大山のぶ代

日本の女性声優、女優 (1933-)

大山 のぶ代(おおやま のぶよ、1933年昭和8年〉10月16日[注 4][6][8] - )は、日本女優声優歌手脚本家エッセイストタレント。夫はタレントの砂川啓介[3][8]。アクターズ・セブン所属。テレビアニメドラえもん』にて、ドラえもんの声を1979年から2005年まで約26年間にわたり担当したことで知られる[5][11][16][17][18]

おおやま のぶよ
大山 のぶ代
プロフィール
本名 山下 羨代(旧姓:大山)
(やました のぶよ)[1][2]
愛称 ペコ[3]
性別 女性
出身地 日本の旗 日本東京府東京市渋谷区伊達町
(現:東京都渋谷区恵比寿三丁目)[4][5]
生年月日 (1933-10-16) 1933年10月16日(90歳)
血液型 O型[6][7]
職業 女優声優歌手エッセイストタレント
事務所 アクターズ・セブン
配偶者 砂川啓介[3][8](2017年死別)
公称サイズ(時期不明)[9]
身長 / 体重 162 cm / 60 kg
声優活動
活動期間 1957年[2] - 2016年
ジャンル アニメ吹き替えラジオ
デビュー作 ポーキー君 (『名犬ラッシー』)[2][10]
女優活動
活動期間 1956年[11] - 2016年
ジャンル テレビドラマテレビCM
デビュー作 『この瞳』[4][7]
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

東京府東京市渋谷区伊達町(現在の東京都渋谷区恵比寿三丁目)出身[注 5][4][5]

来歴 編集

生い立ち 編集

13人家族の13番目として生まれる[5][18]江戸時代生まれの曾祖父母がいる大家族で[5][17]、母は宮城県古川市(現:大崎市)の造り酒屋の娘だった[4]

渋谷区立臨川小学校[3]渋谷区立広尾小学校[3]渋谷区立広尾中学校[3]東京都立三田高等学校卒業[1][2][7]

幼少期から個性的な声を持っていたといい、幼稚園の入園式では名前を呼ばれ返事をしたところ、並みいる保護者らが一斉に立ち上がり視線を注いだという[8]。しかし、当の大山はそんなことに無頓着で全然気が付かなかった上、母に「十分黙っていればおやつをあげる」と言われるほどおしゃべりな性格だったという[8][18][19]

小学校入学後も、最初はその声を張り上げ校庭を駆け回る活発な少女だったが、周囲から「男みたいな声」とたびたび言われ、教師からも出席確認の返事で変な顔をされるなど、次第に「私の声っておかしいんだ」と思うようになる[8][18]。中学進学後、同級生に「お前の声はおかしい」と指摘されたことで初めて個性的な自分の声を自覚したといい[7]、その声に嫌悪感を持つようになったため無口になってしまったという[18]

その声が原因で「大山が声を出したらみんなで笑う」という遊びが流行るなどいじめを受けたこともあったといい、引っ込み思案になっていたところに母が「声が変だからといって、その弱いところをかばってばかりいたらもっと弱くなってしまう。声を出すような部活動をしなさい」と助言したことから、放送研究部に入部してアナウンスをしたり自作したラジオドラマを披露するようになる[20][19][21]。なお、これらの活動は周囲や担任教師に反対されたが、一ヶ月経つと何も言われなくなり、その後は勧誘を機に演劇部へ入部。『シンデレラ』の継母役を演じ、これが初舞台となった[20][19][21]

高校では演劇部と水泳部に入部するも母の入院ですぐに退部し、母は2年生の時に子宮癌により42歳で死去[19][22]。独り身となったことで、手に職をつけるため演劇の道に進んだという[20][23]

キャリア 編集

俳優座養成所に第7期生として入所するが、反対していた父から「役者になるなら出ていけ!」という言葉を受けたことで家出し、一人暮らしを始める[注 6][8][20]。以降、応援してくれた兄からの仕送りだけでは生活できず様々なアルバイトを経験した[20]。養成所での同期には、水野久美露口茂井川比佐志山本學藤岡重慶田中邦衛がいる。

1956年NHKドラマ『この瞳』でデビュー[4][8]。養成所時代から女優としての活動を始め、卒業後の1957年には劇団新人会に入団した[2]

