伊野波雅彦

日本のサッカー選手

伊野波 雅彦(いのは まさひこ、1985年8月28日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダーセンターバックサイドバック)、ミッドフィールダーボランチ)。元日本代表

伊野波 雅彦
名前
愛称 イノ[1]
カタカナ イノハ マサヒコ
ラテン文字 INOHA Masahiko
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1985-08-28) 1985年8月28日(38歳)
出身地 宮崎県宮崎市
身長 179cm
体重 74kg
選手情報
ポジション DF[2] / MF[3]
利き足 右足[3][4]
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2006-2007 日本の旗 FC東京 48 (1)
2008-2011 日本の旗 鹿島アントラーズ 89 (2)
2011-2012 クロアチアの旗 ハイドゥク・スプリト 15 (1)
2012 日本の旗 ヴィッセル神戸 29 (0)
2013-2015 日本の旗 ジュビロ磐田 82 (3)
2016-2018 日本の旗 ヴィッセル神戸 52 (0)
2019-2021 日本の旗 横浜FC 66 (0)
2022 日本の旗 南葛SC 1 (0)
代表歴2
2005  日本 U-20
2006-2008  日本 U-21/22/23
2011-2014[5] 日本の旗 日本 21 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。2022年11月16日現在。
2. 2014年5月27日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

来歴 編集

プロ入り以前 編集

実家は豆腐屋[6][4]。幼少時は水泳や器械体操を習っていたが[7][8] 9歳の時に全てを辞め[8]、サッカーを始める[1][7]。生目台中学では同期の上田常幸と共に宮崎県選抜に選ばれていた[8]。この頃、同郷の増田誓志を伴いブラジルリオデジャネイロに2度の短期留学を経験[7][9]。また、当時から鹿島アントラーズのファンで、鹿島ユース入りを図って直談判を申し出たが、遠方のクラブに入る負担などを理由に断られた。スカウト担当の平野勝哉は当時の伊野波について「まだ小柄でどんなタイプの選手かも分からなかった」と述懐している[10]。鹿島がキャンプで伊野波の地元である宮崎を訪れた際には練習を見学に行き、小笠原満男と一緒に写真を撮っている。

2001年鹿児島実業高等学校に進学。高校卒業後のJリーグ入りを目指して数チームに練習参加するが叶わず[8][9]2004年阪南大学に進学。1年生の時にユニバーシアード候補に選出されて名を上げると、負傷した吉弘充志の代役として[11]大熊清率いるU-20日本代表に抜擢され[8]2005年のワールドユースにも参加。しかし、本大会では出場機会を得られず、この悔しさと[9][12]、元々大学で4年間を過ごすつもりも無かったことから[8]大学を休学してのプロ入りを決断[13]

FC東京 編集

J1の6クラブからオファーを受け[1]、特に鹿島では既にプロ入りしていた増田からも誘いを受けていたが、増田との対戦を希望し[9]、2006年1月にFC東京への加入が発表された[14]。当時の監督であったガーロは開幕戦から新人の伊野波をスタメンに抜擢しボランチで起用。相手キーマンへのマンマークを担った[12][1]。その後も故障者の多かった守備陣の穴を埋める形で、SBやボランチ、CBと複数のポジションで出番を与えられた[3][1]。第19節アビスパ福岡戦ではヘディングでプロ初得点を決めた[15]

2007年はポジションをSBに絞って臨むことを宣言していたが[16]、4月に出場機会を失うと[17] ボランチへの転向を志願[18]。しかし、シーズン中盤以降今野泰幸がボランチに復帰[19] してからは再び控えに戻った[20]

鹿島アントラーズ 編集

2008年鹿島アントラーズに完全移籍[21][22]。同年開催の北京オリンピック代表メンバー入りに向け、シーズン通してレギュラーでプレーすることを目標としていたが[23]、序盤はバックアッパーに甘んじ、オリンピック出場を逃した。シーズン終盤にかけてCBの定位置を奪取。リーグ優勝に貢献し、プロ入り後初のタイトルを獲得した。

2010年序盤はDF李正秀の加入により出場機会が激減するも[注 1]、同年7月に李が退団して以降はレギュラーに復帰した。

2011年はリーグ戦とACLが併行していた序盤こそ先発出場を続けていたが[25][26]、ACL敗退後は中田浩二がCBに配されたことで[26] 出場機会を減らし[25]、「日本代表で結果を残すため」シーズン途中で退団した[27]

