新選組

19世紀の日本の警備隊
新撰組から転送)

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に江戸幕府の徴募により組織された浪士隊である。特に尊攘派志士弾圧活動に従事した[1][2]。発足時は24名だったが、最大時には約230名の隊士が所属していたとされる。会津藩預かりという非正規組織であったが、慶応3年(1867年)6月、幕臣に取り立てられる。慶応4年(1868年)に旧幕府から甲州鎮撫を命ぜられたことにより、甲陽鎮撫隊と改める。しかし明治2年5月18日戊辰戦争においての旧幕府軍降伏により、事実上消滅した。

名称について 編集

「選」のは「撰」とも表記されることがあり、「新撰組」と表記された史料もある。新選組の局長近藤勇をはじめ、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている[3]明治時代以降に公的機関が編纂した史料集では、『維新史料綱要』では「新撰組」と記されている[4]が、『復古記』では「新選組」と記されている[5]ように記述が割れている。ただ隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年ごろから高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている[3]。また、報道機関などでも 「撰」の文字が常用漢字外のため、新選組と表記するのが一般的である。

概要 編集

幕末京都政治の中心地であり、諸から尊王攘夷倒幕運動志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。

江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意(後述)を知った近藤勇芹沢鴨らが反発して脱退。 そして、その思想に意気投合した会津藩・野村左兵衛の進言で京都守護職会津藩主・松平容保の庇護のもと、新選組として発足した。

同様の配下の京都見廻組幕臣旗本御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組はその多くが町人農民出身の浪士によって構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。

隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。京都で攘夷派の弾圧にあたった[2][1]商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。

慶応3年(1867年6月幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、鳥羽・伏見の戦いに敗北したあとは四散し、甲州勝沼において板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊[2]。局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた[1]。その後、副長の土方歳三が戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争で戦死。新選組は新政府軍に降伏することになった。

逆賊を取りしまる立場であったが明治維新で敗北したことから正反対に逆賊は新選組という扱いを受けてしまった風評被害もあった。2004年の大河ドラマで脚本を担当した三谷幸喜もこのことを指摘している[6]

歴史 編集

結成 編集

 
壬生屯所跡 八木邸、碑文は「新選組屯所遺蹟」

文久2年(1862年)、江戸幕府庄内藩郷士清河八郎の献策を受け入れ、将軍徳川家茂上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。

翌文久3年(1863年)2月、集まった200名あまりの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介鵜殿鳩翁窪田鎮勝山岡鉄太郎松岡萬中條金之助佐々木只三郎らが任じられた。

京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張した。

鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱隊した。殿内・家里は排斥され、同年3月公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。

壬生浪士組は壬生村の八木邸前川邸およびその周辺の邸宅を屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名あまりの集団となり、京都守護職松平容保から、おもに不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。

4月大坂両替商平野屋五兵衛に100を提供させ、これを元手に隊服隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。

6月大坂相撲力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。

8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じたとされる。一説として、芹沢および壬生浪士組の関与については否定的な見解が存在する[7]が、浪士組の名を記す風説書が多く残り、焼き打ちを行ったという説もある[8][9]

同月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏[10] から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。

9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司12月切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。

発展 編集

 
池田屋跡 京都市中京区三条通河原町 名前を使用した居酒屋になっている(2009年)

元治元年(1864年6月5日池田屋事件で攘夷派志士を斬殺・捕縛。8月禁門の変の鎮圧に参加した。

池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両あまりの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行うこととなった。池田屋事件で新選組の知名度が上がっていたことから土方、斎藤、伊藤、藤堂平助などの幹部が直接江戸へ向かい剣術道場などを訪問し、伊東甲子太郎らの一派を引き入れることに成功、翌年五月に32名で京都に戻ったことが確認されている[11]。これらの活動により新選組は200名まで増強され、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。

長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組および小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。

慶応3年(1867年3月、伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東・服部・藤堂・毛内を惨殺。篠原・富山・鈴木・加納は逃走(油小路事件)。

解散 編集

慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜大政奉還を行った。新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦い新政府軍に敗北。この際、井上源三郎が戦死。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。

 
流山本陣跡(千葉県流山市
近藤勇・土方歳三の別離地。

その後、旧幕府側から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州街道甲府城へ進軍するが、その途中甲州勝沼の戦いにおいて板垣退助率いる迅衝隊に敗退する。ふたたび江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけて流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核により江戸にて死亡。また、諸事情で江戸に戻った原田は彰義隊に加入し、上野戦争で戦死した(諸説あり)。

