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甲陽学院中学校・高等学校

甲陽学院中学校・高等学校(こうようがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、兵庫県西宮市阪神間)に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校高等学校。高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校[1][2]。中高一貫制であるが、中学校と高等学校の所在地は異なっている。学校法人辰馬育英会白鹿グループ)が運営する男子校である。

甲陽学院中学校・高等学校
Koyo Gakuin junior high school.JPG
甲陽学院中学校
過去の名称 私立甲陽中学
財団法人辰馬学院甲陽中学校
甲陽学院中学部・甲陽高等学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人辰馬育英会
理念 桜梅桃李一時春
設立年月日 1917年2月6日
創立者 伊賀駒吉郎・辰馬吉左衛門
共学・別学 男子校
中高一貫教育 完全一貫制
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
高校コード 28534A
所在地 662-0955(中学校)
662-0096(高等学校)
兵庫県西宮市中葭原町2-15(中学校)
北緯34度43分41.8秒東経135度19分33.9秒
兵庫県西宮市角石町3-138(高等学校)
北緯34度45分37.1秒東経135度19分7.7秒
公式サイト 学校法人辰馬育英会 甲陽学院中学校・甲陽学院高等学校
Portal.svg ウィキポータル 教育
Project.svg ウィキプロジェクト 学校
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目次

概要編集

関西教育界第一人者であり、特に、女子教育で定評のあった[3]教育者伊賀駒吉郎が、「官立学校は型にはまった教育しかできない。もっと自由な学校を作りたい」と「自由な私学」を求め、阪神間枝川(現在の甲子園)の地に『甲陽十二訓』を掲げ1917年大正6年)「私立甲陽中学」を創立。自由主義であり、個性を伸ばすという評判があった[4]

桜梅桃李一時春」[5][6]を建学の精神とし(当時の学級の構成も「桜・梅・桃・李」であった[7])、『甲陽十二訓』の下、「明朗・溌剌・無邪気」[8]、「気品高く教養豊かな有為の人材の養成」を目的とする校風が自主的に育まれた[注 1]

第一次世界大戦後不況により本学の経営が困難に陥るが、白鹿の酒造家である辰馬吉左衛門が私財を投じ1920年(大正9年)3月、財団法人辰馬学院を設立。中学校令に基づく中学校を発足させ、酒造家ならではの経営を行う[9]。教育に関しては一切を歴代の校長に任せた。

戦後の学制改革では、大学になるのでなく中等教育機関として大学に人材を輩出することを選び、パブリックスクールを手本の一つとして新体制が整えられた[10][注 2]

所在地は新制以来中学と高校で別であり、いくつかの変遷を経たのち、現在では中学は海風薫る浜辺に[注 3]、高校は天を仰ぐ山辺にあり[注 4]、それぞれの校章や校歌に反映されている。ともに阪神間文教都市西宮市夙川沿いにあり、以来、甲陽の歴史は、自然とのふれあい豊かな環境とともにある。

所在地の違いは中学、高校の校風にも反映されており、中学では制服があり規律正しいが、高校では校則もほぼなく自由となる。

酒造家による経営が反映され、人間形成に役立つ生業(体育、芸術、マナーなど)に力を入れている。「文化祭」ではなく「音楽と展覧の会」という行事が存在する。

以来、賢明な経営手腕の下で、阪神間地域に根差し、在校生・教職員・卒業生の三極による、学校内で完結した学問、教育の場を目指している。現在までに約2万人の卒業生を輩出している。