活動をはじめると「面白い子」「新劇出身の喜劇役者」という評価を受け、多くのドラマやお笑い番組に出演[10]。また、知人の関係者から「あなたの声は少年の役に向いている」と独特のハスキーボイスを買われ、声優としての活動も始めるようになる[2][20]。デビュー作は、1957年9月に放送した『名犬ラッシー』の吹き替え[24][10]。その後、1960年に人形劇『ブーフーウー』のブー役を演じたのがきっかけになり、声の仕事が増えてくるようになった[20]

1965年、テレビアニメ『ハッスルパンチ』にて初主演。その後、『ハリスの旋風』や『無敵超人ザンボット3』など複数の作品で主演を務めた。

東京プロ[13]、劇団でく[13]青二プロダクション[25]に所属していた。

1979年、テレビアニメ『ドラえもん』(テレビ朝日系)にて、主人公のドラえもんの声を担当。約26年という長期間にわたり演じ続け、自他ともに認める代表作となった。また、タレント活動や料理研究家として本を出版するなど、声優業以外にも幅広い分野で活躍するようになった。

1980年には、EP『ドラえもん音頭』など大山が歌ったドラえもん関連のレコード売り上げが100万枚を突破し、日本コロムビアのゴールドディスクを受賞した[26]

2001年、直腸癌が判明し長期入院となったことで、『ドラえもん』以外の仕事をすべて降板し休養。『ドラえもん』の収録のみは、大山の体調を考慮した上で続投した[27][28]。だが、この入院を機に大山はドラえもん役の降板を決意する[27]。最初はスタッフの説得で続投したが、長期的に話し合いの結果、2005年3月に他のキャスト全員と共に『ドラえもん』を降板した[28]

ドラえもん引退後 編集

『ドラえもん』降板後は、講演やタレントとしてのテレビ・ラジオ出演を中心に活動。『元祖!でぶや』などのナレーション活動にて、声優としての活動も続けた。

2005年3月放送ウーマン賞を受賞[29]

2006年5月、ドラえもんの声優としての26年間を中心に記した自伝エッセイ『ぼく、ドラえもんでした。涙と笑いの26年うちあけ話』(小学館)を上梓した。

2006年11月、第11回アニメーション神戸にて『ドラえもん』での功績が称えられ、レギュラー陣(小原乃梨子野村道子たてかべ和也肝付兼太)と共に特別賞を受賞。翌2007年3月にも、東京国際アニメフェア2007で第3回功労賞を4人と共に受賞した。

2007年4月、音響芸術専門学校東京都港区西新橋)の校長に就任。カリキュラム編成のほか、声優・アナウンス専門課程で昼間・夜間部の授業を数多く担当するなど、直接学生の指導に当たった。

2008年4月24日、音響芸術専門学校の校長室で授業準備中に心筋梗塞脳梗塞を併発して緊急入院したが、投薬治療を行い、同年8月17日に退院。自宅療養とリハビリにより、日常生活の不安はないまでに回復し、活動を再開した[30]

2010年PSP用ゲームソフト『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』にモノクマ役で出演。同シリーズでは以降もモノクマ役で出演し、2013年テレビアニメ化された『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 The Animation』は『ドラえもん』以来のテレビアニメへの出演であると同時に、初の深夜アニメ出演となった。

2011年4月、音響芸術専門学校の校長を退任し名誉学長となる。多くの実務から離れる一方、2013年までは数か月に一度の特別講義を行っていた[31]。この前後を境として、多忙・激務が続いたことによる体調不良を理由に、徐々にではあるが仕事をセーブするようになった。

闘病 編集

2012年秋、アルツハイマー型認知症との診断を受ける[32]。当初は夫の砂川啓介が「ドラえもんや彼女のイメージを崩す」と心配したことで内密にされたが、知人である毒蝮三太夫のアドバイスを機に砂川は「このまま隠すことが辛い」「周囲にもこのままでは心配をかけるし、誤った情報が流れかねない」と考え直し、大山とも相談[28]2015年5月13日TBSラジオ大沢悠里のゆうゆうワイド』にゲスト出演した砂川の口から初めて公表された[33][34]。なお、発表時の大山本人は話し合ったことを忘れていたという[28]

