李忠成

日本の元プロサッカー選手 (1985-)

李 忠成(り ただなり、1985年12月19日 - )は、東京都保谷市(現:西東京市)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード、セカンドトップ)、ミッドフィールダー[6][7]。元日本代表

李 忠成
名前
愛称 チュン[1]、チュンソン[2]、ただなり、熱男、隊長
カタカナ リ タダナリ
ラテン文字 LEE Tadanari[注 1]、I Chung-seong[5]
基本情報
国籍 大韓民国の旗 韓国(1985年 - 2007年)
日本の旗 日本(2007年 - )
生年月日 (1985-12-19) 1985年12月19日(38歳)
出身地 東京都保谷市(現:西東京市
身長 182cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FWCFST[6][7]
MFOM[6][7]
利き足 左足
ユース
1998-2000 横河電機ジュニアユース(保谷市立柳沢中学校
2001-2003 FC東京U-18東京都立田無高等学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2004 日本の旗 FC東京 0 (0)
2005-2009 日本の旗 柏レイソル 108 (24)
2009-2011 日本の旗 サンフレッチェ広島 70 (26)
2012-2014 イングランドの旗 サウサンプトンFC 7 (1)
2013 日本の旗 FC東京(loan) 13 (4)
2014-2018 日本の旗 浦和レッズ 131 (24)
2019 日本の旗 横浜F・マリノス 10 (1)
2020-2021 日本の旗 京都サンガF.C. 22 (0)
2022-2023 シンガポールの旗 アルビレックス新潟シンガポール 45 (21)
代表歴2
2007-2008  日本 U-23 12 (4)
2011-2012[8] 日本の旗 日本 11 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年09月19日現在。
2. 2012年2月29日現在。
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李忠成/Tadanari Lee
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チャンネル
活動期間 2020年3月2日 -
ジャンル サッカー
登録者数 2.5万人
総再生回数 5,348,379 回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年11月9日時点。
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来歴 編集

プロ入り前 編集

東京都保谷市(現・西東京市)出身。碧珍李氏[9]韓国在日韓国人4世として生まれる[10][11][12][13]

名前はゴルファーの高橋勝と陳志に由来する[14]韓国語名はイ・チュンソン이충성[15]、Lee Chung-Sung)[16][注 1]。実家は西東京市田無で焼肉店を経営[17]。経営者である父、李鉄泰(イ・チョルテ)も、かつて横浜トライスターSCでプレーしたサッカー選手(センターバック[18])という経歴を持つ[10][19]。また、元サッカー北朝鮮代表金鍾成叔従父にあたる[20]。韓国籍であったが、2007年に日本に帰化している[21][11]

4歳の時にサッカーを始める[22]。東京朝鮮第九初級学校に在学し[注 2]、地元・こみねFCに在籍[注 3]。小学5年生で横河電機(現・東京武蔵野シティFC)ジュニアユースのセレクションに合格したため、6年生から同チームの練習に参加するようになる[19]。練習生として出場したFC東京U-15との練習試合で活躍し、相手監督の柴田峡から勧誘を受けたが、地元の田無から江東区FC東京深川グランドに通う負担を考え[注 4]、中学時代は横河電機ジュニアユースでプレーした[24]

2001年、東京都立田無高等学校に入学と同時にFC東京U-18に加入[注 5]。在籍時の3年連続で国体東京都選抜に選ばれ[11]、2001年にはクラブユース選手権優勝、高円宮杯およびJユースカップ準優勝に貢献した。2002年、関東サッカーリーグ得点王に輝き[16]、2003年にはプリンスリーグの優秀選手に選出された[16]

FC東京 編集

2004年、トップチームに昇格[16]。この時、父・鉄泰はクラブから日本帰化の意思を問われていたが、忠成が成人して自身の意思で帰化の有無を決められるようになることを待つべきとの判断から[注 6]、これを留保している[25]

