フォーライフ・レコード

かつての日本のレコード会社 (1975-2001)

株式会社フォーライフ・レコード(FOR LIFE RECORDS)は、1975年から2001年まで存在した日本のレコード会社

1990年代に竣工したレコーディングスタジオ兼本社屋(現:国立音楽院校舎)
建物上部の校名下にフォーライフ・レコードのシンボルマークが残されている。

当社の設立は、現役ミュージシャンがレコード会社を設立するという、当時大きな社会的反響を呼んだJ-POP史に残る大事件であった[1][2][3][4][5][6]。2002年以降、新設会社フォーライフミュージックエンタテイメントが事業を継承している。

概要 編集

小室等吉田拓郎井上陽水泉谷しげるといった当時人気のフォークシンガー4人が1975年に設立したレコード会社[7][8][9]。小室が初代代表取締役社長、後藤由多加が副社長、井上・吉田・泉谷が取締役に就任。社名の「ライフ」は吉田の発案で「人生」という意味[10][11]。吉田は「トゥーライフ」にしたかったが、みんなでわいわいやっている内に「フォーライフ」になったという[11]

1975年2月26日付報知新聞一面に《100億円の"旗揚げ"》という大見出しで「井上陽水 吉田拓郎 レコード会社設立」という記事が掲載された[4][10]。新レコード会社が順調に発足すれば、井上30数億、吉田20数億、小室と参加を予想される泉谷ほかのメンバーで合わせて100億円の総売上高を誇ることになり、一気に大手レコード会社と肩を並べられる一大レコード会社が誕生することになる[4][12]。いわゆるスッパ抜き記事が出たため、レコード業界、マスコミは真相をつかむために上を下への大騒動となり、社会的な問題として広がっていった[5]。当時はフォークがレコード業界において大きな力を持っていたため業界は大混乱となった[5]

沿革 編集

設立の経緯 編集

設立のきっかけは、当時すでにCBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)内に個人レーベルを持ちレコーディングにおいてプロデュースという形で権限を与えられていた吉田が「その先の営業・宣伝における全権を握りたい」と考え、それに対し小室が提案したことだった[11][13]。吉田は1974年に後藤由多加とともにボブ・ディランのコンサートを見るため渡米、アメリカの音楽事情を知ったという背景があった[14]。小室も所属していたベルウッド・レコードニューミュージック方面の販売促進力の弱さなどに不満があった[4][12][13]。吉田は当時のインタビューで「今のレコード会社の年功序列的な組織の中ではプロデューサーとしては何もできない。俺たちの力では崩せない壁がある。プロデューサーという価値観が会社の方でも解ってない。日本ではプロデューサーの評価が全然ない。ミュージシャンだけでなくそれに携わった全部の人が評価されるシステムを作りたい」と述べている[11]。大手レコード会社の意向が絶対だった時代に、ビジネス優先の作品づくりから、アーティスト主導による作品づくりをしたい想いがあった[15]

小室は吉田と二人でやるつもりでお酒を飲みながら話を進めていたが、吉田が「俺と小室さんの二人でやるんじゃ分かりやすくて面白くない。井上陽水が入るんならやってもいい。あんた陽水と親しいなら話してみてくれ」と言われた。小室は、承諾はしないだろうと予想して井上に話したら「参加したい」と言われた[10][16]。井上はその理由について「環境を変えてみたかったこと」と「吉田拓郎の近いところにいるのも面白いと思った」と答えた[16][17]。この3人で話し合いをしてみたが、何か足りない、もう一人毒のあるのが欲しいとなって吉田が泉谷に声をかけ4人になった[10][16]。泉谷は「フォーライフは吉田拓郎という天才がつくったもの。オレは誘われただけ」[18]、「俺がアメリカに遊びに行ってる間に、知らないうちに決まっていた」などと話している[19]。吉田・井上とも所属のレコード会社とちょうど契約の切れるいいタイミングだった[20]。小室と吉田は、最初にベルウッド・レコードを辞めた三浦光紀に話を持ちかけたが、三浦のスタッフに拒否された[21]

