広島電鉄
告知:広島電鉄(市内線)の電停項目について、「駅」から「停留場」へ一斉改名する提案が、プロジェクト‐ノート:鉄道/駅#路面電車乗降場項目の一斉改名提案において提起されています。 |
広島電鉄株式会社(ひろしまでんてつ、英: Hiroshima Electric Railway Co., Ltd.)は、広島県を主たる事業対象地域としている鉄道・軌道事業、バス事業、不動産事業を行う会社[1]。
広島電鉄本社と5100形電車 | |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | |
略称 | 広電 |
本社所在地 |
日本 〒730-8610 広島県広島市中区東千田町二丁目9番29号 |
設立 |
1942年(昭和17年)4月10日 (創業:1910年(明治43年)6月18日) |
業種 | 陸運業 |
法人番号 | 9240001009470 |
事業内容 | 鉄軌道事業、バス事業、不動産事業 |
代表者 | 代表取締役社長 椋田昌夫 |
資本金 |
23億3562万5000円 (2012年3月31日現在) |
発行済株式総数 |
6089万1000株 (2012年3月31日現在) |
売上高 |
連結:363億7000万円 単独:170億1200万円 (2012年3月期) |
営業利益 |
連結:13億3300万円 単独:10億7600万円 (2012年3月期) |
純利益 |
連結:12億7100万円 単独:8億3500万円 (2012年3月期) |
純資産 |
連結:325億2000万円 単独:290億5300万円 (2012年3月期) |
総資産 |
連結:900億4100万円 単独:759億2600万円 (2012年3月期) |
従業員数 |
連結:2,053人、単体:1,270人 (2012年3月31日現在) |
決算期 | 毎年3月31日 |
主要株主 |
広島銀行 3.43% 三菱東京UFJ銀行 2.88% 広島日野自動車 2.61% みずほ信託銀行(退職給付信託 五洋建設口) 2.49% ほか (2012年3月31日現在) |
主要子会社 |
エイチ・ディー西広島 100.0% 芸陽バス 92.94% 備北交通 88.7% 宮島松大汽船 60.0% 広島観光開発 39.88%[補足 1] ほか (いずれも連結子会社) |
外部リンク | www.hiroden.co.jp |
略称は広電(ひろでん)。キャッチフレーズは「地域社会に奉仕する広電グループ」。
会社概要
本社は広島県広島市中区東千田町2丁目9番29号。開業時及び広島電鉄設立[2]より当地に本社が置かれているが、1945年(昭和20年)の広島市への原子爆弾投下[3]から翌年の8月30日まで楽々園に本社が置かれていたことがある[4]。また広島瓦斯電軌時代は、現在の広島市中区大手町に本社を置いていた時期もある[5]。
現在の会社は、1942年(昭和17年)4月10日に「広島瓦斯電軌株式会社」(現在の広島ガス)から運輸事業を分離して設立された[6][7]。前身の会社を含めると、「広島電気軌道株式会社」として1910年(明治43年)6月18日に設立された[8]。
創立当初は、大林組傘下の企業で、同様の経緯によって作られた会社に広島ガスがある[9]。また、その2社は「広島瓦斯電軌株式会社」として1つの会社だった時期もある。大林組社主の大林芳五郎が北浜銀行の破綻と、その資金支援のため広島瓦斯株式を1913年(大正2年)から1914年(大正3年)に放出[10]。広島電気軌道についても、1916年(大正6年)大林芳五郎の没後、後継者の大林義雄が株を継承した物の社長は空位[11]、その後、大林組傘下を離脱[12]。両社とも、鈴木商店の支援を得て、実業家の藤田謙一に株式が売却されて、同時期に、同一人物が社長だったこと[13]、需要のピークがガスと路面電車で異なることより[13]、広島瓦斯との合併となった[13]。
広島ガス統合時代に設立された財団法人広島瓦斯電軌学園は、現在は学校法人鈴峯学園(鈴峯女子短期大学・鈴峯女子中学校・高等学校を設置)に改組・改称し、現在でも学園関係者に広電及び広島ガス出身者が多い。他に広島ガス統合時代の名残りとして、現在も当社の健康保険組合は「広島ガス電鉄健康保険組合」として、広島ガスと共同で運営している。
1998年(平成10年)より社内カンパニー制度を導入しており、鉄道・軌道事業は電車カンパニー、路線バス事業はバスカンパニー、不動産事業は不動産カンパニーが担当している[14]。
広島電鉄のバスは青バス(広電バス)、路面電車は電車(広電電車)と呼ばれている。ただし、現在では青バスはJRバス(中国ジェイアールバス)を指すことが多く、広電バスは「緑のバス」と言い、若年層の間で誤解・誤乗車などのトラブルが生じている。また、近年のイメージカラーは緑色で、路面電車車両に『ぐりーんらいなー』や『グリーンムーバー』、広電が関わる商業ビルや飲食店に『トランヴェール』(フランス語で「緑色の電車」を意味)などの愛称を付けている。
IC乗車カード『PASPY』が、バスと電車全線、グループ会社の宮島松大汽船、宮島ロープウエーで利用できる。また、JR西日本の『ICOCA』も利用できる。
歴代の社長
この節の加筆が望まれています。 |
世代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
1代目 | 大林芳五郎 | 1910年(明治43年)6月18日 - 1916年(大正5年)1月24日[15] | 大林組店主、広島瓦斯取締役など兼任 死亡により退任 |
不明 | 藤田謙一 | 1916年(大正5年)8月8日[16] - 1917年(大正6年)8月2日 | 同時期に広島瓦斯の代表も兼任 広島瓦斯代表就任は1916年(大正5年)7月28日[補足 2] |
世代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
(1代目) | 藤田謙一 | 1917年(大正6年)8月2日 - 1919年(大正8年)1月25日 | 広島ガス代表としては3代目 |
(2代目) | 松浦泰次郎 | 1919年(大正8年)1月25日 - 1923年(大正12年)3月16日 | 広島ガス代表としては4代目 |
(3代目) | 松本勝太郎 | 1923年(大正12年)3月16日 - 1927年(昭和2年)3月31日 | 広島ガス代表としては5代目 |
(4代目) | 三宅兼一 | 1927年(昭和2年)4月30日 - 1933年(昭和8年)2月14日 | 広島ガス代表としては6代目 |
(5代目) | 倉田信太朗 | 1933年(昭和8年)2月14日 - 1938年(昭和13年)3月27日 | 広島ガス代表としては7代目 死亡により退任 |
(6代目) | 多山恒次郎 | 1938年(昭和13年)4月1日 - 1940年(昭和15年)3月27日 | 広島ガス代表としては8代目 |
(7代目) | 山口吾一 | 1940年(昭和15年)3月27日 - 1942年(昭和17年)4月9日 | 広島ガス代表としては9代目 |
世代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
1代目 | 山口吾一 | 1942年(昭和17年)4月10日 - 1945年(昭和20年)3月15日 | 分社後も続投 広島ガスは1945年(昭和20年)8月6日まで代表を務めた |
2代目 | 多山恒次郎 | 1945年(昭和20年)3月15日 - 1952年(昭和27年)4月26日 | |
3代目 | 伊藤信之 | 1952年(昭和27年)4月26日 - 1969年(昭和44年)5月27日 | |
4代目 | 堀江明 | 1969年(昭和44年)5月27日 - 1977年(昭和52年)6月28日 | |
5代目 | 石松正二 | 1977年(昭和52年)6月28日 - 1989年(平成元年)6月29日 | 広島バスと資本提携していた1971年から1973年まで、広島バスの社長に就任していた[21] |
6代目 | 奥窪央雄 | 1989年(平成元年)6月29日 - 1996年(平成8年)4月1日 | |
7代目 | 大田哲哉 | 1996年(平成8年)4月1日 - 2010年(平成22年)6月29日[22] | 広島商工会議所前会頭[補足 3]、広島ガス取締役など兼任 |
8代目 | 越智秀信 | 2010年(平成22年)6月29日[22] - 2013年(平成25年)1月8日[23] | 2013年の臨時取締役会で解任された[23] |
9代目 | 椋田昌夫 | 2013年(平成25年)1月8日[23] - 現任 |
企業の歴史
各事業の詳細な歴史については「鉄軌道事業の歴史」、「バス事業の歴史」の節、各社の記事を参照。
- 1909年(明治42年)秋 - 広島電気軌道が軌道敷設申請を広島県に提出[24]。
- 1910年(明治43年)6月18日 - 広島電鉄の前身である広島電気軌道が設立[25]。
- 1912年(大正元年)11月23日 - 電車開業[25]。
- 1917年(大正6年)8月2日 - 広島瓦斯(現在の広島ガス)と合併、広島瓦斯電軌となる[26]。
- 1922年(大正11年)8月22日 -宮島線(己斐 - 草津間)開業[27][26]。
- 1925年(大正14年)7月 - 汽船による宮島連絡開始[28]。
- 1931年(昭和6年)2月 - 宮島連絡廃止[29]。
- 1936年(昭和11年)9月8日 - 楽々園遊園地開園[29]。
- 1938年(昭和13年)2月1日 - 広島乗合自動車を合併してバス事業開始[30]。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 広島商業実践女学校(現・鈴峯女子高等学校)開校[30]。
- 1942年(昭和17年)4月10日 - 広島瓦斯電軌から運輸事業を分離して広島電鉄設立[30][31]。ガス部門は旧社名の広島瓦斯に社名を戻す[32][31]。
- 1943年(昭和18年)4月 - 従業員出征による人手不足を補うため、広島電鉄家政女学校を設立[33]。
- 1945年(昭和20年)8月6日 - 広島市への原爆投下[34]。市内線全線不通になる[34]。本社を楽々園に移動[35][34]。
- 1945年(昭和20年)8月9日 - 6日の原爆投下による被害での運行停止から一部区間で市内電車運行再開[27][34]。
- 1946年(昭和21年)8月30日 - 本社が千田町に復帰[35][34]。
- 1954年(昭和29年)6月10日 - 広電観光設立[36]。
- 1956年(昭和31年)8月1日 - 広島観光開発設立[36]。
- 1957年(昭和32年)7月10日 - 広島交通(タクシー会社、現在のバス会社とは別)を買収[36]。
- 1957年(昭和32年)10月13日 - 楽々園スパー開業[37]。
- 1958年(昭和33年)3月16日 - 宮島松大観光船に出資[37]。
- 1958年(昭和33年)4月1日 - 市内電車と宮島線直通運転開始[27][37]。
- 1960年(昭和35年)3月1日 - 広電興産(現在の広電ストア、現在の広電興産とは別)設立[37]。
- 1961年(昭和36年)2月1日 - 広電不動産設立[37]。
- 1962年(昭和37年)11月28日 - 備北交通に資本参加[38]。
- 1963年(昭和38年)4月1日 - 広島交通と銀鱗タクシーが合併して広電タクシーが発足[38]。
- 1963年(昭和38年)9月1日 - 軌道内への車両乗り入れが許可される[38]。
