。アフレコの際、宮崎駿から「今回はこれまでと調子を変えて、例えばクリント・イーストウッドのような抑えた声をお願いしたいので宜しく」と注文を受けるが、「ルパンは自分で持っている」という自負心のあった山田は「ルパンはオレに任しときな!今更ごちゃごちゃ言われたくねーよ。ルパンは俺が決めてるンだ」と横柄な態度を見せた[注 11]。しかし、音が入る前の状態の試写を見終わった山田はそのクオリティの高さに感動して「先程は大変失礼なことを言いまして申し訳ございません。どんな無理な注文でも仰って下さい、何百回でもやり直します」と宮崎に頭を下げたという[54]。同時期に放送されていた『TV第2シリーズ』に不満のあった山田は『カリオストロの城』の作画やコミカルなだけではないルパン像に感動したらしく、「こういうのを映画の真髄というんだ」と後に語っている。TVスペシャル第五弾『ルパン三世 ルパン暗殺指令』アフレコ時に監督のおおすみ正秋から同様の指示をされた際は、「宮崎さんにも同じことを言われたよ」と嬉しそうに回想したという。

ルパン三世は今後も続編が作り続けられると考えていた山田は『ルパン三世 PARTIII』の最終回のアフレコの際、本編収録後にお別れのメッセージの収録を依頼されたところ「『これでお別れだ』なんて言っておいて、どうせまた新しいのをやるんだろ? そんな嘘はつきたくない」とメッセージの収録を拒否してスタジオを後にしたこともあったという[注 12][55]

評価編集

原作者のモンキー・パンチは山田のルパンについて山田の没後、以下のように評している。

"ルパン三世"は確かに私の描いたコミックだが、これは、あくまでも印刷された本の世界だけであって、まだ完成されたものではない。
その点、アニメ化された"ルパン三世"を作品として完成させてくれたのは山田康雄さんだ。
いきいきとした生命を入れてくれた。
個性的な性格、動き、おしゃべり、そして強烈な存在感は、山田さんなしでは生まれ得なかったキャラクターだ。 — モンキー・パンチ、[56]

また、モンキーは自身が描くルパンの絵もアニメ化後は山田の強烈な声に影響されたという[57]。しかし、OVA第一弾『ルパン三世 風魔一族の陰謀』公開後にレギュラー声優陣を一新した件でモンキーは山田との関係がギクシャクしてしまったといい、山田の訃報の電話を受けた際は、当作での誤解を解けないまま亡くなったことに声をあげて泣いたと語っている(詳細は「ルパン三世 風魔一族の陰謀」を参照)。

山田をルパン役に抜擢したおおすみ正秋は後年、その経緯と山田のルパンについて以下のように語った。

あの時は野沢那智さんと広川太一郎さんが候補に上がっていて、彼らは見事に洗礼されたルパンを僕たちに見せてくれました。
でも、実際に声を入れ、生きたルパンを見たときに、僕は何かひとつ物足りなさを感じてしまった。
それは洗練された中にも、その裏側に覗く虚無的でどす黒いものを表現することがルパンに必要なことがわかったからです。

今の声優界でルパンを演じることができる声優は一体いるのだろうか?
半ば諦めかけていた時、テアトル・エコーの芝居「日本人のへそ」を見にいったんです。
僕はこの舞台でルパンを見つけました。
舞台狭しと軽やかに飛び回り、時にニヒルで、どこかに暗さがあって…。まさに、僕の思い描いていたルパンがそこにいた。
その男こそ 山田康雄 です。
それまで彼をほとんど知りませんでしたが、即決してしまいましたね。それが山田ルパンとの出会いです。

日本人は機嫌のいい時しかジョークを言えない民族なので、ニコリともせずジョークを言えるようなニヒルな表現はとても難しいんですよ。
しかし、彼は見事に演じていた。予測もしなかったギャグ、日本人のギャグセンスには無いものを持っていました。
これは、役者の技術だけでは出来ない、彼自身の持つニヒルでダンディーで、腹の底には虚無的なものがあって…。
本当の意味でのハードボイルドな男だったからでしょう。

