ハドソン

かつて存在した日本のゲーム会社

株式会社ハドソン: Hudson Soft Company, Limited)はかつて存在した北海道を発祥とするゲームソフト開発・販売会社。

株式会社ハドソン
Hudson Soft Company, Limited
種類 株式会社
市場情報
東証JQ 4822
2000年12月20日 - 2011年3月29日
本社所在地 日本の旗 日本
107-6288
東京都港区赤坂九丁目7番1号 ミッドタウン・タワー
設立 1973年昭和48年)5月18日
(有限会社ハドソン)
業種 情報・通信業
事業内容 コンシューマコンテンツの開発・製造・販売
ネットワークコンテンツの開発・運営・配信
[注釈 1]
代表者 上原和彦(代表取締役社長)
資本金 3億円[5]
発行済株式総数 2881万2986株
売上高 連結:143億2460万6千円
単独:122億8337万1千円
(2011年3月期)
営業利益 連結:△5億9786万9千円
単独:△9億0243万5千円
(2011年3月期)
純利益 連結:1億7470万2千円
単独:543万0千円
(2011年3月期)
純資産 連結:94億3625万6千円
単独:94億2544万9千円
(2011年3月31日現在)
総資産 連結:110億7899万0千円
単独:110億5076万5千円
(2011年3月31日現在)
従業員数 連結:433名
単独:421名
(2011年3月31日現在)
決算期 3月31日
主要株主 コナミ(株) 100%
関係する人物 工藤裕司(創業者)
工藤浩(創業者)
高橋利幸(高橋名人)
中本伸一
大里幸夫
藤原茂樹
遠藤英俊
辻尚之
川田忠之(川田名人)
特記事項:上記は2011年平成23年)4月時点の情報。後に吸収合併を経てKDEのブランド(『ハドソンブランド』)となり、2013年12月31日をもってブランド消滅。
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ゲームソフトのパッケージ裏面やその説明書の裏表紙などに正式社名ロゴを記載していないゲームソフトメーカーの一つでもあった。

2012年3月1日をもって当時親会社であったコナミデジタルエンタテインメント (KDE) に吸収され[注釈 2]2013年12月31日まで同社のブランドとなっていた[注釈 3]

概要 編集

 
旧・ハドソン中央研究所

1973年[6]5月18日、工藤裕司とその弟工藤浩により札幌市豊平区に通信機器と美術写真の販売を目的とした「有限会社ハドソン」として創業[7]。同年9月にはアマチュア無線ショップCQハドソンを開店[7][8]

1970年代後半にパソコンソフトウェアの制作で頭角を現し、1978年には日本で初めてパソコン用のゲームソフトウェアを販売した[9]。1980年代初頭には高い技術力でパソコンソフトメーカーの大手となる。主にシャープのパソコン用にリリースされたBASICインタープリタHu-BASICや、X68000のOSであるHuman68kやそのグラフィカルのシェルであるビジュアルシェル等を開発していた。

任天堂ファミリーコンピュータを発表した際、まだブームになっていない時点から接近を図り、任天堂初のサードパーティとなった。以降家庭用ゲーム機向けソフト開発がメインとなる。自由な社風の元、独自の企画を行っていた。特に「ハドソン全国キャラバン」や「高橋名人」は人気児童誌で積極的にタイアップされたことから、当時の子供世代にとっては抜群の知名度を誇る。

一方で自社でのハード開発にも乗り出しており、日本電気ホームエレクトロニクス株式会社(現:日本電気株式会社)と組み、1987年にはハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載した家庭用ゲーム機『PCエンジン』を発表、ソフトメーカーながら高い技術力の片鱗を見せた。1992年には将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門として、芸術の森アートビレッジ内に「ハドソン中央研究所」を設立。1994年12月に発売した後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットもPCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。

1997年にはトレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出し、同年4月にパイロットショップ「フューチャービー」を開店する。

1998年11月にメインバンクである北海道拓殖銀行が破綻して以降は資金繰りが難航して経営が悪化した。2001年にコナミ(現:コナミグループ)が筆頭株主になり、2005年には子会社化。その後2011年にコナミの完全子会社になり、翌2012年にはコナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、グループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い[10]、KDEに吸収合併され、法人としてのハドソンは解散した。その後はブランド名としてハドソンの名が残されていたが、2013年年末に同ブランドが名実共に消滅する事となり、2014年1月よりコナミブランドに統一されている。

歴史 編集

創業 編集

創業者の工藤裕司は北海道ニセコ町出身であり、日本大学理工学部卒業後、名古屋でサラリーマンをしていた。しかし在学中から行っていた、自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売するサイドビジネス「グループハドソンプロダクション」で、資金管理に関して無知だったために信頼していた人間に金を持ち逃げされるなどトラブルを多く抱え、本業も退社し、失意の内に帰郷していた。

1973年5月18日、札幌市豊平区に通信機器と美術写真の販売を目的とした、有限会社ハドソンとして創業[7]。同年9月にアマチュア無線ショップCQハドソンを開店[8]。当初は喫茶店を開業するつもりだったが、同一建物内で別の借り主が喫茶店を開業したため、急遽無線ショップに変更したとも言われている。

なお、上記のトラブルを踏まえ信用できる人間を使うという意味で、当時北海学園大学法学部2年生だった実弟の工藤浩を中退させ、経営サイドに引き込んでいる。ただし、アマチュア無線販売時代のハドソンはほぼ毎月赤字だった。

工藤が最も気に入っていた蒸気機関車「C-62(シーロクニ、シロクニ)」の車軸配置「車輪配置 4-6-4」の愛称、"ハドソン"がそのまま社名になった[8]。また、ハドソンの代表電話の下4ケタは4622[11]ハドソン東京営業所の入り口が駅風の看板がある事も似たような理由がある[要出典]

