正名 (思想)

儒家思想の用語

正名(せいめい、拼音: zhèngmíng)とは、中国思想日本思想用語で、名を正す(なをただす)という行為のこと。時代や文脈によって様々な意味をもつ。正名論正名思想ともいう。類義語名実論

藤田幽谷。江戸時代に『正名論』を著した。→#江戸時代

概要 編集

「正名」という語句は、『論語』の中の孔子の教えに由来する。具体的には、『論語』子路篇における、子路と孔子の会話に由来する。

原文
子路曰:「衞君待子而爲政,子將奚先?」子曰:「必也正名乎!」子路曰:「有是哉?子之迂也!奚其正?」子曰:「野哉,由也!君子於其所不知,蓋闕如也。名不正,則言不順;言不順,則事不成;事不成,則禮樂不興;禮樂不興,則刑罰不中;刑罰不中,則民無所措手足。故君子名之必可言也,言之必可行也。君子於其言,無所苟而已矣。」[1]

書き下し
子路曰く、衛君、子を待って政を為す。子将に奚をか先にせんとす。子曰く、必ずや名を正さんか。子路曰く、是れ有るかな子の迂なる、奚ぞ其れ正さん。子曰く、野なるかな由や。君子は其の知らざる所に於て、蓋し欠如するなり。名正しからざれば、則ち言順ならず。言順ならざれば、則ち事成らず。事成らざれば、則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば、則ち刑罰中らず。刑罰中らざれば、則ち民手足を措く所無し。故に君子之を名づくれば必ず言ふ可くす。之を言へば必ず行ふ可くす。君子は其言に於て、苟もする所無きのみ。[2]

現代語訳(要約)
子路は孔子に向かって次のように質問した。「もしも孔子が衛国君主に政治顧問として登用されたら、まず何をするか」と。その質問に対して孔子は「名を正す」(正名)と答えた。「それはどういうことか」と子路が尋ねると、孔子は次のように答えた。「もしも名が正しくなければ、言論の筋が通らなくなり、政事が達成されなくなり、が振興しなくなり、刑罰が妥当でなくなり、民は不安に駆られて困窮してしまう」と。[注釈 1]

以上の一節から、「正名」という行為が極めて重要な行為、政治において最優先にすべき行為だということが分かる。しかし、具体的に何をどうする行為が「正名」なのかは分からない[5]

そのため、後世の儒学者たちは「正名」に様々な解釈を与えてきた。大まかに分ければ、鄭玄に代表される言語論の文脈で「言葉を正す」とする解釈と、朱熹に代表される政治論の文脈で「名分を正す」とする解釈がある[6][7]。あるいはそのような儒学者たちに先立って、戦国時代諸子百家も「正名」を論じていた。あるいは近現代の学者が新たな解釈を与えることもある[6]

儒教が「名教」と呼ばれるのも正名思想に由来する[8](「名教」呼称が一般化するのは六朝以降[9])。

言葉を正す 編集

言語論の文脈で「正名」と言うときの「名」は、「名前」「名詞」に限らず、「名辞」「言葉」全般をさす[5]。つまり孔子がいう所の「正名」は「言葉の混乱を正す」行為なのだと解釈される。ただしひとくちに「言葉の混乱を正す」と言っても、具体的に何をするかは、以下のように様々なバリエーションがある。

編集

後漢鄭玄は、子路篇の注釈(『論語義疏』所引)や、『儀礼』聘礼篇、『周礼』外吏篇・大行人篇の注釈で、「名」とはすなわち「字」(文字漢字)の同義語である(経書が書かれた時代の古称である)と解釈した[10]。つまり、鄭玄は「正名」を「字を正す」ことだと解釈した。

鄭玄の「字を正す」説は、とりわけ清代考証学者たちに支持された[11][12]。考証学者たちは、「字を正す」説を敷衍して「字の形音義を正す」と解釈した上で[13]文字学中国語版音韻学・訓詁学の三学(小学)を推進した。つまり、考証学者が小学を重んじた背景の一つとして正名思想があった[14]。『隋書経籍志も「正名」を小学と結びつけている[15]

