サッカーイラク代表
サッカーイラク代表(منتخب العراق لكرة القدم)は、イラクサッカー協会 (IFA) によって編成されるサッカーのナショナルチームである。ホームスタジアムはバスラにあるバスラ・スポーツシティ。
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国または地域 |
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協会 | イラクサッカー協会 | |||
愛称 | メソポタミアのライオン | |||
監督 |
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最多出場選手 | ユニス・マフムード(145試合) | |||
最多得点選手 | フセイン・サイード(61得点) | |||
初の国際試合 |
1957年10月19日対モロッコ 3-3 | |||
最大差勝利試合 |
1992年8月18日対エチオピア 13-0 | |||
最大差敗戦試合 |
2012年10月11日対ブラジル 0-6 | |||
FIFAワールドカップ | ||||
出場回数 | 1回(初出場は1986) | |||
最高成績 | 本大会出場 | |||
AFCアジアカップ | ||||
出場回数 | 9回 | |||
最高成績 | 優勝(2007) | |||
西アジアサッカー連盟所属。西アジアサッカー選手権優勝1回。AFCアジアカップ優勝1回。
歴史編集
ガルフカップ優勝3回。1980年のモスクワ五輪、1984年のロサンゼルス五輪、1986年のメキシコW杯に出場するなど1970年代後半から80年代半ばにかけてアジア最強の一角を占めていたが、1980年から8年間続いたイラン・イラク戦争、1991年の湾岸戦争とその後の国際的経済制裁さらに2003年のイラク戦争の影響でサッカーを取り巻く環境が著しく悪化した。
また、イラク国内のスポーツを統括し、イラクサッカー協会会長を兼務していたサッダーム・フセインの息子・ウダイ・サッダーム・フセインは、成績不振のスポーツ選手に対して日常的に拷問を行い、52人ものスポーツ選手を拷問によって死に至らしめたと言われている。ウダイの恐怖政治かつ、非人道的な手段は、イラク国内すべてのスポーツにおいて、暗い影を落とすことになる。のちにアメリカ軍によってイラク制圧後にウダイが使用していたとされる拷問用のマスクなど多数の拷問器具が発見されている。また、ウダイと対立したサッカー・イラク代表監督はウダイから自宅にロケット砲を撃ち込まれている。1993年から1997年までイラク代表のDFだった現イラクサッカー協会副会長のシャラル・ハイダル(HAYDAR MOHAMED Sharar)は、ウダイの拷問についてのサッカー界の最初の証言者である。ハイダルによると、「1994年アメリカW杯アジア予選前に、ウダイは敵対国アメリカのW杯に出場するようイラク代表に物凄い圧力をかけてきた。それ以前に2度にわたり、バグダッド郊外のアル・ラドワニアの刑務所に投獄され満身創痍の状態だったため、イラク代表から外してほしいと懇願した所、同刑務所に3度目の投獄を受け、木靴で蹴りつける・足の裏を木の棒で叩くファラカという拷問等を受け、6カ月投獄された」という[1][2]。1993年に行われたアメリカW杯アジア地区最終予選の日本対イラク戦(ドーハの悲劇)でも、もしイラク代表が日本代表に敗北していた場合、メンバーに対し全員鞭打ちの刑に処せられることになっていた、と当時のイラク代表のメンバーが証言している。1997年、イラクは第1シードとして、仏W杯アジア1次予選グループ9でカザフスタンとパキスタンと同じ組になったが、カザフスタンがイラクの成績を上回り、イラクの予選敗退が決まった。1997年6月29日、1次予選最終戦のアウェイでのカザフスタン戦でイラクが敗退し、イラク代表選手たちが帰国すると、ウダイは代表選手たちを軍事施設に連行し、鞭打ちを行った上、打放しコンクリートの狭い拷問部屋(立って歩けない程の低い天井で、狭く、更に部屋中に無数の打放しコンクリートの柱がひしめき合うように立っていた)に選手を監禁したという。この事件をイギリスの新聞がセンセーショナルに報道したことで、後に国際サッカー連盟(FIFA)が調査したが、「暴行は無かった」と報告した。しかし、2003年のイラク戦争で、フセイン政権が倒れると、報道されたウダイの拷問の全てが事実であったことが判明した[3]。
しかし、国内が危機的な状況の中、AFCユース選手権2000で19歳以下の代表が優勝を飾り、若年層に才能が育っていたことはアジアのサッカー界に驚きをもって受け止められた。この世代の選手たちが中心となり、イラク戦争・ウダイ死亡後には2004年の中国アジアカップでベスト8、アテネ五輪で4位、2006年のアジア大会で準優勝と立て続けに国際大会で好成績を上げた。
アジアカップ2007で初優勝を飾り、再びアジア列強の地位を取り戻している。この大会でイスラム教シーア派の選手とスンニ派の選手、クルド人の選手が共に優勝を喜ぶ姿は国内外でも大きく注目を集めた。しかし2008年の南アフリカW杯アジア予選では、3次予選で敗退し最終予選に進出できなかった(その前のドイツW杯アジア予選でも最終予選進出に失敗)。前回王者として出場したアジアカップ2011では、準々決勝で敗退した。
2011年8月29日より元日本代表監督のブラジル人のジーコが監督に就任したが、ジーコは2012年3月から、スタッフは2011年10月から給料未払いとなり[4]、2014年ブラジルW杯アジア4次予選B組第6節終了後、2012年11月27日にジーコ監督はイラクサッカー協会の契約不履行を理由に辞任した[5][6]。2013年6月11日、日本に0-1で敗れ、2014年ブラジルW杯アジア予選4次予選での敗退が決まった。
アジアカップ2015では平均年齢が23歳以下と非常に若いチームで臨み、準々決勝で隣国のイランを延長PK戦の末下し、2大会ぶりにベスト4へ進出したが、準決勝で韓国、3位決定戦でアラブ首長国連邦に敗れ、4位となった。
2018年のロシアW杯アジア予選では最終予選に進出したが、第8節で予選敗退が決定した。なお、後半戦の第6節以降は好調で2勝2分1敗であった。
成績編集
FIFAワールドカップの成績編集
FIFAワールドカップ | FIFAワールドカップ・予選 | |||||||||||||
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開催年 | 結果 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | |
1930 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