キャラは作品と共に成長すると言われますが、山田ルパンの場合は違いました。
1回目からセリフ回しのディスカッションもいらない、既にルパンは彼によって完成されていたのです。 — おおすみ正秋、[58]

一度だけルパンを演じたことがある古川登志夫は、収録時に自分ならではのルパンを演じようとしたにも関わらずうっかり山田の真似をしてしまったといい、「絵を見た途端に、他人にも無意識の内に真似をさせてしまうのは、役者として人間国宝級の凄さ」と語っている[59]

アニメ放送開始から1980年代まで多くの脚本を担当した大和屋竺は「あの人(山田)が途中から俄然ルパンになっちゃったんですよね」と語り、徐々に山田がルパンを演じることを大前提として皆が脚本を書くようになったため、ルパンというキャラクター自体を山田に似せて書いていた部分があったことを後に明かしている[60]。また、井上真樹夫は山田のルパンについて「特別で演出家がむしろ依存した存在。一般声優の領域ではなかった」と述べており[61]、台詞や絵も山田のテンポを想定して作られてるようになっていったという[62]

ルパンの収録現場での山田について、増山江威子は「役に没頭していていつもピリピリしていました。人並外れたすごい集中力で、ルパンに対して自分の全てを注ぎこんでいたのじゃないかしら」と語り、その山田の姿勢からいつも緊張感のある現場だったという。だが「だからこそいつもルパンの完成度は高かった」と評しており[63]、井上真樹夫も「人に緊張を強いるところがあった」と述べた上で「みんなピリッとする。それが(『ルパン』が)良い作品になった理由の1つだと思うよ」と話している[55]。その一方で音響監督の加藤敏によると、ゲスト出演者にはいつも気を配っていたという[23]

山田本人は、1989年に「口幅ったい言い方をすると、原作を離れて山田康雄のルパンというのが出来あがっちゃっているんだよね。あまりにボクのキャラクターといっしょになっちゃったものだから(中略)もとはモンキー・パンチさんが作ったものなんだけど、ルパンを動かし生かしたのはまさにオレたちなんだから」と語り、今後もルパンを演じることについては「オレがもうだめだ、できないってわかった場合は、『ルパン三世』の新作をつくるってことはやめて欲しいね、テレビ局であれ、映画会社であれ。これは悪いけど、共に老いさらばえて墓の中にもって行かしてもらいたいね。オレには、そういう思いってのがあるよ」という言葉を残している[51]

晩年編集

1993年、TVスペシャル第五弾『ルパン三世 ルパン暗殺指令』のアフレコの際、山田は休憩時間にとても疲れた様子で自ら申し出たため、途中からは椅子に座って収録。それまでは役者としてのプライドから座ってのアフレコなど無かったため極めて異例なことであった[58]。また、アフレコ終了の帰り際に大隅が「身体を治して元気になり、俺が書く芝居に出て欲しい」と呼びかけ普段であれば喜んで引き受けるはずが、その日に限り寂しそうな表情で首を縦に振らずに帰ったという。

同じ頃、ルパンのCDであり自身のアルバムCDでもある『ルパン三世・Tokyo Transit〜featuring YASUO YAMADA』制作後、大野雄二に「次のアルバム早く作ろうよ。でないと俺死んじゃうよ」とたびたび電話をかけていたという。当時、多忙だった大野は「また冗談言ってるよ」と気にしていなかったが、山田の死後は次のアルバムを作ってやれなかった事を今でも悔やまれることとして述べており[64]、「山田さんがいなければルパンじゃない」と山田の死の翌年である1996年にはルパンの音楽担当を一時降板している(1997年からは復帰)。山田の死後に関係者の間では、この時期にはすでに自らの寿命を悟っていたのではと語られていたようである。

1994年、事実上の遺作となったTVスペシャル第六弾『ルパン三世 燃えよ斬鉄剣』も体調不良を押しての出演となり、椅子に座る形で収録を行った[65]。この時、山田はいつもなら簡単に跨ぐスタジオ扉の約20センチの段差を跨げなかったため、「かなり肉体的に参っているのでは」と感じるスタッフもいたという[66]