鄭玄の「字を正す」説に近い解釈として、『論語集解』所引の馬融の解釈(「正百事之名」)がある[11][5]

名物学 編集

漢代以後、訓詁学から派生して「名物学」と呼ばれる学問分野が形成される[16]。この名物学の営為が「正名」である、とされることもある[17][18][19][20]

名物学では「字を正す」ことではなく、「名」と「実」の二者を合致(一致)させることが「正名」とみなされる[21]。ここでいう「実」は、「形音義」の「義」または「物」とおおよそ同義である。つまり「実」は「名前が指す物」「単語の意味」を意味する(定訳は無い)[注釈 2]

名物学の書物の筆頭として、前漢頃の『爾雅』、および後漢末の『釈名』がある[16]。『釈名』が後漢末という乱世に書かれたのは、正名思想に基づいて乱世を正そうとしたためである、とする推測もある[23]

江戸時代の松岡恕庵は、自身の名物学的な本草学を「正名」「格物」と称していた[21]

明治時代に「日本の植物学の父」として和名整理を推進した牧野富太郎は、伝統的本草学・名物学にも通じていたことから、背後に正名思想があったと言われる[20]

なお、江戸時代の名物学においては、「名を正す」ではなく「正しき名」という意味で「正名」を術語的に用いる場合もあった[24][17]。その場合の「正名」は「俗名」の対義語であり、意味は本項の「正名」よりも現代の分類学用語の「正名」または「学名」に近い。

その他 編集

礼記』祭法篇では、上古聖人黄帝が万物に名前を与えた、という神話的な事績を「正名」と称している[25][10]

ある分野の書物において、その分野の用語を定義・整理する行為を「正名」という場合もある。つまり例えば、馬建忠馬氏文通』正名篇や羅常培の著作といった中国語学の書物では、中国語学の用語を定義・整理することを「正名」と称している[26][27][28]。宋代の棋書囲碁の書物)『棊経十三篇』では、囲碁用語を整理する際に孔子の「正名」を引用している[29][注釈 3]。清代の呉有性中国語版の医書『温疫論中国語版』にも「正名篇」がある[30]

江戸時代の荻生徂徠『弁名』(辨名)では、孔子の「正名」を引用した上で、聖人の命名や儒学用語の定義について論じている[31][32]。徂徠に関してはその他にも、『読荀子』において後述の『荀子』正名篇が着目されたり、徂徠学において後述の「称謂」が論題になったりしている[33]

皆川淇園の言語論である「開物学」も正名思想の要素をもつ[34][35]。淇園には徂徠の『弁名』と同趣旨の著作『名疇』がある[36]

清の龔自珍『六経正名』では、本来は「六経」だった経書が「十三経」などと増加したことを問題視した上で、「経」という言葉を正すという意味で「正名」を用いている[37]。龔自珍はその他にも『保甲正名』『地丁正名』を著しており[38][39]、後述の董仲舒の「正名」の影響も受けているとされる[40]

清末章炳麟訄書中国語版』の付篇『正名雑義』では、姉崎正治などの明治思潮や西来思想を取り入れた独自の言語論を展開している[41]

翻訳という行為に関して「正名」を用いることもある[7]。例えば、玄奘大唐西域記』序、清末の梁啓超『論訳書』では、外国語を正しく翻訳することを「正名」としている[7]。清末の王国維『哲学辨惑』では、「哲学」という言葉の意味を分析したり、「哲学」の異訳としての「理学」を論評したりする際に「正名」を用いている[42]

名分を正す 編集

「名分を正す」とはどのような行為かは、以下の『論語』顔淵篇の孔子の教えに集約される[43][44]

原文
齊景公問「政」於孔子。孔子對曰:「君君,臣臣,父父,子子。」公曰:「善哉!信如君不君,臣不臣,父不父,子不子,雖有粟,吾得而食諸?」[45]

書き下し
齊の景公政を孔子に問ふ。孔子對へて曰く、君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり。公曰く、善きかな、信に如し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾得て諸を食はんや。[46]

