メインメニューを開く

桂枝雀 (2代目)

日本の落語家、2代目桂枝雀

2代目桂 枝雀(かつら しじゃく、本名:前田 達(まえだ とおる)、1939年昭和14年)8月13日 - 1999年平成11年)4月19日)は、兵庫県神戸市生まれの落語家3代目桂米朝に弟子入りして基本を磨き、その後2代目桂枝雀を襲名して頭角を現す。古典落語を踏襲しながらも、超人的努力と空前絶後の天才的センスにより、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓する。出囃子は『昼まま』。実の弟はマジシャンの松旭斎たけし。長男は桂りょうば[1]

2代目 桂 枝雀かつら しじゃく
2代目 桂 枝雀
結三柏は、桂米朝一門定紋である。
本名 前田 達
まえだ とおる
生年月日 1939年8月13日
没年月日 (1999-04-19) 1999年4月19日(59歳没)
出生地 兵庫県神戸市灘区中郷町
死没地 大阪府吹田市桃山台
師匠 3代目桂米朝
名跡 1. 10代目桂小米(1961年-1973年)
2. 2代目桂枝雀(1973年-1999年)
出囃子 昼まま
活動期間 1961年 - 1999年
活動内容 上方落語
配偶者 かつら枝代
家族 松旭斎たけし(弟)
桂りょうば(長男)
CUTT(次男)
所属 松竹芸能米朝事務所
主な作品
崇徳院」「代書」「宿替え
備考
上方落語協会会員(1961年 - 1994年)

師匠米朝と並び、上方落語界を代表する人気噺家となったが、1999年3月に自殺を図り、意識が回復することなく4月19日に心不全のため死去した。59歳没。他、同世代の噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称されている。

目次

来歴編集

弟子入りまで編集

1939年、神戸市灘区中郷町にブリキ工を営む父の長男として生まれた[2]。上に姉が3人おり、5人きょうだいの4番目だった[2]

1945年6月、5歳の時に神戸大空襲に罹災し、父親の出身地である鳥取県倉吉市(当時は倉吉町)の親類の元に疎開[2][3][4]。1946年4月に倉吉町立明倫小学校に入学するが、約1か月で父が紡績工場に職を得た兵庫県伊丹市に移り住み、伊丹市立神津小学校に転校する[3][5]。中学は、伊丹市立北中学校に進学する[5]。小中学校を通じ学業は優秀だった一方で、授業中にクラスメイトや教員に「ちょっかいをかけ」ることが多く、「落ち着きがない」とも評された[5]

中学卒業後は元来進学を希望していたが、中学3年生の7月に父が死去したことで家族の生計が苦しくなり、やむを得ず1955年4月に三菱電機伊丹製作所の養成工として就職する[6]。養成「工」といっても、製作所内にある年限3年の養成学校で学科と実技を学ぶ事実上の学生生活だった[6]。1年後の1956年4月、養成工の身分のまま、伊丹市立高等学校の定時制に進学する[7][注 1]。入学試験の成績がトップ(英語と数学はほぼ満点)だったことから、指名されて新入生代表として入学式での挨拶をおこなった[7]。一方、養成工の課程で実習が増えてくると、製造の実務に向かないと自他ともに認めるところとなり、1957年の春に三菱電機を退社して兵庫県立伊丹高等学校で給仕の仕事に就いた[8]

1957年秋以降、弟とABCラジオのリスナー参加番組「漫才教室」(同年7月放送開始)に出場する[9]。この番組では審査員の評価によって合格した出場者が三段階で「昇格」するシステムが取られ、最後は「卒業試験」に至る構成になっていたが、前田兄弟は出演のたびに高い評価を得て短期間で「卒業試験」に到達した[9]。ところが、賞金を生活の足しにしていた兄弟は「卒業したら困る」と訴え、「卒業試験」ではわざと落選させたため、観客が騒然となり、審査委員長の秋田實が「芸それぞれにレベルというものがあって…」と釈明したエピソードがある[9]。その後も兄弟は「研究生」という肩書きで出演したりした[9]

しかし、達は漫才から落語に転向する。背景には、プロ入りを目指して訪れた芸能事務所で「芸人は日曜の方が忙しい」と言われて休みがなくなるのは嫌だ(好きな卓球もできなくなる)と考えたり、叩かれる役の多い弟が離れたりといった事情があった[10]。「素人落語ノド自慢」「素人演芸コンクール」(いずれもABCラジオ、1958年)などに出演、「素人落語ノド自慢」では5週連続で「名人位」を獲得した[10]。これらの番組には審査員として桂米朝が出演しており、才能に着目した米朝の自宅で指導を受けるようになる[10]。また、この時期にリスナー参加番組でやはり常連だった岡本武士(のちの3代目笑福亭仁鶴)と出会い、二人で落語集団「天狗連」を作って自前の落語会や慰問などをおこなっていた[11]

