いかりや長介

日本のコメディアン、タレント

いかりや 長介(いかりや ちょうすけ、1931年〈昭和6年〉11月1日 - 2004年〈平成16年〉3月20日)は、日本の男性コメディアンタレント俳優司会者ベーシストミュージシャン

いかりや 長介ちょうすけ
本名 碇矢いかりや 長一ちょういち
ニックネーム 長さん
生年月日 (1931-11-01) 1931年11月1日
没年月日 (2004-03-20) 2004年3月20日(72歳没)
出身地 日本の旗 日本東京府東京市本所区中之郷横川町(現・東京都墨田区東駒形)
身長 175.2cm
言語 日本語
方言 共通語関東方言
最終学歴 静岡県立吉原高等学校定時制課程吉永分校中退
師匠 ハナ肇(芸人として)
グループ名 ザ・ドリフターズ(3代目リーダー)
相方 綱木文夫
加藤茶
仲本工事
高木ブー
荒井注
志村けん
芸風 コント
立ち位置 中央
事務所 渡辺プロダクション

イザワオフィス
活動時期 1954年 - 2004年
過去の代表番組 テレビドラマ
取調室シリーズ
弁護士 猪狩文助シリーズ
壁ぎわ税務官』(第1作 - 第3作)
逃げ口上
映画
ザ・ドリフターズの映画
バラエティ番組など
8時だョ!全員集合
日曜日だョ!ドリフターズ!!
ドリフ大爆笑
飛べ!孫悟空
ドキュメンタリー番組
ナゾの海底探検
人生の楽園』(初代ナレーション)
他の活動 俳優ミュージシャンベーシスト
配偶者 既婚
親族 碇矢浩一(長男)
碇矢まゆみ(長女)
弟子 すわ親治
志村けん
井山淳
公式サイト いかりや長介
受賞歴
第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞
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ザ・ドリフターズ」(略称:ドリフ)の3代目リーダー。本名:碇矢 長一(いかりや ちょういち)。

愛称は「長さん」。ドリフ時代初期は芸名を「いかり矢 長介」(読み同じ)としていた。ドリフ映画で使われる呼び名は「ゴリラ」「下唇」。

東京府東京市本所区中之郷横川町(現・東京都墨田区東駒形)生まれ。渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに所属し、没後もイザワオフィス所属扱いとなっている。身長175.2cm。

概要編集

ザ・ドリフターズ」のリーダーとして、TBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。その後は俳優、タレントとして活躍。先に挙げた2番組での「お笑い」のイメージとは一線を画した、味わい深く「渋い」演技を見せた。

1997年に放映されたドラマ『踊る大捜査線』(フジテレビ系)のベテラン刑事和久平八郎役では、『全員集合』をリアルタイムで見たことがなかった若いファンからも支持を受ける。1999年、『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。晩年は独特な語り口調を生かし、ナレーションを務めたことでも有名だった。

趣味はアフリカ旅行(特にケニア方面)で、いかりやをメインレポーターとしたアフリカ紀行番組もたびたび放送された。

長男の碇矢浩一(1969年5月8日[1]-)は明治大学卒業後、森永製菓に勤務。在職中の2004年にドリフターズ事務所の代表取締役社長に就任し、父・長介の没後に著書『親父の遺言』(2006年幻冬舎)をいかりや浩一名義で出版した。2008年12月に森永製菓を退職してドリフターズ事務所の代表取締役に専任し『いかりや長介という生き方』(幻冬舎、2008年)を出版した[2]。浩一には妻の他、2人の息子と2人の娘がおり、合計で6人家族である。また、浩一の妹で長女の碇矢まゆみは『容疑者 室井慎次』での俳優担当スタッフであった[3]

経歴編集

生い立ち編集

4歳の時、母・よねが結核で病没。本所区横川国民学校(現在の墨田区立横川小学校)卒業。国民学校時代の教師に書道家の井上有一がいる。父・碇矢一郎 (1995-04-23) 1995年4月23日(86歳没))は築地魚河岸で運搬の仕事に従事していた。いかりやは自伝『だめだこりゃ』の中で、この父について「私に一番影響を与えた、傑作な人物」と語っている。

