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テレビランド』は、1973年2月から1997年1月まで刊行していた児童向けテレビ番組雑誌。通称:テレラン。

概要編集

企画が東映株式会社、発行元を黒崎出版として1973年2月1日創刊された[1][2][3]。徳間書店としては『週刊アサヒ芸能』、『問題小説』に次ぐ定期刊行物で[4]、初の児童誌の獲得で文芸書籍などの出版と合わせ、業界でも大手老舗に迫る勢いがついた[5]。また『テレビランド』はそれまで大人向け出版社だった徳間書店のイメージをガラリと帰る切っ掛けを創り[6]、徳間書店としても大きなエポックを画することになった[4]。競合誌は、講談社の『テレビマガジン』、秋田書店の『冒険王1984年まで)』、1976年からは小学館の『てれびくん』も加わる。

特に全盛期(1975年頃 - 1991年頃)は、徳間書店では唯一の子供向けキャラクター雑誌であった。玩具面では、東映の提案でポピー(後に、バンダイボーイズトイ事業部へ改名。)へタイアップし、キャラクターのマーチャンダイジングを行なうことにより様々なキャラクターが世の中へ送り出されていった。1983年頃から後楽園ゆうえんちとのタイアップを行なっている。

漫画の面では、競合誌と対峙するにあたり、仮面ライダーの原作者である石ノ森章太郎(石森プロ)の関係者とそのアシスタント出身の漫画家によるタイアップ作品を軸に基盤をつくっていった。

歴史編集

創刊経緯編集

東映の多角経営化は1971年8月大川博没後、後を継いだ岡田茂のもとでその本領が発揮された[7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17][18][19]。映画部門への依存度が高かった大映日活が事実上脱落し[20][21][22]、その二社に似た体質を持つ東映は[23][24]、映画部門以外から収益を出すことが求められた[20][24]。岡田は「あくまで映画が本業だが、映画だけでは将来は難しい」と[9]、「これからの東映は犯罪にならないもので儲かるものは何でもやる」と[9]定款を変更してあらゆる職種に積極的に取り組んでいくと宣言した[9][10][25]。岡田は1972年6月に映画会社で初めて事業部制を敷き[23][26][27]、関連事業室を作り[27]、「すべての事業をファンに結びつけ、大衆向けの低額なものを狙う」とアピール[12]。「映画だけでなく附帯事業をいろいろやれ」と社員に指示するなどの根回し後[23]、温泉ホテル買収[17]催事[11][19][28]ゴルフ場[10][12][28]軽井沢別荘販売[14]パチンコ(東盛商事)[28][29]サラ金[23][28][30]ゲームセンター[28]スポーツ事業[28][31]進学塾[12][28]葬儀屋[8][23][28]ジャズ喫茶[28]ラーメン店[30]焼肉屋[30]サンドイッチ店[28]、スターのポスター制作・販売[11][15][23]、映画主題歌レコード販売[23]仮面ライダーキャラクターグッズ販売[23][19]複製画[28]など新規事業に手を拡げ[14][23][28]福富太郎クラブを経営させたりし[32]、"映画からラーメンまでの東映"と揶揄された[33]。この事業部制は東映関西支社にも敷かれ[34]、同事業部が始めたアニメ関連商品の販売が発展し[34]、1980年に大阪梅田東映会館3階への開設を皮切りに全国展開したのが元祖アニメショップ[35]アニメポリス・ペロ[34]

1973年2月にあった東映の全体会議で[1]、岡田は「東映の全部門をさらに伸ばし、10年後には全事業に全国的なネットワークを張り巡らせて東映の三角マークを日本全国津々浦々に貼り付けたい」と、"東映NN計画"(Toei Nationwide Network Program)なる大風呂敷を広げた[1]。中でも岡田が新規事業として一番意欲的だったのが出版事業[1][15]、「出版事業は社長就任の時から考えていたんだ。出版界は大手によって支配され、あとはインディペンデント・プロみたいなもんでな。また配給も日販東販の二社で独占され、新規では入り込めない業界なんだな。そこで私が考えたのは、将来に野望を抱く出版社と手を組み、地固めをしていくということなんだ」などと話し[1]タバックを設立した同じ1973年2月1日に設置したテレビ関連事業室に[1][36]、最初にやらせたのが黒崎出版との提携と「テレビランド」の創刊だった[1][23]。岡田は「考えてみれば、ウチが長い間手掛けて来た、劇映画、教育映画テレビ映画の製作配給というのと、出版というのは同じようなセンスなんだ。そこでまずテレビ事業室で『テレビランド』を手掛けたわけだ。これは"東映は損をしない"といういつもの手(笑)、損をしないという範囲で始めたから、そのかわりも薄いよ。まあ何ぼか入ってくるでしょうよ(笑)。必要なら別の会社も作ろうと考えてる」などと述べた[1]単行本の出版なども岡田の最初からの構想で[1]、「私はこの出版という事業を、二、三年のうちに必ずものにして全国ネットを組めるようにしたい」という計画を立てていた[1]