1959年に桂米朝から弟子入りの承諾を取り付ける[12]。これに際しては、反対する母親(英語教員にしたい意向を持っていた)を姉の助力で説得する曲折を経ている[12]。「前田クンならプロになれると思っていた」米朝は申し入れを即座に同意した[12]

1960年(昭和35年)に神戸大学文学部に合格し、相談した米朝の勧めで入学したが、1年間通った後「大学は別に大したところやない」(米朝の証言)「もうええわと思いまして」(枝雀の後年の述懐)という理由でやめ、1961年(昭和36年)4月に「10代目桂小米」として正式に米朝の住み込み弟子となる[13]。兄弟子に3代目桂米紫月亭可朝がいるが、内弟子としては米朝の一番弟子である[14]

小米時代編集

入門時から稽古には熱心で、深夜の歩行中にネタ繰りをして警察に通報されたり、ネタ繰りに没頭するあまり掃除機を部屋の随所にぶつけて什器を壊したりした[14]。米朝の妻は、「周りを気にせずのめり込む人は、後にも先にもあの子のほかにはいなかった」と評している[14]。この「私生活の間も落語の稽古をする」という習慣は、枝雀として名をなした後年も変わらなかった[14]

1962年(昭和37年)4月に千日劇場で初舞台を踏む[15]1963年(昭和38年)春に2年で「年季明け」となり、実家に戻る[16]。年季明けまでは通常3年のところ、弟子入り前から稽古を受けていたという理由であるが[16]、米朝の妻は「要領も良かった」と述べている[14]。同年9月より、2代目桂春蝶の主導で千日前にある自安寺を会場として始まった「上方ばなし若手会」に参加する[16][17]。最初の参加メンバーである春蝶・小米・仁鶴・桂朝丸(のちの2代目桂ざこば)・笑福亭光鶴(のちの5代目笑福亭枝鶴)は「若手五人会」を称した[17]。1965年には関西テレビ大喜利中継番組「お笑いとんち袋」にも出演する[16]。番組での小米について、共演していた4台目桂文紅は、「発想が奇抜で、そんなことあるかーというようなことを、さもあるかのように言って笑いを取った。苦し紛れに出す彼の答が珍無類だった」と述べている[16]

1969年(昭和44年)7月から、木津川計を世話人として、桂春蝶と「小米・春蝶二人会」を開始、1972年8月まで10回を数える[18]。大阪での二人会終了翌月の1972年9月には東京でも1日だけ開催、これを見た矢野誠一は『週刊明星』に「最近の落語会にはない強烈な刺激を受けた」「単なるテクニックだけを取り上げたら、この二人よりも上の若手が、東京には何人もいる。だが、これだけおかしい落語のしゃべれる若手となると残念ながら東京には見当たらない。」と評した[18][19][注 2]

小佐田定雄は小米時代の芸風について「大阪落語では珍しく、繊細で鋭角的」と評し、「受ける人には受けている」という反応で、支持する側にも「君たちとはちょっと違うんだぞ」という雰囲気があったという[20]。また、米朝から「その声では後ろのお客さんまで届かない」と注意を受けるような、繊細な声色だった[20]。矢野誠一は、楽屋の片隅に他の芸人から離れて坐り道元の『正法眼蔵』を読みながら一人「これはおかしい」「ええなあ」と笑う小米の姿を書き残している[16]

落語以外にもABCラジオの「ポップ対歌謡曲」やラジオ大阪の「オーサカ・オールナイト 叫べ!ヤングら」といった番組でディスクジョッキーを務める[21]。番組では「宇宙の話とか死後の世界とか、仏教的な話」(桂南光)といった、他のディスクジョッキーとは一線を画する話題を扱った[22]。その口ぶりを聴いた一人の高校生が弟子入りを志願し、高校を卒業した1970年(昭和45年)3月に「桂べかこ」(のちの3代目桂南光)として最初の弟子となった[21][注 3]。小米は当初べかこに「兄弟のような関係でやっていこう」と「師匠」ではなく「兄さん」と呼ばせたが、米朝から「それではけじめがつかんやないか」と叱られた[21]。1971年3月には桂雀三郎も入門し、同年5月からは「桂小米の会」と称した自身と弟子らによる落語会を伊丹市内の寺院で始め、二度の会場変更を経て約2年(枝雀襲名直前まで)続いた[23]

