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ボクサー』は、1977年に公開された日本映画。主演・菅原文太清水健太郎、監督・寺山修司。製作・東映東京撮影所、配給・東映。 

ボクサー
監督 寺山修司
脚本 石森史郎
岸田理生
寺山修司
出演者 菅原文太
清水健太郎
小沢昭一
春川ますみ
音楽 J・A・シーザー
撮影 鈴木達夫
編集 祖田富美夫
製作会社 東映東京撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1977年10月1日
上映時間 94分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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目次

概要編集

邦画では久しぶりのボクシング映画で[1][2]寺山修司が初めて商業映画のメガホンを執った[3][4][5]"日本版『ロッキー』"[6][7][8]。結果的に寺山が大手映画会社で撮った唯一の映画である[9]ボクサー上りの隼謙次(菅原文太)が世界チャンピオンの夢を捨てきれず、新人ボクサーの天馬哲生(清水健太郎)に目をつけ、トレーナーとして世界への夢を託す[10]

あらすじ編集

ボクサーを志して沖縄から上京した天馬哲生(清水健太郎)は、片足が不自由で初試合で打ちのめされ、所属ジムからも見捨てられた。諦めきれない天馬は、元東洋チャンピオンで落ちぶれた生活を送る隼謙次(菅原文太)に弟子入りを志願する。隼は天馬が工事現場でクレーンの故障で事故死させた同僚の兄だった。隼はまるで死んだ弟の復讐をするように厳しく天馬をしごいた。やがて東日本新人王決定戦のリングに上がる天馬を隼は熱く見守るのだった[11]

キャスト編集

スタッフ編集

製作編集

企画成立経緯編集

菅原文太10年越しの企画で[11][13][14]、具体的に東映に企画を提出していたが埋もれたままになっていたといわれる[13][14]岡田茂東映社長が菅原の企画の熱意に応じた[2][15]

1977年8月10日に銀座東急ホテルであった製作会見で、岡田東映社長から企画成立経緯について以下の説明があった[2]。 「文太、小野田(啓・宣伝部長)、天尾(完次・企画部長)らが『ロッキー』を見て感心し、ぜひ日本版をやりたいと企画を持って来たが、日本ではボクシング映画は当たったためしがなく拒否権を発動していた。ところが営業部を抱き込んだり、主演に人気ナンバー1の清水クンを担ぎ出したり、ボクシング界の歴代チャンピオンを引き出したり、何としても、という彼らの熱意を買った。この作品は東映の選挙で言えば全国的な大作路線への方向転換の第二作であり、責任を持ってやれと言ってある。監督に寺山君というのは私にとっては想像を絶する起用だが、どんなものが出来るか楽しみにしている」[2]

実写のボクシング映画は1960年代に特に日活がよく作っていたが[13]、日本映画の斜陽もあり、日本のメジャー会社では長い間、実写のボクシング映画は作られてなく[1]、よく企画が通ったといわれた[16][17]。当時はスポーツ映画は当たらないというのが日本映画では定説だったため[17]、東映の実験的な試みは注目された[17]

岡田社長は映画化をなかなか許さなかったが[2][18]、このタイミングで企画が通ったのは、"日本版『ロッキー』"と当時盛んにいわれたように[15][19]、1977年4月に日本でも公開された『ロッキー』大ヒットの影響が大きかったと見られ[4][8][13]、『ロッキー』公開直後の映画誌に、菅原が「『いやあ『ロッキー』って映画すごいね。無名の俳優がこれ1本でアカデミーにノミネートされたっていうじゃないの。おれも40歳を過ぎたけど、やるとなれば今年だね。秋にやるって会社と約束も取り付けたし..』 菅原文太、近ごろごきげんである。念願のボクシング映画実現が近づいたからだ」という記事が載る[14]。ただ菅原の企画提出は『ロッキー』より大分前なので、(実現の経緯を別にすれば)『ロッキー』の便乗映画ではない[13]1974年から1976年にかけて『ローラーボール』や『ロンゲスト・ヤード』『がんばれ!ベアーズ』などのスポーツ映画がアメリカでヒットし、岡田社長は「アメリカ映画で流行ったものは、必ず何ヶ月後に日本で流行る」という持論であったため[20]、その波が日本に押し寄せて来るのを見込み[13][21]、また1975年夏の『トラック野郎・御意見無用』、1976年の正月映画『トラック野郎・爆走一番星』が連続して大当たりを取ったことから[22][23]、女性・子供・家族連れの映画館への吸収を狙い[24]、1976年上半期に、"健全喜劇・スポーツ映画路線"を敷いたことがあり[22][24][25][26]、失敗して撤退したが[24][27][28]、『ボクサー』でスポーツ映画の再挑戦を企図したこと[13]、また「トラック野郎シリーズ」での菅原の東映への貢献や[8]実録映画の行き詰まり[6][29][30]、清水健太郎が女性に圧倒的に人気があったことから、清水を東映で映画スターとして売り出したい(詳細は後述)[8]、女性層にアピールしていきたいという考えもあり[13][17]、企画が通ったとされる。

