アレッサンドロ・デル・ピエロ

イタリアのサッカー選手 (1974 - )

アレッサンドロ・デル・ピエロ(Alessandro Del Piero, 1974年11月9日 - )は、イタリアヴェネト州トレヴィーゾ県コネリアーノ出身の元サッカー選手、現サッカー解説者、実業家。元イタリア代表。現役時には主にCF(センターフォワード)SS(セカンドストライカー)としてプレーしたが[1]AM(トップ下)など、ミッドフィールダーのポジションでもプレーすることができた[3][4][5][6]。引退後の2015年以降は、スカイスポーツで解説者を務める[7]。テクニカルで創造的なフォワードであり、フリーキックのスペシャリストでもあった[8][9][10]。デル・ピエロは同世代で最も偉大な選手の1人として、広く評価されている[11][12][13][14]。1998年と2008年にセリエAイタリア人年間最優秀選手賞を受賞し、またバロンドールおよびFIFA最優秀選手賞にも複数回ノミネートされている。

アレッサンドロ・デル・ピエロ
2015年撮影
名前
愛称 アレ、アレックス、ピントゥリッキオ
ラテン文字 Alessandro Del Piero
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1974-11-09) 1974年11月9日(49歳)
出身地 コネリアーノ
身長 173cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FWCFSS[1]
MFAM[1]
利き足 右足
ユース
1982-1988 イタリアの旗 サン・ヴェンデミアーノ
1988-1991 イタリアの旗 パドヴァ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1993 イタリアの旗 パドヴァ 14 (1)
1993-2012 イタリアの旗 ユヴェントス 513 (208)
2012-2014 オーストラリアの旗 シドニー 48 (24)
2014 インドの旗 デリー・ディナモス 10 (1)
通算 585 (234)
代表歴2
1991  イタリア U-17 3 (1)
1992-1993  イタリア U-18 14 (12)
1993-1996  イタリア U-21 12 (3)
1995-2008[2] イタリアの旗 イタリア 91 (27)
獲得メダル
イタリアの旗 イタリア
FIFA ワールドカップ
優勝 ドイツ 2006
UEFA 欧州選手権
準優勝 ベルギー・オランダ 2000
UEFA U-21欧州選手権
優勝 フランス 1994
優勝 スペイン 1996
イタリアの旗 ユヴェントス
UEFA チャンピオンズリーグ
優勝 ローマ 1996
準優勝 ミュンヘン 1997
準優勝 アムステルダム 1998
準優勝 マンチェスター 2003
トヨタカップ
優勝 東京 1996
1. 国内リーグ戦に限る。2016年9月7日現在。
2. 2014年12月9日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

イタリアの全大会を通じて史上2番目に多くの得点を挙げた選手であり、シルヴィオ・ピオラの390ゴールに次ぐ346ゴールを記録している。セリエAの歴史では史上9番目に多く得点を挙げた選手でもあり、ジュゼッペ・シニョーリアルベルト・ジラルディーノに並ぶ188ゴールを記録している。[15][16][17][18][19][20]。1991年にパドヴァ・カルチョでデビュー、1993年にユヴェントスFCに移籍し19シーズン、キャプテンとしては11シーズンプレーし、クラブの最多得点記録(290ゴール)および最多出場記録(705試合)を保持している。ユヴェントスではセリエAを6回、コッパ・イタリアを1回、スーペルコッパ・イタリアーナを4回、その他UEFAチャンピオンズリーグUEFAスーパーカップUEFAインタートトカップインターコンチネンタルカップをそれぞれ獲得している。2012年にユヴェントスを離れた後は、オーストラリアのシドニーFCで2シーズン、2014年からデリー・ディナモスFC(現オディシャFC)で1シーズン、それぞれプレーした後に引退した。

デル・ピエロは参加したすべての大会において、得点を記録している[21]。2004年にはFIFAの百周年記念行事の一環として、ペレが選んだ125人の偉大な現役サッカー選手のリストであるFIFA 100に選出された[22]。同年に、彼はUEFAゴールデンジュビリーポールにも選出され、過去50年間で最も優れたヨーロッパの選手50人のリストに名を連た[23]。さらにイタリア国内で6つの賞を受賞しており、ゴールデンフット賞も獲得している[24][25]

代表戦では、デル・ピエロはイタリア代表として3回のFIFAワールドカップと4回のUEFA欧州選手権に出場し、2006 FIFAワールドカップでは優勝、UEFA EURO 2000では準優勝に貢献している。イタリア代表においてはロベルト・バッジョと並ぶ27得点を記録しており、これはシルヴィオ・ピオラ(30得点)、ジュゼッペ・メアッツァ(33得点)、ルイジ・リーヴァ(35得点)に次ぐ記録である。また、1995年から2008年までのイタリア代表での出場数は91試合であり、これは歴代11位の記録である。

イタリアの全大会を通じて史上2番目に多くの得点を挙げた選手であり、346ゴールを記録している。またキャリア全体を通しては、462得点を記録している[26]「デル・ピエロ・ゾーン」と呼ばれる左45度付近からファーポストへ決めるシュートを得意とし、稀代のテクニシャンで正確無比なシューターだった[27]

幼少期 編集

デル・ピエロはヴェネト州のコネリアーノに生まれた。父ジーノは電気技師、母ブルーナは家政婦であった[28]。家族はサン・ヴェンデミアーノの農村部にある、サッコンという小さな集落に居住していた[29]。デル・ピエロは子供の頃から友達のネルソやピエルパオロと一緒に、頻繁に裏庭でサッカーをして遊んでいたという。3人はサッカー選手になる夢を抱いていたが、実現したのはデル・ピエロだけとなった[30]。兄のステファノは一時期サンプドリアに所属するサッカー選手として活動していたが、怪我によりキャリアを終え、その後は弟アレッサンドロの代理人として活動する事となった[31]。また、デル・ピエロの家庭は海外旅行への遊興費の捻出も難しかったため、幼少期のデル・ピエロは世界中を見て回るために、トラックの運転手になることも考えていたという[32]

1981年から地元のサン・ヴェンデミアーノのユースチームでサッカーの道に入り、デル・ピエロは少しでも多くのプレー時間を得るために、ゴールキーパーとして出場することがあった[33]。母のブルーナはアレッサンドロがキーパーとしてプレーを続ける方がフィールドプレーヤーよりも良いと考え、汗をかくこともなくケガをする可能性も少ないと考えていた。しかしアレッサンドロの兄のステファノは、若いデル・ピエロのスキルを考慮して、彼はより攻撃的なポジションでプレーする方が向いていると母親に伝えた。そしてデル・ピエロはFWとしての道に転向することとなる[29]

クラブキャリア 編集

パドヴァでのデビュー 編集

デル・ピエロは1988年にスカウトを受けてわずか13歳で地元を離れ、パドヴァ・カルチョのユースチームでプレーすることとなった[34]。1991-1992シーズン、16歳の時にトップチームに昇格し、さらに17歳でマヌエル・サンドレアーニ監督率いるメッシーナ戦でセリエBデビューし、1992年3月15日にロベルト・プテッリとの交代で途中出場を果たした[35]。翌シーズンの1992年11月22日のトゥルナーナ戦では、5-0で勝利し自身のプロ初ゴールを記録した[36]。1993年にはユヴェントス会長のジャンピエロ・ボニペルティの意向により、15億リラの年俸でユヴェントスに移籍した[37]

ユヴェントスでの活躍 編集

1993年~1998年:キャリア初期の国内外での成功 編集

1993-94シーズンにユヴェントスに加入し、以降2012年夏に放出されるまで19シーズンにわたってプレーしている[38]。加入当時の監督ジョヴァンニ・トラパットーニは彼をトップチームとともに練習させることを強く要求したが、最初はプリマヴェーラでプレーし、アントネッロ・クックレドゥの指導の下、1994年のU-20選手権での優勝に貢献した[39]。デル・ピエロは1993年9月12日のフォッジャ戦で、トラパットーニ監督の指示で途中出場しセリエAデビューを果たし[40]、次の試合である9月19日のレッジャーナ戦で再び途中出場した際に初ゴールを記録[40]。1994年3月のパルマ戦では初のハットトリックを達成する[41]。デル・ピエロは少しずつ出場数を増やしていき、初シーズンはチームがセリエAで2位に終わる中で、ユースチーム、リーグ戦、コッパ・イタリア、およびUEFAカップを含む14試合に出場し、5得点を挙げた[42]