私生活では1970年10月に、女性浪曲漫才トリオ「ジョウサンズ」でアコーディオンを弾いていた日吉川良子と結婚する[24]。出会ったのは前年8月で、翌年2月に交際を始めたときから小米は結婚しようと持ちかけた[24]。あるとき、父を失って間がなく挙式費用も出せないので困ると良子が言うと、「そんな、みなしごみたいな子、探してたんや。家と家の付き合いがかなわん。結婚式はせんでもええ」と答えた[24]。結局、出会ってから1年あまりで、自安寺で結婚式を挙げた[24]。結婚に際して「私の奥さんにならなくてもいい。噺家の奥さんになってくれ」と小米からは言われていた[25]。良子は、小米が家では世間話もテレビ視聴もしない「陰気」な姿であることに、交際時の酒が入って陽気な印象と違って驚いたという[25]。結婚前から高校時代の恩師の家に下宿しており、結婚後もしばらくその生活が続いたが[24]、妻の懐妊が判明した1971年8月に豊中市の借家に転居した[26]

最初のうつ病編集

1972年3月に長男が生まれる[26]。同年5月頃から、落語だけに専念したいと他の芸能仕事をやめ、家でひたすらネタ繰りに没頭するようになっていた[27]

1973年2月1日、道頓堀角座に出演するため妻の止めたタクシーに乗ったが「怖い、行かへん」と降りてしゃがみ込んでしまう[27]。妻は「えらいことになりました」と米朝に連絡し、病院に連れていったところ、重いうつ病と診断された[27]。家庭や弟子を持った責任からくるプレッシャーや自身の芸への不満に加え、健康被害が社会問題化していたPCBに自分も蝕まれているのではないかという不安から「死んだらどうなるのか、死ぬのが怖い」という強迫観念も抱いていた[27]。部屋に閉じこもり、食事や風呂もしなくなった[27]。「幸せにしようと思ったが、もうだめだ。別れてくれ」と言われた妻は、別れる前に病気を治そうと励ました[27]。何か所もの医師・病院を訊ね、最後に行った阪大病院で医師が「今は薬は要らない。一番大事なのは休息です。脳を休めなさい」と話し、時間を取って小米の話に耳を傾けた[28]。医師からは「不安になったらいつでもどうぞ」と自宅の電話番号も伝えられた[28]。短い問診と投薬だけで済ませていたそれまでとは違う対応を受けて、症状は回復に向かった[28]。1973年4月16日に「小米の会」を再開、その案内状では、病気のブランクを「心の旅」と記した[28]

回復した小米は妻に「あんなしんどい病気にはもうなりたくない」「これからは笑いの仮面をかぶる」と話した[28]。自身ののちの講演では、発症前は「楽しいことを、楽しくない姿勢で考えていた」と振り返り、その「間違いに気づき」「(笑いの)仮面を何十年もかぶり続ければ、仮面が顔か、顔が仮面か、となります」という考えを述べている[28]

2代目枝雀襲名編集

1973年(昭和48年)10月に道頓堀角座で「2代目桂枝雀」を襲名(笑福亭枝鶴桂福團治とのトリプル襲名であった)。「代書」を得意としていたので「米團治」としての襲名を勧められていたが、きれいな名前で芸風が似ていたことから、6代目笑福亭松鶴の助言で「枝雀」の襲名が決まった[要出典]

これを機にそれまでの落語を大きく変える。高座では笑顔を絶やさず、時にはオーバーアクションを用い、それまでの落語スタイルの概念を大きく飛躍させ、どんな客も大爆笑させる落語であった。客の受けは非常によく、枝雀の評判はどんどん上がっていき、米朝と時期を分けて独演会を行うようになっていった。顔がチャーリー・ブラウンに似ているなど愛嬌のある顔立ちからテレビを通してお茶の間に親しまれ、「すびばせんねぇ(すみませんねぇ)」などのフレーズで人気を博した。

1983年(昭和58年)芸術選奨新人賞受賞。1984年(昭和59年)3月28日東京歌舞伎座にて「第一回桂枝雀独演会」を開催。会場では大入袋が出た。桂雀々、桂べかこ(後の3代目桂南光)が前座に入り、枝雀は「かぜうどん」を演じた後で中入りとし、前後編に分けることの多い「地獄八景亡者戯」を一気に演じきった。終了後は緞帳が下りても観客の拍手が鳴り止まず、再び緞帳を開き感謝の挨拶を行った。またこの頃、英語落語(後述)を始めるようになり1987年(昭和62年)6月にはハワイ、ロサンゼルス、バンクーバーにて初の英語による落語公演を行った。演目は「ロボットしずかちゃん」。