ハイドゥク・スプリト 編集

2011年7月、クロアチア1部プルヴァHNLハイドゥク・スプリトへ完全移籍[27][28]。クロアチアを足掛かりに上位リーグへの移籍を目指していたが[29]、給与未払いを理由に2012年1月に退団した[30]

ヴィッセル神戸 編集

2012年2月、ヴィッセル神戸へ完全移籍[31]。序盤は主にボランチで起用されたが、その後ポジションをCBへ移した。J2降格を喫し、1年で退団した。

ジュビロ磐田 編集

2013年、ジュビロ磐田へ完全移籍[32][2]。開幕から3バックの一角を務めたが[33]、チームのサッカーに順応できず、代表活動の負担も重なりチームはJ1第31節鳥栖戦の敗北より降格。神戸在籍時に続く2年連続のJ2降格となってしまった。2014年はディフェンスリーダーとして奮戦するも[4]、好不調の波が激しく安定感を欠き[34] J1復帰を逃した。

2015年は左長母指屈筋の負傷を抱えながらも[35][36]、守備の要として32試合に出場[37]。同年11月23日のJ1昇格が懸かったJ2最終節大分戦では、シーズン初得点となる先制ゴールを決めて同月12日に亡くなった監督・名波浩の父を思いユニホームの袖下から喪章を外し、スタンドへ掲げた[38]。この得点もあってJ1復帰を果たしたが、自身の高年俸やクラブの若手登用の方針から[39][35] 磐田との契約を満了[40]翌年の神戸加入時には、磐田側から戦力外通告を受けた旨を明かした[41][42]

ヴィッセル神戸復帰 編集

タイなどへの海外移籍[43] や引退を含め進路を模索したが[42]、古巣ヴィッセル神戸ではJ2降格を喫し何も成し遂げられなかった、やり残したことがあるとして[44]、2016年2月に同クラブへ完全移籍[41]。4年ぶりの復帰となった[44]。同年はセンターバックのレギュラーとして出場を続けたが、クエンテン・マルティノス横浜FM)と共にリーグ最多タイの警告処分を受けた[45]

2018年シーズンは、なかなか試合に絡む事は出来なかったが、10月にフアン・マヌエル・リージョが監督に就任するとボランチとしてレギュラーを奪う。レギュラーを奪うきっかけとなった第31節の名古屋グランパス戦では、リージョが試合後のインタビューで「伊野波はチームに熱を加えてくれた」と伊野波を称賛している[46]。しかし、チームの新シーズンの始動日である[47] 2019年1月17日に契約満了によりヴィッセル神戸を退団する事が発表された[48]

横浜FC 編集

2019年2月18日、横浜FCへ移籍する事が発表された[49]。2月に入団した事もあり、クラブのキャンプに参加することができず、難しいコンデション調整を強いられたが、3月16日に行われたJ2第4節・アルビレックス新潟戦で移籍後初出場[50]。新潟戦以降はレギュラーとして出場し、横浜FCのJ1昇格に貢献した。2021年12月30日、契約満了が発表された[51]

南葛SC 編集

2022年3月1日、南葛SCに加入したと発表があった[52]。12月19日、現役引退を発表した[53]

日本代表 編集

2006年8月31日イビチャ・オシムが指揮するAFCアジアカップ2007予選大会の日本代表メンバーに選出された[54](試合出場なし)。2007年のアジアカップにも直前で播戸竜二が負傷離脱したため[55] A代表に緊急招集された[56]。また、U-22代表では北京五輪アジア二次予選までキャプテンを務め[注 2]、3バックの中央でDFラインを統率した[1][9]

2010年、アルベルト・ザッケローニの初采配となるアルゼンチンとのキリンチャレンジカップおよび韓国との国際親善試合の日本代表メンバーに選出。 2011年のアジアカップサウジアラビア戦に後半から内田篤人と交代で日本代表初出場を果たし、直後に前田遼一へのアシストを決めた。内田の出場停止により初の先発出場となった準々決勝のカタール戦ではオフサイドをかけ損なって失点につなげるなど[58] 終始低調なパフォーマンスだったが終盤に値千金の決勝点を決めた。

2014年5月12日、2014 FIFAワールドカップ日本代表メンバーに選出された。所属するジュビロ磐田は2013年にJ2に降格しているため、J2クラブ所属でワールドカップ日本代表に選出された史上3人目の選手となった[注 3]。しかし、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。