1934 | ||||||||||||||
1938 | ||||||||||||||
1950 | ||||||||||||||
1954 | ||||||||||||||
1958 | ||||||||||||||
1962 | ||||||||||||||
1966 | ||||||||||||||
1970 | ||||||||||||||
1974 | 予選敗退 | 6 | 3 | 2 | 1 | 11 | 6 | |||||||
1978 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
1982 | 予選敗退 | 4 | 3 | 0 | 1 | 5 | 2 | |||||||
1986 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 4 | 8 | 5 | 1 | 2 | 13 | 11 | |
1990 | 予選敗退 | 6 | 3 | 2 | 1 | 11 | 5 | |||||||
1994 | 13 | 7 | 4 | 2 | 37 | 13 | ||||||||
1998 | 4 | 2 | 0 | 2 | 14 | 8 | ||||||||
2002 | 14 | 6 | 3 | 5 | 37 | 15 | ||||||||
2006 | 6 | 3 | 2 | 1 | 17 | 7 | ||||||||
2010 | 8 | 3 | 2 | 3 | 11 | 6 | ||||||||
2014 | 16 | 7 | 3 | 6 | 20 | 12 | ||||||||
2018 | 16 | 6 | 5 | 5 | 24 | 18 | ||||||||
合計 | 1/20 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 4 | 100 | 42 | 19 | 23 | 176 | 83 |
AFCアジアカップの成績編集
開催年 | 結果 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 |
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1956 | 不参加 | ||||||
1960 | |||||||
1964 | |||||||
1968 | |||||||
1972 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 2 | 1 | 1 | 4 |
1976 | 4位 | 4 | 1 | 0 | 3 | 3 | 6 |
1980 | 棄権 | ||||||
1984 | |||||||
1988 | |||||||
1992 | 不参加 | ||||||
1996 | ベスト8 | 4 | 2 | 0 | 2 | 6 | 4 |
2000 | 4 | 1 | 1 | 2 | 5 | 7 | |
2004 | 4 | 2 | 0 | 2 | 5 | 7 | |
2007 | 優勝 | 6 | 3 | 3 | 0 | 7 | 2 |
2011 | ベスト8 | 4 | 2 | 0 | 2 | 3 | 3 |
2015 | 4位 | 6 | 2 | 1 | 3 | 8 | 9 |
2019 | ベスト16 | 4 | 2 | 1 | 1 | 6 | 3 |
合計 | 9/17 | 39 | 15 | 7 | 17 | 44 | 45 |
西アジアサッカー選手権編集
開催年 | 結果 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | |
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ガルフカップ編集
ガルフカップ | ||||||||
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開催年 | 結果 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | |
歴代監督編集
- アクラム・アハマド・サルマーン 1998.11, 2005.1-2007.5, 2015.2-2015.6, 2016.3
- ジョルバン・ビエイラ (en) 2007, 2008.9-2009.2
- エギル・オルセン 2007.9-2008.2
- ボラ・ミルティノビッチ 2009.4-2009.6
- ウォルフガング・シドカ (en) 2010.8-2011.8
- ジーコ 2011.8.29-2012.11.27
- ハキーム・シャーキル 2012.12.29-2013.2.8 (ジーコ辞任後、即、暫定監督として就任し、その後正式就任)
- ヴラディミル・ペトロヴィッチ 2013.2-2013.9
- ハキーム・シャーキル 2013.9-2014.11
- ラーディー・シュナイシル 2014.12-2015.1, 2016.4-2017.4
- ヤフヤ・アルワン 2015.9-2016.3
- バシム・カシム 2017.5-2018.8
- スレチコ・カタネッツ 2018.8-
歴代選手編集
- ハワル・ムラ・モハメド 2001-2012
- ヤセル・サファ・カシム
- サアド・アブドゥルアミール
- フマーム・ターリク 2012-
- マフディー・カーミル 2013-
- アハメド・ヤシーン 2014-
- ヤセル・カシム 2014-
- アーメド・ラディ(アフマド・ラーディー) 1983-1997
- ジャスティン・ヒクマト
- ユニス・マフムード 2002-
- ルアイ・サラーハ
- エマード・ムハンマド
- アムジャド・ラーディー
- アラー・アブドゥッザフラ
- ハンマーディー・アフマド
- アムジャド・カラフ
- マルワーン・フセイン 2014-
関連項目編集
- ドーハの悲劇(1994 FIFAワールドカップ・アジア地区最終予選 「日本vsイラク」)
脚注編集
- ^ イラクのサッカー界は復活したか?“負けたら拷問”時代からの復興。P1 - number・2018年3月1日
- ^ イラクのサッカー界は復活したか?“負けたら拷問”時代からの復興。P2 - number・2018年3月1日
- ^ 大住良之著『アジア最終予選 サッカー日本代表 2006ワールドカップへの戦い』P217
- ^ ジーコの主張 イラクのピッチだけに留まらぬ諸問題-ジーコ公式HP2012年7月28日
- ^ イラク代表監督の契約解消 -ジーコ公式HP2012年11月28日
- ^ ジーコ氏 イラク代表監督を辞任 給与未払いが理由か-スポニチ2012年11月28日