同年に朴成華が指揮するU-19韓国代表候補に選ばれトレーニングキャンプに参加する[26][11]。この際、在日韓国人をさげすむ「パン(半)チョッパリ」(半分日本人)という悪口まで耳にし、祖国での冷たい扱いにショックを受けた[注 2][27]。プロ1年目となるFC東京では出場機会を得られず、何も通用しなかったと感じたため3年契約を結んでいたがシーズン終盤に自ら強化部長に「僕サッカー辞めます。」と退団を志望した[28][19]。一度サッカー選手を辞め、人間性を成長させるために大学へ行ってからもう一度プロに挑戦しようと決めて勉強を始めていたが、練習試合で対戦した柏レイソルGMから直接誘いを受けたため環境を変えて選手を続ける決意をした[28]

柏レイソル 編集

2005年に柏レイソルへ完全移籍[29][30]。同年に柏はJ2へ降格するが、主力選手の多くが退団したこともあり、2006年にはレギュラーに定着し、プロA契約を締結[31]。2006年から柏で付けていた背番号20番は、元韓国代表および元柏の洪明甫が付けていた番号で、李自身や柏にとって特別な番号として捉えていた。

同2006年、「大舞台で得点し、世界に在日韓国人の可能性をアピールしたい」と日本代表入りを希望。U-22日本代表監督反町康治からの勧誘もあって日本への帰化を決意し[12]、2006年9月22日に申請し2007年2月9日に認められた[21]

日本名は通名の大山忠成[10]あるいは橋本忠成[27] も考えていたが、「韓国姓を隠す必要がないことを示したい」との理由から、李忠成とした。また自身は「五輪がなければ国籍変更していない」[32] とも語っている。日本に帰化をしようとしたら親戚から猛反対され迷っていたが、母親から「思いを貫け」と言われたことで帰化を決意した[27]。6日後の2月15日に、北京オリンピックアジア予選に臨む、U-22日本代表メンバーに追加招集された[33]

J1復帰を果たした2007年には、FWフランサとの好連携から[34] 10得点を挙げ、柏のエース格となる。2008年には北京オリンピック本大会に日本代表として出場を果たしものの、柏では北京五輪出場など過密日程からくる疲労[35] に負傷も重なり[36]、4得点に終わる[12]。2009年、試合にこそコンスタントに出場するものの、ネルシーニョへの監督交代後はベンチ入りもままならなかった[12][37]

サンフレッチェ広島 編集

移籍期限が迫る2009年8月26日、怪我人などで前線の駒不足に陥っていたサンフレッチェ広島F.Cへ完全移籍した[38][37]。移籍金は3,000万円(推定)[39]。広島移籍は「広島のサッカーが好き」という理由と、Jリーグ草創期の小学校低学年で"血"を強く意識し憧れた盧廷潤が在籍したチームということもあるという[40][41][42]。背番号は広島でも20番を希望したが、すでに使用されていたため、かつて盧が付けていた9番を選んだ[40][43]。しかし、広島移籍後は佐藤寿人の前にほとんどが途中出場であり[12]、得点を挙げられなかった[44]

翌2010年4月13日ACL2010山東魯能戦において広島での公式戦初得点を挙げるものの、その後一時はベンチ入りさえままならなかった[45]。同年9月、佐藤及び山崎雅人の怪我による離脱に伴い先発メンバーに抜擢される[46][12]と、リーグ戦5試合連続得点をマークするなどシーズン終了までリーグ戦12試合で11得点[11]、また同年のナビスコカップ決勝戦においてもチームは敗れたが得点を挙げるなどゴールを量産した[45]

同年オフ、AFCアジアカップ2011に臨む日本代表に初選出[45][注 7]。2011年1月9日のグループリーグ第1戦ヨルダン戦の後半開始から途中出場で国際Aマッチ初出場を果たした[11]。1月29日の決勝戦オーストラリア戦では、延長前半9分から途中出場し、0対0で迎えた同後半4分に長友佑都からのクロスをボレーシュートで合わせ代表初ゴールを挙げる[11]。これが決勝点となり、日本代表は同大会で史上最多となる通算4度目の優勝を成し遂げた[27]。2011年のリーグ戦でも好調を維持し、リーグ3位タイの15得点を挙げ優秀選手賞を受賞[48][11]

