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長嶋一茂

日本のタレント、元プロ野球選手

長嶋 一茂(ながしま かずしげ、1966年1月26日 - )は、日本の元プロ野球選手内野手)、元読売ジャイアンツ野球振興アドバイザー、タレントスポーツキャスター野球評論家俳優空手家。プロ野球を引退した翌年に極真空手の世界に飛び込み黒帯を取得した。極真空手歴は20年以上。血液型B型カトリック教徒で、洗礼名は「パウロ」[1]

長嶋 一茂
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都大田区
生年月日 (1966-01-26) 1966年1月26日(53歳)
身長
体重
181 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1988年4月9日
最終出場 1996年5月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

東京都大田区田園調布出身。ナガシマ企画所属。父は元プロ野球選手・監督長嶋茂雄、母は元実業家長嶋亜希子。4人兄弟の長男(第一子)で、弟は元レーシングドライバー長島正興、妹はキャスターの長島三奈

来歴・人物編集

プロ入り前編集

小学生の頃から野球を始めたが、上手くなく途中で辞めてしまい、この頃からマスコミや父親に取り入ろうとする人に付きまとわれることが多かった。ただし、野球は嫌いになったわけではなく、いずれはまた始めようと考えていたとのこと[2]田園調布中学校群馬県吾妻郡六合村(現:中之条町)にある白根開善学校中等部で中学時代を過ごし(ただし、ごく短期間で退寮)陸上部に所属していた。高校受験では桐蔭学園高等学校にも合格したが「父親と同じ立教で野球をやりたい」と、立教高等学校(現:立教新座高等学校)に進学した。高校時代から再び野球を始め、当初はブランクのため苦労したが2年の秋には四番を打つほどにまで成長。3年生時の1983年春季関東大会県予選準々決勝に進むが上尾高に惜敗。同年夏の甲子園県予選も準決勝まで進出したが、所沢商に延長10回0-1xでサヨナラ負けを喫した[3]

卒業後は立教大学に進学、立教大学硬式野球部では1年生時からレギュラーとなる。当時の立大は東京六大学野球リーグでは低迷が続き、1966年春季リーグ以降は優勝から遠ざかっていた。4年生時の1987年春季リーグでは、四番打者、主将として打率.340を打ち、満票でベストナイン(三塁手)に選出される。同年秋季リーグでは4本塁打、16打点(秋季リーグ打点王)を叩き出し、二期連続ベストナインに選出された[4]。同季は法大と最後まで優勝を争うが惜しくも2位に終わる。同年の第16回日米大学野球選手権大会の日本代表にも選ばれている[5][6]。リーグ通算101試合出場、382打数86安打、打率.225、11本塁打、54打点。高校・大学の一年後輩に矢作公一がおり、日米大学野球にも揃って出場している。また、1987年アジア野球選手権大会にも代表に選ばれたことがある。

1987年のドラフト会議ヤクルトスワローズ横浜大洋ホエールズの2球団が1位指名で競合し、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得。後に契約金8000万円、年俸840万円(金額は推定)で入団合意した[7]。ドラフト前日まで巨人も1位指名を検討したものの結局回避した[8]。当時ヤクルトの監督だった関根潤三は著書の中で「一茂のドラフト指名は僕の意向が強く働いた。六大学リーグでプレーする一茂を見に行って粗削りだけどものはいい。こりゃ素晴らしいプレーヤーになると思った」と記している[9]。父・長嶋茂雄は、育成の確かな広島東洋カープを勧めていたが、本人が「映画で見るようなヤクザの場所みたいで怖そう」という理由から難色を示したという[10][11]

ヤクルト時代編集

1988年、春季キャンプから一軍メンバーに選ばれ[12]、オープン戦で3割以上の打率を残し、シーズン当初は打てなかったものの4月27日の試合でプロ初安打をホームラン神宮球場での巨人戦、ビル・ガリクソン投手から)で飾り、『ミスター二世』として注目を集めた。しかし、本人は開幕後に相手投手の攻め方が変わったことでプロの壁を痛感しており、1年目の4月で限界を悟ったという[13]

