岐阜電気
岐阜電気株式会社(ぎふでんきかぶしきがいしゃ)は、明治末期から大正にかけて存在した日本の電力会社である。かつて中部電力管内に存在した事業者の一つ。
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
![]() 岐阜県岐阜市今川町2丁目522番地 |
設立 |
1907年(明治40年)1月15日 (岐阜電灯:1894年2月28日) |
業種 | 電気 |
事業内容 | 電気供給事業 |
代表者 | 岡本太右衛門(社長) |
資本金 | 300万円(全額払込済み) |
株式数 | 6万株(額面50円払込済み) |
総資産 | 357万2千円 |
純利益 | 19万7千円 |
配当率 | 年率12.0% |
決算期 | 5月末・11月末(年2回) |
岐阜県岐阜市の会社。1894年(明治27年)に開業した岐阜県で最初の電力会社岐阜電灯株式会社(岐阜電燈、ぎふでんとう)を母体に、同社の事業を引き継いで1907年(明治40年)に発足した。揖斐川支流の粕川に水力発電所を建設し、現在の岐阜市のほか大垣市・羽島市などの地域に電気を供給した。1921年(大正10年)に愛知県名古屋市を地盤とする名古屋電灯(後の東邦電力)に合併された。
沿革編集
岐阜電灯設立と開業編集
岐阜電気の前身である岐阜電灯株式会社は、1889年(明治22年)に愛知県名古屋市で開業した名古屋電灯、1894年4月に同県豊橋市で開業した豊橋電灯に続く東海地方で3番目の電力会社である[2]。
岐阜電灯が設立されたのは1894年(明治27年)2月28日で[3]、日清戦争期の会社設立ブームの最中のことであった[4]。発起人は岡本太右衛門(6代目・本家12代目。太右衛門家は鋳物業を営む旧家[5])ら市内の豪商・資産家7人に士族で元岐阜県財務課長の梅田信明を加えた8人で、発起人の中から初め梅田、後に岡本が社長に就いた[4]。また設立には発起人のほかにも名古屋電灯の技術者丹羽正道や、岐阜県随一の富豪といわれた十六銀行頭取渡辺甚吉も参加していた[6]。
開業は1894年7月28日で、岐阜市内において電灯の供給を開始した[7]。岐阜県内では同年2月に吉城郡船津町(神岡町を経て現・飛騨市)にあった三井鉱山役員宅で電灯が点灯し、県内で初めての電灯点灯事例となっていたが、岐阜市における岐阜電灯の開業は一般供給として県内で初めての事例である[7]。当時電灯は珍しがられ、市内今川町に設置された火力発電所には見物人が多数押し寄せたという[7]。発電所には開業時、25キロワットの直流発電機2台を設置[8]。電灯数は600灯余りで始まり、翌1895年(明治28年)には1000灯へ増加、1903年(明治36年)には2000灯を越えた[6]。
岐阜電気の水力開発編集
電源の火力発電所は出力50キロワットで運転を開始し、1901年(明治34年)に130キロワットへと増強されたが[9]、需要拡大の結果供給力の限界に達した[6]。水力発電への転換を目指し岐阜電灯は1906年(明治39年)、長良川の水利権を岐阜県へ申請する[10]。同じころ、岡崎電灯の田中功平・近藤重三郎らが岐阜方面への供給を目指し揖斐川支流粕川の水利権を出願した[10]。2つの計画の併願となり県の審査が長期化すると予想されたため、両派話し合いの結果合同で新会社岐阜電気を設立することとなった[10]。粕川の水利権を合同で出願し、1907年(明治40年)1月に許可を得て、1月15日岐阜電気株式会社の創立総会を開いた[10]。
新設の岐阜電気は水力開発に着手するとともに、1907年3月に岐阜電灯から事業を譲り受けた[11]。当初の資本金は30万円[12]。また6代目岡本太右衛門が死去したため長男の7代目(本家13代目)岡本太右衛門が跡を継ぎ社長となった[5]。
岐阜電気最初の水力発電所である小宮神発電所は、1908年(明治41年)12月、出力300キロワット(後に350キロワットに引き上げ)で運転を開始した[9][13]。粕川開発とともに西濃地方への進出を図り、1908年12月より安八郡大垣町(現・大垣市)へ供給を開始し、以降も1911年(明治44年)4月より不破郡赤坂町(現・大垣市)、1912年(明治45年)7月より垂井町、同年8月より揖斐郡揖斐町(現・揖斐川町)と順次供給を拡大していった[14]。
