藤子不二雄A
藤子 不二雄Ⓐ(ふじこ・ふじお・エー)こと安孫子 素雄(あびこ もとお、1934年〈昭和9年〉3月10日 - 2022年〈令和4年〉4月7日[1])は、日本の漫画家、エッセイスト作詞家、タレント、俳優。藤本弘(藤子・F・不二雄)とともに藤子不二雄として活動した。共作の『オバケのQ太郎』や『忍者ハットリくん』『怪物くん』『プロゴルファー猿』『笑ゥせぇるすまん』『まんが道』などの作品で知られる。
藤子 不二雄Ⓐ | |
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本名 | 安孫子 素雄 |
生誕 |
1934年3月10日![]() |
死没 |
2022年4月7日(88歳没)![]() |
国籍 |
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職業 | 漫画家 |
称号 |
氷見市名誉市民 旭日小綬章 |
活動期間 | 1951年 - 2022年 |
代表作 |
『オバケのQ太郎』(共作) 『忍者ハットリくん』 『怪物くん』 『プロゴルファー猿』 『魔太郎がくる!!』 『笑ゥせぇるすまん』 『まんが道』 |
受賞 |
第34回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞 (全作品に対し) 藤本真澄賞・山路ふみ子特別賞 (映画『少年時代』) 第18回手塚治虫文化賞特別賞 |
来歴編集
富山県氷見郡氷見町(現:氷見市)にある仏教曹洞宗の古刹である光禅寺第49代住職安孫子耕玉の長男として生まれるが[2]、1944年に父が急逝し、親族を頼って高岡市に転居した。転入先の高岡市立定塚国民学校(のち高岡市立定塚小学校。2022年閉校)で藤本弘と知り合う[3][4]。小学校時代から漫画家を志し、富山県立高岡高等学校在学中、1951年に漫画制作を始めて『毎日小学生新聞』でデビュー[5]。
高校卒業後の1952年、伯父の鍋島弘蔵が専務を務める富山新聞社(現・北國新聞富山本社)に入り[6][7]、学芸部と社会部で似顔絵やインタビュー記事を担当。1954年、藤本に誘われる形で富山新聞社を退社。藤本と共に漫画家となるために上京する。後がない藤本と違って(藤本は製菓会社をすぐに退社した[3][注 1])、安定したサラリーマン生活がある安孫子は新聞社に未練があったと語っており、好意を抱いていた後輩社員がいたのもその理由である。この藤本の誘いを母に相談しており、母の言われた通りにしようと思っていたが、予想外に「好きにしなさい」と言われ、悩んだ挙句に夢の道に進むことを選んだ[3]。退社の件を、当時社長になっていた伯父に話すと激怒されたという。
その後、上京して、連載が飛び込む人気作家になるものの、里帰りと共に連載8本落とすという失態をしてしまう。
その後、『オバケのQ太郎』『忍者ハットリくん』『魔太郎がくる!!』などのヒット作にめぐまれる。厳密には2人の合作によるヒット作は『オバケのQ太郎』が最後であり、これ以降は藤子不二雄名ではあっても、そのほとんどはどちらかの単独作品である。
1987年にコンビを解消し、藤子不二雄Ⓐとして活動するようになる。コンビ解消後は映画『少年時代』をプロデュースするなど多彩な才能を見せる。詳しくは「藤子不二雄#来歴」を参照。
文章にも優れ、『二人で少年漫画ばかり描いてきた』などエッセイに才能を発揮している。これらはコンビ時代から安孫子の執筆であることを明記してあるものが多い。
2015年、『ジャンプスクエア』の連載『PARマンの情熱的な日々』を12月号をもって休載することを発表[8]。その後、新連載を打診するも旧知の編集者が定年退職しており、現役の編集者に知り合いがいなかった為、話が進まなかった[9]。追悼放映された『クローズアップ現代』によるとトキワ荘をテーマにした作品で、番組内では下書き原稿も公開された。
2019年には、富山市の高志の国文学館にて、特別展「藤子不二雄Ⓐ展 -Ⓐの変コレクション-」が開催された[10]。
2021年には、BSのテレ朝ch2で『ウルトラB』が代表作と番宣で大々的にスポットが流れ話題を集める。