野村克也がヤクルト監督就任した1990年は野村の提唱するID野球にまったく馴染めず、ミーティングでも一茂はノートに漫画を描いていた。この原因は当時、監督やコーチはもちろん、OB、評論家どころかカメラマンからも助言や指導をされ「助言のフォアグラ状態」になり、「もう、うんざり。助言の良しあしなんて、どうでもよくなる。放っておいてくれ」とだれの指導や助言にも耳を傾けなくなっていたことにあったと一茂本人が語っている[14]。なお、一茂は野村ではなくコーチ陣に対して不満があったという[15]1991年は、6月初旬からスタメンで起用されると、6月9日の広島戦では3安打5打点の活躍をし、その試合を皮切りにチームが球団新記録の12連勝をした。この12試合中の一茂の成績は、打率.282、2本塁打14打点OPS.934と、まずまずの成績を残し、ついに開花したと言われた。しかし、13連勝を狙った6月26日の巨人戦では、3点リードの9回裏にまずい守備を連発して逆転サヨナラ負けを喫したため、スポーツ紙では、長嶋に始まり長嶋で終わった12連勝と呼ばれた。

1992年は、マイナーリーグ1Aベロビーチ・ドジャースに野球留学したため出場機会がなく、チームの14年ぶりの優勝には貢献できなかった。後に「報道ステーション」2008年5月27日放送分(テレビ朝日)の中で一茂は野村と対談、「お前(ミーティング中に)漫画描いてたじゃないか」と冗談混じりながら当時の行動について指摘されている。また関根は「しかし結局選手として大成させられなかった。今でももう少し育てようがあったんじゃねぇかって思う。例えば僕のそばに置いてもっとシゴいたほうが良かったかもしれない。バッティングコーチも長嶋茂雄の息子だって言うんで遠慮あっただろう。それも含めて一茂を一人前にできなかったのは僕の責任。中途半端な育て方しかできなかった。」と記している[16]伊勢孝夫打撃コーチは一茂が伸び悩んだ要因の一つに、勝手に打撃フォームを弄って短期間で放り出す評論家の存在を挙げており[17][18]、一茂自身も余りに多すぎる周囲の助言にノイローゼ状態だったと告白している[14]。オフに入ると千葉ロッテマリーンズ福岡ダイエーホークス横浜大洋ホエールズからトレードの打診が球団に寄せられた[19]

巨人時代編集

1993年、父・茂雄が監督に就任した読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍[20]。当時のヤクルト・野村克也監督は、「一茂は怖がりでどうしようもないから、父親の元でするのが一番と球団社長に提案してトレードに出した」と後に明かしている[21]。キャンプから外野の練習を行い開幕戦は6番・レフトでスタメンを勝ち取る。同年の古巣ヤクルト戦では、原辰徳との守備交代で、「4番、サード長嶋」がコールされた。しかし、この年には肘や膝を痛め、9月には手術をしている[22]

1994年は、レギュラーシーズンは46試合に出場したが、日本シリーズはベンチメンバーのみであり、試合に出場する事は無かった。5月1日対ヤクルト戦(神宮)8回裏に審判に暴行して現役時代唯一の退場処分を受けた。

1995年は右ひじの故障で一軍出場はゼロに終わる。1996年は春先は不振のジェフ・マントがスタメンを外されると積極的に起用され、低打率ながら3本塁打を記録。しかし、当時の総合守備コーチ土井正三から一茂だけが2時間のバント練習を課されたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐き、球団から罰金50万円と二軍降格に加え、出場停止処分を受けた[23]。同年オフ、父・茂雄から「一茂、残念だけどお前は来年の戦力構想に入っていない」と戦力外通告を受けた[22]。その後、他球団が獲得の意向を見せたが、「これ以上迷惑をかけたくない」と発言し現役を引退。引退について父・茂雄は「プロの世界だって1年限りの世界ですから」と発言した(「監督と選手の関係から親子の関係に戻ろう」とも発言していた)。