沿革編集

  • 1917年大正6年)2月6日:「桜梅桃李」を建学の精神として、阪神間枝川の地(現在の甲子園、当時は阪神甲子園球場建設前)に伊賀駒吉郎により、私立甲陽中学設立。
  • 1920年(大正9年)3月6日:の酒造家(白鹿)・辰馬家の援助を得て創設された財団法人辰馬学院甲陽中学校に始まる。
  • 1923年(大正12年)8月:第9回全国中等学校野球大会(現:夏の高校野球)優勝。
  • 1940年昭和15年)3月:皇紀2600年奉祝記念事業として、専門学校令による甲陽高等商業学校を新設(後、工業専門学校に転じ、戦後廃校)。
  • 1947年(昭和22年)4月1日:学制改革により、甲陽学院中学部を香櫨園に新設。
  • 1948年(昭和23年)4月1日:旧甲陽中学校は甲陽高等学校となる。
  • 1950年(昭和25年)1月1日:甲陽学院中学部を甲陽学院中学校、甲陽高等学校を甲陽学院高等学校に改称。
  • 1978年(昭和53年)4月:高等学校所在地が騒音公害などで教育環境が次第に悪化したため、高等学校のみを辰馬家が所有していた西宮市角石町の地に移転[注 5][注 6]。旧所在地は現在、白鹿グループ運営のホテルヒューイット甲子園(旧ノボテル甲子園)とイオン甲子園店(土地は現在も白鹿グループが所有)となっている。
  • 1993年平成5年)8月:中学校において従来の校舎の東側に新校舎竣工。旧校舎は改築の上、講堂・芸術棟および記念塔として使用している。
  • 2006年(平成18年)4月:中学校の募集定員を165人から約180人(実際は200名程度)に変更し、55人3クラス制から40人前後の5クラス制へと変更。なお、この変更により40人前後5クラスでの最初の学年が高校へ進学する年から高校入試は廃止されることとなる。
  • 2007年(平成19年):前年からの募集定員増加に関連し中学校の旧校舎の一部を建て替え。
  • 2009年(平成21年):高等学校入学枠を廃止。完全中高一貫校化。
  • 2016年(平成28年):旧講堂が解体される。
  • 2017年(平成29年)3月:中学新講堂が竣工。

環境編集

自由な私学を念願していた伊賀駒吉郎は、1916年(大正5年)に阪神間枝川周辺の地(現在の甲子園)の景色を見て[11]その地に旧制「私立甲陽中学」を創立。戦後の学制改革の際に中学部を香櫨園に新設した。

創立当初の甲陽中学は、近くを枝川が流れ、球場もできる前であった。枝川にはアユなどが泳いでおり、魚釣りをする生徒もいた。辺りは見渡す限りのイチゴ畑で、その中を阪神電車が走っていた。

枝川の清流と白砂青松を誇った高校校舎の外周も、騒音排気ガスにより環境が悪化した。そのような折に辰馬家はいち早く校舎移転を唱え、甲山山麓の辰馬家所有地を提供[12]1978年昭和53年)に移転した。 しかしながら移転先も排気ガスに悩まされている。

以来、甲陽の歴史は、自然とのふれあい豊かな環境とともにあり、生徒の年齢発達に応じた、一層実りの多い中高一貫教育を行うために、中学と高校の立地、設備を別々に整えている。

設備編集

中学と高校で校地が異なり、設備が独立している。講堂、図書室、食堂体育館テニスコートプールがそれぞれに設置されている。ただし、トレーニングジムは安全性のため高校のみにある。

1993年平成5年)8月には、香櫨園の中学旧校舎東側に新校舎竣工。旧校舎は一部改築され講堂・芸術棟、食堂および記念塔として使用している。2017年3月には100周年記念事業として、中学講堂が新築された。

学校生活編集

中学では規律、高校では自主性・創造を重視している。中学では黒の詰襟学ランおよび白ポロシャツの制服があり、身だしなみについて細やかな注意や学習方法の指導がある。

一方、高校では頭髪、服装は全面的に自由になり、自律が期待される[8]

学校行事編集

中学と高校で所在地が異なるため、行事は中高で異なる。毎年6月になると校外学習としてテーブルマナー講習会(高等学校1年対象)がノボテル甲子園で行われている。

  • 4月:入学式、校外学習、創立記念音楽会
  • 5月:体育祭(高校)
  • 6月:修学旅行(高2・北海道)、体育祭(中学)
  • 7月:合宿(中1)、合宿(中2)、海外語学研修(中3)
  • 9月:音楽と展覧の会(高校・23日)
  • 11月:音楽と展覧の会(中学・3日)
  • 2月:耐寒登山(高校1・2)、卒業式(高校)、スキー訓練(中3)
  • 3月:卒業式(中学)

(行事について#文化も参照)

校章・歌など編集

校章編集

中高はともに夙川沿いにあり、中学・高校の校章はそれぞれ海の近く、山の上つまり空近くにあることを象徴した意匠となっている。

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  • 甲陽学院のうた:作詞:竹中郁 / 作曲:清水脩
  • 甲陽学院応援歌:作詞:山田在夫 / 作曲:山田耕筰
  • 甲陽学院中学校校歌:作詞:丸谷緑野 / 作曲:花輪洋
  • 甲陽学院高等学校校歌:作詞:山田在夫 / 作曲:信時潔

