満洲民族

満洲に発祥したツングース系民族
満州族から転送)
この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 詳細
  • 満洲民族
  • 滿洲民族
  • 満州民族

満洲民族(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満洲族(まんしゅうぞく、マンジュぞく、満洲語: ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠ
, manju uksura)、満族(まんぞく、マンぞく)は、中国東北部ロシア沿海地方(旧満洲)などに発祥し、現在は中国各地に散在している民族。同じく中国東北部に興り、かつて金を建国した女真を祖先とする。17世紀に現在の中華人民共和国およびモンゴル国の全土を支配するを興した[5]清朝では、民族全体が八旗(ᠵᠠᡴᡡᠨ ᡤᡡᠰᠠ, jakūn gūsa=八つの旗)に組織され(=満洲八旗)、蒙古八旗漢軍八旗と呼ばれる主にモンゴル人や漢人によって構成された軍事集団八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系の民族にシベウデヘナナイウリチなどがある。中華人民共和国による民族識別工作では、蒙古八旗漢軍八旗も含む「旗人の末裔」全体が「満族」に「識別」(=区分)され、「55の少数民族」の一つとされた。2010年の中国の国勢調査では人口1,038万人とされ、「少数民族」としてはチワン族回族に次ぐ人口である[6][注釈 1]

満洲民族
ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠ
Manchu celeb 2.jpg
ヌルハチホンタイジ康熙帝雍正帝
乾隆帝西太后光緒帝溥儀(愛新覚羅氏)
ドルゴンオボイヘシェン溥傑(愛新覚羅氏)
老舍川島芳子ロザムンド・クワン郎朗
総人口
10,700,000
全人類の0.15%
(見積)
居住地域
中華人民共和国の旗 中国10,682,263[1]
香港の旗 香港288[2]
台湾の旗台湾12,000[3]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ379[4]
関連する民族
シベ族モンゴル族漢民族ダグール族など

概要編集

「満洲」の漢字は満洲語の民族名ᠮᠠᠨᠵᡠ、manju(マンジュ)の当て字で、元来は「満洲」であるが、現在の日本では一般に常用漢字をもって「満州」と表記することが多い[5]

満洲民族の興った地域は、英語で満洲民族の土地という意味でマンチュリア(Manchuria)と呼ばれ、日本語ではこれに対応して満洲(満州)と呼ばれる。特に民族のことを指す場合は、満洲民族満洲族満洲人満人などと表記する。映画『ラストエンペラー』で知られる清朝最後の皇帝である溥儀や、戯曲『茶館』などの作品で有名な作家老舎も満洲人の出身である[6]11世紀、満洲族の直接の祖先の一つと考えられる女真が文献上現れ、12世紀には金王朝を開いた[5]

民族名である 満洲/マンジュ の起源については諸説あり、今のところ不明である。しばしば、サンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来するともいわれるが[7]、元来は16世紀までに女真の名の下に括られていた人々のうち、建州女直(建州女真、「女直」は明側の呼称である)に属する5つの部族(スクスフ、フネヘ、ワンギャ、ドンゴ、ジェチェン)を一括する呼称であった[8]。日本の東洋史学者である岡田英弘は清朝時代のダライ・ラマが「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを第6代皇帝の乾隆帝が政治的に利用したところから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている[9]

現在の中華人民共和国のもとでは、モンゴル人・漢人の末裔の一部(旧「蒙古八旗」, 旧「漢軍八旗」の末裔ら)と合わせて「満族」(满族, Măn zú)としてひとくくりにされ、中華人民共和国の55の少数民族の一つと位置付けられている。1911年辛亥革命による清朝崩壊後は排斥を受けた過去を持ち、1949年に中華人民共和国が成立した後には他の少数民族と同じく区域自治権が与えられ、合計11の自治県がある(一覧は後述)。

分布編集

永陵の四祖碑亭
永陵の龍壁

満洲族は、かつて中国を支配した旗人の末裔であり、中国全土に散在する[5]。過半数は、遼寧省に居住しており[6]河北省吉林省黒竜江省内モンゴル自治区新疆ウイグル自治区甘粛省山東省にも分布し、北京天津成都西安広州銀川などの大都市やその他中小都市にも居住する。清朝前期の公文書や民間史料は満洲語だけで記されているが、人びとの満洲語に対する意識は薄れており、満洲語は危機に瀕している[6]。「朝日新聞」の報道によれば2013年現在、中国国内で満洲語を解し、古文献も読めるレベルの学者は決して多くないというという[6]

清朝発祥の地といわれているのが、遼寧省の撫順市新賓満族自治県である[6]。しかし、そこにあっても満洲民族の小学校は1校しかなく、満洲族固有の姓を用いる児童もいない[6]。一方で、ヌルハチが城や寺を築いて最初の根拠地としたヘトゥアラᡥᡝᡨᡠ᠋
ᠠᠯᠠ
, hetu ala、赫圖阿拉)[注釈 2]、すなわち、同自治県の西方、永陵鎮老城村はヌルハチ即位の地であり、ヌルハチの祖先の陵墓である永陵があり、太陰暦4月18日に各地の満洲族が集まる祭礼の地となっている[11][注釈 3]

満洲民族の人口は清朝の時代には200万人ほどとされていたが、清朝滅亡後は迫害を恐れたため、続いて行われた中華民国初期の国勢調査で自らを満洲族としたのは約50万人にすぎなかったという。しかし、少数民族の権利が謳われるようになると、その人口は一気に500万人に増えたといわれている。

主要分布域編集

満洲族の自治県
シベ族の自治県

自治県・民族鎮・民族郷編集

歴史編集

古代の記録編集

中国東北地方の諸民族については代より記録があり、それによれば、そのころ「粛慎(しゅくしん)」と称される狩猟民が毛皮や青石製の石鏃、あるいは楛矢(こし)といった物産を中原の諸王朝に献上していた[5][13](はく)という民族もあったが[13]戦国時代から代にかけての漢民族の進出と楽浪郡前108年設置)以下4郡の設置という動きのなかで、貊のなかから夫余(ふよ)が起こり[13]、紀元前後以降は、夫余、挹婁(ゆうろう)、勿吉(もっきつ)、靺鞨(まっかつ)といった諸民族が興亡した[5][13]

高句麗を建国したのも韓族ではなく、貊族であった。7世紀末葉、粟末靺鞨に高句麗の遺民を加え、南満洲から現在の朝鮮半島北部にかけての地に、「海東の盛国」と称された渤海が建国された[5][13]。これらのうち、貊、夫余、靺鞨はツングース系の民族と考えられている[5][注釈 4]