パソコンのソフトメーカー時代 編集

パソコン&ソフト事業のスタート
1970年代末、工藤裕司がアメリカでのホビーパソコンのブームを伝える雑誌記事を目にし、米国への視察旅行を行い、そこで高額なパソコン「POLY88」を購入し持ち帰った[12]。無線機器の販売だけではなく、付加価値をつけた商売の必要性を感じたためであった[12]
その後、パソコンの販売はもとより、アメリカ視察で購入したパソコンで組んだソフトウェアの制作・販売を手掛けるようになり、1978年には日本で初めてパソコン用パッケージゲームソフトの開発・販売業務を行うようになる。当時は、同じ電子機器を扱っているからという理由で多くのアマチュア無線ショップがパソコン販売会社に鞍替えしていた。
ソフトウェアに関しては、当初はパソコンを購入した客が自力でプログラムを開発できない場合のおまけとしての存在だった。この時点のハドソンにはまだ開発用の機材がほとんど無く、顧客に販売するコンピュータを納品の前日にこっそり開梱しプログラムを打ち込み、当日朝には再度梱包して納品するという、ある種の自転車操業を行っていたこともある[13]。なお、ソフトは店頭販売も行っていたが、ローカル都市の1ショップであり広告宣伝もさほど行っていなかったため、知る人ぞ知るという状況だった。
オリジナルソフトの通販で躍進
ショップは次第に、北海道大学の学生などを主とした札幌市内のパソコンマニアの溜まり場となった。後にハドソンに入社してボンバーマンの生みの親となる中本伸一など、一部の学生はアルバイトとして自らソフトを開発し、それらのソフトも店頭で販売するようになったが[14]、「いつ潰れてもおかしくない資金繰り」だった[15]
しかし1979年、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元シャープの勧めで、「月刊マイコン」(電波新聞社)昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「サンタクロース」と呼んでいた[15]
以降、パソコンソフト開発で高い技術力を発揮し精力的に作品を発表し、一躍ハドソンは日本を代表するパソコンソフトメーカーとしての認知を得る。ただし、当初は主にシャープMZシリーズ、X1シリーズ用のBASIC(Hu-BASIC)などを手掛けており、日本で圧倒的な人気があったNECPC-8000シリーズ用のソフトを開発していなかった[16]。そのため、ハドソンの名前は当時のパソコンのライトユーザーには浸透していなかった。
ソフトバンクとの独占契約
1981年には孫正義率いるパソコンソフトの流通会社である日本ソフトバンクと独占契約を結び、上新電機を始めとする全国の主なパソコン販売店の店頭でソフトウェアが販売される体制を確立した。なおソフトバンクの歴史でハドソンの存在は必要不可欠と言われており、現在も孫は工藤兄弟を「恩人」と呼び、事ある毎に礼を欠かしていない[17]

家庭用ゲームソフトの開発 編集

ファミコン市場への参入
1983年に任天堂家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータを発売。ハドソンはこの時期にファミコン向けBASIC言語ファミリーベーシック」を共同開発した。これを契機にファミリーコンピュータ用ゲームソフト開発に乗り出す。
主にパソコンソフトの開発者をそのままファミコンソフトの開発担当としたため、ハドソンのパソコン事業は徐々に規模を縮小していくことになったが、この方針転換は、当時専務だった工藤浩がデパートの丸井今井札幌店(当時はハドソンのアンテナショップも置かれていた)にてファミコンの『ドンキーコング』を遊んでいる子供たちを見て、このゲーム機はいずれパソコンでのゲームを追い抜くと判断したことによるもので、創業者の工藤裕司もその判断を支持したためである。
事実上、初のサードパーティーとなったことで、初期参入会社と同様に、任天堂からソフトの年間発売制限数の緩和やロイヤリティなどの優遇措置を受けることになり[18]、ハドソンはファミコン黎明期にヒット作を連発し、ファミコンのソフトメーカーとして一躍名を馳せる。
ヒット作を連発して大成功
他会社と決定的に違ったのは、社内に自由な空気があり、積極的に独自の企画を生み出したことである。全国各地を巡業するゲーム大会「ハドソン全国キャラバン」や、16連打でスイカを割る「高橋名人」は小学館の『コロコロコミック』を筆頭に児童誌でも大々的に取り上げられ、高橋を題材にした『高橋名人の冒険島』の他にも『忍者ハットリくん』や『ドラえもん』『ロードランナー』『桃太郎伝説』などが100万本以上のミリオンセラーを記録するなど、ファミコン人気を決定的なものにした。
PCエンジンには『原人シリーズ』や『桃太郎シリーズ』『天外魔境シリーズ』『ボンバーマンシリーズ』等の代表的な作品・シリーズだけでなく『R-TYPE』『イースI・II』など極めて完成度の高い移植も手掛けている。初めての分野や技術にも積極的に挑戦し、1988年12月には世界で初めてCD-ROMを媒体としたゲームソフトを開発・発売した他、2000年8月にはコンシューマーゲーム初のMORPGルーンジェイド』を発売した。
その他にも『スーパー桃太郎電鉄III』や『桃太郎電鉄7[19]がミリオンを達成したり、1998年の時点でボンバーマンシリーズが累計販売本数1000万本を突破する[注釈 4]など、様々なプラットフォームでゲームソフトを供給するソフトメーカーの雄として存在を示した。
2005年にコナミの子会社となった以後も吸収されるまでゲームソフトの供給を続けており、2008年発売のWii用ゲームソフト『DECA SPORTA Wiiでスポーツ"10"種目!』は全世界累計約277万本[20]を販売し、以後シリーズ化された。

家庭用ゲーム機「PCエンジン」の開発 編集

ハドソンは本来、技術者の集団ということもあり、任天堂のサードパーティーとして、ファミコンブームの立役者としての立場に甘んじる事無く、独自のハード作りにも乗り出した。

1987年に日本電気ホームエレクトロニクス(NEC HE)と共同開発した家庭用ゲーム機PCエンジンは、ハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載しており、実質ハドソンが開発したゲーム機である。

PCエンジンは、当時のライバル機である任天堂スーパーファミコン(全世界累計4,910万台)やセガメガドライブ(全世界累計3,075万台)と、日本を含め世界市場で覇権争いを展開した。全世界累計の販売台数は1000万台を記録しており、ライバル機の売上には及ばないものの、競合をはるかに凌駕する「美麗なグラフィック」「高音質な楽曲・音声セリフ」「CD-ROMドライブによる大容量ゲーム」などを実現するなど、一時代を築いた名機として成功といえる結果を残した。

1994年12月に発売された、後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットも、PCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。しかし当時、次々と発表された競合ハードであるPlayStationセガサターンNINTENDO64の3D性能に対抗すべく急遽PC-FXに搭載する予定だった3Dポリゴン用チップの開発が間に合わず、結果としてPCエンジンの延長線上である従来型の2Dゲーム路線のソフト開発がメインになってしまうなど、急速に発展する3Dゲーム市場からは後塵を拝してしまう。