発表後も活動は継続した一方、公の場に姿を現すことはなくなり、仕事はメッセージの収録など限られたものになった。2014年から2016年にかけて、全国農業協同組合連合会のWebアニメ「おにくだいすき! ゼウシくん」(計17話)にみの太役で出演しているが、現時点ではこれが最後に出演したアニメ作品となっている。

2015年6月12日、砂川は大山と数多く共演してきた黒柳徹子の番組『徹子の部屋』に出演。大山は黒柳に対してボイスメッセージを送った[35]。この放送で、大山は自身の病が公表されたことを自覚したといい、感想は「なんで、こんな大げさに…」だったという。その後、砂川から「ちっとも大げさじゃないんだよ」「元気になるためにも、本当のことを知ってもらって頑張らないとな」と声をかけられると大山は「うん、あたし、頑張るわ」と答えたという[28]

発症からしばらくは大山の意向もあり、砂川や夫妻のマネージャーである小林明子、家政婦による在宅介護を受けていたが[28]、砂川の尿管癌治療に伴い、2016年4月より老人ホームに入所[36][37]。同時期には、持ち役である『ダンガンロンパ』シリーズのモノクマ役も降板[38]。同年内で芸能活動を事実上終了した。

2017年7月11日、夫の砂川が死去[39]。早朝のため、大山は臨終には立ち会えなかった。数日後、大山は葬儀所で棺の中の砂川と対面。葬儀は大山が喪主となったが出席はしなかった[40][41]

砂川の没後、大山は引き続き老人ホームで過ごしており、後事を託されたマネージャーの小林が通って面倒を見ている[42][43]。認知症は進行しているが健康状態は良く、合唱などの活動に取り組みリーダー的存在となるなど、他の入所者との交流を楽しんでいるという[44]

特色・人物像 編集

声種アルト[45]

声優としては、アニメ黎明期より活躍[46]。「ウヒヒ」とも「ウフフ」ともつかない独特の節回しの笑い声が印象的と評された[46]

『ドラえもん』以外の作品では少年役が多く、ハスキーな声でやんちゃな喋り方が特徴的でべらんめえ口調も多用した。

座右の銘は「私はパイプになりたい」[7]。これは、言い伝えや諺など、先人たちから受け継いだ良いものたちを次の世代に渡していく役割になりたいという思いからである[7]

料理研究家としても活動し、多くの著書を発表。中でも『大山のぶ代のおもしろ酒肴』(1981年、主婦の友社)は、136万部のミリオンセラーを記録した[26]

2022年2月、フジテレビ系で放送されたバラエティ番組『これが定番!世代別ベストアニメ エンタメジェネレーション』では、世代別で「好きな声優」がアンケート集計され、大山が「昭和世代(46歳以上)」の部で1位となった[47]

私生活 編集

夫の砂川啓介とは、1963年(昭和38年)8月に舞台『孫悟空』での共演で知り合い、翌年2月に結婚した[48]。二人は知り合った当時、NHKの『おかあさんといっしょ』にレギュラー出演していたが、出演していたコーナーが違うことから面識はなく、楽屋に挨拶に来た砂川を出前のそば屋だと勘違いしたというエピソードがある。その後一緒にドライブに行った際、不良に絡まれている少年を見かけ、お互い相談もしていないにもかかわらず、とっさに田舎から出てきた夫婦を演じ、その不良に道を尋ねるふりをして、その隙に少年を逃がしてあげたという。それから結婚を考えるようになった。

32歳の時に第1子(男児)を妊娠したが、7か月目に死産[49]、38歳の時生まれた第2子(女児)も妊娠7か月の未熟児で生まれ、先天性の心臓と肺の疾患のため生後3か月で死去しており[50]、それ以降は子をもうけていない。自伝などでは「子供に自分のガラガラ声が遺伝していじめられたらかわいそうだ」という葛藤があったとする一方で、夫の砂川の著書では「(大山が)2度の不幸から、『また同じことが繰り返されるのではないか』という葛藤やトラウマからセックスレスとなってしまった」と明かされた[51]