現代語訳(要約)
斉の景公が孔子に「政治とは何か」を尋ねたところ、孔子は次のように答えた。「君主が君主であり、臣下が臣下であり、父が父であり、子が子である」ことである、と。[注釈 4]

「名分を正す」という行為は、基本的にはここでいう「君主が君主であり……子が子である」ようにする行為をいう[43][44][注釈 5][注釈 6]朱熹の『論語集注』では、孔子の「正名」は「名分を正す」と解釈される[51][43][52]

「君主が君主であり……子が子である」状態とは、言い換えれば、上下関係身分職分役割意識などが遵守されている状態である。一方「君主が君主ではなく……子が子ではない」状態とは、臣下による君主の傀儡化、僭称弑逆下剋上、職分侵犯、御家騒動などが起きている状態である。そしてまさに、子路篇で言及されている当時の衛国は、御家騒動の只中にあった[53][注釈 7]

「名分が正しい/正しくない」という状態は、「名と実が合致(一致)している/乖離している」状態と言い換えられる。ここでいう「名」と「実」は、「君・臣・父・子などの称号」と「実際の振る舞い」のような意味をもつ(定訳は無い)。

「名分を正す」という行為は、儒教の主要なトピックである「」「称謂」「春秋」「正統論」と関わる。それらのトピックを踏まえて、江戸時代中後期には藤田幽谷『正名論』などの正名論が流行した。

編集

儒教における「」とは、平たく言えば「規定」「規範」「マナー」のことで、具体的には、冠婚葬祭「死」の言い方服忌服飾建築青銅器礼器中国語版)などの細かい規定をさす。それらの規定においては、「君臣」「父子」「貴賤」「親疎」「長幼」などの区別が論点になる。その他にも、郷村饗宴郷飲酒礼中国語版)における「主人と賓客」の区別なども論点になる[55]。儒教では、それらの細かい規定こそが、結果的に社会全体に秩序と調和をもたらすのだと考えられていた[56]

以上のような「礼」という営為がすなわち「名分を正す」である、とされることもある[56]

称謂 編集

「正名」は「称謂」とも深く関わる[57][58]。ここでいう称謂とは、爵位名称・官位名称・親族名称などの称号を中心とした、様々な事物の名称をさす[注釈 8]。称謂は上述の名物学や礼の対象でもある[59]

江戸時代の徂徠学では、古代中国への憧憬や文人意識(例えば「一字姓」に象徴される)などから、日本の制度・事物の称謂を中国風に改める、という論が展開された[60]。そのような徂徠学に対して、寛政期の朱子学者・尾藤二洲菱川秦嶺は批判を与えつつ、各自の称謂論を展開した[57]。これらを背景に、江戸時代には称謂の書物が多数書かれた。その例として、太宰春台『親族正名』、尾藤二洲『称謂私言』、菱川秦嶺『正名緒言』[注釈 9]猪飼敬所『操觚正名』、伊藤東涯『刊謬正俗』、留守希斎『称呼辨正』などがある[57][62]

春秋・正統論 編集

歴史書の『春秋』は、儒教の教説によれば、孔子が君臣の分を正すために制作した歴史書であるとされる[63]。とりわけ、各国の君主の「死」の言い方爵位名称などの記述にそれが表れているとされる[64]。『春秋』は経書の一つに含められ、伝統的に儒学者たちに重んじられた。

そのような『春秋』の伝統と並行して、儒教では古くから「」という称号が議論の的になってきた。すなわち、戦国時代には「戦国七雄」として知られるように各国の君主が「王」を名乗ったが、儒教では「王」が同時に複数いることは望ましくないとされる[65]。その他、『孟子』『荀子』で論じられる「王覇の辨」(王道覇道の区別)[66] や、『孟子』梁恵王下篇で論じられる「誅一夫」(湯武放伐の正当化)[67]などの論がある。