人物・エピソード 編集

  • 季節に関係なく1日2個は必ず食べるというほどアイスクリームが大好物である[12][7]
  • 2008年開幕前に入籍。相手は2歳上で阪南大学時代の友人の紹介で出会った。
  • 2018年12月14日に、投資関係のトラブルで元チームメイトと訴訟問題を抱えていると東京スポーツで報じられた[59]
  • 大阪府在住

所属クラブ 編集

個人成績 編集

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2006 FC東京 19 J1 28 1 5 0 2 0 35 1
2007 20 0 4 0 0 0 24 0
2008 鹿島 23 0 1 0 2 0 26 0
2009 30 1 2 0 4 0 36 1
2010 26 0 2 0 5 0 33 0
2011 10 1 - - 10 1
クロアチア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2011-12 ハイドゥク 19 1.HNL 15 1 3 0 - 18 1
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2012 神戸 19 J1 29 0 1 0 0 0 30 0
2013 磐田 25 1 4 0 0 0 29 1
2014 J2 25 1 - 1 0 26 1
2015 32 1 - 0 0 32 1
2016 神戸 39 J1 27 0 6 0 1 0 34 0
2017 15 0 5 0 3 1 23 1
2018 10 0 0 0 0 0 10 0
2019 横浜FC J2 28 0 - 0 0 28 0
2020 19 J1 19 0 1 0 - 20 0
2021 19 0 2 0 1 0 22 0
2022 南葛 39 関東1部 1 0 - - - 1 0
通算 日本 J1 281 4 33 0 18 1 332 5
日本 J2 85 2 - 1 0 86 2
日本 関東1部 1 0 - 0 0 1 0
クロアチア 1.HNL 15 1 3 0 - 18 1
総通算 382 7 36 0 19 1 437 8

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2008 鹿島 19 2 0
2009 6 0
2010 5 0
2011 3 0
通算 AFC 16 0

その他の国際公式戦

獲得タイトル 編集

代表歴 編集

出場大会 編集

試合数 編集

  • 国際Aマッチ 21試合 1得点 (2011年 - 2014年)[5]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2011 9 1
2012 7 0
2013 4 0
2014 1 0
通算 21 1

出場 編集

No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦国 結果 監督 大会
1. 2011年1月17日  アルライヤン アフメド・ビン=アリー・スタジアム   サウジアラビア ○5-0 ザッケローニ AFCアジアカップ2011
2. 2011年1月21日  ドーハ サーニー・ビン・ジャーシム・スタジアム   カタール ○3-2
3. 2011年1月25日   韓国 ○2-2(PK3-0)
4. 2011年1月29日 ハリファインターナショナルスタジアム   オーストラリア ○1-0
5. 2011年6月1日  新潟 東北電力ビッグスワンスタジアム   ペルー △0-0 キリンカップサッカー2011
6. 2011年6月7日  横浜 横浜国際総合競技場   チェコ △0-0
7. 2011年10月7日  神戸 ホームズスタジアム神戸   ベトナム ○1-0 キリンチャレンジカップ2011
8. 2011年11月11日  ドゥシャンベ ドゥシャンベ・セントラル・スタジアム   タジキスタン ○4-0 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
9. 2011年11月15日  平壌 金日成競技場   朝鮮民主主義人民共和国 ●0-1
10. 2012年2月24日  大阪 大阪長居スタジアム   アイスランド ○3-1 キリンチャレンジカップ2012
11. 2012年5月23日  袋井 エコパスタジアム   アゼルバイジャン ○2-0
12. 2012年6月8日  さいたま 埼玉スタジアム2002   ヨルダン ○6-0 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選
13. 2012年6月12日  ブリスベン ブリスベン・スタジアム   オーストラリア △1-1
14. 2012年8月15日  札幌 札幌ドーム   ベネズエラ △1-1 キリンチャレンジカップ2012
15. 2012年9月6日  新潟 東北電力ビッグスワンスタジアム   アラブ首長国連邦 ○1-0
16. 2012年9月11日  さいたま 埼玉スタジアム2002   イラク ○1-0 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選
17. 2013年2月6日  神戸 ホームズスタジアム神戸   ラトビア ○3-0 キリンチャレンジカップ2013
18. 2013年3月22日  アル・アイン ハリファインターナショナルスタジアム   カナダ ○2-1 国際親善試合
19. 2013年6月11日  ドーハ グランド・ハマド・スタジアム   イラク ○1-0 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選
20. 2013年8月14日  宮城 宮城スタジアム   ウルグアイ ●2-4 キリンチャレンジカップ2013
21. 2014年5月27日  さいたま 埼玉スタジアム2002   キプロス ○1-0 キリンチャレンジカップ2014

