カルロス・ロイテマン
カルロス・アルベルト・ロイテマン(Carlos Alberto Reutemann, 1942年4月12日 - 2021年7月7日)は、アルゼンチン出身の元レーシングドライバー、政治家。
カルロス・ロイテマン Carlos Reutemann | |
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![]() モンツァ・サーキットでのロイテマン (1981年) | |
基本情報 | |
国籍 |
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生年月日 | 1942年4月12日 |
出身地 | 同・サンタフェ州サンタフェ |
死没日 | 2021年7月7日(79歳没) |
死没地 | 同地 |
基本情報 | |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1972-1982 |
所属チーム |
'72-'76 ブラバム '77-'78 フェラーリ '79 ロータス '80-'82 ウィリアムズ |
出走回数 | 146 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 12 |
表彰台(3位以内)回数 | 45 |
通算獲得ポイント | 298 (310) |
ポールポジション | 6 |
ファステストラップ | 6 |
初戦 | 1972年アルゼンチンGP |
初勝利 | 1974年南アフリカGP |
最終勝利 | 1981年ベルギーGP |
最終戦 | 1982年ブラジルGP |
基本情報 | |
国籍 |
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WRCでの経歴 | |
活動時期 | 1980,1985 |
所属チーム |
フィアット・イタリア プジョー・タルボ・スポール |
出走回数 | 2 |
チャンピオン回数 | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台回数 | 2 |
ステージ勝利数 | 1 |
通算獲得ポイント | 24 |
初戦 | 1980年ラリー・アルゼンチン |
最終戦 | 1985年ラリー・アルゼンチン |
プロフィール編集
祖父はスイス系、母親はイタリア系。1972年、前年F2のチャンピオンを取ったブラバムからF1にステップアップ。レースデビューは29歳であり、遅咲きのドライバーであった。
F1デビュー編集
1972年に、ブラバムチームからグラハム・ヒルのセカンドドライバーとしてF1デビューを果たす。そして、初戦の母国アルゼンチングランプリで、インディ500のみ出走ドライバーを除くとF1世界選手権史上4人しかいない、「F1デビュー戦でポールポジション」という鮮烈なデビューを飾る。残りの3人はジュゼッペ・ファリーナとマリオ・アンドレッティ[1]とジャック・ヴィルヌーヴであるが、ファリーナは戦前から第一線のドライバーとして活躍しており、たまたまF1世界選手権最初のレースになった1950年イギリスGPでポールポジションを獲得したもので、アンドレッティは既にアメリカのインディで活躍しているドライバーであり、ヴィルヌーヴはデビュー前年にアメリカのトップフォーミュラであるCARTにてシリーズチャンピオンとすでに十分な実績があり、さらに当時のトップクラスのチームから参戦したのに対し、ロイテマンが所属したブラバムは、当時とてもトップチームとは言えない中堅チームであり、同じ記録ではあるが、他の3人と比較しても評価されるべきである。
F1戦歴編集
1972年にブラバムからデビューした後、1974年、ゴードン・マレーの意欲作ブラバムBT44を駆って、南アフリカグランプリで初優勝を飾ると、その年3勝を挙げる。 翌1975年は、6度の表彰台に上がり、ドライバーズランキングでニキ・ラウダ、エマーソン・フィッティパルディに次ぐ3位に入りトップドライバーの仲間入りをする。
1976年にブラバムがエンジンをフォードからアルファロメオに変えたところ戦闘力が低下。 シーズン中盤のラウダの事故によりフェラーリから誘いをうけ、ブラバムとの契約を“買い戻し”イタリアGPにはフェラーリから出走。そのまま翌年にはフェラーリに移る。
フェラーリ移籍1年目の1977年にはニキ・ラウダと共に闘いコンストラクターズチャンピオンを獲得。ラウダが不満を言うほどの好待遇で迎えられ、これがラウダ離脱の一因とも言われる。(実際、チームに嫌気のさしたラウダはチャンピオン獲得を決めるとフェラーリを出て行ってしまった)
ラウダの抜けた後はチームリーダーとして活躍するが、歯に衣きせぬ物言いからエンツォ・フェラーリや、エンジニアのマウロ・フォルギェーリを初めとするチーム首脳に疎まれるようになった。またラウダの代わりに加入したジル・ヴィルヌーヴが、そのアグレッシブな走りからチームに支持されるようになり、ロイテマンは徐々に居場所を無くしていく。結局シーズン4勝したものの、1978年限りでフェラーリから放出され、1979年は、ピーターソンの後釜としてロータスをドライブすることとなる。皮肉なことに、翌年のフェラーリ312T4の出来が良く、その一方でロータスのマシンの80は前年のチャンピオンカー79から一転して不振となり、ロイテマンは年間を通して79をドライブするも、結果としてチャンピオン獲得のタイミングを逃してしまった。
