マイク・ホーソーン

ジョン・マイケル・"マイク"・ホーソーンJohn Michael "Mike" Hawthorn, 1929年4月10日 - 1959年1月22日)は、イギリスのレーシングカー・ドライバーで、1958年のF1ワールドチャンピオン。マイク・ホーソンと記されることも多い。

マイク・ホーソーン
Mike Hawthorn
Mike Hawthorn , autocoureur verongelukt, Bestanddeelnr 910-1117.jpg
基本情報
フルネーム ジョン・マイケル・ホーソーン
John Michael Hawthorn
国籍 イギリスの旗 イギリス
出身地 イングランドの旗 イングランド
同・ウエスト・ライディング・オブ・ヨークシャーメクスバラ
生年月日 (1929-04-10) 1929年4月10日
死没地 イングランドの旗 イングランド
同・サリー州ギルフォード
没年月日 (1959-01-22) 1959年1月22日(29歳没)
F1での経歴
活動時期 1952-1958
所属チーム '52 クーパー
'53-'54,'55,'57-'58 フェラーリ
'55-'56 ヴァンウォール
'56 BRM
'56 マセラティ
出走回数 47 (45スタート)
タイトル 1 (1958)
優勝回数 3
表彰台(3位以内)回数 18
通算獲得ポイント 112 914 (127 914)
ポールポジション 4
ファステストラップ 6
初戦 1952年ベルギーGP
初勝利 1953年フランスGP
最終勝利 1958年フランスGP
最終戦 1958年モロッコGP
テンプレートを表示

経歴編集

イギリス人初優勝者編集

 
エンツォ・フェラーリ(中央)と相席するホーソーン(右)(1953年)

1952年第3戦ベルギーグランプリにて、クーパーに乗るプライベーターとしてF1デビュー、予選6位から4位に入賞した。その後、デビュー3戦目となるイギリスグランプリで3位に入り、初表彰台を記録する。本格的なレース経験2年目にして非力なクーパー・ブリストルで見せた好走により、当時の最強チーム、フェラーリへの加入が決まった。

翌1953年はフェラーリワークスチームの一員として参戦し、第5戦フランスグランプリで初優勝した。チャンピオン経験者のファン・マヌエル・ファンジオを相手にマッチレースを繰り広げ、最終ラップの最終コーナーで逆転するという見事な勝利であり、「ランスの名勝負」として知られることになる。当時としては最年少優勝記録(24歳)であり、イギリス人として初の優勝、また、フェラーリのエースドライバー、アルベルト・アスカリの連勝記録[注釈 1]を止める結果にもなった。これをはじめ、3度の表彰台を含めて参戦した8戦全てに入賞し、ランキングで4位となった。

1954年も、参戦した8戦中4度の表彰台を含む5度の入賞。最終戦スペイングランプリでは自身2勝目を挙げ、ランキングでも2位に入った。

根拠のない兵役忌避疑惑編集

1952年工学学校を卒業し、年末までの召集延期を認められていた。モデナでの事故から退院した時、当局より新たに身体検査を通過しない限り召集されない旨言い渡された。フェラーリと契約しイタリアに住んでいた時もしばしばイギリスのレースに参戦するため生家に帰っているし、また空軍への入隊を志願していたこともある。

1954年のアルゼンチングランプリに出場した時、労働省付政務次官が下院に「レーシング・モータリストといえども兵役義務からの免除は認められない」と提言し、ウォルトン派保守党議員ケネス・トンプソンがマイク・ホーソーンの召集状況に関して質問し、議会で糾弾が始まった。

召集令状が届き、身体検査が行われたが、医師は脚を見るなり検査を続ける意味がないと結論を出した。3ヶ月後に出頭するように言われた。腎臓の具合が悪く、この2ヶ月後に手術を受けている[1]

1955年ル・マン24時間レース編集

フェラーリのエースとなったホーソーンだったが、イギリス系チームでの参戦に惹かれ、1955年はヴァンウォールに移籍する。しかし、新興チームのため成績は低迷し、後半戦はフェラーリに一時復帰した。

この年はスターリング・モスがジャガーからメルセデス・ベンツに移籍し、その後を埋める形でホーソーンはジャガーに乗ることになり、スポーツカーレースのル・マン24時間レースジャガー・Dタイプに乗り勝利を収めている。しかしながら、このレースではホーソーンの駆るジャガーを起点として発生した事故でドライバーほか観客に死者86人、重軽傷者100人以上を出す大惨事が起こり、後日ホーソンとジャガーには事故の責任なしと裁定されたものの、この悲劇のレースの当事者として名を刻んでしまい、しかも彼が優勝を飾ったがためにそのレース自体がかなり後味の悪いものとなり、翌日の新聞に「マイク・ホーソーン、あなたの健康を祝して」という皮肉を込めた見出しが躍ることとなった[2]