1994-1995シーズン、開幕前にはパルマへの移籍が決まりかけていたが、パルマがディノ・バッジョを獲得したことにより、獲得から引き、残留した[43]。このシーズンからマルチェロ・リッピが監督に就任、デル・ピエロはこのシーズン、ロベルト・バッジョパドヴァ戦で負傷し離脱したことにより出場回数を増やし、ジャンルカ・ヴィアッリファブリッツィオ・ラバネッリと共にトップチームに加わり、1994年12月4日のフィオレンティーナでは、アレッサンドロ・オルランドからのクロスをダイレクトのアウトサイドボレーで決めたことによって、デル・ピエロは世界中からも注目を集めるようになった[44]。この年は自身初のスクデット獲得。デル・ピエロはこのシーズンにフィオレンティーナ戦での決勝ゴールなどを含め、シーズン全体でリーグ8得点を挙げた[45]。デル・ピエロはまた、コッパ・イタリアで2得点を挙げ、決勝で当時のライバルであったパルマを破ったが、UEFAカップの決勝では同じカードのパルマに敗れた[46]。 この時期、デル・ピエロは自らの技術と戦術的な特性、そしてバッジョの創造的なプレースタイルとの類似点から「ピントゥリッキオ」というニックネームを得た[47]。このニックネームは、当時の会長ジャンニ・アニェッリが、新進気鋭の選手デル・ピエロをルネサンス期の画家ピントゥリッキオになぞらえたものである[28]

1995-96シーズン、バッジョのACミラン移籍によって、ミシェル・プラティニやバッジョが背負ってきたユヴェントスの背番号10を引き継ぐことになった。このシーズン、デル・ピエロはセリエAで5試合連続を含む6得点と10アシストを挙げたが、ユヴェントスはミランに次ぐ2位でシーズンを終えた。しかしパルマとのスーペルコッパ・イタリアーナではヴィアッリの得点をアシストし、1-0での勝利に貢献した[46]。また同シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは6得点を挙げて得点ランキング2位となり、ユヴェントスの制覇に貢献する[48]など、エースとしての役割を果たした。バロンドールでは57票を集め、4位にノミネートされた[49][50]

1996-97シーズンには、トヨタカップリーベル・プレートとの対戦で決勝点をあげ、MVPに選ばれた[51]。さらに、ブラヴォー賞を受賞し、バロンドールでも2年連続で投票4位に選ばれている[46][52][53]。このシーズンにはスクデットを獲得し、連続2回目となるCL決勝への進出にも貢献した[54]。決勝のボルシア・ドルトムント戦ではヒールキックによるゴールを決めたものの敗れ、準優勝に終わった[55]。この年にはバロンドールとFIFA最優秀選手賞の両アワードでノミネートされ、前者では6位[56] 後者は4位[57]に入賞した。

 
ユヴェントス時代初期(1998年)

1997-98シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナを制覇するなど順調なスタートを切り、このシーズンに加入したフィリッポ・インザーギと先シーズンから所属するジネディーヌ・ジダンとともに強力なトライアングルを形成し(特にインザーギとの2トップは「デル・ピッポ」と呼ばれた)セリエAでキャリア最高タイとなる21ゴールを記録、またUEFAチャンピオンズリーグでも準決勝のASモナコ戦でのハットトリックを含む10ゴールを挙げた[58][59]。決勝ではレアル・マドリードに敗れた[60][61]が、国内ではインテルとの激しい優勝争いを制してスクデット連覇を達成し、自身もそのインテルとのイタリアダービーでの決勝ゴールを挙げるなど、重要な役割を果たした[62][63]。デル・ピエロはこの年のセリエA年間最優秀選手賞を受賞し、またバロンドールにも再びノミネートされた[64]。この時期、ファンからは彼は「Il Fenomeno Vero(真の怪物)」という愛称で呼ばれており、これはインテルに所属するブラジル代表のストライカーロナウドが「Il Fenomeno(怪物)」と呼ばれていた事に対抗したものである[65][66]

1998年~2001年:負傷との戦い 編集

1998-99シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナとのラツィオ戦にてPKから得点したが、試合は1-2で敗北した[67]。しかし1998年11月8日、ウディネーゼとの試合の終盤にて左膝の十字靭帯断裂を負い[68][69]、以降の同シーズン内はわずか2得点に終わり、クラブもリーグ戦で6位という結果に終わった[70]。またチャンピオンズリーグではベスト4まで進出したが、準決勝で同シーズンで優勝を果たすマンチェスター・ユナイテッドに敗れた[69]

同シーズンの怪我の後、デル・ピエロは筋力強化のためのプログラムを受け、時代の変化に伴うタフネスの必要性にも適応、スピードと敏捷性を失った部分を補うことができた[71]。しかしこの回復プログラムに伴う体重増加と身体の発育の結果、当時セリエAで横行していたドーピングの疑惑を掛けられる事となった[72]が、長期間にわたる調査の結果、2005年には全ての告発に関して無罪が認定された[73][74]

 
1999年、USレッチェ戦でのデル・ピエロ(右)

続く1999-2000シーズンはカルロ・アンチェロッティが監督に就任し、デル・ピエロは主にアシスターとして活躍し、セリエAでは同シーズン最多となる14アシスト、全コンペティションを通しては20アシストを記録した[75]。しかし前シーズンの怪我の影響で得点は9に留まり、そのうち8得点はセットプレーによるもの、残りの1得点もPKを起点としたものであった[75] 。さらにシーズン終盤ではそれまで好調であったインザーギとの連携も乱れるようになり、これはインザーギのスタンドプレーや、両者のピッチ内外での緊張などが影響したと分析された[76][77][78]。同シーズンはユヴェントスは1999 UEFAインタートトカップの優勝を達成したが、セリエAでは惜しくも優勝を逃した。デル・ピエロは2000年、給与、ボーナス、広告収益を含む世界で最高給のサッカー選手だった[79]

2000–01シーズンは、今度はASローマにタイトルを奪われまたしても優勝を逃した。デル・ピエロは9月30日のSSCナポリ戦で初ゴールを決め勝利を収めたが、その後再び怪我を負い、得点から遠ざかった[80]。しかし、2001年2月18日のアウェーのFCバーリ1908戦で再び得点を果たし、デル・ピエロはこのゴールを、直前に死去していた父に捧げる形で祝福した[81]。シーズン終盤になるとデル・ピエロは再び調子を取り戻したが、首位ローマとの頂上決戦で得点を挙げるなどしたものの、タイトル獲得に導く事はできなかった[82]

2001年~2004年:新たな成功 編集

2001-02シーズンにはマルチェロ・リッピがユヴェントスの監督として復帰し、デル・ピエロはユヴェントスのキャプテンに任命され、ピッチではダヴィド・トレゼゲパヴェル・ネドヴェドと共に強力な攻撃陣を形成、16ゴールと多数のアシストを記録し、シーズン最終節のアウェーでのウディネーゼ戦ではトレゼゲとデル・ピエロの得点によって2-0で勝利を収め、ローマとインテルをそれぞれ1ポイント差で制して逆転優勝を果たし、26回目のセリエAチャンピオンに輝いた[83]

デル・ピエロは国内カップ戦や大陸大会を含む全大会で21ゴールを挙げ、また2001年8月26日のACヴェネツィア戦にて、ユヴェントスでの100点目と101点目の得点も記録している[84]。またコッパ・イタリアでも決勝まで勝ち進んだが、パルマに敗れ準優勝に終わった[85]