以上の『春秋』などの伝統を踏まえて、後世の史論においては「正統論」が論じられた。正統論はとりわけ宋代に盛んになり、欧陽脩蘇軾司馬光章望之・朱熹らによって、主に三国時代曹魏蜀漢をめぐる正統論争が展開された[68][69]。この正統論争で論点になったのは、『春秋公羊伝』に由来する「一統」と「居正」の対比の問題、すなわち、王朝の成立条件は政治的支配力なのか君臣の徳義なのか、という問題だった[70]。そのような正統論争を背景として、司馬光『資治通鑑』、朱熹『資治通鑑綱目中国語版』などの歴史書が著され、日本でも広く読まれた。また日本でも南北朝正閏論が論じられた[71]

江戸時代 編集

後期水戸学の創始者・藤田幽谷は、以上の礼・称謂・春秋・正統論などの伝統を踏まえて、主著の『正名論』を著した[注釈 10]

『正名論』の論点は、徳川将軍」の称号を正すことにある[73]。すなわち、徳川の称号を「摂政」に改めるべきだと幽谷は主張した[73]。この幽谷の主張は、言い換えれば、天皇こそが日本の王であり、徳川はあくまで天皇から政事を委任された臣下である、とする主張であり、同時期の松平定信大政委任論の主張とも通じる[73]。幽谷が創始した後期水戸学は、幕末尊王論明治天皇制に影響を与えたとされる[74][66]

藤田幽谷が『正名論』を著した時期、すなわち江戸時代中後期には、幽谷以外の学者も正名思想を論じていた。例えば、松平定信『正名考』[75]山県大弐『柳子新論』正名章[76]、上述の「称謂」の書物、中井竹山『逸史』、頼山陽日本外史』などで正名思想が論じられていた[62]国学者本居宣長は、そのような漢学者たちによる「正名」の流行を批判したが、その宣長も孔子の「正名」に対しては例外的に好評していた[77][78]

江戸時代の「正名」の流行の端緒になった人物として、新井白石を位置づける見解もある[73]。白石は、著作の至る所で正名思想を展開しており、江戸時代当時から「正名思想家」のような人物として知られていた[79]。とりわけ、上述の幽谷や定信とは正反対に、徳川こそが日本の王であるとして、徳川の称号を「日本国王」と改めたことで知られる(国王復号、大君一件)。また、歴史書の『読史余論』を著したことでも知られる。

諸子百家 編集

 
荀子

以上の諸々の「正名」に先立って、戦国時代諸子百家も「正名」を論じていた[注釈 11]。具体的には、『荀子』正名篇、『呂氏春秋』正名篇・審分篇、『墨子墨辯、『公孫龍子』『尹文子』『鄧析子』『管子』などで「正名」が用いられている[80]。また「正名」という語句に限定せず、「名」「実」「君臣父子」などの語句について言えば、諸子全般で頻繁に用いられている。

諸子における「名」は「言葉」と「名分」の両方が混在していた[81]。さらに第三・第四の意味が混在することもあった。例えば、賞罰術・黄老思想(形名思想・刑名思想)に関する文脈で「正名」が用いられたり[82][注釈 12]、「名誉・名声」に関する文脈で「名実」が用いられたりすることもあった[83][84][注釈 13]

一方で、20世紀胡適は、そのような「名」の多義性を差し置いて、諸子の「正名」を西洋の「論理学」と結びつけて解釈した[85][86][87]。この解釈は、21世紀現在では批判の対象になっている[86][87]

「正名」「名」「実」「君臣父子」などの語句は、『荀子』が特に頻繁に用いている。上述の荻生徂徠は、『読荀子』において『荀子』正名篇を自身の言語論に取り込む形で解釈している[33]

孟子』は、「正名」という語句は用いないものの、「名」「実」「君臣父子」などの語句は『荀子』に劣らず頻繁に用いている。特に『孟子』滕文公下篇では、楊朱墨翟の為我説・兼愛説を、「君臣父子」を無みする邪説として非難した上で、そのような邪説を打破するために孟軻は「辯」を好むのだ、と語られる[63][88]。なお、『孟子』滕文公下篇の同章は、『春秋』孔子制作説の由来にもなっている[63]