1年間のロータス在籍を経て、1980年からウィリアムズに移籍した。ウィリアムズではアラン・ジョーンズがナンバーワンで、ロイテマンはナンバーツーで、もし順位を争う場合にはジョーンズを先行させるという取り決めがあったとされる。1980年シーズンは、マシンに慣れているチームメイトの1980年チャンピオンになるアラン・ジョーンズの方が速く、後塵を拝することが多かった。翌1981年には序盤にチームオーダーを無視してジョーンズとの関係が悪化する。チームも2分され、ポイントをもジョーンズと取り合う形となってネルソン・ピケと激しくドライバーズタイトルを争うことになる。途中までリードしていたものの、1点リードで臨んだ最終戦のアメリカGPでピケ5位(2点獲得)、ロイテマン8位(ノーポイント)となり逆転負け、結局シーズン2位に終わる。結果的に1981年シーズンもチャンピオンを取る力は十分にあったもののチーム、チームメイトとの意思疎通によりチャンピオンを獲ることが出来なかった。
シーズン終了後に引退を発表したが撤回[2]、1982年もウィリアムズに在籍するも、フォークランド紛争が激化しつつある中で、アルゼンチンの英雄であるロイテマンがイギリスのチームであるウィリアムズから参戦し続けるわけにもいかず、再び引退を表明することになる。この件について、ウィリアムズのエンジニアであったパトリック・ヘッドは、「フォークランド紛争は引退の方便であり、単にモチベーションが無くなったからだ」とコメントしている。
ロイテマンは、フェラーリ、ロータス、ウィリアムズと当時のトップチームを渡り歩きながらもタイミングやチームとの関係などからドライバーズチャンピオンになることは無かった。 また、通算12勝を挙げたが、母国アルゼンチングランプリでは勝利することが出来なかった。
F1レーサーとしては気難しい事で知られ、レース直前のインタビューでも「難しいよ」と一言言って去る事が多かったと言われている。 そのことが、フェラーリのエンジニアであったマウロ・フォルギエーリやウィリアムズのパトリック・ヘッドから疎まれ、結果を出しても評価されない原因となった。 また、フェラーリ時代のチームメイトでもあったニキ・ラウダからは「奴は蛇のように冷たい」とまで言われていたともされる。
F1以外の戦歴編集
1973年のル・マン24時間にフェラーリから出場したがリタイヤとなった。
1980年と1985年の2度、母国で開催されたWRCにフィアット およびプジョーのワークスドライバーとして参戦し(しかも1985年はカーナンバー1)、いずれも総合3位で完走している。特に1980年は現役F1ドライバーがシーズン中にWRCに参戦し入賞するという極めて珍しい出来事である。
ロイテマンは、F1とWRCの両方でポイントを獲得した最初のドライバー(2010年に、キミ・ライコネンが2人目となる)である。
引退後 政治家に転身編集
引退後は政界に進出し、1991年には母国アルゼンチンのサンタフェ州知事2期を経て連邦上院議員となり、2002年には大統領候補にもなった。また2011年の大統領選挙にも、再び出馬する検討を示していた。
2017年に肝臓癌と診断され、アメリカのニューヨークの病院で摘出手術に成功。それから2021年5月、消化器系出血のため再び入院し一時は退院したが、7月7日に死去。享年79歳[3]。
通算成績編集
通算獲得310ポイントは歴代13位、通算優勝回数12回はマリオ・アンドレッティやアラン・ジョーンズと並び歴代18位、1980年から1981年にかけて当時史上最長の15戦連続入賞(のちにミハエル・シューマッハに更新されるも、2009年現在で歴代5位)を記録した。
カーナンバー (F1)編集
ナンバーが固定となった1973年以降のみ。
- 10(1973年)
- 7 (1974年〜1976年第12戦)
- 35(1976年第13戦)
- 12(1977年)
- 11(1978年)
- 2 (1979年.1981年)
- 28(1980年)
- 5 (1982年第1.2戦)
レース戦績編集
略歴編集
年 | シリーズ | チーム | レース | 勝利 | PP | FL | 表彰台 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970 | ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権 | アウトモビル・クルブ・アルヘンティーノ | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 13位 |
1971 | 11 | 0 | 1 | 1 | 6 | 38 | 2位 | ||
1972 | フォーミュラ1 | モーター・レーシング・ディベロップメンツ | 10 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 16位 |
ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権 | モチュール・ロンデル・レーシング | 10 | 0 | 0 | 0 | 4 | 26 | 4位 | |
1973 | フォーミュラ1 | モーター・レーシング・ディベロップメンツ | 15 | 0 | 0 | 0 | 2 | 16 | 7位 |
ル・マン24時間レース | スクーデリア・フェラーリ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