枝雀の出演する寄席はいつも満員で、関西の噺家で独演会を行いいつでも客を大入りにできるのは桂米朝と枝雀だけといわれた。また、NHKのドラマ『なにわの源蔵事件帳』の主演を皮切りに映画「ドグラ・マグラ」やTVドラマ「ふたりっ子」に役者として出演し、俳優としてもその演技力をみせた。だが、メインは落語であり、それ以外のバラエティやTVの仕事を多くするようなことは最後まで無かった。『なにわの源蔵事件帳』も、続編では7人ものレギュラー俳優が再登板する中で主演を芦屋雁之助に譲っている。結局、若いころのラジオ番組レギュラーを終えたあとは、終生、落語以外に複数年にまたがるような仕事は持たなかった。

1994年5月(平成6年)、枝雀一門8人は上方落語協会を脱退した(一部弟子、孫弟子が2008年暮れに復帰)。同年12月27日にはNHKで「山のあなたの空とおく」という枝雀を特集する番組が全国放送された。

うつ病再発編集

晩年には古典ネタをさらに練り上げ、どこまでも完成度を高めようとしたが本人は納得いかず、また糖尿病高血圧などの持病もあってか、1997年頃にうつ病を再発。高座のマクラで「私、またうつ病になってしまったんです」と話したり、「色んなことを試みてるうちに、自分の落語が分からなくなってきた」と泣いたりすることもあったという。客は冗談だと思って笑うと、本人は涙を流しながら否定、それが客のさらなる笑いを誘う、という悪循環に陥った。

1973年以降も、時々うつ病の薬を飲んだりしていたそうだが、この時は以前のうつ病より重いものだったという。同年には何度か高座を行っており、米朝も「最近の枝雀は無駄がなくなって、前よりいいよ」と話していたが、枝雀本人は納得がいかず悩んでいたという。

一旦は回復しかかったものの、1999年3月13日に大阪府吹田市の自宅で首吊り自殺を図っているところを発見され、病院に搬送された。このとき枝雀の体を降ろしたのは桂雀々であった。しかし、意識が回復することなく同年4月19日に心不全のため死去。満59歳没(享年61)。復帰後に20日連続公演の独演会を企画しており自らを追い込んでいたであろうことや、回復期に自殺する確率が最も高くなるなど、うつ病患者特有の症例や傾向に当てはまる状況にはあったものの、遺書やそれらしい発言は全くなく真の動機は謎である。枝雀の突然すぎる死に対し、師匠の米朝や弟子の南光らが悲しみ、マスコミも大きく取り上げた。

遺書はなく、前記の還暦記念20日連続公演(「枝雀六十番」)用に準備した、演題を並べた紙が残されていた[29]

墓所は中山寺

枝雀落語編集

持論編集

緊張の緩和
「緊張の緩和」が笑いを生むとする独自の落語理論を唱えた。これについて、同病、同業ともいえる作家中島らもは、笑いを理論的に追求しすぎることは精神衛生上好ましくないとし、自殺の可能性も含め憂慮していた。
サゲの4分類
噺の下げ(落ち)には、伝統的に「にわか落ち」「考え落ち」「しぐさ落ち」などの型があるとされるが、何をもって分別するかの視点が定まらないなど問題点もある。そこで枝雀は、笑いがどこで起きるかという点に視点を定め、独自に「ドンデン」「謎解き」「へん」「合わせ」の4つの型に分類した。詳細は落ちの頁を参照。

他にも、物事を「陰」と「陽」や「閉じ」と「開き」で表現するなどの「2極分類」を用いたり、また、彼が好んで演じた「酔っ払い」の演じ方を細かく説明するなどしており、「大いなる自然の意思」を感じながら、万物を分類化して笑いに応用する、というスケールの大きさが非常に特長的に見られた。

さらに、1人を救うために4人の僧侶が死んでしまう「鷺とり」のオチを僧侶を殺さず、主人公が塔の先に戻るという内容への変更や「仔猫」での主人公の評判で「(顔が)化け物」という箇所を削除するなどの研鑽内容には「人間愛を感じる」と評され、「まぁるく、まぁるく」を信条とした彼自身のおおらかな性格と共に、高く評価された。

