原博実

日本のサッカー選手、監督

原 博実(はら ひろみ、1958年10月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者サッカー解説者栃木県那須塩原市(旧・黒磯市)出身[4]。2022年より大宮アルディージャフットボール本部長。

原 博実
2007年
名前
愛称 ヒロミ、アジアの核弾頭[1][2]
カタカナ ハラ ヒロミ
ラテン文字 HARA Hiromi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1958-10-19) 1958年10月19日(65歳)
出身地 栃木県那須塩原市
身長 183cm[3][1]
体重 80kg[3][1]
選手情報
ポジション FW
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981-1992 三菱重工 / 三菱自動車 192 (65)
代表歴2
1978-1988 日本の旗 日本 75 (37)
監督歴
1998-1999 浦和レッドダイヤモンズ
2002-2005 FC東京
2007 FC東京
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月23日現在。
2. 2007年12月23日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

スポーツアナウンサーの原大悟は実子[5]

来歴 編集

選手時代 編集

小学5年生時からサッカーに傾倒し[6]黒磯中学校時代には既に長身を活かしたヘディングを得意としていた[7][8]1974年矢板東高校へ進学し、栃木県選抜として国体でベスト4入り[8]。当時は西ドイツのFWウーヴェ・ゼーラーのプレーを参考にしていた[8]

1977年早稲田大学教育学部へ進学[4]。1978年の総理大臣杯では法政大学を相手に得点を重ね優勝を果たした[6]、また同年の大学選手権も制して二冠を達成している。大学選抜として参加した1979年のユニバーシアードでは、ゼーラーに影響されて身に付けた相手よりも早く跳ぶヘディングで海外の190cmクラスのセンターバックを相手にしても競り負けず8試合で7得点を挙げた[6]。A代表に選出されても偉ぶらず真剣に練習に取り組む姿勢は周囲からの信頼を集め、大学4年時には主将を務めた[6]。このように「ストライカーたるものエゴイストであるべき」と言われる中で、原の言動や振る舞いはその正反対でとても利他的であり、誰からも尊敬される人物であった。大学時代の同期には木村孝洋、一学年上には岡田武史唐井直、二学年上には加藤久、三学年上には西野朗松浦敏夫下條佳明、さらに二学年下には城福浩吉田靖、三学年下には神戸清雄ら錚々たるメンバーがいた。

1981年三菱重工業へ入社し(勤労管理課[4])、日本サッカーリーグ(JSL)同社サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。ポジションはフォワード(FW)で、エースストライカーとして活躍した[9]。中盤の構成力に欠ける三菱では、GK田口光久らがFWの原を目掛けてフィード、それを原が頭で落とし、川添孝一らがゴールを狙うシンプルなカウンター攻撃も多用された[6]1982年には尾崎加寿夫と共に得点源となりJSL優勝を達成。

社員選手としてプレーを続けていたが、31歳の時にJリーグ参入を控えるクラブからプロ選手契約へ移行する打診を受け、「サラリーマンやるために三菱に入ったわけじゃないから」と応じてプロ契約を結び[注 1]三菱重工業を退社した[9]。1993年5月開幕が決まったJリーグでのプレーを望んでいたが[9]、浦和から1992年にプレ開幕として開催されるナビスコカップに向けコーチ就任を要請されたため、1992年5月に現役を引退[10]。臆せず真っ向から相手DFとの競り合いに臨んでいたため、鼻骨骨折は現役通算で9度に及んだ[11]

大学在学中に日本代表に初選出され[4]、通算で国際Aマッチ75試合に出場。釜本邦茂に次いで歴代2位[注 2]となる37得点を記録した(国際Aマッチ以外にも日本サッカー協会が認定した日本代表の試合を含めると171試合出場72得点[10]。)。当時の日本代表はアジアの中でもまだまだ弱小国ではあったが、その背景がありながら2試合に1得点のペースでゴールを決めた。森孝慈監督の下、尾崎や柱谷幸一と共にセンターフォワードの候補ともなったが、持ち前の体力・運動量の豊富さという特徴からサイドで守備にも貢献することを求められたため[12][13]左ウイングに配された。中央へ切れ込んで放つヘディングシュートを武器とし[14][12](ただし、本人はヘディングよりも左足シュートの方が得意だったと回想している)、その圧倒的な得点力で「アジア核弾頭」の異名を取った。1982年のアジア競技会では韓国戦で同点ゴールを決めて勝利に貢献した[15]1986年ワールドカップアジア1次予選のホーム北朝鮮戦で決勝ゴール、アウエーでのシンガポール戦で1ゴール、ホームでのシンガポール戦でも1ゴールを挙げ[16]、2次予選の香港戦第1戦で1ゴール[17]、第2戦でも1ゴールを挙げて[18]、最終予選進出に貢献したが、最終予選の韓国戦では1戦、2戦共フル出場したが、得点を奪えず敗退[19][20]、ワールドカップ出場権を獲得出来なかった。