ゴール 編集

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2011年1月21日 カタールドーハ   カタール ○3-2 AFCアジアカップ2011

脚注 編集

注釈
  1. ^ オリヴェイラは、2010年J1第4節 対モンテディオ山形戦において「(伊野波との)格の違い」により李を先発に選んだとコメントしている[24]
  2. ^ 同最終予選以降は水本裕貴がキャプテンを務めた。水本は最終予選終了後「伊野波が色々な形で支えてくれたことが大きかった。」と語っている[57]
  3. ^ 2002年大会にセレッソ大阪から選出された西澤明訓森島寛晃以来。日本以外も含めると、2006年大会サガン鳥栖から選出された韓国代表尹晶煥もいるため4人目。
出典
  1. ^ a b c d e f 『FC東京ファンブック 2007』毎日新聞社、2007年、24頁。 
  2. ^ a b 伊野波雅彦選手ヴィッセル神戸より完全移籍加入”. ジュビロ磐田 (2013年1月9日). 2013年1月9日閲覧。
  3. ^ a b c 選手データベース 伊野波雅彦”. 2009年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月30日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2008年2月21日)
  4. ^ a b c 『ELGOLAZO Jリーグプレーヤーズガイド2015』スクワッド、2015年、167頁。 
  5. ^ a b “伊野波 雅彦”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_a/masahiko_inoha.html 
  6. ^ 鹿島伊野波の実家が連日豆腐差し入れ - 日刊スポーツ (2011年2月18日)
  7. ^ a b c d 「SWITCH」- 伊野波雅彦(FC東京)「二十歳の決意」”. 2006年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2006年5月2日)
  8. ^ a b c d e f g h PLAYER'S HISTORY FILE022”. 2010年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月18日閲覧。 Jリーグ選手協会 (2007年8月3日)
  9. ^ a b c d e f g 宮崎市出身U-22日本代表 増田(鹿島)伊野波(FC東京)”. 2008年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月6日閲覧。 宮崎日日新聞 (2007年2月25日)
  10. ^ 平野勝哉『サッカースカウトマン』出版芸術社、2012年、172-173頁。ISBN 9784882934288 
  11. ^ 《ワールドユース2005》レポート メンバー決定! 伊野波、梶山がメンバー入り! Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2005年5月29日)
  12. ^ a b c Tokyo Mania Vol.17 182ch (2006年7月11日)
  13. ^ 伊野波 電撃入団”. 2006年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月6日閲覧。 東京中日スポーツ (2006年1月11日)
  14. ^ a b c d 伊野波雅彦選手(阪南大学)来季新加入のお知らせ”. 2006年9月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 FC東京 (2006年1月10日)
  15. ^ 【J1:第19節 F東京 vs 福岡 レポート】 Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2006年8月24日)
  16. ^ 伊野波 今季はサイドバックで勝負 反町監督“御前試合”攻守で存在感 東京中日スポーツ (2007年2月6日)
  17. ^ 選手出場記録 Jリーグ (2007年12月1日)
  18. ^ 梶山だ!伊野波だ!平山だ! 五輪トリオで危機脱出”. 2007年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 東京中日スポーツ (2007年5月9日)
  19. ^ 【J1:第23節 広島 vs F東京 レポート】 Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2007年8月30日)
  20. ^ 伊野波が鹿島に完全移籍”. 2008年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 東京中日スポーツ (2008年1月11日)
  21. ^ 伊野波雅彦選手 鹿島アントラーズへ完全移籍決定のお知らせ”. 2008年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 FC東京 (2008年1月15日)
  22. ^ 伊野波雅彦選手が完全移籍で加入 鹿島アントラーズ (2008年1月15日)
  23. ^ 鹿島が伊野波獲り”. 2007年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 東京中日スポーツ (2007年12月2日)
  24. ^ 【J1:第4節 鹿島 vs 山形】オズワルドオリヴェイラ監督(鹿島)記者会見コメント Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2010年3月27日)