金王朝と女真族編集

1142年における女真族王朝「金」と周辺諸王朝
南宋)は漢民族王朝、西夏はチベット系タングートの王朝、大理はチベット系ペー族の王朝

渤海国は10世紀に滅亡するが、11世紀には満洲族の直接の祖先の一つと考えられる半農半猟の女真(女直)族が現れ、1115年には完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)が王朝を開いた[5][15][注釈 6]。女真は、靺鞨七部のうち、黒水靺鞨と呼ばれた集団だと考えられる[16]。金は、渤海を滅ぼしたモンゴル系契丹族による遊牧民王朝のを滅ぼし、さらに1126年漢民族王朝の徽宗欽宗のニ帝および皇族・重臣らを捕らえて中国北半を支配し、燕京(いまの北京市)に都を移して宋朝を南へと追いやった[5][17]。金は、漢字をもとにして女真文字という独特の文字体系を整備し、政府組織を中央、地方ともに中国風にして支配体制を整えたが、軍事権力を強く握って独占したのは女真族であり、政府首脳もまた女真族によって占められた[5][17]。女真人には行政と軍事を兼ねた猛安・謀克の制度など独自の統治体制がとられて特別の保護を受け、漢化を防いだ[5][17]。東北部(満洲)にあっては大部分が猛安・謀克制によって統治されたが、他民族の住む西部や南部では州県制による支配がつづいた[17]

金はしかし、1206年チンギス・カンによって成立したモンゴル帝国の猛攻を受けて劣勢に立ち、都を開封に移したものの1232年にはその開封が包囲された[18]。そして、1234年オゴデイらの進撃により、逃走していた哀宗が自殺して金は滅んだ[5][17][18]。一方、これに先立って、契丹の反乱鎮圧を称して挙兵していた金王朝の将領蒲鮮万奴は、1215年に金より自立して「天王」を名乗り、東夏国(大真国)を建国していた[18]。東夏は、モンゴルに服属したり自立したりを繰り返していたが、この国もまた、1233年オゴデイの子グユクによって滅ぼされた[17][18]

女真族は、金がモンゴル帝国に滅ぼされてからのちは、モンゴル帝国、大元大明の支配下に置かれた[17][19]。その間、金の時代に創始した女真文字もしだいに失われ、金建国以前の部族集団に後退した[19]。当時の女真族の家族は、主人と奴婢に完全に二分されており、主人は狩猟や採集、交易、戦争などの外仕事、奴婢は農耕やブタの飼養など食糧生産を担当するという分業体制が確立していた[20]。その役割は固定し、世襲されていったが、代々起居や食事をともにし、双方の物産・物資は分け隔てなく均等に分配されたから、両者の結びつきはきわめて緊密であった[20]。東北部に残留した女真(女直)は、元代には遼陽等処行中書省の管轄下に入ったが、その統制はゆるやかなもので、ほぼ完全な自治がゆるされていた[21]。元代から明代にかけての女真人は、遼東半島建州女直松花江流域の海西女直、黒竜江(アムール川)方面の野人女直の三部に大別されて、モンゴル族や漢族の支配下にあった[5][8][17][注釈 7]

女真族から満洲族へ編集

 
満洲文字(右)と漢字(左)
紫禁城(北京)乾清門の額

しかしながら、明朝の勢力が揺らぐ16世紀にはその支配を脱し、ふたたび統一の気運が高まった[5]。とりわけシナ本土に近く、文化程度も相対的に高かった建州女真(建州女直)からは、スクスフ部の有力な氏族であったアイシンギョロ(愛新覚羅)氏から英傑ヌルハチが出て勢力を急速に拡大した[5][17]。ヌルハチの支配する領域は、一方では「マンジュ国」(ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
, manju gurun, 満洲国)と称されるようになったが、マンジュ国がさらに海西女真四部(マンジュ政権からは「フルン四部」)、野人女真四部(同じく「東海四部」)を統合していく過程で、「マンジュ」が広く女真全体の総称として用いられるようになった[8]。なお、建州・海西・野人の各女真には、それぞれ内部的に何らかの結合関係があったと考えられがちだが、実際はそうではなかった[8]。建州女真のなかの五部もまた、それぞれ別個に建てられた5つの国のような様相を呈しており、それを越えてのまとまりはなかったのである[8]。「マンジュ国」は、その意味で複合部族国家であった[8]

金の滅亡後、女真文字は失われ、女真族はモンゴル文や漢文に翻訳して文書をつくるようになっていたが、「マンジュ国」の勢威が拡大し、民族統合を進めるなかで民族的自覚は高まり、その長であるヌルハチは自分たちの文書を外国語に翻訳して記述している状況を不自然だと感じるようになっていた[23]。ヌルハチは、モンゴル族の学者エルデニ・バクシ中国語版に命じて文字をつくらせた[23]1599年のこととされている[23]。すなわち、広大な地域で話されるようになった「マンジュ国」の言語を表記するため、アラム文字をルーツにするモンゴル文字(縦書きのウイグル文字を応用したもの)を改良させて無圏点満洲文字をつくり、当時の女真語(満洲語)を表記することとしたのである[23]。さらに、無圏点文字では区別することのできないha(ᡥᠠ)とga(ᡤᠠ)、de(ᡩ᠋ᡝ᠋)とte (ᡨᡝ᠋)などを識別するため、ヌルハチの子息ホンタイジは、17世紀にダハイ・バクシ中国語版に有圏点満洲文字をつくらせた[23][注釈 8]

ヌルハチは、1616年に中国東北地方のほぼ全域を領有して女真国家を再び築き、「後金」と号した[5][17]。これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたり歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例であった[19]。後金はヌルハチ没後も発展し、子息ホンタイジは内モンゴルを併合し、李氏朝鮮を属国となして国号を「」に改め、また、民族名も「女真」を民族名として用いることを禁じ、"マンジュ"と改め、それに「満洲」の字を当てた[5][25][注釈 9]

  • ジュシェン(ᠵᡠᡧᡝᠨ, jušen, 女真) 1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)まで。
  • マンジュ(ᠮᠠᠨᠵᡠ, manju, 満洲) 1636年崇徳改元)以降。ホンタイジによる改称[注釈 10]

満洲については「洲」の文字が含まれていることから、日本語では「中国東北部」を指す広域地名「満洲」や国境の町「満洲里」など地域名称のイメージが強く、現在でも英語では“Manchuria”のように地域呼称として用いられる。しかし、中国語においてはあくまでも民族名であり、土地の名前ではない。満洲語においても "ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ, manju" は専ら満洲族を指し、「満洲語 (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ
ᡤᡳᠰᡠᠨ
, manju gisun) 」、「満洲文字 (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ
ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ
, manju hergen)」なども「満洲人の言葉」「満洲人の文字」と解される。

清朝の中国支配編集

女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸族を満洲(人)と統合し、国号を「大清」に改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“氵(さんずい)”が付いているのは、五行の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる[27]。ホンタイジは、1636年、清の国号を称したとき、満、漢、モンゴルの三勢力に推戴され、多民族国家の君主としてハーンであると同時に皇帝でもあるということを、内外に宣言した[28]。多民族王朝となった清のもと、満洲人は、八旗と称する8グループに編成され、王朝を支える支配層を構成する主要民族のひとつとなり、軍人・官僚を輩出した。