当時の音楽状況 編集

戦後からレコード会社主導で発展して来た日本の音楽界では、アーティストがレコード会社を持つということは非常に挑戦的なことであった[22]。歌手・アーティストが曲の制作から広報、営業まで強い権限を持つことで、それまでの組織型の業界のシステムを根本から覆してしまうと、音楽業界の反感は強かった[23]。当時の音楽業界はレコード会社の権限が圧倒的に強く、アーティストは契約"される"側で、経営者はアーティストを選別、売れなくなると切り捨てるという関係が当たり前だった[24]。自作自演が中心だったフォークとは無縁のようでいて、年3枚のアルバム契約の縛りや、自身の意向とは無縁のシングル盤リリースなど、対レコード会社との力関係は圧倒的にアーティストに不利だった[6]。吉田がエレック時代は社員扱いのため給料制で、CBS・ソニーに移籍した際、莫大な印税が振り込まれ驚き、アーティストの権利について初めて考えたといわれる[6]

事態を憂慮した日本レコード協会は定例理事会を開き「吉田、井上らの新レコード会社の販売は引き受けない」ことを申し合わせ[4]、各レコード会社にプレスも販売も認めないでくれと通達がまわった[25]。海外ではビートルズローリング・ストーンズレッド・ツェッペリンなど、当時から自分のレコード会社を持つアーティストは多かったが、それらも自分たちが録音したものを既成の大メーカーに売るという制作会社で、この時のような制作から販売までするということではなかった[5]

業界筋、ジャーナリスト間では"実現できそうもない夢だよ"との見方が大方であったが、マスメディアの反響の余りの大きさに小室、吉田、井上の3人は今更引くに引けなくなり"意地でもやり抜こう"と結束[10][12]。吉田の友人の中には、プロダクションから吊るし上げに遭う者も出た。しかし多くの若者、フォークファンは賛辞を送った。2008年に吉田の曲を全編にわたって使用する映画『結婚しようよ』を監督した佐々部清は「レコード会社に喧嘩売った幕末の志士みたいでカッコよかった」と述べている[26]。吉田ファンの重松清は、自身を「フォーライフ世代」と述べている[27]

最も問題となったのはレコードのプレスと流通ルートであった。それらは殆んど大手レコード会社が持っていたため業界から圧力をかけられ、やむなく人件費が日本より安くなる韓国でのプレスや通信販売まで検討[10]。ただ大きな売上が予想されるだけに手掛けたいというのが各レコード会社の本音ではあった[4]。そこへ当時ポニーおよびキャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)の社長であった石田達郎が救いの手を差し伸べ、プレス・販売元をキャニオンレコード[注 1]、販売委託をポニーが受け持った[23][25][29]

会社発足 編集

1975年4月11日、高輪プリンスホテルで新レコード会社発足記者会見。この会見では300人の報道陣が集まり関心の高さを示した[10][14]。同年6月1日、小室、吉田、井上に、後から参加した泉谷のフォーク4人衆が「フォーライフ・レコード」を正式発足させた[5][12]。フォーライフ発足時のキャッチコピーは、"私たちに音楽の流れを変えることができるでしょうか"だった[24]。フォーライフの設立は革命であり[24]サブカルチャーからメインカルチャーに躍り出た"70年代フォーク"の一つの到達点だった[24]。しかし、他のアーティストはあまり参加せず、野澤享司[31]がセカンド・アルバムをリリースした程度であった。業界全体売上が184億円だった1975年初年度の売上高は31億円に達した[29]。翌1976年の売上高は公称41億4千万円、実質20億7千万円といわれた[1]

その後 編集

第2・第3のフォーライフの追随を期待したが、そういった動きは全く無かった[10][32][33]世間からは「果たしていつまでいつまで続くか」と冷ややかな目で見られた[34]