『テレビランド』に続いて岡田と徳間書店社長・徳間康快とで企画したのが成人向け劇画雑誌コミック&コミック』(『別冊アサヒ芸能 コミック&コミック』1973年5月20日創刊)で[1][37][38]、岡田と徳間が構想したのが、映画監督劇画家を組ませた映画作品を映画化するというものだった[37][38][39]。当時最も熱気があった劇画と東映映画の二つのサブカルチャーを強引に結びつける力業で創刊された『コミック&コミック』は読書にも歓迎され二十数万部を記録した[1][37]。映画と劇画を平然と往復しようとする大胆な感覚は、以降のスマートなメディアミックスを先取りしており野心的であった[37][38]。『コミック&コミック』に掲載された東映監督の劇画原作のうち、唯一映画化されたのが鈴木則文監督の『聖獣学園[38][39]鈴木敏夫は『アサヒ芸能』の特集部に配属の後[40]、この『コミック&コミック』編集部を経て[37][40][41]、『アサヒ芸能』に一旦戻り、その後『テレビランド』編集部に自ら志願して加わり[4][6]、主にまんがを担当[42]、その後『アニメージュ』編集部に移った[40]。鈴木の『コミック&コミック』時代の仕事は、東映の気難しい監督たちと若手劇画家を繋ぐ調整役もあったといわれ[37]、「胃が痛くなる思いだったのではないか」と大塚英志は指摘している[37]。大塚はまた「岡田茂と徳間康快という二人の怪物による『劇画』と『映画』という『コミック&コミック』の近さは、やはり『ナウシカ』における『まんが』から『映画』への近さの問題と地続きだと私には思える」などとと論じている[43]。『テレビランド』創刊と同じ1973年に大ヒットした東映映画『山口組三代目』は、岡田がやはり徳間に先に原作の連載を持ち掛け[44]、岡田と徳間で話し合い[44][45]田岡一雄の自伝という形を採り、実際は『アサヒ芸能』の編集長に書かせたものを『アサヒ芸能』で連載しそれを原作に映画化したものであった[44][45]。『アサヒ芸能』はこの連載で発行部数を伸ばした[46]。元々仲がよかったといわれる岡田と徳間は[47]、ビジネス上でも付き合いを深めていた。

前掲の多くの事業がシロウトの悲しさで失敗し撤退していったが[28]、出版事業は、映像との相乗効果、宣伝、制作とも東映グループの組織力をバックにし順調に伸びた[8]。出版事業以外の失敗・撤退事業について岡田は、「ドンドン勇ましくやったということで社員の士気をインスパイヤ―したわね。やろうという気がだんだん出て来た。試行錯誤した中で本モノだけが生き残った。社員が一生懸命勉強しましたね。失敗して改めるに憚りなしだよ。どういう商売ならやれるか、分かっただけでもいい勉強になったと思う」などと話した[28]

創刊号には東映社長・岡田茂と黒崎出版社長・秋田君夫によるメッセージが掲載された。創刊日と同じ日に設置されたテレビ関連事業室の室長に抜擢されたのが渡邊亮徳取締役テレビ企画営業部長で[1]、初代編集長にはテレビ関連事業室課長の飯島敬が据えられた[1][3][48]。飯島はそれまで15年間東映動画に在籍し、漫画原作者や競合する出版社とも付き合いがあったことからの抜擢[1]。しかし雑誌のノウハウを持っていなかった黒崎出版は本誌を持て余し[49]、そのうえオイルショックの影響で経営困難に陥ったため、岡田は1973年11月号から[2]、黒崎出版の編集スタッフごと全てを徳間書店に移して刊行した[37]。これは岡田と徳間が2人で銀座クラブで決めたという[6]。岡田と徳間は古くから仲がよかったといわれ[47][50][51]、徳間は岡田を"刎頸の友"と表現している[22]。岡田は当時、大映を再建中の旧制広島高校の先輩・坪井一郎トリオ社長と徳間を支援していたが[47]、映画関係者は当時は徳間をよく知らないため[50]、岡田が映画素人の徳間と坪井を操って[50]、新大映と日活を組まして、第二東映のようにするのではと見られていた[50][51]。大映は永田雅一劇場を全部売ってしまっていたため[52]配給網のない製作だけしか出来ない独立プロのようなもので[51]、岡田にとっては都合がよく、新大映が製作した映画を東映の劇場で流す構想を持っていたと見られた[50][51]。逆に出版事業に関しては、岡田や東映側は素人であった。