1977年夏に岡田東映社長が積極的に外部資本と提携した映画の製作方針を打ち出し[31][32][33][34]、8月、『宇宙戦艦ヤマト』の配給[35]、10月、『人間の証明』で角川映画を初配給[35]、12月、東映セントラルフィルムを設立するなど[35][36]、1977年の東映は転換期だった[37]。岡田は1978年には年間6本程度の大作を製作したいとの方針を発表し[37][38]、大作ロングラン体制の確立を目指したため[6][39]、1977年に東映の本体(東映東京京都撮影所)で製作した劇映画は、本作も含め31本あったが[39][40]、1978年は僅か12本に減った[39][40]。菅原が「やるとなれば今年」と話していたように[14]、この年でなければ『ボクサー』は製作されなかったかもしれない。企画者も兼ねる菅原は何としてもヒットさせなければ面子に関わる映画となった[18]

監督編集

寺山修司はこれ以前にATGで劇映画を監督をしているが、商業ベースの映画(メジャー映画会社での番線映画)はこれが初めてで[4][10][13]大手映画会社で撮った唯一の映画である[9]。寺山を引っ張り出したのは菅原で[4][34]、「みんなが絶望しかけている今の日本映画界に衝撃を与えようとしたら、よほど思い切ったことをしないと。ボクシングは最も詩的なスポーツ。全体に繊細なものが入ってこないと殺伐としたものの底にあるものがくみ上げられない。寺山さんはボクシングをよく知っているし、心やさしさは詩や文章を読めば分かる」と話した[13]。寺山は、映画に関しては「既定の理論を否定することからスタートしている」といわれる"革新のタカ派"[30]。処女作『猫学/Catology』では本物のを何匹を実際に殺したといわれ[30]、自らの演劇理論をスクリーンに導入した実験映画を永年撮り続ける寺山と商業映画の総本山・東映では畑違いであるが[30]、寺山は「商業映画と実験映画の歯車がかみ合った時、ニューシネマが生まれる」と意気盛んだった[30]。寺山は、映画化はされなかったが、初めて書いたシナリオはボクシングを素材にしたものと言い[13]『あしたのジョー』の主題歌を作詞したり、力石徹の葬式を挙行したり、ボクシングに一家言あるため[41]、「二度とお呼びはかからないだろうが、大作で予算も多いだろうから」と[4]、菅原のオファーを快諾した[4]。寺山は「菅原さんから『ボクサー』を撮らないかと話を持ち込まれたとき、一も二もなくOKしてしまった。私がボクシングに興味を持ったのは、その暴力のありざまの悲劇性である。それは憎くもない相手を殴り倒すことによってしか世に出られないという、いわば不条理の世界なのである。『ボクサー』の中で、二人の男が憎くない男をいかに殴るかということを学んでゆく過程は、私にとって自分史であり、そして同時に私の政治表現の一つであるかもしれないのである」[12]「一匹狼で映画を作っている者の作品もいいもんだと思わせ、知らせたい。フランシス・コッポラアングラ映画を撮っていたんだし、ナマの人間がぶつかり合う、その感動が出てくれれば...あの『ロッキー』がなぜ当たったかというと、ベトナム戦争など殺しの産業革命みたいな体験を経て、人間が裸で闘うことへの郷愁が大衆に生まれて来たんじゃないか。拳闘は最後の人間の生の闘いじゃないかと思う」[10]「『ロッキー』みたいなくだらん映画と一緒にされちゃかなわない。あれは映画的になに一つ目新しいものはない。実に退屈な映画。社会の片すみで生きる男と女のメロドラマじゃないか。ボクシングは憎くも恨みもない相手を殴り倒す商売。チャンピオンになって名誉だの栄光と言ったって中身もなんかありゃしない。それなのに、血を流してなぜ殴り合うのか。この辺が今度の映画のポイント。つまり同士打ちを通して現在の社会を眺めてみようというわけさ」[30]「悲劇的なドラマ、それがボクシングの魅力です。暴力は憎しみの感情の上に成立するものだが、ボクサーはたとえ相手が憎くなくても、いったんリングに上がれば、相手を倒すことを宿命づけられている。たったひとりのチャンピオンの栄光は、数多くのボクサーの死骸の上に成立するのです。だから本来、ボクシング映画はサクセスストーリーになり得ないのです」[42]などと話した。

寺山は東映の社内報1977年9月号に「東映の現場スタッフの情熱の激しさにうたれる」というタイトルのコメントを寄せ、「『英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ』と言ったのはベルトルト・ブレヒトです。かつて東映のヤクザ映画は『暴力を必要とする時代』に対応し、それを政治から切り離して、単独者の暴力を表出して描き大衆の支持を得ました。しかしどうやら時代は変わりつつあるようです。大衆は暴力が権力に勝ち目ないということを知ってしまったのです。『ボクサー』はいわば遅れてきた暴力映画であり、大衆に見放された暴力のロマンです。私はこの仕事を引き受けるにあたって、そうした暴力への期待と幻滅を味わった六十年代の一人のボクサー(あるいは一人の戦士)の悲惨さを、主人公の中に見出すことからはじめた訳です。と同時にこの映画を(1)大衆参加の映画の試み。街頭ボクシングシーンなどを通して。(2)ニューファミリー層からはみ出した東映の深夜映画族の失った生活の原点を探す試み(つまり、新しい東映映画のイメージ作りだす)。(3)シネマスコープでないフレーム。従来の商業映画にないカラー設計の試み。(4)分業化し、固定化しつつある商業映画の作り方と独立プロ演劇実験室天井桟敷)の共同作業により、相互的に刺戟しあい、活性化しあう新しい「映画作り」をする試み。(5)散文的(ストーリー中心)の映画から、詩的(イメージ中心)の映画へと、商業映画の概念を拡大し、映像、音楽を前面に押し出す映画(わかる映画から、感じる映画)を作る試み。(6)単に国内マーケットだけではなく、世界の映画祭などに通用する水準の「作品」をつくり、それを商業的にも成功させる試み。といったことを念頭において、ひきうけた訳です。勿論、この中のいくつかは実現し、いくつかは実現しないでしょう。しかし私がクランク・アップ寸前で得た感慨は、何よりも東映の現場スタッフの映画作りの情熱のはげしさにうたれた、ということでした。「会社の制約」ばかり口にしてきた非力な映画作家たちもいましたが、商業映画もなかなか捨てたもんではありません。思えば、フェリーニベルトリーチも皆、「商業映画」の中で、歴史に残る作品を残してきたのでした」と述べた[3]