1944年戦争の激化に伴って静岡県の吉原市へ疎開。吉原市立第三中学校へ入学。翌年に同地で終戦を迎えた。以後、長介の父は86歳で急逝するまで生涯この地から離れることはなかった。

ミュージシャン編集

吉原市の中学を卒業後、わずか8年のみの設置であった静岡県立吉原高等学校定時制課程吉永分校(1950年4月設置、1955年4月生徒募集停止、1958年3月廃校)に進学、同校を中途退学後、静岡の製紙工場(春日製紙)に勤めながら、同僚らとハワイアンバンドを組み、ダンスホールで活動していた。元々はスティール・ギターを担当していたが、後にベースに転向。当時のバンド仲間に元プロ野球選手田村満がいる[4]。そもそも音楽を始めた動機が、女性に「モテたい」からであり、実際に父親から「食えるわけないから辞めろ」と反対されたとのこと。

1959年にミュージシャンを目指して上京、最初の妻とともに新宿二丁目アパートで暮らす。ミッキー・カーチスも在籍していたロカビリーバンド「クレイジーウェスト」に参加後、カントリーウェスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」にベーシストとして加わり(ギタリスト寺内タケシ)、立川横須賀横田米軍キャンプで巡業。

しかし1961年12月31日、巡業の往路で交通事故を起こし、「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」の所属事務所と関係が悪化する。1962年加藤茶と同時期に、小野ヤスシジャイアント吉田らが在籍していた「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に参加。のちに桜井が引退しリーダーがいかりやに交代し「碇矢長一とザ・ドリフターズ」にグループ名を改称。しかしその後、諸事情から小野らは独立しドンキーカルテットを結成してしまう。

1964年仲本工事高木ブー荒井注1974年脱退)、綱木文夫1965年脱退)を加えて「ザ・ドリフターズ」を再結成する。しかし直後に綱木が脱退したが、この時はメンバーの補充を行わなかった。

綱木脱退直後にドリフはナベプロの傘下に入って、当時人気絶頂だったハナ肇とクレージーキャッツの後輩として、大々的に売り出した。ただし、いかりや自身が後に自著のあとがきで「師匠に付いたことはない」と記述している通り、クレージーの直弟子であったわけではない(クレージーにはいかりやより年下のメンバーも含まれていた)。なお、クレージーとの初対面の時に、クレージーのリーダーであったハナ肇から「いかりや長介」の芸名を与えられ(本名の長一より長介のほうが響きが良いというこじつけ)[5]、以来その芸名で通すことになった(他のメンバーもハナ肇が名付け親)。

1966年にはビートルズの前座として、ザ・ドリフターズを率い日本武道館で公演。仲本のヴォーカルで『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)を演奏した。

ベーシストとしては、日本におけるチョッパー奏法の元祖と語られることがあり、2001年の自著『だめだこりゃ』でも「いかりや奏法」「いかりや弾き」「長介弾き」という言葉には躊躇いつつ呼称への感謝を書き留めている。「ベーシスト・いかりや」が思い起こされたきっかけは、近田春夫が風化しつつある和製洋楽でロカビリー音楽に触れたコメントがもととされる。いかりやは戦後日本のカントリーミュージックで代表格のジミー時田とマウンテン・プレイボーイズに在籍し[6]その頃はウッドベースからエレキベースギターに転向かまたは兼任するプレーヤー達の弾き方主流スタイルはこの「親指弾き」だった。マウンテン・プレイボーイズ、ドリフターズ両方の元メンバーで親友ジャイアント吉田は「(当時のステージレパートリーで主流のカントリー&ウエスタンや、ロックンロールに)このチョッパー奏法と呼ぶものは(エレキ・ベース・ギターでは)不要でやったことはない[7]」と、語っている[8]。この再認識について、いかりやのバンドマン時代を知らない若年層、俳優やコメディアンにとってはいかりやが演奏する姿が新鮮で、前述の通り「いかりや奏法」「いかりや弾き」「長介弾き」という俗語が生まれたが、いかりやのミュージシャンとしての活動最盛期はビートルズ以前の時代で[9]、現代では古典的な奏法からスティングも同じ演奏スタイルで有名な事から目立ったが特に際立った奏法ではない。ただし、日本においてフェンダー製エレキベースを使用し表舞台に立ったベースプレーヤーとしては先駆け的存在である。なお、事務所の後輩でのちグループ・サウンズブームを牽引したザ・ワイルドワンズのベーシスト島英二によると、いかりやは当初は島の勧めでピック奏法を試みたが、ピックが邪魔でコントに支障をきたすため親指奏法に切り替えたという。