よく歌われるのは「甲陽学院のうた」であり、「学院歌」と呼ばれる。したがって、校歌を歌う機会がないまま卒業する生徒も多い。

甲陽概説編集

建学の精神編集

桜梅桃李一時春。これが創立者伊賀駒吉郎の愛誦する句であった。それは自由な環境の中に強い自主性を育て祖国愛に燃える識見高い日本青年を世に送ろうとする伊賀の建学の精神でもあった[13]

設立趣旨編集

古人曰く、一年の計は穀を植うるにあり、十年の計は木を植うるにあり、百年の計は人を植うるにありと[注 7]。天下の英才を教育して、各其の天稟を發揮せしめ、光彩陸離百花爛漫の偉観を現出するは、啻に國家百年の大計たるのみならず、人生の快事之れより大なるは無かる可し云々。

甲陽十二訓編集

一. 青年期は人生無二の修養期なり少年老い易く学なり難し一寸の光陰軽んず可からず未だ覚めず池塘春草の夢階前の梧葉巳に秋声あり

二. 行為を蒔けば習慣を刈取り習慣を蒔けば品性を刈取り品性を蒔けば運命を刈取る

三. 過去を払拭せよ未来は信頼せよ而して光栄ある現在に生活せよ

この他に第四訓から第十二訓まである。

財務編集

第一次世界大戦後の不況を通じて、辰馬吉左衛門が私財を投じて経営を引き受けて以来、学校法人辰馬育英会として経営が酒造白鹿グループにより引き継がれている。

辰馬家は日本酒「白鹿」などの酒造オーナーとしてだけでなく、損害保険や海運業といった各業種の文化事業家でもある。

賢明な経営手腕の下、潤沢な自己資金を持っている。学費が他の私学に比べて安い[14]。在校生・卒業生に寄付を募ることはなく、甲陽ファンドという同窓会有志による基金がある。経済的に困窮している在校生への援助や、優秀者の表彰に奨学金として使われる。

旧制甲陽中学・甲陽学院高校旧校地は、東半分が売却され、現在は、イオン甲子園店を経て、Corowa甲子園へのリニューアルオープンが予定されている。西半分は現在白鹿の関連会社であるノボテル甲子園となっており、甲陽学院高校のテーブルマナー講習会が催されている。

教育方針編集

創立以来の「桜梅桃李一時春」の理念で、気品高く教養豊かな有為な人材を養成することを目的とし、孝養心を秘めた識見高い青年の輩出を目指す[注 8]。銘酒の醸成のように、焦らず競わず衒わず長期的展望に立った人間教育を方針とする[9]

中学校・高等学校は、学業はもちろん、人格完成にも品性陶冶にも大切な段階にある点に鑑み、情操教育を重視し、特に規律の励行、礼儀作法の実践体得を旨としている。創立者伊賀駒吉郎の頃以来、「正々堂々甲陽健児」[15][10]、「甲陽紳士」[16]、「甲陽負けじ魂」[17][18]という言葉がよく薫陶に用いられている。

将来大学で学ぶもののために、充分な学力と体力とを練磨する。つまり、「いい大学生」の輩出を目指す[19][8]。学習課程は自律的学習者養成のために、あえて「特色のない」カリキュラムをとり、学生自身が考え、自ら間違いに気付くようにしている。この精神は、第七代校長小河清麿が残した「自ら学び、考え、楽しむ」という言葉に凝結している。

生徒、学生の自主性を重んじており、教員からの押し付けではなく、先輩の姿を見て後輩が学んでいくといったやり方で人間性を磨いていく[20]

在校生・教職員・卒業生で三極を形成し、この三極をもって学問・教育の場を担う[21]。学校内で完結することを目指しており、保護者や塾・予備校の関与は最低限に抑えている。

在校生
中学では、その後の「型」となるような教育を受け、高校では、全面的に自主性を任せられる。
教職員
一人の人間に対し、目は離さないが干渉せず、失敗さえも黙って見守る[22]。生徒の内発的なものの萌芽、内なるものの開花を辛抱強く待つ[9]
卒業生
時間をかけて、甲陽在学時の自らの行為を省み、成長のための薬に変えていく。学校訪問、補習、講演、甲陽だよりなど様々な繋がりを通して、教職員、在校生を支え、薫陶する。

