キング・クリムゾン

イングランドのロックバンド

キング・クリムゾン英語: King Crimson)は、イングランド出身のプログレッシブロックバンド[1][2]

  • キング・クリムゾン
  • King Crimson
King Crimson - Vredenburg Utrecht (21938525365).jpg
オランダ・ユトレヒト公演(2015年9月 (2015-09)
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル
活動期間
  • 1968年 (1968) - 1974年 (1974)
  • 1981年 (1981) - 1984年 (1984)
  • 1994年 (1994) - 2011年 (2011)
  • 2013年 (2013) - 現在
レーベル EGレコード


Discipline Global Mobile
公式サイト king-crimson.jp
メンバー
旧メンバー

同国のミュージシャン、ロバート・フリップが主宰を務めていることで知られ、同分野で重要な位置に格付けられているグループの一つ。活動は中断期間を挟みながら50年以上に及び、ロック史に大きな足跡を刻んでいる。

概要編集

1968年に結成。アルバムクリムゾン・キングの宮殿』で1969年にデビュー。以降、リーダーのロバート・フリップはバンドのメンバーを次々と替えていき、音楽性も多様に変遷を辿った。

活動は、大きく4つの時期に分けられる。

プログレッシブ・ロック形成の時代。演奏ジャンルに明確な線引きもなく、バンド史上最もエクスペリメンタルで実験性に富んでいた。
管弦楽器を廃したギター・ロックに徹し、既存の音楽性が後退。音響機器の飛躍的な進歩もあり、ニュー・ウェイヴの時代に沿ったスタイルを展開した。通称ディシプリン期とも呼ばれる。
ヘヴィメタル路線を推進したプログレッシブ・メタルを展開。メタル・クリムゾンとも呼ばれ、独自のヘヴィサウンド「ヌーヴォメタル」を創り出した。
公演活動にシフトし、ライブサウンドに特化。過去の楽曲を高度なレベルで演奏する、洗練かつ最も円熟した時代。


各期の細かな分類については諸説ある。構成メンバーを基準に、“第1期”、“第2期”……などと分類する点は共通しているが、「デビューからファースト・アルバムのリリース当時」のメンバーを“第1期”、サード・アルバム『リザード』のころを“第2期”、4thアルバム『アイランズ』のメンバーを『第3期』……とする分類や、『リザード』までを“第1期”、『アイランズ』のころを“第2期”、『太陽と戦慄』から1974年解散までを“第3期”……とする分類などといったように、「アルバム自体や、その時のメンバー単位で分類する方法」と、「デビューから1974年の解散時まで」を“第1期”、「1980年代再結成からの活動期間」を“第2期”、「1994年からの活動期間」を“第3期”……と、「連続活動期間で分類する方法」などがあり、統一がなされていない。音楽評論家の市川哲史は、『太陽と戦慄』の時期を「再結成」、1980年代の『ディシプリン』から『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の時期を「再々結成」、1990年代のダブル・トリオの時期を「再々々結成」として、キング・クリムゾンのCDのライナノーツでもその様に記述している。ここでは、前者の分類方式に準じて述べていくが、「デビュー当初の“第1期”」後については、極力、構成メンバーやアルバム・タイトルなどで記述することとする。

略称は、現地イギリスでは「Crimso(クリムソ)」が通例。日本では「クリムゾン」と通称される。[要出典]

来歴編集

1960年代 クリムゾン・キングの宮殿(1968年-1969年)編集

1968年、ジャイルズ兄弟(マイケル・ジャイルズピーター・ジャイルズ)とロバート・フリップの3人によるバンド「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」から発展。同年6月にマルチプレイヤーイアン・マクドナルド、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド、女性ボーカルのジュディ・ダイブル(元フェアポート・コンヴェンション)が加わってのスターティングメンバーで開始する。しかし翌7月にダイブルが抜け、同11月にフリップの古くからの友人であったボーカリストベーシストグレッグ・レイクが参加。同12月にはピーター・ジャイルズが脱退し、残った5人(フリップ、Mジャイルズ、マクドナルド、シンフィールド、レイク)が正規メンバーとなり陣容が正式に固まった。