本機を最後に、ハドソンはハード開発から撤退する事になったものの、長年NEC HE系列のファーストパーティー的な存在であり続けた。

ゲーム関連分野や、それ以外の分野への進出 編集

1991年にコンピュータプログラマー、デザイナーの養成を目的に「ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社[注釈 5]」を設立し同スクールを開校、コンピュータゲームに関わる人材を養成していたが、1997年に同社を「株式会社フューチャービー(後に株式会社未来蜂歌留多商会に商号変更)」とし、トレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出した。同年4月には東京都千代田区にあるサンポウ水道橋ビルの2階にトレーディングカードを扱うパイロットショップ「フューチャービー」を開店し、後に全国に展開された。

また1991年から札幌の老舗デパート丸井今井のデータウェアハウス構築に協力しており、その流通向けデータベース・マーケティングシステム開発のノウハウを活かしてデータウェアハウス用パッケージソフト「P2/S」を開発した[3]

1992年には札幌芸術の森アートビレッジ内に、将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門であるハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)を設立し、ゲーム機用半導体開発、ゲーム開発環境の整備などを行っていた。その一方同研究所は1997年に育成散歩計「てくてくエンジェル」を開発し、日経産業新聞優秀賞を受賞。その他にも筑波大学の徳永隆治らと共同で画像圧縮技術「Hybrid Vector Quantization(HVQ)」及び動画圧縮技術「HVQM」を開発[21][22]した。

さらに2002年には、日本ビクターと共同でCD-ROMコピー防止技術「ROOT」を開発する[23]、株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共同で独自のフォーマット形式の電子書籍を閲覧するソフトウェア「ebi.BookReader」を開発する[24]など、ゲーム業界だけではなく様々な業界に関わる技術開発を行っていた。

コナミの子会社化 ~ ハドソンブランドの終焉 編集

1990年代末、メインバンクだった北海道拓殖銀行の破綻により資金繰りが悪化。2000年3月よりiモード用のゲームコンテンツ配信を開始するなど、携帯電話向けの事業に乗り出すが、経営状態は好転せず、2000年代に入ってコナミの資本が入るようになり、2004年には創業者が経営から完全に手を引き、2005年にはコナミの子会社となる。同時に特徴的であった「自由な社風」も社内から無くなった。

2007年に本社を東京ミッドタウンに移すがヒット作がほとんどなく、2008年には社長を退任した遠藤やマリオパーティシリーズのスタッフがエヌディーキューブに移籍。コナミの完全子会社になった2011年は、開発ラインナップに家庭用ゲーム機向けタイトルが無くなったことで高橋名人が退社。

さらに、『桃太郎シリーズ』のゲーム監督さくまあきらも、長年付き合いのあった桃太郎電鉄の開発チーム「Team Kawada」に在籍するハドソン社員の多くが退社したり、ハドソンを吸収合併したKDE-Jに在籍する社員との間に発生したトラブルにより、コナミとの確執を経て決別。事実上、桃太郎シリーズ打ち切りと同シリーズの著作権をコナミと他社に譲渡せず、一旦「永久に封印する」という事態が起きた。

そして翌2012年3月1日に、コナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、コナミグループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い[10]、KDEに吸収合併する形で法人としてのハドソンが消滅した。

なお、法人消滅後も当初は体裁上ハドソンブランドのサービスは継続されていたが[25]バーチャルコンソールでのラインナップの追加以外には目立った動きはあまりなく、2013年末をもってハドソンブランドが消滅。これらのアーカイブも全てコナミブランドに統一され、翌年の2014年元日付けでハドソンブランドの公式ホームページも閉鎖され、名実共に40年7か月の歴史に幕を下ろした。

旧ハドソンブランドのシリーズ展開 編集

2014年にコナミブランドに統一された後から現在に至るまで、旧ハドソンブランドのシリーズ作品が新たに発売されている。ただし、ハドソンが開発・販売をしていた時とは携わっているスタッフが異なる場合が多く、現時点(2022年6月現在)ではいずれの作品も従来のシリーズとは路線の異なる部分が少なくない[注釈 6]