卒業後編集

「母港」
本学院は時代に阿らずずっと変わらないことが重要であるとしており、苦悩し、傷心したときに立ち上がるための力が得られる「母港」であろうとしている[9]。積極的な母校訪問を期待している[23]
同窓
同窓会には、「君子の交わりは淡きこと水の如し」、「同窓会を政治や商売などの場にしない」、「社会上の肩書きは捨てあくまで甲陽人として」などの理念がある。世界中に同窓会組織がある[24]

これからの方針として、時代と競わないことも重要であり、変わらない学校でありたいとしている[9]

文化編集

法華経の原理(桜梅桃李日蓮御義口伝)、日本酒酒造、阪神間地域、自然環境を背景に、独自の文化が醸成してきた。

精神

法華経白鹿酒造、自然環境(海、浜、川、山、空)と密接な関係があり、その精神は、「在野精神」、「おっとりした気風」、「起業精神」と評されている[25]。「甲陽学院の血」という言葉が成立を見るなど、独自の精神の血脈を有する。イギリスパブリックスクールイートン・カレッジハーロー校に通じる精神を持つといわれる[26]。創立百周年の2017年度には、第四代校長丸谷喜市の詩[27]をもって、第十一代校長今西昭により、「さやけさ」がその精神として示された[28]

環境

中学高校ともに阪神間文教都市西宮市夙川沿いにある。自然豊かな環境を一貫して特色としており、中学は夙川の桜の開花、紅葉、高校は甲山の高みからの大阪湾の眺望とともにある。中学・高校の校章はそれぞれ海の近く、山の上つまり空近くにあることを象徴した意匠となっている。海と山の対照・象徴は学院歌にも謳われている。

通学の際に、中学では海に向かって下り、高校になると山を登ることになる。根源への意識および一歩一歩踏みしめて高みを志す精神の陶冶が期待されている[29]

地域学

地域の文化(地域学)には当地に固有の私学の風土が介在している[30]1947年昭和22年)に甲陽史学会が結成され、現在まで地域研究、自学史研究などの分野で業績を残してきた[31][32]。この会の目的には、本学院を地域(阪神間)に根差したものにするということもあった。

甲陽史学会が阪神間地域学研究の一つのルーツとなっている。文教都市西宮市において文教の振興[33]に貢献してきた[34]

学術

「甲陽は教育をする場ではなく、学問をする場である」という言葉が受け継がれてきた[35]。このような学問第一の伝統の下、授業の進度は早く、中学で高校課程の範囲のほとんどを修了する。また、成績の席次は発表せず、安易な序列意識、階層意識が生まれないようにしている。

芸術

文科省の標準授業時数よりも多く授業時間数をとっている[22]。また「文化祭」はなく、代わりに「音楽と展覧の会」という行事が存在する。

音楽

中学の授業ではアルトリコーダーでグリーンスリーブス主題曲および変奏曲2番から15番までを練習する。そのため、これが中学の場に浸透している。

「音楽と展覧の会」は、中学では合奏、高校では、歌唱や合唱コンクールが行われる。中学と高校それぞれで、希望者には講堂での個人演奏の場が設けられている。

創立記念音楽会では毎年著名な音楽家が招かれる。

甲陽では創立以来、食を大切にしている。旧制時代では食堂棟を独立に設け、プロの料理人が経営、当時にしてカレーライスハヤシライス、日替わりランチがメニューに存在していた[36]

体育・スポーツ

授業では陸上競技、球技、水泳、武道を行う。かつては関西学院中学部との間で「甲関戦」が開かれていた。

体育祭では、行進曲イギリス民謡組曲が用いられている。

野球
(試合経過は[1]を参照)

戦前は野球の戦績が優秀であった。第9回全国中等学校野球(1923年大正12年))では初出場で優勝。逆転に次ぐ逆転での優勝であった(このとき「甲陽負けじ魂」という言葉が生まれる)。なお、鳴尾球場での立命館中との試合で観客がなだれ込み、翌年の甲子園球場建設の一因となった。

校地の南隣に阪神甲子園球場が建設され、グラウンドは出場校の練習場としても使われていた(移転後の現在でも練習が行われていることがある)。旧制の旧校地時代は阪神タイガースとグラウンドで合同練習をしていたこともあったという[37]

1938年昭和13年)の第24回の夏の大会を最後に一度も出場していない。そのため、特に旧校地時代は「近くて遠い甲子園」と呼ばれている[11]

甲子園球場誕生1年目の1924年(大正13年)に当時の生徒が行進の先導役を務め、そのゆかりで甲子園球場の誕生90周年である2014年平成26年)にも本学の生徒が先導役を務めた。