サウサンプトンFC 編集

2012年1月25日、イングランド2部・フットボールリーグ・チャンピオンシップサウサンプトンFCへ完全移籍[49]。1月31日、ホームでのカーディフ・シティFC戦でリーグ戦初出場を果たした[50]。2月18日、ダービー・カウンティFC戦で移籍後初得点を決めた。その後もアシストを記録するなど首位争いを続けるチームに貢献していたが、3月末に右足靱帯損傷により全治4〜6カ月と診断された[51]。5月、クラブの年間表彰式でダービー戦の移籍後初得点が年間最優秀ゴール賞に選出された[52]

2012-13シーズン、チームがプレミアリーグに昇格するも、李を高評価していたナイジェル・アドキンス監督が退任したこともあって[13]リーグ戦では全く出場できず、カップ戦のみに出場に留まった。

FC東京へ復帰 編集

2013年2月、FC東京へ期限付き移籍が発表された[53][54]。U-18でも背負ったFC東京のエースナンバー「11[注 8]」を背負い、監督のランコ・ポポヴィッチからは能力を高く評価されていたものの[56]、怪我明けで完調までには時間が必要であるという判断から[57]、先発レギュラーには据えられず、途中交代での出場機会が主となった[58]。徐々にチームにフィットし[59]、FC東京からは完全移籍を打診されたが、短期契約の中で結果を求めていた李にとっては[60]、ポポヴィッチの起用法は不完全燃焼となるものであり[56]、この打診を固辞。同年6月、期限付き移籍期間満了による退団が発表された[61]

サウサンプトン復帰 編集

2013年9月に発表されたクラブのプレミアリーグ2013-14シーズンのメンバーに登録された。だが前シーズン同様カップ戦のみの出場に終わり、2014年1月に契約が解除された[62][63]

浦和レッズ 編集

2014年1月、得点力を買われ[13]、浦和レッズへ完全移籍[64]。同年はターゲット役としてチーム最多の敵陣空中戦数を記録した[65]同年発生した差別横断幕事件には浦和退団を考えるほどの大きなショックを受けたが、浦和レッズが「結果的に(李を退団に追いやるという)差別を許してしまったクラブ」という目で見られてしまうのではないかという憂慮から、残留を決めた[66]

2015年は中々コンディションが整わなかったが[67]、同年末の天皇杯では運動量豊富にチャンスに絡み[68] 4回戦、準々決勝、準決勝と3戦連続得点し9年ぶりの決勝進出に貢献した[69]

2016年は開幕から好調を維持し[70]、4月には猛烈なプレッシングと[71] チームを勢いづかせるゴールが認められ、同月度の月間MVPを受賞[72]。自身の希望するセンターフォワードでプレーできないもどかしさを抱えながらも[70]、通年では5年ぶりにJ1二桁得点を達成。また、同年のJリーグカップ決勝G大阪戦では途中出場から同点のヘディングシュートを決め、PK戦で勝利。大会MVPを受賞した[73]

横浜F・マリノス 編集

2018年12月27日、横浜F・マリノスへ完全移籍[74]。しかしエリキエジガル・ジュニオなど外国人FWの壁は高く、シーズン通して出場は途中出場10試合に留まった。

京都サンガF.C. 編集

2019年12月29日、京都サンガF.C.へ完全移籍[75]

アルビレックス新潟シンガポール 編集

2021年12月28日、アルビレックス新潟シンガポールへ完全移籍[76]。移籍1年目からリーグ戦22試合に出場、10得点をあげた[77]

2023年9月14日、今季限りの現役を引退することが発表[78] され、「いつも誰かに支えられて本当に素晴らしいサッカー人生を送ることができました」などのコメントを残した[79]

プレースタイル 編集

豊富な運動量で前線から激しいプレッシングをかけ、機敏な動きと溢れる闘争心でゴールに迫る泥臭いストライカー。日本人ストライカーには稀有な左利きであり、ウイングでも機能する、闘えるフォワードでもある[37][40]

人物 編集

2020年1月4日、モデルの樋場早紀との結婚を発表。同日に結婚披露宴を行った[80]。後に離婚した[81]