コナミブランド統一後(2014年以降)の各シリーズの展開については、各シリーズの記事を参照。

沿革 編集

  • 1973年昭和48年)
    • 5月18日 - 工藤裕司工藤浩が、札幌市豊平区にて通信機器の販売、美術写真の販売を目的に有限会社ハドソンを設立。
    • 9月 - アマチュア無線機器の販売店「CQハドソン」を開店。
  • 1975年(昭和50年)9月 - パソコン用機器の販売を開始。
  • 1978年(昭和53年)3月 - 日本で初めてパソコン用パッケージゲームソフトの開発・販売を開始。
  • 1982年(昭和57年) 3月 - 東京事業所(東京都千代田区麹町)開設。
  • 1984年(昭和59年)
    • 7月 - 初のサードパーティとしてファミリーコンピュータ用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。
    • 10月 - 株式会社メディアを買収、同社を「株式会社ハドソン販売」に商号変更[26]
    • 11月 - 有限会社ハドソンから株式会社ハドソンへ組織変更。
  • 1985年(昭和60年)
  • 1986年(昭和61年)
    • 3月 - 株式会社ハドソン(法律上の消滅会社、実質上の存続会社)、株式会社ハドソン(法律上の存続会社、本店札幌市北区、休眠会社を合併し商号変更したもの)及び株式会社ハドソン販売の三社合併[26]
    • 9月12日 - ハドソン所属のファミコン名人・高橋名人をキャラクターに起用した『高橋名人の冒険島』を発売。以後シリーズ化。
    • 10月3日 - 高橋名人を題材にしたテレビアニメ『Bugってハニー』が日本テレビ系列他にて放送開始。
  • 1987年(昭和62年)
    • 7月 - 「シュウォッチ」発売。
    • 7月 - 独自のLSIを含む「C62システム」を開発。NECホームエレクトロニクスとゲーム機「PCエンジン」を共同開発。
    • 9月 - PCエンジン用ソフトの開発・販売を開始。
    • 10月26日 - ハドソン初のRPGであるファミコン用ソフト『桃太郎伝説』を発売。以後桃太郎シリーズとしてシリーズ化。
  • 1988年(昭和63年)
    • 7月 - コンピュータソフトの商標権・版権管理を目的に「ハニービー音楽出版株式会社」を設立。
    • 12月 - R&D業務MD業務(ライセンス管理等)を目的に「未来計画株式会社」を設立。
    • 12月2日 - 前年に発売された『桃太郎伝説』の派生作品として、ファミコン用ソフト『桃太郎電鉄』を発売。以後シリーズ化。
    • 12月4日 - CD-ROMを媒体とした世界初のゲームソフト『No・Ri・Ko』『ファイティングストリート』を発売。
  • 1989年平成元年)
  • 1990年平成2年)
  • 1991年(平成3年)4月 - コンピュータプログラマー、デザイナーの養成を目的に「ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社[注釈 5]」を設立。
  • 1992年(平成4年)
    • 1月 - スーパーファミコン用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。
    • 9月 - 札幌市南区、芸術の森アートビレッジ内に「ハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)」を設立。
    • 9月 - ハドソン創業20周年を記念し、中央研究所内に庶民の穴銭資料館「方泉處」を開設[27]
  • 1993年(平成5年)7月 - 世界初のハイビジョンゲーム『HI-TEN ボンバーマン』を開発、イベントに使用。
  • 1994年(平成6年)
    • 3月 - 32ビット半導体チップセット「HuC62シリーズ」を開発。
    • 5月 - 創業者の弟・工藤浩が代表取締役社長に就任。
    • 12月 - NECホームエレクトロニクスと共同開発したゲーム機「PC-FX」が同社より発売される。
    • 12月 - PC-FX用ソフトの開発・販売を開始。
  • 1996年(平成8年)
    • コンサドーレ札幌のオフィシャルパートナー。
    • 5月18日[28] - CIロゴの表記を「HUDSON GROUP HUDSON SOFT」から「HUDSON」に変更。
    • 6月 - セガサターン用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。
  • 1997年(平成9年)
    • コンサドーレ札幌のオフィシャルパートナー撤退。
    • 2月 - ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社[注釈 5]を「株式会社フューチャービー」に商号変更。会社目的も未来の玩具の企画・デザイン及び販売、トレーディングショップの管理運営に変更。
    • 4月 - 東京都千代田区にあるサンポウ水道橋ビルの2階にパイロットショップ「フューチャービー」を開店。トレーディングカードを扱い、102名を収容可能な本格的なデュエルルームを備える[29]。フューチャービーの店舗は後に全国に展開される[30]
    • 8月 - NINTENDO64用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。
    • 11月 - PlayStation用ソフトの開発・販売を開始。
    • 12月 - 世界初の育成散歩計「てくてくエンジェル」を発売。
  • 1998年(平成10年)
  • 1999年(平成11年)
    • 2月 - てくてくエンジェルが「日経産業新聞優秀賞」を受賞。
    • 2月7日 - 「Bビーダマン爆外伝」の続編である『Bビーダマン爆外伝V』がテレビ朝日系列にて放送開始。
    • 3月 - ドリームキャスト用ソフトの開発・販売を開始。
    • 5月 - 東京事業所、新宿区市谷田町から中央区築地に移転。
    • 5月29日 - 自社が著作権を保有する「ボンバーマン」「桃太郎」などのキャラクターイラストについて、教育関係及び福祉関係団体等の非営利目的での使用の場合の無償使用許可、同一目的用のキャラクター線画配布を朝日新聞紙面上で発表[32]
  • 2000年(平成12年)
  • 2001年(平成13年)
    • 1月 - iアプリ対応コンテンツサービスを開始。
    • 3月 - PlayStation 2用ソフトの開発・販売を開始。
    • 3月 - 富士通他4社とASP事業の本格展開に際し、ジェイビートゥビー株式会社の第三者割当増資を引受。
    • 3月 - ゲームボーイアドバンス用ソフトの開発・販売を開始。
    • 3月 - ゲームソフトの長期開発資金としてシンジケートローンを実施。
    • 5月 - CQハドソン閉店。
    • 5月 - 庶民の穴銭資料館「方泉處」を閉館[34]
    • 8月 - コナミが第三者割当増資を引き受け筆頭株主となる。
    • 12月 - コナミコンピュータエンタテインメントの札幌事業を「ハドソンスタジオ」として分割、継承。企業体質強化及び収益の向上を図るため、組織を大幅に変更、社内カンパニー制を導入。
  • 2002年(平成14年)
    • 1月 - 前年12月発売の『桃太郎電鉄X ~九州編もあるばい~』が発売1ヵ月で50万本を出荷。
    • 4月 - ニンテンドーゲームキューブ用ソフトの開発・販売を開始。
    • 5月 - 株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共同開発した、独自のフォーマット形式の電子書籍の閲覧ソフトウェア「ebi.BookReader」が同社よりリリースされる[24]
    • 6月 - 台湾におけるiモードサービスを開始。
    • 6月 - 筑波大学の徳永隆治らと共同で開発した[21][22]独自の画像圧縮技術「HVQ」の提供により、株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共に岩見沢市立図書館における岩波文庫電子書籍化サービスに参入。
    • 7月 - 中央研究所を「コア・テクノロジーセンター」に、東京事業所を東京支社に改称。
    • 8月 - CD-ROMコピー防止技術「ROOT」を日本ビクター(現・JVCケンウッド)と共同開発[23]
    • 9月 - 当初の目的を達成・終了したため招布株式会社を清算。
    • 10月 - パソコン用地図ソフト「MaPiVi」を株式会社ゼンリンと共同開発[35]
    • 10月2日 - 「ボンバーマン」を題材としたテレビアニメ『ボンバーマンジェッターズ』がテレビ東京系にて放送開始。
    • 12月 - 携帯電話用アクセサリー「チョ~!ワイドレンズ」(広角レンズ)を発売。
  • 2003年(平成15年)
    • 10月14日 - 東京都台東区の妙泉寺に桃太郎シリーズの登場キャラクター「貧乏神」をモチーフとした「貧乏が去る(猿)像」を設置、10月14日以降一般公開される[36]
    • 11月 - アメリカ・カリフォルニア州サンマテオに100%子会社「Hudson Entertainment, Inc.」を設立[注釈 7]
  • 2004年(平成16年)11月 - 遠藤英俊が代表取締役社長に就任。創業者である工藤兄弟が経営から退く。
  • 2005年(平成17年)
    • 1月 - PlayStation Portable用ソフトの開発・販売を開始。
    • 4月 - 第三者割当増資をコナミ(後のコナミホールディングス)が引き受け、コナミの連結子会社となる。
    • 5月 - ハニービー音楽出版(連結子会社)を吸収合併。
    • 5月 - ニンテンドーDS用ソフトの開発・販売を開始。
    • 7月 - 本社を創業の地・札幌市豊平区から東京都中央区に移転する。
  • 2006年(平成18年)
    • 3月 - 株式会社未来蜂歌留多商会(連結子会社)を清算。
    • 3月 - Xbox 360用ソフトの開発・販売を開始。
    • 8月4日~8日 - 「桃太郎電鉄シリーズ」と五所川原立佞武多がタイアップ。「桃太郎電鉄 立佞武多」が制作・運行された。
    • 12月 - Wii用ソフトの開発・販売を開始。
  • 2007年(平成19年)
    • 4月 - 「桃太郎電鉄シリーズ」と銚子電鉄がタイアップ[37]。「桃太郎電鉄 ラッピング車両」が運行され、犬吠駅仲ノ町駅笠上黒生駅に同タイトルの登場キャラクターをモチーフとした「しあわせ三像」が設置された。
    • 6月 - 本社を東京都港区赤坂のミッドタウン・イーストに移転。
  • 2008年(平成20年)
  • 2009年(平成21年)
    • 4月 - 札幌支社を北海道本社に改称。
    • 5月 - 東京本社を赤坂ミッドタウン・タワーに移転。
  • 2011年(平成23年)
    • 3月末 - 完全子会社化に伴いアメリカにおける子会社「Hudson Entertainment, Inc.」を解散。
    • 4月1日 - コナミとの間で簡易株式交換を実施し、コナミの完全子会社となる。上原和彦(KDE執行役員)が代表取締役社長に就任する。
    • 5月 - 北海道本社を札幌事業所に改称。
    • 7月 - 東京本社、かつてあったミッドタウン・イーストに再移転。
  • 2012年(平成24年) 3月1日 - コナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、コナミグループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い[10]、KDEに吸収合併され、法人としてのハドソンが解散した[25]
  • 2014年(平成26年)1月1日 - ハドソンブランドの公式ホームページが消滅した。