その後も岐阜電気は粕川流域で水力開発を進め、1913年(大正2年)5月上流側に河合発電所(出力800キロワット)を、1920年(大正9年)1月には下流側に春日発電所(出力1,800キロワット)をそれぞれ建設した[9][13]。
騒擾事件編集
1909年(明治42年)、岐阜電気は岐阜市との間に報償契約を締結した[12]。岐阜電気が市に対して毎年800円を支払うかわりに、市は岐阜電気の市内における独占的電力供給権を認める、という内容である[12]。この契約に基づき岐阜電気は、佐見川を開発して市内の工場へと電力供給するという計画を立てた佐見川水力電気の進出を阻止し、競争を防いでいた[14]。こうした岐阜電気の経営姿勢は1914年(大正3年)ごろから市民の批判の対象になっていく[14]。
会社の業績が上昇するのにもかかわらず報償金が少なすぎるという批判が起きていた最中の1914年1月、岐阜電気は電灯料金の値下げを発表した[15]。10燭灯を月額70銭から67銭に引き下げるなどの値下げ幅で、同時に従来の炭素線電球(発光部分に炭素線を用いる白熱電球)を廃してタングステン電球(発光部分にタングステンを用いる白熱電球)を支給するとした[15]。このタングステン電球は消費電力が炭素線電球に比して3分の1と小さいことから、以前から需要家負担でタングステン電球を取り付ける場合に限り10燭灯の料金で20燭灯の利用を許可していた[15](倍燭制という[14])。しかし料金改定と同時に倍燭制を廃止し[15]、その上需要の過半を占める5燭灯の料金を月額47銭のまま据え置いたことから、実質的な値上げであるとして激しい批判を惹起した[16]。新聞記者団が会社と山田永俊市会議長ら「市民派」の間に立って仲裁を試みたが[15]、意見の一致をみず5月に交渉は決裂、「市民派」の運動はさらに過激となった[16]。
1914年5月27日、町総代会で市民大会の開催が決定され、同年6月7日に2000人が参加する市民大会が開催された[17]。大会では山田永俊市会議長や前衆議院議員松野祐次郎、岐阜日日新聞社長匹田鋭吉らが演説し、料金値下げ反対の者を一切の公職に選挙しないという内容を議決して閉会した[17]。その後も値下げ運動は過熱化し、不買運動(廃灯運動)へと発展、6月末には市内の町のうち3分の2が消灯するという事態となった[17]。商店では客が寄り付かないということで電灯を消灯し、社長の岡本太右衛門が関係する十六銀行でさえも消灯したという[17]。こうした状況下の7月2日、萬朝報の主筆茅原華山を招き7回目の演説会が開催された[17]。午後9時40分ごろに演説会が終わると、参加者は暴徒化し街灯や渡辺甚吉邸の軒灯などを破壊し始めた[17]。さらに電灯をつけていた旅館や会社側とみられていた濃飛日報社へと投石し、岡本太右衛門邸や岐阜電気本社へと押し寄せた[17]。翌3日には加納町へ騒動が波及し、市内にいた群衆とともに再び岐阜電気本社を取り囲んで塀や建物の窓・障子を破壊した[17]。4日にも暴動が起き変電所の放火未遂事件が発生した[17]。
このような騒擾事件発生を機に島田剛太郎岐阜県知事が調停に乗り出した[17]。また事件を最後に値下げ運動は終息に向かい、消灯運動も下火になった[17]。9月28日、知事は電灯料金を値下げすること(新料金は5燭灯月額45銭・10燭灯62銭など)、将来的な電気事業の公営化に応ずること、利益金から配当金その他を差し引いても残金が生ずる場合はそれを次年度の料金軽減に充当すること、という内容の調停案を提示し、事態を決着させた[17]。
揖斐川電力との棲み分け編集