2002–03シーズンは、デル・ピエロはスーペルコッパ・イタリアーナでパルマを破り2得点を挙げるという、幸先の良いスタートを切った[86]。ユヴェントスはこのシーズンもセリエAのタイトルを防衛して2連覇を達成し[13]、デル・ピエロは2003年4月27日のブレシア戦でセリエA100ゴールを達成した[87]。UEFAチャンピオンズリーグではニューカッスル・ユナイテッドFC、ディナモ・キエフ、フェイエノールトと同じグループEに振り分けられ、デル・ピエロは9月24日のディナモ・キエフ戦で、ネドヴェドとマウロ・カモラネージとの連携からチームの2点目を挙げ、UEFAの大会ではこれが初のゴールとなった[88]

続くホームのニューカッスル戦では、2得点を挙げ、ユヴェントスの首位キープに貢献、2ndステージに進出した[89]。2ndステージではFCバーゼルデポルティーボ・ラ・コルーニャを抑え、マンチェスター・ユナイテッドと共に決勝トーナメント進出を果たした[90]。準々決勝ではロスタイムのマルセロ・サラジェタの決勝ゴールで勝利し[91] 、準決勝では再びスペインのチームであるレアル・マドリードと対戦、合計スコア4-3で勝利を収めた[92]。そして決勝ではACミランとの同国対決となり、フルタイム・延長戦ともに無得点のままPK戦に突入、デル・ピエロはPKを成功させたが、ユヴェントスはPK戦3-2で敗北した[93]

翌2003-04シーズン、ユヴェントスはスーペルコッパ・イタリアーナで勝利を収めるなど順調なスタートを切ったが、セリエAは3位、CLはベスト16は痛いという不本意な結果に終わり、コッパ・イタリアでは決勝まで進出したが、ラツィオに敗れて準優勝に終わった。シーズン終了後、監督のリッピはユヴェントスを離れ、イタリア代表の指揮を執ることとなった[13]

2004年~2006年:カルチョポリによる降格 編集

2004-05シーズンより、新たなユヴェントスの監督にはファビオ・カペッロが就任した。カペッロはデル・ピエロのフィジカルの水準に満足しておらず、しばしば新加入の若手のズラタン・イブラヒモビッチを起用し、デル・ピエロをベンチに下げる采配を下した[94]。とはいえ限られたプレー時間ながらもデル・ピエロは14得点を挙げ、アウェーのサン・シーロでのミラン戦ではオーバーヘッドキックでトレゼゲのゴールをアシストするなど活躍、同シーズンのセリエA優勝に貢献した[95]。またチャンピオンズリーグでもベスト8まで進出したが、準々決勝で同シーズン優勝を果たすリヴァプールに敗れ敗退した[96]

続く2005–06シーズンには、多数の評論家などからもデル・ピエロは過去最高のコンディションに戻ったと評され[97]、セリエAでは12得点、コッパ・イタリアでは得点王となる5得点、全コンペティションでは20得点を記録し、ユヴェントスのセリエA連覇に貢献した。このシーズンも監督のカペッロによりスタメンを外されイブラヒモビッチの控えに甘んじた事で[34]、出場時間の減少からデル・ピエロとカペッロの関係はしばしば緊張を孕んだものとなった[98]

2006年1月10日に行われたコッパ・イタリアの対フィオレンティーナ戦でハットトリックをマーク。これがユヴェントスでの185得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つクラブ歴代最多得点記録を塗り替えた[99]。またセリエAのシーズン最終戦でも試合終了間際に得点し、ジョゼ・アルタフィーニが保持していたセリエAにおける1シーズンの途中出場からの得点記録である6得点に並んだ[100]。しかし同シーズン終了直後に発覚したカルチョ・スキャンダルにより前2シーズンの優勝は取り消され、さらにまさかのセリエB降格処分という事態に見舞われることとなる[101]

2006年~2007年:セリエBを制覇、セリエA復帰 編集

突然のセリエB降格という事態に見舞われたデル・ピエロだったが、ファビオ・カンナバーロエメルソンジャンルカ・ザンブロッタパトリック・ヴィエラズラタン・イブラヒモヴィッチリリアン・テュラムなどの主力が一斉に移籍する中、デル・ピエロはイングランドの強豪マンチェスター・ユナイテッドFCからのオファーを断り、真っ先にチームへの残留を表明した[102]。デル・ピエロは「(オーナーの)アニェッリ家は、今後もファンや新たな監督らと共にチームを支えるに値する」とアニェッリ家への擁護を表明した[103]。彼に続くようにネドベドブッフォンらも残留を決意した。

真の紳士は、決して貴婦人[104]の側を離れることはない。
2006年、カルチョ・スキャンダルの発覚を受けてのデル・ピエロの発言[105]
 
セリエBの2006-07シーズン、リミニとの対戦にて

デル・ピエロは2006 FIFAワールドカップにて優勝を果たし帰国した後、2006年8月23日に行われたコッパ・イタリアのチェゼーナ戦でシーズン初出場を果たした。ユヴェントスは2006-07シーズンはセリエBでプレーする事となったため、UEFAカップの出場権を獲得するためにはコッパ・イタリアの優勝が必須となった。デル・ピエロは74分に交代で途中出場し、9秒後にユヴェントスの勝ち越しゴールを決め勝利に貢献した[106]。続く8月27日のナポリ戦でも61分に途中出場し、デル・ピエロは2得点を挙げたが試合はPK戦もつれこみ、最終的にPK戦5対4で敗北した[107]。ユヴェントスは八百長の処分によるマイナス9ポイントのペナルティを受けた状態でシーズンをスタートしたにもかかわらず、圧倒的な成績でセリエBを制し1部復帰を果たした[108]。デル・ピエロもセリエBで20得点を挙げ、得点王に輝いている[109]。また2006年10月21日に行われたフロジノーネ戦では200ゴールを達成し、1-0での勝利に貢献した[110]

2007年~2011年:セリエA復帰 編集

 
デル・ピエロのユヴェントスでの通算500試合出場を記念して作られたユニフォーム

セリエAに復帰した後、デル・ピエロはユヴェントスの新経営陣との新たな契約の交渉が難航し、数か月に及ぶ事となった。新たな契約は2010年6月30日までとなり、交渉の締結の後日、彼は第一子であるトビアスの誕生を発表した[111]。2週間前のセリエAのフィオレンティーナ戦では監督のクラウディオ・ラニエリによりメンバーから外され、ロベルト・ドナドーニ率いるイタリア代表からも選外となっていた[112]ばかりのデル・ピエロにとって、この結果は大きなどんでん返しとなった。

2007年12月15日、デル・ピエロはセリエAのラツィオ戦に2得点を挙げ、2週連続でセリエAの週間ベストイレブンに選出された[113]。2008年2月には同じくセリエAのローマ戦で、フリーキックから勝ち越しゴールを決め1-0の勝利に貢献した[114]。2008年4月6日のパレルモ戦はユヴェントスでの553試合目となり、ガエターノ・シレアの持つクラブ歴代最多出場記録を更新した[115][116]。4月にはセリエAの同月の全試合だけで、アタランタ戦でのハットトリックを含む7得点を記録している[117]

2007-08シーズンの最終節のサンプドリア戦、デル・ピエロは2得点を挙げ3-3の引き分けに持ち込む事に成功した[118]。この2得点によってシーズン通算21得点をマークする事となり、自身初のセリエA得点王に輝くと同時に[119]パオロ・ロッシ以来、史上2人目となるセリエB・セリエA連続得点王の快挙を成し遂げる事となった[120]。ユヴェントスは同シーズンのセリアAを3位で終え、翌シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに出場する資格を獲得した。

 
ユヴェントス時代後期(2008年)