一茂は、巨人時代にパニック障害になったことを後に告白しており[24]、プロ野球選手として活躍していた頃にバッターボックスに立てなくなったこと、以降も同病に悩まされていることを自著でも述べている[25]。その後、この症状はまだ完治していない事を2018年に語っている[26]

引退後編集

引退後は個人事務所「ナガシマ企画」を設立し、芸能人に転身。戦力外を通告される年、偶然明石家さんまとゴルフをする機会があった[27]。まさか引退がつきつけられるとは思ってもみなかった一茂はさんまからその時に「辞めたら俺がやってる番組全部来いや」と言われても真剣に受けとめることができなかったが、現役を退いた後、その言葉通りさんまのすべてのレギュラー番組で出演オファーを受け、出演した[27]。さんまの事を大恩人と語っている[27]。またスポーツキャスターとなり、1997年1999年フジテレビの『プロ野球ニュース』(週末)、2000年2002年日本テレビの『独占!!スポーツ情報』(のちの『THE独占サンデー』)の司会を担当した。プロ野球ニュース担当時代には当時流行していたサントリーボスのCMのパロディーで「親が凄いと子供も凄いんだよな、な。」と問いかけられて「なに。」と答えるという自虐ネタを演じたこともあった。

99年には、当時の担当マネージャーだった女性と結婚している。

2002年から2年間に渡ってNHKのインタビュー番組『わたしはあきらめない!』の聞き手役も務めた。

スポーツキャスターと並行して俳優業も行い、2000年は『NHK朝の連続テレビ小説オードリー』に出演し(時代劇の剣士役)、俳優としての地歩を固める。2002年は映画『ミスター・ルーキー』(日本アカデミー賞新人賞受賞)、2005年には『男たちの大和/YAMATO』、2004年は、TBSの『サラリーマン金太郎4[28]テレビ朝日の『逮捕しちゃうぞ』、2005年の『NHK大河ドラマ義経』等に出演。

極真カラテの有段者であり、数見肇百人組手の40人目の対戦者を務めたこともある。その経験から、フジテレビK-1中継の司会を務めている。

さんまのSUPERからくりTV』(TBS)ではレギュラー解答者のほか、『知識の泉』のコーナーに出演。西村知美松嶋尚美浅田美代子らと共に天然ボケを活かし爆笑トークを展開する。2004年、『さんまのSUPERからくりTV』の中で打倒・松岡修造を目的にさんまらによって結成された『からくりテニス同好会』のメンバーになる。同番組には特に思い入れが強いようで、バラエティのイロハをそこで教わったという[27]。さんまに時には収録中に怒られることもあり、最も激怒されたのが収録中に寝たこと[27]

2004年4月、田中律子磯野貴理子とともにTBSのお昼の生放送番組『はぴひる!』の司会を務める。6月6日、アテネオリンピック聖火ランナーを務める。同年、日本テレビのアテネオリンピック中継のキャスターに選ばれた。また、2004年6月16日に双子の女児が誕生した。このことは、本人が司会を務めるお昼のテレビ番組の中で本人の口により発表された。

2005年1月1日より当時球団会長渡邉恒雄の推薦で読売新聞グループ本社社長室付けスポーツアドバイザー、並びに巨人球団代表特別補佐(アドバイザー)として招聘され、2011年1月1日まで務め、同日付で野球振興アドバイザーに就任した[29]。その後、2016年にはアドバイザーを終了していることが報じられた[30][31]。スポーツキャスターや芸能活動は以降も継続している。また、この年には清原和博が戦力外通告を受けた時に接触したことを後に明かしている。なお、清原が逮捕前に出演した「ワイドナショー」で一茂とは共演したことがある[32]