内容の変遷編集

社の決定で児童誌部門開拓が決定したが[4]、徳間書店内部では他所からの新参者で社内の扱いは冷たく、当初は会社全体で『テレビランド』を育てていこうという熱意はほど遠かった[4]。大人向け出版社である徳間書店には、子供向け出版物のノウハウは皆無で、編集部は社内でも肩身が狭い存在だったという[4]

創刊当初は東映が直接携わっていたことから、創刊号では仮面ライダー1号とキカイダー、1973年7月号では仮面ライダーV3とキカイダー01とロボット刑事Kの共演写真が掲載されるなど、シリーズや放送局の垣根を越えた東映ヒーローのコラボレーションが行われた[53]。『マジンガーZ』は競合誌である「テレビマガジン」ではダイナミックプロのイラストに対して、東映動画(現・東映アニメーション)による描き下ろしセル画を中心に掲載していた[3]

1974年映画マジンガーZ対暗黒大将軍』と『五人ライダー対キングダーク』の公開に合わせた「増刊テレビランド」を発行[3]。以後、「別冊テレビランド」として定期刊行される。

1976年より「わんぱっくシリーズ」が刊行。

1977年、「別冊テレビランド」として『宇宙戦艦ヤマト』を特集した「ロマンアルバム」シリーズを出版好セールスを記録し、アニメ雑誌アニメージュ』の創刊に多大な貢献をした。

1979年に入ると競合誌より遅れる形で『仮面ライダーシリーズ』のリバイバル特集に重点が置かれ、同年スタートした『スカイライダー』に受け継がれることになる。またこの時期には『ウルトラシリーズ』を短期的に掲載している。

ただし、付録が付くぶん、利益率が低かったため、休刊の話は当初から何度も出ていたという。

1980年代には別冊のカラーグラフシリーズを刊行。

本誌ではバンダイとともに発売当初から『マシンロボ』の特集を組んだり、また後楽園ゆうえんちスーパー戦隊シリーズショーの特集を組んだり、さらに過去に掲載した特撮作品を取り上げた『テレラン名作劇場』という企画も組まれたりと、誌面が充実していく。イメージキャラクターであるドンちゃんもこの時期に登場した。

創刊20年目を迎えた1992年の2月号から雑誌のサイズを拡大。この時期から再び『ウルトラシリーズ』を掲載する。ただし、ウルトラシリーズ関連の記事は、ほとんど旧作関連の記事が多く、新作関連の掲載はなかった。

休刊編集

1997年の2月号を最後に、予告なしの突然の休刊。当時徳間書店はバブル崩壊、大映関連の大作映画の不振など、多額な借金を抱えていたため、リストラの一環で雑誌の休刊が続いており、テレビランドの休刊も徳間社長の鶴の一声だったという[54]。徳間は「若者の活字離れが進む中で、雑誌の世界も流れが速くなっている。時代にあわせて、内容や形をどんどん変えて出していかなければなりません」と話した[55]。休刊時には、元編集長の尾形英夫とつきあいのあったバンプレスト社長・杉浦幸昌から「テレビランド」買い取りの打診があったが、尾形が徳間書店を離れていたためにこの話は実現しなかった[54]

休刊後もカラーグラフシリーズだけは刊行を続け、「徳間テレビグラフ」として存続していたが、2007年の『仮面ライダー電王』、『獣拳戦隊ゲキレンジャー』の2作品を最後に発売されていない。また、末期の編集スタッフにより、『ハイパーホビー』が創刊されている。完全に対象年齢こそ異なるものの、事実上の後継雑誌であり、徳間書店に保管されているテレビランドに使用された宣材写真の抜粋掲載も行っている。ハイパーホビーはもともとカラーグラフシリーズの別冊扱いとして発売された。

編集者・スタッフ編集

初代編集長(東映テレビ関連事業室課長)[1]。徳間書店に移ってからも唯一の東映編集スタッフとして参加[56]。黒崎出版から徳間書店に移ったスタッフは、山平松夫、校條満、三浦隆夫、島田寿昭、鈴木克伸、市川英子ら6人[56]尾形英夫が編集部長[56]、東映の飯島と黒崎出版から移った山平松夫が徳間時代の最初の編集長を務めた[56]。『テレビランド』は山平松夫が最初から中心的編集者だったという[56]。徳間書店時代の当初の編集スタッフの名前は『二階の住人とその時代』87-95頁に記載がある[56]
  • 山平松夫
黒崎出版から徳間書店に移り、飯島と共に徳間時代の最初の編集長を務める[56]
黒崎出版からの編集者。マンガ「とよみたんとエーコたん」の人気キャラクターのモデルになる。
  • 鈴木克伸
黒崎出版からの編集者。石ノ森章太郎ファンクラブ出身[56]。徳間書店からさらに学習研究社へ移籍して、アニメ雑誌「アニメディア」の創刊にあたる。
  • 校条満
虫プロ商事の編集者を経て、黒崎出版の「テレビランド」へ。徳間書店では後に「リュウ」「ザ・モーションコミック」といったマンガ雑誌の編集長を務める。
徳間書店に移ってからの編集長。「テレビランド」からアニメ雑誌「アニメージュ」を創刊。スーパー戦隊シリーズの名付け親。
自ら志願して「週刊アサヒ芸能」から「テレビランド」編集部へ移籍。後に「アニメージュ」編集長、スタジオジブリプロデューサーに。
1983年に徳間書店に入社して「テレビランド」へ配属。その後、「アニメージュ」編集部からスタジオジブリへ移籍。
スクウェア・エニックスの執行役員。ファミコン名人のバンダイの橋本名人でもあった。学生時代に「テレビランド」「アニメージュ」でアルバイトをした経験がある。
アルバイトとしてカット描きをしていた。