2008年8月には、デル・ピエロはプロキャリアを40歳まで続ける意思がある事を発表した[121]。3シーズンぶりのUEFAチャンピオンズリーグ出場となった2008-09シーズン、ユヴェントスはグループリーグでレアル・マドリード、ゼニト・サンクトペテルブルク、BATEボリソフと同じグループHに組み分けされた。デル・ピエロはユヴェントスのセリエA復帰後初試合となるホームでのゼニト戦で、フリーキックにより決勝点を挙げ1-0での勝利に貢献した[122]。その後1つ空けて3試合目となる10月21日のホームでのレアル・マドリード戦では、試合開始わずか5分で遠距離のグラウンドシュートから先制点を挙げた[123][124]。続くアウェーのエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでの2ndレグでは2得点を記録し、レアル・マドリードの監督であったベルント・シュスターからも称賛を浴びた[125]。後半アディショナルタイムにパオロ・デ・チェリエとの交代でベンチに退く際には、マドリスタからのスタンディングオーベーションを受けた[126]エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで、アウェーの選手がスタンディングオーベーションを受けたのは、ディエゴ・マラドーナロナウジーニョなど数少ない[注釈 1][127]。しかしながらユヴェントスは決勝トーナメント2回戦でチェルシー相手に敗れ、デル・ピエロはホームでの2ndレグにてPKを決めたものの、勝利に導く事は叶わなかった[128]

2008年11月29日、レジーナ戦でユヴェントスでの通算250得点を記録。

2010年3月14日、シエナ戦でキャリア通算300得点を達成。

2010年10月30日、ACミラン戦で決勝ゴールをマーク。これがセリエAでの179得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つセリエAでのクラブ最多得点記録を塗り替えた。

ユヴェントスを退団 編集

 
シドニーFC時代(2014年)

2011-12シーズンをもってユヴェントスを退団。9月5日にAリーグシドニーFCへの移籍が発表された[129]。契約は2年間で年俸は約200万オーストラリア・ドルと、Aリーグ史上最高の年俸となる[130]

2014年4月28日、ブログでシドニーFC退団を発表した[131]。2014年8月28日、自身の公式ツイッターでインドのデリー・ディナモスFCに移籍することを明らかにした[132]。デル・ピエロは、「今日、デリー・ディナモスの一員になり、インド・スーパーリーグの新アンバサダーとなったことを報告できることを嬉しく思う」と発表した。

代表でのキャリア 編集

イタリア代表デビューは1995年3月25日のエストニア戦。イタリア代表通算27得点はバッジョと並んで歴代4位タイ。FIFAワールドカップには1998、2002、2006年と3大会連続、ユーロには1996、2000、2004、2008年と4大会連続で出場している。しかし、大会直前に怪我をしていたり、不慣れなポジション(左サイド等)でのプレーを強いられることが多く、本大会では実力を発揮できているとは言えない[要出典]

ユーロ1996では、1994年のU-21欧州選手権を制し、アトランタ五輪を控える当時のU-21世代から飛び級のような形で代表に選ばれるも、初戦のロシア戦で怪我を負い、このロシア戦前半のみの出場に終わった。

1998年のフランスワールドカップでは、アッズーリのエースとして大会に臨むも、1997-98チャンピオンズリーグ決勝レアル・マドリード戦で負った怪我の影響から全く見せ場を作れず、主役をバッジョに譲った[133]

ユーロ2000では、決勝のフランス戦でシュートチャンスを外し、批判を浴びた。また、1998年11月の大怪我から不調に苦しむ間にフランチェスコ・トッティの台頭もあり、2000年代からは背番号10番をトッティに譲った。これについてデルピエロは「僕は『7』の方が合っている」と語っている[134]

2002年日韓ワールドカップでは、予選で5得点と良い成績を残したが、本大会前になって監督ジョバンニ・トラパットーニはシステムをより守備的なものに変更、スタメンを外される。それでもグループリーグのメキシコ戦で途中出場ながらワールドカップ初ゴールを決めてこの試合を1-1の引き分けに持ち込み、グループリーグ敗退の危機にあったチームを救った。ゴール後のパフォーマンスでは、右手の人差し指で天を指し、開幕前に亡くなった父へと捧げた。

ユーロ2004では、予選こそ不振のチームを救うほどの活躍を見せていたが、本大会では不慣れな左サイドというポジションや直前の左大腿部の怪我から思うような活躍をすることはできなかった。

2006年のドイツW杯ではかつてユヴェントスの監督であった恩師リッピ監督からの信頼が厚く、23人のメンバーに名を連ねる。準決勝のドイツ戦では延長戦から途中出場し、アルベルト・ジラルディーノからのパスを受け、「デル・ピエロ・ゾーン」から2点目となるダメ押しゴールを奪った。決勝のフランス戦では後半途中から出場し、PK戦では4人目のキッカーも務め、同国4度目のFIFAワールドカップ優勝に貢献した。

ユーロ2008本戦への招集は危ぶまれていたが、2007-2008シーズンのセリエA得点王としての活躍が認められ4度目のユーロ出場を果たした。グループリーグ第2戦のルーマニア戦では、ゲームキャプテンを務めるも、ロベルト・ドナドーニ監督は戦術上デル・ピエロを重用することはなかった。

引退後 編集

アメリカのロサンゼルスに居住しており、サングラスブランドの「AIRDP Style」やロサンゼルスにイタリアンレストラン「N10」を経営している。他にもアメリカ国内に自身のサッカースクールを開講したり、様々な投資を行う実業家として活動している。また母国イタリアではサッカー解説者としても活動しており、2021年にはイタリアサッカー連盟の監督ライセンス講習を受講したことを明かしている[135]

エピソード 編集

日本との関係 編集

  • 自身の日本語ブログを開設するなど親日家としても知られ、以下の様なエピソードがある。なお日本に興味を持つようになったのは小学校の地理の授業で先生から「どこかひとつ海外の国を選んで発表しなさい」という課題にたまたま日本を選んだことに由来するという[139]
  • キャプテン翼の作者である高橋陽一は2000年にヨーロッパを訪れた際にデル・ピエロから「子どもの頃にキャプテン翼を読んでましたよ」と声をかけられており、2011年には自身のブログの中で明石家さんまから贈られた高橋陽一直筆のイラストを公開しているなど、今でも愛着を持っている事が伺える[140]
  • キャプテン翼のイラスト入りFC岐阜のユニフォームをFC岐阜から贈られたことから、FC岐阜に試合に来場したこともある[141]
  • 新日本プロレスの熱烈なファン。1970年代後半から1980年代前半にかけてイタリアでもTV放映されていた『ワールドプロレスリング』を子供の頃よく見ていたという。中でも藤波辰爾アントニオ猪木木村健吾タイガーマスク(初代)のファンであり、2005年にテレビ朝日のインタビューで藤波辰爾と対面した際には歓喜して、彼の技のひとつであるドラゴンスリーパーをリクエストしてかけられていた[142]
  • アニメ『ルパン三世』のファン。
  • 2011年3月に日本で起きた東北地方太平洋沖地震の惨事を知り、チャリティー用に自らデザインしたTシャツ(イタリアの国旗の上に日の丸を乗せ「友」と言う文字が刻まれている)を販売し、その売り上げは復興の為に寄付する事を発表した。特に被害甚大であった仙台市2002 FIFAワールドカップのイタリア代表のキャンプ地であり、その惨状を視て深い悲しみに陥ったと言う。そのTシャツを長友佑都も着用している。また慈善事業での収益金として2300万円を寄付した[143]
  • 2012年7月21日、日本のカシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチに自ら参加を申し入れゲストプレーヤーとして参加。『Jリーグ TEAM AS ONE』(被災地のクラブ・出身者の選抜チーム)の一員としてプレーし、後半25分にはミドルシュートで自ら得点を決めた[144]
  • 2023年9月に来日した際には来日イベントが東京で行われることが多いため「東京以外の場所にも行ってみたいんだ」と話している[145]

タイトル 編集

クラブ 編集

ユヴェントスFC

代表 編集

イタリア代表

個人 編集

  • UEFAチャンピオンズリーグ得点王(1997-98)
  • セリエA得点王(2007-2008)
  • セリエB得点王(2006-2007)
  • コッパ・イタリア得点王(2005-06)
  • トヨタカップ最優秀選手(1996)
  • イタリア最優秀選手(1998,2008)
  • ブラヴォー賞(1996)
  • ゴールデンフット賞(2007)
  • UEFAチャンピオンズリーグ10周年ベストアタッカー(2006)
  • UEFA Golden Jubilee Poll(2004)
  • FIFA 100(2004)
  • 20世紀の偉大なサッカー選手100人 77位(ワールドサッカー誌選出 1999)
  • ESM Team of the Year(1995-96, 1996-97, 1997-98)
  • ユヴェントスクラブ歴代最多得点記録
  • ユヴェントスクラブ歴代最多出場記録