 
雍和宮(北京)昭泰門に掲げられた扁額。左からモンゴル文、チベット文、漢文、満洲文の四体合璧となっている。
 
チーパオを着た女性

1644年、清は山海関を越えて万里の長城以南に進出し、李自成の乱で滅亡した明にかわって北京に入城、以後、1911年辛亥革命に至るまで中国大陸に君臨した[5]。清帝国は、中国の伝統的な統治機構を踏襲する一方で、満洲族独自の軍事・行政・生産機構である八旗制度を制定し、自らのヘアスタイルである辮髪を漢族にも強要し、東北地方への入植を禁ずるなどの非漢化政策を採用した[5]。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた[29]。なお、漂着により朝鮮に抑留されていたヘンドリック・ハメルによれば、満洲人支配下の17世紀初期の朝鮮では、朝鮮国王は国内では絶対的権力をもっているものの、後継者を決める際は満洲人のハーンの同意を得なければならず、また、満洲人の勅使ウリャンカイ(野人女真)は、年に3回朝鮮から貢物を徴収し、朝鮮高官は満洲人に怯えきっていたという[30]

歴代の清朝皇帝は、同時に、満洲やモンゴルなど北方民族社会の長としてのハーンでもあった[28][31]。その意味で清朝は、非漢族のハンが中国皇帝でもあるという「夷」と「華」が同居する二重性を有していたが[28]、東洋史学者石橋崇雄は、さらにこれに「旗=満(東北部での満・蒙・漢)」の体系を加えた「三重の帝国」であったとしている[31]。首都北京は中国内地の華北に、副都盛京(現、瀋陽)は中国東北部に、行在所「避暑山荘」は熱河(現、承徳)にそれぞれ位置しており、いずれも清朝のハン(大清皇帝)が政治の実務を執り行った場所という点では共通しているが、実際はこの3か所の性格はまったく異質であった[31]。清朝の皇帝は、北京にいるときは中華世界の天子として君臨していたが、長城外に位置する熱河の離宮(「避暑山荘」)では、内陸アジア世界におけるモンゴル族の首長、ボグド=セチェン=ハンとして行動し、熱河は、モンゴル族やチベット族のみならず、ウイグルの王公、チュルク系民族の首長(ベグ)、李氏朝鮮およびベトナム阮朝)・タイ王国ビルマコンバウン王朝)といった東南アジアにおける朝貢国の使節、さらにイギリスの使節までも朝覲する非漢族世界「藩」の中心であった[31][注釈 11]。一方、瀋陽の奉天行宮(瀋陽故宮)東郭には右翼王および左翼王の執務室と八旗それぞれの建造物をともなう、旗人の部族長会議を反映した十王亭がある[31][注釈 12]

清朝期の建築物は、複数言語で表記される「合璧形式」の額が掲げられることを一大特徴としているが、ここでは満・漢合璧であるだけでなく、満・漢・蒙の合璧、それにチベットを加えた四体合璧、さらにウイグルを加えた五体完璧もある[31]。清朝の記録はまた、『満洲実録』をはじめとする実録類が原則として満文本・漢文本・蒙古文本の三種類によって編纂されており、満・漢・蒙の各語を担当する翻訳官がおり、そのための科挙もあった[31]。これにチベットやウイグルなどの諸語も含めた官撰・私撰の辞書が多く作られたのも清朝文化の特徴となっている[31]。大清帝国は、満・漢・藩の三重構造を基本としており、瀋陽・北京・熱河にあった3政務所はそれを象徴するものというとらえ方ができるのである[31]

中国を扱った映画などにみられる辮髪両把頭、チーパオ(チャイナドレス)は、本来は満洲人の習俗であったものが清代に漢人の社会に持ち込まれたものである[33][注釈 13]。明との戦争に際しては占領地の男性住民に辮髪を命じ、明の滅亡は満洲族の髪型と服装を漢族にも強制して漢人の服飾を身に付けることを禁止し、漢民族の伝統文化を抑圧する態度をとった[33][注釈 14]。これを「剃髪易服」(髪を剃り、服を替えるの意)という。一方、科挙の実施や中央に内閣六部、地方に総督巡撫を設置して軍事・政治を管轄させるなど、明朝の行政制度を存続させて強硬政策と懐柔政策を併用した[34]。また、指導理念として朱子学をはじめとする儒家の思想も取り入れていた[34]

乾隆帝時代の大臣であるマチャン

盛期の清王朝と満洲人編集

 
史上最大版図をきずいた乾隆帝の肖像(ジュゼッペ・カスティリオーネ画)

17世紀コサック(カザク)によるシベリアへの東進が著しいロシア・ツァーリ国と清とが国境をめぐって対立した(清露国境紛争[35]1650年代初頭、エロフェイ・ハバロフ率いるコサックの一派はアムール川に臨む清側の拠点ヤクサ(雅克薩)を奪い、同地をアルバジンと改めて東方進出への拠点とした[35]。ロシア人はアムール川を下りながら先住民からヤサク(毛皮税)を徴収した[35]1652年、現在のハバロフスク周辺とみられるアチャンスクで清露の戦闘が起こった。1658年には朝鮮国軍も動員した清国側が勝利し、アムール川流域からロシア人勢力を駆逐したが、1665年、シベリアに追放されていたポーランド貴族ニキフォール・チェルノゴフスキー英語版イリムスク英語版ヴォイヴォダ(軍司令官)を殺害して逃走、ヤクサ王国英語版を建国して先住民から毛皮税を徴収した。清露国境紛争は再燃し、1683年、アルバジン戦争が勃発、戦況は清側優勢で推移し、1689年、清露両国はネルチンスク条約を結んで講和した[35]。その結果、外満洲を含めた満洲全体が清の領土と確定した[36][注釈 15]。なお、この時のロシア人捕虜は「ニル」に編成され鑲黄旗満洲に配属された[注釈 16]

清の歴代の皇帝は、漢人が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めていた[5]。しかし、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも漢語が話されるようになり、習俗もしだいに漢化していった[5]。清代中期の北京の満洲人によって編まれた「子弟書」という俗曲集には、漢語と満洲語を交ぜてできている曲があり、当時の満洲人の言語状況の一端がかいまみえる[38]

清朝によって優遇された満洲族は清朝発展にともない中国本土に移住する者が増加した一方、満洲人の故地である満洲では人口が減り、荒廃したため、1653年から1668年まで遼東招民開墾令を出して漢人の移住を勧めた[17]。しかし、18世紀に入ると東北部(満洲)に自発的に移住する漢人の数が急増したため、1740年には移住禁止令を出して満洲人の生活を保護しようとした[17]

1735年から1795年まで治世60年におよぶ第6代乾隆帝は、45年にわたる外征を「十全武功」と称し、晩年好んで用いた玉璽にも「十全老人」の文字を彫らせた[39]1750年代の後半には、清は乾隆帝の外征により中国東北部、中国内地、モンゴル高原東トルキスタンを含むテンシャン山脈の南北両側、チベットより構成される最大版図を築いた[40]1759年にはテンシャンの南北両側地域を「新彊」と命名した[40]。現代の中国の骨格は、乾隆帝によってかたちづくられたということができる[39]

列強の進出と満洲族編集

 
清朝末期の満洲族の武人たち
 
満洲国(1932-1945)の地図

1840年以降、清がアヘン戦争アロー戦争に敗北し、大規模な農民反乱である太平天国の乱が起こって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、1858年にはアイグン条約を結んで、清領とされてきた外満洲のうちアムール川左岸をロシアに割譲し、ウスリー川以東を両国の共同管理とすることとなった[41]。さらに2年後の1860年には北京条約によって、この共同管理地も正式にロシア領となった[42][注釈 17]