晩年出演したテレビCM(キリン・ラガー)に、エレクトリック・アップライト・ベースを演奏する姿があった。その際に撮影されたスチル写真が遺影に使われた。ベースライン自体は、スタジオミュージシャンの渡辺等の手によるものであった。

バンド時代のあだ名は「幡随院長兵衛」をもじって「バンス院長兵衛」。バンスとは、バンドの符丁でギャラの前借り(advanceより)のこと。当時のいかりやは、借金がかさんでいた。長兵衛は本名の長一から。いかりや逝去の際、バンド時代から親交の深かった立川談志が、追悼コメントで「ヤツ(いかりや長介)を今時『長兵衛』と呼ぶのも、もう俺ぐらいしかいない(=それだけ付き合いが古かった)」と語っていた。

コメディアンとして編集

TBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で大人気となった。

ドリフ時代のギャラ配分は、イザワオフィス移籍直後から6(いかりや):1:1:1:1だったためメンバーとの衝突も多かった。ただし、諸経費等はいかりやのギャラからほぼ全て出していた(=言い換えるとメンバーは全員給与の一部より営業などの諸経費を負担していた)ため、実際の取り分は他のメンバーよりもわずかに多かったに過ぎなかった。それをネタにしたコントもある。

『全員集合』が開始された頃に、山田康雄に演技指導を受けていたというエピソードがあり、それが縁でルパンの収録スタジオへ挨拶に行ったり、山田が『全員集合』の冒頭のコントに出演した。また、プライベートで山田と飲みに行くこともしばしばあったという。

『全員集合』の打ち合わせは2日前の木曜日に行われていたが(これを木曜会議と言う)、いかりやを中心にネタが決められていて、いかりやがネタを思いつくまで皆が黙っていることが多かった。他の作家がアイデアを出しても、「つまらねぇ」と却下することも多かった。この事について「彼らのネタは机上でしか考えてないようだったり、面白くてもドリフではできない内容ばかりだった」と著書で述べており、加藤も後に「作家が考えたネタより、自分達で考えた方が観客には受けた」とコメントしている。当時、駆け出しだった高田文夫は『全員集合』のスタッフとして参加していたが、打ち合わせ時の、あまりにも静かで重い空気に耐えられず、逃げ出した経緯をスポーツ紙の連載に記している。

志村も「自分の考えたネタをいかりやさんに見せる時が一番緊張した」と、いかりやの死後のインタビューで述べている。いかりやは著書で志村のネタ作りの才能と積極的に提案する姿勢を高く評価しており、ドリフターズに加入させた理由の一つであったと語っている。

『全員集合』での「オイッスー!」、「次、行ってみよう」、『ドリフ大爆笑』"もしものコーナー"の「だめだこりゃ」などのフレーズがモノマネのネタにされる。特徴であった唇の形もよくネタにされていた。

コントでは、抑圧的な憎まれボスというキャラ設定が主で、典型的なツッコミタイプである。(『ドリフ大爆笑』の人気コーナー「ばか兄弟」(仲本とのコンビによるコント)シリーズ等でボケを演じることもある)、それに対して、加藤や志村らが反撃に出るといったスタイルで、それをギャグとして取り入れていた。60歳を超えてからも体を張って大量の水を被ったり、金たらいや一斗缶を頭に受ける等の芸風を通した。