寺山は東映で降旗康男監督のデビュー作『非行少女ヨーコ』(1966年)の緑魔子らがクラブで騒ぐシーンに出演しており[43]、降旗は「寺山さんはそのときの撮影現場が忘れられなくて、いつか自分で監督してやろうと『ボクサー』の監督を引き受けたんだそうです」と話している[43]。寺山作品が一般に受け入れられるのか、菅原がさらに新しい個性を作り出せるか等、この年秋一番の異色作として『ボクサー』の成否は東映のこれからの企画に影響するといわれ注目された[13]

脚本編集

天尾完次プロデューサーが寺山監督のため、石森史郎に脚本を発注したとされる[44]岸田理生は「それは非常にしゃべりづらい」と話している[44]。その後、石森の脚本を寺山と岸田で脚本を直す、或いは全面書き直しの作業が行われた[44]。岸田は「私自身は、そういう経緯よりも、寺山との作業でしたから、石森さんの脚本にはこだわりがなくて、今までとは違うエンターテインメントをどうつくれるかということで。エンターテインメントがどういうものか、私も寺山もよく分からないですね。私たちが考えるエンターテインメントと、いわゆるエンターテインメントとは、どうも食い違いがあるんじゃないかと思います。私たちなりに一生懸命に考えたエンターテインメントが『ボクサー』だったと思います。『ボクサー』が良かったとすれば、寺山がボクシングがほんとうに好きだったということと、物語部分を私がやったということで。私はボクシングを全然知らないんですね。寺山は男の女の話ってそんなに興味ありませんから、私の方に任せるみたいな形で出来た作品だと思います。寺山は一生に一本ボクシングの映画が作れたから幸せだったと言ってました」などと述べている[44]。寺山は主宰する「天井桟敷」の訓練には、ボクシングという項目があったというほどのボクシング好きだったという[44]。蘭妖子のミルクホール場面や泪橋の人々を出したのは寺山のアイデア[44]。 

キャスティング編集

菅原は「悲しいことに、やりたいと思っていたボクサー役は無理な年齢になってしまった」と元ボクサー役にまわった[13]。ボクサー役は菅原が「演技力よりボクサーとしてサマになるヤツを選んだと清水健太郎を抜擢した」と話している[45]。清水はチョイ役で本作以前に3本の東映映画に出演しているが[46]、これが本格的なデビュー作となる[13]。清水健太郎という芸名の"太"は菅原文太の"太"[47]。また、輪島功一具志堅用高ファイティング原田ガッツ石松柴田国明白井義男ら、日本ボクシング界の現役や元スター選手が特別出演している[3][13]

撮影編集

ボクシングのリング東映東京撮影所[48]東京都江東区東雲にあった東雲飛行場跡に作られた[42]。リングを移動させたのかは不明。また晴海木場など、1977年夏の終わりから秋の初めまで開発前の東京湾岸でトレーニングシーンの撮影が行われた[42]。リング上のボクシングシーンは、当時のWBA世界ライトフライ級王者・具志堅用高が振り付けた[34][49]。清水の初めての試合のシーンは1977年9月8日に文京区後楽園ホール[48]、相手を務めたプロボクサー・4回戦ボーイの黒井俊明(ヨネクラ)と脚本なしの芝居抜きで本気で殴り合った[11][42][48]。当時は4回戦ボーイが試合中にダウンして死亡する事件が相次ぎ(リング禍[48]、素人の清水に本物の試合をさせて批判された[48]。寺山は「これまでのボクシング映画は試合のシーンのわざとらしさが目立って仕方なかったので、清水君には過酷な注文だったかもしれないが、彼はそれによく耐えてくれた」と話した[48]。黒井は翌年、試合のKO負けで亡くなった。清水は撮影の合間をぬって連日猛トレーニングに励み[30]、具志堅とのスパーリングでは、寺山から「本当になぐられろ」と指示され[30]、アイドルなのに、殴られ、顔が腫れ、変形した[46][49]。具志堅は清水のファイトを称えた[49]。撮影で清水は、寺山、菅原、具志堅から「そうじゃない!」「何度言ったら分かるんだ!」「お前は役者じゃない!体全部で表現するんだ!」などと毎日朝から晩まで怒鳴られシゴかれ、和やかムードは一切なし[30][49]。撮影は何度も繰り返され、清水は「クソっ!こん畜生!」と心の中で叫び、季節が夏から秋に変わり、撮影の終了で「やっと戦争が終わった、とようやく張りつめた気分から解放された」と話した[49]