同じ作品でデビューした同期の冨士眞奈美とは、デビュー後4年半ほど同居していた[4][8]

趣味・嗜好 編集

アルカノイド 編集

 
大山が所有していた筐体
  • ブロックくずしゲームの『アルカノイド』(タイトー)が大のお気に入りで、自身の別荘にアルカノイドの筐体を置いていたほどである。自己記録の「およそ120万点」は、公式 2位の記録に匹敵する。1988年、空港や駅の待ち時間で暇潰しとして始めたのがきっかけで、それ以降、仕事で地方へ行くとゲームセンターを巡り回った[52]。その腕前は『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)のコーナー「ムダベストテン」や『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』(フジテレビ系)[52]、『ゲームセンターCX』の「たまに行くならこんなゲームセンター」などのバラエティ番組でも紹介し披露された。
  • 2005年新宿にあるセガのアミューズメント施設で一日店長を務めた際には、多くの来客の前で実力を披露し[53]、2007年には『アルカノイドDS』発売記念イベントに招かれ、マスコミ達を前にその腕前を披露した。しかし本人によると、実はアルカノイド以外のゲームは一切できないとのことである。
  • 別荘を売却したタイミングでアルカノイドの筐体も手放され、ゲーセンミカドが譲り受けた[54]。一般の利用客もプレイできるよう、2022年現在も稼働・メンテナンスされている。

料理関連 編集

  • 声優界の中でも著書が多く、自伝『ぼく、ドラえもんでした』(小学館)以外は、ほぼ全てが料理・栄養といった食関連の本で、夫らとの共著も入れると20数冊ある。料理の腕前もプロ級であり、かつては主婦向けのテレビ番組で、料理コーナーを持っていた。母親から受け継いだ糠床を今でも大切にしていると語っている。
  • 優れた味覚・嗅覚を持っており、水を一口飲めばそれがどこの水かを言い当てることが出来るという。そのため、水の研究家としても名の通った存在であり、旧厚生省「おいしい水研究会」、旧国土庁「水を語る女性の会」の委員も務めている。健康・カルチャー番組にもよく出演している。特に『ためしてガッテン』での出演頻度は高く、1クールに1度は出演していた。

その他の趣味など 編集

  • 芸能界の中でも無類の麻雀好きとしても知られ、美空ひばりとも麻雀友達だった。きっかけは、子を失って苦しんでいることを気遣った仲間たちが毎日執拗に麻雀に誘っていたことである。親交が深く実弟のように可愛がっていた水谷豊おりも政夫とは毎日のように麻雀をしていたと大山本人がTV番組で語った。
  • 愛煙家で、かつては一日2箱を吸うほどであった。しかし、脳梗塞で倒れた後は認知症の前兆もあってか、関心を示さなくなった[55]
  • ゴルフも趣味として挙げている[12]

その他のエピソード 編集

  • 『おかあさんといっしょ』の人形劇では『ブーフーウー』から『とんでけブッチー』まで4作連続で声優を務め、後に『ミューミューニャーニャー』でも声優を担当。
  • 俳優座養成所時代に脚本家に話を書かせて欲しいと頼み、実際に執筆したものが面白かったため『太陽にほえろ!』の脚本に採用され、5本共同執筆した[56]
  • サザエさん』で初代・磯野カツオ役を演じたが、番組開始後2か月半ほどで自主降板。『サザエさん』の制作会社エイケン鷺巣政安によれば、大山の妊娠のために降板したと発言しているが[57]、大山は2004年3月放送のラジオ番組TOKYO FM恵俊彰のディア・フレンズ』に出演した際、自ら降板を申し出た事を証言。放送開始時より使用されている『サザエさん』のエンディングテーマ『サザエさん一家』のフルバージョンの音源には、大山がカツオとして演じたセリフが収録されている。
  • 役者志望の後進には「とにかく挑戦してみることですね。やってみる前に「ダメだ」と決めつけないこと。役を演じるときも同じです」と述べている。また好奇心や探求心の必要性も語り「役者は一生の仕事ですから。私も一生勉強を続けて、死ぬまで役者でありたいと思っています」と発言していた[58]
  • プロ意識が非常に高いことでも知られた。認知症発症後も、人前に出ることや台本を読むことなど仕事で問題はなかったといい、音響芸術専門学校でドラえもんの声でのメッセージ収録を求められた際は1発でOKを出し「ドラえもんが乗り移ると凄い力を発揮する」と周囲の関係者は驚いたという。