- 1964年(昭和39年)3月28日 - 芸陽バスに資本参加[38]。
- 1969年(昭和44年)7月16日 - 不動産部を創設し、不動産事業に本格参入[27][39]。
- 1971年(昭和46年)8月31日 - 楽々園遊園地閉園[39]。
- 1971年(昭和46年)9月10日 - 広島バスに資本参加[39][補足 4]。
- 1971年(昭和46年)12月1日 - 公安委員会により軌道敷内自動車乗り入れ禁止実施[27][40]。
- 1973年(昭和48年) - 傘下の広島バスの独占禁止法の問題が、同意議決により解決[40]。後日、合意内容に基づき株式を増岡組に譲渡[41]。
- 1982年(昭和57年)6月22日 - 広電興産が広電ストアに社名変更する[42]。
- 1994年(平成6年)8月1日 - 現本社ビル竣工 [14]。
- 1997年(平成9年)12月 - 広電タクシーの運輸事業を第一交通産業に売却、広電興産に社名変更する[43]。
- 1998年(平成9年)12月 - 社内カンパニー制の導入[14]。
- 2012年(平成24年)3月9日 - 広島バスの保有する芸陽バス株の株式譲渡により芸陽バスを連結子会社化[44][45]。
- 2012年(平成24年)4月1日 - 呉市営バスから全路線を移管[46](呉市営バスは3月31日限りで事業廃止)[47][45]。
鉄道・軌道事業
鉄道・軌道事業は電車カンパニーが担当しており、軌道線6路線19.0kmと、鉄道線1路線16.1kmの総延長35.1kmの路線を持つ。どちらも軌間1435mm、直流600V電化。1日あたりの輸送人員は約16万人で、軌道線と鉄道線を合わせた輸送人員と路線延長は、路面電車としては日本一である。
なお、旅客案内上では、3・5車体連接車による運行を連接車、1車両での運行を単車と案内している。
路線の概要
路線名 | 延長 | 運行系統 | 区間 | 電停数 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
軌道線 | 本線 | 5.5km | 広島駅(M1) - 広電西広島(M19) | 19 | ||||||||
宇品線 | 5.7km | 紙屋町(M9) - 広島港(U18) | 19 | |||||||||
江波線 | 2.6km | 土橋(M13) - 江波(E6) | 7 | |||||||||
横川線 | 1.4km | 十日市町(Y1/M12) - 横川駅(Y5) | 5 | |||||||||
皆実線 | 2.5km | 的場町(H3/M3) - 皆実町六丁目(H9/U9) | 7 | |||||||||
白島線 | 1.2km | 白島(W5) - 八丁堀(W1/M7) | 5 | |||||||||
鉄道線 | 宮島線 | 16.1km | 広電西広島(M19) - 広電宮島口(M39) | 21 |
- 電停数には臨時駅を含む。また紙屋町電停は紙屋町東・紙屋町西をあわせて1電停と数える。
- 軌道線
- 市内線と総称される。ほぼ全線が併用軌道。各路線間で直通運転が行われており、合計8つの運行系統(0号線は除外)を持つ。広島電鉄の電車は運行系統を1号線、2号線…というように「○号線」と呼んでいる(広島電鉄のバスや広島バスも同様)。
- 市内線区間の2号線(西広島 - 紙屋町東/西 - 広島駅)は西広島止めを含めてすべて連接車で運行(GWなどには例外があり)されている。また、日中の1号線(広島港 - 紙屋町東 - 広島駅)は遅延時を除いて連接車のみで、通勤・通学時間帯には3・5・7・8号線でも一部が連接車で運行されている。
- 毎年8月6日の原爆忌には8時15分に乗務員や乗客が1分間の黙祷を行うため、原爆ドーム付近を走行している電車は8時15分近くになると近くの停留所に臨時停車する。
- 鉄道線
- 宮島線のことで、JR西日本山陽本線とほぼ並行する。全線が専用軌道。軌道線と広電西広島駅でつながっており、直通運転を行っている。詳しくは「広島電鉄宮島線」の項目を参照。
運行系統
2013年2月15日改正。それぞれの系統は「○号線」と称している。
系統 | 運行区間 | 電停数 | 所要時間 | 運行間隔 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
広島駅 -(紙屋町東)- 広島港 | 27 | 49分 | 10分 | 原則として連接車で運転 | |
広島駅 -(広電西広島)- 広電宮島口 | 39 | 68分 | 9分 | 連接車で運転 | |
広電西広島 -(紙屋町西)- 宇品二丁目【- 広島港】 | 23 (29) | 40分(52分) | 12分 | 宇品二丁目 - 広島港間は朝時間帯のみ運転 | |
広島駅 -(的場町・皆実町六丁目)- 広島港 | 18 | 32分 | 12分 | 「比治山下経由」と案内される | |
広島駅 -(土橋)- 江波 | 19 | 39分 | 12分 | ||
横川駅 -(十日市町・紙屋町西)- 広電本社前 | 15 | 27分 | 12分 | ||
横川駅 -(十日市町・土橋)- 江波 | 12 | 23分 | 12分 | ||
【江波 -(土橋)-】八丁堀 - 白島 | 5 (18) | 8分(37分) | 8分 | 江波 - 八丁堀間は平日7往復、休日6往復のみ運転 | |
出入庫系統・臨時系統など |
- それぞれの系統について、一部の区間を運行する列車がある。
- 電停数には臨時駅を含まない。また紙屋町電停は紙屋町東・紙屋町西をあわせて1電停と数える。
- 運行間隔は日中のもの。
なお、「7号線」は1971年(昭和46年)5月6日までは広島駅と横川駅を結ぶ系統であった[48]。
運賃・乗車方法
運賃は、市内線が大人150円・小児80円(白島線のみ乗車の場合は大人100円・小児50円)の均一制、宮島線は区間制である。
乗車方法は「運賃後払い」方式。現金や乗車カード等で運賃箱へ直接支払う。ICカードPASPY利用可能車両では、運賃箱を使用した車内でのICカードへのチャージができる。ただし、「レトロ電車」としてイベント用に運行される車両にはICカードリーダーは配備されていない[49]。
原則、1両の電車(単車)の場合はの場合は運転士横のドアから運賃を支払って下車する。2両以上の大型電車(連接車)の場合は運転士横のドアと一番後ろの車掌横のドアから運賃を支払って下車する。なお、広島駅や広電西広島等の主要電停においては、ホームで移動式運賃箱を押した係員が待機していて、乗車口でも降車が出来、運賃収受を行う。日中の広電宮島口では改札口で運賃を支払う。
電車内には千円札まで対応の自動両替機が運転席横に設置されている。乗降時の混雑を避けるため、あらかじめ自動両替機で両替を済ませ小銭の用意をしておくように注意するアナウンスを行っている。なお、車掌が乗車している連接車の場合では、車掌に両替を頼むことも可能。
2011年(平成23年)3月31日の営業をもって広島地区共通カードの利用が終了し、磁気カードリーダーは乗換えカードとフリー乗車券専用となった。
大人1人につき同伴の幼児を3人まで無賃にしたり、障害者の介助者2人までを無賃にしたりしている[50]。
運賃の変遷
年月 | 運賃体型 | 運賃 | 運賃 (白島線) |
備考 |
---|---|---|---|---|
1912年11月23日(開業)[51] | 区間制運賃 | 2銭 | - | 1区間の場合、2区間以上1区間ごとに2銭加算 |
1918年11月29日[51] | 均一制運賃[52] | 3銭 | - | |
1919年11月20日[52] | 均一制 | 4銭 | - | |
1922年4月12日[51] | 区間制運賃 | 3銭 | - | 1区間の場合、2区間以上1区間ごとに1銭加算 |
1926年11月11日[51][補足 5] | 均一制運賃 | 5銭 | - | |
1942年4月10日[51] | 均一制運賃 | 7銭 | - | |
1944年4月22日[51] | 均一制運賃 | 10銭 | - | |
1946年2月1日[51] | 均一制運賃 | 20銭 | - | |
1946年7月1日[51] | 均一制運賃 | 30銭 | - | |
1947年3月1日[51] | 均一制運賃 | 40銭 | - | |
1947年8月7日[51] | 均一制運賃 | 1円 | - | |
1948年2月4日[51] | 均一制運賃 | 2円 | - | |
1948年5月18日[51] | 均一制運賃 | 3円50銭 | - | |
1948年8月10日[51] | 均一制運賃 | 6円 | - | |
1950年5月15日[51] | 均一制運賃 | 8円 | - | |
1951年11月15日[51] | 均一制運賃 | 10円 | - | |
1954年11月10日[53] | 均一制運賃 | 13円 | - | 往復25円 |
1962年3月20日[53] | 均一制運賃 | 15円 | - | |
1965年8月28日[53] | 乗切制運賃 | 15円 | - | 乗切制導入 |
1968年1月16日[53] | 乗切制運賃 | 20円 | 15円 | 白島線別運賃導入 |
1970年6月25日[53] | 乗切制運賃 | 30円 | 20円 | |
1973年1月15日[53] | 乗切制運賃 | 40円 | 30円 | |
1974年10月17日[53] | 乗切制運賃 | 60円 | 40円 | |
1976年11月14日[53][補足 6] | 乗切制運賃 | 70円 | 50円 | |
1978年11月24日[53] | 乗切制運賃 | 80円 | 60円 | 暫定運賃(本線のみ) |
1979年11月1日[53] | 乗切制運賃 | 90円 | 60円 | 暫定運賃解除 |
1981年4月1日[53] | 乗切制運賃 | 100円 | 70円 | 暫定運賃(本線のみ) |
1982年2月1日[53] | 乗切制運賃 | 110円 | 70円 | 暫定運賃解除 |
1983年12月1日[53] | 乗切制運賃 | 120円 | 80円 | |
1989年12月9日[54] | 乗切制運賃 | 130円 | 90円 | 乗継時50円加算 消費税導入による改訂 |
1997年11月1日[54] | 乗切制運賃 | 150円 | 100円 | 乗継時0円加算 2001年4月10日から2002年4月9日まで社会実験で120円 |
年月 | 運賃体型 | 運賃 | 備考 |
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1922年8月22日(開業)[51] | 区間制運賃 | 2区間まで1区間ごとに4銭加算 3区間以上1区間ごとに3銭加算 |
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1942年4月1日[51] | 対キロ運賃 | 対キロ2.16銭 | 対キロ運賃導入 |
1944年4月1日[51] | 対キロ運賃 | 対キロ2.50銭 | |
1945年4月1日[51] | 対キロ運賃 | 対キロ3.00銭 | |
1946年4月1日[51] | 対キロ運賃 | 対キロ7.50銭 | |
1947年3月1日[51] | 対キロ運賃 | 対キロ9.50銭 | |
1947年7月7日[51] | 対キロ運賃 | 対キロ35銭 | |
1948年5月1日[51][補足 7] | 対キロ運賃 | 対キロ1円45銭 | 国鉄運賃改定に伴う運賃改定 |
1951年11月15日[51] | 対キロ運賃 | 対キロ1円90銭 | 遠距離逓減制運賃導入[55] |