1969年初頭、バンド名は加入前にマクドナルドとシンフィールドが共作した曲「クリムゾン・キングの宮殿」から採られ、「キング・クリムゾン」に決定。シンフィールドは、メンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えている。本格化した活動が始まり、公開リハーサルの後、ライブ活動とアルバム制作を並行した。

同年10月、デビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』を発表。それは今後のロック・ミュージックを左右する雛形が詰まったと言える作品で、業界からも非常に高い評価を得る[3]全英アルバムチャート5位まで上昇したが、当時から雑誌のレコード・レビューなどで「1969年に、ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から転落させたアルバム」といった内容で紹介されてしまう都市伝説も生まれた[注釈 1]

このファースト・アルバム制作当初、「ムーディー・ブルース」のプロデューサー トニー・クラークがプロデュースを担当する繋がりで、同バンドのレーベル「スレッショルド」からリリースする話もあったが、結局はクラークと制作面の相違で決裂。最終的にバンド側がセルフプロデュースして「アイランド・レコード」からのリリースとなった。また、現在はフリップがバンドリーダーを務めているが、この当時の作曲やアレンジを含めた音楽面では、マクドナルドが優勢であったとされる。特に、キーボード(メロトロン)、サックス、フルートを導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいとされている。

1stアルバム発表後、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは同年末で脱退し、ロック・デュオ「マクドナルド・アンド・ジャイルズ」結成に向かう。これによりオリジナル・ラインナップは早くも崩壊し、アルバム僅か一枚の短命で終わる。

1970年代 アイランズ期(1970年-1972年)編集

バンドは崩壊後も契約消化のため、アルバム・リリースを継続せねばならなかった。1970年からの新アルバム制作にメル・コリンズが正規加入、脱退していたジャイルズ兄弟らの協力やゲストプレイヤーを招いて、セカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』を完成させた。ただし、グレッグ・レイクが4月以降からレコーディングに来なくなり、そのまま脱退。「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」結成に動き出していた。そのためライブツアーは実施されていない。同年末リリースのサード・アルバム『リザード』も、ほぼ同様の形式で完成させた。ゴードン・ハスケルアンディ・マカロックが短期間だけ在籍し、ライブツアー実施を試みようとしたがリハーサル段階で頓挫している。

1971年初頭、残っている正規メンバー フリップ、メル・コリンズ、ピート・シンフィールドは、ライブ活動ができる状態を模索する。まずドラマーではイアン・ウォーレスを獲得。そして難航した末、ボーカリスト ボズ・バレルがベース兼任という形で決まった。ベースが素人であったボズに対し、フリップはベースギターの奏法を教授した後、次作収録前にドイツや英国ツアーで1年以上ぶりの慣らしライブを行う。

同年秋からアルバム制作開始し、並行して北米ツアーを開催。この間メンバー同士の確執が浮き彫りになる。特にフリップとシンフィールドの、ブレーン両名の険悪化は致命的であった。そんな中の同年末、4thアルバム『アイランズ』を発表。そしてシンフィールドは解雇された。しかし翌1972年早々のリハーサル段階でもメンバー間の意見統一ができず、結局フリップはバンドの解散を決意。マネージメント側は既に向こう2ヶ月のプランを組んでいたため、4人は渋々残りの北米ツアーを消化した後の同4月頭に解散した。

ツアー終了後フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は遠征先で意気投合したアレクシス・コーナーとバンド「スネイプ」を結成。その後ボズは、ポール・ロジャースのバンド「バッド・カンパニー」のベーシストとして参加。シンフィールドはグレッグ・レイクの呼びかけに応じ、「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」に作詞で協力したりソロ・アルバム『スティル』を制作した。後年にフリップは、この時期のバンド解消を「彼らとではアイデア(後の『太陽と戦慄』路線)を具体化できなかったから」と説明している。

同年6月、初のライブ・アルバム『アースバウンド』を廉価版にてリリース。これは北米ツアーの音源でカセットテープによって収録された劣悪な音質でありながら、対立が深まるメンバー同士の爆発寸前の驚異的な演奏であり、後々まで批評を受けた[注釈 2]

