アレッサンドロ・デル・ピエロ
アレッサンドロ・デル・ピエロ(Alessandro Del Piero, 1974年11月9日 - )は、イタリア・ヴェネト州トレヴィーゾ県コネリアーノ出身の元サッカー選手、現サッカー解説者、実業家。元イタリア代表。現役時代のポジションはフォワード。
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![]() 2015年撮影 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
名前 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
愛称 | アレ、アレックス、ピントゥリッキオ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラテン文字 | Alessandro Del Piero | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 |
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生年月日 | 1974年11月9日(48歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | コネリアーノ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 173cm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 73kg | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW (ST) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右足 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユース | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1982-1988 |
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1988-1991 |
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クラブ1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1991-1993 |
![]() | 14 | (1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1993-2012 |
![]() | 513 | (208) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2012-2014 |
![]() | 48 | (24) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014 |
![]() | 10 | (1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
通算 | 585 | (234) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代表歴2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1991 |
![]() | 3 | (1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1992-1993 |
![]() | 14 | (12) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1993-1996 |
![]() | 12 | (3) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1995-2008[1] |
![]() | 91 | (27) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。2016年9月7日現在。 2. 2014年12月9日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
「デル・ピエロ・ゾーン」と呼ばれる左45度付近からファーポストへ決めるシュートを得意とし、稀代のテクニシャンで正確無比なシューターだった[2]。
経歴編集
クラブ編集
1991-92シーズンにセリエBのカルチョ・パドヴァでキャリアをスタートし、1992年3月15日のメッシーナ戦でトップチームデビューを果たした。パドヴァで2シーズンを過ごした後、1993-94シーズンにセリエAのユヴェントスに移籍、1993年9月12日のフォッジャ戦にてセリエAデビュー[3]、その一週間後9月19日のレッジャーナ戦で初ゴール[3]、1994年3月のパルマ戦では初のハットトリックを達成する。翌シーズン、ロベルト・バッジョがワールドカップでの疲れから負傷や、やや不調であったこともあって、出場回数を増やしていくと、1994年12月のフィオレンティーナ戦にて、背後からのロングボールをダイレクトで、しかもアウトサイドにかけたボレーシュートを決めたことによって、デル・ピエロの名前はファンタジスタとして認知されるようになったこのシーズン、自身初のスクデット獲得。