掲載作品編集

番組本放送時に掲載されていた作品を記載。

1970年代掲載作品編集

1980年代掲載作品編集

1990年代掲載作品編集

掲載開始年不明作品編集

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 岡田茂(代表取締役社長)・福中脩(国際部長代理)・布施建(教育映画部企画部長)・矢沢昭夫(人事部次長)・今井均(宣伝部宣伝課長代理)・青木洋一(コンピューター部課長代理)「―今月のことば― "東映NN計画"(東映全国事業網拡大計画)/東映NN計画 "おはようございます"社長」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、 2-11頁。渡邊亮徳 (取締役テレビ事業部兼テレビ企画営業部長、テレビ関連事業室長)・飯島敬(テレビ関連事業室課長)・泊懋(テレビ企画営業部次長)・渡辺洋一(テレビ企画営業部次長兼テレビ関連事業室次長)「テレビ事業部" もーれつでいこう"」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、 12-16頁。「《東映グループの動き》 五月三〇日に創刊した劇画雑誌『コミック&コミック』(前号既報)の売れ行きについて―」『社内報とうえい』1973年6月号 No.176、東映株式会社、 12頁。
  2. ^ a b 変身ヒーロー大全集 1995, p. 179, 「変身ブーム博物館II 雑誌」
  3. ^ a b c d 『鉄の城 マジンガーZ解体新書』赤星政尚講談社、1998年2月7日、185-186頁。ISBN 4063300471
  4. ^ a b c d e f あの旗を撃て 2004, pp. 12-19.
  5. ^ あの旗を撃て 2004, pp. 12-16.
  6. ^ a b c 三流週刊誌 2006, pp. 295-298.
  7. ^ 竹入栄二郎「映画40年全記録」『キネマ旬報増刊』1986年2月13日号、キネマ旬報社、 15頁。
  8. ^ a b c クロニクル東映 1991, pp. 52-59.
  9. ^ a b c d 「儲かるものなら何でもやる!! 岡田社長、東映の企業体系を語る」『映画時報』1972年10月号、映画時報社、 19頁。
  10. ^ a b c 「匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出」『映画時報』1972年11月号、映画時報社、 7 - 9頁。
  11. ^ a b c 「東映にできた『何でもやる課』」『週刊新潮』1972年6月3日号、新潮社、 13頁。
  12. ^ a b c d 「News Makers 焼き肉屋まで手を伸ばす"東映商法"」『週刊ポスト』1972年9月22日号、小学館、 32頁。
  13. ^ 「映画街」『シナリオ』1973年4月号、日本シナリオ作家協会、 86頁。
  14. ^ a b c 「森川宗弘インタビュー ボウリング場始末記 ゲスト 東映(株)代表取締役社長岡田茂」『月刊レジャー産業資料』1974年10月号、エコセン、 160 - 166頁。
  15. ^ a b c 「観客の目『トルコ風呂』も口に出す躍進する東映グループ」『週刊文春』1972年3月27日号、文藝春秋、 24頁。
  16. ^ 「首脳陣初のことば 岡田社長今年度の経営方針を語る 経営三原則で第三期黄金時代へ始動」『映画時報』1973年2月号、映画時報社、 12 - 13頁。
  17. ^ a b “四八年度経営方針 東映社長岡田茂”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 2. (1973年1月13日) 
  18. ^ 「'75年の企業戦略に対応 各社主脳人事の進撃体制なる 岡田社長を陣頭に人材豊富な攻撃型の東映」『映画時報』1974年11月号、映画時報社、 12 - 15頁。
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  23. ^ a b c d e f g h i j 「警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、 16頁。
  24. ^ a b 「日本映画界の巻返しと前進 各社各社各様の経営戦略を探る」『映画時報』1973年4月号、映画時報社、 12頁。
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  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、12-36,74-81頁。ISBN 978-4-636-88519-4
  29. ^ 「〈LOOK映画〉『大工さん貸します』の東映商法」『週刊現代』1973年2月19日号、講談社、 35頁。
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参考資料編集