撮影記録編集

1977年8月10日の製作会見で、1977年8月19日クランクイン、9月2日クランクアップ予定と発表されたが[2]、この予定通り1977年8月下旬クランクイン[50]、9月クランクアップした[50]

宣伝編集

東映の宣伝担当・関根忠郎が最初に宣伝惹句を作っていたが、良いものが出来ず、菅原文太に相談して寺山修司に書いてもらおうとなり、寺山が「兄貴と呼んでもいいですか...」など、珍しく宣伝惹句を4本作成した[8][34]

当時男はほぼ長髪時代[51]ショート・カットがこれ以前に流行ったのは、慎太郎刈り潮来刈りの時代で[51]、ショート・カットを知らない理容師も多かった[51]理髪店は随分前から低成長時代であったため、降って湧いた"健太郎カット"と"文太刈り"のショート・カット押しの映画に理容組合が飛びついた[51]。主演の菅原、清水とも、髪型がショート・カットのため、再び理髪店に客を取り戻そうと東京都理容環境衛星同業組合を窓口にしてタイアップがとんとん拍子に進み[51]、全国11万店の理髪店が映画の応援についた[1][17]。「爽やか!ショート・カットの魅力」を謳い文句にポスターを製作し、全国の理髪店に"健太郎カット""文太刈り"のポスターが貼られ、前売り券も最低一店に一枚購入してもらった[17][51][52]。清水は最初に矢沢永吉みたいなリーゼントレコード会社CBSソニー)に行ったら、ソニーの宣伝部が、矢沢と同じことをやっても売れないと髪を切らせたといわれる[52]

製作費と興行編集

製作費8000万円[17]。宣伝費1億円は当時の東映通常作品の二倍[17]

人間の証明』(角川映画事務所製作・東映配給)は製作費6億7000万円[17]、宣伝費は映画5億4000万円[53]、映画4億円[17][54]、書籍7億円[53]、書籍5億円[54]、ラジオ2000万円[54]、チラシなどを含めると10億円を越える[54]。東映・東宝と組んで史上最大最強規模と称する配給興行網に乗せ[53]、かつての五社体制は分解して興行網の力が弱まり、映画は今後、企画から上映までフォローする一種のベンチャア・ビジネス化に向かうと評された[53]。『人間の証明』のテレビ・ラジオ合わせたスポットCMの量は『ボクサー』の15倍に及ぶ[17]。『八つ墓村』(松竹洋画系)は製作費3億円[17]、宣伝費2億8000万円は同社の当時の最高額[17]。『幸福の黄色いハンカチ』(松竹邦画系)は製作費8000万円[17]、宣伝費1億円は通常の宣伝費の三倍[17]。東宝は1976年秋の『犬神家の一族』同様、東京都内の洋画系の劇場を他社(東映)に貸して『人間の証明』を上映し、自社で大作を製作せず、『天国と地獄』を入場料800円と他より500円安くする低料金でリバイバル公開し『人間の証明』の余波を最小限に抑える"漁夫の利"作戦に出たため製作費0円[17]、宣伝費5000万円[17]。『ボクサー』は『幸福の黄色いハンカチ』、『天国と地獄』と同じ1977年10月1日に公開。『人間の証明』10月8日、『八つ墓村』10月29日公開[55]

1976年の10月公開の『犬神家の一族』で邦画界を席巻した角川事務所が[17]、今度は『人間の証明』で再侵略を狙う方針を発表したため、邦画各社は「皇国の興廃、この一戦にあり」と各陣営の作戦本部(宣伝部)は戦意を高揚させた[17]。1977年秋はいい洋画がなく、当時の日本映画は瀕死が伝えられていたため[17]マスメディアもこれを"邦画十月戦争"、"第二次大戦"などと取り上げ、邦画勢による興行争いを盛り上げてくれた[17][48][56]。『ボクサー』はそれほどのヒットは望めないと見なされたが[55]、異色の顔合わせで意欲的な作品でもあり、映画評論家からも「いい映画であってほしい」と切望された[10][48]。大作を向こうにまわしてまずまずの入りとするものと[55]、『ボクサー』と『天国と地獄』は穴馬的作品といわれたが不発[56]、期待したほどの成績は上がらなかったとするものがある[6]。宣伝担当の関根忠郎は「ギリチョン」と述べている[34]。同時上映だった『地獄の天使 紅い爆音』に出演した内藤やす子が映画公開直前に大麻所持で逮捕され、当時の「芸能界大麻汚染」のスキャンダル報道もあり、動員減に影響したともいわれた[15]

当時『新幹線大爆破』が海外でよく売れており[57]ヨーロッパで知名度の高い寺山修司監督の本作と海外で知名度の高い三船敏郎の出演を得られた『日本の首領 野望篇』がヨーロッパを中心に引き合いが多かったことから[57]、欧米を中心に積極的な海外セールスを掛けた[57]。成果については不明。