1995-96シーズン、バッジョのACミラン移籍によって、ミシェル・プラティニやバッジョが背負ってきたユヴェントスの背番号10を引き継ぐことになった。このシーズン、5試合連続を含む6得点とUEFAチャンピオンズリーグ制覇に貢献し、エースとしての役割を果たした。前年に続いてバロンドール投票では57票を集め、自己最高の4位を記録した[4]。翌1996-97シーズンには、トヨタカップの決勝点をあげ、MVPに選ばれた[5]。また、このシーズンのスクデットも獲得している。UEFAチャンピオンズリーグ決勝のボルシア・ドルトムント戦では、ヒールキックによるゴールを決めたものの敗れ、準優勝に終わった。
1997-98シーズン、このシーズンに加入したフィリッポ・インザーギと先シーズンから所属するジネディーヌ・ジダンとともに強力なトライアングルを形成し(特にインザーギとの2トップは「デル・ピッポ」と呼ばれた)、スクデット連覇を果たした。チャンピオンズリーグでは3期連続で決勝に進出したが、決勝でレアル・マドリードに破れたが、シーズンを通じてチームだけでなく、デルピエロ自身も好調で、リーグでは21得点、チャンピオンズリーグでは得点王(10得点)となった。
1998年11月、ウディネーゼ戦で左膝十字靭帯断裂などの選手生命も危ういほどの重傷を負い、膝の手術を行った。約9ヶ月間のリハビリの後、復帰するも以前の調子は取り戻せず、スランプに陥った。しかし、2000-01シーズンに復調の兆しを見せ、2001-02シーズン、リーグ16得点をあげて完全復活を果たし、4年ぶりのスクデットを獲得した(その後も、度々、怪我に悩ませられることになるが、そのたびにこれを克服した)。翌シーズンにもリーグ16得点とチームを牽引し、自身5度目となるスクデットを獲得した。
2005-06シーズン、先シーズンにリーグ14得点と結果を残したデルピエロであったが、加入して2年目となるズラタン・イブラヒモビッチをファーストチョイスと考えるファビオ・カペッロ監督にスタメンを外され、サブに甘んじることになった。しかし、スーパーサブとしてデルピエロはリーグ12得点をあげ、リーグ7得点のイブラヒモビッチを上回る活躍をみせた。
2006年1月10日に行われたコッパ・イタリアの対フィオレンティーナ戦でハットトリックをマーク。これがユヴェントスでの185得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つクラブ歴代最多得点記録を塗り替えた。
2006年に発覚したカルチョ・スキャンダルでユヴェントスはセリエBへと降格するが、デル・ピエロはイングランドの強豪マンチェスター・ユナイテッドFCからのオファーを断り、真っ先にチームへの残留を表明した。彼に続くようにネドベドやブッフォンらも残留を決意した。セリエB降格に伴い年間試合数が減ったことから、チームの練習とは別に専属トレーナーと契約し肉体改造に取り組んだ。その結果、20代の頃の体のキレを取り戻すことに成功し、セリエB得点王となりチームを1年でセリエAに復帰させる原動力となった。
セリエAに復帰した2007-08シーズン、自己最多タイとなるリーグ21得点での得点王に輝き、パオロ・ロッシ以来、史上2人目となるセリエB・セリエA連続得点王の快挙を成し遂げた。また、2008年4月6日のパレルモ戦がユヴェントスでの553試合目となり、ガエターノ・シレアの持つクラブ歴代最多出場記録を更新した。
3シーズンぶりのUEFAチャンピオンズリーグ出場となった2008-09シーズン、ユヴェントスはグループリーグでレアル・マドリードと対戦。デルピエロは敵地エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで2得点を記録し、後半アディショナルタイムにパオロ・デ・チェリエとの交代でベンチに退く際、マドリスタからのスタンディングオーベーションを受けた。エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで、アウェーの選手がスタンディングオーベーションを受けたのは、ディエゴ・マラドーナやロナウジーニョなど、数少ない[注釈 1][6]。
2008年11月29日、レジーナ戦でユヴェントスでの通算250得点を記録。
2010年3月14日、シエナ戦でキャリア通算300得点を達成。
2010年10月30日、ACミラン戦で決勝ゴールをマーク。これがセリエAでの179得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つセリエAでのクラブ最多得点記録を塗り替えた。
2011-12シーズンをもってユヴェントスを退団。9月5日にAリーグ・シドニーFCへの移籍が発表された[7]。契約は2年間で年俸は約200万オーストラリア・ドルと、Aリーグ史上最高の年俸となる[8]。