社長の趣味と企業風土 編集

ハドソンの社名の由来は、熱狂的な鉄道ファンでもあった創業者・工藤裕司が、国鉄C62形蒸気機関車ハドソン形という車軸配置から取ったものである[注釈 8]

工藤は大学在学中からサラリーマン時代にかけて、サイドビジネスとして自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売しており、その際に用いていた社名も「グループハドソンプロダクション」だった。

工藤の鉄道趣味は留まることを知らず、社名のみならずハドソンの社内にも鉄道関連のトリビアが溢れていた。社長室には常時組み立て中の鉄道模型が置かれ、工藤がC62形の2号機[注釈 9]が好きだったことから、本社の入口にもC62の部品の一部が飾られていた。また、会社の代表電話番号の末尾4桁は4622[38]で、さらには郵便番号をC62にちなんだ「062」にするため、本社をわざわざ北海道札幌市豊平区に置くという独特の拘りぶりだった。また、かつて札幌芸術の森に隣接したアートビレッジにあったハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)の屋上にはライブスチームの線路が敷設され、専属のメカニックが配置されていたほか、研究所の大会議室ではテーブル中央に鉄道模型のジオラマが置かれC62の模型が走っていた。その模様はNHKスペシャル新・電子立国』でも取り上げられた[39]

1988年から1995年までC62ニセコ号を運行していた北海道鉄道文化協議会(通称:鉄文協)ではスポンサーの一社を務めていた[40]。C62運行のスポンサーが集まらず、鉄文協が「おたくの社名のハドソンというのは、C62の車軸配置の通称なんですよ。その縁で協力してもらえませんか?」と依頼したところ、そこで初めて工藤もC62好きであることを知り、二つ返事で協力に至ったという[要出典]

また、他の趣味として古銭の収集があり、社内に「東洋鋳造貨幣研究所」という古銭専門の研究所を設け、ハドソンの文化事業の一環として中央研究所の建物内に庶民の穴銭資料館「方泉處(ほうせんか)」という古銭博物館を開設していた他、博物館名と同じ「方泉處」という季刊の研究誌(1992年 - 1998年)も発行していた[41]が、1990年代末に経営難に陥って以降はこれらの活動は順次的に廃止されていった。方泉處という名前は、展示の元になっていた工藤のコレクションの保管箱に付けられた名前「方穿貨(ほうせんか)[注釈 10]」が由来となっている[42]

1980年代半ばのハドソン関係者が口々に言う「会社の自由な空気」は社員のみならず、社長自身もそれを体現していた。中でも1986年当時の社員旅行はバブル景気バブル経済)の過度期であったこともあり、「貸切ジェット機でハワイ旅行」[要出典]という、一般企業ではあまり類のないものであった。

『迷宮組曲 ミロンの大冒険』を制作し、後に同社のサウンド部門のプロデューサーとなった笹川敏幸は「自由な空気」について「とっても些細なことに、とことんこだわってみる。究極までやりつくしてみる。」という遊び心があったと語っている[43]

社章・CIロゴ 編集

 
かつてハドソン本社のビルの看板に描かれていたハチ助

社章で、「ハチ助」とも呼ばれている。ハドソンのゲームソフトにボーナスキャラ・隠れキャラとして古くから数多く登場している。由来は、北海道のアマチュア無線のエリア番号が「8(はち)」であるため、同音である「蜂」を採用したと言われている。高橋名人によると当初は「CQハチ助」と呼ばれていた[44](これは高橋の勘違いであり、実際は「JA8スケ」である[要出典]。理由は当時のアマチュア無線の北海道のコールサインがJA8で始まっていたことによるものである[要出典])。

1996年5月18日[28][注釈 11]よりハドソンのCIロゴの表記が「HUDSON GROUP HUDSON SOFT」から「HUDSON」に変更された[注釈 12]。高橋名人によるとその理由は「HUDSONのみの表記にすることで、全体的なCIロゴサイズを変更しなくてもハチ助を大きくレイアウト出来るから[45]」だという。

2007年にはハチ助をモチーフとしたアーバンライフスタイルブランド「8SK(ハチスケ)」が立ち上げられ、Tシャツやキャップが公式サイトなどで販売されていた[46]