新選組は宇都宮城の戦い会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊し残留。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦いなどで活躍する(蝦夷共和国も参照)。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。

明治政府は、隊士の遺族らに遺品の所有を禁じた[要出典]

年表 編集

 
西本願寺太鼓楼
 
本光寺 伊東甲子太郎殉難の地碑
 
弁天台場

文久3年(1863年) 編集

文久4年、元治元年(1864年) 編集

元治2年、慶応元年(1865年) 編集

慶応2年(1866年) 編集

慶応3年(1867年) 編集

慶応4年、明治元年(1868年) 編集

明治2年(1869年) 編集

昭和13年(1938年) 編集

  • 昭和13年1月16日 現在わかっている中で新選組最後の生き残り池田七三郎が病死。これにより、現在わかっている中で生存している新選組隊士はいなくなった。

実像 編集

入隊資格 編集

年齢や身分による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた[14]実技試験もなかった[15][16]。ただし既婚者は妻子を壬生の屯所から10(約40キロ)以上離れた場所に住まわせることが条件とされた。これは、新選組が男の合宿制をとっていること、妻子が近くにいることによって命を惜しむようになることを防ぐためと考えられる。幹部に昇進すれば京都に家を持ち、妻子やを迎えることが許された。

新選組と交流のあった加太邦憲の述懐によれば、入隊後一定期間は「仮同志」という試用期間となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、このときに臆病なふるまいをした者は追放されたという[17]

任務 編集

京都で活動している不逞浪士倒幕志士捜索捕縛、担当地域の巡察・警備要人警護など、警察活動を任務としていた。

後述する数々のフィクション作品の影響により、不逞浪士や倒幕志士を容赦無く次々に斬殺していたという「人斬り集団」とのイメージが強いが、実際には捕縛(生け捕り)を原則としており、犯人が抵抗して捕縛できない場合のみ斬った[18]池田屋事件においても、最初は敵の人数が上回ったため斬る方針で戦ったが、土方隊が到着して新選組が有利になると、方針を捕縛に変えている[19][20]。事件後、近藤勇は「討取七人、疵為負候者四人、召捕二十三人」(7人を殺し、4人に手傷を負わせ、23人を捕縛した)と報告している[21]

新選組の担当地域は祇園伏見であり、御所官庁街会津藩兵1,000名、その周りは京都見廻組500名が固めていた。従来からの京都所司代京都町奉行も治安維持にあたっていた。ほかの組織が管轄を順守していたのに対し、新選組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることも少なくなかったといわれる。

訓練 編集

1865年慶応元年)に撃剣柔術文学砲術馬術槍術の各師範を設けた。しかし、どの程度稼働していたのかははっきりしない[22]

局長近藤勇、副長土方歳三、一番隊組長沖田総司ら新選組の代表者が天然理心流試衛館の剣客であったことから、新選組所縁の剣術として天然理心流が有名であるが、ほかの隊士は神道無念流北辰一刀流その他まちまちであり、新選組=天然理心流ではない[23]。撃剣師範7名のうち天然理心流は1名(沖田総司)である。流派や入隊時期が異なれば形稽古はできないため、稽古は竹刀打ち込み稽古に限られていた[23]。稽古はかなりの激しさだったらしく、新選組が駐屯していた八木邸八木為三郎は、打ち倒されて動けなくなっている者をよく見たという。また、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、土方歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら「軽い軽い」などと叱っていたという[24]

戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦い新政府軍に刀で挑んで敗れ、土方が「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語ったこと[25] や、甲州勝沼の戦いで近藤が率いた甲陽鎮撫隊迅衝隊にわずか2時間で敗れた事例などから、白兵戦に特化した集団とのイメージを持たれることが多いが、幕府陸軍にならいフランス式軍事訓練を行っていた。西本願寺境内で大砲小銃の訓練を行い、銃砲の音に迷惑した西本願寺が訓練の中止を求め会津藩に陳情した。その後、壬生寺に訓練場所が移されたが、訓練が参詣人の妨げになり、砲の音響で寺が破損するなどの被害が発生している。

戦術 編集

組織力を強化するため、#役職を設け、指揮命令系統を作り上げた。

戦法は、必ず敵より多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。たとえば三条制札事件では8人の敵に対し34人の味方を用意し、油小路事件では7人の敵に対し35、6人で襲撃した[26]。さらに、「死番」という突入担当者を輪番であらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。