一方、皇帝の故郷満洲は1860年までは保護され、漢人の移住はある程度制限されていたが、特普欽らの献策を容れて開放策に転じ、漢人農民の移住が急増した。中国史ではこれを「闖関東」と呼んでいる[注釈 18]。漢人人口はさらに急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。また、イギリス領事館が営口に置かれるなど外国人勢力が満洲の南方からも入り込んで、満洲人の故郷は大きな変貌を遂げた[17]。アヘン戦争の敗北後、清国は海禁政策を放棄して欧米列強に門戸を開いたが、日清戦争(1894-1895)や北清事変(1900)の敗北などによって深刻な半植民地状態に陥った。1911年辛亥革命の際には「滅満興漢」がスローガンとして掲げられた[43][注釈 19]

1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった宣統帝溥儀を執政(のちに皇帝)として満洲国が建てられた[17][44][45][注釈 20]。満洲国はの五民族による「五族協和」「王道楽土」を理念としており[44]、国名に「満洲」を含むものの、満洲人がこの国を自分たちの民族国家として意識していたわけではない。しかし、建国後の満洲族には帝政期成運動を起こすなど、この国に民族の復権を期待する傾向も一部ではみられた。満洲国の建国宣言は、溥儀を担いだ旧清朝帝政派の人びとの主導によってなされ、それを関東軍が承認したものだが、そこには「礼教(儒教とほぼ同じだが、道徳秩序や祭礼面を前面に立てる)」を国教とすることが謳われていた[47]1934年の皇帝即位式において溥儀は、満洲族の民族衣装で、清の皇帝のみが着用を許された礼服「竜袍」を用意していたが、関東軍は「五族協和」の見地からこれを許さず、満洲国軍大総帥服を着用するよう溥儀に求めた[48]。溥儀はこれに従ったが、それに先立って祖霊に即位を報告する「告天礼」の開催を主張し、関東軍はその開催と竜袍の着用を認めた[48]。なお、満洲国における筆頭公用語は中国語(漢語)であり、第二公用語は日本語であった[49]。ただし、筆頭公用語は中国語とも漢語(シナ語)とも称されず「満洲語」もしくは「満語」と称され[注釈 21]、満洲国の住人は満族・漢族とわず「満人」と称された[49]

現代の満族編集

第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、愛新覚羅溥儀を「思想改造」したのち満洲族代表として中国人民政治協商会議全国委員に任命し[48]、「民族識別工作」を行って国内の少数民族を一定の権利を有する民族として公認していった。清代の旗人たちは、主にマンジュたちにより構成された満洲八旗のほか、蒙古八旗漢軍八旗など3つの集団から構成されていたが、この「民族識別工作」では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを「蒙古族」や「漢族」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分した。満族は辛亥革命以降、概して冷遇された状態にあったものの、文化大革命以降の少数民族政策の転換によってその地位はいくらか改善された[5][注釈 22]

満洲八旗に属していた錫伯(シベ)族達斡尔(ダグール)族などについては、それぞれ56の民族の一員である独自の民族として識別されている。しかし、満洲族の大多数は独自の言語と古来の文化を失いつつあるのが現状である[5]

なお、満洲族は、清代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。1990年の人口調査資料によれば満洲族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1人に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41パーセントで、全国22.21パーセント、漢族21.53パーセントよりも遥かに低く、中国国内の各民族の中で非識字率(半非識字率を含む)が最も低い[51]

生業と文化・習俗編集

伝統的生業編集

中国東北地方は、明代にいたるまで半猟半農状態が続き、石器土器類、骨角器類もまだ使用されていたとされている[5]。その後は大シンアンリン山脈などの山岳地帯、アムール川松花江などの大河流域においては狩猟漁撈の果たす役割が依然大きいとはいうものの、建州女真や清代以後の満洲族にとっては、牛馬の牧畜をともなう畑作農耕 が主な生業であった[5]。農耕はムギアワヒエキビなど穀類を中心とする天水農業であった[20]。狩猟はテンキツネミンクリスなど毛皮目的であり、中華料理の食材となるキクラゲキノコ類、松の実、薬用として知られる朝鮮人参(オタネニンジン)の採集などもおこなわれた[19][20][52]。清朝の軍事組織として知られる八旗も、その編成方法は元来、満洲族の狩猟生活からあみだされた巻狩の制を応用したものだったといわれる[7][24]

明代後期の遼東地方で当時高額で取引された二大商品といえば、クロテンの毛皮と山岳地帯に自生する薬用人参であった[52][注釈 23]。こうした産物は現地で消費されず、奥地からリレー式に遼陽にもたらされ、さらに北京方面へと送られて、穀物織物金属製品といった中国内地の商品と交換される[20]。ヌルハチはこうした特産品のルートを掌握して交易の利益を得ていた氏族長のひとりであった[52]

ヌルハチの故地に関して言えば、その地は山がちで大小の河川が縦横に流れ、斜面や点在する平地ではコーリャンなどが栽培されていたが、農地としては必ずしも恵まれていなかった[53]。したがって、西方に隣接する肥沃で広大な遼東平野の農地は、彼にすれば垂涎の的であった[53]。ヌルハチは遼東に進出するや女真人(満洲人)をこの地に続々と移住させ、農耕国家として発展する基礎を固めた[53]

同地方はまたブタの産地でもあり、夫余、靺鞨の時代からブタ飼養がなされており、近代には良質のブタの産地としても有名であった[5][注釈 24]。ただし、こうした生業のみで十分な自給自足ができるというほどの経済的基盤を有していたわけではなかった[19][注釈 25]。なお、吉林省吉林市の鷹屯(ヌルハチはここを「打漁楼」と名付けた)は、鷹狩に従事する八旗の兵士が代々居住し、鷹匠を数多く輩出した地であり、古い狩猟文化を今日に伝えている[54]

習俗と生活文化編集

 
辮髪にカットする巡回理髪者(19世紀、トーマス・アロム英語版画)

満洲族の家屋服飾においては漢族の影響が強かったが、満洲族女性には纏足の習慣がなかった[5]。女性の服飾は、上述したチーパオまたはベストを着用することが多く[54]、男性は伝統的に筒袖チョッキズボンという服飾を好んだ[55]

漢族に対しても強制した辮髪は古来、満洲族男性のヘアスタイルであった[5][56]。1644年の北京入城直後、清の第3代皇帝順治帝の摂政ドルゴンは、清に服属するか逆らうかを区別するため、漢族に対しても「薙髪令」を発令し、これを満洲人に対する服従の証拠とした[56][57][58]。この際は、中華思想の根強い抵抗のため強制できなかった[57][注釈 26]。しかし、翌1645年、「薙髪令」を再発令し、辮髪を強制した[56][58]。このとき、辮髪を拒否する者には死刑を以て臨み、「頭を留めんとすれば髪を留めず、髪を留めんとすれば頭を留めず」といわれたほどであった[56][57][58]儒教の伝統的な考えでは、毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、タブーであったため、抵抗する者も多かったが、清朝は辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証した[57]。清朝は、漢族が辮髪を死ぬほど嫌い抜いていることを承知したうえで、あえて「薙髪令」を再発令したのであり、ある意味、清朝の敵味方の識別のためには、これ以上効果的な策はなかった[57]