2022年4月7日8時40分頃、川崎市多摩区内の自宅の敷地で倒れているところを発見され、その場で神奈川県警による調査により死亡が確認された[11][12]。88歳没。同年10月31日、東京都内で「お別れの会」が開かれた[13]。
受賞・受章歴編集
人物編集
ベジタリアン(卵と乳製品は食べる卵乳菜食)であるが、思想上の理由ではなく、実家が寺院で幼少の頃は精進料理ばかり食べていたため、習慣上の問題として肉や魚を体が受け付けなくなっていることが原因だという。また、身体が受け付けないだけで毛嫌いしているわけではなく、肉・魚料理などのガイドブックやレシピを見ては「いいなぁ、おいしそうだなぁ」と思いながら眺めるのが楽しみの一つだと語っている[15]。駆け出し時代にアシスタントに行った手塚治虫が出前に取ってくれた鰻重を一切れ食べたその直後(3秒足らず)に大量の鼻血を出したと回想している(本人曰く「まさに漫画のようだった」)。一方で、トキワ荘近くの中華料理店「松葉」の東京ラーメン(スープは鶏ガラ系)が好物らしく、出汁やエキスであれば問題はないらしい。また2007年より『ジャンプSQ』で連載中の『PARマンの情熱的な日々』でもハンバーガーを食べている描写があり[要ページ番号]、また2014年10月号では、高知旅行の際に産まれてはじめて「カツオのたたき」を食し、それを非常に気に入ってしまったと言うエピソードが掲載されている。まんが道の続編にあたる『愛…しりそめし頃に…』では自身をモデルとした主人公「満賀道雄」は小料理屋で魚が食べられない代わりに貝料理を食べるなど、ある程度の動物食は可能な描写がされている。
この食習慣のせいか、いわゆる「血液サラサラ」であり、夜遅くまで酒宴に付き合っても、翌日に酒が残ったことがないと語り、また、生まれてから一度も病気になったことが無かったという。しかし、2013年春、上行結腸癌(大腸癌)が発覚、“人生初の病気”にかかり、東京医科大学病院に入院、手術を受けた。故郷の村にて藤子・F・不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、手塚治虫らに「こっちに来い」と言われる夢を見たと言う[16]。約1年後、再び腹部に強い痛みを覚え検査を受け腸閉塞と診断され入院。2015年3月初旬、ゴルフのプレイ中に失神、東京医科大学病院へ救急搬送される。検査の結果心不全の診断を受け、入院。約3週間、点滴や投薬の治療を受け快復した[17]。
大の犬好きで、作中にもよく犬が出て来る。また、かつて飼っていた秋田犬の名を「Q太郎」と名づけたこともある。『タカモリが走る』という、犬が主人公の作品も執筆した。
船、船旅を好み、「クイーンエリザベス2世号」の乗船経験もある。
幼少時から漫画よりも先に映画好きであり、初期の作品に大きな影響が見られる。このため、藤子・F・不二雄、鈴木伸一、つのだじろうらと8mmカメラで西部劇を撮影したこともある。この映画は撮影時間の都合上未完に終わるも、後にTVドラマ『ケンちゃんチャコちゃん』の劇中劇で、ガンマン役として藤子・F・不二雄と共演して決着を付けた。
スポーツはゴルフを非常に好んでおり、晩年も頻繁にプレイしていた。ゴルフへの愛情は『プロゴルファー猿』によく表れている。作中に登場する必殺技的ゴルフ技術のほとんどは創作によるものであるが、『旗包み』に関してはかつて『日刊ゲンダイ』のインタビューで「東京よみうりCCの11番ショートホール。風の強い日で、5Iで打った球が一瞬消えて、『どこへ行ったか』と思ったら次の瞬間、旗に絡まって落ちてカップイン。“これは使えるなぁ~”と思いましたね」と明かした[18]。自身のプレイ中に偶然ショットしたボールが旗に当たってそのまま落ちカップインしたことを、「岩返し」も同様に狙いが外れて岩に当たってしまったボールが偶然跳ね返ってオンしたことをヒントにしているという。だが、これらはやはり偶然の出来事に過ぎず、プロゴルファーの大御所青木功がテレビ番組の企画で旗包みに挑戦したものの成功はせず、狙って行うことはほぼ無理ということが判明している。『笑ゥせぇるすまん』にもゴルフのエピソードが何話か登場している。
1970年頃、つのだじろうに誘われて、極真会館へ半年ほど入門していたことがある[19]。その後、大山倍達の提案により、名誉初段を授与されている。