ドラえもん 編集

代表作である『ドラえもん』のドラえもん役は、1979年4月3日から番組リニューアルにより引退する2005年3月25日まで約26年間担当した。大山がドラえもんを演じた作品はアニメ版2作目で、第1作にて富田耕生を継いだ野沢雅子の後任にあたる。

起用 編集

演じるきっかけは、放送開始前年の1978年12月に、かつて大山が主演を務めた『ハリスの旋風』で録音監督だった浦上靖夫から声をかけられたことだったという[23][10]

当時の大山は、自分の好みではない「人を傷つけるような」アニメが増えたことや、時代劇テレビドラマなど他の仕事が多忙だったことを理由に、声優業は休業していた[10][59]。だが、オファーを受けたことで、当時出版されていた原作コミックスの単行本14冊[注 7]を読んだところ、表面的には子供向けの漫画になっているが、大人でも読んでも面白いSFだと感じ、一晩ですべて読み終えると同時に、出演を引き受けることにしたという[60]。また、オファー時に見せられたドラえもんの姿に「こいつ、かわいいな」と思ったことも引き受けた理由の一つだという[23]

パイロット版となる「おざしきつりぼり」の収録は、アニメーションの面白さに魅かれ楽しみながら演じる一方で、自身の演技に「これで合っているのか」と不安も覚えたという。後日行われた完成試写で原作者の藤子・F・不二雄に初めて会った際、心配だった大山は「先生、ドラえもんの声、あんな具合でどうですか?」と尋ねた。すると、藤子は「ドラえもんって、ああいう声をしていたんですね」と言ったという[60][59]。大山は「マンガという平面の世界で描いていた先生が、どういうドラえもんの声のイメージを持ってらしたかは別として、「ドラえもんていうのはこういう声なんだ」って思ってくださったというのが、すごくうれしい」と感じると同時に演じる方向も定まったといい、後に「役者冥利に尽きるホメ言葉だと思いました」とも話している[60][59]

エピソード 編集

大山はドラえもんを演ずるに当たって、最初に「ドラえもんは2112年9月3日生まれ。未来からすごい知識を身につけてのび太の世界に来てるけど、あの頃の設定では、出来が悪くてバーゲンで売られている。すごい知識は身につけてるけど、ちょっと出来が悪い。ちょっと重ったるい、ヨタヨタのところもある」と考え、5~7歳ぐらいの男の子を意識したという[59]。また、「未来から来て、しかも子どものお世話をする育児型ロボットなら、はじめから悪い言葉は絶対インプットされてない」とも考え、「テメー」とか「ヤロー」などの悪い言葉は使わず、丁寧な正しい言葉遣いを心掛けたという[59]。ロボットという感覚ではなく、ドジでおっちょこちょいだが憎めないイメージできちんとした喋り口の大山の演技は、視聴者に広く受け入れられた[61]

こんにちは、ボク、ドラえもんです」の台詞は、大山が発案した。悪い口調を使わないことから派生し「初めて会う人に自己紹介するのは当たり前のこと」と考えたアドリブだったといい、それが演出スタッフにも認められたという[19][59]。これはドラえもんの代名詞ともいえる台詞となり、後に発表した自伝のタイトルにも使用された。

ドラえもんの「ふーふーふーふー」という笑い方も大山のアドリブであり、放送から12、3年が経った頃、おちょぼ口のドラえもんが「ふふふ」と笑う場面で「字で書いたとおりに笑ったらどうかな」と思い試したことがきっかけだったという。この笑い方に関して大山は「すごく肺活量がいるんですよね。「ふふふ」と言うとつながっちゃうから、「ふっふっふっ」と言わないと「ふ」がでないんです。しかもマイクに風が入っちゃうとダメだから、マイクをさけてその分大きな声で言わないと大変なんです。でも、自分でおもしろいと思ったのでやったら、みんなが「おもしろい」とか「かわいい」とか言ってくれて、ずっと定着しているんですね」と語っている[62]