持ちネタ編集

いつしか自分の持ちネタを60と決め、これらの研鑽に専念するようになった(途中入れ替えもあり)。このうち代表的な持ちネタとしては「代書(代書屋)」「宿替え」が挙げられる。「代書」は大師匠に当たる4代目桂米團治の作で、代書屋とは現在の行政書士に当たる。枝雀の「代書」は、サゲが元々大食いの話になるものであったが、或る時から「私の本職は、ポンで?す」とポン菓子製造の内容に変え更に人気のあるネタとなった。「宿替え」は三遊亭百生から稽古を着けて貰い、これを独自に練り上げた独自の噺に仕上げていた(本人が存命中に述べている)。

代表的な60のネタ

青菜」「あくびの稽古」「愛宕山」「池田の猪買い」「いらちの愛宕詣り」「植木屋娘」「牛の丸薬」「うなぎや」「延陽伯」「親子酒」「親子茶屋」「かぜうどん」「義眼」「口入屋」「くっしゃみ講釈」「首提灯」「くやみ」「蔵丁稚(四段目)」「高津の富(宿屋の富)」「鴻池の犬」「仔猫」「瘤弁慶」「子ほめ」「米揚げ笊」「権兵衛狸」「鷺とり」「佐々木裁き」「皿屋敷」「算段の平兵衛」「蛇含草」「崇徳院」「住吉駕籠」「千両蜜柑」「代書」「ちしゃ医者」「茶漬えん魔」「次の御用日」「壺算」「鉄砲勇助」「天神山」「胴切り」「道具屋」「胴乱の幸助」「時うどん」「夏の医者」「猫の忠信」「寝床」「軒付け」「八五郎坊主」「はてなの茶碗」「花筏」「七度狐」「質屋蔵」「一人酒盛」「ふたなり」「不動坊」「舟弁慶」「まんじゅうこわい」「宿替え」「宿屋仇

ただし、新作落語にも柔軟に取り組み、とりわけ年初の米朝一門会ではその年の干支にちなんだ噺を口演するのが恒例であった(ただし、「代書」を演じた年もある)。小佐田定雄の新作も積極的に口演した。

英語落語編集

1980年代頃から英会話学校に通い始め、校長山本正昭の協力のもと始めた英語落語で、海外にも進出した。現在は笑福亭鶴笑桂かい枝桂あさ吉らが受け継いでいる。

「当初はきちんと(ネタを)英語に訳さんと、と思っておったんですが、今では落語の雰囲気が判ってもらえればええんや、とある時ふと気が付いたんです」という趣向のため、英語がよく分からなくても楽しめるという内容になっている。演目としては、古典落語の「時うどん」「愛宕山」などのほか、新作の「動物園」や英語落語書下ろしとなった「ロボットしずかちゃん」がある。

芸の変遷、芸風編集

枕を長くとる、一部からオーバーアクションと酷評された豪快で陽気な所作を遣う、表情ゆたかに語る、抑揚(めりはり)の利いた発声で噺す、といった華麗な落語の遣い手であったが後年、枕を端折る、所作や表情を抑える、声すら低く渋く落語する、サゲも短縮、というものへ変化した。

旧式な大阪の町ことばに堪能であり、それを流暢に操るものだから、初めて枝雀の落語をCDのみで鑑賞した関東圏の落語ファンは、何を言っているのか分からない、そのくらい研究熱心であった。ちなみに書籍では関東圏の落語ファンにも愉しめるよう枕の部分は標準語化を施されている。

「池田の猪買い」を噺している途中、登場人物の名前を間違う、てっぽうを拵えるタイミング(枝雀は手拭いと扇子を用いてビジュアルな鉄砲を拵えた)を忘れる、その云訳に「おっかしなぁ、いつもはこんな」と首をかしげたり汗をかいたり、それが更に爆笑を呼び込むシーンがあった。サゲの直後に「すびばせんねぇ」ではなく「すんまへん」を連発して平身低頭していたので、本当にミスをしながら笑いを獲っていた模様である。

SRというショート落語を考案している。これは出演するラジオ番組で思いつたネタで、普通の笑いは緊張から緩和状態がやってくるが、SRは緊張状態が最後まで緊張を残したまま終わるという構造をしている。大きな笑いは取れないが、少し変わったネタを好む玄人向けのネタだという。この試みに立川談志は「面白いから続けて欲しい」と評価している。

発言編集

  • 「枝雀の顔を見ただけであー、おもろかったと満足していただけるような芸人になりたい。」
  • 「私の中に私を見てる枝雀がいてこれが私になかなかオーケーを出してくれなかったんです。それがこのごろはだいぶオーケーに近づいてきた。見ててください。もうじき自分の落語を完成させます。」(1996年(平成8年)末のコメント)