様々なパーティ・飲み会に顔を出し、バラエティのレギュラー番組を持つこともあったなど、非常に社交的で老若男女問わず友人が多いことで知られているが、その割には意外にもシャイな性格だという。そのため相手を「君」「さん」などで呼ぶのが苦手で、二人称は名字に「氏」を付けて呼ぶことが多い。初対面の手塚治虫に「氏」を付けて呼ばれたこと、「“君”付けで馴れ馴れし過ぎないか、“さん”づけだと距離が遠くないか…」などと気になってしまうのも理由の一つという。和代夫人のことも名前のみで呼ぶのは恥ずかしいという。エッセイ漫画では和代夫人を「ワイフ」「和代氏」「ワイフの和代氏」と書くことがある[注 2]。子供の頃は人前でよく赤面することから「電熱器」というあだ名があった。
「失踪日記」で数々の漫画賞を受賞した、吾妻ひでおの受賞祝賀パーティでは、来賓として挨拶し「藤子不二雄として沢山賞を貰ったが、あれは全部藤本(藤子・F・不二雄)の作品です。僕は貰ってません」などとユーモアに富んだ祝辞を贈り、会場を沸かして健在ぶりを周囲に印象付けた(ちなみに安孫子自身も別記に受賞歴がまとめられているように、単独でも多くの漫画賞を受賞している)。
幼少の時から日々のことを書き留めており、トキワ荘入居時代の日記は単行本化もされた。それが『まんが道』などの作品に反映されている。
「尊敬する漫画家は?」と質問される場合、必ず「手塚先生と藤本君です」と答えている。特に元相棒の藤子・F・不二雄に対する想いは誰よりも強いようで、ことあるごとに「藤本君は天才だ」「彼がいなければ僕は漫画家にはならなかったと思う」と力説している。
自らの作品がパチンコ・パチスロ機の題材とされることに対し寛容で、これまでに以下の作品がパチンコ・パチスロ化されている(2018年現在)。藤子・F・不二雄作品がこれまで一度もパチンコ・パチスロ化されたことがないのとは対照的である。(以下パチンコは「P」、パチスロは「S」表記)
- 『忍者ハットリくん』(P・S:大一商会)
- 『怪物くん』(P:大一商会・奥村遊機)
- 『プロゴルファー猿』(P:大一商会・タイヨーエレック、S:スパイキー)
- 『笑ゥせぇるすまん』(P:奥村遊機、S:三洋物産)
20代からサングラスを愛用している。これは白い原稿用紙の反射光で目を痛めたからである。後に片目は白内障の手術を受けており、吉行淳之介に医者を紹介したこともあった。
『まんが道』等の自伝的作品ではほとんど登場しないが、トキワ荘時代の1955年12月頃に安孫子の姉である喜多枝が上京して同居し、食事の世話やベタ塗りやホワイトといった簡単な手伝いをするようになった[20]。藤子スタジオ設立後は正式にマネージャーとなり、コンビ解消前の藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐのサポートを行っていた。
座右の銘は「明日にのばせることを今日するな」。
作品編集
当初は児童漫画に取り組んでいたが、児童漫画の執筆が苦痛になり、「このままではダメになる」と藤本のマネージャーへの転身も検討したが、青年誌から依頼された『黒ィせぇるすまん』を機に児童漫画から撤退[21]。その後は興味のおもむくままに、怪奇趣味的な漫画、マージャンやギャンブルを題材とした漫画、エッセイ漫画、そしてゴルフ漫画などを手がけ、その結果、ジャンルは幅広い物になった。また、ジャズの即興音楽のようにネームを切らずにそのまま話を描き上げたりもする。
過去に仕事を引き受けすぎ、作品の多くを(二人合わせて8本中6本)落としたことを恥じて、それ以降一度も原稿の締め切りを落としていない。
「ギニャー!」「ンマーイ!」「ギャース!」「ンマー!」…といった独特の叫び声(描き文字)が特徴的である。
作調は1960年代は『忍者ハットリくん』『フータくん』等の比較的穏やかな作品が多かったが、1970年代前半からはブラックユーモア色の強い『オヤジ坊太郎』、『狂人軍』などの児童ギャグ漫画が増え、『笑ゥせぇるすまん』、『魔太郎がくる!!』などの怪奇路線にも傾倒する。1970年代後半は『まんが道』『少年時代』などドラマ色の強い作品が増え、1980年代以降は毒の強い作調の児童ギャグ漫画は少なくなった。その一方で青年誌にブラックユーモア色の強い作品を多く執筆するようになり、晩年はエッセイを主に執筆していた。