1952年12月1日[51] | 対キロ運賃 | 対キロ2円20銭 | |
1953年3月20日[51] | 対キロ運賃 | 対キロ2円25銭 | 国鉄運賃改定に伴う運賃改定 |
1954年11月10日[53] | 対キロ運賃 | 対キロ2円70銭 | |
1957年7月1日[53] | 対キロ運賃 | 対キロ3円05銭 | |
1962年3月20日[53] | 区間制運賃 | 10-50円5区間 | 区間制運賃導入 |
1965年8月28日[53] | 区間制運賃 | 15円、1区間ごとに10円加算(6区間) | |
1968年1月16日[53] | 区間制運賃 | 20円、1区間ごとに10円加算(6区間) | |
1970年6月25日[53] | 区間制運賃 | 20円、1区間ごとに10円加算(7区間) | |
1973年1月15日[53] | 対キロ運賃 | 1-3kmまで30円、4-6kmまで40円、 7-17kmまで2km毎10円加算 |
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1974年10月17日[53] | 対キロ運賃 | 1-3kmまで40円、 4-17kmまで3km毎20円加算 |
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1976年11月4日[53] | 対キロ運賃 | 1-3kmまで60円、 4-17kmまで3km毎20円加算 |
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1978年11月24日[53] | 対キロ運賃 | 1-3kmまで70円、 4-17kmまで3km毎20円加算 |
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1981年4月1日[53] | 対キロ運賃 | 1-3kmまで80円、 4-17kmまで3km毎20円加算 |
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1983年12月1日[53] | 対キロ運賃 | 1-3kmまで90円、4-6kmまで110円、 7-10kmまで140円、11-14kmまで160円、 15-17kmまで180円 |
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1989年12月9日[54] | 対キロ運賃 | 1-3kmまで100円、4-6kmまで120円、 7-10kmまで150円、11-14kmまで170円、 15-17kmまで190円 |
消費税導入による改訂 |
1997年11月1日[54] | 対キロ運賃 | 1-3kmまで120円、4-6kmまで140円、 7-10kmまで170円、11-14kmまで190円、 15-17kmまで210円 |
消費税率改訂による改訂 |
年月 | 割引額 | 備考 |
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1978年11月24日[53] | 鉄道10円+軌道10円 | 鉄軌道連絡割引導入、軌道側の運賃は暫定 |
1979年11月1日[53] | 鉄道10円+軌道20円 | 軌道側の運賃の暫定解除 |
1981年4月1日[53] | 鉄道15円+軌道35円 | |
1983年12月1日[53] | 鉄道30円+軌道30円 | |
1989年12月9日[54] | 鉄道30円+軌道40円 | |
1997年11月1日[54] | 鉄道50円+軌道40円 |
乗換え制度・乗換えカード
広島電鉄では、乗車中の電車で目的地まで直通できない場合に、各路線の接続電停(広電西広島・土橋・十日市町・紙屋町・八丁堀・的場町)及び系統の終点となる日赤病院前(下りのみ)・広電前・宇品二丁目にて以下の条件で乗り換える場合に限り、通しの運賃で乗車可能な制度がある。
- その電停が始発となる系統への乗り換え(例:宮島線方面から西広島で3号線に乗り換えて広電前方面へ)
- その電停で終着となる系統からの乗り換え(例:紙屋町方面から7号線で広電前で乗り換えて広島港方面へ)
- その電停で合流する系統がある場合の乗り換え(例:江波方面から8号線に乗車して土橋で2・6号線へ乗り換え)
乗り換え方法は、降車時にその時点での運賃を現金で支払う際に乗務員に申し出て「乗換えカード(磁気カード)」を受け取り、降車後30分以内に次の電車に乗り換え、乗降の際に磁気カードリーダーに通す仕組みである。ICカード利用時には、乗り換えた電車のICカードリーダーにタッチすれば、自動的に乗換え運賃適用の処理が行われる。
乗換運賃は無料(ただし白島線からの乗り換えと、宮島線との乗り換えには差額運賃が加算される)。定期券・回数券での利用には乗換え制度は適用されない。また、最初に乗車した電車で直通出来る場合や30分以上かかった乗り換えにも適用されない。
フリー乗車券
広島電鉄では次の3種類のフリー乗車券を販売している。車内や広島駅電車案内所・電車定期券売場などで購入できる。
- 電車一日乗車券 (1day Trip card)
- 路面電車(市内線・宮島線)全線に乗車可能なフリー乗車券。有効期間は1日。
- 一日乗車乗船券 (1day Trip card)
- 路面電車全線と宮島松大汽船(宮島口桟橋 - 宮島桟橋)に乗車可能なフリー乗車券。有効期間は1日。
- 宮島フリーパス (2day Trip card)
- 路面電車全線・宮島松大汽船に加え、宮島ロープウエー(紅葉谷 - 獅子岩)に乗車可能なフリー乗車券。有効期間は2日。
以前は乗車する日付をコインなどで削って乗務員に提示するスクラッチカード方式だったが、2002年から磁気カード式となり、乗車ごとに乗車の際は入口の磁気カードリーダーに通し、降車の際は出口のカードリーダーに通す。利用日はパンチ穴で表される。
回数券(販売終了)
以前は、市内線・白島線ともに回数券があった。広島地区共通カードが10%のプレミアムしか付加されない(1000円で1100円分)のに対し、回数券は20%の高率プレミアムであった(市内線・2000円で2400円分=150円券×16枚、白島線・1000円で1200円分=100円券×12枚)ため、電車で広島地区共通カードが使用可能になった以後も継続して販売されていた。ただし乗換運賃無料制度・宮島線割引制度は適用されず、乗換・宮島線利用がある場合は、現金・広島地区共通カードの方が安くなっていた。
この回数券は、広島地区共通カードの販売中止予定日に合わせて2009年(平成21年)10月31日に販売中止となった。またPASPYの品不足により広島地区共通カードの販売中止は2009年12月末まで延期されたが、回数券には延期措置はとられなかった。 市内線でこの回数券を使えば125円/回(広島地区共通カードでも136.36円/回)となっていたものが、PASPYでは140円/回(10%割引なら135円だが、端数切上げで140円になる)と実質かなり値上げされたこととなる。
なお、販売は終了しているが、回数券は引き続き利用できる[56]。
沿線風景
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旧広島市民球場前
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原爆の日の原爆ドーム前
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広電本社行 原爆ドーム前
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八丁堀電停 白島線側
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比治山下周辺
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広島港周辺
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江波車庫周辺
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荒手車庫周辺
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ビデオ
鉄軌道事業の歴史
広島電気軌道時代
住民の増加による、広島城の堀の汚水による伝染病問題を解決するため、1908年(明治41年)に埋め立てを決定[57]。埋め立てを契機に4件の軌道建設申請が出された[57]。最終的に、四宮廣二・福澤桃介・松永安左エ門らによる東京系資本の『広島電気鉄道』との2社競願となったが、事前に話し合いにより解決していたことで[58]、大林芳五郎・片岡直輝らにより設立された大阪系資本の『広島電気軌道』が、1910年(明治43年)2月7日に、広島駅-己斐間(現在の本線)、土橋-中島新橋-鷹野橋-御幸橋間(現在の宇品線の一部)、八丁堀-竹屋町-御幸橋間(実現せず)、十日市-横川間(現在の横川線)の路線敷設の特許を取得[59]。同年6月18日に資本金300万円で設立された[59]。その後、八丁堀-竹屋町-御幸橋間を紙屋町を経由する案に変更、新たに八丁堀-白島(現在の白島線)の特許を取得した[59]。1911年(明治44年)7月に軌道敷設の第一期工事が開始される[60]。なお1911年11月には城の外堀埋立が、翌1912年(大正元年)に運河として使われていた西塔川の埋立が終わり、のちに電車通りとなる相生通りや鯉城通りが整備される[61]。
宮島線は、広島電気軌道による申請以前より、己斐から魚市場があった草津までの路線計画は存在した[62]。1910年(明治43年)には、広島電気軌道のほか草津電気軌道や佐伯軽便鉄道が軌道条例に基づき申請したが、省線(山陽本線)と競合することより却下[62]。1916年(大正5年)12月8日に、宮島電気軌道により特許申請され受理したが、関係町村との調整が不調に終わり計画中止になっていた[63]。
1912年(大正元年)11月に、現在の宇品線の一部となる広島駅前から紙屋町を経由して御幸橋に至る区間と、現在の白島線になる八丁堀から白島に至る区間で開業した[64]。開業のために後に100形(A形)になる車両(101-150号)を50両用意した[65]。翌月には現在の本線となる紙屋町 - 己斐間が開通。1915年(大正4年)4月に御幸橋東詰から宇品間が開通した[66]。ただ、当時は単線でかつ御幸橋から御幸橋東詰まで徒歩連絡を行っていた[67]。
広島瓦斯電軌時代
広島電気軌道は、1917年(大正6年)8月に広島瓦斯(現在の広島ガス)と合併、資本金600万円で[68]広島瓦斯電軌になった[69]。これは、夏季に売り上げの多い電車部門と、冬季に売り上げの多いガス部門を統合させることにより、経営体質を安定させるためである[60]。