発売タイトルがアイドル歌謡曲ロックバンドに偏重するようになると、創業メンバーに足並みの乱れが生じる。

1977年3月期の総売上が8億円になったことで小室に代わり吉田が代表取締役社長に就任[1][12]。井上、泉谷は吉田の社長就任に反対したが[15]、「みんなの意見を聞いていたら3ヵ月で出るレコードが1年かかる。フォーライフの再建は俺しかない」と吉田が社長に就任[15]。社長交代で小室、井上、泉谷の3人は経営から手を引き、一プロデューサーになり、吉田のワンマン体制が敷かれた[12][15]。各メディアは「経営不振、内紛が原因」と報じた[1]。吉田は自身の音楽活動を辞め社長業に専念[15]。大手プロダクションやレコード会社社長と接待ゴルフをしたり酒を飲み交わした[15]。吉田のプロデュースで原田真二がデビュー、大きな利益を挙げたものの、その原田が早々に移籍するなど、フォーライフ側の狙う方向性と、次世代アーティストの理想との間に乖離が出てきた[6]。吉田が社長になり水谷豊など歌謡曲も手がけるようになったことに対し、泉谷は、以前のフォーライフの考え方と違うと問題を提起、同年7月13日に退社[18][35][36]。作り手側の理想と、利益を生み出さねばならぬレコード会社の現実という問題に直面することになった[6]。泉谷と他の3人は10年間仲違いがあり[19]、泉谷は「フォークの裏切り者」のレッテルを貼られライブをやってもお客が入らなくなり[19]、その頃、向田邦子からオファーがあったのが役者の仕事だった[19]1982年、吉田に代わり後藤が社長に就任した。販売・流通は後の1990年代にポニーキャニオンから離れ、BMGジャパン(現:アリオラジャパン)、SMEJ(現:ソニー・ミュージックソリューションズ)に移管した。

倒産と新会社への事業譲渡 編集

1990年代前半はZOOさねよしいさ子等の楽曲がスマッシュヒット、杏里のアルバムが立て続けに1位セールスを記録したものの、1997年に入ると、長渕剛が長年在籍した東芝EMIより電撃移籍があったが、1994年のフォーライフ・レコード移籍時にプライベートレーベルまで置いた坂本龍一や前年「PRIDE」でミリオンセラーとなった今井美樹ら主力アーティストが相次ぎ他社へ移籍。A&Rによる新人アーティスト売上不振と世田谷区池尻に銀行融資で竣工したレコーディング・スタジオを兼ねた本社ビルの返済負担から経営が悪化。

1999年発売、井上の『GOLDEN BEST』がダブルミリオンを記録、売上は井上に大きく依存する状況になった。1999年に創業当時から在籍した吉田、2000年に1978年のデビューから在籍した杏里が他社へ移籍。2001年9月末、原盤権を有すアーティストのベスト・アルバムPURE BEST」をレーベル主導で企画、10タイトルを発売。

2001年11月14日、フォーライフ・レコードは臨時株主総会で同日付での解散を決議、本社所在地界隈の地名を冠した株式会社三宿産業へ社名変更。新設した株式会社フォーライフミュージックエンタテイメント(FLME)に対してレコード会社としての業務・資産全てを売却譲渡した(後藤はFLME社長として続投する一方、三宿産業の清算人となる)。同年12月に三宿産業は東京地裁特別清算を申請し、翌2002年2月22日付で特別清算開始決定。2004年6月18日付で特別清算終結が確定し、清算が完了。新旧分離による経営再建策であるが、未だこの手段は普及していなかった。三宿産業の負債総額は約60億円。本社屋は2003年に国立音楽院が買収、校舎として使用されている。

フォーライフ・レコード時代の旧盤・楽曲は廃盤済タイトルを含め、全事業承継したFLMEから発売・企画が継続されている。

フォーライフ・レコード設立の影響 編集

設立までの経緯としてフォーク系アーティストたちの"権利ビジネスの目覚め"という見方がある[29]。1974年に吉田が楽曲提供した森進一の「襟裳岬」が大ヒットして以降、ニューミュージック系アーティストが歌謡曲歌手に楽曲提供する事例が増えたが、ソングライターであることが、場合によってはシンガーである以上の利益をもたらす。そうした権利に目覚めたアーティストたちの帰結として生まれたのが、アーティスト主導のレコード会社・フォーライフ・レコードだったのである[29]

フォーライフの最大の功績は、アーティストたちがプロデューサー的権限を強め、自身の権利を主張し保護する契機となったことである[6]。フォーライフ設立以降大きな産業となったニューミュージックの利権、歌の著作権を巡り、アーティストあるいはプロダクション主導型のレコード会社が続々設立[6]作曲家だった村井邦彦が1977年アルファレコード、1978年にはEPIC・ソニー(現:エピックレコードジャパン)、SMSレコード[注 2]ケンウッド・レコードなど。これらはいずれも大手レコード会社や大手プロダクションが設立したもので、現役アーティストが設立したものではないが、1978年から1979年にかけさだまさしフリーフライト井上堯之のウォーター・レコード、加藤和彦内田裕也のカメリア・レコードなど、配給・宣伝は大手が行ない、制作だけを手掛けるレコード会社が設立された。他に日本のコンサートイベンター、ヤング・ジャパンポリグラムと提携してポリスターを設立するなどレコード会社の設立ラッシュとなった[38][39]