  25. ^ a b 選手出場記録 Jリーグ (2011年12月3日)
  26. ^ a b 【AFCチャンピオンズリーグ2011 ソウル vs 鹿島】プレビュー Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2011年5月25日)
  27. ^ a b 伊野波 雅彦選手の移籍に基本合意 鹿島アントラーズ (2011年7月5日)
  28. ^ 伊野波がクロアチア移籍で会見 「早く次のレベルに」”. 共同通信 (2011年7月7日). 2011年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月15日閲覧。
  29. ^ -伊野波の挑戦-クロアチアから目指せ、ブラジルW杯!-by-伊野波雅彦 ゲキサカ (2011年8月23日)
  30. ^ 代理人が伊野波のハイデュク退団を主張 goal.com (2012年1月20日)
  31. ^ 元クロアチア ハイデュク・スプリト DF伊野波雅彦選手 移籍加入決定 ヴィッセル神戸 (2012年2月2日)
  32. ^ DF伊野波雅彦選手 ジュビロ磐田へ完全移籍のお知らせ ヴィッセル神戸 (2013年1月9日)
  33. ^ 磐田“開幕男”伊野波「結果にこだわる」 日刊スポーツ (2013年3月2日)
  34. ^ 月刊J2マガジン 2015年1月号』ベースボール・マガジン社、2014年、55頁。 
  35. ^ a b 伊野波、無念さにじませ磐田退団をFBで発表 日刊スポーツ (2015年11月28日)
  36. ^ 磐田DF伊野波、左長母趾屈筋損傷で離脱…復帰まで約4週間の見込み 日刊スポーツ (2015年8月18日)
  37. ^ 磐田退団伊野波「たくさんの思い出。陰ながら応援」 日刊スポーツ (2015年11月27日)
  38. ^ 磐田伊野波、12日死去の名波監督父に捧げる先制弾 日刊スポーツ (2015年11月24日)
  39. ^ [【磐田】伊野波、契約更新せず J1昇格も条件面折り合わず”. 2015年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月28日閲覧。スポーツ報知 (2015年11月27日)
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  41. ^ a b DF伊野波雅彦選手 加入決定のお知らせ ヴィッセル神戸 2016年2月9日
  42. ^ a b 伊野波雅彦選手 2016シーズン加入のお知らせ J's GOAL (2016年2月9日)
  43. ^ 【磐田】伊野波と契約満了を発表! 移籍先はタイ!?”. 2015年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月9日閲覧。 スポーツ報知 (2015年11月30日)
  44. ^ a b 「サッカーを辞めることも考えた」…DF伊野波、神戸に4年ぶり復帰 サッカーキング 2016年2月9日
  45. ^ 2016明治安田生命J1リーグ選手ランキング Soccer D.B.
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  47. ^ J1神戸、始動日に…DF伊野波の退団を発表 昨季終盤は主軸として活躍 デイリースポーツ 2019年1月17日
  48. ^ DF伊野波雅彦選手 契約満了のお知らせ』(プレスリリース)ヴィッセル神戸、2019年1月17日https://www.vissel-kobe.co.jp/news/article/15689.html2019年1月17日閲覧 
  49. ^ DF伊野波雅彦選手完全移籍加入のお知らせ 横浜FC 2019年2月18日
  50. ^ 伊野波が電撃加入の横浜FCでデビュー「そこまで悪くなかった」 横浜FC 2019年3月16日
  51. ^ 伊野波 雅彦選手 契約満了のお知らせ 横浜FC 2021年12月30日
  52. ^ 【TOP】伊野波雅彦 選手、新規加入のお知らせ 南葛SC 2022年3月1日
  53. ^ 思い出の地・カタールで決断…元日本代表DF伊野波雅彦が現役引退を発表、Jリーグ5クラブやクロアチアでプレー「運命を感じざるを得ません」 超ワールドサッカー 2022年12月19日
  54. ^ 日本代表メンバーに伊野波雅彦選手選出のお知らせ”. 2007年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月30日閲覧。 FC東京 (2006年8月31日)
  55. ^ 播戸離脱で伊野波招集 ゲキサカ (2007年7月4日)
  56. ^ AFCアジアカップ2007 日本代表 メンバーに 伊野波雅彦選手追加招集のお知らせ”. 2007年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 FC東京 (2007年7月4日)
  57. ^ 【北京五輪出場決定! U-22日本代表 vs U-22サウジアラビア代表】試合終了後の水本裕貴選手(千葉)コメント Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2007年11月21日)
  58. ^ 勇気がもたらした逆転劇 日々是亜洲杯2011 宇都宮徹壱 スポーツナビ (2011年1月22日)
  59. ^ 元日本代表J選手が前代未聞の投資トラブル 高配当で勧誘され「2500万円損害」 東スポweb 2018年12月14日

関連項目 編集

外部リンク 編集