ハドソン全国キャラバン 編集

ハドソン全国キャラバン」とは、ハドソンが国内大手の電子部品メーカーのTDK[注釈 13]との協賛で1985年から行っていたゲーム大会のこと。

最大の特徴は「キャラバン」の名にふさわしく、北海道から沖縄まで全国各地を巡業していた事である。各都道府県政令指定都市にとどまらず、他の都市でも行われた。最大は第2回の40都道府県・65会場である。

  • 1985年 - 1997年のキャラバンでは毎回「公式ソフト」としてハドソン製のゲームソフトが1本製作され、そのゲームを用いた大会が行われた。
  • 1990年 - 1992年の3回は「ワールドカップ」として、会場を日本だけでなく海外にも拡大した。
  • 1993年からは「ハドソンスーパーキャラバン」の題に改題された[47]
  • 1998年 - 2000年の3回はコンピュータゲームではなくカードゲームの大会が行われ、2000年をもっていったん「キャラバン」の名を冠したイベントは終了した。
  • 2006年、「ハドソン全国キャラバン'06」で「キャラバン」の名が復活し、このときの公式ソフトにはニンテンドーDSの『Touch!ボンバーマンランド』の他、シュウォッチも使われた。

公式ソフト 編集

トレーディングカードゲーム 編集

  • 1998年:大貝獣物語 THE MIRACLE OF THE ZONE
  • 1999年:大貝獣物語 THE MIRACLE OF THE ZONE 青の章
  • 2000年:パワーリーグ 夢のスタジアム2000[48]

事業拠点 編集

 
本社のあったミッドタウン・イースト

2009年4月から2011年4月末まで、2本社体制となっていた(登記上本店は東京本社)[49]。かつては、大阪名古屋福岡等にも事業所を設置していた。市谷田町に札幌市時計台を模した東京支社ビルを擁していた時期もある。

  • 本社
東京都港区赤坂9丁目7番2号 ミッドタウン・イースト
  • 札幌事業所
札幌市豊平区平岸3条5丁目4番22号 ハドソンビル (現・平岸グランドビル新館)
ハドソン創業の地であり、2005年に東京に本社を移転した時は札幌支社となるが、その時点で北海道にも拠点があったことから、2009年4月より北海道本社に改称。2011年5月からは札幌事業所に改称され、KDEへの吸収後も残ったが、2014年10月に閉鎖。

製品 編集

ハードウェア・デバイス 編集

これらは、HuC62シリーズとしてPCエンジンのチップセットとして使われた。

  • POEMS(Portable Entertainment Mixed Solution) 32ビットシングルチップLSIで、動画表示、3D/3D描画エンジン、サウンドエンジン、拡張メモリインターフェイス、ネットワーク機能を搭載したSoC。採用例としては、コナミから発売されたPLAY-POEMS等が有る。

パソコン用ソフトウェア 編集

実用ソフト

  • PALL CAI
  • PALL LIFE
  • DATA BASE
  • QSO整理
  • 株式売買
  • アペンド10
  • アペンド20
  • RAM TEST
  • テンキー&ファンクションキー
  • 英会話レッスン
  • 価値判断
  • 金種計算
  • 姓名判断
  • 占星術

プログラミング言語、OS

  • FORM(Tiny Fortran)
  • PALL(Tiny PASCAL)
  • GAL(ASCIIのGAMEの拡張版,クレームにて回収)
  • Hu-BASIC(MZ,X1用のBASICインタープリタ、韓国三星のSPC-1000にも採用実績がある)
  • Hu G-BASIC(グラフィック重視のBASIC)
  • mini Hu BASICコンパイラ(整数型BASICコンパイラ)
  • NS-Hu BASIC(ファミリーベーシックに内蔵された整数型BASICインタープリタ)
  • HuCAL(簡易言語)
  • HuVOICE(パソコンのPSGを使った音声発生ソフト)
  • H-DOS

任天堂製ファミコンソフトの移植(アレンジ移植を含む)

16ビットパソコン用ソフト

ゲーム

家庭用ゲーム機 編集

日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)との共同開発。

ゲーム以外のゲーム機向けソフトウェア 編集

  • Hu-VIDEO - PCエンジン用アニメーション再生技術(動画圧縮技術)
  • Hybrid Vector Quantization(HVQ) - 筑波大学の徳永隆治らと「マリオパーティシリーズ」のために共同開発した画像圧縮技術(画像圧縮エンジン)
  • HVQM - 筑波大学の徳永隆治らと共同開発した動画圧縮技術(動画圧縮エンジン)

主な家庭用ゲーム作品(移植作品を含む) 編集

周辺機器 編集

ゲームコントローラー
  • ハドソンジョイスティックFC用、1985年、定価3,500円、黄色) - スティック型。
  • ジョイカード(FC用、赤) - 色は、任天堂純正コントローラー色と同じ。連射コントローラー。
  • ジョイカードMK.2(FC用、1986年6月、定価1,980円、赤) - 15連射コントローラー。
    • ジョイカードMK.2 ヘクター'87バージョン(1987年、1,980円) 
    • ジョイカードMK.2 サンスイバージョン1(1990年、定価2,980円)
    • ジョイカードMK.2 サンスイバージョン2(定価2,980円)
    • ジョイカード サンスイSSS(定価2,980円、灰色)
    かつての音響機器メーカーであった山水電気の子会社・福島サンスイと共同開発した(1980年代当時)製品で、音量ボリュームとイヤホン出力端子を装備した15連射コントローラー。
    独自開発のサウンドシフト機能を搭載した事により、十字キーの左右入力とステレオ音声のLRが連動して聞こえるため、臨場感のある独特なステレオサウンド(実質的にはテクニカル(擬似)ステレオ扱い)がモノラル出力のファミコンでも堪能出来る仕様になっている。
    • ジョイカードmkⅡ(透明色、非売品) - Bugってハニーの懸賞品。ゲーム内のパスワードを応募。
  • ジョイカード(MSX用) - 色は、灰色。
  • ジョイカード スーパーX(MSX、X1X68000用)
  • ジョイカード スーパーII(MSX用)
  • スーパージョイカード(SFC用、1991年、定価2,980円)
  • ジョイカード64(N64用)
    • ジョイカード64 J(N64用、緑色) - Jリーグ イレブンビート1997の懸賞品。応募券を送ると抽選で1000名に当選。
    • ジョイカード64 P(N64用、青色) - パワーリーグ64の懸賞品。応募券を送ると抽選で1000名に当選。
  • SBOMジョイカード(SS用)- 『サターンボンバーマン』、『銀河お嬢様伝説ユナ3』などに対応。
外部記憶装置
  • 天の声バンク(PCE用、1991年9月6日、定価3,880円) - HuCARD型の外部記憶カード。
  • 天の声2(PCE用、1989年8月8日、定価2,600円) - PCエンジン本体に接続する外部記憶ユニット。
メモリーカード・ソフトカード
  • BEE CARD - カード型のメモリーカード。MSXで使用するには別途BEE PACKが必要。
  • HuCARD - PCエンジン用メモリーカード。PCエンジン用ソフトメディアの主流がCD-ROMに移行するまではソフトとしても発売され、その後は周辺機器として(CD-ROM2用システムカード、アーケードカード、天の声バンクなど)のHuCARDも発売された。
その他
  • ファミコンシステムラック(FC用、1,500円)
ファミコン本体とディスクシステムを固定するラック。