評価編集

  • 「枝雀は私よりも大きい存在になると、ずっと思っていたからね。自分よりも一皮むけて上に行くことを私は期待していた。」(桂米朝 (3代目)の回想)[30]
  • 「枝雀がいなくなって、私は荷物が重くなった。ぼつぼつ楽しようと、仕事の半分ぐらいを任せかけていた時だったのに。もう私なんか、ムチ打ってもあきまへんわな。なのに、そうもいかなくなってしまいました。」(枝雀が亡くなった数日後の米朝のコメント)
  • 「死ぬよりほかなかったのかと今は思う。」(米朝の著書「桂米朝 私の履歴書」(日本経済新聞社)の一章「枝雀追悼」より)
  • 「オーバーアクションといわれるのは(弟子としては)心外。抑えるところは抑えた上で、全部理屈の上でやっているんです。」「僕らはちょっと受けると『それでいい』となるが、師匠は『もっと受けるはずだ』とその先を考えた」(桂南光
  • 「最高にノッている枝雀寄席はなぜか分からないけど鳥肌が立って泣けてくる。もちろん本人はそんな意図ではやっていないだろうけど。」「芸人は寛美さんや枝雀さんのように常に作品を作っていかなければならない。僕はそういう人になりたいと思う。」(松本人志[31]
  • 「小さいときから、なぜかは分からないけど、すごいことをやってる気がしてましたね。(中略)間口を広げて、敷居を下げて、オーバーアクションで落語を演っていて、それも枝雀師匠のサービス精神の表れだと思うんですよ。」「落語が上手な噺家さんはいっぱいいらっしゃるけど、枝雀師匠は“面白い”。ほかの人は一眼レフで撮ってるのに、『写ルンです』ですごくいい写真を撮る、みたいな感じですよね。」「ファミレスなのに高級フレンチ並みの料理を出すような、すごいんだけどお手軽に見せている感じなんですよ。」 (千原ジュニア[32] 
  • 「米朝師匠以上に真面目な人。(中略)小米の頃は古典(落語)を二十か三十きちっと覚えていて私はあの頃の枝雀さんの方が好きだった。ところが枝雀を襲名した途端、荒唐無稽なスタイルになって、リアリズムから離れてしまった。限られたネタをやるぶんにはそれでもいいし、実際ウケるんですが、トータルで見ると、芸が伸びないし、お客さんも食傷気味になる。枝雀さんとしては師匠の真似をしたくないという切実な思いがあって、ああいう風なスタイルにしていったんでしょうけど、それを真面目に突きつめていった結果、自分をも追いつめてしまったんでしょう。」(三遊亭圓楽 (5代目)[33]

俳優として編集

落語家として名声を得た後、「なにわの源蔵事件帳」(1981年)で連続テレビドラマに初主演し[34]、1988年の映画『ドグラ・マグラ』では作品の主役である正木博士を演じた[35]

前者では、原作をすでに読んでいたにもかかわらず、出演依頼に同意したのは7回目の話し合いだったという[34]。サゲで「これまでのことは全部ウソですよ」という自分には、幕切れで犯人に啖呵を切る源蔵は演じられないという理由で渋り、初収録後には「(『神妙にさらせ』という決め言葉が)神妙にさらしてちょうだいなら、すんなり言えるんやけど」と付き添った弟子の桂文我に漏らした[34]。それでもドラマは好評を博し、オリジナル脚本も加えた23回が放送された[34]

後者は、監督の松本俊夫が「その人の持っている意外な局面を引き出せる方が面白くなる」という考えで起用し、付け髭と眼鏡と白衣で演じた役は「見事に怪演している」という評価を得た[35]

人物編集

芸能活動編集

結婚の際、妻には「噺家の妻になってほしい」と頼み、弟子への態度では見解が対立したこともあった(あまり叱らない枝雀に対し、妻は厳しい修行をした経験があった)が、自身の落語については妻の意見に異を唱えることはなく、「反応を気にしていた」[25]

上岡龍太郎が20歳頃に米朝の弟子になろうとしたが、米朝宅で枝雀(当時は小米)を見かけ、かなわないと思い弟子入りをあきらめたという。上岡は枝雀を「幻の兄弟子」として尊敬し続け、自身が司会の『EXテレビ』にて笑いの理論「緊張の緩和」についてのインタビューを行ったこともある。[要出典]

一門の中ではほぼ唯一、師米朝に意見を申せる立場にあったとされている。ただし枝雀の忠告を聞いた米朝は稀に「何を言ってるのか、あいつは。」と言ったこともあったという。[要出典]

春風亭小朝との対談で「自分の落語を見るのが一番好きです。自分の噺が一番面白いですからね。それは恐らく、聞き手私と、演(や)り手私のセンスが合っているからだと思います」と話しており[36]、自身の出演するビデオを笑いながら見る写真が残されている[37]

