風と共に去りぬ (映画)

アメリカの映画作品

風と共に去りぬ』(かぜとともにさりぬ、原題: Gone with the Wind)は、1939年英語版に製作されたアメリカ映画テクニカラー、スタンダードサイズ。監督はヴィクター・フレミング。主演はヴィヴィアン・リークラーク・ゲーブルレスリー・ハワードオリヴィア・デ・ハヴィランド。日本での初公開は戦後の1952年。

風と共に去りぬ
Gone with the Wind
Poster - Gone With the Wind 01.jpg
1939年初公開時のポスター
監督 ヴィクター・フレミング
脚本 シドニー・ハワード英語版
原作 マーガレット・ミッチェル
製作 デヴィッド・O・セルズニック
出演者 ヴィヴィアン・リー
クラーク・ゲーブル
音楽 マックス・スタイナー
撮影 アーネスト・ホーラー英語版
レイ・レナハン英語版
編集 ハル・C・カーン
ジェームズ・E・ニューカム
製作会社 セルズニック・インターナショナル英語版
メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
配給 ロウズ
公開 アメリカ合衆国の旗 1939年12月15日
日本の旗 1952年9月4日
上映時間 222分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
製作費 $3,957,000[1][2]
$4,230,000[3]
興行収入 $389,000,000
配給収入 日本の旗 1億3336万円(1952年公開時)[4]
日本の旗 1億9326万円(1961年リバイバル公開時)[5]
日本の旗 3億1771万円(1967年リバイバル公開時)[6]
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概要編集

1936年6月に出版されたマーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』がベストセラーとなり、早くも出版の翌月に映画製作者のデヴィッド・O・セルズニックが映画化権を獲得した。その後3年の歳月と当時の金額でセルズニック・インターナショナルとメトロ・ゴールドウィン・メイヤーが400万ドル前後の製作費をかけて全編で3時間42分という大長編映画を完成させた。

初公開は1939年12月15日に舞台となったアトランタでワールドプレミアが行われた[7][8]、当時としては画期的な長編テクニカラー映画であったことも手伝って、空前の世界的大ヒットとなった映画である。

第12回アカデミー賞にて作品賞監督賞主演女優賞ヴィヴィアン・リー)・助演女優賞ハティ・マクダニエル黒人俳優では初の受賞者)・脚色賞などの8つのオスカーを始めとして、他に特別賞技術成果賞を含む10部門を受賞した(他にセルズニックが個人で受けたアービング・G・タルバーグ賞も含めば11部門)。

スタッフ編集

キャスト編集

役名 俳優 日本語吹替
ソフト版 PDDVD 日本テレビ旧録版 日本テレビ新録版 テレビ東京 JAL機内上映版
スカーレット・オハラ ヴィヴィアン・リー 日野由利加 栗原小巻 戸田恵子 田中美佐子 鈴木弘子
レット・バトラー クラーク・ゲーブル 大塚明夫 内田直哉 近藤洋介 江守徹 渡辺謙 仲村秀生
アシュレー・ウィルクス レスリー・ハワード 原康義 村治学 滝田裕介 荻島真一 井上倫宏 納谷六朗
メラニー・ハミルトン オリヴィア・デ・ハヴィランド 平淑恵 堀江真理子 谷育子 香野百合子 岡本茉利 沢田敏子
ジェラルド・オハラ トーマス・ミッチェル 今西正男 島香裕 神田隆 織本順吉 山野史人 池田勝
エレン・オハラ バーバラ・オニール 谷育子 宇乃音亜季 中西妙子 富田恵子 吉野佳子
マミー ハティ・マクダニエル 青木和代 桂木黎奈 中村たつ 神保共子 麻生美代子
スエレン・オハラ イヴリン・キース 田中敦子 執行佐智子 勝生真沙子 芝夏美
キャリーン・オハラ アン・ラザフォード 佐々木優子 恒松あゆみ 久住真理子 岡本茉利 さとうあい
ピティ・パット叔母 ローラ・ホープ・クルーズ 斉藤昌 村上あかね 中村紀子子 杉田郁子 山本与志恵 秋元千賀子
ミード医師 ハリー・ダベンボート 大木民夫 横森久 久米明 石井敏郎
ミード夫人 レオーナ・ロバーツ
メリウェザー夫人 ジェーン・ダーウェル
チャールズ・ハミルトン ランド・ブルックス 坂東尚樹 野島昭生
フランク・ケネディ キャロル・ナイ 福田信昭 原田清人 中田浩二 小山力也 広瀬正志
ベル・ワトリング オナ・マンスン 高畑淳子 小沢寿美恵 駒塚由衣 横尾まり
ポーク オスカー・ポーク
ピーター爺や エディ・アンダーソン 及川ヒロオ
スチュアート・タールトン ジョージ・リーヴス 古川登志夫
ブレント・タールトン フレッド・グリーン 野島昭生
キャスリーン・カルバート マーセラ・マーティン 来路史圃
インディア・ウィルクス アリシア・レット 幸田直子 山田礼子
プリシー バタフライ・マックイーン 安達忍 山本嘉子 井上瑤 川田妙子 滝沢ロコ
北軍大尉トム ワード・ボンド
ボニー・バトラー カミー・キング 藤枝成子
役不明
その他
竹口安芸子
稲葉まつ子
小島敏彦
菅原正志
沢木郁也
松本保典
宮本充
岩田安生
堀越真己
小山武宏
津田英三
宝亀克寿
田原アルノ
渡辺浩司
間宮康弘
石上裕一
小松史法
園部好徳
高橋圭一
鈴木貴征
田中結子
森口芽衣
さわやまゆか
市川智英
川路夏子
沼波輝枝
大久保正信
新田勝江
国坂伸
前川哲男
藤本譲
阪脩
井口恭子
加藤正之
中庸助
阪脩
北村弘一
辻村真人
堀秀行
稲葉まつ子
池田勝
銀河万丈
斉藤昌
伊井篤史
小島敏彦
塚田正昭
神谷和夫
島香裕
堀越真己
星野充昭
渕崎ゆり子
稲葉まつ子
久保田民絵
沢海陽子
田中敦子
石塚理恵
松谷彼哉
竹村叔子
楠見尚己
金子由之
水野龍司
小島敏彦
小山武宏
松本保典
佐藤淳
後藤敦
星野充昭
伊藤昌一
佐々木敏
廣田行生
岩崎ひろし
永迫舞
小暮英麻
田口昴
大山高男
谷口節
矢野陽子
幹本雄之
平林尚三
関俊彦
ナレーター - 有本欽隆 鈴木瑞穂 横内正 若山弦蔵 麻生美代子
日本語版制作スタッフ
演出 佐藤敏夫 羽田野千賀子 小林守夫 佐藤敏夫 左近允洋
翻訳 木原たけし 原仁美 木原たけし 額田やえ子
調整 熊倉亨 山田明寛 前田仁信 小野敦志 高久孝雄
録音 鈴木喜好嗣 坂井真一
効果 芦田公雄
熊耳勉
リレーション
編集 オムニバス・ジャパン
選曲 重秀彦 東上別符精
プロデューサー 小川政弘
貴島久祐子
(ワーナー・ホーム・ビデオ)
椿淳 深澤幹彦
渡邉一仁
制作 ワーナー・ホーム・ビデオ
東北新社
ミックエンターテイメント 東北新社 テレビ東京
東北新社
電通
グロービジョン