1956年はBRMとヴァンウォールに乗るが、開幕戦の3位(プライベーターとしてマセラティのマシンを使用)が最高成績だった。

チャンピオン獲得編集

 
1957年ドイツGP表彰式 - 左からコリンズファンジオ、ホーソーン

1957年よりフェラーリに正式復帰。この年は未勝利に終わるが、参戦した6戦中4戦で入賞し復活をアピールした。

1958年は、5度のチャンピオンファン・マヌエル・ファンジオが2戦の出走のみで引退。ホーソーンとスターリング・モスのイギリス人2者の間で、激しいチャンピオン争いが行われることとなった。

この年、全10戦中[注釈 2]4勝を挙げたライバルのモスに対し、ホーソーンは第6戦フランスグランプリでポールトゥーウィンを飾ったのが、唯一の勝利だった。しかし優勝以外ではリタイヤが多かったモスに対し、ホーソーンは勝てないレースでも堅実にポイントを稼いだため、ランキングは拮抗することとなる。ホーソーンは優勝した第6戦フランスグランプリでモスに並ぶと、続く第7戦イギリスグランプリでランキング単独トップに立つ。その後は、1度もランキング首位の座を譲らず、最終的に1ポイント差でチャンピオンを獲得した。

2人の戦績を比較すると、モスは全ドライバー最多の4勝[注釈 3]を記録したが、優勝以外では2位1度、他は全てリタイヤ(計5回)。ホーソーンは1勝だが、2位に5回、3位に1回入り、当時1ポイントが与えられていたファステストラップも、最多の5回を記録している。リタイヤは2回だった。

モスを下しチャンピオンとなったホーソーンだったが、その2ヶ月後このシーズン限りでのF1引退を表明した。これにはファッションモデルのジーン・ハワースと婚約しており以前からホーソーンが「結婚した男はレースに出るべきでない」と言っていたこと、非常に仲の良かったチームメイトの1人ピーター・コリンズが同年のドイツグランプリで事故死したこと、自らも肝臓に病を患っていたことが原因とされている[3]

公道での事故死編集

引退から約3ヶ月後の1959年1月22日、ホーソーンは商取引のためロンドンに向かう途中、サリー州のギルフォードバイパスを走っていて友人のロブ・ウォーカーと偶然出会った。ウォーカーの車を抜いた直後ホーソーンの車は突然スピンし、後ろ向きでトラックに衝突。道からはずれて立木にぶつかり、折れ曲がった車の中でホーソーンは死亡した。事故原因として、オーバースピード、濡れた路面でのスリップ、飲酒運転などが推測されたが、真相は解明されなかった。ロブ・ウォーカーは「居合わせたのは純粋な偶然」「二人でレースをしたんだろうなんてばかばかしい想像」としている[4]

なお、ホーソーンはDタイプのエンジンを積んだ特製のジャガー・Mk1、ウォーカーはメルセデス・ベンツ・300SLに乗っていたが、ジャガーとメルセデス・ベンツは4年前のル・マンの大事故に絡んだメーカー同士だった。皮肉な最期となったが、前述した不治の病もあり、事故がなくても長生きはできなかったであろうと言われている。

エピソード編集

蝶ネクタイを愛用しており、レースの際は緑色のジャケットと白いシャツに蝶ネクタイという目立つ服装でドライビングしていた。このため「ル・パピヨン」(フランス語で蝶の意味)と呼ばれていた。ブロンドの髪には「テスタ・デ・ストッパ」(イタリア語で麻色の髪の意味)というニックネームが付けられた。

ファンジオは1953年のフランスグランプリで戦ったホーソーンについて「私と争ったその青年は金髪のせいで少年のように見えたが、チャンピオン並みの粘り強さを持っていた」と褒めている。ファンジオの引退レースとなった1958年のフランスグランプリでは、優勝者のホーソーンがトラブルでペースの上がらないファンジオを周回遅れにしかけたが、偉大なドライバーに敬意を払い、あえて抜こうとしなかった。

フェラーリのチームメイトであるピーター・コリンズとは公私ともに気が合い、モナミ・メイト(Mon Ami Mate 、フランス語と英語の造語で「恋人のような友人」)と呼ばれた。1958年にコリンズが事故死した後、ホーソーンはコリンズが愛車フェラーリ・250GTに装着していた特注のディスクブレーキを見本にして、チームに初めてディスクブレーキの使用を認めさせた。ふたりの友情については、自動車ジャーナリストのクリス・ニクソンが著書『Mon Ami Mate』[5]にまとめている。