代表作編集
- 忍者ハットリくん
- 忍者の里、伊賀から忍術修行のため上京したハットリくんが、様々な騒動を巻き起こすギャグ漫画。居候先の三葉ケン一との友情やギャグも描く一方で、様々な忍術を読者に紹介する教養的要素も盛り込まれている。1964年から1968年まで『少年』にて第1期が連載され、1981年から1988年まで『月刊コロコロコミック』にて第2期が連載された。藤子・F・不二雄が描いた『パーマン』との共演作品もある。
- 二度劇場化もされたほか、2004年には香取慎吾主演で実写映画『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』が公開されている。
- 怪物くん
- 様々な怪物が棲む怪物ランドから人間界へやって来た不思議な少年、怪物くんとそのお供であるドラキュラ、オオカミ男、フランケンが巻き起こす騒動を描くモンスターギャグ漫画。友達となったヒロシ少年と共に不思議な力を使って人間界で活躍する。1965年から1969年まで『少年画報』にて連載。また、1967年から1969年まで『週刊少年キング』でも連載された。1991年からはスピンオフ作品としてデーモン族の王子デモキンが主人公の『プリンス・デモキン』も執筆されている。
- 藤子不二雄のアニメ作品参照
- プロゴルファー猿
- 賭けゴルフを生業とする野生児、猿谷猿丸(さるたに さるまる、通称:サル)が様々なゴルファーとの対決を繰り広げた末にプロテストに合格するまでを描く少年漫画初のゴルフ漫画。現実離れした荒唐無稽なキャラクターや技、ゴルフコースが多く登場する。初期の段階ではゴルフ用語を説明しつつ、ゴルフの楽しさを読者に伝えようと意図していた[22]。1974年から1980年まで『少年サンデー』(週刊、増刊)で連載された。また、1982年から1988年まで『コロコロコミック』(月刊、別冊)にて内容をより低年齢向けとした『新プロゴルファー猿』が連載された。1999年には『ビッグコミック』で20年振りの新作『サル』が不定期連載された。
- 1985年 - 1988年 テレビ朝日系でアニメ化。
- 1988年 新プロゴルファー猿がテレビ朝日系でアニメ化。
- 藤子不二雄のアニメ作品参照
- 魔太郎がくる!!
- 典型的ないじめられっ子中学生、浦見魔太郎(うらみ またろう)が、いじめっ子や傍若無人な連中などから受けた激しい苛めに対してオカルティックで壮絶な復讐を行うホラー漫画。魔太郎は超魔術「うらみ念法」の使い手であり、全国のいじめられっ子のうっぷんを代弁し、それを豪快に晴らしていくカタルシスに満ちた作品。1972年から1975年まで『週刊少年チャンピオン』で連載された。
- せぇるすまんシリーズ
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- 笑ゥせぇるすまん
- 不気味な謎のセールスマン、喪黒福造(もぐろ ふくぞう)を主人公としたブラック・ユーモア漫画。喪黒福造は「ココロの隙間、お埋めします」と称して、毎日の生活に大なり小なり不平不満を抱える人々に、それらを解消する様々な物品やチャンスを与えていく。与えられた人々は暫くの間、幸福(またはそれに準ずるもの)を得るのだが、その甘い一時に欲望を惹起され、結果として不幸のどん底に転落してしまうという、人間のエゴを痛烈に諷刺した物語である。1969年から1971年まで『漫画サンデー』で『黒ィせぇるすまん』として連載されたが、後年TBS系列情報番組『ギミア・ぶれいく』の1コーナー[注 3]としてアニメ化された際に「笑ゥ〜」と改題された。1999年、テレビ朝日系列でテレビ・ドラマ化された際には安孫子自ら演出をつとめた。また2017年には『笑ゥせぇるすまんNEW』のタイトルで再アニメ化され、TOKYO MX他の深夜アニメ枠「あにめのめ」で放送された。
- 他のせぇるすまん
- 帰ッテキタせぇるすまん(1996年 - 2000年)
- 踊ルせぇるすまん(2001年)
- 喪黒福次郎の仕事(1997年 - 1998年) - 喪黒福造の弟が主人公として登場し、兄とは正反対に困った人の手助けをしている。
- まんが道