※付属の資料にはソフト版のキャストが表記されている。

  • テレビ東京版:初回放送 2000年1月3日『20世紀名作シネマ』
  • JAL機内上映版:1986年上映。アトランタへの直行便が開通した記念に制作された。
   
ヴィヴィアン・リー クラーク・ゲーブル
   
オリヴィア・デ・ハヴィランド レスリー・ハワード

製作編集

映画化権編集

セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズのニューヨークオフィスの代表でストーリー係のケイ・ブラウンは、1936年5月5日に『風と共に去りぬ』を出版したマクミラン社からマーガレット・ミッチェルの長編を受け取り一読[8]。『風と共に去りぬ』の映画としての可能性を見抜いて、デイヴィッド・O・セルズニックに『風と共に去りぬ』の映画化権を買わせるべく、梗概を作って5月20日にはセルズニックに送った[8]。その間にも本は旋風を巻き起こし、ぐんぐん売り上げを伸ばしていた[8]。セルズニックはその時『沙漠の花園』の撮影中で、ブラウンの興奮には同調しなかった[8]

ケイ・ブラウンはそこでメモ・電報・伝言・電話で執拗な説得工作を開始[8]。セルズニックの秘書に「あの本には本気ですし、今や1分1秒を争うのです。既に一社から2万5000ドルの入札額が提示されました。」「文句なしの大作。主要人物は4人で、スカーレットはミリアム・ホプキンスベティ・デイヴィスにぴったり。メラニーはジャネット・ゲイナー、レットはクラーク・ゲーブルが最適では。」と電報を打っている[8]

ケイ・ブラウンはさらにセルズニックの友人で『風と共に去りぬ』を気に入っていたジョン・ヘイ・ホイットニーにも助けを求めた[8]。ホイットニーは、「もしそっちが買う気がないなら、自分が映画化権を買ってパイオニア・ピクチャーズで製作する。」とセルズニックに申し渡した[8]

出し抜かれるのが嫌いなセルズニックは秘書を通してケイ・ブラウンに5万ドルの入札額を出す権限を与え、契約が成立した[8]

セルズニックが休暇から帰ってくると、14歳以上のほとんど全てのハリウッド女優が応募してきており、写真や電報、手紙や伝言でオフィスは埋め尽くされていた[8]。さらにミッチェルの原作に徹頭徹尾忠実で、何一つはしょったりしないように嘆願する手紙が山のように届いていた[8]

セルズニックとホイットニーは『風と共に去りぬ』を叙事詩でテクニカラー向きの素材だと見ていた[8]。まず1037ページの原作から脚本を作り出すために、2万5000ドルでシドニー・ハワードを雇った[8]。また製作日程も決まっていなかったが、ジョージ・キューカーを説得して監督を引き受けさせた[8]

スカーレット・フィーバー編集

またセルズニック・インターナショナルの広報部長は大々的な広告キャンペーンを開始した[8]。はじめのうちスカーレット役の本命と思われたのはベティ・デイヴィス[8][9][10]キャサリン・ヘプバーン[8][9][10]ミリアム・ホプキンス[8][9][10]タルラー・バンクヘッド[8][9][10]ノーマ・シアラー[8][9][10]ジョーン・クロフォード[9][10]バーバラ・スタンウィック[9][10]マーガレット・サラヴァン[9][10]などであったが、セルズニックは映画を担う才能と経験があって比較的無名の女優を求めており、スターの映画にはしたくなかった[8]。そのため広報部長は怒涛の勢いでスカーレット探しを開始、全国でラジオや新聞で告知が始まった[8]

この空前絶後のスカーレット探しは当時「スカーレット・フィーバー」と呼ばれた[11][12]。いくつもの新聞がスカーレットやレットの候補リストを作成し、レット・バトラー役にはロナルド・コールマンベイジル・ラスボーンエロール・フリンゲイリー・クーパー、そしてクラーク・ゲーブルの名が挙がっていた[8]エレノア・ルーズべルトは個人的に電話をかけてきて、マミー役に自分のメイドを推薦している[8]

セルズニックはケイ・ブラウンに女優探しを指揮するように言いつけて高等学校の演劇部まで捜索させた[8]。1936年の12月には南部の各都市を回り、アトランタで「スカーレット役希望者は明朝9時にホテルのロビーに集合」と新聞広告を打つと、翌朝彼女はフロント係から500人以上もの人々が集まっていると連絡を受けた[8][9][10]。この際、マーガレット・ミッチェルが女子青年連盟のメンバー15人と助けにきている[8]。しかしオーディションをしてもいいと思われるのはわずか5、6人だけであった[8]。監督のジョージ・キューカーも1937年3月に俳優だけではなくロケ地の下見も兼ねて南部へ行っているが、結局南部で見つけられたのはアリシア・レットら端役の女優だけであった[8]

ハリウッドでもセルズニックとホイットニーが無名の新人を発見する作業をしており、秘書たちが膨大な仕事に巻き込まれたが、結局徒労に終わった[8]

他にもスーザン・ヘイワードラナ・ターナーアニタ・ルイーズらがスクリーンテストを受けている[9][10]

約2年間にわたるスカーレット探索は、応募者1400人、スクリーン・テストは90人、費用は9万2000ドルになった[8]。この段階で制作費は200万ドルを超えることが予想された[8]