特に1986年ワールドカップアジア1次予選・ホーム北朝鮮戦で水溜りに入ったボールを足先で浮かせてDFをかわし決めた[14]「雨中ゴール」の決勝ゴール、1987年のソウルオリンピック予選・アウェー中国戦での強烈な決勝ヘディングシュート[21]が有名である。

指導者時代 編集

浦和レッドダイヤモンズ 編集

1992年5月に引退後、浦和レッドダイヤモンズのコーチ・ユース監督を務めた。

1998年にトップチーム監督に就任。主軸FWの福田正博が負傷離脱する中[22]、新人の小野伸二トップ下に抜擢し、変則的な中盤を菱型にした4-4-2(左MFのチキ・ベギリスタインを攻撃的、右MFの石井俊也を守備的にプレーさせることで、バランスを取った[22][23]。)を形成してチームを躍進させる。セカンドステージでは過去最高順位の3位に入った。また、怪我が多かった福田に替えて、若手の山田暢久を「一皮剥ければ」と主将に据えている[23][24]

1999年ファーストステージは負傷者が続出し[25][26]13位と振るわず、解任。原は守備の人材不足を感じていたためシーズン途中に補強がなされたものの、その補強が活かされる前の解任だった[27]。この年浦和はJ2降格を喫するが、後にGMの横山謙三は、降格の主要因について「原監督を途中で替えたということが大きい」「(原を留任させていれば)後半盛り返せただろうと思っている」と語っている[27]。原自身は後にインタビューで「弱いといわれた時期も、誰もが誇りは持っていた。ある意味王者のスピリットを持っているチームだった」と浦和を評する。また、2000年1月に発売された書籍『浦和レッズは負けない』にも寄稿している。

2000年から浦和の育成担当としてクラブに残留する選択肢も有ったが、監督として再び勝負する機会が遠のきかねないと判断し[26]、浦和を退団。

その後スペインへ渡りリーガ・エスパニョーラの数チームを視察。ベギリスタインを通じて紹介を得たこともあった[28]。帰国後はサッカー解説者としてスカイパーフェクTV!の欧州サッカー中継を中心に活動。多くのファンを得た(後述)。

FC東京 編集

2002年からFC東京の監督に就任[10]。2000年にJ1入りした新興クラブであるFC東京は、J2降格を避けるべくそれまで守備をベースにした負けないサッカーを志向してチーム作りを行っていたが、「攻撃サッカー」を掲げる原の招聘によって、勝つためのサッカー、面白いサッカーを標榜するように転換[29][30]。原によれば、チームには大熊清前監督が築いたひたむきに守備をこなす姿勢が残っていたので、攻撃重視で指揮を執っても守備が疎かになることは無いだろうという目算があったという[8]

初采配となった2002年Jリーグ開幕戦では、前年度リーグ優勝の鹿島アントラーズを相手に、前がかりに走り続ける積極的なサイドアタックを繰り返し、4得点を挙げて圧勝。後の語り草となった[31]4-2-3-1の布陣を基本としつつ、同年獲得したMF石川直宏、DF加地亮のコンビで右サイドから打開し、左サイドには戸田光洋らFWタイプの選手を置いて中央へ走りこませるという左右非対称の斬新な攻撃[32]で上位進出に成功。2004年ナビスコカップでは延長PK戦の末に古巣浦和を下して、チームに初のJリーグタイトルをもたらした。