- 藤子不二雄の自伝的漫画。漫画家を目指す2人の少年、満賀道雄(まが みちお、藤子不二雄Ⓐ自身がモデル)と才野茂(さいの しげる、藤子・F・不二雄がモデル)の成長を描いた長編青春漫画である。1970年から1972年まで『週刊少年チャンピオン』で担当した漫画の描き方講座「チャンピオンマンガ科」の後半2ページ、1977年から1982年まで『週刊少年キング』、1986年から1988年まで『藤子不二雄ランド』にて連載された。続編の『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春』が『ビッグコミックオリジナル増刊』で1995年から2013年まで連載され完結し、通算して43年の歴史に幕を下ろした。NHKで2度に渡りドラマ化された[23]。
- オバケのQ太郎
- ごく普通の家庭に住み着いたオバケのQ太郎が引き起こす騒動を面白おかしく描いた生活ギャグ漫画。オバQブームと呼ばれる社会現象を巻き起こした。藤子・F・不二雄との共著だが、本格的な合作としてはこの作品が事実上最後となった。1964年から1966年まで『週刊少年サンデー』などで連載された。1971年から1974年に連載された『新オバケのQ太郎』は、藤子・F・不二雄の主導で製作され、安孫子は一部の作画以外は関与していないとされる。三度にわたってアニメ化された(1965 - 1967年、1971 - 1972年、1985 - 1987年)。
- 少年時代
- 作家柏原兵三の小説『長い道』を漫画化した作品。戦時中に東京から縁故疎開してきた進一が疎開先の少年達と過ごす感動物語。1978年から1979年まで『週刊少年マガジン』で連載された。1990年には自らのプロデュースで東宝系で映画化された。井上陽水の代表曲『少年時代』はこの映画の主題歌であり、安孫子自ら親交のある井上に作曲を依頼した。
- ブラック・ユーモア短編
- 1968年の読切『黒イせぇるすまん』(初出時はこの表記)に始まる、ブラックユーモアを基調とした短編作品群。後に『魔太郎がくる!!』や『シャドウ商会変奇郎』、『笑ゥせぇるすまん』などの連載作品に昇華する。
その他編集
※以下は全ての作品を列挙したものではない。
ギャグ編集
- どんぐりくん(1954年 - 1955年、清水春雄の代筆)
- どんぐり名探偵(1958年 - 1959年)
- わが名はXくん(1958年 - 1962年)
- フータくん(フータくんNOW!)(1964年 - 1967年、1982年 - 1983年)
- わかとの(サンスケ、怪人わかとの)(1964年 - 1965年、1968年)
- 狂人軍(1969年 - 1970年)
- 仮面太郎(1969年 - 1970年)
- ビリ犬(1969年、1989年)
- マボロシ変太夫(1971年 - 1972年)
- 無名くん(1971年 - 1976年)
- かっぱのカッポ(1972年 - 1974年)
- 添乗さん(1973年 - 1974年)
- さすらいくん(1973年 - 1981年)
- 旦ベエ(1974年)
- オヤジ坊太郎(1975年‐1976年)
- ゲゲゲのゲー(1975年)
- ミス・ドラキュラ(1975年 - 1980年)
- オレ係長補佐(1975年)
- ウルトラB(1984年 - 1989年)
- パラソルヘンべえ(1989年 - 1991年)
- プリンスデモキン(1991年 - 1999年3月、99年4月以降は再録)
- ホアー!! 小池さん(1998年 - 2001年)
ブラック編集
- 黒ベエ(1969年 - 1970年)
- 夢魔子(1970年)
- 喝揚丸ユスリ商会(1973年)
- 戯れ男(1973年)
- 番外社員(1973年)
- ブラック商会変奇郎(一部の出版物では「シャドウ商会変奇郎」に改題)(1976年 - 1977年)
- 憂夢(1991年 - 1995年)
- 切人がきた!!(1994年 - 1996年)
劇画編集
- 怪人二十面相(1959年 - 1960年、原作:江戸川乱歩)
- シルバークロス(1960年 - 1963年)
- コルト45(1960年 - 1961年)
- くまんばち作戦(1962年)
- シスコン王子(1963年 - 1964年)
- きえる快速車(1963年、原作:久米みのる)
- スリーZメン(1964年 - 1965年)