市内線は、1917年(大正6年)の11月に現在の横川線の一部となる左官町 - 三篠間が開通[70]。1919年(大正8年)5月に御幸橋の軌道専用橋が完成し、宇品線が1本につながった[71]。1921年(大正10年)に大阪市電より後にB形になる車両(2代目101-110号)を10両購入[72]。それに伴い、元々の101-150号車を1-50号に改番した[72]。1925年(大正14年)4月に2013年現在広電最古参となる後に150形(E形)になる車両(151-160号)を導入[26]。同年6月頃より、宮島線の車両に倣う形で、車体左下部に0形には「A」、100形(2代)には「B」、150形には「E」の文字が付記された[72]。1927年(昭和2年)に大阪市電よりB形(2代目100形)を20両追加購入。1930年(昭和5年)にG形(後の初代200形)を10両導入[73]。1935年(昭和10年)12月に御幸橋東詰 - 宇品間が複線になった新線に移動した[73]。1933年から1934年頃にかけてポールが2本から1本に変更された[74]。1937年(昭和12年)に千田車庫で火災が発生。被害車両の復旧で100形(初代)11両が450形になった[73]。1938年(昭和13年)に大阪市電より市内線初のボギー車になる300形を5両[75]、京王電気軌道(現在の京王電鉄)より23形を10両購入し500形(初代)とした[73]。またB形を全車更新し400形になった[73]。
宮島線は、1919年(大正8年)3月7日に広島軽便鉄道が、己斐 - 草津間の免許を取得[76]。同年4月18日に、広島瓦斯電軌に免許は譲渡された[76]。同年6月に鉄道院に対し、敷設権の継承、草津町-大野村間の免許申請、動力を蒸気機関から電気への変更申請を行い、同年9月25日に許可され同年11月16日に宮島線の建設が始まった[76][33]。1922年(大正11年)8月に宮島線の第一期工事区間である己斐町 - 草津町間が開通[26][77][78]。それに併せて同年6月にC形(後の1000形)を導入した[26]。1924年(大正13年)4月に第二期工事区間である[78]草津町 - 廿日市町間が延長[28]。それに併せて1923年(大正12年)12月にD形(後の1010形)を導入した[26]。1925年(大正14年)7月に廿日市町 - 地御前間が開通[26]。それに併せて同月F形(後の1020形)を導入[26]。それと同時に宮島に向かう連絡船が開業した[26]。1926年(大正15年)7月に地御前 - 新宮島間が開通し、連絡船に接続した[79]。1931年(昭和6年)2月に新宮島 - 電車宮島(現在の広電宮島)間が開業し、宮島線が全通した[79][80]。同日連絡線事業は廃止[29]。それに併せて1930年(昭和5年)にはH形(後の1030形)を導入した[26]。1937年(昭和12年)の火災では、C形・D形1両ずつ、計2両が被災[81][補足 8]。足回りなどを流用し[81]、1941年(昭和16年)に半鋼製の1040形として復旧した[82]。
1939年(昭和14年)にアルファベットだった形式名を、車番と同様の数字による形式名に変更した[72][83]。
広島電鉄時代
会社成立から原爆投下
当時の国の政策[補足 9]により、1942年(昭和17年)1月30日に 臨時株主総会で、運輸部門の分離を可決[84][31]。同年2月2日に、内務省および鉄道省に軌道譲渡許可申請を[84][31]、鉄道省に地方鉄道譲渡許可申請・旅客自動車運輸事業譲渡許可申請を各省庁に申請した[84][31]。同年4月4日に、各運輸事業に関する、譲渡許可が下り[32]、1942年(昭和17年)4月10日、広島瓦斯電軌の交通事業部門が分離して広島電鉄となった[85]。この年、600形(初代)、650形が導入された[86]。1943年(昭和18年)12月に現在の江波線の一部となる土橋 - 舟入本町間が開通[86]。1944年(昭和19年)6月に舟入本町 - 舟入南町間が単線で開通[87]。翌7月に宮島線の廿日市 - 電車宮島間が単線化[87]。その線路を使い、12月に皆実線が開通[87]。1945年(昭和20年)3月に舟入本町 - 舟入南町間が複線化された[87]。この頃に、現在の路線網がほぼでき上がっていたことになる。 集電装置に関して、1941年(昭和16年)に日本で初めてビューゲルの実用化に成功[88]。1944年(昭和19年)8月までに全車両に取り付け、火花が飛びやすく敵の標的になりやすいトロリーポールを置き換えた[88]。また、ビューゲルの金具の実用新案権(実用新案登録第355463号)も取得した[89]。
1945年(昭和20年)6月には、電車の疎開のため桜土手引込線が整備され[90]、戦災を防ぐために宮島などを含め分散留置された[91]。
そして、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、人類史上初の原子爆弾が広島市に投下された。人類が経験したことのない未曾有の被害であった[92]。原爆投下で本社は半壊[93]。広島市内にあった広電の建物は1棟を除き50棟全て損壊した[94]。当時は1,241人在籍していたが、185人が死亡、266人が負傷した[93][補足 10]。路面電車車両も、在籍していた123両のうち108両被災した[95]。
原爆投下からの復興
しかし、宮島線は被爆翌日の7日には草津町(現草津)から電車宮島(現広電宮島口)で運行再開。翌8日には全線で運行再開した[96]。
市内線についても、広電社員と軍(東京電信隊[33]など40名)の協力により、電柱をトラックとロープを使い立て直し、暁部隊が所有していたマスト300本も活用[97]、さらに電線を引き直すなど行い、廿日市変電所から送電を行うことで[97]、早くも8月9日には己斐から西天満町(現在の天満町)までの間で折り返し運転を再開した[98][97][33]。復旧は単線で行われた[99][100]。その時使われた車両は、2両[101][102]、または3両[103]であった。運行再開時に運賃が払えない乗客に無理に請求を行わず[97]、運行再開は途方にくれる市民を大いに勇気付けたとされている[99]。終戦直前の14日[補足 11]には小網町まで復旧した[97]。
8月9日に使用された車両は、一番電車に車掌として乗車した女学生の証言では400形[104][105][106]とされ、中国新聞が8月9日の運行再開時に撮影した写真で413号が写っている[補足 12][103][107]、『電車を走らせた女学生たち』の女学生の記録では600形[108][補足 13]。『広電が走る街今昔』では500形501号・503号となっている[99]。
戦後も復旧は進み、吉田営業所に避難させていた整流器と300kWの電動発電機1機[109]を使い8月18日には千田町変電所を復旧させた[100]。復旧当初は己斐を起点に復旧が行われ、8月19日には土橋まで、21日に十日市町まで、23日に左官町(現・本川町)まで、9月7日には八丁堀まで復旧した[100]。広電本社からも復旧が行われ、8月18日には電鉄前(現・広電本社前)から宇品(現・広島港)まで復旧[100][補足 14]。9月12日には紙屋町まで復旧し宇品線は全線復旧した[100]。1945年(昭和20年)12月には本線が全線復旧[110][補足 15]。続いて1947年(昭和22年)11月に江波線が[110]、1948年(昭和23年)7月には皆実線と宇品線が[110]、12月26日には横川線[110]十日市‐横川橋(現・別院前)[109]がそれぞれ復旧した。1950年(昭和25年)7月には宮島線が複線に戻った[110]。1952年(昭和27年)3月には、道路の付け替えで復旧が遅れていた白島線が復旧した[110]。
千田町変電所は1945年8月18日から電気の供給を再開したが、爆心地に非常に近かった櫓下変電所は壊滅的な被害を受けたため、代わりに1947年11月に本川町電停前に中央変電所が開設された[109]。
車両についても、1948年(昭和23年)より残存していた100形の内4両を450形に、500形全車を700形(初代)に改造が始まる[72]。終戦後、復旧される事無く1951年(昭和26年)3月に300形は廃車になった[72]。
当時、被爆した車両の一部は被爆電車として現在も保存を兼ねて運行されている。
区画整理による線路付け替え
1949年(昭和24年)8月6日には広島平和記念都市建設法が成立[111]。それに基づき、建設省・広島市復興局と協議を行い計画を策定[112]。道路拡幅および軌道の道路中央部に移動することになり、当時の市内線18.4kmのうち半分強の9.4kmを移動させることになった[112]。
線路付け替えの費用分担は、当初予定では3分の1とされたが、査定の見直しなどで1952年(昭和27年)時点で、平均約48%、最高57%に負担になった[112]。広電側の負担減額の陳情で、その後は電車施設のみの負担になり、1954年(昭和29年)の稲荷大橋-広島駅間は22.4%の負担になっている[112]。
道路中央部への移設のほか線路の付け替えも行われ、1956年(昭和31年)には左官町(現・本川町)周辺の線路の付け替え[113]、1964年(昭和39年)には太田川放水路および福島川の廃川による観音町-己斐間の付け替えが行われた[114]。
建設法に先がけ、広島市の事業として1947年(昭和22年)より線路付け替えを開始[112]。広島市内にある広島電鉄の線路がある7橋(荒神橋・稲荷大橋・相生橋・広電天満橋・新己斐橋・御幸橋・新横川橋)のうち、都市計画道路上にない広電天満橋と、第二次大戦まえより併用橋だった荒神橋以外の5橋は橋の架け替え、または橋の新設が必要になった[112]。1950年(昭和25年)に稲荷大橋が[112]、1958年(昭和33年)に新横川橋が[112]、1964年(昭和39年)には太田川放水路の完成に合わせて新己斐橋が[115]、1983年(昭和58年)に相生橋が[116]、1990年(平成2年)には御幸橋が完成した[116]。
線路の付け替えは長期にわたり、最後に行われた小網町-舟入本町間、十日市町-寺町間は1995年(平成7年)に完成。完成までに40年以上かかった[117]。
宮島線との直通運転開始
市内線車両は、1951年(昭和26年)3月には800形(初代)を10両導入[118]。同じ年に150形の車体更新が始まった[118]。1953年(昭和28年)9月には500形(2代)を5両導入[118]。その年に更新を受けなかった100形(初代)は全車廃車になった[118]。1955年(昭和30年)3月には550形を5両導入[118]。551のみ製造当初は間接制御を採用し、宮島線との直通許可を受けていた[119]。
宮島線車両は、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)より、1947年(昭和22年)2月1050形を購入[83]。1954年(昭和29年)に全鋼製車両に更新した[83]。1957年(昭和32年)に1060形を導入。最後の新製高床車になり[83]、直通形の増備に移行した。
1955年(昭和30年)頃、国鉄山陽本線や路線バスとの競合により、宮島線の利用者数は伸び悩んでいたため[109]、当時バス事業が郊外路線延長で利用者数が伸びていたこと、以前より千田車庫での整備のために連絡線がもうけられていたが、1957年3月の太田川放水路の整備による区画整理により、己斐駅・西広島駅の移転の必要があったことより、市内線と宮島線を直通させることを計画[120]。市内線用の低床車両を乗り入れる方式を採用した[121]。それに併せて、宮島線の各駅に低床用のホームの整備を行い[122]、1957年(昭和32年)5月に己斐駅・西広島駅の移転が完了[122]。1958年(昭和33年)4月より団体貸し切り列車として直通運転を開始した[122]。1962年(昭和37年)1月に広島駅から広電廿日市駅まで15分ヘッドの定期運転を開始[122]。定期運転開始に併せて、オリエントピーチの車体色に赤帯を配した『直通色』が登場した[123]。1963年(昭和38年)5月には広電宮島口駅まで延長された[122]。