1970年代中半 インプロビゼーション期(1972年-1974年)編集

解散が決定した1972年初頭からの北米ツアーの期間中フリップは、既に次期クリムゾン再開に向けての青写真を描いていた。同年夏、ドラマーのビル・ブルーフォードを「イエス」から獲得。「ファミリー」のベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットンデレク・ベイリーが主宰しクリムゾンが影響を受けた即興集団「カンパニー」のパーカッショニスト ジェイミー・ミューア、そして新鋭のキーボード兼ヴァイオリニスト デヴィッド・クロスが集結し、同年10月から再始動。即興演奏(インプロビゼーション)を主体に、新たな楽曲を生み出す技巧派集団に生まれ変わった。

ここで再びバンドとしてのピークを迎え、5th『太陽と戦慄』6th『暗黒の世界』7th『レッド』の3枚のアルバムをメンバー変遷を経ながらもリリースし、ライブ・ツアーも精力的にこなした。

しかし、ミューアは『太陽と戦慄』発表前に早々に脱退。1974年にはデヴィッド・クロスとヘヴィ志向のウェットンとの間で音楽的衝突が浮き彫りになり、クロスを一方的に解雇し、アルバム『レッド』制作の頃は正規メンバーがフリップ、ウェットン、ブルーフォードの3人に減少していた。

ウェットンの呼び掛けにより、数名の旧メンバーがゲスト参加してアルバムを完成させたが、リリース直後にフリップは解散を宣言。直前まではメディアに、ゲストで参加したかつての創設メンバー、イアン・マクドナルドを再度迎えてのバンド継続も匂わせていたが、フリップは自身だけでも脱退するつもりでいた。

解散後の1975年に、北米ツアーのライブを収録したアルバム『USA』をリリース。元音源にはヴァイオリン兼キーボード(主にメロトロン)担当のデヴィッド・クロスが参加していたが、数曲が編集段階でエディ・ジョブソンの演奏に差し替えられている(またこの頃、「太陽と戦慄 パート2」(5thアルバム『太陽と戦慄』収録)に酷似した曲が映画「エマニエル夫人」で使用され、フリップの訴えによる裁判が行なわれている。裁判後に和解)。

1980年代 ニュー・ウェイヴ期(1981年-1984年)編集

解散から7年後の1981年、フリップは、かつてのメンバーであるビル・ブルーフォードと共同で、「ディシプリン」という名のプロジェクトを開始した。アメリカ人ベーシスト、トニー・レヴィンが加入[注釈 3]。2人目のギタリスト兼ボーカリストに、アメリカ人のエイドリアン・ブリューが参加した。この4人からなる新グループは、契約しているレーベルの商業的意向もあって再び「キング・クリムゾン」の名義で活動を再開する。

しかし1970年代までのスタイルからは打って変わり、管弦楽器を廃してギター・ロックに徹し、ポリリズムや当時ムーブメントになっていたニュー・ウェイヴの要素を取り入れるなど、音楽性が劇的に変化していた(演奏については、2本のギターとスティックによる複雑なアルペジオの絡みが特徴的であった)。このような形での再結成に批判が高まり、「キング・クリムゾンがトーキング・ヘッズ化した」という批判も一部から出た(旧メンバー ジョン・ウェットンも当時、「英国人以外が参加しているこのラインナップを、クリムゾンとして認めていない」旨の発言をしている)。

同1981年9月、当初のバンド名をセルフタイトルとした8thアルバム『ディシプリン』リリース。同1981年(昭和56年)12月に初来日し、渋谷公会堂浅草国際劇場を始めとする全国ツアーを行なった。

1982年、9thアルバム『ビート』を発表。元々『ディシプリン』のみのプロジェクトであったため新素材がほぼ皆無で、準備不足のなか創作に苦労したエピソードを明かしている。

1984年リリースの10thアルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』に至っては、メンバーのモチベーションはもはや低下した中で制作された。同年(昭和59年)春に再来日し、北米ツアー後の7月に解散を決定する。フリップは「レーベルとの契約は、アルバム3枚リリースが条件であった。本来意図したアイデアは『ディシプリン』で完結している」と後年に明かしている。

1990年代 ダブルトリオ期(1994年 - 1996年)編集

1980年代末頃からフリップの活動も活発になり、再び再結成の機運が高まっていく。1992年にフリップは音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、自身が管理する独立レーベル「Discipline Records (後のDiscipline Global Mobile。通称 DGM)」を設立。