その他の商品 編集

主な提供番組 編集

(★は筆頭提供番組、それ以外は複数社提供)


提供番組における補足 編集

  • 『藤子不二雄のキテレツ大百科』『Bugってハニー』などの筆頭提供番組での提供読みは「キミたちのいい脇役。HUDSON SOFT」で、クレジットは白バックに「提供」の文字の下にカラーの「ハチ助」が大きく表示され、その下に「キミたちのいい脇役になりたいな。(改行)HUDSON GROUP(改行)HUDSON SOFT」と表示されていた。但し、キテレツのみブルーバック。
  • 『高橋名人の面白ランド』では映像をバックに黒の縁取りに白文字で「提供(改行、ハチ助、改行)HUDSON GROUP(改行)HUDSON SOFT」とだけ表示していた。
  • 2005年の『強殖装甲ガイバー』にて、ゲーム販売には関わらないTVCMを放送し、提供読みはメインキャラクター4名[注釈 18]が担当していた。
  • 晩年は、「HUDSON」の提供クレジット表示となっていた。但し、『ぴたテン』、『ギャラクシーエンジェルA』などの一部の番組は、「ハドソン」とカタカナの社名フォントの提供クレジット表示となっていた。
  • メタルファイト ベイブレード』では、第2シリーズ(爆)までの提供に参加しており、第3シリーズ(4D)とZEROGでは提供には参加していなかった[注釈 19]

工藤裕司 編集

工藤裕司1947年4月6日 - )北海道ニセコ町生まれ:ハドソン創業者。現在のペンネームは三遊亭あほまろ[注釈 20]。趣味については#社長の趣味と企業風土を参照。

関連項目 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ この他にも、コア・テクノロジー事業[1][2]、流通向けデータベース・マーケティングシステム事業[3]トレーディングカードの企画・開発・販売事業[4] 、ライセンス事業[4]などを行っていた時期がある。
  2. ^ 倒産(経営破綻)したと言われることがあるが、これは誤りである。
  3. ^ 権利自体は現在もKDEがすべて保有している。
  4. ^ 1998年に『ボンバーマンシリーズ やったぞ1000万本キャンペーン すごいぞ1000人プレゼント』が実施された。
  5. ^ a b c ハドソンコンピューターデザイナーズスクールとも表記される。
  6. ^ 特に版権元であるKDEからリリースされたものについては、世界観の設定や登場キャラクターのデザイン、BGM等の方針変更が顕著である。
  7. ^ サンフランシスコ州と書かれている資料もある。
  8. ^ この呼称はニューヨークセントラル鉄道ハドソン川沿いの線で、この車輪配置の機関車を走らせたことに由来する。
  9. ^ 同機は同型機の中で唯一、デフレクターシルエットになったのマークがあしらわれ、ファンの間から「スワローエンジェル」という愛称がつけられていた。
  10. ^ 四角い穴が開いたお金の意。
  11. ^ ゲームパッケージのCIロゴが「HUDSON」に変更された初のソフトは同年6月1日に発売された『Jリーグ'96ドリームスタジアム』。
  12. ^ ゲームタイトル画面などの権利表記は「HUDSON SOFT」のままになっている。
  13. ^ この当時、TDKは電子部品の製造のみならず、磁気テープオープンリールコンパクトカセットマイクロカセットDATDCC等)やビデオテープVHSベータマックス等)、記録用光学ディスクCD-RCD-RWDVD-RDVD-RWBD-RBD-RE)、光磁気ディスクMOMD)、フロッピーディスク等の記録用メディアの製造も手掛けていた。
  14. ^ このソフトではゲーム大会は行われず、「劇場空間天外ごっこ 誰がハドソン夢まつり’95」と題したイベントが開催。
  15. ^ 「にこボンピック'96」と題してイベントが開催され、同作のバトルゲームによる10人対戦の大会や、キャラバン用にチューニングされた段位認定ゲーム「マスターゲーム(にこボンピック'96仕様)」などが行われた。
  16. ^ もともとエイリアンクラッシュナグザットの発売だが、後にハドソンに商標登録等の権利を所有することになった。そのため、開発・発売ともにハドソンである。
  17. ^ 2006年9月16日発売のWii用ソフト。過去にはタカラトミー(旧:タカラ)の『冒険遊記プラスターワールド』のキャラも登場している(但し、声優は同じキャストが演じている)。
  18. ^ 野島健児(深町晶役)、水樹奈々(瀬川瑞紀役)、高口公介(瀬川哲郎役)、小西克幸(巻島顎人役)。
  19. ^ これは、コナミが吸収合併したことにより、ハドソンブランドが存在していたことによって解散したことから。
  20. ^ 命名は三代目三遊亭圓歌