解説者時代同様に親しみやすいコメントと、自チームの得点時には何度もジャンプして体全体で喜びを表現する姿で[33][34][35]チーム成績とは別の部分でもサポーターから慕われ、人気を集めた[36]。古巣・浦和をライバル視する発言が多かったが、2003年に行われた福田の引退試合では、テレ玉での中継解説者を務め、2004年のナビスコカップ優勝後の場内インタビューでは「浦和も非常に素晴らしいチーム。是非リーグ戦で頑張ってもらって優勝して欲しい」とエールを送っている。

2005年は出だしこそ首位に浮上したものの、4月以降主力を次々と負傷で欠いたことなどから[37]J2降格圏まで成績を低迷させたが、シーズン終盤は12戦負けなしと持ち直した。しかし4・5月の躓きによってクラブ首脳は次期監督候補の選定を本格化しており、契約期間終了と共に退任することとなった[35]。退任報告の集会には5000人近くのファンが詰め掛けた。

2007年、監督に再任[38]。身上としているリスクをかけて攻撃に比重を置くサッカー[39]を続けたが、大量失点での敗戦も多く1年限りで退任となった[40]

日本サッカー協会 編集

2009年2月、日本サッカー協会(JFA)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編[41]。原のJリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され[41]、JFA技術委員長(強化担当)に就任した。グラつきの見られた[注 3]岡田体制を支えた他[42]、JFA特任理事及び国際マッチメイク委員にも任ぜられ、Jリーグ各クラブとの調整や戦術分析、マッチメイクを統括した[41]

また、霜田正浩と共に2010 FIFAワールドカップ終了後の日本代表新監督選定の中心としても奔走。2010年8月、新監督はアルベルト・ザッケローニに決定したが、ザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、同年9月に行われたキリンチャレンジカップにおいて代行監督を務め、2試合を指揮しいずれも勝利を収めた。ロンドンオリンピックではU-23日本代表の団長を務めた。

2013年12月より、JFA専務理事を兼務[4]。激務が続く中でも公式戦・合宿を問わずに現場視察を欠かさず、ザッケローニとの戦略擦り合わせに腐心した[43]。2014年9月、同年6月開催のFIFAワールドカップ総括とザッケローニの後任であるハビエル・アギーレの就任決定をもって[44]技術委員長を退任し、以後は専務理事に専念[45]。日本代表やJリーグだけでなく各種サッカー大会を精力的に視察し、日本サッカー界の底上げに注力した[46]

2015年2月のJFA理事会において、大仁邦彌JFA会長や霜田と共にアギーレの解任に伴う処分が提議されたが、3名とも任命責任は認められなかったため、給与を自主返納することで[47]収拾を図った。

2015年6月、日本体育協会常務理事に選定され[48][49]国体委員長として[50]冬季国体の開催地選定や、2020年東京五輪に向けた女子種目の拡充を担った[51]

2016年1月、JFAは史上初となる会長選挙を行った。当時JFAのNo.3[52]でもあった原は「自分も出ないと(選挙戦にならず制度が)変わらない」[53]と立候補を表明。原とNo.2の田嶋幸三副会長が争う構図になるのは「規定路線」であり[54]、原は劣勢[注 4]が確実視されていたが[56]秋春制の導入に慎重なJリーグクラブや[57]、JFAとJリーグの関係強化を推進した実績により支持を集め[58]、45%の評議員票を獲得、僅差での敗退となった[59][57][52]

Jリーグ役員 編集

2016年2月、田嶋は自分と会長の座を争った原を二階級ほどの降格になる理事職に降格させる人事案を決めた。その話を田嶋から直接聞いた村井満Jリーグチェアマンは[52]各クラブの強化部門に影響を及ぼせる人物として、すぐさま原にJリーグ副理事長就任を打診[60]。原もこれに快諾し[61]、3月に就任[62]。JFAを離職し[63][64]、自身の「専門とするところ」であるクラブ目線での日本サッカー強化を担うこととなった[61]。翌3月、Jリーグからの選出で、JFA常務理事に就任[65][66]。彼の功績や人柄を表すエピソードと言える。

同年4月の熊本地震に際しては、自ら現地入りして活動休止中のロアッソ熊本と協議し、リーグ戦再開に向けての調整に当たった[67]

2018年4月、日本サッカー協会技術委員会強化部会員に就任[68]。2022年3月にJリーグ副理事長の任期が満了し退任した[69]