この頃から大手プロダクションから独立するタレント、マネージャー、社員が相次ぎ、個人事務所や新しい芸能プロダクションが設立された[注 3]

富澤一誠は「フォーク・ニューミュージックは、1977年までは吉田拓郎、井上陽水にリードされ、常にその影響下にある時代が続いていたが、1977年に泉谷しげるが退社、フォーライフの一角が崩れ、圧力が弱まった間隙をついて新しい音楽性を持った新人が飛び出して来た。時代そのものがガラリと変わってしまった」と述べている[41]

ヤング・ギター」は、吉田を強力に応援したことで知られるが[42]、初代編集長・山本隆士は「メジャーでできないことをやろうというのがフォーライフだった。それが果たしてずっと続いたかというと、結局は分裂してしまったけど、でもメジャーの体制もフォーライフの登場によって変えられたのかなと思う」などと述べている[43]。小室は1991年のインタビューで「フォーライフが今でも続いていることの意義があるとしたら、それは二代目社長の吉田の功績が大きいんじゃないかと思う」と述べている[44]

なお、フォーライフ設立から1990年代半ばまでの状況は小室等・吉田拓郎の楽曲 「君に会ってからというものボクは」にまとめられている。

ディスコグラフィ 編集

シングル(7インチEP) 編集

アルバム(12インチLP) 編集

2001年時点で所属・リリースをしていたアーティスト 編集

あ行 編集

か行 編集

さ行 編集

た行 編集

な行 編集

は行 編集

ら行 編集

かつて所属していたアーティスト 編集

あ行 編集

か行 編集

さ行 編集

た行 編集

な行 編集

は行 編集

ま行 編集

や行以降 編集

販売元 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 実際のカッティングとプレスは東洋化成に委託していた[28]
  2. ^ 1970年に渡辺プロダクションがアメリカのワーナー・ブラザースと合弁で設立したワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)を、1978年に渡辺プロダクションが資本撤退し、新たにトリオ(現:JVCケンウッド)と西武百貨店の3社で設立したレコード会社[37]
  3. ^ タレントにとっては大手芸能プロダクションに所属している方が有利だが、人気と仕事さえあれば個人事務所を設立した方が利益になる。特に原盤制作権を握ることが可能となったニューミュージックの歌手たちは、テレビに出演しなくても利益が上がるため、大手芸能プロの所属を必要とせず個人事務所を設立した[40]
  4. ^ 正式なデビューは本レーベルから。実質のデビューシングルは1993年にBMGルームスから発売した「あなたがわからない」。
  5. ^ 1975年の第一回フォーライフ・レコード新人オーディションに合格後、1977年8月25日に「軽い気持ちで」でデビュー予定だったが見本版だけ作られただけでデビューはしていない。1978年に音楽制作プロダクションビーイングを設立し、音楽プロデューサーとして活躍。フォーライフではザ・モータースポーツ・ミュージック、ムッシュかまやつ、田中律子のプロデュース。1984年には井上陽水のシングル「悲しき恋人」をパインジュースの缶名義で楽曲提供している。