出典 編集

  1. ^ ハドソン中央研究所 - ウェイバックマシン(2002年8月4日アーカイブ分)
  2. ^ CT事業本部 - ウェイバックマシン(2004年6月3日アーカイブ分)
  3. ^ a b 事業内容1 - ウェイバックマシン(2000年1月15日アーカイブ分)
  4. ^ a b 事業内容2 - ウェイバックマシン(2000年1月15日アーカイブ分)
  5. ^ 電子公告『資本金の額の減少について』” (PDF). ハドソン (2011年7月4日). 2011年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月5日閲覧。
  6. ^ 佐々木 2013, p. 8.
  7. ^ a b c 沿革 - HUDSON SOFT - ウェイバックマシン(2000年12月11日アーカイブ分)
  8. ^ a b c 相田洋; 大墻敦 (1997-01-20). 新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防. 日本放送出版協会. p. 215 
  9. ^ ゲームとともに...(株式会社ハドソン) - ウェイバックマシン(1996年11月6日アーカイブ分)
  10. ^ a b c ハドソンが解散へ コナミデジタルエンタテインメントが吸収合併 - ITmedia NEWS
  11. ^ 会社案内 - 会社所在地・地図 - ウェイバックマシン(2005年6月1日アーカイブ分)
  12. ^ a b 相田洋; 大墻敦 (1997-01-20). 新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防. 日本放送出版協会. pp. 218-219 
  13. ^ 『新・電子立国』第4巻 pp.226 - 233
  14. ^ 相田洋; 大墻敦 (1997-01-20). 新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防. 日本放送出版協会. pp. 226-235 
  15. ^ a b 相田洋; 大墻敦 (1997-01-20). 新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防. 日本放送出版協会. pp. 235-241 
  16. ^ 赤木哲平『セガVS.任天堂―マルチメディア・ウォーズのゆくえ』(日本能率協会マネジメントセンター、1992年)p.126
  17. ^ 恩人が告白!なぜ私は「裸の孫正義」に賭ける気になったのか - PRESIDENT Online・2013年1月11日
  18. ^ 元ハドソンの桜田名人のツイッターでの発言「初期から参入していた会社は任天堂の定めた『ソフトの年間発売制限数』が多く、優遇されていた」” (2012年1月18日). 2013年4月1日閲覧。
  19. ^ 講演依頼.com さくまあきらプロフィール”. 2014年11月4日閲覧。
  20. ^ 2010年3月期 決算説明会資料” (PDF). ハドソン (2010年5月10日). 2010年12月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月10日閲覧。
  21. ^ a b 現在の研究開発内容 - ハドソン中央研究所 - ウェイバックマシン(2002年8月5日アーカイブ分)
  22. ^ a b 筑波大学 システム情報工学研究科 カオス研究室|製品紹介
  23. ^ a b ROOT - Copy Protection Technology - ウェイバックマシン(2004年4月14日アーカイブ分)
  24. ^ a b 沿革 | 企業情報 - 株式会社イーブックイニシアティブジャパン
  25. ^ a b 株式会社コナミデジタルエンタテインメントとの合併について”. ハドソン (2012年1月20日). 2012年1月20日閲覧。
  26. ^ a b 株式会社ハドソン有価証券報告書 - 沿革 (その他サービス業) - 有報リーダー[リンク切れ]
  27. ^ 庶民の穴銭資料館「方泉處」 - ウェイバックマシン(2001年4月10日アーカイブ分)
  28. ^ a b もぐさんはTwitterを使っています 「ハドソンのCIが変わったのは'96年5月18日の模様。'96年はユーモアネットワークのリニューアル、ホームページ開設ほか、ラジオ、サッカー方面でも色々やり出しているので広報体制に変化があったぽい。 https://t.co/8aWlRlEHKw」 / Twitter
  29. ^ フューチャービー東京 - ウェイバックマシン(2001年4月10日アーカイブ分)
  30. ^ フューチャービー 加盟店募集 - ウェイバックマシン(2001年2月19日アーカイブ分)
  31. ^ 未来蜂歌留多紹介トピックス - ウェイバックマシン(1998年5月24日アーカイブ分)
  32. ^ ハドソンキャラクターのご使用についてのご案内 - ウェイバックマシン(2000年1月16日アーカイブ分)
  33. ^ 仏・アンフォグラム社と合弁会社設立 - ハドソンニュースリリース - ウェイバックマシン(2002年4月21日アーカイブ分)
  34. ^ 新寛永通寶分類譜【泉家・収集家覚書】
  35. ^ 3D地図ソフト MaPiVi - ウェイバックマシン(2004年6月3日アーカイブ分)
  36. ^ 「桃鉄」15周年記念!看板ソフトの更なる拡販を目指しプロモーションを本格稼動(ハドソンニュースリリース) - ウェイバックマシン(2005年8月17日アーカイブ分)
  37. ^ ハドソン、「桃太郎電鉄」のラッピング電車が銚子電鉄に登場。「桃太郎電鉄20周年記念車両 出発式」レポート
  38. ^ 『ナッツ&ミルク』 - 高橋名人世代”. 電人☆ゲッチャ!. MAGES (2011年1月5日). 2011年1月5日閲覧。2分30秒頃から。
  39. ^ 第4回「ビデオゲーム~巨富の攻防~」(1996年1月21日放送)
  40. ^ 沿革 - ウェイバックマシン(1996年11月6日アーカイブ分)
  41. ^ 方泉處 - ウェイバックマシン(2001年4月5日アーカイブ分)
  42. ^ 庶民の穴銭資料館「方泉處」へ行ってみよう!その2 - ウェイバックマシン(2001年9月23日アーカイブ分)
  43. ^ 懐古主義・ファミコンゲームデザイナーの過去ブログ:ボンバーマンシリーズのBGMのこと(2)
  44. ^ 『ナッツ&ミルク』 - 高橋名人世代”. 電人☆ゲッチャ!. MAGES (2011年1月5日). 2011年1月5日閲覧。5分頃から。
  45. ^ 「HUDSON SOFT」が「HUDSON」に変わったわけ | 高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」Powered by Ameba
  46. ^ ハドソン、アーバンライフスタイルブランド「8SK」を展開 | インサイド
  47. ^ ハドソン全国キャラバン備忘録 - 1993年キャラバン「参加整理券」... | Facebook
  48. ^ ハドソン全国キャラバン備忘録 - 2000年のキャラバンは、『パワーリーグ 夢のスタジアム』のイベントでした。... | Facebook
  49. ^ 本社の移転及び組織変更に関するお知らせ” (PDF). ハドソン (2009年2月4日). 2009年2月5日閲覧。[リンク切れ]

参考文献 編集

  • 赤木哲平『セガVS.任天堂―マルチメディア・ウォーズのゆくえ』(日本能率協会マネジメントセンター、1992年)
  • 佐々木, 潤 (2013), 80年代マイコン大百科, 総合科学出版 

外部リンク 編集