日露戦争後の1905年(明治38年)より、岐阜県安八郡大垣町(現・大垣市)では揖斐川支流坂内川(広瀬川)の水力開発が計画され、揖斐川電力の設立準備が進められていたが、1907年に反動恐慌が発生すると会社設立がしばらく不可能となった[18]。揖斐川電力発起人は西濃地方のうち大垣町・赤坂町・揖斐町と揖斐郡池田村(現・池田町)での供給を想定し当局へ出願中であり、これは岐阜電気との競願であったが、開業までに時間がかかることからこの地域の供給を岐阜電気へ譲ることとなった[18]。これに関する覚書を1907年12月に締結し、揖斐川電力が開業した場合には岐阜電気は設備を譲渡しこの地域の営業を廃止するとした[18]。その後岐阜電気がこれらの地域への供給を開始したことは前述の通りである。
1912年11月、ようやく会社設立に至り揖斐川電力(現・イビデン)が発足[19]。同社はただちに西横山発電所を着工し[20]、1915年(大正4年)12月に開業した[21]。発電所からは大垣を経て海津郡城山村大字駒野(現・海津市南濃町駒野)へ至る送電線を建設し、大垣変電所からは摂津紡績(現・ユニチカ)大垣工場へ電力を供給し、駒野変電所からは高須町・今尾町(現・海津市)へ電灯約1000灯を供給した[20]。開業に伴い、揖斐川電力は先の覚書に従って大垣町などでの営業を譲渡するよう岐阜電気と交渉したが、譲渡価格をめぐって意見が一致せず交渉は難航した[21]。その後逓信省西部逓信局が仲裁に入り、1915年12月妥結に至った[21]。その裁定は、
- 岐阜電気は揖斐川電力から1000キロワットの電力供給を受ける。
- 揖斐川電力の事業範囲は一邸宅または一構内につき200キロワット以上の電力供給に限定する。反対に岐阜電気は揖斐川電力の供給区域内では一邸宅または一構内につき200キロワット以上の電力供給を行わない。
- 揖斐川電力がすでに建設した駒野変電所と配電線路・需要家屋内設備は実費をもって岐阜電気へ譲渡する。
- 1907年に両社間で交わした覚書は破棄するものとし、その代償として岐阜電気は3万円を揖斐川電力へ支払う。
というものであり、これに従って1916年(大正5年)6月に揖斐川電力から岐阜電気への電力1000キロワットの供給が始まり、10月には駒野変電所と高須・今尾方面配電線などが岐阜電気へ引き渡された[21]。
名古屋電灯との合併編集
岐阜電気は1918年(大正7年)より、供給力不足で単独で所要電力を賄えなくなったため名古屋電灯からの支援を受けるようになった[22]。前述の通り揖斐川電力からの買電もあり、購入電力料が増加し支出増につながった[14]。一方、1919年(大正8年)より料金値上げを検討し、翌年2月市へ値上げを申請したが、反対運動にあって認可されたのは会社の希望より圧縮された値上げ幅となった[22]。また1919年5月には市会にて電気事業の市営論も議論されるようになった[22]。こうした経営環境に置かれた岐阜電気は独立経営が困難となり、1920年9月24日に名古屋電灯との合併契約締結に至った[22]。その合併条件は、存続会社の名古屋電灯は資本金を825万円増資し、解散する岐阜電気(資本金600万円・払込375万円)の株主に対しその持株1株につき名古屋電灯新株1.375株を交付するというものであった[23]。
岐阜電気合併に先立つ1920年5月、名古屋電灯は愛知県一宮市の一宮電気を合併していた[24]。岐阜電気の合併はそれに続いて1921年(大正10年)2月に成立[24]。さらに周辺事業者の合併を積極化して豊橋電気・板取川電気ほか2社を相次ぎ合併し[24]、加えて奈良県の関西水力電気と合併、1922年(大正11年)には九州の九州電灯鉄道などを合併して、中京・関西・九州にまたがる大電力会社東邦電力となった[25]。この東邦電力の時代、岐阜市は同社の支店所在地の一つであった[26]。
岐阜電気時代の末期にあたる1919年6月、社長岡本太右衛門らは王子製紙と提携し「岐阜興業株式会社」の名で飛騨川の水利権を申請していた[27]。飛騨川にて3か所の水力発電所(出力計4万5000キロワット)を建設し、発生電力を岐阜電気に供給するとともに余剰電力で化学工業を起こす計画であった[27]。1920年4月までに3地点の水利権が許可され、岐阜電気が解散した後の翌1921年11月に資本金500万円にて会社の設立をみた[27]。東邦電力では成立早々にこの岐阜興業の経営を掌握するべく動き出し、1922年6月、同社の株式のうち6割を取得した(同時に岐阜電力へ改称)[27]。以後順次開発が進展し、有力な水利地点を持たずに発足した東邦電力にとって飛騨川は重要な電源地帯となった[27]。