やがて、清朝支配の安定とともに19世紀には辮髪が完全に普及し、僧侶道士と女性のほかはことごとく辮髪するようになり[56]、中国の一般的風習と見なされるようになった[58]

氏族制と社会文化編集

満洲族の社会には強い父系原理が働いており、「ハラ(hala、哈喇、ᡥᠠᠯᠠ,)」または「ムクン(mukūn)」と呼ばれる父系氏族を主要な社会組織とし、また、父系拡大家族が主要な経済単位となった[5][59]。ロシアのセルゲイ・シロコゴロフ英語版はかつて、ハラが基本的な血縁組織であり、その後、血縁組織の発展にともないガルガン(garugan)、ムクンの2層が生じたと論じ、中国の莫東寅はこれを継承して、ハラ(部族)、ガルガン(胞族)、ムクン(氏族)の三層構造を唱えた[59]。しかし、シロコゴルフ・莫東寅の説は、今西春秋が指摘しているように何ら史料的根拠を有しない[59]。これに対し、三田村泰助は、詳細な検討の結果、ムクンをハラから派生した地域関係を基とする血族集団とみなす見解を示した[59]。ムクンがハラより発生したとする説は、現在、多くの専門家の支持する定説となっている[59]。ムクンは、金代女真族の「謀克」を原義としているとみられ、一義的には「族」、二義的には「氏」を表しており、一方、ハラには「姓」の字があてられる[59]。清代にあっては、ハラはもはや実体をともなった血縁組織とはいえず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存したのだった[59]。一族の統合を象徴するものとしては「族譜」と呼ばれる、氏族成員の名と相互の関係を記した系譜があった[5]。族譜は通常、などにおいて大切に保管された[5]

明・清両王朝の皇宮となった紫禁城では、明が内廷(後宮)と外廷の間に塀を設け、その区別が厳格であったのに対し、清朝ではその塀を撤去して両者の区別は緩やかなものとなり、また、内廷においても男子禁制が明ほどには厳しくなかった[60]。このことは、漢族の家族制と満洲族の氏族制の相違が反映しているものととらえることができる[60][注釈 27]

満洲族の姓氏編集

1個のハラは複数のムクンを包含するが、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、ハラ組織は元来、地域的同一性を有していた[59]。女真族(満洲民族)のハラの由来は、次の2種に大別できる[59]

  1. 地名や河川名を姓とするもの … グワルギャ(瓜爾佳中国語版)、トゥンギャ(佟佳)、ドンゴ(董鄂)、マギャ(馬佳)など。
  2. 古来のトーテムを姓とするもの … ニョフル(鈕祜禄中国語版、原義は「オオカミ」)、サクダ(薩克達、原義は「イノシシ」)、ニマチャ(尼馬察、原義は「」)、ショムル(舒穆禄)など[59]

ハラは、当初は族外婚の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった[59]。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったもので、その過程も示していた[61]。たとえば、ギョロ(覚羅)というハラは、『氏族通譜』によれば、イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)、シュシュギョロ(舒舒覚羅)、シリンギョロ(西林覚羅)、トゥンギャンギョロ(通顔覚羅)、アヤンギョロ(阿顔覚羅)、フルンギョロ(呼倫覚羅)、アハギョロ(阿哈覚羅)、チャラギョロ(察喇覚羅)という8つのムクンに分かれ、さらにそれぞれが多数の分枝を持っていた[61]。ハラからムクンが生じた理由のひとつは族外婚規制の機能緩和であって、すでに明代女真族において婚姻禁忌が破られていた[61]。すなわち、同一ハラ内の異ムクンとの通婚を可としたのである[61]。太祖ヌルハチはアイシンギョロ(愛新覚羅)氏出身であったが、その妻にはイルゲンギョロ氏2名、シリンギョロ氏1名、ギャムフギョロ(嘉穆湖覚羅)1名、計4人の異ムクンの妻女が含まれていた[61]

満洲民族の姓氏は本来、アイシンギョロ(愛新覚羅、ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨ
ᡤᡳᠣᡵᠣ
, aisin gioro)、イェヘナラ(葉赫那拉、ᠶᡝᡥᡝ
ᠨᠠᡵᠠ
, yehe nara)、ヒタラ(喜塔蝋、ᡥᡳᡨ᠋ᠠᡵᠠ, hitara) 等にみられるように満洲語に基づいたものであった。しかし、現代満族の多くは、漢民族の姓氏になぞらえて主に一文字の「漢姓」を用いている。これは、清末期の辛亥革命の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、中華人民共和国成立後の文化大革命など、中国当局の弾圧を避けるための一方策であったと考えられる。しかしながら、その場合であっても、アイシンギョロ(愛新覚羅)は「」「」または「」に、グワルギャ(瓜爾佳、ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ, gūwalgiya)は「」に、イェヘナラ(葉赫那拉)は「」または「」、イルゲンギョロ(伊爾根覚羅、ᡳᡵᡤᡝᠨ
ᡤᡳᠣᡵᠣ
, irgen gioro)は「趙」または「」に、ニョフル(鈕祜禄)は「」または「[59]、フチャ(富察、ᡶ᠋ᡠᠴᠠ, fuca)は「」または「」に、ヘシェリ(赫舎里、ᡥᡝᡧᡝᡵᡳ, hešeri)は「」「」または「」に、トゥンギャ(佟佳 ᡨᡠ᠋ᡢᡤᡳᠶᠠ, tunggiya)は「佟」に、ワンギャ(完顔、ᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠ, wanggiya)は「」のように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族 ― 哈喇(姓)漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。

満洲民族はもともとモンゴル人の影響を受けて、漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣はなく、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は、例えば「グワルギャ姓のオボイ(満洲語: ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ
ᡥᠠᠯᠠ ᡳ
ᠣᠪᠣᡳ
, gūwalgiya hala-i oboi) 」のような呼び方をしていた。

婚姻編集

伝統的な婚姻は、族外婚と満漢不婚によって特徴づけられる[62][63]。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則であり、現代においても濃厚に確認でき、しかも、その規制の強さは漢族以上である[62][63][注釈 28]。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている[59][61]

満漢不婚は、満族と漢族の婚姻禁止の慣習であったが、現代においては守られていない[62][63]。かつて満洲族は全体が八旗の組織に入る旗人であり、入旗していない漢族との通婚は許されていなかったが、入旗している漢族(漢軍八旗)との結婚は可能であった[62][63]。なお、彼らが女真族と称していた時代にあっては、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚は禁止された[63]

満洲族の婚姻の旧俗では、子女が成年に達すると双方の両親または仲人の話し合いを経て、双方の「門戸帳」(本人の生辰八字(生年月日)と姓氏三代(曾祖父母・祖父母・父母の姓名)が記されている)を交換し、これが適合すれば婚約できるなど、おびただしい数のしきたりと規制があった[63]