サッカー

灘校との間でサッカーの定期戦が開かれている。1952年(昭和27年)に両校の在校生が企画し、翌年1953年(昭和28年)から毎年開催されている。中学生同士、高校生同士、卒業生同士で試合をする。

学校行事編集

登山編集

耐寒登山という行事があり、50年以上の伝統がある。高校から有馬温泉まで歩く。『浜風受くる日々に』にもこの様子が描写されている。

卒業式編集

第一部と第二部に分かれている。第二部には学校側は関与せず、卒業する生徒のみにより企画されている。劇、芸、仮装をするもの、楽器を演奏するもの、一聴衆に徹して礼を保つもの、あえて式に存在しないものなどがおり、様々な形で表現が行われる[38][39]

進学編集

毎年、京都大学東京大学大阪大学、国公立大学医学部・医学科に進学する学生が多い。

2017年の大学別合格者数は、東京大学39名、京都大学51名、大阪大学21名、国公立医学部・医学科54名であった[40]

入試編集

現在は中学校入試のみを実施し編入試験はない。入学試験は兵庫県内私立中学校と同じ日に行われる。中学校入試は2日間であり、国語200点・算数200点・理科100点である。不合格者には成績を開示するが、合格者には成績を開示しない。その理由は同じスタートラインに立って中等教育生活を始めてほしいという配慮に基づくものである。なお、求める学生像のようなものは定めていない。成長の可能性を積極的に汲み取り、なるべく絶対評価で合格判定をする。

志願者は専願のみである。

旧制時代の進学と入試編集

現在でいう大学に相当する学校(旧制高等学校大学予科大学専門部高等師範学校旧制専門学校など)にほとんどの者が進学した。主な進学先は京都帝国大学大阪帝国大学をはじめとする帝国大学神戸商業大学関西学院高等商業学校同志社大学慶應義塾大学早稲田大学などであった。医師、外交官、教育者、芸能家、作家、実業家、政治家、博士、プロスポーツ選手、法曹家など様々な方面で人材を輩出した。なお、旧制中学は5年制である(第二次大戦末期は4年制)[4]

入試は2日間あり、1日目に国語と算術、2日目に身体検査と口頭試問があった。受験者は、創立者伊賀駒吉郎の名声に惹かれてきたものが多かった。数年のうちに志願者は1000人を超え、倍率は5倍ほどとなった。