カメラテストではポーレット・ゴダードが最短距離にいて、セルズニック以下スタッフもほとんどゴダードでGOしそうになっていた[13]

ヴィヴィアン・リー編集

ヴィヴィアン・リーは英国で出版されたばかりの『風と共に去りぬ』を読んで心を奪われた[7]。リーが出演する37年初頭の舞台の初日に、リーは出演者の1人1人に『風と共に去りぬ』を配っており、自分のエージェントにはセルズニックの映画のスカーレットには自分が最も適任であると告げていた[7]。エージェントは映画化権を持っているのはセルズニックだし、ヴィヴィアン・リーはアレクサンダー・コルダと契約しているのだからどんなに関心を持っても無駄だと説得した[7]。しかしヴィヴィアン・リーはスカーレットに取り憑かれており、エージェントにも「スカーレットは私でなければならないのよ。セルズニックさんにそう言ってくださいな。」としつこく話をした[7]。リーが今までにない真剣な熱意に燃えていることを感じたエージェントはリーの写真と切り抜きをセルズニックの事務所に送り、『無敵艦隊』が完成したらフィルムを送ると約束した[7]。セルズニックの事務所のだれかがケイ・ブラウンに話し、ケイ・ブラウンはヴィヴィアン・リーのことでセルズニックに電報を打っている[7]。セルズニックは折り返し電報で「ヴィヴィアン・リーに興味なし。あるいは興味を持つかもしれないが、まだ写真を見ていない。まもなく『無敵艦隊』が公開されるので、その時にリーをみる。」と返答した[7]

1938年11月5日、当時恋人であったローレンス・オリヴィエが『嵐が丘』への出演のため船でアメリカへ向かった[7]。オリヴィエのアメリカ側のエージェントはセルズニックの兄のマイロン・セルズニックであった。リーとオリヴィエの間で手紙のやり取りが毎日なされていたが、12月にはリーはオリヴィエを追ってアメリカ行きの船に乗った[14][7][9][15]

製作準備編集

シドニー・ハワードは初稿で上映時間6時間の脚本を書いた[8]。1938年を費やしてシドニー・ハワードとセルズニックは妥当な長さの脚本にしようとしていたが、第5稿の段階でも5時間が必要であった[8]。また、脚本の第1稿はヘイズ・コードによって厳しく検閲を受けた[8]。「強姦を連想させるようなもの」「レットを不倫をするような男として描くこと」「ベルを売春婦と連想させること」「死者や負傷者が真に迫り恐ろしいこと」「レットがスカーレットを強姦するように思わせること」などが禁止され、脚本の修正欲求をされた[8]。その後もハワードは脚本の刈り込みを続けたが、1938年10月には気息奄々となって諦めている[8]。途中、改稿のためにスコット・フィッツジェラルドなどが雇われたが[9][10]、最終的にセルズニック自身が脚本を書くことになった[8]

また、セルズニックは1938年6月には全国黒人地位向上協会と交渉し、「映画にはKKK団への言及も、黒人による暴力のシーンも含まれず、黒人の感情を刺激することを避けること。名誉毀損となる表現はいっさいしないこと、小説の中で黒人たちに明らかに不快感を催させるようなものは、物語の主要な要素からは削ること。」と合意した[8]

ワーナーはセルズニックに、主演をベティ・デイヴィスエロール・フリンで、そしてMGMよりも高額の出資を提案したが、1938年8月セルズニックは義理の父でもあるルイス・B・メイヤーのMGMと手を組み、レット役にクラーク・ゲーブル、さらに125万ドルの出資をしてもらい、代わりに世界配給権と7年間の利益の半分を渡すこととなった[9][10]。ゲーブルが決まったことで撮影は1939年1月から動かせなくなり、さらにセルズニック・インターナショナルは当時ユナイテッド・アーティスツと契約しており、同社との契約期間は1939年の12月までだったので、そのあとに公開される準備が整った[8][9][10]

アトランタ操車場の弾薬庫の炎上シーン編集

スカーレット役はまだ決まっていなかったが、アトランタ操車場の弾薬庫の炎上シーンが撮影されることになった[8]。セルズニック・スタジオ(元のRKOスタジオ)にあった『キング・コング』などで使用された古いセットを燃やして、その後に『風と共に去りぬ』のセットを作ることになっていた[8][9][10]。使えるテクニカラーカメラは7台、火を自由に調節できる装置を考案し、レットとスカーレットのスタントを用意し、1938年12月10日の土曜の夜に開始された[8]

その日の朝、セルズニックの兄マイロン・セルズニックはヴィヴィアン・リーに初めて会っており「これは驚いた!あなたはスカーレットだ!」と言った[8]。その夜マイロンはヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエを炎上シーンに連れて行き、撮影後にセルズニックにヴィヴィアン・リーを引き合わせた[8]。その時のことをセルズニックはこう語っている「ヴィヴィアン・リーを紹介された時、炎が彼女の顔を照らした。私は一目見て彼女がピッタリであることを知った。少なくとも彼女は私が考えていたスカーレット・オハラそのままであった。私はあの時の第一印象を永久に忘れることができないだろう。」[8]

スカーレットの決定編集

ヴィヴィアン・リーのスクリーンテストが翌週から直ちにジョージ・キューカー監督によって行われることとなった[8]。最終審査はポーレット・ゴダードジーン・アーサージョーン・ベネット、そしてヴィヴィアン・リーに絞られていた[8][9][10]。リーはオリヴィエを相手にリハーサルを重ね、テストは12月21日に決まった[8]。「ヴィヴィアン・リーを見た人はみんな彼女の内に燃える何かを感じました。あの溌剌とした感じは他の女優にはなかったものでした。」とセルズニックの秘書は語っている[9][10]。リーはクリスマスに採用を告げられた[9][10]

アシュレー役にはジェフリー・リン、メルヴィン・ダグラスもスクリーン・テストを受けていたが、「ジェフリーは全然ダメ、ダグラスは流石に上手いのだがアシュレー役には身体がゴツすぎる。」とセルズニックは言っている[9][10]レスリー・ハワードはアシュレーを演じるのを渋っていたが、ハワードとイングリッド・バーグマンが主演する『別離』で、ハワードがやりたがっていたプロデューサーをさせるということで釣ったという[9][10]