私生活編集

前記の通り、私生活でも稽古を欠かさなかったが、家庭では子煩悩な父親で、長男の回想では1970年代半ば頃には、夕方ともに銭湯に出かけ(内風呂はあったが通っていた)、その足で飲み屋とパチンコに行っていた[38]。もう少し後には、大阪まで長男を呼び出して一緒に飲み屋で食事をし、タクシーで帰宅していた[38]

テレビは「頭を悪くする」という理由で子どもには1日2時間しか許さなかった[39]。せがまれて「一日1時間」という約束で購入したファミリーコンピュータには、「スーパーマリオブラザーズ」のみ自身も熱中し、次男とプレー時間をめぐって口論するほどだった[39]。次世代機のスーパーファミコンが出た際には「スーパーマリオカート」にハマり、自身のベストタイムと対決できるゴーストシステムを高く評価していたという[40][出典無効]

食べ物や趣味は「凝り性かつ飽き性」だった[41]。結婚直後に妻の焼き肉が気に入って毎日のように食べ、半年後に痛風を発症した[41]洋食焼きに熱中して弟子の桂雀松(現・3代目桂文之助)に毎日具材の天かすを買いに行かせたところ、ある日店の主人から「兄ちゃんとこ、お好み焼き屋か」と聞かれたという[41]。飲み屋は好きになった店に通い詰めた[41]

「自筆での返書」「日記」「書道」「ミュージックソー」などに興味を示し、道具を購入したが結局使用しないままだった[41]。1985年頃には写真撮影を始めたが続かなかった[41]

お気に入りの飲み屋で使われている陶器に惹かれ、家族連れで約20年窯元に通って作った陶器が3つ残されている[41]

一方で、「体が苦しいことをして健康になれるはずがない」という理由で体を動かすこと(特にスポーツ)を嫌っていた[要出典]。落語家入門以前は前記の通り定時制高校時代には卓球を愛好していた。

弟子編集

枝雀一門に属する弟子は桂音也を含めると9人。音也と南光を同着の一番弟子とした。音也は枝雀よりも年上でしかも大学の先輩に当たる人物である。弟子にはネタを積極的に伝授し、一例として南光は住み込み時代に20ものネタを付けられている[42]

全盛期には多数の弟子入り志願者がおり、弟子も「志願者を皆弟子にしていたら、30人、40人くらいの大所帯になっていた」と語るほどであったが、「自分と笑いの価値観が共有できない人間は弟子にしない」という方針で多くの志願者を門前払いにした[要出典]

現在一門は「雀の学校」と題し勉強会を開催している。

家族編集

本名:前田 武司(まえだ たけし)。兄・枝雀とともにアマチュアとして『漫才教室』に出演後、奇術師・松旭斎たけし(しょうきょくさい たけし)をへて、のちに落語と奇術を融合させた「まじかる落語」を標榜して活動した[43]
本名:前田 志代子(まえだ しよこ)。浪曲漫才ジョウサンズ」のメンバー・日吉川良子(ひよしがわ よしこ)をへて、お囃子三味線。
本名:前田 一知(まえだ かずとも)。本名で俳優(笑殺軍団リリパットアーミー所属)およびドラマーとして活動(グルグル映畫館、hate77等)。2010年からアマチュア落語を始め、2015年8月に桂ざこばに入門。「桂りょうば」の高座名を与えられた。2016年1月7日に動楽亭で初高座[44]
  • 次男: CUTT(1977年3月17日 - )
本名:前田 一史(まえだ かずひと)
ミュージシャン(元ShameORCAのボーカルおよびギター担当)。

出演編集

<以下、和暦は省略>

テレビ編集

ラジオ編集

映画編集

他に1996年の舞台「女相撲ハワイ大巡業」のプロデュースなど。

CD編集

著書編集

  • 『笑いころげてたっぷり枝雀』 (レオ企画、1983年1月
  • 『まるく笑ってらくごDe枝雀』 (PHP研究所 1983年1月)
    • 『らくごDE枝雀』ちくま文庫、1993年10月)
  • 『桂枝雀 おもしろ対談―“枝雀寄席”より』(全2集、淡交社、1984-90年)
  • 『桂枝雀と61人の仲間』徳間書店、1984年7月)
    • 『桂枝雀のらくご案内 枝雀と61人の仲間』ちくま文庫、1996年12月)
  • 『枝雀のアクション英語高座―英語落語を楽しんで英会話が身につく本』祥伝社新書、1988年7月
    • 『落語で英会話―すぐに役立つ、シャレたフレーズ』 祥伝社文庫、2003年1月)
  • 『桂枝雀のいけいけ枝雀、気嫌よく』 新書、毎日新聞社、1988年12月)
  • 『枝雀のトラベル英会話 笑ってOK』 (創元社1990年6月
  • 『枝雀とヨメはんと七人の弟子』 (飛鳥新社1990年10月
  • 『上方落語 桂枝雀爆笑コレクション』ちくま文庫、全5集、2005-06年4月