- 忍法十番勝負・二番勝負(1964年)
- 劇画 毛沢東伝(1971年)
- 愛ぬすびと(1973年)
- 番外社員(1973年)
- 戯れ師(1974年)
- 愛たずねびと(1974年)
- 夢トンネル(1983年 - 1984年)
- プロジェクトPOS-ある事業部の挑戦(1988年)
- タカモリが走る(1988年 - 1991年)
- 愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春(1989年、1990年、1995年 - 2013年)
- 用心棒(黒澤明映画の漫画化)(1998年)
SF編集
- ロケットくん(1956年 - 1957年)
コミックエッセイ編集
- パーマンの日々(1978年 - 1980年)
- 藤子不二雄AのパーマンGOLF LAND(1989年 - 1991年)
- PARMANの日々(1991年 - 1992年)
- PARマンの情熱的な日々(2007年 - 2015年)※2015年12月号をもって休載[8]
イラスト提供編集
作者によるイラスト提供。
イメージキャラクター編集
- ウォー太郎 - 富山県黒部市のゆるキャラ
- 氷見のサカナ紳士録 - 氷見市比美町商店街のゆるキャラ
- 立山くん - 富山県警察のシンボルマスコット
- ハニーくんとニハちゃん - 富山県こどもみらい館のシンボルマスコット
- ひみぼうずくん - 氷見フィッシャーマンズワーフ海鮮館のシンボルマスコットとして作成され、施設の閉鎖後に市の公式マスコットとなった
- みどりちゃん - 愛知県西尾市のゆるキャラ
- U馬くん - 北海道日高振興局ホースシューズ普及啓発実行委員会のシンボルマスコット
表紙イラスト・挿絵編集
- 復刊ドットコム奮戦記-マニアの熱意がつくる新しいネットビジネス(左田野渉著)- 表紙イラスト
- マンガホニャララ(ブルボン小林著)- 表紙イラスト
- 株のケータイ電話トレードで週10万円儲ける!(実業之日本社編)- 表紙イラスト
- 白く染まれ―ホワイトという場所と人々(宮崎三枝子著)- 中表紙イラスト
- ゴルフこれで開眼!―ラクして「飛ばす」「寄せる」「入れる」(三好徹著)- 表紙イラスト・挿絵
- 熱血ポンちゃんから騒ぎ(山田詠美著)- 表紙イラスト
- 長嶋有漫画化計画(長嶋有)- 表紙イラスト
ジャケットイラスト編集
- ハロー・サッチモ!~ミレニアム・ベスト - ルイ・アームストロングの生誕100年を記念したベスト盤CD
- ハロー・サッチモ、アゲイン! - 上記CDアルバムの第2弾
- 兄弟喧嘩 - 中川家のライブDVD
その他編集
スターシステムキャラクター編集
作者はお遊びとして過去に描いたキャラクターをスターシステムとして再利用する事が多い。
主なキャラ編集
- 小池さん
- ラーメンが大好きで、いつもラーメンを食べている中年男性。モデルは友人の鈴木伸一。藤子・F・不二雄も使用するキャラクターではあるが、藤子Ⓐ作品ではメインキャラクターとして使用される事が多い。
- 詳細は「小池さん」を参照
- 佐木(ザキ)
- 狐のような容姿の下級サラリーマン(『忍者ハットリくん』『パラソルヘンべえ』等上役を演じる事も少なくない)。麻雀、酒、女に目がなく、妻がいるのにもかかわらず浮気をする(但し大抵は失敗する)。下の名前は「キザオ」と「一郎」の二つある。安孫子のお気に入りキャラクターであり、殆どの作品に登場している。名前無しでの登場も含めれは登場作品は莫大な数となる。作品によって顔が若干異なる場合もある(眼鏡を掛ける、掛けない等)。
- おっちゃん(シノビノ博士)
- 眼鏡を掛け、桃の形の鼻をした中年男性。三枚目の子供らしい役を演じさせられる事が多い。1980年代になると『忍者ハットリくん』以外では急激に出番が減った。
- スズキミチオ(今仁見手郎)
- 眼鏡を掛けて眠たそうな目をしている気弱な少年。しかし裏の顔は苛められたら数倍にして返すという恐ろしい人物である。『黒ベエ』以前の作品では時にオーバーリアクションをする役もあったが、『黒ベエ』以降は『プリンスデモキン』『笑ゥせぇるすまん』等根暗なキャラクターとして登場する事もある。
- 山川キヨシ