メラニー役にもいろんな女優がスクリーン・テストを受けていたが、セルズニックはジョーン・フォンテインをメラニー役で起用して本格デビューさせようとした[13]。しかしフォンテインはスカーレット役を狙っていたので、姉のオリヴィア・デ・ハヴィランドを推薦したという[13][16]。オリヴィア・デ・ハヴィランドはワーナーと専属契約をしていたので総帥のジャック・ワーナーから許可がおりなかったが、どうしても演じたかったハヴィランドはジャック・ワーナー夫人に頼み込んで許可を取った[9][10]

主要キャストは1939年1月13日に発表された[8][9][10]

ジョージ・キューカー監督編集

撮影は1939年1月26日にオープニングのシーンから開始された[8]。しかしセルズニックは次の日に撮影する部分の脚本を前日に書くという不安なシステムを作っており、監督のジョージ・キューカーはシドニー・ハワードの脚本へ立ち返るように求めていた[8]。また迅速なテンポで撮影しなければいけないのに、ジョージ・キューカーはそれぞれの心情と人物関係を浮かび上がらせていく演出法をとっていた[8]クラーク・ゲーブルも、女優の演じる役を最大限に引き立てると定評のあるキューカーの演出法に落ち着かないものを感じていた[8]。キューカーがセルズニックの脚本に従うことも、もっとペースを上げてテーマに重きを置くようにという要請も蹴ったことで、セルズニックは2月13日にキューカーを監督から外した[8]。ヴィヴィアン・リーとオリヴィア・デ・ハヴィランドはキューカーを代えないでほしいと懇願したが無駄であった[8][7]。監督はゲーブルと大親友のヴィクター・フレミングに替わった[8]。ヴィヴィアン・リーはフレミング監督が好きではなく、こっそりキューカーの自宅を訪れて彼と二人でシーンを検討した[8][7]。リーはこれを撮影が終わるまで続けていたが、ハヴィランドもリーに知られないで同じことをしていた[8][7]。結局、完成された映画には大いにキューカーの影響があった[7]

ヴィクター・フレミング監督編集

フレミング監督は2月18日からセルズニックと打ち合わせを始めたが、キューカーと同じようにこの脚本では撮影出来ないと言った[8]。そのためセルズニックはベン・ヘクトを招聘[8]。3人はシドニー・ハワードの脚本を掘り返し、ようやく使えるものを組み立てることができた[8]。しかし夜も昼も働いていたため、ベン・ヘクトは2週間で逃げ出してしまい、その後は電話をしても一切出なかったという[9][10]

3月2日、再びオープニング・シーンから撮影再開[8]。フレミングはテンポを速めることで役柄にエネルギーを吹き込み、明晰さと壮大さに力点を置いていた[8]。ただし、セルズニックは相変わらず脚本を毎日改稿していたため、フレミングがさらにテンポを上げようとしても、脚本が無いために足止めされていた[8]

撮影は1日12時間から18時間にまで延びており、クルーは24時間で待機していた[8]。さらに撮影は3班体制になっていた[8]ヴィヴィアン・リーは撮影日数の95%に出演しており、仕事が全くない日はほとんどなかった[7][9]。タラでもう二度と飢えはしないと誓うシーンでは休憩なしで22時間ぶっ続けに働いた[7]。その後4時間眠り、翌日は戦争前のアトランタのシーンを撮っていた[7]。リーは毎日16時間も働いていたが[7]、皆が帰り支度を始めると「もう少しお願い」と言って、さらに撮影をしていた[9]。リーは1日でも早く撮影を終わらせて、ローレンス・オリヴィエのもとに行きたがっていたのだった[7][9]。セルズニックは脚本を書く合間にハル・カーンと共にその日撮影したフィルムを編集し、端役のキャスティングの決定をし、特殊効果をチェックしていた[8]。セルズニックの1日の勤務時間は18時間から20時間にまで達していた[8]

フレミング監督とヴィヴィアン・リーは彼女の役柄で常に争っていた[7][8]。リーが涙を流し、フレミングが怒りに燃えて1日が終わることがしばしばあった[7]。フレミングはスカーレットをキツイ性格で、意地の悪い女に描き出そうとしており、リーはもっと心根の優しい女として描き出そうとしていた[8]。リーは原作をいつもセットに持って来ており、スカーレットの性格が変えられていると言って抗議した[7]。フレミングは人物の性格よりもスペクタクルに重点をおいていた[7]。スカーレットが階段から落ちた後レットが泣くシーンでゲーブルが泣くことを拒み、リーが演出に文句をつけたことでさらにこじらせ、何週間も肉体と精神両面の疲れと戦ってきたフレミングはとうとう耐えられなくなり、セットから出て行ってしまった[8]

サム・ウッド監督編集

かねてからフレミングが休みを必要とするだろうと考えていたセルズニックはMGMサム・ウッドを待機させていた[8]。ウッドは4月29日から仕事にかかり、第1班を監督した[8]。ウッドにとって初めてのテクニカラー作品であったにもかかわらず、彼は撮影ペースを維持した[8]。フレミングが戻ってきたのは5月17日[8]。サム・ウッドはそのまま残り、第2班を監督することになった[8]。撮影現場は今や6班体制になっていた[9][10]。そしてついに主要部分の撮影は6月27日に125日間で終了した[8]。今なら200日かかっても撮れないだろうと言われている[9][10]。ただし、打ち上げパーティーの後すぐに撮り直しが開始されている[9][10]

ポストプロダクション編集

セルズニックとハル・カーンは1日23時間も編集を行い、時にはぶっ続けで50時間も働いていた[9][10]。9月9日にはようやく試写に出せる程度のものが完成した[8]。上映時間はまだ4時間半、タイトルは絵であったし、音楽はまだ出来上がっておらず1937年の『ゼンダ城の虜』の音楽が使われていた[8]。デイヴィッドとアイリーンのセルズニック夫妻、編集のハル・カーンジェームズ・E・ニューカムジョン・ヘイ・ホイットニーの5名で、フィルムを納めた缶を持ってリバーサイド市のフォックス劇場へ行った[8][9][10][17]。そこで舞い上がっている劇場支配人に上映予定を切り替えさせ、観客にこれから覆面試写会が開かれることを知らせた[8]。出入り口は封鎖され、誰も途中で席を立てないし、途中から入ってくることも出来ない、と[8]。映画が始まり、マーガレット・ミッチェルの名前が出ると大拍手、タイトルが出ると割れんばかりの大歓声が起こった[8][9]。セルズニック夫妻もハル・カーンも感激で泣いたという[9][10]。上映後、回収したアンケートでは絶賛の嵐であった[9][10]