直通形車両も増備され、550形551をはじめ、1958年(昭和33年)3月には850形を3両導入[118]。1960年(昭和35年)より2000形[118]、1961年(昭和36年)より2500形の導入を開始した[118]。2004号については、経費削減や広電のチャレンジ精神より、日本車輌製造が製造したフレームに、自社で鋼製車体を組み立て[124]、1962年(昭和37年)11月に竣工した[125]。2000形については同年末までに合計6両を製造[125]。その後、2500形についても同様に製造した車両がある[125]。
また沿線整備も進められ、楽々園遊園地の施設の整備[122]および別会社への移管[37]。宮島方面は、1958年(昭和33年)3月に宮島松大観光船(現・宮島松大汽船)に出資[37]。1959年(昭和34年)4月に、広島電鉄が大株主の広島観光開発が、『宮島ロープウエー』を開通[37]。1965年(昭和40年)には、現在『宮島口もみじ本陣』を運営している『広島宮島ガーデン』を設立した[38]。
動く電車の博物館
昭和30 - 40年代には広島電鉄も他の都市の路面電車と同様にモータリゼーションの進展に伴う渋滞の増加で定時運行ができなくなったことから利用客の減少により売り上げが減り[126]、存廃問題に立たされた[127]。一旦は1963年(昭和38年)6月に、軌道敷内への車両乗り入れが許可された[128]。その頃、広島市に地下鉄計画があり、移行しようとしていた節もあった[129]。しかしこの時、広島電鉄の関係者が市や警察局などに説得を続け、同時に広島県警も独自に調査団を当時路面電車が多数残っていたヨーロッパに派遣・調査を行う。そこで見たものは、中心地の渋滞緩和のための方法としての新たな役割を任され、進化した路面電車の姿だった[130]。1971年(昭和46年)2月に広電は『電車を守る』宣言を行い、路面電車存続へ方針転換[131]。この結果、軌道廃止に伴う代替交通機関が決まらないまま廃止したら、中心街のさらなる交通環境の悪化を引き起こすという結論に至り、一時解除されていた軌道内への自動車進入禁止を1971年(昭和46年)12月に再開させることに成功し[130]、市内の全面駐車禁止、電車優先信号設置、右折レーン設置などの施策を実行させた[132]。廃止された事業者から車両の譲渡を受け、単車をボギー車に置き換えることで車両の大型化およびワンマンカー化[133]。さらなる高速化も図られ、1974年(昭和49年)3月に、海岸通付近に初めて電車優先信号を導入[134]、1975年(昭和50年)2月には、皆実町六丁目から宇品五丁目間に延長された[134]。機構改正や合理化などを行い[133]、1969年(昭和44年)には白島線でワンマン運転を開始[135]。1976年(昭和51年)に市内線は、ラッシュ時を除きワンマン運転化した[135]。それらの努力で、辛うじて残すことができたといわれる。その中、1971年(昭和46年)に、広島駅から紙屋町を経由して横川駅に向かう、旧7号線が廃止になった[136]。また、広島市中心部は太田川河口部の三角州にあるため、地下水脈や地質などの問題から当時の技術では大規模な地下鉄建設が難しかったことも廃止を免れた一因である。しかし現在アストラムラインが、地下2、3階分の低さではあるが広島市の中心部を南北に走っている。
市内線には、1966年(昭和41年)より大阪市電から750形[118]および900形[118]を、1971年(昭和46年)に神戸市電より570形および1100形・1150形を購入した[118]。それにより広電に残っていた二軸単車を置き換え、1966年(昭和41年)に200形(初代)[72]、1969年(昭和44年)に400形[72]・450形[72]、1971年に150形が全車廃車になり、二軸単車が全車廃車になり、車両の大型化を完了した[137]。またボギー車も、1972年(昭和47年)に600形(初代)が全車廃車[72]。700形(初代)が1972年(昭和47年)までに4両廃車[138]、800形(初代)が1976年(昭和51年)までに9両廃車[138]になった。
宮島線には、1967年(昭和42年)には、1070形を京阪神急行電鉄から購入[83]。1977年(昭和52年)1080形を京阪神急行電鉄から購入[83]。1982年(昭和57年)には、1050形を改造し1090形とした[83]。また、木造車の廃車も進み、1966年(昭和41年)に1020形が全車廃車[83]、1968年(昭和43年)に1010形が全て廃車になり木造車は全車廃車になった[83]。
直通車の大型化も進行。2000形が1973年から1974年にかけて、端数になる1両を除き8両が2両連結車に改造を行った[139]。
1975年(昭和50年)に千田車庫で火災が発生して一部車両が廃車となり、その補充のために西鉄北九州線より600形を購入し、ほとんど廃車になっていた800形(初代)も1両がワンマン化改造を受けた。1978年(昭和53年)より京都市電から1900形を購入開始[140]するとともに700形(初代)、800形(初代)は全廃、750形も一部が廃車された[141]。
1979年(昭和54年)には、3両連接車3000形の運用を開始[141]。3000形は広電初の3両連接車で従来型と比べ7m長く、定員も180人と従来型と比較して50人増加した[141]。1976年(昭和51年)に廃止になった西鉄福岡市内線より2両連接車1101・1201・1301形を購入。改造した[141]。また、1301形は一部小改造で、1976年より1300形として1300形として運用した[141]。
その後、直通車の増備のため[142]、当時市内線で主に使われていた[143]2両連接車の2500形を3両連接車に改造。1985年(昭和60年)より、3100形に改造した[141]。広電西広島の宮島線用ホーム2本の内1本を直通車用に改良し、直通車用ホームを3本にした[142]。
当初750形が移籍した時は広電色に塗り直されたが、900形等の移籍の時より[144]、経費節減のために移籍前の塗装を塗り替えずに運行[145]。また、大阪市や神戸市からは安価に外装用の塗料など入手できた[146]ことより、以前の塗装を維持した[146]。そこから『動く電車の博物館』や『路面電車の博物館』などと異名でファンから呼ばれるようになった[147][148]。呼ばれた当初は、広電はこの名称を嫌い、塗り替え色の公募を行ったが、地元デザイン会議のメンバーの反対により、塗り替えを断念。現在に至っている[149]。その反面、乗客へのサービスとして方向幕の大型化、冷房改造などを積極的に行い、原型には必ずしもこだわっていない。
また、移籍車両の側面に1979年(昭和54年)2月20日より、旧在籍事業者・移籍年を記載した『移籍プレート』を取り付けている[150][151]。
また、日本国外からも車両の導入が行われ、1977年(昭和52年)の開業65年時に日本国外から車両を導入する話が上がり、軌間が1435mmで同一でかつ両方向に運転台が付いていること、さらには路線の地下化で余剰車になったことより[152]、ドイツのドルトムント市の中古車両を導入することになり、1編成に付き車両購入費500万円・輸送費1500万円・改造費2500万円をかけて、1981年(昭和56年)に70形が移籍してきた[153]。その他、広島市とドイツのハノーバー市との姉妹都市提携を記念し、広島市が茶室を送った返礼として、1989年(平成元年)に200形(2代)(通称:ハノーバー電車)が贈られた[140]。逆に、1986年(昭和61年)には、578号がサンフランシスコ市に寄贈されている[154]。
1988年(昭和63年)には、3103号が西ドイツの画家、ジョー・ブロッケルホフによりスプレー画が描かれ『ピースバーン号』になった[155]。1992年(平成4年)に塗装の痛みのため全面塗り替えも検討されたが[156]、8月頃に車体の補修のため腰部のみ塗装が残され、その他はグリーンライナー色に変更された[157]、1995年(平成7年)8月に全面的に塗り替えされた[158]。
また1972年(昭和47年)より、『電車接近装置』を電停に順次設置を開始[159]。発展させる形で、1980年(昭和55年)に広島駅-己斐間に『電車ロケーションシステム』を試験的に採用[160]。1985年(昭和60年)3月までに全電停に整備された[160]。また電車運行状況を放送する電停案内放送装置や、電停での利用者の安全を確保するため電停に安全柵、屋根、平面安全地帯を島状にするなどの整備などを行った[132]。
軽快電車
1980年(昭和55年)に久方ぶりの新車になる3500形を導入[140]。軽快電車のはしりになった[161]。当初は開発委員会が所有していたが、1981年(昭和56年)に広電が購入した[162]。1982年(昭和57年)より、廃車になった車両の中古モーターを利用したセミ軽快電車700形(2代)[163]。1983年(昭和58年)より800形(2代)[140]、1984年(昭和59年)より3700形[140]、1987年(昭和62年)より3800形[140]、1990年(平成2年)より3900形[140]、1997年(平成9年)より3950形[140]が導入された。3800形に関しては当時としては珍しいVVVFインバーター制御を採用している[164]。
宮島線の車両は、1050形を永久連結化・台車の換装・大型方向幕の装着など更新を行い、1982年(昭和57年)に1090形に改番。1984年(昭和59年)には、宮島線専用車で唯一の冷房化改造も行われた[165]。しかし直通形の増加により廃車が進み、1980年(昭和55年)に1040形が全車廃車[83]、1985年(昭和60年)に1030形が全車廃車[83]、1987年(昭和62年)に1070形が全車廃車[83]、1989年(平成元年)に1060形と1080形が全車廃車[83]、1991年(平成3年)に1090形が全車廃車になり、高床車と呼ばれる、宮島線専用車が全廃された[83]。
また、1971年(昭和46年)に全車廃車になった二軸単車の復活も行われ、1984年(昭和59年)には地域イベント『Sun Sunひろしま』にあわせて、開業時の電車を復元した100形が登場[166]。1987年(昭和62年)には被爆電車として150形が車籍を復活させた[167]。
軽快電車の導入で、老朽化の進んでいた570形や750形の多くに廃車が発生。冷房改造されていなかった900形にも廃車が出た。1990年代後半までに一部保存されている単車を除いて冷房化を完了した。
1994年(平成6年)には、ラッシュ時に70形を導入。直通列車を除く市内線では初の連接車導入になった[168]。その後、連接車の運行範囲は拡大されていった。
超低床車両の増備と従来車両の廃車
1990年(平成2年)に欧州視察を行うなど、路面電車が急速に見直される中で新時代の公共交通機関を目指してLRT化に積極的に取り組んでいる[169]。
軽快電車をさらに進化させた、バリアフリー対応の超低床電車の導入も1990年代から検討され、先行するヨーロッパの主要車両メーカへ日本の気候に合った100%低床車両の可能性を問い合わせていた[170]。3950形増備の前年時点で、アルナ工機・住友金属工業・東洋電機製造で検討したが、日本の国産部品を使って、床高を79cmから75cmにするのが限界で、コストの関係で一旦は国産低床車の導入は断念した[171]。そのことで、先行して実用化していた日本国外のメーカーから輸入する方針に転換[172]。アドトランツ・シーメンス・アルストムなどが検討され[172]、1999年(平成11年)よりドイツシーメンス製のGREEN MOVER5000形を導入した[140]。5000形は完成が遅れ船便で送った場合に、到着時期が政府の補助金給付期限を過ぎてしまうため、大型輸送機(An-124)で空輸。広島空港には鉄道ファンと航空ファンが集まり、マスコミに多く報道された[172]。