儒家以外では、とりわけ『公孫龍子』『尹文子』『鄧析子』といった名家がこれらの語句を頻繁に用いている。班固の『漢書芸文志における諸子の説明(九流十家中国語版)では、名家という集団について説明する際、彼らを古代の「礼官」に由来する集団と推定した上で、孔子の「正名」を引用している[89]。また、清代の章学誠は著書『校讐通義』で、上述の『爾雅』にまつわる儒学者たちの営為を、「辨名正物」と表現した上で、名家に連なる営為とみなしている[90][91]

儒家・名家と並んで、法家雑家の『管子』『韓非子』『商君書』『呂氏春秋』などもこれらの語句を頻繁に用いている。「名分」と関わる儒家思想の「三綱」(君臣間・父子間・夫婦間の恭順)は、本来は儒家ではなく法家の思想だった、とする指摘もある[92]

以上のような諸子の延長線上に位置する形で、新出文献の馬王堆帛書黄帝四経』や、前漢董仲舒に帰される『春秋繁露』でも、「正名」が用いられている[93]

関連項目 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 以上の要約は加地伸行論語 全訳註 増補版』をもとにしている。加地は元々は名実論の専門家でもある[3]。なお加地自身の解釈としては、後述の鄭玄に従って「字を正す」と解釈している[4]
  2. ^ 「実」は、現代では慣例的に「実体」と訳されることが多いが、西洋哲学史用語の「実体」とは一切関係ない[22]
  3. ^ 前近代東アジアにおいて、囲碁は儒学の素養を修めた文人が嗜む遊びだった。(琴棋書画
  4. ^ 加地伸行は意訳して「主君は主君の本分を、臣下は臣下の務めを、父親は家長の責任を、子女は家族としての勉めを、それぞれ果たして安定していること[47]」と訳している。
  5. ^ 「名分」の二字は、もともと儒家書でなく『荘子』『管子』『商子』『呂氏春秋』『尸子』『尹文子』などの諸子書で使われていた[48]。儒家で最初に「名分」を使ったのは司馬光資治通鑑』とされる[49]
  6. ^ 「名分」は「君臣父子の分」「上下の分」などとも言い換えられる。「~の分」は「~の別」「~の弁」(辨)とも言い換えられる。「君臣父子」に「夫婦」「兄弟」「母」「農士工商[50]」などを加えることもある。そのほか「名分」の関連語句として、「貴賤」「親疎」「長幼」「尊卑」本分」「定分」などの語句がある。
  7. ^ 具体的には、出公とその実父の蒯聵が抗争を繰り広げていた。そしてまさに、子路はこの抗争に巻き込まれて死ぬことになる[54]
  8. ^ 明確な定義は無い。
  9. ^ 『正名緒言』という題名は柴野栗山の命名による[61]
  10. ^ 『正名論』の名分論は『資治通鑑』の名分論を土台にしている[72]
  11. ^ 厳密には、『管子』や『尹文子』は戦国時代より後に成立したとされる。
  12. ^ 刑名思想とは別に、『荀子』正論篇・正名篇などでは「刑罰の名称」(「墨黥」など)が論題になっている。
  13. ^ 名誉・名声については 森 2005 が詳しい