評価編集

受賞歴編集

作品評価編集

  • 清水健太郎は「おかげさまで評判は悪くなかった」と述べている[46]
  • 黒井和男は、「東映という日本的アクション映画の会社の番線を寺山修司がどうこなす作品を作ってくのか注目されるが、そういう興味は、いわば、プロの社会のことで、一般ファンにはあまり関係のないことだ。清水健太郎と菅原文太といういわば異色の組合せが、どう興行バリューとなるかだが、残念ながらスターシステムが観客を動員できる時代は終わりを告げている。映画を観る側の好みが、テレビでやれない力量感ある作品に走っている現在、短期決戦型の作品は稀にしかヒットしない傾向になりつつある。ここがプログラムピクチュアの泣きどころだ。映画は極端になりつつある。つまりリラックスかデラックスだ。極論してしまえばこの極端しか商売にならないのが現状だ。その意味で『ボクサー』は中途半端といえる」と論じ[50]、各社映画の封切り前に黒井は「映画の出来は『幸福の黄色いハンカチ』が一番。『ボクサー』もそれなりによくできている。しかし観客動員数からいえば、一位が『人間の証明』、二位が『八つ墓村』、三位、四位がなくて五位が『ボクサー』『幸福の黄色いハンカチ』『天国と地獄』という順でしょう。結局のところいい映画でも見ようと思う気を起こさせなくては見てもらえない。良し悪しをいうのは見てからですから。ある程度以上の映画なら、観客動員数は宣伝費に比例するんです。それに『人間の証明』や『八つ墓村』が女性、子ども向きのファッション映画、オカルト映画だという点も動員数に大きく影響してきます。映画がヒットする条件は、女、子どもに見られることなんです」などと述べている[17]小林久三は「いまの映画は、入場料1300円のうち、850円の値打ちがあればいいんです。残りはファッションを買うお金。この映画を観ないと流行に遅れちゃうという強迫観念が人を映画にかり立てる。そんな映画が結局多くの人に見られる映画になる」などと述べている[17]
  • 大久保賢一は「第3回の城戸賞を受賞した大森一樹の『オレンジロード急行』が松竹で映画化されることになったこと、第18回日本映画監督協会新人賞を受賞した『星空のマリオネット』を橋浦方人自主制作し、ATGで公開することになったのは、自主映画にとって大きな前進で、二人にその条件が与えられたのは、東宝大林宣彦に『HOUSE ハウス』を監督する機会を与え、東映が寺山修司を『ボクサー』の監督に起用したこれ以前の映画企業の動きと関係している。『ボクサー』はカメラマン・鈴木達夫の作り出す画面と、この作品でのみ生きている清水健太郎という役者、この二点だけを取り上げても力を持ち得る作品だ。寺山が東映映画を見続けてきた観客とどんな出会い方をしたか、彼はこれ以降も東映のプログラムピクチュアを撮り得るか、注目したい」などと評した[58]
  • 田山力哉は「菅原文太演じる中年男と清水健太郎演じる若者の挫折感、生きるエネルギーがよく出てなかなか面白かった」と自身が選ぶ「1977年の日本映画ベストテン」7位に挙げた[59]
  • 山根貞男山田宏一は「菅原文太と清水健太郎に寺山修司監督というんで、これは面白いんじゃないか、東映もよくやった、という期待し過ぎて肩透かしを食った感じ」と評している[34]。山根は「拳闘シーンはあるがその肉体の暴力性のシーンが作品の核心になることはなく、ただ拳闘とか闘うこととかをめぐっての心情、思い入れが画面を流れるばかり。ボクシングを描く映画だからといって、アクション映画以外のものであって悪いことはない。しかし、闘うことをめぐるセリフが全編に散りばめてある以上、そうしたセリフによる心情性よりもまず、描写としてのアクションがなければなるまい。『ボクサー』が象徴するのは、どんな形であれ暴力を描こうとすれば、暴力性ではなく、暴力をめぐって余計な抒情的感慨ばかりが作品に纏いついてくるという、現在の映画のありようである」などと論じている[60]
  • 堤昌司は「『あしたのジョー』似のストーリーだが、登場人物が多彩で"寺山ワールド"は健在」と評価する[9]
  • 大槻ケンヂは「ボクシングファンで、ボクサーに憧れていた寺山がボクシング映画を撮ろうと思った気持ちはよくわかる。しかしアングラ演劇人の撮るボクシング映画なんて、よく企画が通ったものだ。この映画はボクサーを目指す青年と中年トレーナーの"活劇"シーンと、彼らの周りにいる妖しげな貧乏人たちの"アングラ演劇"的シーンにくっきり区分けされた不思議な構成の映画だ。"活劇"シーンはさておき、スゴいのは"アングラ演劇"シーンである。もう何というか露骨に天井桟敷。単に『田園に死す』の世界なんである。これがまた"活劇"の方とまったく噛み合っていない。ソビエト映画とインド映画を同時に輸入して無理矢理一本にまとめたようなアンバランスなのだ。一言で言ってただの失敗作なわけだけど、失敗の仕方、破綻の仕方があまりにスゴすぎて、立派なおマヌケ映画に昇格した怪作である。いつかボクは『おマヌケ映画祭』を開催したいと思っている。世界中からよりすぐられたおマヌケ映画の数々が一堂に会し、満場の客席からは『ブラボー』の声と喝采が鳴り響く『第一回世界おマヌケムービーフェスタ』。上映第一回作品は、我が愛する『ボクサー』だ。この映画を見て、ロジャー・コーマンは言うだろう。『この映画を撮った男は狂気に近い才能を持つ天才に違いない!』 答えてボクは彼にこう言いたい。『ミスターコーマン。まさにその通り。寺山こそ、狂気に近い才能を持つ天才でした』と」などと評している[16]
  • 岩井俊二は「革命的に感動したのは『ボクサー』です。なんじゃこりゃって。当時、僕のばーちゃんやおじさんも寺山が好きで、みんなで寺山、寺山って盛り上がって、文芸坐なんかではしかにかかったように嵌って見まくった。カルチャーショックでしたね。でも好きなのは、青森をどうのこうのという部分より、耽美的なヴィジュアルの部分です」などと述べている[61]。岩井の2011年の自作『ヴァンパイア』で"レディーバード"というハンドルネームの女性の地下室の天井に空の写真が貼ってあったのは『ボクサー』のパクリという[62]