その後も少しずつフィルムを削る作業や撮り直しや追加撮影が行われ、10月13日にはオープニングシーンの最後の撮り直しもあった[8]

音楽は南部音楽に精通したマックス・スタイナーに8月14日に依頼されたが、さらに補助としてフランツ・ワックスマンとハーバート・ストサートが雇われた[9][10]

1939年10月18日にはサンタバーバラのアーリントン劇場でもう一度覆面試写会[8]。再び嵐が巻き起こった[8]。このあとさらに10日間の追加撮影を行い、11月11日に最終の追加撮影が終了[8]。10月半ばにはセルズニックはアメリカ映画協会に「damn」というレットの最後の言葉を許可してもらえるように手紙を書いている[8]。業界の重鎮たちが味方についたおかげで、このセリフは5000ドルの罰金で許可されている[8][9][10]

1939年12月11日の完成まで[9]、撮影したフィルムは50万フィート、そのうち上映時間にして29時間になる16万フィートがプリントされた[8]。最終2万フィート、222分の長さまで切り詰められた[8]

アトランタ・プレミア編集

1939年12月15日金曜日、南部のアトランタでワールド・プレミアが開かれた[8]。ロウズ・グランド劇場の正面にトウェルヴ・オークス屋敷を模したファサードを建てたり、全ての商店のウィンドウにポスターを貼らせたりした[8]。知事はプレミアの日は州の休日[8]、アトランタ市では13日〜15日の3日間を休日にした[7][9][10]。グランド劇場の座席数は2051、入場料が50セントの時代に通常の20倍の10ドルという高額料金であったが、6万人から応募があり、抽選になった[18]

13日にヴィヴィアン・リーローレンス・オリヴィエオリヴィア・デ・ハヴィランドイヴリン・キース、アン・ラザフォード、アリシア・レット、ローラ・ホープ・クルーズ、オナ・マンスン、デヴィッド・O・セルズニック夫妻、ケイ・ブラウン、14日にクラーク・ゲーブルキャロル・ロンバードらキャストやスタッフが到着[8]。スターや名士を乗せた30台の車からなるパレードが、空港からアトランタ市街まで行進した[8]。どの道路にも人が鈴なりであった[8]。また、市営の大講堂では当時の衣装を纏った人々によって、モンスター・バザーが再現された[8]

15日プレミア当日、スターと共に劇場に入った観客たちは涙ながらに拍手喝采をおくった[8]。映画から衝撃を受けるがままに「反乱軍の雄叫び」をあげ、ヤジを飛ばし、悲鳴を上げ、歓声を送り、足を踏み鳴らした[8]

上映後、マーガレット・ミッチェルがゲーブルにエスコートされて舞台に立ち[18]、「この映画は私に素晴らしい感動を与えてくれました」「色々言われながら理想の配役が得られるまで、黙り通したセルズニック氏の決意は賞賛に値します。そして配役は完璧だったと思います。」と述べている[9][10]。グランド劇場では改装まで3年間続映した[18]

その後のニューヨークロサンゼルスのプレミアでも同様の栄光が待っていた[8]

アカデミー賞編集

1940年2月12日、アカデミー賞ノミネートの発表が行われたが、この年は優秀な映画が多く、これまでで最良の年だと喧伝されていた[8]。ところがデヴィッド・O・セルズニックが最後の最後で『風と共に去りぬ』を滑り込ませたことで、マスコミ各社や映画業界人が憤激の声をあげていた[8]。『風と共に去りぬ』はアカデミー賞のオスカーで、12の部門で13人が候補に上るという記録を打ち立てた[8]。助演女優賞候補にはオリヴィア・デ・ハヴィランドハティ・マクダニエルの2人が候補になっている[8]

1940年2月29日、アカデミー賞受賞晩餐会の後、午後11時から第12回アカデミー賞受賞式が行われた[8]。発表はまだであったが、恒例によって新聞各社には授賞式後すぐに公表できるよう受賞者のリストが配布されていた[8]。ところがこの年の白熱状態に我慢できず、ロサンゼルス・タイムズ紙がこの日の午後の版に「デヴィッド・O・セルズニックがアカデミー賞を制覇!」と大見出しとともに発表してしまった[8]。そのためアカデミー賞の封をした封筒を使う有名なシステムが採用されるようになった[8]

クラーク・ゲーブルは自分が最優秀主演男優賞を獲得できないことを承知でキャロル・ロンバートと一緒にやってきた[8]。主演女優賞は激戦であったが、ヴィヴィアン・リーが獲得[8]。スピーチでは「お世話になった人の名を全部挙げれば、あの映画ほどの長さにもなりかねません」と言ってデヴィッド・O・セルズニックに絞って感謝した[9][8]。そしてこの日最大の喝采は最優秀助演女優賞を獲ったハティ・マクダニエルに捧げられた[8][19]。黒人俳優では初のアカデミー賞受賞であり、この先24年間は後を継ぐ者は出なかった[8]作品賞でのライバルは『駅馬車』『ニノチカ』『オズの魔法使』『スミス都へ行く』『チップス先生さようなら』『邂逅』『廿日鼠と人間』『愛の勝利』『嵐が丘』という映画の古典の殿堂であったが『風と共に去りぬ』が受賞した[8]。セルズニックは作品賞以外にもアービング・G・タルバーグ賞も受賞している[8]

『風と共に去りぬ』はオスカー8部門同時受賞と、特別賞とアービング・G・タルバーグ賞も合わせれば10部門(さらに技術成果賞を入れて11部門)という記録破りを成し遂げ、司会のボブ・ホープは「まるでセルズニックの為の慈善興行みたいだね」とジョークを飛ばした[8][9]

その後編集

セルズニックが作ったその後の作品は、全て『風と共に去りぬ』と比較され、それより劣ると評された[9][10]。そしてわずか5年後の1944年に、セルズニックは本作の一切の権利をMGMに売却した[9][10]。現在は他のMGM作品(1986年以前)と同様タイム・ワーナーに版権がある。

インフレを調整した歴代の興行収入では、2020年現在でも『風と共に去りぬ』が1位である[20]