装束・装備 編集

 
ダンダラ羽織、鉢金

当初、袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色水色)の羽織を着用していたとされる。羽織のダンダラは、歌舞伎などの演目『忠臣蔵』で赤穂浪士吉良邸に討ち入りしたときに着ている羽織の柄(ただし史実ではなく赤穂事件をもとにした創作で広まったもの)で、浅葱色は武士死に装束の色である。製作したのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。一説には、大文字屋ではなく四条の呉服屋「菱屋」ともいわれる。

ダンダラ羽織は最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録である。池田屋事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込襦袢、襠高脚絆、後鉢巻、白のであった[27]。新選組に尾行されていた大村藩士・渡辺昇によれば、尾行者が黒衣・黒袴であればすぐに新選組であると分かったという。また、明治末期に老人が、新選組は黒羅紗筒袖の陣羽織を着ていたと証言していることから、ダンダラ羽織の廃止後は黒ずくめであったと考えられる。

警備や戦闘の際には、鉢金鎖帷子籠手などの防具を装着した。武器は市街地戦を想定し打刀短槍であった。局長の近藤勇は打刀とほぼ同寸の長脇差を好んだ。副長の土方歳三も、刃長28和泉守兼定、1尺9寸5堀川国広の刀を用いていた。

鳥羽・伏見の戦い新政府軍に敗れた直後に土方が会津藩から2,000を受給しており、新式の兵装備品に充てた可能性が高い[25]

隊旗 編集

 
隊旗の一例

地に字または字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的である。全部で6種類あるとされている。現在の髙島屋にあたる古着木綿商によって特注で製作されたものである。その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。

新選組の隊旗が「誠」であったことから、近藤勇の実家・試衛館は「誠衛館」の誤りと推測する説もある[28]

給料 編集

結成当初は資金難であり、新選組の後援者・佐藤彦五郎からの支援だけでは足りなかったため、商家から資金を提供させたと伝えられる[29]

京都守護職配下時代は、会津藩からの御用金で賄っていた。その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。『新撰組永倉新八』(昭和2年私家本)によれば、局長50、副長40両、副長助勤30両、平隊士10両の月給であったとされるが、実際はそれ以下であったと考えられる[30]。諸々の事件への出動により褒賞金など恩賞が下されることもあった。

局中法度・粛清 編集

烏合の衆である浪人集団を統率するため、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。成立は会津藩預かりとなった浪士組時代(文久3年/1863年)に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。天然理心流に入門する際に誓約させられる神文帳との類似性も指摘されている。

として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」などのように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。

一、士道ニ背キ間敷事
武士道に背く行為をしてはならない)
一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は許されない)
一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をしてはならない)
一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係してはならない)
一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いをしてはならない)
右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする)

子母沢寛昭和3年(1928年)に著した『新選組始末記』で紹介されて以来有名となり、上記の5か条として知られるが、同時代史料にはこれをすべて記録したものは現在までのところ発見されていない。永倉新八大正2年(1913年)に語った内容を記録した『小樽新聞』の記事(『新選組顛末記』)には、「私ノ闘争ヲ不許」を除く4か条しか提示されておらず、名称も「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていない。そのため、上記の5か条と「局中法度」という名称は、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢寛が脚色したものと推測されている。

鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼる[31]。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で[32]、その他はほとんどが切腹暗殺などの粛清絡みのものであった。記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった[33]

役職 編集

トップは局長。直下に局長を補佐する副長がおり、そのさらに下に副長助勤監察方(内務監察)、勘定方会計担当)などの役職を設けた。副長助勤は組長として平隊士を統率した。各隊は一番組から十番組まであり、各人員は10名前後。組長の下に伍長を置いた。新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり、洋式軍制の影響が指摘されている。