同時上映編集

影響編集

岡田茂東映社長と天尾完次東映東京撮影所企画部長が[63]、清水健太郎を東映で大々的に売り出そうと『ボクサー』に続いて、1978年の正月映画の主演に清水主演で『紅の翼』の製作を決定していた[48][63][64]。清水の所属する田辺エージェンシー田邊昭知社長にも了解を得て当初は田辺サイドも乗り気であった[64]。『紅の翼』は1959年日活映画石原裕次郎の人気を決定的にした作品で、健太郎を主役にして裕次郎のケースと同じように「裕次郎以来の大スターに育てたい」と計画[63]、1977年10月20日のクランクインを予定していた[48]。東映スターではなく他社のスターの後継を育てたいという力の入れようで、1977年9月20日に東映と関東地方の映画館主との親睦を計る関東東映会が京都国際ホテルで開かれ、この席上、岡田社長が「正月映画は、菅原文太の『トラック野郎』と清水健太郎の『紅の翼』でいきます」と明言すると、出席した館主たちから「その2本ならヒット間違いなし」と盛大な激励の拍手が送られた[63]。『紅の翼』の製作費は3億円を予定した超大作で[63]、『トラック野郎』の併映作というより両メイン作であった[63]。脚本も完成し、1977年10月1日に封切られる『ボクサー』の看板の横に『紅の翼』の衣装を着た清水のポスターを貼る予定でスタジオなど手配済み[63]マスメディアにも非公式に製作を伝えていたため、製作会見はいつやるのかという問い合わせが殺到していた[63]。東映が他社作品をリメイクするのは異例で、1977年春に石原裕次郎ら、日活黄金時代のスターたち40人が「日活仲間の会」を組織し、映画製作を構想し[65][66]、岡田社長が全面協力を申し出ていたことから[65][66]、『紅の翼』の企画選定はその関係かもしれない。また、渡瀬恒彦が2015年のインタビューで、「当時(1970年代後半)岡田茂さんの命令が出たら、製作から公開までに半年かからないでしょうね。でも今は『一本の映画を半年で作れ』って言われても無理ですよ」と話していることから[67]、『ボクサー』も清水健太郎を最初から東映で売り出すという構想があっての主演起用と見られる。ところが1977年9月27日、東京銀座の東映本社に田邊昭知田辺エージェンシー社長が訪れ、田邊と岡田、天尾の三者会談が行われ[63]、田邊が岡田に「うちの健太郎を正月映画から降ろして欲しい」と申し入れた[63]。清水は「失恋レストラン」の大ヒットで、この年暮れの各賞レースはダントツの最優秀新人賞候補でもあったが[63]、田邊は降板理由について、自社の関係者の耳に、清水は来年(1978年)は歌よりも映画の仕事がメインになるらしい。だから、歌謡界の今年の新人賞は"欲しくない"と田辺エージェンシーでは言っているそうだ、という根も葉もない噂が入ってくるようになり[63]、噂の出所は不明だったが、これを忠告と真摯に受け止め、清水の所属するCBSソニーも「大切な今の時期に、いろいろなことに手を出すのはマイナス。映画出演はしない方がいいい。彼には作詞、作曲の才能もあるので、もっと音楽を極めるべき」という考えで、田邊も「健太郎は映画俳優ではなく歌手。新人賞が欲しくないわけがない」という意見が一致し、噂を否定するにはいくら口で言ってもダメ。何らかの形で表さないければならない、という結論に達したと説明した[63]。口約束とはいえ、つい一週間前に東映社長が大切な映画館主に直接名言した言葉は重く、どんな理由があるにせよ、田邊サイドから「降ろしてくれ」と言われても承服できるものではない[63]。岡田は田邊に「君はもっと骨っぽい男だと思っていたんだが、そうでもなかったんだな」と責任を問い質したが、田邊は「なんといわれようとも、これだけは譲れません。社長、分かって下さい」と懇願し、「申し訳ない」と頭を下げるものの一歩も譲歩せず、話し合いは堂々巡りで延々と続き、この日は結論が出ず[63]。東映はパニックに陥り、天尾は「私どもの準備がほとんど出来上がっているのに、急に出られないなんていってくるのはケシカラン話。ボクの首を賭けても辞退はさせません」などと息巻き[63]、東映本社宣伝部は仕事柄、全ての手配を先行していてオール発注済で、小野田啓東映宣伝部長は「このまま清水君が出演辞退ならボクは辞職か、責任を取らなければならない」と話したが[63]、結局、田邊が清水の降板を譲らず、『紅の翼』は製作が中止され、清水は撮影期間が短期間で済む『トラック野郎・男一匹桃次郎』の出演に回った[64]。元々『紅の翼』ではロケも多くなることが予想され、年末にかけて歌番組の仕事が増える時期に清水のスケジュール確保が難しいのではないかと危惧されていて、音楽業界の事情を把握できてない作品選定もマズイという指摘もあった[64]。『紅の翼』に代わる併映作には製作期間も短いため、家族そろって楽しめる喜劇歌謡映画が候補に挙がり[64]、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が急遽製作された。同作の監督・山口和彦は「『空手バカ一代』『サーキットの狼』『ビッグマグナム 黒岩先生』『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、全部、僕が企画を出したんだ。あの頃は何でも映画にできたけど、会社は他に企画がなかったのかな(笑)」などと述べている[68]