アメリカ合衆国での公開編集

  • 1939年12月15日、ジョージア州アトランタでワールド・プレミア[21]。その後ニューヨークロサンゼルスでもプレミアを行う[21]。アメリカでは半年で約2500万人がこの映画を見た[21]
  • 1942年リバイバル[21]
  • 1947年リバイバル[21]
  • 1954年、それまでのスタンダードサイズをメトロスコープに上下をトリミングしてワイドスクリーンでリバイバル[21]
  • 1961年南北戦争100年祭を記念して磁気4チャンネル、ワイドスクリーン版を製作、全米200のスクリーンでリバイバル[21][22]。今までで最高の成績をあげる[22]アトランタでワールド・プレミア[21]。ヴィヴィアン・リー、オリヴィア・デ・ハヴィランド、デヴィッド・O・セルズニックが参加[9][10]
  • 1967年MGMが1年がかりで70ミリ版を作成[21][23]。10月に70ミリ版リバイバル。ロサンゼルスでプレミア[11]
  • 1971年70ミリ版リバイバル[21]
  • 1976年NBCが500万ドルでテレビ放映権を獲得[13]。11月7日放映、視聴率47.6%[18]
  • 1978年CBSが3500万ドルで20年間のテレビ放映権を獲得[13]
  • 1989年製作50周年リバイバル[24]。2年をかけてカラー/サウンド復元版を製作[13]
  • 1998年製作60周年214スクリーンで大々的リバイバル[24]

日本での公開編集

 
日本で『風と共に去りぬ』のチケットを買おうとしている人たち(1952年)

日本でのテレビ放映編集

70mm版編集

『風と共に去りぬ』は本来35mmスタンダードサイズであるが、アメリカでは1954年から、日本では1955年の最初のリバイバルからワイドスクリーン版での上映が行われてきた[21]

中でも1967年に日比谷スカラ座で世界初公開された70mmプリント版は、「2倍の大きさ、2倍のスペクタクル、2倍の興奮」と銘打たれて世界を回ったが[11]、これは単純に上下を切ったものではなく、当時の最先端の技術が使われている。

オリジナル・ネガを単純に70ミリの横幅に合わせて拡大したら天地が1/3以上切れてしまうため、MGM技術研究所はシネマスコープの映画を当時の1.33:1のテレビ用比率のプリントに変えた技術を応用している[11]

ワイドスクリーンの映画をテレビ用に直すには両端を切れば良いわけで、そのためにワイドのフレームの端から端へレンズが動き、画面の重要な動きを捉える視査装置や走査焼付機が開発されていた[11]。このレンズの動きが電子的に記録され、インター・ポジをセットすると焼付機のレンズもその記録に従って正確に同じ動作をする[11]

このレンズの動きを水平から垂直に変えることで2.2:1の70mmの画面を作ることに成功している[11]。これは1コマ1コマフィルムの画像を追求する大変な仕事で、重要なあらゆる部分や動きを、レンズがインターポジを上下に走査し、128万回もシャッターを切ってオリジナル・プリントと正確に同じ3時間42分の70mmプリントを生み出している[11]

音響の面でも、オリジナルの1本のトラックの音を、6本トラックの立体音響に移すため、声、音楽、エフェクトの別々のテープに分解し、これに修正や補強を加えて6本トラックにすることに成功している[11]

これらは1965年の後半から始められ、テスト・リールが作られてからさらに1年の歳月をかけて70mmのマスター・プリントとステレオサウンドが完成されている[11]

エピソード編集

  • この作品を生涯のベスト1に挙げる人も多く[14]、ビデオ時代が到来するまでは「世界のどこかの町で上映されていない日はない」とまで言われていた[14]。元々はデヴィッド・O・セルズニックが「地球の自転とともに『風と共に去りぬ』はつねに地球上のどこかで休みなく永遠に上映され続けるだろう」と豪語したところからきている[21]
  • 原作には人種差別問題や奴隷制の描写について問題になると思われる部分が多々あったため、映画化に際してそのような箇所は大きく省かれ、登場人物についても何人かの黒人奴隷が省略されている。デヴィッド・O・セルズニックは、「ぼくはどんな反黒人映画も作りたくない。われわれの映画では、黒人の扱いに極力、注意しなければならないんだ」と語ったという[41]
  • アメリカで有名なセリフは、ラストシーン前でレットが去り際に吐く捨てゼリフである。スカーレットに「あなたが行ってしまったら、私はどこで何をすればいいの?」と聞かれたレットは、「Frankly, my dear, I don't give a damn.(率直に言おう。知ったこっちゃない)」と振り向きざまに言う[42]。英語の「damn」は本来、強い罵倒語であることから製作当時は映画において禁止用語として使うべきではない言葉と考えられていた。セルズニックはアメリカ映画協会に5000ドルの罰金を払って使用を認められた[8][9][10]2005年、逆にアメリカ映画協会はこれを「アメリカ映画の名セリフベスト100」の第1位に選んでいる。
  • ヨーロッパでは1940年に封切られた[11]。ロンドンのリッツ・シネマでは4年と29週のロングラン[18][11]。ドイツに占領された国では反戦映画として上映を禁止されたが、戦後1945年や46年にパリ、アムステルダム、ウィーンなどで公開されたときはボロボロの服を着た群衆が何時間も前から並んでいたという[11]
  • 『風と共に去りぬ』は実は太平洋戦争前に輸入されたが、軍部から「反戦映画」との烙印を押されてそのときは日の目を見ず、送還されてしまった[11]。その後日本軍による被占領地となった上海などで見た人、密かに輸入されたプリントを見た映画関係者などは、あまりの豪華さ、素晴らしさに「こんな映画を作る国と戦争しても勝てない」と衝撃を受けたという[18]。後に『風と共に去りぬ』を帝劇で上演することになり、66年にミュージカル化する劇作家の菊田一夫は上海で見ている[11]。映画評論家でもあり、映画ポスターも描いた野口久光も上海で見て、「『風と共に去りぬ』のような作品を作ったアメリカと戦争をするなんて正気の沙汰ではない」と思った[11]。同じく映画評論家の山本恭子も上海であまりの面白さに3回も見ており、当時「『風と共に去りぬ』を見なければ、人ではない」と言えるほど大きな話題となっており、上海でも3ヶ月のロングランであったという[11]小津安二郎徳川夢声もシンガポールでこの映画を観ている[要出典]。その評判が噂を呼んで、東京にフィルムを空輸して軍関係者のみの試写会が行われた[43]東京大学でも上映会があり、学生時代の江崎玲於奈が観たという[44]
  • 2020年5月に発生したミネアポリス反人種差別デモが拡大した際には、同月から開始したばかりのワーナーメディア定額制動画配信サービスHBO Max」が本作品の配信を一時停止する出来事もあった[45][46][47]。HBO Maxは解説動画[50]を本編の開始前に追加した上で、本映画の配信を同年6月24日に再開した[48][51]