個人成績 編集

クラブ 編集

経歴 リーグ 国内カップ戦* 欧州カップ戦**
国際カップ戦*** 合計
シーズン クラブ セリエ 試合数 ゴール数 試合数 ゴール数 試合数 ゴール数 試合数 ゴール数 試合数 ゴール数
1991-92 パドヴァ B 4 - - - - - - - 4 -
1992-93 10 1 - - - - - - 10 1
合計 14 1 0 0 0 0 0 0 14 1
1993-94 ユヴェントス A 11 5 1 0 2 0 - - 14 5
1994-95 A 29 8 10 1 11 2 - - 50 11
1995-96 A 29 6 2 1 11 6 1 0 43 13
1996-97 A 22 8 4 0 6 4 3 3 35 15
1997-98 A 32 21 4 1 10 10 1 0 47 32
1998-99 A 8 2 1 0 4 0 1 1 14 3
1999-00 A 34 9 2 1 9 2 - - 45 12
2000-01 A 25 9 2 0 6 0 - - 33 9
2001-02 A 32 16 4 1 10 4 - - 46 21
2002-03 A 24 16 0 0 13 5 1 2 38 23
2003-04 A 22 8 4 3 4 3 1 0 31 14
2004-05 A 30 14 1 0 10 3 - - 41 17
2005-06 A 33 12 4 5 7 3 1 0 45 20
2006-07 B 35 20 2 3 - - - - 37 23
2007-08 A 37 21 4 3 - - - - 41 24
2008-09 A 31 13 3 2 9 6 - - 43 21
2009-10 A 23 9 1 2 5 0 - - 29 11
2010-11 A 33 8 2 0 10 3 - - 45 11
2011-12 A 23 3 5 2 - - - - 28 5
合計 513 208 56 25 127 51 9 6 705 290
2012-13 シドニー Aリーグ 24 14 - - - - - - 24 14
2013-14 24 10 - - - - - - 24 10
合計 48 24 0 0 0 0 0 0 48 24
2014 デリー・ディナモス スーパーリーグ 10 1 - - - - - - 10 1
合計 10 1 0 0 0 0 0 0 10 1
総合計 585 234 56 25 127 51 9 6 777 316

* コッパ・イタリアイタリア・スーパーカップを指す
** UEFAチャンピオンズリーグUEFAカップUEFAインタートトカップUEFAスーパーカップを指す
*** インターコンチネンタルカップFIFAクラブワールドカップを指す

代表 編集


イタリア代表国際Aマッチ
出場得点
1995 7 1
1996 4 2
1997 6 4
1998 8 3
1999 2 0
2000 13 4
2001 6 3
2002 11 5
2003 4 2
2004 6 1
2005 4 0
2006 9 2
2007 5 0
2008 6 0
通算 91 27

代表でのゴール 編集

# 開催年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1. 1995年11月15日   レッジョ・エミリアチッタ・デル・トリコローレ   リトアニア 1–0 4–0 UEFA EURO '96予選
2. 1996年1月24日   テルニスタディオ・リベロ・リベラティ   ウェールズ 1–0 3–0 親善試合
3. 1996年5月29日   クレモナスタディオ・ジョヴァンニ・ツィーニ   ベルギー 1–2 2–2
4. 1997年1月22日   パレルモスタディオ・レンツォ・バルベラ   北アイルランド 2–0 2–0
5. 1997年6月8日   リヨンスタッド・ジェルラン   ブラジル 1–0 3–3 1997 トゥルヌワ・ドゥ・フランス
6. 3–1
7. 1997年6月11日   パリパルク・デ・プランス   フランス 2–2 2–2
8. 1998年1月28日   カターニアスタディオ・アンジェロ・マッシミーノ   スロベニア 2–0 3–0 親善試合
9. 1998年10月10日   ウーディネスタディオ・フリウーリ   スイス 1–0 2–0 UEFA EURO 2000予選
10. 2–0
11. 2000年2月23日   パレルモ、スタディオ・レンツォ・バルベラ   スウェーデン 1–0 1–0 親善試合
12. 2000年6月19日   アイントホーフェンフィリップス・スタディオン   スウェーデン 2–1 2–1 UEFA EURO 2000
13. 2000年10月11日   アンコーナスタディオ・デル・コネーロ   グルジア 1–0 2–0 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
14. 2–0
15. 2001年3月28日   トリエステスタディオ・ネレオ・ロッコ   リトアニア 2–0 4–0
16. 4–0
17. 2001年10月6日   パルマスタディオ・エンニオ・タルディーニ   ハンガリー 1–0 1–0
18. 2002年2月13日   カターニア、スタディオ・アンジェロ・マッシミーノ   アメリカ合衆国 1–0 1–0 親善試合
19. 2002年6月13日   大分市ビッグアイ   メキシコ 1–1 1–1 2002 FIFAワールドカップ
20. 2002年9月7日   バクートフィク・バフラモフ・スタジアム   アゼルバイジャン 0–2 0–2 UEFA EURO 2004予選
21. 2002年10月12日   ナポリスタディオ・サン・パオロ   ユーゴスラビア 1–1 1–1
22. 2002年10月16日   カーディフミレニアム・スタジアム   ウェールズ 1–1 2–1
23. 2003年6月11日   ヘルシンキオリンピックスタジアム   フィンランド 0–2 0–2
24. 2003年9月6日   ミラノサン・シーロ   ウェールズ 4–0 4–0
25. 2004年9月8日   キシナウスタディオヌル・ジンブル   モルドバ 0–1 0–1 2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
26. 2006年3月1日   フィレンツェスタディオ・アルテミオ・フランキ   ドイツ 4–0 4–1 親善試合
27. 2006年7月4日   ドルトムントFIFA WM-シュタディオン・ドルトムント   ドイツ 0–2 0–2 2006 FIFAワールドカップ準決勝

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ この時点で3例目、その後2016年時点では8例に増えている。