葬送と殉死の風習編集

女真族の旧俗では、火葬が行われていた[64]。ヌルハチもホンタイジも火葬され、3代フリン(順治帝)は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された[64]順治年間以降、北京の満洲族はしだいに土葬を行うようになったが、清朝は漢化を防止する観点から、各地に駐防する旗人の行動に厳しい制限を課し、死後、現地に墳墓を設けることを許さず、必ず京旗に帰葬することとした[64]。そのため、火葬の風習は各地の駐防にたずさわる旗人の間で保たれた[64]。しかし、乾隆年間になると、各地の戦役も収まり、火葬を不孝・不道とみなす漢族の儒家思想の影響も受けていたので、乾隆帝は死後に現地で土葬することを許可し、帰葬を一律に禁止した[64]

女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた[64]。このような習俗は康熙帝の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった[64]

殉死の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも2人の側室が殉死した[64]。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されなかった[64]。ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死している[64]。殉死の旧俗が満洲族の社会で連綿と続いてきたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる[64]。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の霊魂を祭ることとなった[64]

言語・文字編集

 
満州文字の朱印
「白山黒水、源遠流長」の満洲語 "Šanyan alin, sahaliyan muke, sekiyen goro, eyen golmin" を満文で示している。

満洲語は広義のツングース語のなかの一言語であり、言語構造も概ね他のツングース諸語のそれに等しい[14][65]。しかし、音韻文法語彙において他言語と顕著に異なる点もある[65]。語彙ではとくに、モンゴル語漢語からの借用語も多い[65]。清朝にあっては第一公用語の地位にあった[66]。満洲語は、その話者が北京はじめ中国全土に居住するようになり、言語分布は拡大したが、漢人に比較すると人口の絶対数がきわめて少なかったので、満洲族の文化は漢化し、言語も漢語を話すようになり、満洲語はしだいに使わなくなっていった[67][68]。満洲語使用は、すでに清朝中期の隆盛期には衰微の兆候を示していたという[67]。現代、満洲語は中国東北部のごく一部でしか話されなくなっている[65][注釈 29]。なお、清代の乾隆年間中期に国境地域の警備のため、東北部から新疆のイリ地方へ移住したシベ族の末裔は今日でも満洲語を話している[65][68]。これをシベ語といい、シベ語(シベ文字)の新聞書籍も発行されている[65]

満洲文語の資料には、『満文老檔』をはじめとする記録類[70]、満洲・モンゴル・漢・チベットウイグル5族の言語を対照させた『御製五体清文鑑』などの辞書類、『大蔵経』、漢文古典その他大量の翻訳文献などがある[68][注釈 30]。また、文語資料にはあたらないが17世紀の越前国の船乗りが漂流した際の記録、『韃靼漂流記(異国物語)』には当時の満洲語が仮名文字で収録されている[68]。女真文字については未だ十分に解読されていないが、女真語は満洲語に近い言語だとみなされている[68]

満洲文字は、明末の女真人が自民族の言語をモンゴル語に訳し、モンゴル文字で記録していた不便さを解消しようとして、太祖ヌルハチが1601年につくらせた音素文字である[71]。左から縦書きで右に改行する[66]。当初はモンゴル文字の字音を借りて書写する無圏点文字であったが、1632年、太宗ホンタイジが、ギオルチャ氏の満洲旗人のダハイ(達海)に命じて同字異音を区別する点(、)や円(。)を加えた有圏点文字に改良させた[66][71][72][注釈 31]。清朝では満洲文字を「国字」と呼び、公文書の記録などに利用した[71]新疆ウイグル自治区に在住するシベ族は、満洲文字を改良したシベ文字を使用している[66]

宗教編集

 
水浴びをする三仙女(『満洲実録』)

満洲族の宗教は、婚姻儀礼や葬送儀礼などにおいて民族独自のシャーマニズム祖先崇拝の要素が含まれていた[5]。自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった[73]。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある[73]。星神とは、具体的には北斗七星であり、満洲語では「ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する[73]。記録によれば、満洲族の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は占卜や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである[73]。満洲族に近い、同じツングース系のホジェン族(赫哲族、ロシアでは「ナナイ」と称する)もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する[73]。満洲族の七星神は、のちに祭礼が固定的なものに整備されていき、それにともない人格神化していった[73]

 
瀋陽故宮(旧、奉天行宮)の神杆(神鳥の止まり木)

満洲族は鳥・鵲(カササギ)・イヌを崇拝した[74]。鳥・鵲の崇拝は満洲族のシャーマニズム信仰の古層をなしており、長白山で水浴びをしていた天女(三仙女の末娘)フォクレン(仏庫倫)が神鵲がくわえてきた朱果を食して感精し、満洲の始祖ブクリヨンション中国語版(布庫里雍順、愛新覚羅氏)を産んだという伝説がのこる[74]。『満洲実録』でも鳥や鵲に関するいくつかの伝承が記述されており、同著の満文本では満洲人の後裔はカササギを祖としたことを伝えている[74]。また、ヘトゥアラに抑留されていた朝鮮人李民煥の著述した『建州聞見録』では、建州女真がイヌを自分たちの祖先と見なしていて、イヌを殺したり食べたり、イヌ皮を使用することを決して許さないという習俗をもっていたことにふれている[74]。こうした習俗は、清朝を通じて変わらなかった[74]

満洲族は元来、自身を地上に降臨した天上界に住む神々の子孫であると信じ、自身の氏神を中心として団結した[7]神、人面身の神、大鳥神(人面怪鳥の神)、突忽到瑪法(海獣の形象から変化した神)、鹿神などは、満洲の各氏族における保護神や祖神などとして崇められた[74]。彼らは森林地帯での狩猟や採集に際して、しばしば各種の猛獣の襲撃に直面し、予期せぬ災禍や不幸に見舞われ、あるいは漁撈に際しても数々の危険や事故に遭遇し、自分たちの無力さを悟ることも多かったと考えられる[74]。そこで鳥獣を神格化して祭祀し、その勇気や能力を借りて災厄を逃れようと願ったところから動物崇拝が始まったのだろうと推測される[74]。ここにおいてシャーマンが憑依して、たとえば、虎の各種の動作を真似て病人に災いをなす妖魔を威嚇することにより、病気が治癒されるものと信じられた[74]。鹿神は、ウジャラ(烏扎拉)氏が鹿の角を採取する際に祭った神であったが、ここではシャーマンが帽子の上に一対の鹿の角を挿し、鹿神に憑依するものとされた[74]

女真族(満洲族)は、仏教、とりわけモンゴル族の影響でチベット仏教になじんでいき、漢民族との交流を通じて彼らの民間信仰、とくに道教からの影響も受けていった[5][75]。1616年の後金建国の際、ヌルハチはヘトゥアラ城東の山上に仏教寺院、玉皇廟、十王殿などを建設して、これを「七大廟」と称した[75]関帝関羽)、仏祖(釈迦)、観世音菩薩はしだいにシャーマニズムの神祇の列に加えられ、清朝宮廷や一般満洲族から尊崇されるようになり、満洲古来の神々よりも篤い崇拝を受けた[75]