年表編集
- 1894年(明治27年)2月28日 - 岐阜電灯株式会社設立[3]。
- 1894年(明治27年)7月28日 - 岐阜電灯、岐阜市内において電灯供給を開始し開業[4]。
- 1907年(明治40年)1月15日 - 新会社岐阜電気株式会社設立[10]。
- 1907年(明治40年)3月 - 岐阜電気、岐阜電灯の事業を譲り受ける[11]。
- 1908年(明治41年)12月7日 - 小宮神発電所竣工[28]。
- 1913年(大正2年)5月17日 - 河合発電所竣工[28]。
- 1914年(大正3年)7月2日 - 4日までの3日間にわたり料金値下げを求める騒擾事件が発生[17]。
- 1916年(大正5年)6月 - 揖斐川電力(現・イビデン)からの受電開始[21]。
- 1916年(大正5年)10月 - 揖斐川電力より供給事業の一部を譲り受ける[21]。
- 1919年(大正8年)12月25日 - 春日発電所竣工[28]。
- 1920年(大正9年)9月24日 - 名古屋電灯との間で合併契約を締結[22]。
- 1921年(大正10年)1月 - 名古屋電灯との合併成立[24]、岐阜電気解散。
供給区域編集
1919年末時点における電灯・電力供給区域は以下に示す、岐阜県内の2市9郡・12町59村であった[29]。
市部 | 岐阜市、大垣市 |
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稲葉郡 (1町15村) |
本荘村・長良村・島村・三里村・加納町・北長森村(一部)・南長森村・木田村・市橋村・茜部村・鶉村・黒野村・厚見村・鏡島村・佐波村(現・岐阜市)、 更木村(現・各務原市) |
安八郡 (1町3村) |
神戸町(一部)、北平野村(現・神戸町・揖斐郡池田町)、 北杭瀬村・中川村(現・大垣市) |
羽島郡 (2町11村) |
笠松町、松枝村(一部)・下羽栗村(現・笠松町)、 竹ヶ鼻町・駒塚村・江吉良村(一部)・正木村・足近村(現・羽島市)、 上羽栗村・八剣村(現・岐南町)、 柳津村(現・岐阜市)、 中屋村・川島村(現・各務原市) |
養老郡 (1町6村) |
高田町・多芸村・養老村・笠郷村・上多度村・広幡村(現・養老町)、池辺村(現・海津市・養老町) |
揖斐郡 (1町8村) |
揖斐町(一部)・大和村・清水村(現・揖斐川町)、 池田村(一部)・本郷村・八幡村(一部)(現・池田町)、養基村(現・池田町・揖斐川町)、 大野村・豊木村(現・大野町) |
本巣郡 (1町7村) |
北方町、生津村(現・北方町・瑞穂市)、席田村(現・北方町・本巣市)、 穂積村・本田村・牛牧村・船木村(現・瑞穂市)、 合渡村(岐阜市) |
不破郡 (2町5村) |
赤坂町・青墓村・静里村(現・大垣市)、 垂井町、宮代村(現・垂井町)、 関ケ原村・玉村(現・関ケ原町) |
山県郡 (1町2村) |
高富町・富岡村(現・山県市)、 岩野田村(現・岐阜市) |
海津郡 (2町2村) |
今尾町・高須町・城山村・石津村(現・海津市) |
1919年末時点における逓信省の統計によると、電灯供給実績は需要家3万8008戸・取付灯数9万2101灯(休灯中・臨時灯を除く)[30]、電力供給実績は3844.3キロワットであった[31]。
1921年(大正10年)6月末時点の名古屋電灯の電灯・電力供給区域のうち岐阜県内の部分では、上記の市町村に加えて安八郡南杭瀬村・安井村・三城村(現・大垣市)、揖斐郡春日村(現・揖斐川町)、不破郡表佐村(現・垂井町)、海津郡吉里村(現・海津市)が供給区域に加わっている[32]。このうち春日村は発電所の立地自治体であるものの、名古屋電灯時代の1921年になって小宮神・川合両地区を対象にはじめて配電が始まった[33]
発電所編集
小宮神発電所編集