弟子に志村けん、井山淳、すわ親治らがいた。清水キョウイチ郎は、元弟子を自称していたが、いかりやの関係者から「そんなの知らない」という証言があり、詳細は不明である。尚、清水自身は「『渋谷とんぼ』という芸名を付けてもらう寸前に離れてしまったので、向こうは覚えていないかも知れない。でも当時数十人居たボーヤ(弟子)の中でそこまで行くのはほとんどいなかった」とコメントしている。

俳優・タレント編集

1985年『8時だョ!全員集合』終了後、俳優、タレントとして活動を始めた。

1987年のNHK大河ドラマ独眼竜政宗』で鬼庭左月斎役を演じたことで、俳優としてブレイクするきっかけとなった。

1994年より始まった日本テレビの火曜サスペンス劇場・『取調室』シリーズでは、佐賀県警本部捜査一課の警部補・水木正一郎を演じ、佐賀県の観光振興をするとともに、本人はこの作品をライフワークと語っていた。

2001年にはTBSの月曜ミステリー劇場『弁護士猪狩文助』シリーズが開始。70代にして二つの人気主演シリーズを抱える状態となった。こちらは原作では八十代と設定されている役柄であり、老耄したような日常の姿から一転して法廷での迫力ある追及の落差で魅せるいかりやの演技、古いジャズをあしらった渋い演出などで高い評価を受け、後日全作品がDVD化された。

1992年〜1996年のドラマ版『サザエさん』(フジテレビ)では磯野波平役を演じ、1997年に出演した『踊る大捜査線』(同局)和久平八郎役では、『全員集合』を見たことがない若いファンからも人気を博す。1999年には、『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。

2000年2月、荒井注が急逝した際、弔辞を読んだ。弔辞の最後、いかりやは荒井に対して「じゃあいずれ」と締めくくった[10]

作家の小林信彦が1970年代前半に『日本の喜劇人』を著したころはドリフの最盛期であったが、ほとんど触れていない[11]

晩年編集

2003年5月末、原因不明頸部リンパ節癌により緊急入院。闘病生活を経て、同年7月17日に一旦退院する。翌々日には『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の映画舞台挨拶に参加。同年8月6日に『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ系、「BISTRO SMAP」ゲスト)の収録でテレビの仕事に復帰する。しかし長男・浩一によると、7月の退院直後に担当医から「余命はもって数ヶ月」であると宣告されていたが、本人には伝えなかったという。同年12月23日に放送された『40年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル』(フジテレビ系)がいかりやにとって生涯最後のテレビ出演(仕事)となった。

2004年3月15日、癌の転移により東京都港区東京慈恵会医科大学附属病院に再入院したが、同年3月20日15時30分に死去、72歳没[12]

3月21日、自宅前には午前中から約40人の報道陣が集まり、森光子など生前交友のあった芸能関係者やテレビ局から花が続々と届けられた。谷啓西条昇海老名香葉子田中麗奈らもお悔やみのコメントを出した。

3月23日、通夜にはザ・ドリフターズのメンバーである加藤茶高木ブー仲本工事志村けん、踊る大捜査線の共演者である織田裕二柳葉敏郎深津絵里水野美紀たちも、そろって弔問に駆けつけ、芸能関係者、一般ファン合わせて約3500人が参列した[13]

3月24日、告別式。喪主は長男浩一が務め、弔辞はドリフの最古参加メンバーである加藤が読んだ。高木は、葬儀で「バカヤロー!」と叫びながら大泣きしていたという。出棺の際バッハ作曲のG線上のアリアの曲が流された。また、最後まで涙を抑えていた加藤は出棺の霊柩車のクラクションの音と共に目頭を押さえたという。

遺体は品川区桐ヶ谷斎場火葬され、その後東京都葛飾区に所在する蓮昌寺に納骨された。

戒名は瑞雲院法道日長居士。

加藤茶の弔辞編集

長さん…。随分急いで向こうに行っちゃったんだね。あんた、最後の最後に嘘ついたよなぁ。去年の12月に『大爆笑』のオープニング撮るときに久しぶりに会って、「40周年の記念で『全員集合』と『大爆笑』、この2本撮りたいね」って。長さん「いいね」って、「やろうよ」って、そう言ったよね。うちのメンバー4人もその気になってたんだよね。だけどその約束を守れないうちに逝っちゃったね。