イギリスまたはイギリス連邦出身の最優秀F1ドライバーを称える賞として、1959年より毎年「ホーソン・メモリアル・トロフィー」が選定されている。

レース戦績編集

F1編集

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 WDC ポイント
1952年 レスリー・D・ホーソーン (クーパーブリストル T20 ブリストル BS1 2.0 L6 SUI 500 BEL
4
GBR
3
GER NED
4
ITA
NC
5位 10
AHM・ブライド (クーパーブリストル FRA
Ret
1953年 フェラーリ 500 フェラーリ 500 2.0 L4 ARG
4
500 NED
4
BEL
6
FRA
1
GBR
5
GER
3
SUI
3
ITA
4
4位 19 (27)
1954年 625 フェラーリ 625 2.5 L4 ARG
DSQ
500 BEL
4*
GBR
2
GER
2*
SUI
Ret
ITA
2
3位 24 914
553 フェラーリ 554 2.5 L4 FRA
Ret
ESP
1
1955年 ヴァンダーヴェルヴァンウォール VW1 ヴァンウォール 254 2.5 L4 ARG MON
Ret
500 BEL
Ret
NC 0
フェラーリ 555 フェラーリ 555 2.5 L4 NED
7
ITA
10
625 GBR
6*
1956年 オーウェンマセラティ 250F マセラティ 250F1 2.5 L6 ARG
3
BEL
DNS
12位 4
オーウェンBRM P25 BRM P25 2.5 L4 MON
DNS
500 GBR
Ret
GER ITA
ヴァンダーヴェルヴァンウォール VW2 ヴァンウォール 254 2.5 L4 FRA
10*
1957年 フェラーリ D50 フェラーリ DS50 2.5 V8 ARG
Ret
MON
Ret
500 4位 13
801 FRA
4
GBR
3
GER
2
PES ITA
6
1958年 246 フェラーリ 143 2.4 V6 ARG
3
MON
Ret
NED
5
500 BEL
2
FRA
1
GBR
2
GER
Ret
POR
2
ITA
2
MOR
2
1位 42 (49)

ル・マン24時間レース編集

チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回数 総合
順位
クラス
順位
1953年   スクーデリア・フェラーリ   ジュゼッペ・ファリーナ フェラーリ・340 MM Pininfarina Berlinetta S5.0 12 DSQ DSQ
1955年   ジャガー・カーズ Ltd.   アイバー・ビューブ ジャガー・D-Type 307 1位 1位
1956年   アイバー・ビューブ 280 6位 3位
1957年   スクーデリア・フェラーリ   ルイジ・ムッソ フェラーリ・335 S 56 DNF DNF
1958年   ピーター・コリンズ フェラーリ・250TR 58 S3.0 112 DNF DNF

セブリング12時間レース編集

チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回数 総合
順位
クラス
順位
1955年   B.S.カニンガム   フィル・ウォルターズ ジャガー・D-Type S5.0 182 1位 1位
1956年   ジャガー・オブ・ニューヨーク・ディストリビューターズInc.   デスモンド・ティッターリントン 162 DNF DNF
1957年   ジャガー・カーズ・オブ・ノース・アメリカ   アイバー・ビューブ 193 3位 2位
1958年   スクーデリア・フェラーリ   ヴォルフガング・フォン・トリップス フェラーリ・250 TR 58 S3.0 159 DNF DNF

スパ24時間レース編集

チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回数 総合
順位
クラス
順位
1953年   スクーデリア・フェラーリ   ジュゼッペ・ファリーナ フェラーリ・375 MM Pinin Farina Berlinetta S 260 1位 1位

ミッレミレア編集

チーム コ・ドライバー 車両 クラス 総合
順位
クラス
順位
1953年   フェラーリ・Spa   アゼリオ・カッピ フェラーリ・250 MM Vignale Spyder S+2.0 DNF DNF

ランス12時間レース編集

チーム コ・ドライバー 車両 クラス 総合
順位
クラス
順位
1956年   ジャガー・カーズ   ポール・フレール ジャガー・D-Type S3.5 2位 2位

ペスカーラ12時間レース編集

チーム コ・ドライバー 車両 クラス 総合
順位
クラス
順位
1953年   スクーデリア・フェラーリ   ウンベルト・マグリオーリ フェラーリ・375 MM Pinin Farina Berlinetta S+2.0 1位 1位

注釈編集

  1. ^ 不参加のインディ500を除けば、出場したF1世界選手権で9連勝。
  2. ^ 形式上グランプリとして組み込まれていたインディ500も含めると、厳密には11戦。
  3. ^ クーパーのプライベーター(ロブ・ウォーカー・レーシング・チーム)として1勝、ヴァンウォールに加入して3勝。

出典編集

  1. ^ 『死のレース 1955年 ルマン』pp.115-142。
  2. ^ 『死のレース 1955年 ルマン』pp.159-221。
  3. ^ 『死のレース 1955年 ルマン』pp.223-235。
  4. ^ 『死のレース 1955年 ルマン』pp.223-235。
  5. ^ Transport Bookman Publications,1991 ISBN 0851840477

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集

タイトル
先代:
フロイラン・ゴンザレス
モーリス・トランティニアン
ル・マン24時間優勝者
1955 with:
アイバー・ビューブ
次代:
ロン・フロックハート
ニニアン・サンダーソン
先代:
ファン・マヌエル・ファンジオ
F1ドライバーズチャンピオン
1958年
次代:
ジャック・ブラバム