出典 編集

  1. ^   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:論語/子路第十三
  2. ^   ウィキソースには、論語 (漢文叢書)/子路第十三の原文があります。
  3. ^ 加地 2012.
  4. ^ 加地 2009, p. 293.
  5. ^ a b c 森 2005, p. 37.
  6. ^ a b 曹 2017, p. 97-101「1. "正名" 就是正 "字" …… 2. "正名" 就是正 "政" …… 3. 孔子之 "正名" 是中国逻辑学的先声」.
  7. ^ a b c 河合 2023.
  8. ^ 森 2005, p. 35.
  9. ^ 森 2005, p. 111.
  10. ^ a b 吉川 1988, p. 13-15.
  11. ^ a b 水上 1997, p. 195-197.
  12. ^ 吉川 1996, p. 115.
  13. ^ 曹 2017, p. 97f (段玉裁説文解字注』所収の江沅「説文解字注後叙」).
  14. ^ B.A.エルマン 著、馬淵昌也・林文孝・本間次彦・吉田純 訳『哲学から文献学へ: 後期帝政中国における社会と知の変動』知泉書館、2014年、66頁。ISBN 978-4862852007 
  15. ^ 興膳宏; 川合康三隋書經籍志序譯註(三)」『中國文學報』第28号、京都大學文學部中國語學中國文學硏究室內中國文學會、130頁、1977年https://doi.org/10.14989/177336 
  16. ^ a b 青木 1988, 名物学序説.
  17. ^ a b 島田 1985, p. 359-362.
  18. ^ 杉本 2006, p. 33.
  19. ^ 木場 2020, p. 100f.
  20. ^ a b 鶴田 2023, p. 124.
  21. ^ a b 太田 2012, p. 148-156.
  22. ^ 加地 2012, p. 76.
  23. ^ 大島正二『「辞書」の発明 中国言語学史入門』三省堂、1997年、37頁。 
  24. ^ 磯野直秀 解題. “芳園巡逍録 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2020年11月15日閲覧。
  25. ^   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:禮記/祭法
  26. ^ 加地 2012, p. 53.
  27. ^ 鈴木義昭「中国語副詞の分類について(1)」『講座日本語教育』第24巻、早稲田大学日本語研究教育センター、1989年、56;70、hdl:2065/3228 
  28. ^ 阿久津智「音韻と日本語学習」『拓殖大学日本語教育研究』第3巻、2018年、35頁。 
  29. ^ 宇野精一訳、呉清源解説『忘憂清楽集講談社、2004年(初出1983年)、37頁
  30. ^ 真柳誠. “『温疫論』解題”. square.umin.ac.jp. 2023年10月4日閲覧。
  31. ^ 相原耕作「古文辞学から徂徠学へ 「聖人命名説」と荻生徂徠の言語戦略」『政治思想研究』第7巻、2007年、118-147頁。 
  32. ^ 大川 2012, p. 171(相原2007の参照).
  33. ^ a b 大川 2012, p. 171.
  34. ^ 浜田秀「皆川淇園論(1)」『山邊道 : 国文学研究誌』第44号、天理大学国語国文学会、2000年。 NAID 120005858249https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3106/ 8頁。
  35. ^ 浜田秀「皆川淇園門人公巌口授・恵広筆記『易学開物小箋記聞』について(上)」『近世京都』第3号、近世京都学会、2019年。 NAID 130007896042https://doi.org/10.34440/kinseikyoto.0.3_39 71頁。
  36. ^ 浜田秀「倫理・言語・身体 淇園開物学管見」『近世京都』第1号、近世京都学会、2014年。 NAID 40022673276https://doi.org/10.34440/kinseikyoto.0.1_1 1頁。
  37. ^ 井澤耕一「劉師培『経学教科書』訳注(一)」『茨城大学人文学部紀要. 人文コミュニケーション学科論集』第4巻、2008年、212頁。 
  38. ^   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:保甲正名
  39. ^   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:地丁正名
  40. ^ 宇佐美一博「龔自珍思想試論 : とくに史を中心として」『待兼山論叢. 哲学篇』第9巻、1975年、40頁。 
  41. ^ 小林武「章炳麟『訄書』と明治思潮 ―西洋近代思想との關連で―」『日本中国学会報』第53巻、2003年、201頁。  / 小林武『章炳麟と明治思潮』研文出版、2006年、ISBN 4876362661
  42. ^ 楊 2014.
  43. ^ a b c 大川 2012, p. 192(あわせて『論語集注』子路篇「冉子退朝」章の注釈部分も挙げる).
  44. ^ a b 石川英昭「孔子の礼思想」『法哲学年報』、日本法哲学会、1979年、178頁。 
  45. ^   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:論語/顏淵第十二