出典 編集

  1. ^ a b c “Alessandro Del Piero”. Transfermarkt. https://www.transfermarkt.jp/alessandro-del-piero/profil/spieler/4289 2023年10月29日閲覧。 
  2. ^ “Alessandro Del Piero - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/delpiero-intlg.html 
  3. ^ Mike Hytner (2015年10月12日). “Alessandro Del Piero and Roberto Carlos touted for A-League coaching roles”. The Guardian. https://www.theguardian.com/football/2015/oct/12/alessandro-del-piero-and-roberto-carlos-touted-for-a-league-coaching-roles 2015年10月15日閲覧。 
  4. ^ Agent: 'Del Piero could retire'”. Football Italia. 2015年5月4日閲覧。
  5. ^ Ben Gladwell. “Juventus shouldn't sell Paul Pogba, says Alessandro Del Piero”. ESPN FC. 2015年5月4日閲覧。
  6. ^ Mark Doyle. “Del Piero: Berlusconi wanted me at AC Milan and now I'm a free agent...”. goal.com. Goal.com. 2015年5月4日閲覧。
  7. ^ David Schiavone (2015年10月10日). “Del Piero wants coaching career”. La Gazzetta dello Sport. http://gazzettaworld.gazzetta.it/news/del-piero-coaching-career/?refresh_ce-cp 2015年10月15日閲覧。 
  8. ^ Totti e Del Piero sulla via del Portogallo” (イタリア語). Panorama.it. 2015年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月4日閲覧。
  9. ^ “A-League: Del Piero assist-man, Sydney ai playoff” (イタリア語). Il Sole 24 Ore. http://www.ilsole24ore.com/art/notizie/2014-04-13/a-league-piero-assist-man-sydney-playoff-120107.shtml?uuid=AB1nHdAB 2015年1月4日閲覧。 
  10. ^ “Del Piero, Totti e Baggio la fantasia al potere” (イタリア語). La Repubblica. (2001年10月6日). http://www.repubblica.it/online/calcio/fantasisti/fantasisti/fantasisti.html 2015年1月4日閲覧。 
  11. ^ Hall Of Fame – Sydney FC”. Sydney FC. 2015年8月26日閲覧。
  12. ^ Barney Ronay (2014年1月31日). “Alessandro Del Piero walks the line in Sydney but is still sensational”. The Guardian. https://www.theguardian.com/football/blog/2014/jan/31/alessandro-del-piero-sydney-fc-australia 2015年8月26日閲覧。 
  13. ^ a b c Tutti i trofei vinti da Alessandro Del Piero” (イタリア語). Il Post (2014年11月9日). 2015年8月26日閲覧。
  14. ^ AFS Top-100 Players of All-Time”. RSSSF (2007年12月14日). 2015年8月19日閲覧。
  15. ^ Ciao Alex Del Piero, buona nuova avventura”. Calcionews360.net. 2013年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月22日閲覧。
  16. ^ Capitani Azzurri: Alessandro Del Piero (2004–2008) – Nazionali – TMW”. Tuttomercatoweb.com (2012年4月20日). 2023年7月閲覧。
  17. ^ “Festa Del Piero "Questa maglia mi rende speciale"” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (2012年1月26日). http://archiviostorico.gazzetta.it/2012/gennaio/26/Festa_Del_Piero_Questa_maglia_ga_10_120126051.shtml 
  18. ^ “Le 7 vite di Inzaghi I numeri magici di SuperPippo”. La Gazzetta dello Sport. (2009年9月16日). http://www.gazzetta.it/Calcio/SerieA/Milan/16-09-2009/7-vite-inzaghi-501316594152.shtml 2010年10月13日閲覧。 
  19. ^ Inzaghi, riflessioni sul futuro. Via dal Milan, Italia o Stati Uniti” (イタリア語). Mediaset.it (2011年10月28日). 2023年7月閲覧。
  20. ^ “Del Piero a quota 301 gol in carriera: nel mirino c'è Inzaghi” (イタリア語). Tuttosport. (2010年3月15日). オリジナルの2014年10月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20141006100558/http://www.tuttosport.com/calcio/serie_a/juventus/2010/03/15-60075/Del+Piero+a+quota+301+gol+in+carriera%3A+nel+mirino+c%27%C3%A8+Inzaghi 
  21. ^ “Juve, come Del Piero nessuno mai” (イタリア語). Tuttosport. (2008年12月29日). オリジナルの2014年2月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140202120917/http://www.tuttosport.com/calcio/serie_a/juventus/2008/12/29-13455/Juve%2C+come+Del+Piero+nessuno+mai 2012年10月22日閲覧。 
  22. ^ “Fifa names greatest list”. BBC Sport. (2004年3月4日). http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/football/3533833.stm 2010年4月12日閲覧。 
  23. ^ "UEFA Awards". RSSSF.
  24. ^ Two awards for Alex”. Juventus (2006年5月10日). 2007年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
  25. ^ "Comunicato Stampa" (in Italian). Retrieved 26 May 2012.
  26. ^ Del Piero
  27. ^ 西部謙司. “デル・ピエーロとインザーギ。短くも強く輝いた“デル・ピッポ”の煌めき”. footballista. 2021年4月29日閲覧。
  28. ^ a b Seeking glory in blue shirt”. Sportstar (2006年4月1日). 2008年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月26日閲覧。
  29. ^ a b Del Piero biografie” (イタリア語). ItBiografie.com. 2006年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月26日閲覧。
  30. ^ Le luci di Del Piero” (イタリア語). Raisport.rai.it (2001年6月28日). 2012年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月26日閲覧。
  31. ^ “Stefano Del Piero: "Juve scelta di cuore"” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (2009年7月18日). http://www.gazzetta.it/Calcio/SerieA/Juventus/18-07-2009/stefano-piero-juve-scelta-cuore-50796353526.shtml 2015年6月3日閲覧。 
  32. ^ Giovanni Audiffredi (17 April 2012). “Alessandro Del Piero: 'Se avessi saputo dire: Papà, ti voglio bene'” (イタリア語). Vanity Fair. http://www.vanityfair.it/people/italia/2012/04/17/alessandro-del-piero-intervista-vanity-fair 2014年6月3日閲覧。. 
  33. ^ Del Piero profile”. Kicker.de. 2012年5月26日閲覧。
  34. ^ a b “Del Piero an ace at icing Juventus cake”. The International Herald Tribune. (2006年2月14日). オリジナルの2008年10月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081014002229/http://www.iht.com/articles/2006/02/14/sports/soccer.php 2015年12月10日閲覧。 
  35. ^ Gloria Callarelli (2014年11月9日). “Auguri Del Piero, dal Padova alla Juve: come si diventa leggenda” [Happy birthday Del Piero, from Padova to Juve: how one becomes a legend] (イタリア語). padovaoggi.it. Padova Oggi. 2015年2月28日閲覧。
  36. ^ “Alessandro Del Piero racconta i primi anni nel calcio che conta a Padova” (イタリア語). Padova 24 Ore. http://www.padova24ore.it/eventi-e-mondanita/2161-alessandro-del-piero-racconta-i-primi-anni-nel-calcio-che-conta-a-padova.html 2010年3月16日閲覧。 
  37. ^ “Del Piero, tre passi nel futuro Juve” (イタリア語). Il Corriere della Sera. (1994年3月21日). オリジナルの2013年6月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130616134806/http://archiviostorico.corriere.it/1994/marzo/21/Del_Piero_tre_passi_nel_co_0_94032115764.shtml 2009年8月17日閲覧。 
  38. ^ “Festa per il capitano Del Piero” (イタリア語). La Stampa. (2010年9月12日). オリジナルの2010年9月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100914211219/http://www3.lastampa.it/sport/sezioni/quijuve/articolo/lstp/322452/ 2010年9月13日閲覧。 
  39. ^ 25 giugno 1994, Primavera tricolore”. Juventus.com. 2015年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月7日閲覧。
  40. ^ a b On This Day: Del Piero’s first Juventus goal”. footballitalia. 2017年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月3日閲覧。
  41. ^ Juventus Corner : What Del Piero Means To Fans”. The Hard Tackle (2012年5月21日). 2023年8月26日閲覧。
  42. ^ Del Piero, tre passi nel futuro Juve Del Piero, tre passi nel futuro Juve” (イタリア語). Il Corriere della Sera (1994年3月21日). 2015年1月7日閲覧。
  43. ^ Mengenal Baggio Lain Yang Ada Di Italia”. GOAL (2022年3月18日). 2023年8月1日閲覧。
  44. ^ Alessandro Del Piero: 10 Wonder Goals from the Juventus and Italy Legend”. BLEACHERREPORT. 2023年6月17日閲覧。