2014年4月28日、ブログでシドニーFC退団を発表した[9]。2014年8月28日、自身の公式ツイッターでインドのデリー・ディナモスFCに移籍することを明らかにした[10]。デル・ピエロは、「今日、デリー・ディナモスの一員になり、インド・スーパーリーグの新アンバサダーとなったことを報告できることを嬉しく思う」と発表した。
代表編集
イタリア代表デビューは1995年3月25日のエストニア戦。イタリア代表通算27得点はバッジョと並んで歴代4位タイ。FIFAワールドカップには1998、2002、2006年と3大会連続、ユーロには1996、2000、2004、2008年と4大会連続で出場している。しかし、大会直前に怪我をしていたり、不慣れなポジション(左サイド等)でのプレーを強いられることが多く、本大会では実力を発揮できているとは言えない[要出典]。
ユーロ1996では、1994年のU-21欧州選手権を制し、アトランタ五輪を控える当時のU-21世代から飛び級のような形で代表に選ばれるも、初戦のロシア戦で怪我を負い、このロシア戦前半のみの出場に終わった。
1998年のフランスワールドカップでは、アッズーリのエースとして大会に臨むも、1997-98チャンピオンズリーグ決勝レアル・マドリード戦で負った怪我の影響から全く見せ場を作れず、主役をバッジョに譲った[11]。
ユーロ2000では、決勝のフランス戦でシュートチャンスを外し、批判を浴びた。また、1998年11月の大怪我から不調に苦しむ間にフランチェスコ・トッティの台頭もあり、2000年代からは背番号10番をトッティに譲った。これについてデルピエロは「僕は『7』の方が合っている」と語っている[12]。
2002年日韓ワールドカップでは、予選で5得点と良い成績を残したが、本大会前になって監督ジョバンニ・トラパットーニはシステムをより守備的なものに変更、スタメンを外される。それでもグループリーグのメキシコ戦で途中出場ながらワールドカップ初ゴールを決めてこの試合を1-1の引き分けに持ち込み、グループリーグ敗退の危機にあったチームを救った。ゴール後のパフォーマンスでは、右手の人差し指で天を指し、開幕前に亡くなった父へと捧げた。
ユーロ2004では、予選こそ不振のチームを救うほどの活躍を見せていたが、本大会では不慣れな左サイドというポジションや直前の左大腿部の怪我から思うような活躍をすることはできなかった。
2006年のドイツW杯ではかつてユヴェントスの監督であった恩師リッピ監督からの信頼が厚く、23人のメンバーに名を連ねる。準決勝のドイツ戦では延長戦から途中出場し、アルベルト・ジラルディーノからのパスを受け、「デル・ピエロ・ゾーン」から2点目となるダメ押しゴールを奪った。決勝のフランス戦では後半途中から出場し、PK戦では4人目のキッカーも務め、同国4度目のFIFAワールドカップ優勝に貢献した。
ユーロ2008本戦への招集は危ぶまれていたが、2007-2008シーズンのセリエA得点王としての活躍が認められ4度目のユーロ出場を果たした。グループリーグ第2戦のルーマニア戦では、ゲームキャプテンを務めるも、ロベルト・ドナドーニ監督は戦術上デル・ピエロを重用することはなかった。
引退後編集
アメリカのロサンゼルスに居住しており、サングラスブランドの「AIRDP Style」やロサンゼルスにイタリアンレストラン「N10」を経営している。他にもアメリカ国内に自身のサッカースクールを開講したり、様々な投資を行う実業家として活動している。また母国イタリアではサッカー解説者としても活動しており、2021年にはイタリアサッカー連盟の監督ライセンス講習を受講したことを明かしている[13]。
エピソード編集
- モータースポーツの観戦も趣味の一つ。2003年に亡くなったMoto-GPレーサーの加藤大治郎に生前サインを求めたことがある。2013年1月には、アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)に参戦するデンプシー・レーシングの共同オーナーに就任することが発表された[14]。
- 音楽好きであり、デルピエロが選曲した楽曲を集めた「デル・ピエロ・セレクション」というコンピレーション・アルバムを制作している[15]。1曲目には、イギリスのロックバンドオアシスのワンダーウォールを選曲しており、ゴールドディスクの授与式では友人であるノエル・ギャラガー本人が駆けつけている[16]。
日本との関係編集
- 自身の日本語ブログを開設するなど親日家としても知られ、以下の様なエピソードがある。なお日本に興味を持つようになったのは小学校の地理の授業で先生から「どこかひとつ海外の国を選んで発表しなさい」という課題にたまたま日本を選んだことに由来するという[17]。
- キャプテン翼の作者である高橋陽一は2000年にヨーロッパを訪れた際にデル・ピエロから「子どもの頃にキャプテン翼を読んでましたよ」と声をかけられており、2011年には自身のブログの中で明石家さんまから贈られた高橋陽一直筆のイラストを公開しているなど、今でも愛着を持っている事が伺える[18]。
- 新日本プロレスの熱烈なファン。1970年代後半から1980年代前半にかけてイタリアでもTV放映されていた『ワールドプロレスリング』を子供の頃よく見ていたという。中でも藤波辰爾、アントニオ猪木、木村健吾、タイガーマスク(初代)のファンであり、2005年にテレビ朝日のインタビューで藤波辰爾と対面した際には歓喜して、彼の技のひとつであるドラゴンスリーパーをリクエストしてかけられていた[19]。