  46. ^   ウィキソースには、論語 (漢文叢書)/顏淵第十二の原文があります。
  47. ^ 加地 2009, p. 280.
  48. ^ 森 2005, p. 40f.
  49. ^ 森 2005, p. 48.
  50. ^   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:荀子/王制篇
  51. ^   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:四書章句集註/論語集注卷七
  52. ^ 曹 2017, p. 98.
  53. ^ 吉川 1996, p. 113.
  54. ^ 加地 2009, p. 294.
  55. ^ 礼記』郷飲酒義、『儀礼』郷飲酒礼、『荀子』楽論など
  56. ^ a b 土田 2011, p. 127.
  57. ^ a b c 梅沢 1984.
  58. ^ 大川 2012, p. 170f(梅沢1984の参照).
  59. ^ 周礼』、『爾雅』釈親、『釈名』釈親属など
  60. ^ 大川 2012, p. 170f.
  61. ^ 梅沢 1984, p. 79.
  62. ^ a b 大川 2012, p. 167.
  63. ^ a b c 野間文史『春秋三伝入門講座 第二章 春秋学の発生』1号、広島大学 東洋古典學研究會、1996b、99頁https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00025406 
  64. ^ 野間, 文史『春秋三伝入門講座 第一章 春秋経文の性格』1号、広島大学 東洋古典學研究會、1996a、90頁https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00025405 
  65. ^ 『礼記』曾子問「天無二日、土無二王」
  66. ^ a b 土田健次郎明石一紀 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『王道』 - コトバンク
  67. ^ 肖永明・李江 著、山下紀伊子 訳 著「『孟子』「誅一夫」の解釈と儒家政治理倫理観念の展開」、渡邉義浩 編『学際化する中国学』汲古書院、2019年。ISBN 9784762966330 169頁。
  68. ^ 大川 2012, p. 191f.
  69. ^ 林文孝 著「正統について」、伊東貴之 編『治乱のヒストリア:華夷・正統・勢(キーワードで読む中国古典)』法政大学出版局、2017年。ISBN 978-4588100345 
  70. ^ 大川 2012, p. 191.
  71. ^ 森 2005, p. 50.
  72. ^ 今井宇三郎・瀬谷義彦・尾藤正英 校注 1973, p. 10.
  73. ^ a b c d 大川 2020, p. 464f.
  74. ^ 大川 2012, p. 199(1970年代の尾藤正英の研究に由来する定説として).
  75. ^ 磯崎康彦. “みんゆうNet 生誕250年・松平定信公伝”. www.minyu-net.com. 福島民友. 2020年11月9日閲覧。
  76. ^ 梅沢 1984, p. 98.
  77. ^ 大川 2011, p. 190f.
  78. ^ 河合 2020.
  79. ^ 大川 2012, p. 172(湯浅常山『文会雑記』所引の服部南郭の白石評「唯正名ト云バカリデ」).
  80. ^ 「正名」の検索結果 / 「正其名」の検索結果 / 「名不正」の検索結果 - 中国哲学書電子化計画
  81. ^ 『荀子』正名篇など
  82. ^ 『呂氏春秋』正名篇など
  83. ^ 加地 2012, p. 269(『荘子』逍遥遊篇、『列子』楊朱篇).
  84. ^ 曹 2017, p. 72(『孟子』告子下).
  85. ^ 加地 2012, 第一部 第一章 中国古代論理学史研究の状況 .
  86. ^ a b 曹 2017, p. 10-18;100f.
  87. ^ a b Defoort, Carine (2021). “Confucius and the “Rectification of Names”: Hu Shi and the Modern Discourse on Zhengming”. Dao: A Journal of Comparative Philosophy 20 (4). https://www.academia.edu/87546272/Confucius_and_the_Rectification_of_Names_Hu_Shi_and_the_Modern_Discourse_on_Zhengming. 
  88. ^   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:孟子/滕文公下
  89. ^ 曹 2017, p. 106f.
  90. ^ 文教大学目録学研究会「章学誠『校讎通義』訳注(七)巻三「漢志諸子第十四」(中)」『文学部紀要』第29-2巻、文教大学、2016年、19f。 
  91. ^ 高田 1967, p. 232.
  92. ^ 土田 2011, p. 21(杜維明による指摘として、『韓非子』忠孝篇から).
  93. ^ 曹 2017, p. 66-68;104;166.
  94. ^ メイカム, ジョン [Makeham, John]「徐幹の『中論』版本について」『中国研究集刊』第4号、大阪大学中国学会、17頁、1987年https://doi.org/10.18910/61160 

参考文献 編集

関連文献 編集

原典文献 編集