以下に構成員。新選組の名を用いる以前(壬生浪士組)も含む。

隊士一覧 編集

筆頭局長 編集

局長 編集

会津新選組局長 編集

箱館新選組局長 編集

総長 編集

参謀 編集

副長 編集

組長・組頭・副長助勤 編集

1864年編成時組頭~

諸士取調役兼監察方・浪士調役 編集

勘定方 編集

会計方 編集

伍長 編集

初期副長助勤 編集

国事探偵方 編集

文武師範 編集

平隊士・同志 編集

下記以外の隊士はCategory:新選組隊士を参照。

美男五人衆 編集

自称新選組隊士・関係者など 編集

壬生浪士同志 編集

箱館新選組 編集

一分隊
一分隊平隊士
二分隊
二分隊平隊士
三分隊
三分隊平隊士
四分隊
四分隊平隊士
所属隊不明
平隊士

新選組を主題にした作品 編集

モデルとした創作作品、端役として登場する作品は多数ある。ここでは新選組を主題としたもののみを掲げる。Category:新選組を題材とした作品も参照。

小説 編集

※以下、五十音順

映画 編集

テレビドラマ 編集

楽曲 編集

ドラマCD 編集

  • 新撰組勿忘草』(リジェット)新撰組を題材にしたシチュエーションCD。
  • 『新撰組ドラマCD 壬生狼真伝』(プラチナレコード)史実の流れを朗読で挟み込み物語に引き込む本格的時代物ドラマCD。
  • 新撰組北翔伝 晨星落落』(トムス・ミュージック)明治維新後の新撰組を題材に史実に沿って展開するシチュエーションCD。

漫画 編集

アニメ 編集

舞台 編集

  • 新国劇『新撰組』(1923年8月)作:行友李風※古い公演のため、詳しいデータは残っていないものの、本作が新選組を主題とした舞台作品の第1号となる[36]。なお、本作はその後も繰り返し上演されており、1964年8月に『極付 新撰組』として上演された際は近藤勇を島田正吾、土方歳三を緒形拳が演じた[37]

※以下、早稲田大学演劇博物館の「演劇上演記録データベース」で確認できる作品のみ。

ゲーム 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)
  2. ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)
  3. ^ a b 佐々木智巳 (2010年5月4日). “「新選組」 迷う「せん」の漢字”. 日本経済新聞. オリジナルの2018年6月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180609045348/https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB2600B_W0A420C1000000 2017年11月17日閲覧。 
  4. ^ 維新史料綱要 巻7
  5. ^ 復古記 第1冊
  6. ^ NHK大河「新選組!」脚本務めた三谷幸喜氏「新選組のイメージ変えた」永倉新八の子孫から感謝”. 日刊スポーツ (2022年12月11日). 2023年6月26日閲覧。
  7. ^ 宮地正人『歴史のなかの新選組』、岩波書店
  8. ^ 箱根紀千也「大和屋焼き打ち事件の真実」『玉造史叢61集』
  9. ^ 藤堂利寿 (2019). “新選組研究への評論と大和屋焼き討ち事件”. 霊山歴史館紀要 24. 
  10. ^ 当時は野宮定功飛鳥井雅典
  11. ^ 新選組の忘れ物 キセル入れ見つかる 草津宿本陣 滋賀 - NHK
  12. ^ 新選組「洛中最後の拠点」諸説論争に決着か 西本願寺古文書に「西九条村」の記述”. 京都新聞 (2020年6月8日). 2020年6月7日閲覧。
  13. ^ 藤堂に関しては生存説あり
  14. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 79頁
  15. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 194頁
  16. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁
  17. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 83-84頁
  18. ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 308頁
  19. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 27頁
  20. ^ 歴史群像シリーズ『図説・新選組史跡紀行』、学習研究社 74頁
  21. ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 144頁
  22. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁
  23. ^ a b 小佐野淳『図説 武術事典』、新紀元社 152頁「新選組と武術」
  24. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 82頁
  25. ^ a b 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 128頁
  26. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84-85頁
  27. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 126頁
  28. ^ 大石学『新選組 ―「最後の武士」の実像―』(中公新書)
  29. ^ 特別陳列新選組-史料が語る新選組の実像- 京都国立博物館
  30. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 199-200頁
  31. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 209頁
  32. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 89頁
  33. ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 308-309頁
  34. ^ 初代「新選組」の局長・芹沢鴨の家紋「揚羽蝶」と生涯”. お役立ち!季節の耳より情報局. 2022年1月7日閲覧。
  35. ^ 新選組参謀の伊東甲子太郎、生家示す絵図見つかる”. 日本経済新聞 (2020年12月5日). 2021年3月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月16日閲覧。
  36. ^ 箕輪の心中/新撰組”. 演劇上演記録データベース. 2023年6月28日閲覧。
  37. ^ 新国劇と新選組”. 緒形拳研究会 (2019年8月15日). 2023年6月28日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集