- アニメ『ルパン三世』のファン。
- 2011年3月に日本で起きた東北地方太平洋沖地震の惨事を知り、チャリティー用に自らデザインしたTシャツ(イタリアの国旗の上に日の丸を乗せ「友」と言う文字が刻まれている)を販売し、その売り上げは復興の為に寄付する事を発表した。特に被害甚大であった仙台市は2002 FIFAワールドカップのイタリア代表のキャンプ地であり、その惨状を視て深い悲しみに陥ったと言う。そのTシャツを長友佑都も着用している。また慈善事業での収益金として2300万円を寄付した[20]。
- 2012年7月21日、日本のカシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチに自ら参加を申し入れゲストプレーヤーとして参加。『Jリーグ TEAM AS ONE』(被災地のクラブ・出身者の選抜チーム)の一員としてプレーし、後半25分にはミドルシュートで自ら得点を決めた[21]。
タイトル編集
クラブ編集
- ユヴェントスFC
- セリエA(1994-95, 1996-97, 1997-98, 2001-02, 2002-03, 2011-12)
- セリエB(2006-07)
- コッパ・イタリア(1994-95)
- スーペルコッパ・イタリアーナ(1995, 1997, 2002, 2003)
- UEFAチャンピオンズリーグ(1995-96)
- UEFAスーパーカップ(1996)
- UEFAインタートトカップ(1999)
- インターコンチネンタルカップ(1996)
代表編集
- イタリア代表
- FIFAワールドカップ(2006)
個人編集
- UEFAチャンピオンズリーグ得点王(1997-98)
- セリエA得点王(2007-2008)
- セリエB得点王(2006-2007)
- コッパ・イタリア得点王(2005-06)
- トヨタカップ最優秀選手(1996)
- イタリア最優秀選手(1998,2008)
- ブラヴォー賞(1996)
- ゴールデンフット賞(2007)
- UEFAチャンピオンズリーグ10周年ベストアタッカー(2006)
- UEFA Golden Jubilee Poll(2004)
- FIFA 100(2004)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 77位(ワールドサッカー誌選出 1999)
- ESM Team of the Year(1995-96, 1996-97, 1997-98)
- ユヴェントスクラブ歴代最多得点記録
- ユヴェントスクラブ歴代最多出場記録
個人成績編集
クラブ編集
経歴 | リーグ | 国内カップ戦* | 欧州カップ戦** |
国際カップ戦*** | 合計 | |||||||
シーズン | クラブ | セリエ | 試合数 | ゴール数 | 試合数 | ゴール数 | 試合数 | ゴール数 | 試合数 | ゴール数 | 試合数 | ゴール数 |
1991-92 | パドヴァ | B | 4 | - | - | - | - | - | - | - | 4 | - |
1992-93 | 10 | 1 | - | - | - | - | - | - | 10 | 1 | ||
合計 | 14 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 1 | ||
1993-94 | ユヴェントス | A | 11 | 5 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | - | 14 | 5 |
1994-95 | A | 29 | 8 | 10 | 1 | 11 | 2 | - | - | 50 | 11 | |
1995-96 | A | 29 | 6 | 2 | 1 | 11 | 6 | 1 | 0 | 43 | 13 | |
1996-97 | A | 22 | 8 | 4 | 0 | 6 | 4 | 3 | 3 | 35 | 15 | |
1997-98 | A | 32 | 21 | 4 | 1 | 10 | 10 | 1 | 0 | 47 | 32 | |
1998-99 | A | 8 | 2 | 1 | 0 | 4 | 0 | 1 | 1 | 14 | 3 | |
1999-00 | A | 34 | 9 | 2 | 1 | 9 | 2 | - | - | 45 | 12 | |
2000-01 | A | 25 | 9 | 2 | 0 | 6 | 0 | - | - | 33 | 9 | |
2001-02 | A | 32 | 16 | 4 | 1 | 10 | 4 | - | - | 46 | 21 | |
2002-03 | A | 24 | 16 | 0 | 0 | 13 | 5 | 1 | 2 | 38 | 23 | |
2003-04 | A | 22 | 8 | 4 | 3 | 4 | 3 | 1 | 0 | 31 | 14 | |
2004-05 | A | 30 | 14 | 1 | 0 | 10 | 3 | - | - | 41 | 17 | |
2005-06 | A | 33 | 12 | 4 | 5 | 7 | 3 | 1 | 0 | 45 | 20 | |