アクセス編集

出身者・教職員・組織編集

財界・経済界編集

大学教員・教育界編集

文化・芸能編集

スポーツ編集

政官・法曹界編集

本校教職員編集

組織編集

関連項目編集

脚注および参照編集

  1. ^ 秦由美子 「第3章 コラム1 甲陽学院」『パブリック・スクールと日本の名門校 なぜ彼らはトップであり続けるのか』 平凡社2018年3月15日、116頁。ISBN 978-4-582-85869-3。「同校では中学入試しか行っておらず、高校からの入学者はいない。」
  2. ^ おおたとしまさ 「第9章 甲陽学院中学校・高等学校」『中学受験 名門中学の子どもたちは学校で何を学んでいるのか 東西難関12校の教育力』 ダイヤモンド社2012年12月1日、307頁。ISBN 978-4478043479。「2009年完全中高一貫校化。中高でのメリハリが特徴。」
  3. ^ 学校法人樟蔭学園 :: 創立者と初代校長”. 2017年6月29日閲覧。
  4. ^ a b 甲陽だより65号(平成14年3月) (PDF)
  5. ^ 日蓮の次の法理による。
    「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり。」(創価学会版『日蓮大聖人御書全集』御義口伝、p.784)
  6. ^ 甲陽だより6号(昭和42年3月) (PDF)
    創立50周年記念碑文の冒頭にも刻まれている。
  7. ^ 甲陽学院新聞第112号1966年7月28日発行
  8. ^ a b c 甲陽学院中学校:2014学校説明会レポート/受験ライフをサポートする 進学情報誌 さぴあ”. SAPIX小学部. 2016年6月17日閲覧。
  9. ^ a b c d e 「進学校」における人間性涵養とリーダーシップ-日本と欧州3ヶ国から学ぶ- pp.32-38 (PDF)
  10. ^ a b 甲陽だより80号(平成21年7月) (PDF)
  11. ^ a b 『2001年 価値ある学校(ラッキースクール)を探そう 関西男子校+共学校』 旺文社2000年7月1日ISBN 4-01-008958-X
  12. ^ 甲陽だより24号(昭和51年7月) (PDF)
  13. ^ 創立五十周年記念碑文より抜粋要約
  14. ^ 週刊ダイヤモンド2015.8.22.
  15. ^ 甲陽学院応援歌(昭和5年)
  16. ^ 文教都市西宮で100年の歴史を刻む紳士の学校|連載 神様に愛された地、夙川③
  17. ^ 甲陽学院新聞第113号1966年9月25日発行
  18. ^ 『甲陽史-創立五十周年の歩み』より「底にある”甲陽負けじ魂”」
  19. ^ 甲陽学院高等学校 校長より”. 甲陽学院高等学校. 2016年7月23日閲覧。
  20. ^ 『パブリックスクールと日本の名門校 なぜ彼らはトップであり続けるのか』第3章「コラム1 甲陽学院」秦由美子 平凡社新書
  21. ^ 「気づいていますか 子どものSOS」平成27年7月24日 講演・討論会 野口善國の提言および、教職員、同窓会会員の意見より
  22. ^ a b “朝日新聞デジタル:学びの選択”. 朝日新聞デジタル. http://www.asahi.com/ad/manabi/koyo.html 2016年7月18日閲覧。 
  23. ^ 甲陽だより19号(昭和49年2月) (PDF)
  24. ^ 甲陽だより78号(平成20年7月) (PDF) 甲陽学院同窓会ネット
  25. ^ 灘とひと味違う甲陽学院 在野精神で起業家続々|出世ナビ|NIKKEI STYLE 2017年11月26日
  26. ^ 『パブリックスクールと日本の名門校』第3章「コラム1 甲陽学院」秦由美子 平凡社新書
  27. ^ 「きはみ無き 空にして、ここ さみどりの さやけきにはに つどえる我等、ともにいゆかむ」丸谷喜市
  28. ^ 甲陽だより96号(平成29年7月) (PDF) p.1
  29. ^ 甲陽だよりなどの資料の第九代校長、第十代校長の言葉より
  30. ^ 甲陽だより64号(平成13年7月) (PDF)
  31. ^ CiNii 図書 - 甲陽史学会研究報告
  32. ^ 『甲陽史学会 著作目録』(甲陽史学会記念事業会刊)
  33. ^ 文教住宅都市宣言”. 西宮市. 2016年7月19日閲覧。(昭和38年11月3日)
  34. ^ 今までに多くの教員が兵庫県功労者(教育部門)に表彰された
  35. ^ 甲陽だより90号(平成26年7月) (PDF) p.4
  36. ^ 甲陽だより91号(平成27年3月) (PDF) p. 6
  37. ^ 内田雅也 (2012年3月27日). “憧れから「逆指名」した「紳士」 別当薫 ― スポニチ Sponichi Annex 野球 猛虎人国記”. スポニチ Sponichi Annex. http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002920070.html 2016年6月17日閲覧。 
  38. ^ 学校法人辰馬育英会 甲陽学院中学校・高等学校 | プレジデントFamilyClub関西 eo special edition”. プレジデント社. 2016年8月3日閲覧。
    創立80周年記念動画に卒業式の様子が収められている
  39. ^ 甲陽だより64号(平成13年7月) (PDF) p.7
  40. ^ 甲陽学院高等学校 大学入試合格情報
脚注
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  1. ^ 第七代小河清麿校長 (1973.4 - 1994.3) の言葉「自ら学び、考え、楽しむ」もある。
  2. ^ 当時の校長と理事長の2人で京都大学大阪大学などを歴訪し新教員をリクルートした。
  3. ^ 『浜風受くる日々に』(風見梢太郎著)にもその様子が謳われている。
  4. ^ 学院歌の一節
    「山に問えば山は答え、海に問えば海は答える」
  5. ^ 辰馬家所有の石山と呼ばれる聖地を、法華経の祈念をもって開山。導師は、天台宗葉上照澄である。甲陽だより第77号(平成20年2月) (PDF) 理事長就任挨拶
  6. ^ 法華経により新高等学校校舎の落成式を行った。
  7. ^ 「一年之計莫如樹穀、十年之計莫如樹木、終身之計莫如樹人」(『管氏』「権修第三」、管仲の言葉)
  8. ^ 国というものが薄くなりつつある時代の要請で「祖国愛」をより広い意味の「孝養心」とした。

外部リンク編集