1626年、ホンタイジが即位した直後の儀礼では、最後に支配領域における弓の達人らに弓を射させる「射柳の儀式」が執行されたが、これは金時代の女真がシャーマニズムの拝天の祭儀に付属して行った儀式を継承したものであった[76]。北京の紫禁城内廷の坤寧宮、盛京(現、瀋陽)の奉天行宮の清寧宮は、ともに、中国皇帝を兼ねる満洲族のハーンが、シャーマンの祭祀を行った祭神殿として独特の設計が施されており、その入り口の南には神杆(しんかん)、すなわち神鳥の止まり木が建てられていた[76]。坤寧宮では元旦行礼などの特別な祭祀のほか、常祭である朝・夕の祭りが毎日行われ、ブタが生贄として供えられた[76]。また、神々の前で「薩満太々(サマンタイタイ)」と称される巫女が満洲語の神歌を唱え、跳ね回ったという[76]。シャーマニズムの伝統は、満洲族が中国内地の支配的地位に立ってからも温存されたのであった。

神話・伝承編集

『満文老檔』天命6年(1621年)条や満文『内国史院檔』天聰8年(1634年)条には、当時の女真族(満洲族)が日食月食という天文現象を「天界の犬が太陽を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や朝鮮民族チュルク系民族、また、パレオアジア語系とみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる[77]

また、『満洲実録』や『満文老檔』には、天命元年(1616年)、ヌルハチがダルハン・ヒヤとションコロ・バトゥルに命じてサハリヤン部を討伐させたとき、アムール川(黒竜江)の渡河に際して、往還ともに時ならぬ奇跡的な結氷に助けられて討伐を成功させたことが史実として記されている[77]。これに似た説話として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つのモチーフをともなう説話も伝わっている[77]。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話(東明王朱蒙伝説)にも共通し、オロチョン族ナナイ族などツングース系民族の説話にもみられる[77][注釈 32]

歌舞と武術編集

 
金昆・程志道・福隆安「氷嬉図」(『清代宮廷生活』より
厳寒期の北京でスケートをしながら矢を射る技を披露する八旗軍人

満洲族は、歌舞に長けた民族として知られており、そこには鮮やかな民族的個性と独特の品格がみられる[78]。満洲族のなかで最もさかんに行われたのは、莽勢舞(莽式舞)と称する歌舞で、別名を「空斉」といった[78]。莽勢舞は、集団のなかの1人が歌い、他の衆は「空斉」を以てこれに和し、正月や祝祭日に男女が相対して舞うというものであった[78]。この舞には「九折十八式」と称される、漁撈・狩猟・騎射などの生活を反映した9つの舞のかたち、身体部位を用いた18の所作があったと伝わっている[78]。清朝の北京入城後は宮廷に取り入れられて大規模化し、慶隆舞へと発展した[78]。慶隆舞は、揚列舞(武舞)と喜起舞(文舞)の二部で構成された[78]

習武に関しては、満洲族は古来騎馬・射猟を得意とし、清朝建国後はこれを満洲の根本とみなして狩猟や軍事に活用するのみならず、競技化した[79]。ヌルハチは、その趣味が弓の試合であり、すぐれた射手と技を競って負けなかったという弓の名手であったし、ホンタイジも飛翔する一羽の鳥をただの一矢で射落とすほどの腕前であった[79]。競技種目としては歩射と騎射があり、弓術は、近代に至るまで満洲民族の伝統として受け継がれた[79]

スケートも満洲族が得意とするスポーツで、これまた初期の生業や軍事活動と結びついていた[79]。冬季における酷寒の東北部では河川湖沼が凍結して天然のスケートリンクとなった[79]。スケートはスポーツであると同時に軍事訓練でもあり、乾隆帝はこれを「国俗」と称した[79]。氷上で行われた競技としては他に、王などのリーダーが侍衛を率いて鞠(ボール)を蹴りながら氷上を走り、次いで諸貴族・官員の妻女たちが氷上で競争し、先に終点に着いたものを勝ちとする「踢行頭」などがあった[79]

満洲人たちはまた、相撲(角觝)をことのほか愛好し、それは満洲語で「布庫(プク)」と称された[79]。すでに入関前の宮廷で弓試合や宴会の際に、相撲の実演が催されている[79]。ホンタイジの時代にモンゴルとの関係が深まると、朝貢に訪れたモンゴル族の力士たちはしばしば宮廷内で技を披露し、満洲族の力士と勝負した[79]。幼くして帝位に就き、権臣オボイの専横に苦しんだ康熙帝は若年の際、相撲好きと称して旗人より強壮な少年たちを選抜して密かに親衛隊をつくり、日々これを鍛錬させて、機が熟したときにオボイを逮捕、その腹心たちを一網打尽にして親政を開始したという逸話をもっている[32][79]

函普の伝承編集

松漠紀聞』『満洲源流考』などのいくつかの中国史料には、女真完顔部先祖であり、金朝の始祖である函普が「新羅人」あるいは「高麗より来た」と記録するものがある。韓国北朝鮮では、これを根拠として、満洲民族のルーツ朝鮮民族であるとする主張がなされている[80][81][82][83][84]。なかには「愛新覚羅(アイシン=「」のギョロ族)」の族名を「新羅を愛し、覚える(思う)」と解釈する見解さえある。しかし、周辺諸国ではその解釈には問題があるという意見が多い。中国では「高麗から来た」としても「高麗人」とは限らず、靺鞨人もしくは女真人であるとする見解が多く、日本では、函普が実在の人物とみなすには根拠が薄弱で、始祖伝説に登場する架空の人物とみなす専門家が多い。

遺伝的特徴編集

満洲民族のY染色体ハプログループは多数の系統が存在する。最も多いのは漢民族などに多いO2系統であり、37パーセントみられる[85]。次いで多いのはC2系統であり、アルタイ諸語を話す民族に関連するタイプである。満洲語はアルタイ諸語のツングース語族に属すが、C2系統は25.7パーセント[85]と特段多いとは言えない。3番目に多いのはウラル語族に関連するN系統であり、14.3パーセントみられる[85]。N系統は遼河文明の担い手であり[86]、かつては満洲地域に高頻度に観察されたようであるが、現在は後から進出したO2系統やC2系統に上書きされたかたちとなっている。また日本人に高頻度のO1b2系統も15パーセント前後観察され[85]、東アジア諸民族の中では比較的日本人とも共通性は高いと言える。

O1b系統からは華南東南アジアに多いO1b1も低頻度みられる(O1b1はオーストロアジア語族[87]、O1b2は弥生人に関連すると想定される)。その他西ユーラシア起源の R1aJ も、わずかながらみられる[88]

また、HLAハプロタイプは、日本の日本海沿岸に特徴的なB44-DR13、B7-DR1がよく見られる[89][90][91][92]