さらに、デヴィッド・シルヴィアンとの共作などで手応えを感じたフリップは、1994年から遂にバンドを再始動させる。1980年代のメンバーから更に増員して6人編成となり、3人二組のユニットを配置するスタイルを構築(通称 ダブルトリオ)。サウンド面では、1974年作『レッド』で片鱗をみせたヘヴィ路線を継承し、プログレッシブ・メタルを推進した。

このラインナップでEP『ヴルーム』を制作。慣らし運転も兼ねた南米ツアーを開催し、翌1995年に11年ぶりの11thアルバム『スラック』を発表。そしてフリップは、キング・クリムゾンが実践するヘヴィサウンドを「ヌーヴォメタル (Nuovo Metal)」と名付けた。アルバムに伴うワールドツアーを開始し、数多くのライブ音源をアーカイブ化していく。

1990年代後半 プロジェクト期(1997年-2000年)編集

長期のライブ・ツアーを終え休息した後の1997年、集合したバンドはリハーサル段階で相違が大きく内紛状態になってしまう。また、メンバーそれぞれ自身の仕事を掛け持ちしており、スケジュールの確保も影響していた。そこでフリップは6人編成を一旦棚上げにして、次作へのアイデアを蓄積させていく意味も含め「プロジェクト (ProjeKct)」という名義の小ユニット活動に一時シフト。これを2000年まで断続的に続ける。またこの期間、グレッグ・レイクもしくは、ジョン・ウェットンを含む4人のクラシックメンバー再結成が企図されたが、これは計画段階で頓挫している。

2000年、プロジェクトで培ったアイデアを結集した「ProjeKct X」名義のアルバム『ヘヴン・アンド・アース』をリリース。ただし、ビル・ブルーフォードが、電子ドラムを使用したいフリップの方針に難色を示し、また自らのバンド「アースワークス」の活動に専念を希望し、1998年に脱退していた。トニー・レヴィンもピーター・ガブリエルとの先約を優先し、同じく1998年から離脱したまま復帰はしなかった。

2000年代 ヌーヴォメタル期(2000年-2004年、2008年)編集

2000年(平成12年)、ダブルトリオ瓦解後の残る4人による12thアルバム『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』をリリース。結果的にセールスは大きく振るわなかった。来日公演や北米ツアーを開催するが早くも次作に向けた構想に取り組み、バンド独自のヘヴィサウンド「ヌーヴォメタル」を、これまで以上に推し進める。

 
ベルギー・ドゥール公演 (2003年7月)

2001年から次作に向けた短期ツアーとレコーディングを並行して実施。同年にEP『レヴェル・ファイヴ』、翌2002年にもEP『しょうがない (Happy with What You Have to Be Happy With)』をリリース。そして2003年、ヌーヴォメタルの集大成となる13thアルバム『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』を発表。同年に来日公演を含むワールドツアーを開催する。

同年秋、ダブルトリオ編成からのメンバーであったトレイ・ガンが脱退を表明。入れ替わりに、トニー・レヴィンが復帰した。翌2004年から新ラインナップでリハーサルを重ねるが、想像以上に上手くいかず頭打ち状態に陥った。多額の経費をかけた割に実りの無さを痛感したフリップは、今後のプランを白紙としバンドは長期の活動休止に入る。

2008年4月、今後の活動計画を話し合う会合とリハーサルが再開。更に新メンバーとして「ポーキュパイン・トゥリー」のドラマー、ギャヴィン・ハリソンの加入が明らかになった。同年8月に北米ツアーを実施。その後、更なるツアーが予定されていたが、エイドリアン・ブリューが自身のソロツアーとダブルブッキングしてしまったことで頓挫。翌年のデビュー40周年記念ツアーも視野にあったが、フリップとブリューの確執も取り沙汰され、また全てが白紙になった。

2010年代 トリプルドラム期(2013年-2016年)編集

2011年、バンド休止中の間フリップは、以前に「21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド」でも活動していた旧メンバーのメル・コリンズ、ジャッコ・ジャクジクらと新たなキング・クリムゾン・プロジェクトを立ち上げ、アルバム『ア・スケアシティ・オブ・ミラクルズ』を発表。次期クリムゾンに向けた活動を再開する。