退任後 編集

大宮アルディージャ 編集

2022年4月12日、J2リーグで下位に沈みJ3降格圏にまで順位を下げていた大宮アルディージャからオファーを受け、同クラブのフットボール本部長に就任した[70][71]。シーズン終盤に着任以後の大宮の状況を「VENTUS(女子チーム)やアカデミーと、トップチームとの関わりが少ない。アカデミーには良い選手がいるが、もっと繋がりを大事にしていかないとこのクラブは変わらない。ポテンシャルはあると思いますし、そこができればと思う」「実際に来てみると、事前に聞いていたよりもはるかに予算が少なかった」と印象を話し、「育成型クラブを目指す基本を持ちつつ、当然J1昇格は目指します。埼玉ダービーもぜひやりたいですね」と翌年以後の目標を語った[72]

評価 編集

監督としての戦術・若手育成 編集

指導者としての評価に際しては、特に若手の積極起用に注目して語られることが多い[73]。自身も「監督をやっていて楽しいのは、(チームの勝利よりも)選手がみるみる伸びていき、顔を輝かせているのを見ているとき」「タイトルをとれれば楽しいけど、人がぐんぐん伸びていく時期を見るのがうれしい。それが一番好き」と語る[74]

浦和でも小野、山田を抜擢し、大きく成長させているが、小野は元々注目度の高い期待株であること、盛田剛平ら新人選手を重用してチームを低迷させたこともあったことから、原の評価を低く見る者もある。原の下でもプレーした浦和OB福田正博は「サテライト・ユースの指導経験しかなかった原にいきなりトップチーム、しかも浦和レッズという独特の雰囲気を持つチームの監督を任せるのは非常にプレッシャーのかかることだったのではないか」という趣旨のコメントを、雑誌に寄せた原稿で述べている。

その後に就任したFC東京でも若手登用の傾向は強く、石川、加地、茂庭照幸今野泰幸を獲得してレギュラーに据え、日本代表に選出されるまでに成長させた[75]横浜F・マリノスで出場機会のなかった石川に対しては「(故障者が出ている[76])今なら使っちゃうよ」という口説き文句でレンタル移籍(後に完全移籍)を決断させた。

選手として原と4年間(2002-2005)過ごした戸田は、原と選手との距離感・信頼関係の構築について「“試合に出てくるんじゃないか”と思わせるくらい選手と一緒の目線で戦っている」「顔色を伺ったってどうこうなる人じゃない」とコメント[33]。原の下で5年間(2002-2005, 2007)コーチを務めた長澤徹は、原は選手の短所を包み隠さず指摘し、時に敗因として名指しするが、それでも選手からの信頼を損ねることはなかったという。選手と真摯に向き合うことができるコミュニケーションの天才だと評している[77]

4バックシステムを好み[78]、『ニュースステーション』がJリーグ全クラブの監督に対して行った、3バックと4バックに関するアンケートに対し(このアンケートが行われた当時は3バックシステムを採用するクラブが多く、このようなテーマが議題となった)、回答の理由を「4バックが好きだから」とだけ説明した[79]。原曰く、布陣を決める時にまず考えることは、選手個々の長所を出せるかどうか[78]である。しかし、選手の個性・特徴を最大限発揮させることを理想としていることから[80]2007年には、不安定ながら新たなプレースタイルの模索を始めた石川と、石川には元来の能力を発揮してほしいと原点回帰を求める原との間で、微妙な溝が生じたこともあった[81]

解説・評論 編集

原はテレビ解説者としても、多くのファンを得ている。解説者としての原のファンのことを「ヒロミスタ」と呼ぶことがある。ゴールが決まった時に、それが開始1分であろうが後半ロスタイムであろうが、あるいはVゴールであったとしても「いい時間帯[注 5][注 6]に得点しましたね[82]」と発言したり、選手がまだシュート態勢であり、実際にそのシュートがゴールインするか否かがわからない状態にもかかわらず「あ、入った」などと発言した[82]ことが、そのきっかけとなった。

また、浦和レッズ監督時に指導したベギリスタイン(後にFCバルセロナ技術部長など)と親交を深めたことを機に日常会話に支障が無い程にスペイン語を習得[83]。スペイン語に近いとされるポルトガル語を話すブラジル人選手とも通訳を介さずに会話している[84]。料理をはじめとするスペイン文化全般にも造詣が深い。FC東京の監督時にも、チームのラ・コルーニャ遠征やポストシーズンの視察に合わせて、原がスペインを紹介する番組が作成された。