2006-07 | B | 35 | 20 | 2 | 3 | - | - | - | - | 37 | 23 | |
2007-08 | A | 37 | 21 | 4 | 3 | - | - | - | - | 41 | 24 | |
2008-09 | A | 31 | 13 | 3 | 2 | 9 | 6 | - | - | 43 | 21 | |
2009-10 | A | 23 | 9 | 1 | 2 | 5 | 0 | - | - | 29 | 11 | |
2010-11 | A | 33 | 8 | 2 | 0 | 10 | 3 | - | - | 45 | 11 | |
2011-12 | A | 23 | 3 | 5 | 2 | - | - | - | - | 28 | 5 | |
合計 | 513 | 208 | 56 | 25 | 127 | 51 | 9 | 6 | 705 | 290 | ||
2012-13 | シドニー | Aリーグ | 24 | 14 | - | - | - | - | - | - | 24 | 14 |
2013-14 | 24 | 10 | - | - | - | - | - | - | 24 | 10 | ||
合計 | 48 | 24 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 48 | 24 | ||
2014 | デリー・ディナモス | スーパーリーグ | 10 | 1 | - | - | - | - | - | - | 10 | 1 |
合計 | 10 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 1 | ||
総合計 | 585 | 234 | 56 | 25 | 127 | 51 | 9 | 6 | 777 | 316 |
* コッパ・イタリア、イタリア・スーパーカップを指す
** UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAカップ、UEFAインタートトカップ、UEFAスーパーカップを指す
*** インターコンチネンタルカップ、FIFAクラブワールドカップを指す
代表編集
イタリア代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1995 | 7 | 1 |
1996 | 4 | 2 |
1997 | 6 | 4 |
1998 | 8 | 3 |
1999 | 2 | 0 |
2000 | 13 | 4 |
2001 | 6 | 3 |
2002 | 11 | 5 |
2003 | 4 | 2 |
2004 | 6 | 1 |
2005 | 4 | 0 |
2006 | 9 | 2 |
2007 | 5 | 0 |
2008 | 6 | 0 |
通算 | 91 | 27 |
代表でのゴール編集
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1995年11月15日 | レッジョ・エミリア、チッタ・デル・トリコローレ | リトアニア | 1–0 | 4–0 | UEFA EURO '96予選 |
2. | 1996年1月24日 | テルニ、スタディオ・リベロ・リベラティ | ウェールズ | 1–0 | 3–0 | 親善試合 |
3. | 1996年5月29日 | クレモナ、スタディオ・ジョヴァンニ・ツィーニ | ベルギー | 1–2 | 2–2 | |
4. | 1997年1月22日 | パレルモ、スタディオ・レンツォ・バルベラ | 北アイルランド | 2–0 | 2–0 | |
5. | 1997年6月8日 | リヨン、スタッド・ジェルラン | ブラジル | 1–0 | 3–3 | 1997 トゥルヌワ・ドゥ・フランス |
6. | 3–1 | |||||
7. | 1997年6月11日 | パリ、パルク・デ・プランス | フランス | 2–2 | 2–2 | |
8. | 1998年1月28日 | カターニア、スタディオ・アンジェロ・マッシミーノ | スロベニア | 2–0 | 3–0 | 親善試合 |
9. | 1998年10月10日 | ウーディネ、スタディオ・フリウーリ | スイス | 1–0 | 2–0 | UEFA EURO 2000予選 |
10. | 2–0 | |||||
11. | 2000年2月23日 | パレルモ、スタディオ・レンツォ・バルベラ | スウェーデン | 1–0 | 1–0 | 親善試合 |
12. | 2000年6月19日 | アイントホーフェン、フィリップス・スタディオン | スウェーデン | 2–1 | 2–1 | UEFA EURO 2000 |
13. | 2000年10月11日 | アンコーナ、スタディオ・デル・コネーロ | グルジア | 1–0 | 2–0 | 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 |
14. | 2–0 | |||||
15. | 2001年3月28日 | トリエステ、スタディオ・ネレオ・ロッコ | リトアニア | 2–0 | 4–0 | |
16. | 4–0 | |||||
17. | 2001年10月6日 | パルマ、スタディオ・エンニオ・タルディーニ | ハンガリー | 1–0 | 1–0 | |