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 当時の伊丹市立高等学校は全日制と定時制の併設だった。その後、1967年に全日制課程が伊丹市立伊丹高等学校に改称し、定時制のみの高校となったが、2015年3月限りで閉校(兵庫県立阪神昆陽高等学校に統合)となった。
  2. ^ 上田と戸田では、矢野の文章の引用内容に一部相違がある。ここでは上田による引用を記した。
  3. ^ アナウンサーだった桂音也がべかこより先に指導を受けていたが住み込み弟子ではなかった。

出典編集

[ヘルプ]
  1. ^ “枝雀さん長男・桂りょうば 一門最速1年で独り立ち”. スポニチアネックス. (2016年8月16日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/08/16/kiji/K20160816013176450.html 2016年8月17日閲覧。 
  2. ^ a b c 上田、2003年、pp.26 - 30
  3. ^ a b 古川嘉一郎『少年の日を越えて-「漫才教室」の卒業生たち-』大阪書籍、1986年、21頁
  4. ^ 本の広場 - 『広報ゆりはま』2006年2月号、湯梨浜町
  5. ^ a b c 上田、2003年、pp.34 - 37
  6. ^ a b 上田、2003年、pp.38 - 40
  7. ^ a b 上田、2003年、pp.41 - 42
  8. ^ 上田、2003年、pp.44 - 45
  9. ^ a b c d 上田、2003年、pp.47 - 50
  10. ^ a b c 上田、2003年、pp.51 - 52
  11. ^ 戸田、2013年、p.50
  12. ^ a b c 上田、2003年、pp.53 - 55
  13. ^ 上田、2003年、pp.55 - 57
  14. ^ a b c d e 上田、2003年、pp.59 - 63
  15. ^ 上田、2003年、p.224
  16. ^ a b c d e f 上田、2003年、pp.64 - 66
  17. ^ a b 戸田、2014年、pp.254 - 257
  18. ^ a b 戸田、2014年、pp.331 - 333
  19. ^ 上田、2003年、p.20
  20. ^ a b 小佐田定雄「小米落語と枝雀落語」上田、2003年、pp.192 - 194
  21. ^ a b c 上田、2003年、pp.66 - 68
  22. ^ 上田、2003年、p.200
  23. ^ 上田、2003年、pp.79 - 82
  24. ^ a b c d e 上田、2003年、pp.72 - 74
  25. ^ a b c 上田、2003年、pp.77 - 78
  26. ^ a b 上田、2003年、pp.83 - 84
  27. ^ a b c d e f 上田、2003年、pp.84 - 88
  28. ^ a b c d e f 上田、2003年、pp.88 - 91
  29. ^ 上田、2003年、pp.155 - 156
  30. ^ NHKアーカイブス保存番組詳細 かんさい特集 ふるさとから、あなたへ 「苦節を笑いに変えて~桂米朝一門 60年の軌跡~」”. NHK. 2013年8月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月15日閲覧。
  31. ^ 放送室」2009年3月7日放送より
  32. ^ 千原ジュニア『西日の当たる教室で』双葉社、2009年11月。ISBN 9784575301786[要ページ番号]
  33. ^ 三遊亭圓楽『圓楽芸談しゃれ噺』白夜書房、2006年7月、208頁。ISBN 4861911877
  34. ^ a b c d 上田、2003年、pp.104 - 109
  35. ^ a b 上田、2003年、pp.109 - 110
  36. ^ 上田、2003年、p.157
  37. ^ 上田、2003年、p.139
  38. ^ a b 上田、2003年、p.170 - 172
  39. ^ a b 上田、2003年、p.177 - 178
  40. ^ BS朝日『君は桂枝雀を知っているか』(2013年)
  41. ^ a b c d e f g 上田、2003年、pp.114 - 118
  42. ^ 上田、2003年、p.68
  43. ^ 井澤壽治『上方大入袋 名人の心と芸』1988年、東方出版 pp.178-181
  44. ^ 桂枝雀さん長男・桂りょうばが初高座 スポーツ報知、2016年1月7日

参考文献編集


関連項目編集

外部リンク編集