1974 | フォーミュラ1 | モーター・レーシング・ディベロップメンツ | 15 | 3 | 1 | 1 | 4 | 32 | 6位 |
1975 | マルティーニ・レーシング | 14 | 1 | 0 | 0 | 6 | 37 | 3位 | |
1976 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 16位 | ||
スクーデリア・フェラーリ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
1977 | 17 | 1 | 0 | 0 | 6 | 42 | 4位 | ||
1978 | 16 | 4 | 2 | 2 | 7 | 48 | 3位 | ||
1979 | マルティーニ・レーシング・チーム・ロータス | 15 | 0 | 0 | 0 | 4 | 20 | 7位 | |
BMW・M1・プロカー・チャンピオンシップ | BMW・モータースポーツ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 25位 | |
1980 | フォーミュラ1 | サウディア・ウィリアムズ・レーシング・チーム | 14 | 1 | 0 | 1 | 8 | 42 | 3位 |
BMW・M1・プロカー・チャンピオンシップ | BMW・モータースポーツ | 8 | 1 | 0 | 0 | 2 | 64 | 5位 | |
世界ラリー選手権 | フィアット・イタリア | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 12 | 21位 | |
1981 | フォーミュラ1 | サウディア・ウィリアムズ・レーシング・チーム | 6 | 2 | 1 | 1 | 5 | 49 | 2位 |
TAG・ウィリアムズ・チーム | 9 | 0 | 1 | 1 | 2 | ||||
1982 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 15位 | ||
1985 | 世界ラリー選手権 | プジョー・スポール | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 12 | 18位 |
フォーミュラ1編集
フォーミュラ1 (ノン・チャンピオンシップ)編集
年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1971年 | エキュリー・ボニエ | マクラーレン・M7C | フォード・コスワース DFV 3.0 V8 | ARG 3 |
ROC | QUE | SPE | INT | RIN | OUL | |
MRD (ブラバム) | ブラバム・BT33 | VIC 9 | |||||||||
1972年 | ブラバム・BT34 | ROC | BRA 1 |
INT | OUL | REP | |||||
ブラバム・BT37 | VIC 10 |
||||||||||
1974年 | ブラバム・BT44 | PRE Ret |
ROC Ret |
INT | |||||||
1975年 | マルティーニ (ブラバム) | ブラバム・BT44B | ROC | INT 8 |
SUI | ||||||
1979年 | マルティーニ (ロータス) | ロータス・79 | ROC | GNM | DIN 2 |
||||||
1980年 | ウィリアムズ | ウィリアムズ・FW07B | ESP Ret |
||||||||
1981年 | ウィリアムズ・FW07C | RSA 1 |
ル・マン24時間レース編集
年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回数 | 総合 順位 |
クラス 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1973年 | SpA・フェラーリ・SEFAC | ティム・シェンケン | フェラーリ・312PB | S 3.0 |
182 | DNF | DNF |
WRC編集
年 | エントラント | 車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980年 | フィアット・イタリア | フィアット・131 Abarth | MON | SWE | POR | KEN | GRC | ARG 3 |
FIN | NZL | ITA | FRA | GBR | CIV | 21位 | 12 |
1985年 | プジョー・タルボ・スポール | プジョー・205 Turbo 16 | MON | SWE | POR | KEN | FRA | GRC | NZL | ARG 3 |
FIN | ITA | CIV | GBR | 18位 | 12 |
(key)
脚注編集
- ^ マリオ・アンドレッティが初めてにF1に出走したのは1969年のイタリアグランプリだが、そのとき予選で失格になっている。そして、次のアメリカグランプリでポールポジションを獲得している。
- ^ 林信次 『F1全史 1981-1985』 ニューズ出版、1992年、16頁。
- ^ “12勝を挙げた元F1ドライバー、カルロス・ロイテマンが79歳で死去”. autosport web (2021年7月8日). 2021年12月2日閲覧。