2006年三菱UFJ信託銀行のCMに父・茂雄との親子共演を果たした。

2013年クラシアンのCMにイメージキャラクターとして抜擢された。

2019年4月20日、極真空手の国際親善空手道選手権大会に「50歳以上、80キロ超級」の階級で出場し銅メダルを獲得した[33]

エピソード編集

プロ入り前編集

  • 小学生の頃、神宮球場でのヤクルト-巨人戦を父・茂雄と一緒に見に行ったのだが、茂雄は連れてきた一茂を球場に置き去りにして帰ってしまった。茂雄は家に帰って妻に言われ、それに気が付いたのだという。茂雄は慌てて神宮球場に電話をしたところ、一茂は審判室に保護されていた。
  • 父・茂雄の引退試合(1974年10月14日の巨人-中日ドラゴンズ戦)を一切観ていない。茂雄は一茂に引退するとは告げずに「始球式をやってみないか」と持ちかけたが、父の引退試合だとは知らない一茂は「恥ずかしい」と拒否し、当日は歯科医にかかっていた。治療中に歯科助手の女性から聞かされるまで、父の引退を知らなかった[34]
  • 父・茂雄が、巨人の第1次監督就任時には背番号90を付けていたが、一茂の「背番号3・3番打者・サード(三塁手)」で足して9という発言がもとになっている。
  • 高校時代は野球一筋であり、全く勉強せず、カンニングも頻繁に行っていた。「ボクも基本的に期末とか中間はカンニングしましたからね。だって、野球ばっかりやってたから試験勉強やる時間ないもん、オレ」とテレビで告白、「みなさん1度もカンニングやったことないんですか、って?」と問いかけてもいる[35]