  45. ^ Fiorentina-Juventus, 20 anni fa il super gol di Del Piero” (イタリア語). Mediaset.it. 2014年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月5日閲覧。
  46. ^ a b c “Euro 2008: Alex Del Piero” (イタリア語). La Repubblica. (2008年5月23日). http://temi.repubblica.it/nuovavenezia-europei2008/2008/05/23/alex-del-piero/?h=1 2015年5月13日閲覧。 
  47. ^ “DEL PIERO, FESTA TRADITA” (イタリア語). La Repubblica. (1994年3月14日). オリジナルの2014年12月5日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/DMJyp 2014年12月5日閲覧。 
  48. ^ Alex Del Piero” (イタリア語). repubblica.it. La Repubblica (2008年5月23日). 2015年2月18日閲覧。
  49. ^ European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1995”. RSSSF (2005年3月26日). 2015年8月25日閲覧。
  50. ^ ワールドサッカーダイジェスト 1996年3月号 no.17 p.58-59
  51. ^ FIFA CLUB WORLD CUP の歴史”. NTV. 2020年6月6日閲覧。
  52. ^ European Footballer of the Year ('Ballon d'Or') 1996”. RSSSF (2005年3月26日). 2015年8月25日閲覧。
  53. ^ Toyota Cup – Most Valuable Player of the Match Award”. RSSSF (2008年12月29日). 2009年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年5月5日閲覧。
  54. ^ Roberto Perrone (1997年5月29日). “Peccato, ma resta un anno eccezionale” [It's a shame, but it's still been an exceptional year] (イタリア語). corriere.it. Il Corriere della Sera. 2015年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月28日閲覧。
  55. ^ Riedle makes Dortmund's day”. UEFA (1997年5月28日). 2015年10月10日閲覧。
  56. ^ FIFA Awards – World Player of the Year – Top 10”. RSSSF. 2016年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月31日閲覧。
  57. ^ Pierrend, José Luis (2005年3月26日). “European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1997”. Rec. Sport. Soccer Statistics Foundation. 2013年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月5日閲覧。
  58. ^ Alessandro Del Piero's 283 goals for Juventus make him the greatest one-club marksman in Italy”. Goal.com (2011年4月25日). 2013年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月閲覧。
  59. ^ Calcio Flashback: Juventus 4–1 Monaco (Champions League Semi-final 1998)”. Goal.com (2009年1月6日). 2009年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月閲覧。
  60. ^ “in ansia per Del Piero” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (1998年5月22日). http://archiviostorico.gazzetta.it/1998/maggio/22/ansia_per_Del_Piero_ga_0_9805227687.shtml 2014年10月20日閲覧。 
  61. ^ 1997/98: Seventh heaven for Madrid”. UEFA (1998年5月20日). 2023年8月閲覧。
  62. ^ Scudetto of 1998 Belongs To Inter, Not Juventus – Gigi Simoni”. Goal.com (2009年4月20日). 2013年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月閲覧。
  63. ^ Juve, lo scudetto dei veleni e' vicino” (イタリア語). Il Corriere della Sera (1998年4月27日). 2012年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月5日閲覧。
  64. ^ La notte degli Oscar” [オスカーの夜] (イタリア語). rai.it. Rai Sport (1998年9月22日). 2015年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月28日閲覧。
  65. ^ Alex Del Piero Fenomeno Vero” (イタリア語). Eurocalcio News. 2016年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月26日閲覧。
  66. ^ Un Fenomeno di sfortuna Tutti gli infortuni di Ronaldo” (イタリア語). gazzetta.it. La Gazzetta dello Sport (2008年2月13日). 2015年2月28日閲覧。
  67. ^ Lazio, una Supercoppa aspettando Vieri” (イタリア語). Il Corriere della Sera (1998年8月30日). 2013年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月26日閲覧。
  68. ^ Campionato gia' finito per Del Piero infortunato” (イタリア語). Il Corriere della Sera (1998年11月10日). 2012年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月26日閲覧。
  69. ^ a b Flashback – Juventus 2–3 Man Utd. 1999 CL semi final”. Football Speak (2012年3月25日). 2012年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月11日閲覧。
  70. ^ Italy 1998/99”. RSSSF. 2016年7月22日閲覧。
  71. ^ Andrew Warshaw (1998年10月13日). “Football: Drugs in Serie A – Italy sinking deeper into scandal”. independent.co.uk. The Independent. 2011年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月28日閲覧。
  72. ^ Juve doctor convicted of doping”. Union of European Football Associations (UEFA) (2004年11月26日). 2004年11月26日閲覧。
  73. ^ Bob Hughes (2010年10月31日). “A Reminder of the Beautiful Game”. The New York Times. 2015年2月28日閲覧。
  74. ^ Juventus team doctor acquitted in doping case”. espnfc.com. ESPN FC (2005年12月14日). 2015年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月28日閲覧。
  75. ^ a b Serie A 1999/2000”. football-lineups.com. 2014年10月20日閲覧。
  76. ^ Simon Kuper (2000年4月9日). “The wonderful tale of Mamma Inzaghi and her boys”. The Guardian. https://www.theguardian.com/football/2000/apr/09/sport.comment1 2017年3月27日閲覧。 
  77. ^ Ivan Palumbo (2016年9月16日). “Il blob: Trapattoni-Strunz, era tutto programmato. E Del Piero sfotte...” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. http://www.gazzetta.it/Calcio/15-09-2016/blob-trapattoni-strunz-era-tutto-programmato-piero-sfotte-17063198270.shtml 2017年3月18日閲覧。 
  78. ^ Silvano Stella; Paolo Forcolin (2000年4月5日). “Del Piero Inzaghi, poco feeling” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. http://archiviostorico.gazzetta.it/2000/aprile/05/Del_Piero_Inzaghi_poco_feeling_ga_0_00040512322.shtml 2017年3月19日閲覧。 
  79. ^ Paddy Agnew (2000年6月24日). “Del Piero fuels passionate debate”. The Guardian. https://www.theguardian.com/football/2000/jun/24/euro2000.sport8 2015年6月3日閲覧。 
  80. ^ NAPOLI-JUVENTUS. I precedenti e le curiosità” (イタリア語). azzurrissimo.it (2011年11月29日). 2014年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月20日閲覧。
  81. ^ Esulta la Juve, è tornato Del Piero” (イタリア語). Il Corriere della Sera (2001年2月19日). 2014年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月20日閲覧。
  82. ^ “Del Piero torna leader Resterò alla Juventus” (イタリア語). La Repubblica. (2001年3月17日). オリジナルの2012年7月18日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/hAd8 2014年10月20日閲覧。 
  83. ^ The great Serie A title race of 2001–02”. thesefootballtimes.co (2016年7月16日). 2016年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月20日閲覧。
  84. ^ Del Piero bussa alla storia” (イタリア語). gazzetta.it. La Gazzetta dello Sport (2006年10月16日). 2015年4月13日閲覧。
  85. ^ Coppa Italia 2001/2002 » Final”. worldfootball.net. 2016年11月20日閲覧。
  86. ^ Supercoppa Italiana, la Juve cerca l'aggancio al Milan” (イタリア語). tuttosport.com/. Tuttosport (2013年8月16日). 2015年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月13日閲覧。
  87. ^ La Juve batte il Brescia 2–1 scudetto sempre più vicino” (イタリア語). repubblica.it. La Repubblica (2003年4月27日). 2015年4月13日閲覧。
  88. ^ Electric Juventus power past Dynamo”. UEFA.com (2002年9月24日). 2013年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
  89. ^ Newcastle stung by Del Piero double”. UEFA.com (2002年10月1日). 2013年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
  90. ^ Dramatic win not enough for Basel”. UEFA.com (2003年3月18日). 2013年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