解説者としての出演歴 編集

JFA技術委員長就任以降も不定期にメディア出演を行なっている。

所属クラブ 編集

個人成績 編集

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1981 三菱 14 JSL1部 18 4 5 5 2 0 25 9
1982 18 7 2 3 2 0 22 10
1983 11 18 3 1 1 1 0 20 4
1984 9 18 8 0 0 1 0 19 8
1985 22 10 2 0 3 4 27 14
1986-87 22 8 2 1 2 2 26 11
1987-88 22 10 3 0 2 1 27 11
1988-89 18 3 4 3 2 0 24 6
1989-90 JSL2部 16 9 1 0 1 0 18 9
1990-91 JSL1部 18 3 1 0 0 0 19 3
1991-92 2 0 1 0 0 0
通算 日本 JSL1部 176 56 21 13 7 158
日本 JSL2部 16 9 1 0 1 0 18 9
総通算 192 65 22 13 7 167

JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 4回出場:1984年、1986年、1987年、1988年

・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 2得点:1986年、1987年

その他の公式戦

代表歴 編集

出場大会など 編集

試合数 編集

  • 国際Aマッチ 75試合 37得点 (1978-1988)[4]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1978 6 1 0 0 6 1
1979 2 0 1 0 3 0
1980 5 2 6 0 11 2
1981 10 1 8 5 18 6
1982 6 3 10 1 16 4
1983 10 6 18 7 28 13
1984 7 5 5 3 12 8
1985 10 5 8 4 18 9
1986 6 7 6 1 12 8
1987 11 7 15 1 26 8
1988 2 0 17 11 19 11
通算 75 37 94 33 169 70

得点数 編集

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
01 1978年12月13日 タイバンコク   バーレーン 4-0 勝利 1978年アジア競技大会
02 1980年06月09日 中華人民共和国広州   香港 3-2 勝利 広州国際大会
03 1980年06月18日 2-0 勝利
04 1981年09月08日 マレーシアクアラルンプール   アラブ首長国連邦 3-2 勝利 ムルデカ大会
05 1982年11月23日 インドニューデリー   南イエメン 3-1 勝利 1982年アジア競技大会
06
07 1982年11月25日   韓国 2-1 勝利
08 1983年02月12日 シリアダマスカス   シリア 2-2 引分 親善試合
09
10 1983年09月04日 日本東京   フィリピン 7-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
11 1983年09月07日 7-0 勝利
12 1983年09月15日   チャイニーズタイペイ 2-0 勝利
13 1983年09月25日 ニュージーランドオークランド   ニュージーランド 1-3 敗戦
14 1984年03月06日 ブルネイバンダルスリブガワン   ブルネイ 7-1 勝利 親善試合
15
16 1984年04月18日 シンガポール   マレーシア 1-2 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
17 1984年04月21日   イラク 1-2 敗戦
18 1984年04月26日   カタール 1-2 敗戦
19 1985年02月23日   シンガポール 3-1 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
20 1985年03月21日 日本東京   朝鮮民主主義人民共和国 1-0 勝利
21 1985年05月18日   シンガポール 5-0 勝利
22 1985年08月11日 日本、神戸市   香港 3-0 勝利
23 1985年09月22日 香港   香港 2-1 勝利
24 1986年07月25日 マレーシアクアラルンプール   シリア 4-0 勝利 ムルデカ大会
25 1986年08月01日   マレーシア 2-1 勝利
26 1986年09月20日 大韓民国大田   ネパール 5-0 勝利 1986年アジア競技大会
27 1986年09月20日   バングラデシュ 4-0 勝利
28 1986年09月28日   バングラデシュ 4-0 勝利
29
30
31 1987年04月08日 日本、東京   インドネシア 3-0 勝利 ソウル五輪予選
32 1987年05月27日 日本、広島市   セネガル 2-2 引分 キリンカップ
33 1987年06月26日 インドネシアジャカルタ   インドネシア 2-1 勝利 ソウル五輪予選
34 1987年09月18日 日本、東京   ネパール 9-0 勝利
35
36
37 1987年10月14日 中華人民共和国、広州   中国 1-0 勝利