プロ選手時代編集

  • ヤクルト時代に志願して落合博満と自主トレを行なった際、長嶋家より差し入れとして銀座千疋屋のメロンが届く。一茂がそのメロンを二つ割りにして種を取り、ブランデーを注いで一気に食べる姿を見た落合夫妻は、「子供はこのようにのびのびと育てなきゃいけない」と話し合ったと、落合信子がインタビューで語っている。
  • プロ初ホームランは、実はまぐれ当たりであり、自身の著書「三流」[要ページ番号]では「入団直後からプロのスピードについて行けず、どうしようかと思った」「それこそガリクソンの球も全然見えなくて、適当に振った」と書かれている。
  • 達川光男がプロ初ホームランを見て、試合中打席に入った一茂に「あそこのコース得意なんか?それなら、1回同じコース投げさせてみようかのお」と言い、本当に投手にそのコースを投げさせた。すると一茂はホームラン性の大ファウルを放ち、肝を冷やしている達川に「もう1回お願いしますよ」と無邪気にせがんだ。達川は平静を装いつつ「1回言うたら1回じゃ」と一喝し、以来そのコースは一茂に対して封印したという。
  • 1988年のシーズンオフに「プロ野球ニュース」で「がんばれカズシゲ」というコーナーがあった。
  • 甲子園球場での阪神戦で、味方の許した大量リードに呆れた阪神ファンから、阪神のヒッティングマーチで応援されたことがある。なお、一茂は2002年公開の映画『ミスター・ルーキー』で主人公の阪神タイガース選手役を演じている。
  • 1991年のある試合で変化球をホームランにして放った際、野村克也に褒められた後、「次は直球を(慎重に)狙え」とアドバイスされたが、次の打席では直球を強振し、空振り三振に終わった。その事を現役引退後に野村との対談で話した際「お前は褒めるとろくなことがない」と言われた。
  • コーチとの確執は多く、ヤクルト時代は当時監督の野村のチーム方針に全く順応しなかったため、コーチ陣との軋轢が酷く(前述)なり、巨人在籍時は怠惰な生活を送っていたこともあって、堀内恒夫から激怒され、河村健一郎からは「次まともにやらないんだったら辞めろ!」と激しく叱責を受けていた。しかし暴言を吐かれた土井正三は「あいつの性格ならああいうことも言いかねない」と怒りを露にしなかった(一茂の父である茂雄と土井は立教大学の先輩後輩で常日頃から懇意にしており、土井と一茂も幼少の頃からの知り合いである)。
  • 1992年に野球留学をしていた際、彼のさまざまな世話をしていたアイク生原が死去。留学時期は違えど同じ生原門下生である山本昌(当時は本名の山本昌広)らと共に葬儀に参列した。
  • 1993年4月23日の阪神-巨人戦で仲田幸司投手からセ・リーグ通算3万号となる記念本塁打を放つ。
  • 1994年5月18日の巨人-広島戦で当時のチームメイトである槙原寛己完全試合を達成した際(槙原寛己の完全試合)は三塁を守っており、真っ先に彼に抱きついた。
  • ヤクルト時代は池山隆寛と仲が良く、シーズンオフのバラエティ番組では、池山と一茂のやり取りが放送されていた。
  • 元々は、池山に「いいグローブ使ってんだね。何で捕れないの?」と馬鹿にされるほど守備に難のある選手だったが、野球留学を機に守備力が向上し、巨人移籍後には槙原が一茂の守備は上手かったと評するまでになった。
  • 元首相の森喜朗が、一茂在籍当時のヤクルトオーナーだった桑原潤になぜ一茂を巨人に出したのか聞いたところ、「もうせいせいした。実際は使い物にならなかったがプロ野球の大選手のご子息だから、そう無下に扱うわけにもいかないので、もうまいってた。その時に、ジャイアンツから、どういうわけか一茂をくれないかと言ってきたんで、もう熨斗を付けて差し上げました」と答えたという。また、森によると一茂の移籍と松井秀喜の入団が重なっており、同じ三塁手(松井はプロ入り後、外野手に転向)として松井へのあてつけではないかと推測している(森は松井の後援会名誉会長を務めている)[36]
  • ドカベン』などの野球漫画の第一人者である水島新司が1987年から連載していた『虹を呼ぶ男』では、舞台となっていたヤクルトに偶然一茂が入団したため、主人公の七夕竹之丞のライバルとして劇中に登場する事になったが、現実の一茂の不振もあって人気は低迷し、後に相撲漫画に路線変更する事態となっている。
  • 引退後のテレビ番組で、ヤクルト時代の監督の野村に、守備やバッティング時にボールを怖がり腰が引けると評された[21]
  • プロとしてはあまり活躍はできなかったが、才能自体は評価する声はあり、その事を如実に示す例として、落合は「一茂は練習しなかった。していたら父親以上になれた。」と語っている[37]。また、野村からは「いい物を持っているため練習では良かった。」とも認められており[21]、数多くの著書でもそういった評価をしていたことが書かれてある。
  • ヤクルト時代には痛風になったことがあり、一茂は、食べ過ぎが原因であると後に語っている[38]
  • 2018年12月29日から放映の富士フイルムのテレビCM「お正月を写そう♪2019 それぞれのウォールデコ」篇では広瀬すず石原良純DAIGOと共演、一茂の巨人軍時代の写真を見た広瀬が「野球選手だったんですか?」と驚愕するシーンがあった[39]

タレント転身後編集

  • 孤独のグルメ』ドラマ化が企画された際に主演に予定されていたが、原作者の久住昌之が「長嶋一茂は嫌いではありませんが、ちょっと」と難色を示したために話が流れている[40][41][42]
  • タレント転身後から、バラエティ番組、ドラマ、コメンテーターなど幅広く活動してきたが、2018年に入り出演番組が急増。「ブレイクしたタレント」の仲間入りを果たしている[43][44]
  • 3歳の頃からはまったというハワイを頻繁に訪問、現地に一軒家を所有し、2018年だけでも仕事の合間に年6回滞在しており、将来的に「半年ハワイ、半年東京と両方」という移住プランもあるという[45]
  • 自身がテレビ出演時には父を語る時でも父・茂雄の写真や映像は一切出てこないが、これに関しては妹の三奈が代表を務める管理会社が許可を出さないためである[46]