ところが、翌2012年にフリップが音楽業界からの引退を表明し、バンドの活動終了を宣言。「ユニバーサル・ミュージックと出版権について問題が勃発し、法廷闘争に専念するため」と明かしている。

2013年、自社レーベル「DGM」のブレーンでもあるデヴィッド・シングルトンが、キング・クリムゾンのトリビュートバンド結成を企図する。これはクリムゾン・プロジェクトらのメンバーに、旧メンバー ジョン・ウェットンを加えた「クリムゾンDNA」という新グループ構想であった。フリップはシングルトンの構想に賛同し、裏方からの支援に着手しようとする[5]

しかしフリップは、ユニバーサル・ミュージックとの係争に一段落ついていた事情もあって、次第に復帰の意欲が湧きはじめ引退の前言を撤回。紆余曲折を経た後 オフィシャルサイト上より、かつてのフリップ主催「ギタークラフト」に参加して知己であったビル・リーフリンの加入による編成で、正規のクリムゾン再始動を表明した[6]

 
スペイン・マドリード公演(2016年11月)

2014年6月、ライブ活動を再開を発表。メンバー構成は、フリップ、メル・コリンズ、トニー・レヴィン、ジャッコ・ジャクジク、そして3人のドラマー、パット・マステロット、ギャヴィン・ハリソン、ビル・リーフリンを前列に配置した「トリプルドラム」の編成で、同年9月9日よりアメリカにて17回公演のツアーを開始した。

2015年(平成27年)12月、約12年ぶりに日本公演を開催[7]

2016年、リーフリンが一時降板し、代役にジェレミー・ステーシーが9月の欧州ツアーから参加[8]

2010年代後半 ダブルカルテット期(2017年-現在)編集

2017年、ビル・リーフリンが復帰して、キーボード担当に変更。ジェレミー・ステーシーはそのまま正規メンバーに昇格し、8人編成に拡張する[9]。そしてフリップは、ラインナップ構成の呼称を「ダブルカルテット・フォーメーション」と命名した。

同年5月、昨年他界したデヴィッド・ボウイ追悼のトリビュート作品EP『ヒーローズ』をリリース[10]。その後から全米ツアーを開始[11]

同9月、フリップとエイドリアン・ブリューが和解し、将来的な復帰を示唆。同年10月、リーフリンが秋公演に不参加となり、代役サポートにマルチ奏者クリス・ギブソンがキーボードを担当して全米ツアーを再開。

2018年4月、リーフリンが再復帰し、欧州ツアーを開始。同年(平成30年)11月末、結成50周年を記念した来日ツアーが開幕し[12]、集大成となるライブを翌12月まで開催する[13]

2019年4月、デビュー50周年記念欧米ツアーの概要を発表し、今年一杯はリーフリンが再度の休養。代役サポートとして、フリップと共演歴のあるサックス奏者セオ・トラヴィス(ソフト・マシーン)のキーボード担当が内定していたが[14]、リハーサルが芳しくなかったため白紙に戻した。結果、今シーズン以降は現行メンバーのみの7人編成で対応した。

2020年3月、長期休養中のビル・リーフリンが病没[15]。さらに新型コロナウイルス感染症が世界的に大流行した影響で、年内のスケジュールを延期。翌2021年夏から北米ツアーを再開し、(順調であれば)秋以降に来日ツアーを予定[16]

メンバー編集

※2020年3月時点

現ラインナップ編集

旧メンバー編集

サポート

  • クリス・ギブソン (Chris Gibson) - キーボード(2017年)