40年間一生懸命、一生懸命走ってきて絶対に妥協を許さない長さんだったよな。でも40年間本当に気を抜かないで一生懸命やってきたんだと思う。本当にご苦労さん。これから俺たち4人でドリフターズまだやっていくよ。あんたが残した、財産だからね。

荒井さんが亡くなった時、長さん言ってたよな。「俺も、もうじきそっちに行くから、一緒に酒飲もう」って。本当にそんな日が来てしまったな。でもちょっと早すぎたんじゃないか? もう少し我慢してほしかったな。まぁ2人してつもる話もあるだろうけど、あまり深酒しないように。 それから、いきなりそっちから「全員集合!」と言われても俺たち4人は集まれないからね。たぶんそのうち本当に「全員集合」になるかもしれないけど、その時はやっぱりまた向こうでコントをやろうよ。

40年間本当にありがとう。そしてご苦労さんでした。何も心配なくゆっくり休んでちょうだい。さよなら。

没後編集

いかりやが死去したことは、3月20日の死去当日はテレビの速報テロップで伝えられ、翌日の3月21日の19時のNHKニュース7でトップで報じられた。2004年の没後まもなく、第一回喜劇人大賞「特別功労賞」を受賞。3月27日には、TBSで追悼番組『長さんだョ!全員集合』が放送された。番組は土曜日の20時(午後8時)をまたいで放送されたこともあり、時計の秒針が20時を刻むのと同時に『8時だョ!全員集合!!』と当時の全員集合のオープニング映像も流し、追悼した。さらに、NHKフジテレビテレビ朝日でも追悼番組が相次いで放送された。

2004年に静岡県富士市から市民感謝状が贈られ記念の展示会が開催された。また、佐賀県取調室シリーズで佐賀県の観光アピールを全国的にした事で、佐賀県出身・在住のいかりやのファンが佐賀県知事に多数陳情し、佐賀県知事佐賀県警察本部長が感謝状を贈った。なお、いかりやは佐賀県警のポスターにも生前、広報用で使われていた。

2005年、静岡県富士市吉原の商店街の一角が「長さん小路」と命名された[14]

七回忌になる2010年3月にも、「8時だョ!全員集合 DVDBOX最終盤」が発売され、フジテレビで「懐かしのいかりや長介大爆笑スペシャル!!」TBSでも「ドリフ伝説最終章 8時だョ! 全員集合 大笑い4時間スペシャル」が放送された。

2010年の映画『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』では、いかりやが演じていた和久平八郎は病死した設定だが、過去作でのいかりやの音声による「人の希望になってやれ。…なんてな」という和久のセリフが流れるシーンがある。続編(2012年)の『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』のオープニングムービーでも過去作の映像を流用する形で登場している。

エピソード編集

全員集合編集

「8時だョ!全員集合」出演中の1980年9月、声帯ポリープの手術を受け、その直後の13日20日の放送は出演したが手術直後で声を出せない状態であった。このためいかりやの役割担当は他のメンバーが持ち回りで務めた。その中で「全員集合」のオープニング(特に本来いかりやが『行けぇー!』や『よろしくぅ!』と言うべき箇所)で見事な口笛を披露。声は出なくとも存在感を改めて誇示する形となり高く評価された。

アフリカ旅行編集

アフリカ旅行を趣味としていた。彼のアフリカ通は芸能界でも評判で、自身をレポーターとしたアフリカ紀行番組のシリーズも作られている。自伝『だめだこりゃ』によると、1973年にプライベートで初めて海外旅行へ行けることになった時に、あえて一般の人が行かない場所へ行ってみたいという理由でアフリカへ行ったのが最初で、その後もほぼ毎年アフリカを訪れることが習慣になり、現地の人々とも積極的に交流を結んでいた。彼自身は、時間の流れ方が日本と全く異なっていて、東京でのゴタゴタから自分を精神的に解放させてくれる、アフリカ独特の大らかな風土とスケールの大きな自然が気に入っている旨を語っていた。