幼少期の声のコンプレックスを克服し、その声がドラえもん役に繋がったエピソードは、小学校の道徳教育の資料に取り上げられたことがある。

アニメ化される以前にピー・プロダクションにより実写版『ドラえもん』(未製作)が企画された際、同プロダクションが大山主演のアニメーション『ハリスの旋風』を製作していたため、その流れでドラえもん役の候補に挙がったことがある。

ドラえもんを演じていた頃、ファンの子供がスタジオに遊びに来た際は、写真を撮ったりサインをするなど気配りをしていたが、度々「ドラえもんいますか?」と電話がかかってきて困った時期もあったという[63]

長年に渡り共演したレギュラー陣であるのび太役の小原乃梨子やしずか役の野村道子、スネ夫役の肝付兼太、ジャイアン役のたてかべ和也とは親交が深かった。特に同性の小原と野村とは3人で国内旅行や海外旅行も度々行っていた[60]。なお、過去には週刊誌で収録時のマイクの位置が離れていた小原と不仲説が報じられことがあったが、廣田トモユキが小原に確認したところによると、大山は愛煙家のためにドア側のマイクを、小原は嫌煙家のために一番奥のマイクを好んで使っていたためだという。

ドラえもん関連の商品は見ると何でも買うようにしており、自宅に「ドラえもんボックス」という大きな箱を用意して「私がドラえもんと一緒に歩いてきた記念」と大量のドラえもんグッズを収納していた[62]1999年に『徹子の部屋』に出演した際は、毎朝自分の声のドラえもん目覚まし時計で起床していると語っていたが、この時計は降板後に「ドラえもんの卒業」を理由にオークションに出している。

「ドラえもんの道具をひとつだけ使えるとしたら」と質問された際は、「難しいですねぇ」としつつ「タイムマシンで過去へ行って悪い病気を全部お医者さんに治してもらい、もとを絶って世の中の病気をなくしたい」と答えている[62]

大山にとってドラえもんは、子供がいなかったこともあり我が子のように大切な存在だった[2]。そのため、ドラえもんを演じるようになってからは他のアニメ作品への出演オファーはすべて断っていた[2]。また、後年のインタビューでも「すごく入れ込んでしまっている私ですので、今でも一歩引いて語ることができないくらい思い入れのある作品です。私自身もドラえもん役を演じながら、ドラえもんにさまざまなことを教わりました」と語ったことがある[60]

卒業 編集

2001年直腸癌の手術で長期入院となり大半の仕事をセーブしたが、本人の強い希望からドラえもんの収録のみは一切休まなかった。なお、入院は夫と事務所関係者にしか打ち明けずアフレコは体調を見ながら行うこととなり、映像(他のキャストが先に録音したもの)がたまった段階で病院からスタジオに駆けつけ、個別録音するという形で乗り切ったという[27][28]

入院の際、大山は病床にドラえもんのぬいぐるみを持ち込み、「ねえ、あなただったらどうする」「せっかく22年もアンタと一緒に楽しくやって来たのに、私だけいなくなったら、アンタどうするの?」と自然と語りかけ涙を流すことがあったという[64][28]。そして、この時にドラえもんから励まされたような気がして手術を乗り切れたと後に明かしており[64]、夫の砂川は「彼女にとってのドラえもんの存在が、こんなにも大きいものだとは…。このとき、そのことを改めて実感せずにはいられなかった」と回想している[28]

それまでは、しずか役の野村と共に健康で「丈夫ねえ、私たち」などと話していたが[65]、この入院で大山は「私にもしもの事があれば、大切なドラえもんに傷がついてしまう」「また今回のように急に入院したりしたら、周囲に迷惑がかかる」と考えるようになり、ドラえもんの降板を決意[27][28]。すぐに申し入れたが、この時は長年支えてきたスタッフの説得もあって引き留められた。だが、関係者の間ではこの頃から「次のドラえもんの声はどうするか」という話が持ち上がるようになる[28]