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1988 ヤクルト 88 206 187 14 38 9 1 4 61 22 3 1 0 1 17 0 1 59 5 .203 .272 .326 .598
1989 69 163 156 12 39 7 1 4 60 15 1 0 0 1 6 0 0 29 6 .250 .276 .385 .661
1990 35 57 54 6 9 2 1 1 16 6 0 0 0 0 3 0 0 15 1 .167 .211 .296 .507
1991 67 172 149 12 33 8 2 4 57 18 1 0 0 1 21 2 1 44 6 .221 .320 .383 .703
1993 巨人 56 153 134 12 29 6 1 1 40 12 3 5 0 2 17 0 0 42 7 .216 .301 .299 .600
1994 46 32 29 5 5 1 0 1 9 1 0 0 0 0 3 1 0 7 4 .172 .250 .310 .560
1996 23 60 56 4 8 2 0 3 19 8 0 1 0 0 3 0 1 19 2 .143 .200 .339 .522
通算:7年 384 843 765 65 161 35 6 18 262 82 8 7 0 5 70 3 3 215 31 .210 .276 .342 .618

記録編集

背番号編集

  • 3 (1988年 - 1992年)
  • 36 (1993年 - 1996年)

著書編集

  • 『三流』(幻冬舎文庫:2002年4月25日、構成・文 石川拓治)
  • 『乗るのが怖い 私のパニック障害克服法』(幻冬舎:2010年11月)