- 有名な少年点描画家。山下清のパロディ。サインとしてプテラノドンが描かれているものには数百万円の価値がある。作品によっては日本語がよく喋れない場合もあり、「点!点!点!」と叫んで絵を仕上げる。
- 登場作品 - フータくんNOW!、チャンピオンマンガ科、パラソルヘンべえ
- サンスケの親父
- サンスケの親父で風呂屋の番台を務める。サンスケのイタズラには困っている。尚、旅館の社長、会社の上役など上の仕事をする事が多い。
- 「アー」のペンギン
- ペンギンなのにもかかわらず「アー」というカラスのような鳴き声をする。主に実況、場面転換に現れる。
- 吉田
- 鼻の下の髭と狐のような目、丸みを帯びた頬が特徴であり、主にエキストラとしての出番が多い。男らしい顔立ちの半面「アレ〜!!」という叫び声をあげるなど女々しい一面がある。『ウルトラB』では美術の先生も演じていた。
- モデルはヨシダ忠であり、『怪物くん』のフランケンのモデルとなった[24]が、力はあるほうではない。
藤子不二雄Ⓐまんがワールド編集
安孫子の生家である光禅寺の最寄りに当たる氷見市比美町商店街は1992年(平成4年)の「忍者ハットリくんカラクリ時計」設置を機に「忍者ハットリくんや仲間たちに出会える街」をモットーとして町おこしを行っている。藤子Ⓐ作品のキャラクターのモニュメントやアートが多数存在する「まんがロード」が整備され、商店街内にある「氷見市潮風ギャラリー」では、藤子不二雄Ⓐアートコレクションとして数多くの作品や原画などを展示紹介を行い観光客を集めている[25]。光禅寺入口にはキャラクターの石像4体があり[26]、JR氷見駅から北の橋(藤子Ⓐキャラクターブリッジ)までの一帯が「氷見市藤子不二雄Ⓐまんがワールド」の名称で観光地区として整備されている。
出演編集
テレビ編集
- ウメ星デンカ - TBS、1969年9月2日。第23回Aパート「ゴンスケナラ子対決の巻」、顔写真キャラで本人役として出演(藤子・F・不二雄も)。
- ドラえもん・ヨーロッパ鉄道の旅 - テレビ朝日、1983年10月18日。ヨーロッパ各地の鉄道を取材する藤子不二雄の二人が、実写に合成されたアニメのドラえもん・のび太と共演する。藤子不二雄の出演シーンはほとんど実写だが、アニメで描かれた自分自身をアテレコしているシーンも一部存在する。テレビ朝日開局25周年特別番組。
- ギミア・ぶれいく - TBS、1989年 - 1992年。
- まんが道 青春編 - NHK「銀河テレビ小説」1987年(昭和62年)。第14回 役名:酔客。
- もう帰って来たよ!! 怪物くん全て新作SP - 日本テレビ、2010年6月26日。役名:名探偵A(エース)。
映画編集
- 未来の想い出 Last Christmas - 森田芳光監督、1992年(平成4年)。役名:パーティーの客。
登場する作品編集
テレビドラマ編集
テレビアニメ編集
- ぼくらマンガ家 トキワ荘物語 - CX「日生ファミリースペシャル」1981年(昭和56年)。声優:井上真樹夫。
- ドラえもん・ヨーロッパ鉄道の旅 - アニメ(冒頭のみ、のび太からの電話に出る役)および実写として藤本弘とともに出演し、ヨーロッパ各国(イギリス、オランダ、フランス、スイス)の鉄道に乗って旅行する。
映画編集
- 忍者ハットリくん+パーマン 超能力ウォーズ - 笹川ひろし総監督、原田益次監督、1984年(昭和59年)。声優:不明。
- 忍者ハットリくん+パーマン 忍者怪獣ジッポウVSミラクル卵 - 笹川ひろし総監督、原田益次監督、1985年(昭和60年)。声優:不明。
- トキワ荘の青春 - 市川準監督、1996年(平成8年)。演:鈴木卓爾 。
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ “【速報】藤子不二雄Aさん 自宅で死去”. TBS NEWS. 2022年4月7日閲覧。
- ^ “ヒバが結んだ縁/3 手掛かりは「聖徳太子」”. 毎日新聞デジタル (毎日新聞社). (2022年4月7日) 2022年8月11日閲覧。
- ^ a b c “漫画家・藤子不二雄Aさんに聞く 遊びも仕事も好奇心! 小田急線のロマンスカーで出勤”. DegiTama. 2007年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月8日閲覧。