踊る大捜査線編集

織田裕二踊る大捜査線において、いかりやに請われてテレビドラマでの演技のノウハウを教えた。劇中の関係とは逆であるが、1999年4月13日放送のフジテレビの特別番組『踊る織田裕二』での対談で、いかりや本人が、「剣豪に倣って、あなたの芝居は何流か? と問われれば、織田流だと答える」と述べて謝意を表している。また、いかりやの自伝『だめだこりゃ』にも同様の言葉が掲載されている。織田は、いかりやが亡くなった後もいかりやを大変慕っている[15]

柳葉敏郎は役柄上輪に入れないので、階段のところで座っていることが多かった。そんな時、いかりやが来て競馬など話し相手をし、柳葉は張り詰めたものが癒されたという[16]

水野美紀は『ファイナル』のオープニングでいかりやとの思い出がよみがえってきたという。夜遅い時間のスタジオ撮影で皆が疲れてきたとき、長回しのワンカットのOKがなかなか出ずに「もうワンカットお願いします!」って声がかかったとき、いかりやの“生”「だめだこりゃ」が誰もが聞きたいけれどねだれなかったこと(セリフ)が出て、みんなのテンションは一気に上がったという。ムードメーカー的なところも含めて、格好いい方だったという[17]

ユースケ・サンタマリアは踊る大捜査線の出演者の挨拶でスタッフが「真下正義役、ユースケサンタマリアさんです」と言った時に、「CX(フジテレビ)のリーサルウエポン(最終兵器)ユースケ・サンタマリアです」と挨拶をして空気が凍りついたという。そんな中で輪に入れたのはいかりやが『俺もバンドあがりだから』と僕を仲間みたいに言ってくれたことだったという[18]

神山繁とは『独眼竜政宗』での共演以来、プライベートでも親交が深かった[19]。神山は『踊る大捜査線 THE MOVIE』の和久と視線を交わすラストシーンの撮影を、良いシーンだが難しい場面でもあったと振り返っていた。いかりやはドリフターズであり、神山は新劇の舞台出であり、出自が違い過ぎていたのが面白かったのか、妙に馬が合って、二人が勝手なことを喋りあって友情が生まれたという。飲食を共にし、京都の家まで訪ねてきてくれたこともあり、神山はいかりやがガンで入院することになったときも、発表の前に電話で受けていたという[20][21]

小泉孝太郎とは同じ事務所に所属しており、デビュー前から役者についての手ほどきを、台本の見方からスタジオのカメラの呼び方一つまで、丁寧に優しく教えたりと、師弟に近い関係でもあった。いかりやが亡くなった後でも、孝太郎は彼を慕い目標としている。いかりやは生前、「俺たちの仕事は、良い仕事だよ。駄目な時は駄目な自分が出る。良い時は仕事もプライベートも良いんだ。その時の自分で勝負できる、良い仕事だろ。その時の自分にうそはつけないから」という言葉を孝太郎に残している[22][23]

その他編集

  • 大村崑とは生年月日が同じという縁から、交友があった。いかりやにとっては数少ない関西出身者の友人であった。またショーン・コネリーを尊敬しており、頭髪や髭などはショーン・コネリーを意識したものとされている。