出演編集

報道・情報・スポーツ編集

バラエティ編集

ドラマ編集

映画編集

CM編集

受賞歴編集

脚注編集

  1. ^ 長嶋一茂、本名は「一茂・パウロ・長嶋です」…ヨハネ・パウロ2世を「パパ様」”. デイリースポーツ online (2018年8月8日). 2018年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年10月21日閲覧。
  2. ^ http://number.bunshun.jp/articles/-/828993
  3. ^ http://number.bunshun.jp/articles/-/828993?page=2
  4. ^ http://rikkio-bbc.com/team/bestnine/3.php
  5. ^ http://number.bunshun.jp/articles/-/828993?page=3
  6. ^ その時のチームメートは、後にプロでも活躍する古田敦也野村謙二郎大豊泰昭武田一浩など、そうそうたるメンバーだった。https://www.jubf.net/us/jp_member16.html
  7. ^ 朝日新聞、1987年11月23日付朝刊 (14版、20面)
  8. ^ 1987年(昭62) 長嶋一茂、幻の巨人1位指名-スポニチ
  9. ^ 関根潤三著、いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと、ベースボール・マガジン社、2012年、P144
  10. ^ 長嶋一茂、父が薦めた広島のドラフト指名をひそかに断っていた…
  11. ^ 長嶋一茂、自身のドラフト秘話明かす「親父は広島を薦めていた」
  12. ^ 長嶋一茂、プロに入ったことで満足…目標がなかった
  13. ^ 長嶋一茂、プロで500本塁打打つ予定も「1年目の4月に終わった」父のアドバイスには…
  14. ^ a b 【私の失敗(3)】長嶋一茂、ノムさんの説教もきかず…助言でノイローゼに”. SANSPO.COM (2016年1月16日). 2016年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年10月21日閲覧。
  15. ^ http://number.bunshun.jp/articles/-/828993?page=4
  16. ^ いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと、P145
  17. ^ 名コーチ怒る!「注目ルーキーの敵は、打撃ケージに群がる評論家だ」
  18. ^ 【ありがとう八十年(116)】長池德士、ノムさんらのコーチ要請に二の足…教えるのは難しい
  19. ^ 【トレード物語17】息子・長嶋一茂の巨人入りで親子鷹誕生へ【1992年】
  20. ^ 【スポーツ界 記者が明かす平成“裏”事件簿】下戸のミスターが大吟醸酒を飲み干した! 長男・一茂の巨人移籍
  21. ^ a b c https://www.daily.co.jp/gossip/2018/06/24/0011384745.shtml
  22. ^ a b http://number.bunshun.jp/articles/-/828993?page=5
  23. ^ 長嶋一茂、96年暴言事件を謝罪「申し訳ありませんでした」
  24. ^ http://www.sanspo.com/baseball/news/20160122/npb16012211000001-n1.html
  25. ^ 自著『乗るのが怖い 私のパニック障害克服法』 - 「第1章 私のパニック・ヒストリー」より。
  26. ^ https://www.daily.co.jp/gossip/2018/11/04/0011790095.shtml
  27. ^ a b c d e 長嶋一茂、明石家さんまの"大恩人"秘話語る「辞めたら俺の番組全部来い」 マイナビニュース2015年1月25日
  28. ^ 当初、サラリーマン金太郎の原作者本宮ひろ志から主役の矢島金太郎役のオファーを受けたがスケジュールの都合で実現しなかった、後にパート4で金太郎のライバル役で出演に至った。
  29. ^ “【巨人】一茂氏、野球振興アドバイザーに” (日本語). 日刊スポーツ. (2011年1月5日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20110105-721110.html 2012年3月17日閲覧。 
  30. ^ https://lite-ra.com/2016/01/post-1935.html
  31. ^ https://lite-ra.com/2016/01/post-1935_2.html
  32. ^ https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2016/02/05/0008779740.shtml
  33. ^ 長嶋一茂快挙!空手世界大会で銅メダル獲得 2回戦で左足負傷も… スポーツニッポン、2019年5月25日閲覧。
  34. ^ 【私の失敗(2)】長嶋一茂、伝説の名言には立ち会わず…引退を歯医者で知る SANSPO.COM 2016年1月20日
  35. ^ 長嶋一茂「カンニングやった。野球ばっかりだったから、オレ」 J-CASTテレビウォッチ 2011年3月4日
  36. ^ 森喜朗×田原総一朗「松井秀喜との秘話、そしてアフリカ外交より地元が大事な外務大臣」
  37. ^ http://news.livedoor.com/article/detail/6074004/
  38. ^ https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/06/16/kiji/20180616s00041000222000c.html
  39. ^ “広瀬すず出演「お正月を写そう」新CM、樹木希林の40年を振り返る動画も”. CINRA.NET. (2018年12月26日). https://www.cinra.net/news/20181226-fujifilm 2018年12月26日閲覧。 
  40. ^ 「消えた主役」名作ドラマ・映画の知られざる“交代劇”(4)「孤独のグルメ」は松重豊以外に候補が…
  41. ^ Twitter
  42. ^ 【秘密】ドラマ「孤独のグルメ」の知られざる極秘情報と噂11選 / 長嶋一茂が井之頭五郎役になるかもしれなかった
  43. ^ 【上半期TV出演本数】ブレイク1位は村上佳菜子 話題の芸人&ぶっちゃけタレントも上位に
  44. ^ ブレーク中の長嶋一茂、人気の秘密は天然ボケでなく、浮世離れした「悟ってる感」
  45. ^ 長嶋一茂、TV引っ張りだこ理由は忖度しない生き方”. 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社 (2019年1月4日). 2019年1月6日閲覧。
  46. ^ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/156158/2
  47. ^ 長嶋一茂 実は映画少年だった、“結婚促進映画”製作 6月公開”. Sponichi Annex (2015年5月15日). 2015年5月15日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集