- ^ “「記者経験が糧に」 氷見出身の漫画家藤子さん 秋の叙勲で旭日小綬章受章”. 富山新聞. 2011年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月8日閲覧。
- ^ “漫画家の藤子不二雄Aさんが死去 88歳 川崎市内の自宅で”. 日刊スポーツ (2022年4月7日). 2022年4月7日閲覧。
- ^ “【当時の人々(5)】富山新聞社長 伯父さんは名コラムニスト 硬軟なんでもござれ 記者A 漫画家藤子不二雄A氏の記者時代・(34)|文化|石川のニュース”. 北國新聞. 2022年4月7日閲覧。
- ^ “絵葉書(高岡小唄一,二) 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2022年4月7日閲覧。
- ^ a b “藤子不二雄A氏 連載休載へ…「バテた」「元気出るまで休ませて」”. スポニチアネックス (2015年11月5日). 2015年11月5日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2022年4月8日). “ドーン!!と貫いた〝まんが道〟追悼・藤子不二雄(A)さん 最近まで新連載に意欲、藤子・Fさんとのコンビ秘話”. zakzak:夕刊フジ公式サイト. 2022年4月8日閲覧。
- ^ a b 「漫画家 藤子不二雄Ⓐさん死去 自分の心 素直に投影」『北日本新聞』2022年4月8日28面
- ^ “【速報】藤子不二雄Aさん 自宅で死去”. TBSテレビ. (2022年4月7日) 2022年4月7日閲覧。
- ^ 日本放送協会 (2022年4月7日). “漫画家 藤子不二雄Aさん死去 88歳”. NHKニュース. 2022年4月7日閲覧。
- ^ 「まんが道」88年しのぶ:藤子不二雄Ⓐさん お別れの会『産経新聞』朝刊2023年11月1日(社会面)2023年1月20日閲覧
- ^ “【平成20年7月9日公開】氷見市名誉市民に藤子不二雄A先生が”. 氷見市. 2011年9月8日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 『週刊少年「」』最終回でのインタビューでの発言。
- ^ “79歳にしてまだまだ続く! 藤子不二雄(A)先生の“まんが道””. エキサイトニュース (2013年8月26日). 2022年4月7日閲覧。
- ^ 『ジャンプククエア』8月号掲載『PARマンの情熱的な日々』#91「又又又3度目の入院!!」
- ^ “追悼・藤子不二雄Ⓐさん 名作「プロゴルファー猿」の秘技“旗つつみ”誕生秘話”. 日刊ゲンダイ (2022年4月8日). 2022年4月8日閲覧。
- ^ 藤子不二雄A『78歳いまだまんが道を』(中央公論新社 2012年)p.122
- ^ 『三栄ムック まんが道大解剖』「松野喜多枝インタビュー」pp.56-57
- ^ 日本放送協会. “「リアルから始まり、想像の世界へ」 藤子不二雄Aさんが瀬戸内寂聴さんに語ったこと - クローズアップ現代”. クローズアップ現代 - NHK. 2022年4月14日閲覧。
- ^ 『中公文庫コミック版「プロゴルファー猿」1巻』中央公論新社、1994年9月1日。ISBN 978-4122021501。 あとがきより
- ^ 番組エピソード 銀河テレビ小説「まんが道」 -NHKアーカイブス
- ^ 『少年画報』1966年2月号
- ^ 藤子Ⓐワールド氷見市比美町商店街
- ^ 「待ってるでござる」つままの会 キャラクター像清掃『北日本新聞』2018年5月3日25面
関連項目編集
外部リンク編集
- 藤子不二雄Ⓐ - NHK人物録
- ドラえもん・鬼滅読まない訳は…藤子Aさん曲折の漫画道 朝日新聞デジタル(2020年12月31日)※インタビュー映像あり。
- 手塚治虫のトキワ荘時代を掘り下げる企画展が明日開催、藤子不二雄Aのコメントも コミックナタリー(2021年4月6日)
- 藤子不二雄(A)さんインタビュー(文春オンライン, 2021年7月7日)
- 「何だおまえ、どこ行っちゃったんだ」 藤子不二雄Aさんお別れの会 朝日新聞デジタル(2022年10月31日)