当初は後任を立てず、“大山の合成音声”で続けるという案もでたが、これに関して大山は「合成なんかじゃなくて、あの子(ドラえもん)の気持ちを理解してくれる人に託したい」と話したという[28]。そして2004年春、スタッフ側から交代を打診され、他の声優陣とも話し合いを行った結果、2005年3月にキャスト全員と共に卒業することが決定[28]。2005年3月18日放送の『ドラえもん オールキャラクター夢の大集合スペシャル!!』が最後にドラえもんを演じた作品となり、2005年3月25日に放送した映画『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』のCM前のお別れコメントをもってドラえもん役を卒業した。

卒業後 編集

『ドラえもん』卒業後のインタビューでは、「ドラえもんはいつも私の中にいます。勿論、新しいドラえもんも観ますよ」と笑顔で語っている。また、その後も何らかの形で周囲にドラえもんの声を披露することが多かった。

『ドラえもん』自体への公な関与としては、2015年2月に神保町シアタービルで開催された「ドラえもん映画祭2015」において以下の手紙を贈ったことが最後となっている。

皆様、こんにちは! 大山のぶ代です。
今日は「ドラえもん映画祭」おめでとうございます。ぜひ参加したかったのですが、あいにく風邪をひいてしまい、大事をとりまして欠席させてもらいました。本当にごめんなさい。

時が経つのは早いものですね。「映画ドラえもん」が35周年を迎えるんですね! いろいろと思い出が蘇ってきます。
特に私にとっては「のび太の恐竜」です。初めての映画ということで感激したことは忘れません。ピー助のかわいらしさが大好きです。
また、たくさんのゲスト声優の方々に映画に参加してもらい、とても楽しかったですね。その中でも、森繁久彌さんが出てくださったことが、印象に残っています。

これからも「映画ドラえもん」をよろしくお願いいたします。
今の出演者の方々もお体にくれぐれも気を付けて頑張ってもらいたいと思います。

それでは、バイバイ! — 大山のぶ代、[66]

後任 編集

大山の降板後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。大山に限らず、他の声優陣も大幅に一新している作品は除外する。

後任 役名 概要作品 後任の初担当作品
高橋和枝 磯野カツオ サザエさん 1969年12月28日放送分[注 8]
坂本千夏 神勝平 無敵超人ザンボット3 スーパーロボット大戦IMPACT
TARAKO モノクマ ダンガンロンパシリーズ ダンガンロンパTHE STAGE 〜希望の学園と絶望の高校生〜2016[38]

出演(女優・顔出し) 編集

テレビドラマ 編集

邦画 編集

テレビ番組 編集

NHK 編集

日本テレビ系 編集

TBS系 編集

フジテレビ系 編集

テレビ朝日系 編集

テレビ東京系 編集

その他 編集

CM 編集

出演(声優) 編集

太字はメインキャラクター。

テレビアニメ 編集

1960年代
1970年代
1990年代
2010年代

OVA 編集

劇場アニメ 編集

1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代

Webアニメ 編集

ゲーム 編集

1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
  • ドラえもん どこでもウォーカー(ドラえもん
2003年
2010年
2012年
2013年
  • ダンガンロンパ1・2 Reload(モノクマ
2014年

吹き替え 編集

映画 編集

ドラマ 編集

テレビ番組 編集

アニメ 編集

ラジオ 編集

ほか多数

人形劇 編集

ラジオドラマ 編集

CM 編集

ドラえもんの声で出演、※は2005年4月にドラえもん降板時点によるもの。

ドラえもん以外

その他コンテンツ 編集

ドラえもんの声で出演
その他

音楽 編集

大山のぶ代名義 編集

ドラえもんとして 編集

脚本 編集

  • 太陽にほえろ!
    • 第129話「今日も街に陽が昇る」(1975年、小川英田波靖男との共作)
    • 第154話「自首」(1975年、小川英との共作)
    • 第189話「人形の部屋」(1976年、小川英・四十物光男との共作)
    • 第289話「殿下と少年」(1978年、小川英との共作)
    • 第319話「年上の女」(1978年、小川英との共作)