「シナラ」編集

映画の冒頭のメインタイトルでスタッフ・キャスト等のテロップの後に、ディキシーの調べと共にアーネスト・ダウスンの恋愛詩「シナラ」の詩の一句が出てくる。これは原作の題名の由来にもなっている[13]

There was a land of Cavaliers and Cotton Fields called the Old South.
Here in this pretty world, Gallantry took its last bow.
Here was the last ever to be seen of Knights and their Ladies Fair, of Master and of Slave.
Look for it only in books, for it is no more than a dream remembered, a Civilization gone with the wind...
(かつて在りし騎士道と綿畑の地
人はその地を古き良き南部と呼んだ
その麗しい世界で最後に花を咲かせた勇気ある騎士達と艶やかな淑女達、奴隷を従えた主人達
今は歴史に記されるだけの儚い思い出となった大いなる文化は、風と共に去りぬ……)

この文章は、一つの文化が戦争という烈風と共に消え去ったことを意味している[11]

賞歴編集

第12回アカデミー賞

  • 受賞
作品賞:風と共に去りぬ
監督賞ヴィクター・フレミング
主演女優賞ヴィヴィアン・リー
助演女優賞ハティ・マクダニエル
脚色賞シドニー・ハワード英語版
撮影賞(カラー):アーネスト・ホーラー英語版レイ・レナハン英語版
室内装置賞(美術賞):ライル・ウィーラー
編集賞ハル・C・カーンジェームズ・E・ニューカム
特別賞ウィリアム・キャメロン・メンジース英語版(劇的な色彩の使用に対して)
技術成果賞:R・D・マスグレイヴ(風と共に去りぬの制作における調整された機器の使用の先駆者のために)
  • ノミネート
主演男優賞クラーク・ゲイブル
助演女優賞オリヴィア・デ・ハヴィランド
作曲賞マックス・スタイナー
特殊効果賞(視覚効果賞):ジャック・コスグローヴ英語版フレッド・アルビン英語版アーサー・ジョンズ英語版
音響賞トーマス・T・モールトン

第5回ニューヨーク映画批評家協会賞

  • 受賞
女優賞:ヴィヴィアン・リー
  • ノミネート
作品賞
監督賞:ヴィクター・フレミング

ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞

  • 受賞
トップ10フィルム
演技賞:ヴィヴィアン・リー

Faro Island Film Festival

  • 受賞
観客賞作品賞:ヴィクター・フレミング
Grand Jury Prize:ヴィクター・フレミング
  • ノミネート
作品賞:ヴィクター・フレミング
観客賞男優賞:クラーク・ゲイブル
観客賞女優賞:ヴィヴィアン・リー

フォトプレイ賞

  • 受賞
名誉賞:デイヴィッド・O・セルズニック

アメリカ国立フィルム登録簿

  • 登録(1989年)

ピープルズ・チョイス・アワード

  • 受賞(1989年)
Favorite All-Time Motion Picture

Online Film & Television Association

  • 殿堂入り(1997年)

DVD Exclusive Awards

  • ノミネート(2005年)
総合ベストDVD、クラシック部門:ワーナー

サテライト賞

  • 受賞(2009年)
最優秀総合DVD:70周年記念バージョン
  • ノミネート(2009年)
最優秀クラシックDVD:70周年記念バージョン

アメリカ映画ベスト100:第4位

アメリカ映画ベスト100(10周年エディション):第6位

アメリカ映画の名セリフベスト100

第1位(レットの「Frankly, my dear, I don't give a damn.」に対して)
第31位(スカーレットの「After all, tomorrow is another day!」に対して)
第59位(スカーレットの「As God is my witness, I'll never be hungry again.」に対して)

版権とDVD編集

本作は米国に於いては著作権が切れる前に95年に延長されており、1939年制作なので保護期間は2034年まで有効である。

ワーナー・ホーム・ビデオから発売されたVHS版は日本でのリリースが米国に先行する形となり日本語字幕版を逆輸入するケースが相次いだため、本国でのリリースが前倒しになった[要出典]。またこの件の影響もあり、DVDは北米と日本でリージョンをわけられることになった[要出典]

日本においては著作権の保護期間が完全に終了したことから(公開後50年と戦時加算を2004年の著作権法改正以前に満たす)、複数の会社から激安DVDが発売されている。