脚注編集

  1. ^ a b c 「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1977年10月下旬号、 180頁。
  2. ^ a b c d e f “東映『ボクサー』製作の楽屋 社長屈服のヤング力の企画”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1977年8月20日) 
  3. ^ a b c 東映の軌跡 2016, pp. 258.
  4. ^ a b c d e f “秋の映画界異色作 『北村透谷ーわが冬の歌』 4年ぶり山口監督 菅原文太が推進役 寺山修司監督『ボクサー』”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1977年8月17日) 
  5. ^ ボクサー”. 日本映画製作者連盟. 2018年11月16日閲覧。
  6. ^ a b c d シネアルバム 1978, pp. 201-202.
  7. ^ 山根貞男『日本映画時評集成 1986ー1989』国書刊行会、2016年、79頁。ISBN 978-4-336-05483-8
  8. ^ a b c d e 【映画惹句は、言葉のサラダ。】第10回 ボクシング映画は、惹句にも名作が多い。その理由は?
  9. ^ a b c 日本映画名作完全ガイド 2008, p. 191.
  10. ^ a b c d 「邦画マンスリー 今月の新作紹介」『ロードショー』1977年11月号、集英社、 185頁。
  11. ^ a b c 「〔シネ・スポット邦画〕秋の映画は、こいつらで決まった 『やはりプロのパンチはすごい! 『ボクサー』 清水健太郎」『月刊明星』1977年11月号、講談社、 190頁。
  12. ^ a b 寺山修司の戯曲 1987, pp. 333-335.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 八森稔「話題の映画『ボクサー』とは?」『キネマ旬報』1977年10月上旬号、キネマ旬報社、 50-51頁。
  14. ^ a b c d 「邦画マンスリー 『新宿酔いどれ番地/人斬り鉄』」『ロードショー』1977年5月号、集英社、 181頁。
  15. ^ a b c “邦画景況”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1977年10月8日) 
  16. ^ a b 大槻ケンヂ「国際おマヌケ映画際に『ボクサー』を」『現代詩手帖』1993年4月号、思潮社、 150-152頁。
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 森田秀男「売り上げ50億を狙う"邦画十月戦争"の内幕 『八つ墓村』『人間の証明』など五つの大作・佳作が激突」『週刊朝日』1977年10月14日号、朝日新聞社、 28-30頁。
  18. ^ a b 「映画界東西南北談議 拡大・長期興行で巻返し狙う邦画陣 超大作を揃えて"邦高"へ前進する各社」『映画時報』1977年7月号、映画時報社、 10頁。
  19. ^ 山根貞男『日本映画時評集成 1986ー1989』国書刊行会、2016年、79頁。ISBN 978-4-336-05483-8
  20. ^ スピード・アクション 2015, pp. 46.
  21. ^ 高橋英一・鳥畑圭作・土橋寿男・西沢正史・脇田巧彦・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 低迷を続ける東映の今後」『キネマ旬報』1977年8月下旬号、キネマ旬報社、 190 - 191頁。
  22. ^ a b 「〔ショウタウン 映画・芝居・音楽げいのう街〕」『週刊朝日』1976年1月23日号、朝日新聞社、 36頁。
  23. ^ 「興行価値 日本映画 東映・松竹激突」『キネマ旬報』1976年新念特別号、キネマ旬報社、 198–199。
  24. ^ a b c 狂おしい夢 2003, pp. 50-51.
  25. ^ スピード・アクション 2015, pp. 114-119.
  26. ^ 「邦画界トピックス」『ロードショー』1976年10月号、集英社、 175頁。
  27. ^ 活動屋人生 2012, pp. 82-86.
  28. ^ 「映画界の動き 東映、見世物映画へ大転換」『キネマ旬報』1976年9月上旬号、キネマ旬報社、 179頁。「邦画指定席 沖縄やくざ戦争」『近代映画』1976年10月号、近代映画社、 171頁。
  29. ^ 佐藤忠男山根貞男『シネアルバム(52) 日本映画1977 1976年公開映画全集』芳賀書店、1977年、22頁。
  30. ^ a b c d e f g h i “〈娯楽〉 東映『ボクサー』に寺山修司監督 『僕の映画論試すいいチャンスだ。"ロック―"なんかと違うよ』”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1977年9月13日) 
  31. ^ 活動屋人生 1995, pp. 87-125、242-245.
  32. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、182-184頁。ISBN 4-87932-016-1
  33. ^ “〈娯楽〉 テレビの人気シリーズ 水戸黄門映画化へ 東映と松下電器提携で 出演者ら同じ顔ぶれ 宣伝効果など共に大きな利点が”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1977年10月4日) “〈邦画界〉 一本立てへ急傾斜 好調な配収に自信もつ”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1977年11月9日) 高橋英一・島畑圭作・土橋寿男・西沢正史・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 低迷を続ける東映の今後」『キネマ旬報』1977年8月下旬号、キネマ旬報社、 190 - 191頁。高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 多様化する東映の製作システム」『キネマ旬報』1977年10月上旬号、キネマ旬報社、 206 - 207頁。