指導歴 編集

監督成績 編集

年度 クラブ 所属 リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 ナビスコ杯 天皇杯
1998 浦和 J 6位 61 34 22 - 12 予選リーグ敗退 ベスト8
1999 J1 13位* 13 15 3 4 8 ベスト8 -
2002 FC東京 9位 39 30 13 2 15 ベスト8 3回戦敗退
2003 4位 49 30 13 10 7 ベスト8 4回戦敗退
2004 8位 41 30 10 11 9 優勝 ベスト8
2005 10位 47 34 11 14 9 予選リーグ敗退 5回戦敗退
2007 12位 45 34 14 3 17 ベスト8 ベスト8
通算 日本 J1 - - 207 86 44 77 - -
総通算 - - 207 86 44 77 - -
  • 1999年は解任時点(1stステージ終了時)の順位。

関連情報 編集

書籍 編集

  • 岩崎龍一『スーパーストライカーセレクション2002 (監修)』ザマサダ、2002年。ISBN 4883970752 

脚注 編集

注釈
  1. ^ Jリーグへの加盟申請をするためには、一定数のプロ契約選手が必要だった。
  2. ^ 後に三浦知良岡崎慎司が原を上回る得点数を記録。詳細はサッカー日本代表#記録を参照。
  3. ^ 原の就任は2010FIFAワールドカップ最終予選の最中であり、日本代表はホームゲーム2試合で1得点に終わるなど、苦戦が続いていた。
  4. ^ その要因として、日刊ゲンダイは、JFA理事会及び評議会には田嶋の母校である筑波大学出身者が多いことや、犬飼基昭大仁邦彌といった三菱OBが立て続けに会長になることへの忌避を挙げている[55]
  5. ^ 原のtwitterアカウント名は「iijikantai(いい時間帯)」である。
  6. ^ 原自身がMCを務めるJリーグTVでも「いい時間帯ですね、原博実です」と自己紹介する。
出典
  1. ^ a b c 2007 J1選手名鑑 FC東京”. 2007年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月3日閲覧。 スポーツ報知
  2. ^ #2 ギャップにイチコロ マエストロの「裏」の顔 Jリーグ (2015年3月10日)
  3. ^ a b 国際親善試合 1988.09.13 東京・国立競技場 日本サッカー協会
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本サッカー協会 新専務理事に原博実理事が就任 日本サッカー協会 (2013年12月19日)
  5. ^ 株式会社フットメディア|原 大悟 フットメディア
  6. ^ a b c d e f サッカー批評 69』双葉社、2014年、102-107頁。 
  7. ^ 西部,97頁
  8. ^ a b c d 『FC東京ファンブック2005』毎日新聞社、2005年、4-11頁。 
  9. ^ a b c 西部,53-55頁
  10. ^ a b c d 原 博実氏、来季監督就任合意のお知らせ”. 2004年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月26日閲覧。 FC東京 (2001年12月5日)
  11. ^ 東京今野、鼻折れても弾!”. 2005年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月3日閲覧。 日刊スポーツ (2005年4月3日)
  12. ^ a b 後藤健生,211-212頁
  13. ^ 後藤健生,226頁
  14. ^ a b 後藤健生,220-221頁
  15. ^ サッカー日韓戦“激闘の歴史” 好ゲームもあれば「猿まね」「独島メッセージ」の問題”. dot.asahi. 2021年3月10日閲覧。
  16. ^ 1986年ワールドカップアジア1次予選 日本 vsシンガポール”. samuraiblue. 2021年3月10日閲覧。
  17. ^ 1986年ワールドカップアジア2次予選 日本vs香港”. samuraiblue. 2021年3月10日閲覧。
  18. ^ 1986年ワールドカップアジア2次予選 香港vs日本”. samuraiblue. 2021年3月10日閲覧。
  19. ^ 1986年ワールドカップアジア最終予選 日本vs韓国”. samuraiblue. 2021年3月10日閲覧。
  20. ^ 1986年ワールドカップアジア最終予選 韓国vs日本”. samuraiblue. 2021年3月10日閲覧。
  21. ^ 後藤健生,233頁
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参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集

プロフィール
特集
先代
小野剛
日本サッカー協会 技術委員長
2009年 - 2014年
次代
霜田正浩
先代
泉正文
日本体育協会 国民体育大会 委員長
2015年 - 2017年
次代
大野敬三