所属クラブ 編集

個人成績 編集

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2004 FC東京 27 J1 0 0 0 0 0 0 0 0
2005 25 8 0 3 0 0 0 11 0
2006 20 J2 31 8 - 0 0 31 8
2007 J1 30 10 5 0 1 0 36 10
2008 19 4 4 0 4 1 27 5
2009 20 2 5 3 - 25 5
広島 9 8 0 - 2 0 10 0
2010 30 11 3 2 2 0 35 13
2011 32 15 1 0 0 0 33 15
イングランド リーグ戦 FLカップFAカップ 期間通算
2011-12 サウサンプトン 19 FLC 7 1 - 2 0 9 1
2012-13 プレミア 0 0 2 1 1 0 3 1
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2013 FC東京 11 J1 13 4 6 2 - 19 6
イングランド リーグ戦 FLカップFAカップ 期間通算
2013-14 サウサンプトン 19 プレミア 0 0 2 0 0 0 2 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2014 浦和 20 J1 34 6 8 3 2 1 44 10
2015 24 2 2 1 4 3 30 6
2016 32 10 5 2 1 0 38 12
2017 21 3 1 0 0 0 22 3
2018 20 3 8 2 2 0 30 5
2019 横浜FM 10 1 4 1 0 0 14 2
2020 京都 J2 5 0 - - 5 0
2021 17 0 - 3 2 20 2
シンガポール リーグ戦 リーグ杯シンガポール杯 期間通算
2022 新潟S 19 プレミア 22 10 - 6 1 28 11
2023 23 11 - 4 0 27 11
通算 日本 J1 301 71 55 16 18 5 374 92
日本 J2 53 8 - 3 2 56 10
イングランド プレミア 0 0 4 1 1 0 5 1
イングランド FLC 7 1 - 2 0 9 1
シンガポール プレミア 45 21 - 10 1 55 22
総通算 406 101 59 17 34 8 499 126
その他の公式戦
国際大会個人成績 FIFA
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
AFCACLクラブW杯
2010 広島 9 6 3 -
2015 浦和 20 5 0 -
2016 5 2 -
2017 10 4 0 0
通算 AFC 26 9 0 0
出場歴

タイトル 編集

クラブ 編集

FC東京U-18
FC東京
浦和レッズ
横浜F・マリノス
アルビレックス新潟シンガポール

代表 編集

個人 編集

代表歴 編集

出場大会 編集

試合数 編集

  • 国際Aマッチ 11試合 2得点 (2011年 - 2012年)[8]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2011 10 2
2012 1 0
通算 11 2

出場 編集

No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦国 結果 大会
1. 2011年1月9日  ドーハ カタールSCスタジアム   ヨルダン △1-1 AFCアジアカップ2011
2. 2011年1月29日  ドーハ ハリファインターナショナルスタジアム   オーストラリア ○1-0 AFCアジアカップ2011
3. 2011年6月1日  新潟 東北電力ビッグスワンスタジアム   ペルー △0-0 キリンカップサッカー2011
4. 2011年6月7日  横浜 横浜国際総合競技場   チェコ △0-0 キリンカップサッカー2011
5. 2011年8月10日  札幌 札幌ドーム   韓国 ○3-0 キリンチャレンジカップ2011
6. 2011年9月2日  さいたま 埼玉スタジアム2002   朝鮮民主主義人民共和国 ○1-0 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
7. 2011年9月6日  タシュケント パフタコール・マルカジイ・スタジアム   ウズベキスタン △1-1 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
8. 2011年10月7日  神戸 ホームズスタジアム神戸   ベトナム ○1-0 キリンチャレンジカップ2011
9. 2011年10月11日  大阪 大阪長居スタジアム   タジキスタン ○8-0 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
10. 2011年11月15日  平壌 金日成競技場   朝鮮民主主義人民共和国 ●0-1 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
11. 2012年2月29日  豊田 豊田スタジアム   ウズベキスタン ●0-1 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選

ゴール 編集

No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦国 結果 大会
1. 2011年1月29日  ドーハ ハリファインターナショナルスタジアム   オーストラリア ○1-0 AFCアジアカップ2011
2. 2011年10月7日  神戸 ホームズスタジアム神戸   ベトナム ○1-0 キリンチャレンジカップ2011