著書 編集

エッセイ 編集

料理本 編集

  • 大山のぶ代のおもしろ酒肴 アッとおどろく美味珍味(主婦の友社、1981年7月 ISBN 9784079123402
  • 大山のぶ代のなんと2分間クッキング おもしろ酒肴アットホーム編(主婦の友社、1983年1月、ISBN 9784079193412
  • 大山のぶ代の新おもしろ酒肴塾(廣済堂出版、1984年7月、ISBN 9784331003312
    • 『大山のぶ代の新おもしろ酒肴塾』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1986年7月10日。ISBN 9784331650097NDLJP:12102169 
  • 大山のぶ代の今夜の酒肴この一品 最新オリジナル酒肴 決定版130選(廣済堂出版、1984年9月、ISBN 9784331003428
  • 夕食ばんざい(リビングマガジン、1982年1月、ISBN 9784947609014
  • 大山のぶ代の料理朝一番(グラフ社、1985年5月、ISBN 9784766200874
  • はじめての料理ヒント あなたも今日からお料理自慢 (監修、イラスト:宇佐見セツ夫、1986年4月、ISBN 9784766201246
  • 啓介・のぶ代のおもしろ惣菜170 不意の来客、家計のピンチに安くてうまいスピード料理(共著:砂川啓介、グラフ社、1988年4月 ISBN 9784079256728
  • 啓介・のぶ代のおもしろ酒肴 5〜25分お待たせタイムつき(共著:砂川啓介、グラフ社、1991年8月、ISBN 9784079377416
  • 嫁と姑の面白クッキング(グラフ社、1991年5月、ISBN 9784766202304
  • 大山のぶ代のうちの味うちのおかず 嫁と姑の面白クッキング(グラフ社、1992年3月、ISBN 9784766202359
  • 魚を食べる健康法 おいしく簡単! すぐれた効用とらくらくメニュー(共著:延原和彦、ブックマン社、1992年10月、ISBN 9784893081865
  • おさかな博士の新・魚を食べる健康法 すぐれた効能、らくらくメニュー(共著:成瀬宇平、ブックマン社、2002年10月、ISBN 9784893084996
  • おかずのアイディア180(小学館、1995年5月、ISBN 9784093976619
  • おいしい店めぐり 味よし値段よし 日本全国穴場案内(共著:高木美千子、グラフ社、1996年2月、ISBN 9784766203448
  • 大山のぶ代の毎日のおかず 安い!簡単!おいしい!そして体によい!(グラフ社、2000年9月、ISBN 9784766205848
  • パッとできるおもしろ料理ブック イラストが楽しい!(グラフ社、2002年04月、ISBN 9784766206746

その他 編集

  • 大山のぶ代の水なんだ!?(共著:グループH2O、グラフ社、1984年10月、ISBN 9784766200768

演じた人物 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 所属事務所のプロフィール ではそのまま表記されている。
  2. ^ 一時は1934年10月16日生まれ[13]と公表していた時期もある。
  3. ^ 1936年生まれと称していたのは、結婚した1964年当時は姉さん女房に抵抗のあった時代であり、砂川の両親に対する大山の心遣いとのことである。これに関して、大山本人の言及はない。
  4. ^ 長らく1936年10月16日生まれ[2][12]としていたが[注 1][注 2]、2015年5月15日、東京都内で記者会見した砂川によると、大山は1933年(昭和8年)10月16日生まれで、認知症公表の時点で81歳だった[注 3][14][15]
  5. ^ 戦時中は福島県にいる父方の叔父宅に疎開していた[4][8]。その頃、曾祖父母と祖母を相次いで亡くしている[4]
  6. ^ この時、持って出たのは母が作っていたぬか床だけだったという[8]
  7. ^ 「15冊」と証言したこともある。
  8. ^ 高橋の体調不良に伴う降板後は冨永みーなに引き継がれた。
  9. ^ 本作品では声優としてだけでなく、劇中に登場するロボットのメカデザインも手掛けている。

出典 編集

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  4. ^ a b c d e f g h 「新 家の履歴書(92)大山のぶ代(女優・声優) 東京・恵比寿の生家は大家族。江戸明治大正の生き字引に囲まれて育った。」『週刊文春』2008年5月15日号、文藝春秋、2008年5月、92-95頁。 
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  13. ^ a b c 『出演者名簿(1962年版)』著作権資料協会、1962年、82頁。 
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参考文献 編集

外部リンク 編集

※以下資料で生年月日について言及しているもののうち、1936年生まれのまま掲載しているものは2021年12月時点現在で、半分ほど。