脚注編集

  1. ^ 『スクリーン 風と共に去りぬ特集号』(近代映画社、1969年5月増刊号)p115
  2. ^ レーザーディスク『風と共に去りぬ プレミアムBOX』(ワーナー・ホーム・ビデオ、1994年、解説:日野康一)
  3. ^ 『風と共に去りぬ 写真集』(新潮社、1992年10月25日初版発行)p247
  4. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)97頁
  5. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)181頁
  6. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)241頁
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x アン・エドワーズ (1985年5月25日初版発行). 『ヴィヴィアン・リー』. 文藝春秋 
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy cz da db dc dd de df dg dh di dj dk dl dm dn do dp ジュディ・キャメロン、ポール・J・クリストマン 高橋良平訳 (1992年10月25日初版発行). 『風と共に去りぬ 写真集』. 新潮社 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as ワーナー・ホーム・ビデオ.1994年5月27日発売.『風と共に去りぬ 幻のメイキング』VHS.字幕+日本語ナレーション.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak ワーナー・ホーム・ビデオ.『風と共に去りぬ』スペシャル・エディションDVD、製作75周年記念コレクターズBOXブルーレイ、などの特典映像に収録の『幻のメイキング』.字幕.
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『スクリーン5月号臨時増刊 「風と共に去りぬ」特集号』. 近代映画社. (1969年5月15日発行) 
  12. ^ レーザーディスク「『風と共に去りぬ』プレミアムBOX」の『幻のメイキング』解説「ドラマ以上にエキサイティングな史上最大のメイキング」日野康一
  13. ^ a b c d e f g h 『スクリーン増刊 「風と共に去りぬ」特集号』. 近代映画社. (1989年11月10日発行) 
  14. ^ a b c 『情熱の美女ヴィヴィアン・リー』. 近代映画社. (2005年12月10日初版発行) 
  15. ^ 『風と共に去りぬ 幻のメイキング』では11月中にイギリスを発ったことになっている。
  16. ^ 1969年の「スクリーン5月号臨時増刊『風と共に去りぬ』特集号」ではジョージ・キューカーがテストをしたフォンテインをメラニー役に横滑りさせようとした、と書かれている。
  17. ^ 新潮社の『風と共に去りぬ 写真集』ではニューカムの代わりに、セルズニックの秘書になっている。
  18. ^ a b c d e f g レーザーディスク「『風と共に去りぬ』プレミアムBOX」1994年5月27日発売.「『風と共に去りぬ』の伝説」解説:日野康一.
  19. ^ ハティ・マクダニエルが、差別によりアカデミー賞のパーティーに同席できなかったとか末席だったという記事があるが、新潮社『風と共に去りぬ 写真集』p274には少なくともアカデミー賞受賞晩餐会でハティ・マクダニエルが他の人々と一緒に席に座って写っている写真が載っており、末席でもない。
  20. ^ Top Lifetime Adjusted Grosses”. IMDbPRO. 2020年12月6日閲覧閲覧。
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 『スクリーン9月号臨時増刊 華麗なる恋愛映画オール特集号 世紀の大ロマン「風と共に去りぬ」ワイド特集』号. 近代映画社. (1975年9月15日発行) 
  22. ^ a b c 1961年リバイバル版プレスシート.MGM日本支社発行.
  23. ^ 1975年の『スクリーン「風と共に去りぬ」ワイド特集号』では1966年になっているが、1969年『スクリーン「風と共に去りぬ」特集号』やIMDb、2005年テアトル東京のプレスシートで、実際には1967年であったことがわかる。
  24. ^ a b c d 『風と共に去りぬ』プレスシート. テアトル東京. (2005年) 
  25. ^ a b c d e f g h i 東宝WEB SITE 資料室”. 東宝株式会社. 2020年12月7日閲覧。
  26. ^ 1975年9月15日発行の「スクリーン9月号臨時増刊『風と共に去りぬ』ワイド特集号」では、前年1960年9月4日に有楽座で再映したことになっているが、東宝株式会社のサイトの「資料室」では有楽座や東宝直営の劇場で1960年に上映された記録はない。
  27. ^ 『幻のメイキング』1時間54分〜55分にかけての部分で登場。
  28. ^ 東宝の資料室ではリバイバルとなっているが、上映期間が15日と少ないため再映だと思われる。劇場が松竹系から東宝系に代わったため、東宝としてはリバイバルの扱い。当時のチラシでもアンコール・ロードショーとして、始めから15日間の予定で再上映している。
  29. ^ a b c 『グレート・メモリーズ 丸の内ピカデリー・丸の内松竹』パンフレット. 松竹株式会社事業部. (1984) 
  30. ^ 読売新聞1978年3月10日東京版夕刊に広告掲載。1978年3月11日より映画欄に掲載。4月7日まで上映。
  31. ^ 1982年版映画パンフレット.松竹株式会社発行.
  32. ^ 『風と共に去りぬ』パンフレット. 日本ヘラルド映画株式会社. (1997年11月22日発行) 
  33. ^ 『第二回 午前十時の映画祭』”. 一般社団法人 映画演劇文化協会. 2020年12月7日閲覧。
  34. ^ 『第三回 午前十時の映画祭』”. 一般社団法人 映画演劇文化協会. 2020年12月7日閲覧。
  35. ^ 『新・午前十時の映画祭』”. 一般社団法人 映画演劇文化協会. 2020年12月7日閲覧。
  36. ^ 『第三回 新・午前十時の映画祭』”. 一般社団法人 映画演劇文化協会. 2020年12月7日閲覧。
  37. ^ 『午前十時の映画祭10』”. 一般社団法人 映画演劇文化協会. 2020年12月7日閲覧。
  38. ^ 作品詳細『風と共に去りぬ』備考欄”. 『午前十時の映画祭10』. 2021年1月11日閲覧。
  39. ^ a b 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、130頁。ISBN 4062122227
  40. ^ 「完璧版 テレビバラエティ大笑辞典」(白夜書房)79頁(同本では11 - 81頁で昭和元日の新聞ラ・テ欄を掲載) 2003年
  41. ^ 青木冨貴子 『「風と共に去りぬ」のアメリカ ―南部と人種問題』 (岩波新書、1996年)
  42. ^ 吹き替えでの翻訳は柔和な表現になっており、ソフト版では「そんなことは俺には関係ない」、日本テレビ旧録版では「わからんね、自分で考えるんだ」、日本テレビ新録版及びテレビ東京版では「そんなことは自分で考えろ」とそれぞれ訳されている。「frankly, my dear」の部分の訳は略されている。
  43. ^ 小林信彦『映画×東京とっておき雑学ノート』P.72
  44. ^ 小林信彦『映画×東京とっておき雑学ノート』P.97及び『日本経済新聞2007年1月10日付け
  45. ^ ワーナー、米で新動画配信 スタジオジブリ作品が目玉に”. 共同通信 (2020年5月27日). 2020年6月11日閲覧。
  46. ^ 米動画サービスが『風と共に去りぬ』配信停止 人種差別理由に”. AFP通信 (2020年6月10日). 2020年6月10日閲覧。
  47. ^ 映画「風と共に去りぬ」を配信停止 人種差別表現めぐり”. 朝日新聞 (2020年6月11日). 2020年6月11日閲覧。
  48. ^ a b 「風と共に去りぬ」配信再開 奴隷制の問題、冒頭に追加”. 朝日新聞 (2020年6月25日). 2020年6月25日閲覧。
  49. ^ 米HBO、「風と共に去りぬ」配信を再開 時代背景の説明を添付”. ロイター通信 (2020年6月25日). 2020年6月25日閲覧。
  50. ^ 解説動画は2種類あり、1つ目は映画批評家シカゴ大学教授(アフリカ系アメリカ人)による4分30秒の動画、2つ目はターナー・クラシック・ムービーズのイベントにおいて、この映画の問題点を専門家らが1時間にわたって議論した、パネルディスカッション(2019年に収録)となっている[48][49]
  51. ^ HBO Max Restores ‘Gone With the Wind’ With Disclaimer Saying Film ‘Denies the Horrors of Slavery’”. Variety (2020年6月24日). 2020年6月25日閲覧。

外部リンク編集