出演作品編集

テレビドラマ編集

映画編集

舞台編集

吹き替え編集

人形劇編集

バラエティ編集

その他編集

著書編集

脚注編集

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  1. ^ いかりや浩一、『親父の遺言』、株式会社幻冬舎、2006年、21頁
  2. ^ あきらめず道を開く姿見せた父「いかりや長介」 長男・碇矢浩一さん「おやじは不器用だけど、かっこよかった」 - 産経ニュース 2015年11月25日11時15分発信、2017年11月3日閲覧。
  3. ^ MOVIE DATABASE「容疑者 室井慎次」 - 東宝公式ホームページ。2018年9月3日閲覧。
  4. ^ 長谷川晶一『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』(白夜書房、2011年)p219。
  5. ^ 高木ブー 85歳 今だから語る「長さんは僕にだけ、愚痴をこぼした」 文春オンライン, 2018年7月29日
  6. ^ 小坂一也とワゴン・マスターズが人気をさらった絶頂期は過ぎていた。
  7. ^ ツイストミュージック(Twist music・英語版 (en)など楽曲の流行に楽器と奏法も多様化しつつある時代だった。
  8. ^ おもにパーカッションを担当したジャイアント吉田は当時のプロバンドマンについて「米軍キャンプ、ナイトクラブディスコの演奏では客のダンスを遮らないノンストップの伴奏を要求され、メンバーが小用などよんどころのない事情から担当を離れる場合には代理をこなせるようフォローに複数の楽器を練習していた(大意)」と述懐、コミック・バンドに限らずテクニックは別としてメンバーは担当以外の楽器を扱う技量を要求された。ミッキー・カーチスら同世代のミュージシャン達も異口同音に証言や著述を残している。
  9. ^ 先行したクリフ・リチャード&ザ・シャドウズベンチャーズなどは特異な奏法と新型エレキギターと楽器を持って登場し影響は絶大で、こぞって奏法を真似最新機材を取り入れ日本はもとより世界的ブームとなった。日本では「エレキ・ブーム」として、エレキ・インストロメンタル音楽という分野が形成され直後にはビートルズブームを迎え、初期ビートルズの演奏力についてプロミュージシャンからの評価は低いものだったが、親しみ易い楽曲のカバーからアマチュアバンド人口拡大の一助となった。
  10. ^ 仏教人生大学
  11. ^ 小林信彦『日本の喜劇人』新潮社、1982年(原著1977年)、文庫版、306頁。ISBN 4-10-115804-5 本書において小林は「ドリフターズがテレビに君臨していた頃の70年代は、昭和20年代の喜劇界の退屈さを思わせる」と述べ、「(ドリフターズについて)あれこれいうのが野暮であろう」のみ評している。
  12. ^ ““いかりや長介さんが死去…72歳、がんに勝てず”. 日刊スポーツ. (2004年3月20日). オリジナルの2016年8月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160815034117/https://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2004/pe-040320.html 2019年12月20日閲覧。 
  13. ^ ““いかりやさん通夜、織田裕二も絶句”. 日刊スポーツ. (2004年3月24日). オリジナルの2004年4月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20040404190025/https://www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-040324-0011.html 2019年12月20日閲覧。 
  14. ^ 長さん小路~いかりや長介氏市民感謝状受賞記念通り~/富士パークホテルのブログ
  15. ^ 織田裕二著『脱線者』. 
  16. ^ 踊る大捜査線 THE FINAL『15年を積み重ねたキャスト&スタッフ総出演で贈る!ラストダンス!!』-ORICON STYLE 連載” (日本語). ORICON STYLE. oricon ME. 2018年5月5日閲覧。
  17. ^ 踊る大捜査線 THE FINAL『15年を積み重ねたキャスト&スタッフ総出演で贈る!ラストダンス!!』-ORICON STYLE 連載” (日本語). ORICON STYLE. oricon ME. 2018年5月5日閲覧。
  18. ^ 踊る大捜査線 プレミアムトークより
  19. ^ 「現代日本映画人名事典 男優篇」、キネマ旬報社、神山繁の項より。. 
  20. ^ 踊る大捜査線 THE FINAL COMPLETE BOOK. 
  21. ^ 「踊る大捜査線」和久平八郎と吉田副総監の友情は本物だった!演じた神山繁明かす - シネマトゥデイ”. シネマトゥデイ (2012年9月5日). 2018年5月5日閲覧。
  22. ^ 小泉孝太郎 理想の姿はいかりや長介さん「その時の自分にうそはつけない」― スポニチ Sponichi Annex 芸能
  23. ^ 小泉孝太郎の生い立ちと経歴、学歴を紹介

外部リンク編集