  91. ^ Zalayeta sends Juventus through”. UEFA.com (2003年4月22日). 2013年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
  92. ^ Madrid fall to brilliant Nedved”. UEFA.com. 2013年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月12日閲覧。
  93. ^ 2002/03: Shevchenko spot on for Milan”. UEFA.com (2003年5月28日). 2023年8月26日閲覧。
  94. ^ Luca Curino (2008年11月22日). “Quando Del Piero era riserva di Ibrahimovic [When Del Piero was a reserve for Ibrahimovic]” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. https://www.gazzetta.it/Calcio/SerieA/Squadre/Juventus/Primo_Piano/2008/11/22/Ale.shtml 2015年8月26日閲覧。 
  95. ^ A match that needs no introduction.”. AC Milan (2012年2月22日). 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月閲覧。
  96. ^ UEFA Champions League 2004/05 – History – Juventus”. uefa.com. 2016年11月20日閲覧。
  97. ^ Del Piero ringrazia Capello: "Rinato grazie al turn over"” (イタリア語). corriere.it. Il Corriere della Sera (2006年2月14日). 2013年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月8日閲覧。
  98. ^ DEL PIERO-CAPELLO: E' ROTTURA” (イタリア語). tuttocalciatori.net (2006年5月10日). 2015年4月8日閲覧。
  99. ^ Del Piero supera Boniperti” [Del Piero overtakes Boniperti] (イタリア語). juventus.com (2006年1月10日). 2015年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月8日閲覧。
  100. ^ La Juve festeggia lo scudetto Poker al Cagliari di Zola” (イタリア語). repubblica.it. La Repubblica (2005年5月29日). 2013年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月13日閲覧。
  101. ^ “Punishments cut for Italian clubs”. BBC Sport. (2006年7月26日). http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/5215178.stm 
  102. ^ Real Madrid, accordo con la Juve per Cannavaro ed Emerson” (イタリア語). repubblica.it. La Repubblica (2006年7月19日). 2013年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月13日閲覧。
  103. ^ Alex Del Piero: A Look Back at Alex the Great's Time in Turin”. bleacherreport.com (2012年5月14日). 2016年7月27日閲覧。
  104. ^ 「貴婦人」はユヴェントスの愛称である。
  105. ^ La sfida più difficile di Alex Del Piero” (イタリア語). corriere.it. Il Corriere della Sera (2005年9月1日). 2012年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月10日閲覧。
  106. ^ "Juventus 2–1 al Cesena" (in Italian) Juventus.com. 23 August 2006
  107. ^ "Napoli – Juventus, 3–3 a.e.t. (Napoli win 5–4 on penalties)" Juventus.com. 28 August 2006
  108. ^ “Juventus win Serie B at a canter”. BBC Sport. (2007年5月19日). http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/6673133.stm 
  109. ^ Italy – Serie B Top Scorers”. RSSSF. 2015年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月22日閲覧。
  110. ^ Adesso Del Piero è mister 200” (イタリア語). gazzetta.it. La Gazzetta dello Sport (2006年10月21日). 2015年4月13日閲覧。
  111. ^ Alberto Mauro (2007年10月16日). “Del Piero-Juve fino al 2010 Ale: "Giorni entusiasmanti"” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. http://www.gazzetta.it/Calcio/Primo_Piano/2007/10_Ottobre/16/aledelpiero.shtml 2015年5月13日閲覧。 
  112. ^ Gaetano De Stefano (2007年10月7日). “Nazionale, novità Montolivo A casa Del Piero e Inzaghi” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. http://www.gazzetta.it/Calcio/Nazionale/Primo_Piano/2007/10_Ottobre/07/convocazioni.shtml 2015年5月13日閲覧。 
  113. ^ Juventus edge Lazio”. Eurosport (2007年12月15日). 2015年5月13日閲覧。
  114. ^ “Del Piero è l'anima Juve Roma battuta e avvicinata” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (2008年2月16日). http://www.gazzetta.it/Calcio/Primo_Piano/2008/02_Febbraio/16/juv-rom.shtml 2015年5月13日閲覧。 
  115. ^ “Del Piero, 552 senza tempo” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (2008年3月24日). http://www.gazzetta.it/Calcio/SerieA/Squadre/Juventus/Primo_Piano/2008/03_Marzo/24/delpiero.shtml 2015年5月13日閲覧。 
  116. ^ Pier Luigi Todisco (2008年4月6日). “Juve, che doccia fredda nel momento più caldo” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. http://www.gazzetta.it/Calcio/SerieA/Squadre/Palermo/Primo_Piano/2008/04_Aprile/06/palermojuve.shtml 2015年5月13日閲覧。 
  117. ^ “Del Piero and Kaka score hat tricks”. thestar.com. (2008年4月20日). https://www.thestar.com/sports/2008/04/20/del_piero_and_kaka_score_hat_tricks.html 
  118. ^ Del Piero at the double”. ESPN (2008年5月17日). 2013年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月閲覧。
  119. ^ “Samp-Juve show Super Del Piero è il re del gol” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (2008年5月18日). http://archiviostorico.gazzetta.it/2008/maggio/18/Samp_Juve_show_Super_Del_ga_10_080518073.shtml 2009年1月8日閲覧。 
  120. ^ Premio Nazionale Carriera Esemplare "Gaetano Scirea": Alba d'Oro” (イタリア語). Comune Cinisello. 2015年1月21日閲覧。
  121. ^ Del Piero: 'I'll play until I'm 40'”. Football Italia (2011年11月14日). 2016年7月22日閲覧。
  122. ^ (イタリア語) Del Piero è infinito. Lo Zenit si arrende La Gazzetta dello Sport – Retrieved on 8 January 2008
  123. ^ (イタリア語) Del Piero-Amauri in gol. La Juve risorge, Real k.o. La Gazzetta dello Sport – Retrieved on 8 January 2008
  124. ^ Juve enjoy high life at Madrid's expense”. UEFA.com (2008年10月22日). 2013年2月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月閲覧。
  125. ^ Molinaro, John F. (2008年11月7日). “CBC News – A class act”. Cbc.ca. オリジナルの2012年5月26日時点におけるアーカイブ。. https://archive.li/FuR8 2010年6月13日閲覧。 
  126. ^ (イタリア語) Ale incanta il Bernabeu. La Juve è già qualificata La Gazzetta Dello Sport – Retrieved on 8 January 2008
  127. ^ レアル・マドリーのファンが相手選手に拍手をした8つのケース” (2016年3月16日). 2022年6月28日閲覧。
  128. ^ Fifield, Dominic (2009年3月10日). “Essien and Drogba draw the sting from 10-man Juve”. The Guardian (London). https://www.theguardian.com/football/2009/mar/10/juventus-chelsea-champions-league 
  129. ^ Sydney FC signs Italian legend Alessandro Del Piero Sydney FC | A-League Football Club、2012年9月5日
  130. ^ デル・ピエロがシドニーFCと2年契約で合意 ゲキサカ 2012年9月5日付記事
  131. ^ チャオ、オーストラリア OFFICIAL BLOG 日本語版、2014年4月28日
  132. ^ デル・ピエロ自身による2014年8月28日19:44 (UTC+2)の発言 (イタリア語)
  133. ^ イタリア代表、背番号10の系譜。謎の退場!? 韓国戦、誤審連発…最悪の大会で何があった?” (2022年5月3日). 2022年6月28日閲覧。
  134. ^ 「10番」なきイタリア代表の現実 カルチョの国からファンタジスタは失われたのか” (2016年3月23日). 2022年6月28日閲覧。
  135. ^ デル・ピエロが現場復帰?引退後の紆余曲折を経て監督コース入り” (2021年3月11日). 2022年9月16日閲覧。
  136. ^ サッカー選手デル・ピエーロがALMSチーム代表就任 - オートスポーツ・2013年1月22日
  137. ^ マリオ 2012 148頁
  138. ^ マリオ 2012 151頁
  139. ^ 【2012Jリーグスペシャルマッチ】試合終了後のアレッサンドロ・デル・ピエロ選手コメント(12.07.21) - JsGoal、2012年7月21日
  140. ^ alessandrodelpiero OFFICIAL BLOG 日本語版 - CAPTAIN TSUBASA”. 2013年12月15日閲覧。
  141. ^ デル・ピエロが何故か岐阜に” (2018年9月24日). 2023年6月18日閲覧。
  142. ^ ワールドプロレスリング実況三銃士の闘魂コラム#44”. 吉野真治. テレビ朝日 アナウンサーズ (2005年6月20日). 2014年1月21日閲覧。
  143. ^ デル・ピエロの慈善団体、被災地へ約2300万円を寄付「友よ、あきらめないで」”. newsliverdoor (2005年6月20日). 2021年4月3日閲覧。
  144. ^ デル・ピエロが強烈ミドル弾…TEAM AS ONEが4ゴールで圧勝/復興支援マッチ SOCCER KING、2012年7月21日
  145. ^ 親日家デル・ピエロは地方遠征に興味「私が知っている日本は東京だけ…」サカつくイベントでベストイレブン発表”. 2023年9月18日閲覧。

参考文献 編集

  • マリオ 宮川著『スポーツのマネジメント ユベントス・フェラーリ その交渉と契約』東邦出版、2012年。ISBN 978-4809410277 

外部リンク 編集