その後、日本国外の車両を使うことで、車両を輸入することでの輸送費の増大[173]、部品を輸入することでコストが高く時間がかかること[173]、そして車両構造が日本での運用を考慮してないこと[173]などの問題で、2001年(平成13年)に『U3プロジェクト』を立ち上げ、日本国産の低床車両の開発を開始[174]。2004年(平成16年)より国産初の100%超低床電車Green mover max5100形[140]を導入し、同年12月19日には江波車庫(広島市中区江波)に搬入された[175]。また、既存の車両についても出入口に補助ステップ(踏み台)を設置するなど、高齢社会に相応しい公共交通機関を目指している。
それらの超低床車両に入れ替わるように、老朽した自社オリジナルおよび他都市からの移籍車両の廃止が進み、オリジナルの500形・550形、旧神戸の1100形は形式消滅。2000形(自社)は全車両が営業運行を離脱、570形(旧神戸)、600形(旧北九州)、1150形(旧神戸)は残り1両に。これまで事故廃車しか出ていなかった650形(自社、被爆車両)にも2両が運用を離脱し(653号は休車・江波車庫保管、654号は廃車・広島市交通科学館に保存)、世代交代が進むことになった。650形のようにメディアに取り上げられ、引退式典を行う車両は例外的で、ほとんどの車両は置き換えた車両に問題がないことを確認の上で休車・廃車・解体を行っている。
2003年(平成15年)には、横川駅を改良[176]。それに合わせて、十日市の連絡線を整備し、広電本社前行きとして7号線が復活した[176]。
ハード面では、2000年(平成12年)3月に鷹野橋のバリアフリー化を実施。順次、他の電停でも同様の工事を行っている[177]。
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2006年6月以降営業運用から離脱した550形
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2003年3月に形式消滅した1100形
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570形584は2006年6月に廃車された。582のみ残る
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602号の1両のみが残る600形
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2006年6月に一部廃車が発生した650形
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1156号の1両のみが残る1150形
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2009年10月17日以降営業運用から離脱した2000形
2010年以降の動き
超低床型電車については、2012年(平成24年)内に5100形を3両編成に短縮して追加導入する計画がある。中国新聞2012年11月23日付けの報道[178]によると、同車両は2013年(平成25年)2月から白島線に導入され、白島線と江波線を直通する系統として運行する計画があることが報じられている。また、2012年12月18日付けの広電のプレスリリース[179]によると、2013年2月14日に3車体2台車の2編成(1001号・1002号)が登場し、うち1編成はタイアップラッピングが施されることが明らかにした。2013年2月6日に、1000形(2代目)を同年2月15日から導入すると発表した[180]。
2012年8月には、低床車両更新や電停改修のため20円から30円ほどの値上げを検討していることを明らかにし[181]、同年11月の時点で値上げする方針であると明らかにした[182]。
2011年(平成23年)4月11日の市内線ダイヤ改正により、3号線は朝ラッシュまでは 広電西広島 - 広島港間で運行し、その後は 広電西広島 - 宇品二丁目間に区間を短縮して運行するようになった[183]。同年7月11日の市内線ダイヤ改正により、5号線は原則、広島駅 - 広島港間で運行して、日中12分間隔となった[184]。
2013年(平成25年)1月8日、越智秀信を代表取締役社長から取締役に降格。椋田昌夫専務が社長に就任した[185][23]。事実上の解任とされ、理由は『代表取締役の独断的業務執行による、会社組織として業務に支障が出ているため』とし、詳細な理由説明はされなかった[186][23]。臨時取締役会は、越智・社外取締役が欠席で、常勤役員全員出席で行われた[187]。その後、社長に就任した椋田は、越智が運賃値上げや広島駅前新線などの計画を取締役会にかけずに公表したことを解任理由とし、それらの計画について白紙に戻すなど見直すことを明らかにした[188]。
2012年(平成24年)11月23日に電車開業100周年を迎えるのに伴い、同年5月12日から全面広告車を除く全車に100周年記念のヘッドマークが掲出されている。
信用乗車方式の検討
2013年(平成25年)度以降の本格導入を目指し2011年(平成23年)には信用乗車方式の社会実験を予定していると報道されていた[189]。2012年(平成24年)2月15日から3月31日までの間、3両連接車(3703号・3906号)の中扉にも降車用のICリーダー機を設置し、ICカード(PASPY・ICOCA)の利用者に限り全扉から乗降できるようにして社会実験が行われた[190]。
新線・延伸計画
広島電鉄は、1997年(平成9年)9月に広島駅と広電西広島の間を平和大通り・駅前通り・駅前大橋を介して結ぶ路線を新設する計画を発表して免許を申請した。広島駅と広電西広島の間は2号線で結ばれているが、途中に交差点を抱えて路線はクランク状に折れ曲がるため、長大列車を運行する上の課題となっている。平和大通りは幅が大変広く、複線軌道を敷設するには十分である。これにより、クランクを回避できると長大編成による拠点間の高速運行が可能となり、利便性が格段に向上するとされる。
発表直後から広島市や市民、運輸審議会を交えた折衝が数度にわたって行われたが、当時の広島市は、アストラムラインによる東西線建設を希望していた。しかし、広島市は巨額の財政赤字を抱え、新球場建設等の大型事業に着手、既存のアストラムラインの大幅な赤字、国による路面電車のLRT化の推進方針も重なり、既存の路面電車やバスを改善していく方向に公共交通機関の整備計画が見直された。さらに広島電鉄は、2002年(平成14年)頃までに数度にわたって修正した計画案(最終案では、平和大通り西端の西観音町電停 - 江波線までのみ敷設)を発表したが、広島市による緑大橋の架け替え費用等の資金面で目途が立たず、2008年(平成20年)現在では、同計画は棚上げ状態にある。
2010年(平成22年)6月29日の広島電鉄の取締役会で社長に就任した越智秀信は就任前の5月12日、JR広島駅と広島市南区稲荷町を結ぶ路面電車の新路線「駅前大橋線」の、2016 - 17年の運行開始を目指す考えを明らかにした[191]。
その後、乗り入れ方法についてJR側は広島駅建て替えを含めた高架乗り入れ、広電側は地下乗り入れを希望しているとされた[192]。その後、2013年1月の越智社長の解任で、方針を見直すとされ[188]、同月18日に高架式に方針転換すると社長が明らかにした[193]。
広島市は学識経験者等で構成する「広島駅南口広場再整備に係る基本方針検討委員会」を設置し、2010年(平成22年)8月31日に第1回会合が開催され、路面電車の駅前大橋ルートを含めて、検討が行われている[194]。
幻になった路線
広島瓦斯電気時代に、広島から呉間の鉄道路線敷設を計画。1919年(大正8年)12月20日に申請。計画では、呉側の終点は三津田橋周辺を計画。さらに、本通りまで軌道路線敷設の特許申請を行っていた[195]。その時は、省線(呉線)との競合路線になることより却下された[196]。その後、路線短縮を行い広島から船越間に変更し、1926年(大正15年)2月18日に免許を取得した[81]。日本製鋼所広島製作所への通勤輸送を目的にしたが、当初の南側の路線計画では、川船の往来の妨害になることより断念[81]。その後計画された北側の路線計画では、省線と競合路線になることで、たびたび申請されていた工事着工延期申請を却下[81]。1931年(昭和6年)8月5日に免許は失効した[81]。電車宮島(現広電宮島口)から岩国への路線敷設申請も行われたが免許取得は出来なかった[81]。また、横川から甲田町(現・安芸高田市)の甲立までの路線計画も存在した[81]。
また、広島商工会議所が1927年(昭和2年)に発刊した『大広島の建設』で、横川線を延伸して江波に至る路線(後に江波線として実現)、的場町から段原町を経由して鷹野橋に至る路線(後に皆実線として実現)、己斐から観音橋・住吉橋・鷹野橋を経由して段原町に至る路線、横川から白島を経由して広島駅に至る路線、猿猴橋から尾長町を経由して府中に至る路線が提案され、それを受けて広島瓦斯電軌は青写真を作成し検討されたが、大半は実現しなかった[197]。
さらに、戦時中の1945年(昭和20年)7月に、三菱重工業広島機械製作所への行員輸送のため、天満町から昭和新開(現・観音新町)間(約3km)の特許を得た。資材に関しては、三菱重工業からの提供および白島線の単線化でまかなうとされた[198]。しかし、同年8月の広島市への原爆投下で、市内線は壊滅的な被害を受け工事に着手できず、1959年(昭和34年)に起業廃止申請を行い特許は失効した[199]。
鉄軌道車両
現用車両
2013年1月発行の『路面鉄道年鑑2013』での在籍車両数は、299両(単車68両+連接車62編成)になっている[200]。在籍状況は、『路面鉄道年鑑2013』を元にしている。
単行車
貨50形は事業用。350形のみ市内線・宮島線直通許可を受けている。現在の運用はすべて市内線のみとなっている。
形式名 | 導入初年 | 導入 車両数 |
導入車番 | 在籍 車両数 |
在籍車番 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
貨50形 | 1979年[201] | 2[140] | 51,52[140] | 2[202] | 51,52 | 750形758,759から改造 |
3代目100形 | 1984年[201] | 1[140] | 101[140] | 1[202] | 101[202] | 開業時車両の復元車 |
2代目200形 | 1988年[201] | 1[140] | 238[140] | 1[202] | 238[202] | 元ハノーバー市電 |
350形 | 1958年[203] | 3[140] | 851-853→ 351-353[140] |
3[204][205] | 351-353[204][205] | 旧形式名850形、旧直通車 |
570形 | 1971年[203] | 17 | 571-587 | 1[202] | 582[202] | 元神戸市電500形 |
2代目600形 | 1976年[203] | 3[140] | 601-603[140] | 1[206] | 602[206] | 元西日本鉄道500形 |