1995年1月、製作が決定していた映画『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』予告編の収録を行う[注 13]。本来は山田が本編にも出演予定であり、ポスターにも山田の名前がクレジットされていた。また、同時期にはルパンがイメージキャラクターとなったエッソ石油のTVCMを収録。これが山田にとって最後にルパンを演じた作品となり、実質上の遺作となった[注 14][67]

その後、山田が昏睡状態に陥り、知らせを受けたモンキー・パンチやレギュラー声優陣は「これでアニメのルパンは終わりだ」と考えた。だが、上述の通り『くたばれ!ノストラダムス』が製作中でアフレコ直前の段階まで完成していたことから、栗田貫一が同作限りの代役としてルパンを担当、その後、山田の死去を受け栗田が正式にルパン役を引き継ぐことになった。

葬儀の席では、弔辞を担当した納谷悟朗は山田の遺影に向かい、銭形の口調で「おい、ルパン! これから俺は誰を追い続ければいいんだ!」、「お前が死んだら俺は誰を追いかけりゃいいんだ」と涙ながらに呼びかけた。

『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』では、本編終了後のスタッフロールが流れたあとに「永遠のルパン三世 山田康雄さん ありがとう」という追悼のテロップが付け加えられた。

後任編集

山田の没後、生前に担当していた持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

後任・代役 キャラクター名 概要作品 後任・代役の初担当作品
栗田貫一 ルパン三世 ルパン三世シリーズ ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス
出演者紹介ナレーション お笑いスター誕生!! 24時間テレビ内の復活版
野沢那智 アンドロー梅田 宇宙の騎士テッカマン タツノコファイト
クリント・イーストウッドの吹き替え 日曜洋画劇場
金曜ロードショー
ザ・シークレット・サービス
(『日曜洋画劇場』)
トゥルー・クライム
(『金曜ロードショー』)
安原義人 バーナード ビアンカの大冒険シリーズ ビアンカの大冒険[注 15]
グレアム・チャップマン モンティ・パイソン モンティ・パイソンのHoly Grail(PCゲーム)
秋元羊介 ボビー スパイ大作戦 シーズン3の追加録音分
多田野曜平 ワイアット(キャプテン・アメリカ) イージー・ライダー BD版追加録音分
名無しの男 荒野の用心棒(テレビ朝日版)
夕陽のガンマン(NETテレビ版) 完声版追加録音分
続・夕陽のガンマン
ハリー・キャラハン ダーティハリー WOWOW吹替補完版追加録音分
ダーティハリー2(テレビ朝日版)
ダーティハリー3
ダーティハリー4
コーネリアス 新・猿の惑星
ベン・ショックリー ガントレット
モリス・シェイファー中尉 荒鷲の要塞(日本テレビ新版) ムービープラス版追加録音部分

また山田が専属で担当していたイーストウッドの吹き替えは野沢、多田野以外にも小林清志瑳川哲朗などが幾つかの作品で吹き替えを担当した。

出演編集

太字は主役・メインキャラクター。

テレビドラマ編集

NHK
日本テレビ
TBS
フジテレビ
テレビ朝日(NET)
朝日放送
テレビ東京

テレビ番組編集

NHK
日本テレビ系
フジテレビ系
テレビ朝日系
TBS
テレビ東京

映画編集

テレビアニメ編集

1964年
1965年
1967年
1968年
1969年
1970年
1971年
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年
1977年
1980年
1983年
1984年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年

劇場アニメ編集

吹き替え編集

俳優編集

クリント・イーストウッド
グレアム・チャップマン
ジェラール・フィリップ
ジャン=ポール・ベルモンド
ピーター・フォンダ
ブルース・ダーン
ロディ・マクドウォール