出典 編集

  1. ^ a b c d 富澤一誠『ニューミュージックの危険な関係:富沢一誠の内幕レポート』青年書館、1978年、p64-68
  2. ^ 小室等 - CDJournal.com 小室等 / 明日
  3. ^ 『Vol.14 フォークソング+朗読劇 レコード会社の新しい試み』
  4. ^ a b c d e f 富澤一誠『ニューミュージックの衝撃』共同通信社、1979年、p203-217
  5. ^ a b c d e 「吉田拓郎と井上陽水が手をつなぐ日」新譜ジャーナル、1975年6月号、自由国民社、17-20
  6. ^ a b c d e f g 馬飼野元宏『日本のフォーク完全読本』、2014年、シンコーミュージック・エンタテイメント、p245
  7. ^ ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎 これが青春、p148-153
  8. ^ にほんのうた 戦後歌謡曲史、北中正和、p184
  9. ^ 国立音楽院ホームページ 施設紹介
  10. ^ a b c d e f g h 「小室等が語るフォーライフ設立秘話」『AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!』朝日新聞社、2006年4月1日、48頁。 
  11. ^ a b c d 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、自由国民社、2003年、p222-223
  12. ^ a b c d e f 長田暁二『わたしのレコード100年史』英知出版、1978年、p259-263
  13. ^ a b 吉田拓郎『自分の事は棚に上げて』小学館、1992年、p130-141、吉田拓郎『明日に向かって走れ』p191-198、吉田拓郎『もういらない』祥伝社、2002年、p94-95
  14. ^ a b 井上陽水 FILE FROM 1969、TOKYO FM 出版、2009年、p66
  15. ^ a b c d e f 「'70年代ヒットパレード大特集 あのとき僕らの言葉が歌になった! 吉田拓郎が駆け抜けた節操なき10年」『FLASH臨時増刊 Extime(エクスタイム)』、光文社、2007年10月10日、28-34頁。 
  16. ^ a b c 関口宏の人生の詩』、BS-TBS、2015年9月22日放送
  17. ^ 相倉久人『日本ロック学入門』新潮社、1986年、p173
  18. ^ a b 泉谷しげるが会社経営をめぐり吉田拓郎とケンカ別れをした過去を語る”. Livedoor ニュース. LINE (2017年7月4日). 2017年7月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月30日閲覧。
  19. ^ a b c d 週刊文春 2014年1月30日号 p.124 - 128「阿川佐和子のこの人に会いたい 泉谷しげる」
  20. ^ 「歌手がレコード会社を困らせる時 井上陽水ら新レーベルを企画」『週刊朝日』、朝日新聞社、1975年3月14日号、36頁。 
  21. ^ 黒沢進『日本フォーク紀』シンコー・ミュージック、1992年、p133
  22. ^ 牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーブックス、2013年、p70-71
  23. ^ a b nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー
  24. ^ a b c d 田家秀樹特集 1970年代フォークソングの季節 サブカルチャーから若者文化の主流へ」『週刊昭和48年』第21巻、朝日新聞出版、2009年5月3日、pp. 14-16、 オリジナルの2015年10月22日時点におけるアーカイブ。 ()
  25. ^ a b 黒沢進『日本フォーク紀』シンコー・ミュージック、1992年、p138-139
  26. ^ 日刊スポーツ、2008年2月2日17面
  27. ^ 「ロングインタビュー 吉田拓郎 家族・時代・仕事をめぐる対話 〈聞き手・重松清〉」『すばる集英社、2010年3月号、122-150頁。 
  28. ^ 『analog』vol.8、analog特別インタビュー・手塚和巳音元出版2005年6月15日発売
  29. ^ a b c d 『ロック・クロニクル・ジャパンVol.1』音楽出版社、1999年、p177-179
  30. ^ 関西フォーク70'sあたり、中村よお、幻堂出版、p76
  31. ^ 拓郎が野澤のことをお気に入りで、よくラジオで野澤のレコードを放送した[30]
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  33. ^ インタビュー、日刊スポーツ、2005年5月28日
  34. ^ 名田貴好; 橋倉正信『青春音楽グラフィティ タイガースからYMOまで』集英社集英社文庫 COBALT-SERIES〉、1981年4月、31頁。 
  35. ^ 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'80s』自由国民社、2003年、p367
  36. ^ 富澤一誠『ニューミュージックの衝撃』共同通信社、1979年、p234-238
  37. ^ 渡辺芸能ビジネスを創った男、新潮社、179-186
  38. ^ 日本のフォーク&ロック史―志はどこへ―、1982年9月・田川律著・音楽之友社、p178-181
  39. ^ 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p137-139
  40. ^ 芸能ビジネスを創った男-渡辺プロとその時代、新潮社、176-177
  41. ^ 谷岡雅樹『竜二漂泊1983 この窓からぁ、なんにも見えねえなあ』、三一書房、2013年、p165 ISBN 978-4-380-13900-0
  42. ^ 吉田拓郎 これが青春 |シンコーミュージック・エンタテイメント
  43. ^ 『日本のフォーク完全読本』、p197
  44. ^ 村田久夫・小島智編「小室等インタビュー」『日本のポピュラー史を語る―時代を映した51人の証言』シンコーミュージック、1999年10月14日、84-87頁。ISBN 4-401-613-40-6 

外部リンク 編集