ラインナップの変遷(主な担当パート)編集

  • ロバート・フリップ - Guitars, Frippertronics/ Soundscapes, Mellotron & Synthesizers(以下、全期間を通じてリーダーとして在籍)
  • 『ポセイドンのめざめ』発表当時
    • グレッグ・レイク - Vocals(直後に脱退し、EL&P結成)
    • ピーター・ジャイルズ - Bass(ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ以来の三者共演)
    • メル・コリンズ - Saxophone & Flute
    • マイケル・ジャイルズ - Drums
    • ピート・シンフィールド - Words
    • ゴードン・ハスケル - Vocals (Guest)
    • キース・ティペット - Piano (Guest)
  • 『リザード』発表当時
    • ゴードン・ハスケル - Vocals & Bass
    • ジョン・アンダーソンイエス)- Vocals (Guest)
    • メル・コリンズ - Saxophone & Flute
    • アンドリュー・マカロック- Drums
    • ピート・シンフィールド - Words
    • キース・ティペット - Piano (Guest)
    • ロビン・ミラー - Oboe (Guest)
    • マーク・チャリグ - Cornet (Guest)
    • ニック・エヴァンズ - Trombone (Guest)
  • Lineup #3『太陽と戦慄』〜『レッド』発表当時
    • ジョン・ウェットン - Vocals & Bass(解散後、U.K.エイジアを結成し、成功する)
    • デヴィッド・クロス - Violin, Viola, Flute, Keyboards & Mellotron(『暗黒の世界』発表後に脱退)
    • ビル・ブルーフォード - Drums & Percussion(イエスから加入。後に、ウェットンと共にU.K.結成)
    • ジェイミー・ミューア - Percussion & Drums(元デレク・ベイリーのカンパニー、『太陽と戦慄』発表後に脱退。後にミュージシャンから画家に転向)
    • リチャード・パーマー・ジェイムス - Words (Guest)(元スーパートランプ
    • 『レッド』録音時にはイアン・マクドナルドやメル・コリンズなどの旧メンバーがゲスト・ミュージシャンとして参加している。また、ライブ・アルバム『USA』において、エディ・ジョブソン(Violin & Keyboards、後に前述のU.K.結成)がフリップとウェットン立ち会いの元、2時間程度を掛けてデヴィッド・クロスのヴァイオリンとエレピパートをいくつか差し替え録音した。
  • Lineup #4『ディシプリン』〜『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペア』(1980年代再結成時。キャリア等は、本文参照)
  • Lineup #5『ヴルーム』『スラック』(1990年代再々結成時)
    • エイドリアン・ブリュー - Vocals, Guitars & Percussion
    • トニー・レヴィン - Bass, Chapman stick, Synthesizers & Vocals
    • トレイ・ガン - Warr Guitars, Bass
    • ビル・ブルーフォード - Drums & Percussion
    • パット・マステロット - Drums & Percussions
  • Lineup #6『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』〜『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』
    • エイドリアン・ブリュー - Vocals & Guitars
    • トレイ・ガン - Warr Guitars, Bass(2007年エディー・ジョブソンやその他のミュージシャンとともにUKZを結成)
    • パット・マステロット - Drums & Percussion
  • Lineup #8(2013年以降)
    • ジャッコ・ジャクジク - Vocals, Guitars
    • メル・コリンズ - Saxophones, Flute
    • トニー・レヴィン - Bass, Chapman stick, Vocals
    • パット・マステロット - Drums & Percussion
    • ギャヴィン・ハリソン - Drums & Percussion
    • ビル・リーフリン - Drums & Percussion, Keyboards(休養:2016年秋冬、2017年秋冬、2019年)
    • ジェレミー・ステーシー - Drums & Percussion, Keyboards(サポート:2016秋冬、正規:2017以降)

サポート

  • クリス・ギブソン - Keyboards(2017年秋冬)

独立レーベル「ディシプリン・グローバル・モービル」編集

 
レーベル「ディシプリン」のロゴ

バンドを主宰するロバート・フリップが、1992年に設立した独立系レコードレーベル。共同責任者はエンジニアを兼任するデヴィッド・シングルトン。名前の由来およびロゴは8thアルバム『ディシプリン』から。

キング・クリムゾンはデビュー時から「E.G.マネージメント」に籍を置き、音源も同社のレーベル「E.G. Records」が管理していた。1980年代以降から同マネージメントとの折り合いが悪くなり、フリップは契約問題や音源の所有権を主張して訴訟にまで発展。1990年代初頭から仕事を共にしていた音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、別個に新たなレーベル「Discipline Records」を設立した。後に旧レーベル側と和解して音源の所有を全て認められ、1995年から現行の『Discipline Global Mobile (通称 DGM)』に改名する。