洋画編集

邦画編集

ドラマ編集

海外人形劇編集

アニメ編集

人形劇編集

ゲーム編集

特撮編集

CM編集

太字はルパン三世役で出演。その他、特筆が無い限りナレーションでの出演。

ラジオ編集

テレビ編集

楽曲・アルバム編集

レコード編集

ラジオ編集

舞台編集

  • 男の中の男(1958年8月上演、初の舞台出演作)
  • リリオム(1958年)
  • どん底(1958年)
  • 新ハムレット(1960年)
  • ミラノを見て死ね(1960年)
  • リリオム(1960年)
  • 真夏の夜の夢(1961年)
  • 平家物語(1962年)
  • 四人の隊長の恋(1964年)
  • 青年が皆死ぬ時(1965年)
  • オレンジ色の罪状(1966年)
  • 海賊(1966年)
  • カチカチ山(1967年)
  • 赤ちゃん今晩は(1968年)
  • 日本人のへそ(1969年)
  • 表裏源内蛙合戦(1970年)
  • 11ぴきのねこ(1971年)
  • 道元の冒険(1971年)
  • マリリンモンロー(1972年)
  • 珍約聖書(1973年)
  • それからのブンとフン(1975年)
  • 法界坊悪行極楽(1976年)
  • みにくいあひるのこ(1976年)
  • ノーセックス・プリーズ(1977年)
  • ホームドラマ(1978年4月上演、最後の舞台出演作)
  • 二番街の囚人(1980年、声の出演)
  • サンシャイン・ボーイズ(1984年、声の出演)※2002年の再演時にもこの時の声が使用されライブラリ出演。

追悼本編集

執筆編集

  • ルパンのつぶやき - アニメージュの1979年1月号から11月号まで連載された全11回のエッセイ。見開き2ページ。モンキー・パンチのイラストが載る回もあった。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 審査員には宇野重吉らがいたという。
  2. ^ 山田本人曰く「さらわれた」とのこと。また「熊ちゃんは人さらいだった」とも語っている。
  3. ^ この仕事を持ってきたのも熊倉であり、「ヤスベエは容姿も良く口も達者だったのでピッタリの仕事だった」ため依頼したとのことである。
  4. ^ 再放送自体は、山田が亡くなる前から予定されていた。
  5. ^ ただし、実際にはできなかったため、後に「おどろきましたね、これには」と発言している。
  6. ^ ただし、トーンの高低を変えることはあった。
  7. ^ 山田の追悼本において小林清志が、ルパン三世のアフレコ中のスタジオに、当時小林の子供もテレビで夢中になっていたというドリフのメンバーが入ってきて、山田に丁重に挨拶するのを見て驚いたと語っている。
  8. ^ 存命時に担当しなかったのは『センチメンタル・アドベンチャー』のみである。
  9. ^ 原作では呼び捨てまたは「銭さん」と呼ばれていた。
  10. ^ 納谷はこのことを後に「(アフレコは出来ないって)俺の口から言わせる。そこがずるい。その代わり、俺のことをすごく立ててくれた」と振り返っている。
  11. ^ 宮崎は山田の横柄な態度に苦虫を噛み潰し、大塚康生は「ヤスベエは生意気だから降ろそう」と助言をしている。
  12. ^ その後、山田の発言通り本作終了の2年後にはOVAの『風魔一族の陰謀』、4年後にはテレビスペシャルが制作されており、山田はテレビスペシャルから逝去するまで再びルパン役を演じた。
  13. ^ 前年7月頃に予告編を、翌年明けてすぐに予定していた劇場スポット2編を全て担当していたが、3月の死去後劇場にて放映していた予告編は栗田が山田の部分を再録する形で放映されている。テレビ用CMに関しては山田が収録した物をそのまま放送している。
  14. ^ 収録は2本(共に15秒版と30秒版の2パターン)行われ、「ルパン三世&峰不二子編」は2月10日から、「ルパン三世&銭形警部編」は山田の没後である4月26日からオンエアされた。「ルパン三世&峰不二子編」は後に発売されたOVA『ルパン三世 Master File』に収録されている。
  15. ^ 小原乃梨子・山田康雄による新録版ビアンカの大冒険シリーズは続編『ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!』の方が先に作られていた。

出典編集

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参考文献編集

外部リンク編集