650形 | 1942年[207] | 5[72] | 651-655[72] | 3[202][206] | 651-653[202][206] | 被爆電車 |
2代目700形 | 1982年[207] | 11[140] | 701-707,711-714[140] | 11[205] | 701-707,711-714[205] | 701-707は750形の廃車モーターを利用 |
750形 | 1965年[207] | 22[118] | 751-772[118] | 6[202] | 761-763,768,769,772[202] | 元大阪市電1601形・1651形・1801形 |
2代目800形 | 1983年[207] | 14[140] | 801-814[140] | 14[205][208] | 801-814[205][208] | |
900形 | 1969年[209] | 14[118] | 901-914[118] | 9[206] | 904-907,910-914[206] | 元大阪市電2601形 |
1150形 | 1971年[209] | 7[118] | 1151-1154,1156-1158[209] | 1[206] | 1156[206] | 元神戸市電1150形、1158は1155に改番 |
1900形 | 1977年[209] | 15[140] | 1901-1915[140] | 15[206][204] | 1901-1915[206][204] | 元京都市電1900形 |
連接車
全車が市内線・宮島線の直通許可を受けている。ほとんどの車両が、市内線・宮島線直通運用されているが、現在3000形は市内線のみ、3500形は宮島線のみの運用になっている。3100形から3900形までは、宣伝車以外はほぼすべてぐりーんらいなーとなっている。
形式名 | 導入初年 | 導入 編成数 |
導入 車両数 |
導入編成番 | 在籍 編成数 |
在籍 車両数 |
在籍編成番 | 愛称 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
3000形 | 1979年[210] | 8[140] | 24 | 3001-3008[140] | 7[208][211] | 21 | 3002-3008[208][211] | - | 元西日本鉄道福岡市内線1101形・1201形・1301形より改造 |
3100形 | 1985年[210] | 3[140] | 9 | 3101-3103[140] | 3[211] | 9 | 3101-3103[211] | ぐりーんらいなー | 2500形(新製車グループ)より改造 |
3500形 | 1980年[210] | 1[140] | 3 | 3501[140] | 1[211] | 3 | 3501[211] | ぐりーんらいなー | 軽快電車第一号 |
3700形 | 1984年[212] | 5[140] | 15 | 3701-3705[140] | 5[211] | 15 | 3701-3705[211] | ぐりーんらいなー | |
3800形 | 1986年[212] | 9[140] | 27 | 3801-3809[140] | 9[211][213] | 27 | 3801-3809[211][213] | ぐりーんらいなー | |
3900形 | 1990年[212] | 8[140] | 24 | 3901-3908[140] | 8[213] | 24 | 3901-3908[213] | ぐりーんらいなー | |
3950形 | 1997年[212] | 6[140] | 18 | 3951-3956[140] | 6[214] | 18 | 3951-3956[214] | Green Liner | |
5000形 | 1999年[215] | 12[140] | 60 | 5001-5012[140] | 12[214][216] | 60 | 5001-5012[214][216] | GREEN MOVER | |
5100形 | 2005年[215] | 10 | 50 | 5101-5110 | 10[216] | 50 | 5101-5110[216] | Green mover max | |
2代目1000形 | 2013年 | 2 | 6 | 1001-1002 | 2 | 6 | 1001-1002 | PICCOLO PICCOLA |
休車・保存車
単行車
550形551号のみ市内線・宮島線の直通許可を受けている。
形式名 | 導入初年 | 導入 車両数 |
導入車番 | 在籍 車両数 |
在籍車番 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
150形(E形) | 1925年[217] | 10 | 151-160 | 1[202] | 156[202] | 被爆電車、保存車 E形として登場 |
550形 | 1955年[203] | 5 | 551-555 | 1[206] | 551[206] | 551は旧直通車・間接制御車、休車 |
連結・連接車
2000形のみ連結車。
形式名 | 導入初年 | 導入 編成数 |
導入 車両数 |
導入編成番 | 在籍 編成数 |
在籍 車両数 |
在籍編成番 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000形 | 1960年[209] | 4(1両余剰)[118] | 9 | 2001,2002=2003,2004=2005, 2006=2007,2008=2009[118] |
1[202] | 2[202] | 2004=2005[202] | 1974年に連結化、休車 |
廃車等により消滅した形式
単行車
形式名 | 導入初年 | 導入 車両数 |
導入車番 | 備考 |
---|---|---|---|---|
初代100形(A形) | 1912年[72] | 50[72] | 101-150[72] | 開業時の車両 導入後に車番を1-50 → 101-139(11両は450形に改造)に改番 導入後、A形 → 100形に形式変更 |
2代目100形(B形) | 1921年[72] | 30[72] | 101-130[72] | 導入後にB形に形式変更 全車400形に改造 |
初代200形(G形) | 1930年[72] | 10[72] | 201-210[72] | G形として導入 |
400形 | 1938年[72] | 30[72] | 401-430[72] | 2代目100形を元に車体更新 |
450形 | 1939年[72] | 15[72] | 451-465[72] | 初代100形を元に車体更新 |
形式名 | 導入初年 | 導入 車両数 |
導入車番 | 備考 |
---|---|---|---|---|
300形 | 1938年[72] | 5[72] | 300-304[72] | 元大阪市電500形[72] 300は305に改番[72] |
初代500形 | 1938年[72] | 10[72] | 500-509[72] | 元京王電気軌道23形 500は510に改番[72] 全車、初代700形に改造[72] |
2代目500形 | 1953年[118] | 5[118] | 501-505[118] | |
初代600形 | 1942年[72] | 3[72] | 601-603[72] | |
初代700形 | 1948年[72] | 10[72] | 701-710[72] | 初代500形の車体更新車[72] |
初代800形 | 1951年[118] | 10[118] | 801-810[118] | 803は801に改番・ワンマン改造 |
1100形 | 1971年[118] | 5[118] | 1101-1105[118] | 元神戸市電1100形[72] |
連接車
全車が市内線・宮島線の直通許可を受けていた。
形式名 | 導入初年 | 導入 編成数 |
導入 車両数 |
導入編成番 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
70形 | 1981年[140] | 2[140] | 6 | 76,77[140] | 元ドルトムント都市事業 Dortmunder Stadtwerke AG |
1300形 | 1976年[140] | 2[140] | 4 | 1305,1306[140] | 元西日本鉄道1301形 後日、3000形に改造 |
2500形 | 1961年[118] | 7[118] | 14 | 2501=2502,2503=2504,2505=2506, 2507=2508,2509=2510,2511=2512, 2513=2514[118] |
2501-2510は自社発注 2511-2514は元大阪市電1601形を改造 自社発注車は3100形に改造 |
宮島線専用
形式名 | 導入初年 | 導入 車両数 |
導入車番 | 備考 |
---|---|---|---|---|
初代1000形(C形) | 1922年[83] | 2[83] | C1,C2 → 1000[83] |
C形として導入 後日1000形に形式変更 1両は1040形に改造 |
1010形(D形) | 1923年[83] | 8[83] | D3-D10 → 1011-1016[83] |
D形として導入 後日1010形に形式変更 1両は1040形に改造 |
1020形(F形) | 1925年[83] | 5[83] | F11-F15 → 1020-1024[83] |
F形として導入 後日1020形に形式変更 1020は1025に改番 |
1030形(H形) | 1930年[83] | 5[83] | H16-20 → 1030-1034[83] |
H形として導入 後日1030形に形式変更 1030は1035に改番 |
1060形 | 1954年[83] | 1[83] | 1061[83] | 最後の新製高床車 |
形式名 | 導入初年 | 導入 編成数 |
導入 車両数 |
導入編成番 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1040形 | 1939年[83] | 1[83] | 2 | 1041=1042[83] | 千田車庫火災で被災したC2,D8を車体更新 1957年に連接車化 |
1090形 ←1050形 | 1947年[83] | 2[83] | 4 | 1051=1052,1053=1054 → 1091=1092,1093=1094[83] |
元京阪神急行電鉄(現:阪急電鉄・京阪電気鉄道)100形・200形 1954年に車体更新 1980年に連結車化 1982年に1090形に改形式 |
1070形 | 1967年[83] | 4[83] | 8 | 1071=1072,1073=1074, 1075=1076,1077=1078[83] |
元阪急電鉄500形 |
1080形 | 1977年[83] | 4[83] | 8 | 1081=1082,1083=1084, 1085=1086,1087=1088[83] |
元阪急電鉄210系 |
車庫
現在
現在は、千田車庫・江波車庫・荒手車庫がある。
- 千田車庫 - 1912年(大正元年)11月23日の開業時に設置[218]
- 広島県広島市中区東千田町2丁目9-29
- 江波車庫 - 1952年(昭和27年)10月1日に設置[90]
- 荒手車庫 - 1960年(昭和35年)10月25日に設置[219]
過去