岐阜電気最初の水力発電所である小宮神(こみかみ)発電所は、揖斐郡春日村大字小宮神(現・揖斐川町春日小宮神)に位置する水路式発電所である[13]。揖斐川水系粕川の水力により発電するもので粕川の左岸に立地[13]。米国モルガン・スミス製水車にゼネラル・エレクトリック製発電機を直結した発電装置2組を備える[13]。
1906年(明治39年)12月に起工認可を得て1908年(明治41年)12月7日に竣工した[28]。総工事費は13万1153円[28]。発電機は当初1台、翌年より増設で2台となっており[10]、発電所出力は初め300キロワット、1913年(大正2年)以降は350キロワットとされた[9]。さらに東邦電力時代の1937年(昭和12年)に、支流長谷川からの取水を追加して600キロワットに増強されている[13]。中部配電を経て中部電力へ継承され[9]、岐阜電気時代からの設備は1982年(昭和57年)の改修まで使用された[13]。現・中部電力小宮神発電所(地図)。
河合発電所編集
2番目の水力発電所である河合発電所は、春日村大字川合(現・揖斐川町春日川合)の、小宮神発電所粕川取水口の右岸側に位置する[13]。1910年(明治43年)7月に起工認可を得て1913年(大正2年)5月17日に竣工した[28]。総工事費は21万6000円[28]。エッシャーウイス製水車にシーメンス製発電機を直結した発電装置2組を備える[13][28]。
発電所出力は一貫して800キロワットで、小宮神発電所と同様に中部配電を経て中部電力へ継承された[9]。また岐阜電気時代からの設備は1978年(昭和53年)の改修まで使用されている[13]。現・中部電力河合発電所(地図)。
春日発電所編集
3番目の水力発電所である春日発電所は、小宮神発電所より下流側に約1.5キロメートルの粕川左岸、春日村大字六合(現・揖斐川町春日六合)に位置する[13]。1913年4月に起工認可を得て1917年(大正6年)3月着工、1919年(大正8年)12月25日竣工した[28]。そして翌1920年(大正9年)1月より出力1,800キロワットにて運転を開始している[9]。総工事費は89万7374円[28]。
設備はエッシャーウイス製水車とウェスティングハウス・エレクトリック製発電機各2台からなる[34]。粕川からの取水以外にも支流の高橋谷にダムを築き調整池を設けていたが、洪水のたびに砂礫が流入してのちに調整池は埋没した[28]。他の発電所と同様中部配電を経て中部電力へ継承され[9]、岐阜電気時代からの設備は1986年(昭和61年)の改修まで使用された[13]。現・中部電力春日発電所(地図)。
火力発電所編集
岐阜電灯時代の火力発電所は岐阜市今川町にあり、1894年(明治27年)7月の開業当初は三吉工場製の25キロワットエジソン型直流発電機2台で発電した[8]。またボイラー・蒸気機関ともに日本国内製であった[8]。1901年(明治34年)になり発電所出力は50キロワットから130キロワットへと増強された[9]。このときは発電機5台体制であった[24]。
1908年12月の小宮神発電所完成とともに直流発電の旧火力発電所は廃止されたが、需要増加のため翌1909年に交流送電の火力発電所が再設置された[10]。逓信省の資料によると火力発電所は今川町2丁目にあり[35]、第一火力発電所には60キロワット発電機3台、第二火力発電所には150キロワット発電機2台が設置されていた[36]。1916年(大正5年)1月に廃止された[9]。
関連項目編集
- 岐阜ガス - 岐阜市のガス事業者。岐阜電気解散後の1926年開業。
脚注編集
- ^ 『株式年鑑』大正9年度333頁。NDLJP:975422/211
- ^ 『中部地方電気事業史』上巻23頁
- ^ a b 『日本全国諸会社役員録』明治27年版422-423頁。NDLJP:780109/211
- ^ a b c 『岐阜市史』通史編近代328-329頁
- ^ a b 高橋伊佐夫「岐阜電気と十三代岡本太右衛門」70-72頁
- ^ a b c 『中部地方電気事業史』上巻26-28頁