18. | 2002年2月13日 | カターニア、スタディオ・アンジェロ・マッシミーノ | アメリカ合衆国 | 1–0 | 1–0 | 親善試合 |
19. | 2002年6月13日 | 大分市、ビッグアイ | メキシコ | 1–1 | 1–1 | 2002 FIFAワールドカップ |
20. | 2002年9月7日 | バクー、トフィク・バフラモフ・スタジアム | アゼルバイジャン | 0–2 | 0–2 | UEFA EURO 2004予選 |
21. | 2002年10月12日 | ナポリ、スタディオ・サン・パオロ | ユーゴスラビア | 1–1 | 1–1 | |
22. | 2002年10月16日 | カーディフ、ミレニアム・スタジアム | ウェールズ | 1–1 | 2–1 | |
23. | 2003年6月11日 | ヘルシンキ、オリンピックスタジアム | フィンランド | 0–2 | 0–2 | |
24. | 2003年9月6日 | ミラノ、サン・シーロ | ウェールズ | 4–0 | 4–0 | |
25. | 2004年9月8日 | キシナウ、スタディオヌル・ジンブル | モルドバ | 0–1 | 0–1 | 2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 |
26. | 2006年3月1日 | フィレンツェ、スタディオ・アルテミオ・フランキ | ドイツ | 4–0 | 4–1 | 親善試合 |
27. | 2006年7月4日 | ドルトムント、FIFA WM-シュタディオン・ドルトムント | ドイツ | 0–2 | 0–2 | 2006 FIFAワールドカップ準決勝 |
脚注編集
注釈編集
- ^ この時点で3例目、出典記事では後に8例に増えている。
出典編集
- ^ “Alessandro Del Piero - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ 西部謙司. “デル・ピエーロとインザーギ。短くも強く輝いた“デル・ピッポ”の煌めき”. footballista. 2021年4月29日閲覧。
- ^ a b “On This Day: Del Piero’s first Juventus goal”. footballitalia. 2021年4月3日閲覧。
- ^ ワールドサッカーダイジェスト 1996年3月号 no.17 p.58-59
- ^ “FIFA CLUB WORLD CUP の歴史”. NTV. 2020年6月6日閲覧。
- ^ “レアル・マドリーのファンが相手選手に拍手をした8つのケース” (2016年3月16日). 2022年6月28日閲覧。
- ^ Sydney FC signs Italian legend Alessandro Del Piero Sydney FC | A-League Football Club、2012年9月5日
- ^ デル・ピエロがシドニーFCと2年契約で合意 ゲキサカ 2012年9月5日付記事
- ^ チャオ、オーストラリア OFFICIAL BLOG 日本語版、2014年4月28日
- ^ デル・ピエロ自身による2014年8月28日19:44 (UTC+2)の発言 (イタリア語)
- ^ “イタリア代表、背番号10の系譜。謎の退場!? 韓国戦、誤審連発…最悪の大会で何があった?” (2022年5月3日). 2022年6月28日閲覧。
- ^ “「10番」なきイタリア代表の現実 カルチョの国からファンタジスタは失われたのか” (2016年3月23日). 2022年6月28日閲覧。
- ^ “デル・ピエロが現場復帰?引退後の紆余曲折を経て監督コース入り” (2021年3月11日). 2022年9月16日閲覧。
- ^ サッカー選手デル・ピエーロがALMSチーム代表就任 - オートスポーツ・2013年1月22日
- ^ マリオ 2012 148頁
- ^ マリオ 2012 151頁
- ^ 【2012Jリーグスペシャルマッチ】試合終了後のアレッサンドロ・デル・ピエロ選手コメント(12.07.21) - JsGoal、2012年7月21日
- ^ “alessandrodelpiero OFFICIAL BLOG 日本語版 - CAPTAIN TSUBASA”. 2013年12月15日閲覧。
- ^ “ワールドプロレスリング実況三銃士の闘魂コラム#44”. 吉野真治. テレビ朝日 アナウンサーズ (2005年6月20日). 2014年1月21日閲覧。
- ^ “デル・ピエロの慈善団体、被災地へ約2300万円を寄付「友よ、あきらめないで」”. newsliverdoor (2005年6月20日). 2021年4月3日閲覧。
- ^ デル・ピエロが強烈ミドル弾…TEAM AS ONEが4ゴールで圧勝/復興支援マッチ SOCCER KING、2012年7月21日
参考文献編集
- マリオ 宮川著『スポーツのマネジメント ユベントス・フェラーリ その交渉と契約』東邦出版、2012年。ISBN 978-4809410277。
外部リンク編集
- 公式ホームページ
- OFFICIAL BLOG 日本語版
- アレッサンドロ・デル・ピエロ (@delpieroale) - Twitter