満族出身の著名人編集

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 2010年の人口調査では満族人口は10,387,958人であった[5]
  2. ^ 太祖ヌルハチの事績をまとめた『満洲実録』によれば地名「ヘトゥアラ」は「横岡」という意味である[10]
  3. ^ ヘトゥアラで生まれたヌルハチは、モンゴルのハルハ部と友好関係を結ぶことに成功し、1616年、同地で明朝からの独立とアイシン(後金)の建国、自身の即位を宣したという[12]
  4. ^ 靺鞨族の文化については、考古学的研究によってその多くが解明されてきている[14]
  5. ^ 女真文字による六字真言(六字大明呪)である。
  6. ^ 遼代の女真族のなかでもさほど有力とはいえない完顔部が金王朝を樹立させるにいたった原因は、砂金を産する河川流域を支配地に収めたことによると考えられる[15]
  7. ^ 現在、ロシア連邦の沿海州に住み、狩猟を主な生業としてきた少数民族ウデヘは、このうちの野人女直の末裔と考えられる[22]
  8. ^ 「バクシ」とは、書記官の意であるとも[24]、学者・博士の意であるともいわれる。
  9. ^ 1634年、後金軍はモンゴルの一大拠点フフホトを占領し、ドルゴンらを派遣してリンダン・ハーンの子息を捜索させた[25]1635年、ドルゴンはモンゴル帝国最後の君主となったエジェイ・ハーンを降伏させ、彼をともなって都の瀋陽に帰還した[26]。エジェイは、「制誥之宝」と刻まれた大元伝国の璽をたずさえ、ホンタイジにこれを献上した[26]。元朝の皇帝権を象徴する印璽がホンタイジの手に入ったということは、彼が全中国の支配権を元から継承したことを意味していた[26]
  10. ^ これにより「満洲」の名が定着するが、東方世界を支配するとされる仏である文殊菩薩と満洲の語を結びつける説明については、当時のチベット仏教の指導者の発言を乾隆帝が利用したところから生じた俗説だという見解もある[9]
  11. ^ 1793年初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニーはイギリス王ジョージ3世の派遣した乾隆帝の80歳を祝う使節団として熱河に赴き、三跪九叩頭の礼を拒否した(のちに清側が妥協して英国流に膝をつき皇帝の手に接吻することで事態を収拾した)ことで知られる[31]
  12. ^ 清朝の皇帝が皇帝であるためには、満洲人、モンゴル人、漢人の支配権を確立しなければならなかった[32]。モンゴル人に対しては大元伝国の玉璽を有して最後のハーンからその権利を譲られ、漢人に対しては大明の帝位を継承したとしてその支配権を主張できたのであるが、実のところ、肝心の満洲人に対しては本来独裁の権限はなく、部族長会議の議長にすぎない存在であり、当初は皇帝自身がその部族長会議で軍事・外交のリーダーとして選挙で選ばれた存在だった[32]
  13. ^ チーパオ(旗袍)は本来、清朝旗人社会の婦人のうち、冬の綿入れの形を普遍化したものであるが、現在のようなかたちで統一・普及するのは、中華民国成立以降のことである[33]。清朝では、支配者である旗人と一般漢人とは厳格に区別されていたため、漢人女性がチーパオを着用することは認められていなかった[33]。このことが逆に女性の憧れとなったのか、政治とは別次元として「チャイナドレス」として独り歩きし、ボディコンシャスワンピースとして広く愛用されることになった[33]
  14. ^ 辮髪は、満洲族(女真族)に限らず、北アジア系諸民族のあいだに古くから広くみられる風習である[33]
  15. ^ ネルチンスク条約は、東アジア史上はじめてヨーロッパの一国と結んだ国際条約であった[36]
  16. ^ ニル(niru、「矢」の意)とは、八旗制において有事の際に兵士となる成年男子300人を供出しうる集団を指す[24]。清朝は、5ニルをジャラン(jalan、1,500人)とし、5ジャランをグサ(gūsa、25ニル、7,500人)として、1グサ(7,500人)をもって一旗とした[24][37]。「旗」は本籍の所在をもあらわしており、単なる兵制上の単位ではなく、旗人の基本的な帰属先を示す社会組織であった[24]
  17. ^ 北京条約はアロー戦争終結のためのイギリスフランスとの講和条約であった一方、ロシアが清と英仏との講和を斡旋したことから、ロシアの要求を受け入れて同国と結んだ条約である[42]
  18. ^ 1931年満洲事変までに、数百万規模の人々が関内から移動したといわれている。
  19. ^ 清初以来、秘密結社の間では清朝に反抗して明朝を復興させようとする「反清復明」のスローガンが伝えられてきたが、太平天国はこれを発展させ、満洲族を滅ぼし漢民族を復興しようとする「滅満興漢」のスローガンを提唱した[43]。太平天国では反清の意思として辮髪を廃止したが、清朝はこのような反政府勢力を「長髪賊」と呼んだ。また、1905年に東京で結成された中国同盟会の綱領にある「駆除韃虜、恢復中華」も同じ意味であった[43]
  20. ^ 愛新覚羅溥儀は、1917年7月、軍閥の指導者張勲によって13日間だけだが、帝位に就いたことがあった(張勲復辟[46]
  21. ^ 満洲族に固有の言語(本来の満洲語)は「固有満洲語」と称された[49]
  22. ^ しかし、「中国的夢」を掲げる習近平政権に入ってからは、以前にも増していっそう抑圧的な少数民族政策がとられるようになっている[50]
  23. ^ クロテンの毛皮は冬の厳しい華北地方で人びとの耳当てとして大量の需要があったほか、明や朝鮮での奢侈の風潮からも人気があった[52]。オタネニンジン(朝鮮人参)は、上等なものだとに匹敵するといわれたほど高価であったが、これを採集するには夏の数か月、猛獣の多く棲む高山地帯で集団生活を送る必要があった[52]
  24. ^ 「ツングース」の名前の由来も、トルコ語のトングス(=ブタ)の訛ったものといわれている[20]
  25. ^ 明帝国は、対モンゴル政策の一環として女真族を利用する政策を採用し、衛所の制度を適用して各地の女真族の部族長に官職を授け、それを示す勅書印璽をあたえて、朝貢・馬市にかかわる特権の付与に便宜を図った[19]。これは、自給自足の難しい女真族の社会に権威利権をめぐる熾烈な争奪抗争を生むこととなって、結果的に女真族内に覇権闘争を生んだ[8][19]。明朝の政策の根底には女真族分断の意図もあったが、ヌルハチはこうした覇権闘争を勝ち抜いたうえで明の対抗勢力となるまでに勢力を拡大させたのであるから、長期的に考えれば明にとって皮肉な結果だったといえる[8][19]
  26. ^ 清朝の北京入城は、概ね人民の歓迎を受けたが、辮髪の強制はこれに対する裏切り行為として受け止められた[57]
  27. ^ 清朝にあっては、明代には顕著だった後宮勢力を背景とする宦官の専権という現象はあまりみられなかった。
  28. ^ 漢族にあっては、同姓であっても同祖でなければ通婚は制限されないし、同姓同祖であっても五服親(高祖父を同じくする三従兄弟姉妹までの親族)の範囲を越えれば結婚は可能である[63]。満族にあっては、同姓であるが同祖でない男女、同祖であるが五服親の範囲外にある男女の結婚がみられるものの、特に老人たちはそのことに否定的である[63]
  29. ^ 嫩江沿岸やアイグン(黒竜江省黒河市)周辺などの少数の集落では、満洲語が口頭語として用いられている[69]
  30. ^ 『満文老檔』は、内藤湖南1905年奉天故宮の崇謨閣で発見し学界に紹介した清初史の貴重な記録であり、文献の題名も内藤の命名による[70]
  31. ^ 無圏点文字と有圏点文字は明瞭に区別され、満洲文史料の年代を検討する際の重要な指標のひとつとなっている[66]
  32. ^ 浮き橋のモチーフは、説話によっては、魚ではなくカメによってつくられる場合もある[77]

出典編集

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関連項目編集

外部リンク編集