- ^ a b c 『岐阜市史』通史編近代280頁
- ^ a b c 『時の遺産』157頁
- ^ a b c d e f g h i j 『中部地方電気事業史』下巻334-338頁
- ^ a b c d e f g 浅野伸一「水力技師大岡正の人と業績」71-72頁
- ^ a b 『中部地方電気事業史』上巻97-98頁・下巻387頁(年表)
- ^ a b c 『岐阜市史』通史編近代503-507頁
- ^ a b c d e f g h i j k l 高橋伊佐夫「岐阜電気と十三代岡本太右衛門」73-76頁
- ^ a b c d e 『中部地方電気事業史』上巻131-135頁
- ^ a b c d e 「岐阜電灯の解決如何(上・中・下)」『大阪毎日新聞』1914年8月1日 - 7日。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録
- ^ a b 「電灯値下紛議」『大阪朝日新聞』1914年7月26日。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『岐阜市史』通史編近代507-511頁
- ^ a b c 『イビデン70年史』2-5頁
- ^ 『イビデン70年史』9-10頁
- ^ a b 『イビデン70年史』14-20頁
- ^ a b c d e f 『イビデン70年史』20-22頁
- ^ a b c d e 『岐阜市史』通史編近代511-512頁
- ^ 『名古屋市会史』第4巻431-433頁。NDLJP:1451189/236
- ^ a b c d e 『東邦電力史』39-42頁
- ^ 『東邦電力史』82-111頁
- ^ 『東邦電力史』105・624頁
- ^ a b c d e 『東邦電力史』283-285頁
- ^ a b c d e f g h i j k 『春日村史』下巻218-222頁
- ^ 『電気事業要覧』第12回62-63頁。NDLJP:975005/56
- ^ 『電気事業要覧』第13回256-257頁。NDLJP:975006/158
- ^ 『電気事業要覧』第13回282-283頁。NDLJP:975006/171
- ^ 『電気事業要覧』第13回62-64頁。NDLJP:975006/61
- ^ 『春日村史』下巻223-224頁
- ^ 『電気事業要覧』第14回74-75頁。NDLJP:975007/64
- ^ 『電気事業要覧』明治44年版30-31頁。NDLJP:974998/44
- ^ 『電気事業要覧』明治44年版136-137頁。NDLJP:974998/98
参考文献編集
- 企業史
- その他文献
- 春日村史編集委員会(編)『春日村史』下巻、春日村、1983年。
- 岐阜市(編)『岐阜市史』通史編近代、岐阜市、1981年。
- 商業興信所(編)『日本全国諸会社役員録』明治27年版、商業興信所、1894年。
- 中部電力社史編纂会議委員会(編)『時の遺産』中部電力、2001年。
- 逓信省電気局(編)
- 『電気事業要覧』明治44年版、逓信協会、1912年。
- 『電気事業要覧』第12回、逓信協会、1920年。
- 『電気事業要覧』第13回、逓信協会、1922年。
- 『電気事業要覧』第14回、電気協会、1922年。
- 名古屋市会事務局(編)『名古屋市会史』第4巻、名古屋市会事務局、1941年。NDLJP:1451189。
- 野村商店調査部(編)『株式年鑑』大正9年度、野村商店調査部、1920年。
- 記事
- 浅野伸一「水力技師大岡正の人と業績」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第4回講演報告資料集(電気技術の開拓者たち)、中部産業遺産研究会、1996年、 40-85頁。
- 高橋伊佐夫「岐阜電気と十三代岡本太右衛門」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第8回講演報告資料集(岐阜の発電事業と地域社会)、中部産業遺産研究会、2000年、 68-78頁。