以前は、宮島口車庫・己斐車庫があった。また、戦時中には桜土手引込線が存在した。
バス事業
不動産事業
不動産事業は、不動産カンパニーおよび連結子会社の広電不動産、広電興産、交通会館によって行われている[1]。2013年(平成25年)1月31日に、広電不動産の本体への吸収合併を同年4月1日に行うことが決まった[220]。
事務所
- 不動産カンパニー、広電不動産、広電興産
- 広島市中区東千田町二丁目9番29号 広島電鉄本社ビル
- 交通会館
- 広島市東区上大須賀町1-16 交通会館ビル
概要
不動産事業に本格参入する以前より宮島線沿線の開発の一環として、第二次世界大戦前には楽々園、1955年(昭和30年)に藤垂園の開発を行っていた[221]。
1958年(昭和33年)10月28日、子会社として銀鱗不動産を設立[37]。1959年(昭和34年)10月31日には紙屋町に『広電ビル』が完成し[37]、オフィスビル賃貸事業に参入した[222]。1961年(昭和36年)2月1日[37]に広電不動産を設立[223]。八丁堀に『第二広電ビル』を建設した[223]。銀鱗不動産・広電不動産は、1971年(昭和46年)10月1日[40]に、広電不動産を存続会社にして合併した[223]。
1960年(昭和35年)の経済政策所得倍増計画で、住宅の販売が増加[221]。1967年(昭和42年)に事業部内に開発課を設置。不動産事業に本格参入した[221]。1969年(昭和44年)7月16日、開発部を拡充し、不動産カンパニーの前身となる「不動産部」を新設した[221]。1970年(昭和45年)度より、鉄軌道部門・バス部門での赤字を補うようになった[224][221]。
まずは小規模な住宅開発から行い、1969年(昭和44年)に中地(現・佐伯区八幡東)に8棟開発したのを皮切りに[221]、1970年(昭和45年)に城内(現・廿日市市城内)に5棟、原(現・廿日市市原)を開発した[221]。
その後、住宅団地開発に本格参入し、1970年(昭和45年)に553区画の『観音台』[225]、1971年(昭和46年)に188区画の『月見台』[225]、1972年(昭和47年)に956区画の『陽光台』[225]、1974年(昭和49年)より最終的には2,500区画以上になる『毘沙門台』の販売を開始[226]。1986年(昭和61年)に224区画購入し『東観音台団地』[227]、1991年(平成3年)に127区画を購入し『アメニティタウン仁保南』を販売した[228]。
マンション開発も行い、1975年(昭和50年)に『楽々園マンション』[226]、1989年(平成元年)に『ビューハイツ己斐上』[228]、1999年(平成11年)に『グランソシエ五日市』を販売した[228]。
それらの開発は、鉄軌道沿線に限定せず、バス路線沿線も開発を行った[226]。
その後、鉄軌道部門・バス部門の収益は改善し赤字ではなくなった[1]が、紙屋町などのオフィスビルの賃貸、一般向けに宅地・マンションの販売・仲介を行っている。
2012年(平成24年)には、広電ビルなどの建て替えで『広島トランヴェールビルディング』(「トランヴェール」はフランス語で「緑色の電車」を意味する)が開業した。
その他
テレビドラマ「西部警察」ロケ
1982年放送のテレビドラマ『西部警察 PART-II』第18話「広島市街パニック!!」のロケでは広島電鉄が撮影協力を行っており、ロケ期間中、市内中心部で各電車の運転を一時取り止め、付近の道路を一時通行止めにして撮影が行われた。クライマックスシーンの撮影では自社の750形766号が広電宮島(現・広電宮島口)駅まで運転され、同駅構内(当時)で爆破された。爆破時には周りが一瞬にして停電になる程であったという[229]。このシーンの映像はのちに『西部警察 PART-III』のオープニングにも流用されている。同車は廃車を前提としていた車両で、撮影のため、営業運転終了時の「パールライス号」から塗色・広告を変更し、同番組同ロケのスポンサーにちなみ「にしき堂号」とされ、爆破後正式に廃車された。この回では当時の運転指令室や本社社屋の模様も映し出されている[230]。また雑誌『鉄道ファン』の読者投稿欄でもこの件が話題となっていた。
ドイツ連邦共和国名誉領事
2001年5月に奥窪央雄・代表取締役会長(当時)がドイツの名誉領事に任命される。2007年2月に奥窪が退任した後は大田哲哉・代表取締役社長が引き継いで就任している。広島電鉄本社内に名誉領事事務所が設置されており、管轄地域は広島県である[231]。
関連会社
連結子会社
- 広電観光
- エイチ・ディー西広島(ボン・バス)
- 芸陽バス
- 備北交通
- 宮島松大汽船
- 広島観光開発(宮島ロープウエー)
- 広電ストア(スーパーマーケット「マダムジョイ」を展開)
- 広電宮島ガーデン(山陽道宮島SA下り線、下松SA下り線)
- 広電不動産 - 第二広電ビルなどの商業ビルや駐車場の賃貸業を営む。
- 広電建設
- グリーンバーズ・ヒロデン(グリーンバーズゴルフ倶楽部)
- ホテルニューヒロデン
- ヒロデンプラザ(ヒロデンボウル、広電ゴルフガーデン)
- 広電興産
- 交通会館
持分法適用関連会社
- ひろでん中国新聞旅行(広電観光の旅行部門と中国新聞トラベルサービスを統合)
- 加計開発(ホテル&リゾート 温井スプリングス)
- 大亜工業
その他関連会社・団体等
- パセオカード(販売終了)
- ひろでん会館(会社ではないが広電不動産所有ビル)
- 学校法人鈴峯学園(鈴峯女子短期大学・鈴峯女子中学校・高等学校)- 財団法人広島瓦斯電軌学園として1940年に設立され、現在も学園理事と評議員の多くを当社および広島ガス関係者が占めている。また同学園と直接の関係はないが、戦時中は電車運行要員確保を目的とした実業学校広島電鉄家政女学校も別に設立していた。
※以前は広島市内および近郊でタクシー事業を営む広電タクシーもあったが、現在は業界大手の第一交通産業に資本が売却され、関係は断たれている。
1955年末から1967年まで、広島カープ(現・広島東洋カープ)に共同出資企業の一つとして関与し、当時の広電の社長が球団社長を兼務したこともあった。
補足
- ^ ほかに間接所有分として議決権割合で約17.4%を保有。合算で約57.3%を保有している。
- ^ 『藤田謙一 -初代日本商工会議所会頭-』219ページには、就任日は同年3月31日になっている
- ^ 2010年12月13日に大田哲哉は広島商工会議所会頭を退任した。
- ^ 『広島バス60年史』85ページには、同年9月8日に提携実施とある
- ^ 郷土出版社『保存版 広島のチンチン電車』、資料編、p.226には大正15年10月に実施とある。
- ^ 郷土出版社『保存版 広島のチンチン電車』、資料編、p.226には、1976年11月4日とある。
- ^ 郷土出版社『保存版 広島のチンチン電車』、資料編、p.226には、1949年5月1日とある。
- ^ 『広島のチンチン電車 保存版』46ページには、1938年(昭和13年)11月に発生、軌道線用車両21両、宮島線用車両3両が焼失したとある。
- ^ 当時は、戦時下で交通事業は重要政策と位置づけられていた[33]
- ^ 『広島のチンチン電車 保存版』22ページには211人が死亡、289人が負傷とある。
- ^ 『広島のチンチン電車 保存版』22ページには15日からとある。
- ^ 写真が特に詳細な『広島のチンチン電車 保存版』76・77ページの中国新聞社が撮影した写真で、整列乗車している電車の車番が読み取れる
- ^ 『広島電鉄開業100年・創立70年史』107ページには、8月6日現在、601号が宮島で無被災、602号が江波で大破、603号が本社車庫で大破と記載している
- ^ 『広島のチンチン電車 保存版』23ページには電鉄前‐向宇品間とある。
- ^ 『広島のチンチン電車 保存版』23ページには10月11日とある。
脚注
- ^ a b c 『有価証券報告書(第103期)』広島電鉄、2012年6月29日。
- ^ 『広島電鉄開業100年・創立70年史』91ページ
- ^ 『広島電鉄開業80創立50年史』本編77ページ
- ^ 『広島電鉄開業80創立50年史』資料編108ページ
- ^ 『広島ガス100年史』56-57ページ
- ^ 『広島電鉄開業80創立50年史』資料編107ページ
- ^ 『広島ガス100年史』71-72ページ
- ^ 『広島電鉄開業80創立50年史』資料編105ページ
- ^ 『広島電鉄開業80創立50年史』本編19ページ
- ^ 『広島ガス100年史』49ページ
- ^ 帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正5年(5版)
- ^ 『広島電鉄開業80創立50年史』本編34ページ
- ^ a b c 『広島ガス100年史』49ページ
- ^ a b c 『広島電鉄開業100年・創立70年史』442ページ
- ^ 『大林組八十年史』85ページおよび88ページに死没時時点で社長だったと記載がある
- ^ 『藤田謙一 -初代日本商工会議所会頭-』219ページ
- ^ 『広島電鉄開業80創立50年史』本編31ページ
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- ^ 『広島電鉄開業100年・創立70年史』356-358ページ(2012年12月まで)
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タグ; name "HIRODEN10070_428"が異なる内容で複数回定義されています - ^ a b c 『広島電鉄開業100年・創立70年史』429ページ
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- ^ デイリースポーツ 2012年7月12日9面
- ^ 『広島電鉄開業100年・創立70年史』249ページ
- ^ 在広島ドイツ連邦共和国名誉領事(広島電鉄公式サイト内)
参考文献
- 社史
-
- 『広島の路面電車65年』毎日新聞ニュースサービス社編集協力、広島電鉄発行 1977年10月
- 『広島電鉄開業80創立50年史』広島電鉄株式会社社史編纂委員会編、1992年11月
- 『広島電鉄開業100年・創立70年史』広島電鉄株式会社社史編纂委員会編、2012年11月
- 『広島バス60年史』広島バス60年史編集委員会編、2010年8月
- 『広島ガス100年史』広島ガス株式会社100年史編集事務局編、2010年3月
- 『大林組八十年史』大林組社史編集委員会編、1973年10月
- 組合史
-
- 『私鉄広電 戦い抜いた四十二年』私鉄中国地方労働組合広島電鉄支部、1989年8月
- 愛蔵書
-
- 『広島のチンチン電車 保存版』(郷土出版社) ISBN 4876701105
- 『藤田謙一 -初代日本商工会議所会頭-』弘前商工会議所編、1988年3月
- 『広島原爆戦災誌 第3巻』(広島市)
- 広報資料
-
- 『広島電鉄 '87会社要覧』広島電鉄株式会社総務部広報課編、1987年8月
- 『電車を走らせた女学生たち 広島電鉄家政女学校の記録』広島電鉄編
- 一般書
-
- 『広電が走る街今昔』(JTBパブリッシング・長船友則) ISBN 4533059864
- 『私鉄の車両3 広島電鉄』(保育社・飯島巌) ISBN 4586532033
- 『チンチン電車と女学生』(日本評論社・堀川惠子 小笠原信之) ISBN 4535584257
- 『路面電車年鑑 2013』 (イカロス出版) 2013年1月 ISBN 4-863-20669-0
- 雑誌
- 新聞