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b 姓のラテン文字表記は、2007年版の各社の選手名鑑では 「RI」だが日本代表のユニフォーム(背番号上)では「LEE」となっている。日本サッカー協会は「Lee」と表記しているが、Jリーグでの登録は帰化当初「Ri」となり[3]、代表とリーグで登録名が異なっていた。その後、リーグでの登録名も「LEE」に変更された[4]
  2. ^ a b 韓国語はあまり得意でなく、FC東京ユースで同期だった韓国代表の呉章銀とも日本語で会話していた[23]。なお、呉はインタビューで「僕の日本語の方が、彼の韓国語よりうまかった」と回想している。のちに年代別韓国代表候補の合宿の招集された時も、「韓国代表では言葉も通じないので…」と、言葉の壁があったとしている。
  3. ^ 当時のチームメイトに市川雅彦がいる。
  4. ^ 当時は主に東京都西部の中学生を対象とする「FC東京U-15むさし」が発足していなかった。
  5. ^ 同期生に梶山陽平呉章銀鎌田次郎斎藤雅也らがいる。
  6. ^ 国籍法5条1項2号は、帰化について「20歳以上」であることを要すると規定している。
  7. ^ 李姓のサッカー選手の日本代表選出は李裕瀅以来およそ70年ぶり[47]
  8. ^ 李は「東京のエースナンバーは間違いなく11番。僕はアマラオの活躍を見て育った」と語る[55]