  34. ^ a b c d e f 惹句術 1995, p. 129.
  35. ^ a b c クロニクル東映Ⅱ 1995, pp. 6-7、64-65.
  36. ^ 東映の軌跡 2016, pp. 260-261.
  37. ^ a b 活動屋人生 2012, pp. 87-100、102-113.
  38. ^ 中川右介『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』角川マガジンズ、2014年、86頁。ISBN 4-047-31905-8
  39. ^ a b c 狂おしい夢 2003, pp. 16-18、39-41.
  40. ^ a b 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、431-433頁。ISBN 4-87932-016-1
  41. ^ 死してなお影響力を増す「寺山修司」って? 現代オタクカルチャーの先駆者でもあった!
  42. ^ a b c d 「映画『ボクサー』で壮烈なしごきに耐える清水健太郎に密着取材 『歯の2、3本折れたっていいんだ』」『週刊セブンティーン』1977年10月4日号、集英社、 36-39頁。
  43. ^ a b 「『憑神』DVD記念『降旗康男監督、映画生活50年を語る』文・金澤誠」『東映キネマ旬報 2007年冬号 vol.20』2007年11月20日、東映ビデオ、 13-14頁。
  44. ^ a b c d e f 桂千穂「桂千穂〈作家訪問インタビュー〉 クローズアップ・トーク 第48回ゲスト 岸田理生 『ー寺山修司は偉大なる病原菌ー』」『シナリオ』1993年7月号、日本シナリオ作家協会、 8-9頁。
  45. ^ 「〈フェイス'77〉 清水健太郎 男くささで人気上昇中の新人歌手」『週刊文春』1977年9月22日号、文藝春秋、 5-7頁。
  46. ^ a b c 風知る街角 1978, pp. 146–147.
  47. ^ 風知る街角 1978, p. 55.
  48. ^ a b c d e f g h i j 「内幕ニュース 映画『ボクサー』の撮影でノックアウトされた清水健太郎にバッティングの後遺症 迫力実写シーンは健太郎につらかった!?」『週刊平凡』1977年9月29号、平凡出版、 150-152頁。
  49. ^ a b c d e 「フォトアングル『アイドルからの出発(たびだち) 翔んでる青春ー清水健太郎」『mimi』1977年11月号、講談社、 49 - 53頁。
  50. ^ a b c 黒井和男「興行価値」『キネマ旬報』1977年10月上旬号、 206-207頁。
  51. ^ a b c d e f “みみコーナー〈健太郎カットと文太刈り〉 商売に御利益? 喜ぶ床屋さん”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1977年9月28日) 
  52. ^ a b 「'77歌謡界をふりかえって レコード会社宣伝マン座談会 B・C・R旋風から大賞候補ジュリーまで」『mimi』1978年1月号、講談社、 49-53頁。
  53. ^ a b c d “映画界今年の回顧 担当記者座談会 『収入は洋画と五分に だが大半は相変わらずの四苦八苦”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1977年12月20日) 
  54. ^ a b c d 「邦画マンスリー 邦画トピックス」『ロードショー』1977年10月号、集英社、 189頁。
  55. ^ a b c 「邦画マンスリー 洋画に大攻勢をかけた秋の大作戦線と、転換期を迎えた邦画界」『ロードショー』1977年12月号、集英社、 189頁。
  56. ^ a b シネアルバム 1978, p. 204.
  57. ^ a b c “東映『新幹線大爆破』外地レポ”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1977年10月29日) 
  58. ^ シネアルバム 1978, pp. 137-139.
  59. ^ 田山力哉「邦画マンスリー 1977年の日本映画ベストテン」『ロードショー』1978年2月号、集英社、 260頁。
  60. ^ シネアルバム 1978, pp. 83-84.
  61. ^ 「特別対談 前編 岩井俊二×樋口尚文 『岩井俊二の映画的気憶を辿って...』」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1995年9月上旬号、 56-58頁。
  62. ^ 岩井俊二監督「ヴァンパイア」は“ロス”になるほど「一番すっきりできた作品」
  63. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「清水健太郎が決定していた正月映画『紅の翼』に突如出演拒否!大騒動 東映と大喧嘩 3億円をかけて彼を大スターに仕上げるための映画だったのに、いったい何が起こった…」『週刊平凡』1977年9月11号、平凡出版、 36-38頁。
  64. ^ a b c d e 「百恵・友和/ひろみそしてモリケンの作品が出揃う楽しみなお正月娯楽作品」『近代映画』1977年12月号、近代映画社、 102-104頁。
  65. ^ a b 「〈Bunshun Who' Who〉 東映にとられるか 元日活"花のスター"石原裕次郎、吉永小百合etc.達」『週刊文春』1977年4月24日号、文藝春秋、 24頁。
  66. ^ a b 「邦画トピックス」『ロードショー』1977年7月号、集英社、 239頁。
  67. ^ スピード・アクション 2015, pp. 113.
  68. ^ 「山口和彦インタビューPARTⅡ」『映画秘宝』2006年6月号、洋泉社、 88頁。

参考文献編集

外部リンク編集