出典 編集

  1. ^ 選手データベース (2007年版)”. 2007年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月29日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2007年2月13日)
  2. ^ 選手データベース (2008年版)”. 2008年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月29日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2008年2月21日)
  3. ^ ニュースリリース - 登録選手追加・変更 Jリーグ (2007年2月16日)
  4. ^ ニュースリリース - 登録選手追加・変更 Jリーグ (2007年5月11日)
  5. ^ 朝鮮語氏名「이충성」の2000年式ラテン文字表記
  6. ^ a b c “Tadanari Lee(2016年8月25日)”. FIFA Index. https://www.fifaindex.com/ja/player/207510/tadanari-lee/fifa17_74/ 2023年8月25日閲覧。 
  7. ^ a b c “Tadanari Lee”. Transfermarkt. https://www.transfermarkt.jp/tadanari-lee/profil/spieler/81793 2023年8月25日閲覧。 
  8. ^ a b “李 忠成”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ra/tadanari_lee.html 
  9. ^ 加部、18頁
  10. ^ a b c 五輪ピッチに「新日本人」…在日のルーツと誇り胸に”. 2008年8月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月28日閲覧。 - 産経新聞 (2008年8月7日)
  11. ^ a b c d e f g h i j k プロフィール - 李忠成 - 海外サッカー サンケイスポーツ
  12. ^ a b c d e f 李忠成、アジアカップのラッキーボーイを目指して (1/2) スポーツナビ (2011年1月16日)
  13. ^ a b c 3年目のミシャ浦和 李忠成がタイトルへの“最後の1ピース” スポーツニッポン (2014年2月22日)
  14. ^ 週刊サッカーダイジェスト No.1099」日本スポーツ企画出版社、2011年2月8日、p.19
  15. ^ 일본 축구영웅된 이충성 ‘내 성은 LEE’中央日報
  16. ^ a b c d e 李忠成選手(FC東京U-18)・来季新加入内定のお知らせ”. 2012年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月28日閲覧。 FC東京 (2003年10月28日)
  17. ^ 柏FW李ニンニクパワーで連敗止める”. 2007年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月28日閲覧。 日刊スポーツ(2007年4月28日)
  18. ^ 李忠成が語る成長できた破天荒な父の指導 鈴木啓太youtube 2023年11月17日
  19. ^ a b c SPECIAL INTERVIEW 李忠成 大きな壁を乗り越えて - 東京都サッカー協会広報誌2008 Vol.8
  20. ^ 加部、11頁,30頁
  21. ^ a b 李忠成選手が日本国籍取得 柏レイソル (2007年2月9日)
  22. ^ 『Jリーグ選手名鑑 2014J1・J2・J3エルゴラッソ特別編集』三栄書房、2014年、43頁。 
  23. ^ 365日 FC東京”. 2007年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月11日閲覧。 中日新聞社 (2007年2月11日)
  24. ^ 加部、77-78頁
  25. ^ 加部、26頁
  26. ^ 李忠成選手 U-19韓国代表候補のトレーニングキャンプに参加のお知らせ”. 2012年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月28日閲覧。 FC東京 (2004年8月23日)
  27. ^ a b c d 日本サッカーの英雄になった李忠成、「私の姓はLEE」 - 中央日報 (2011年1月31日)
  28. ^ a b 李忠成が語る日本人に帰化して挑んだ北京五輪 鈴木啓太youtube 2023年11月18日
  29. ^ 李忠成選手 柏レイソルへ移籍決定のお知らせ”. 2012年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年2月9日閲覧。 FC東京 (2005年1月14日)
  30. ^ 李 忠成選手がFC東京から完全移籍加入 柏レイソル (2005年1月14日)
  31. ^ 忠成選手 プロA契約へ 柏レイソル (2006年5月19日)
  32. ^ 李 国籍変更し五輪へ…北京でゴール量産を スポーツニッポン (2008年7月14日)
  33. ^ 李忠成選手 U-22日本代表選出 柏レイソル (2007年2月15日)
  34. ^ 小宮、210頁
  35. ^ 小宮、200-202頁,211頁
  36. ^ 李 忠成選手の負傷について 柏レイソル (2008年08月29日)
  37. ^ a b c 柏の李忠成を完全移籍で獲得 北京五輪日本代表FW 中国新聞 (2009年8月27日)
  38. ^ a b c 李 忠成選手 サンフレッチェ広島へ完全移籍 柏レイソル (2009年8月26日)
  39. ^ 燃える李忠成「早く点取る」入団会見後、実戦練習に合流 中国新聞 (2009年8月28日)
  40. ^ a b c 【広島:李忠成選手移籍加入会見】出席者コメント (cache) J's GOAL (2009年8月27日)
  41. ^ 李忠成「紫の9」背負う 12日 中国新聞 (2009年9月12日)
  42. ^ 日刊スポーツ、2011年1月31日3面
  43. ^ 出番激減の李忠成 柏→広島“超〜電撃移籍!””. 2009年8月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月28日閲覧。 スポーツニッポン (2009年8月26日)
  44. ^ 移籍ゴール最終戦こそ 李忠成、5日京都戦 中国新聞 (2009年12月3日)
  45. ^ a b c 李、ゴールこそ使命 ザックJ合宿開始 - 中国新聞(2010年12月29日)
  46. ^ 前線トリオ乗ってます ここ6戦7得点3アシスト 中国新聞 (2010年10月23日)
  47. ^ 『魂の相克 在日スポーツ英雄列伝』講談社、2012年、115頁。 
  48. ^ 2011Jリーグアウォーズ 優秀選手賞”. 2011年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月25日閲覧。 Jリーグ
  49. ^ 李忠成のサウサンプトン移籍が完了 Goal.com(2012年1月26日)
  50. ^ a b 李忠成がリーグ戦初出場…得点は奪えず、サウサンプトンはドロー SOCCER KING (2012年2月1日)
  51. ^ 李忠成 W杯最終予選アウト…右足手術で全治4〜6カ月 スポーツニッポン (2012年4月1日)
  52. ^ 李忠成の移籍後初ゴールがサウサンプトンの年間最優秀ゴール賞に選出 SOCCER KING (2012年5月5日)
  53. ^ Chung Makes Japan Return サウサンプトンFC (2013年2月14日)(英語)
  54. ^ a b 李忠成選手 期限付き移籍加入のお知らせ FC東京 (2013年2月14日)
  55. ^ 『Jリーグサッカーキング 2013年6月号』朝日新聞出版、2013年、20頁。 
  56. ^ a b 李忠成とFC東京の“不幸なすれ違い”完全移籍オファー辞退の真意 (2/2) スポーツナビ (2013年7月8日)
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書籍 編集

関連書籍 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集