以降、バンドに関連する音源は全て同レーベルが発売元となり、外部アーティストとの契約・管理も業務とするようになった。また、海賊盤対策も徹底しており、1990年代以降からは(キング・クリムゾンの)ほぼ全てのライブを自前で録音しアーカイブ化。過去の海賊盤音源も独自にリマスターを施してオフィシャルでリリースし、違法販売の芽を潰している。

ディスコグラフィ編集

スタジオ・アルバム編集

ミニ・アルバム(EP)編集

  • ヴルーム』 - VROOOM(1994年)
  • 『21世紀のスキッツォイド・マン』 - Schizoid Man(1996年)
  • 『レヴェル・ファイヴ』 - Level Five(2001年)※ライブEP
  • 『しょうがない』 - Happy with What You Have to Be Happy With (2002年)
  • 『ヒーローズ〜トリビュート・トゥ・デヴィッド・ボウイ』 - Heroes(2017年)※ライブEP

ライブ・アルバム編集

コンピレーション・アルバム編集

日本公演編集

1981年(昭和56年)編集

1984年(昭和59年)編集

1995年(平成7年)編集

2000年(平成12年)「THE CONSTRUKCTION OF LIGHT TOUR 2000」編集

  • 10月2日  – トリビュート・トゥ・ザ・ラブ・ジェネレーション
  • 10月3日  – 神奈川県民ホール
  • 10月4日、5日、7日  – 渋谷公会堂
  • 10月9日  – 名古屋市公会堂
  • 10月10日  – フェスティバルホール
  • 10月11日  – メルパルクホール福岡
  • 10月13日  – イズミティ21大ホール
  • 10月15日、16日  – 中野サンプラザ

2003年(平成15年)「THE POWER TO BELIEVE JAPAN TOUR 2003」編集

2015年(平成27年)「THE ELEMENTS OF KING CRIMSON TOUR in JAPAN 2015」編集

2018年(平成30年)「UNCERTAIN TIMES JAPAN TOUR 2018」編集

備考補足編集

  • グレッグ・レイク脱退後、所属事務所 EG はフリップが知らぬ内に新ボーカリスト探しを算段し、エルトン・ジョンを250ポンドのギャラで雇おうとしたがレコードを一聴したフリップにより却下された。ブライアン・フェリーはオーディション後「キング・クリムゾンのボーカリストとしてはマッチしないが、惜しい人材」とフリップに評価され、後にロキシー・ミュージックがEG所属となるきっかけとなった。
  • 1970年に一時的にクリムゾンが活動停止していた時、イエスを脱退したピーター・バンクスの後任としてフリップはイエスへの参加を要請されたが、事務所の問題で実現しなかった。この時に交流ができた縁で、イエスのジョン・アンダーソンがキング・クリムゾンのサード・アルバム『リザード』の「ルーパート王子のめざめ」にボーカルでゲスト参加している。ジョン・アンダーソンによると、「ロバートにイエスに入らないかと言ったら、逆に、君こそキング・クリムゾンに入れよと言われた」とのこと。
  • 1976年にキング・クリムゾン再起動に失敗し、リック・ウェイクマンとのトリオ結成を断念したウェットンとブルーフォードは、アラン・ホールズワースエディー・ジョブソンU.K.を結成する。ウェットンのインタビューによると、「フリップがバンドを解散したので、残ったリズム隊の2人がキング・クリムゾンのリズムのコンビネーションを維持し展開するために結成した」といった主旨のことをミュージック・ライフ誌に述べていた。
  • 1990年代のキング・クリムゾンの正式結成直前に、フリップはデヴィッド・シルヴィアンとプロジェクト「シルヴィアン・アンド・フリップ」を組み、アルバムをリリースし、来日公演も行っている(この際、マイケル・ブルックと共にトレイ・ガンとパット・マステロットが参加している)。インタビューでは否定していたが、当初「デヴィッドが新しいクリムゾンのボーカリストとして参加する」と噂された。シルヴィアンはフリップに勧誘されたが拒否したとインタビューで述べている。また当初新ラインナップ構想に入っていたリック・マロッタについてはキング・クリムゾンのドラマーに適さなかったとフリップが採用を取りやめている。
  • これとほぼ前後して、オリジナル・メンバーで再結成されたエマーソン・レイク・アンド・パーマーCDボックスセットに、同メンバーの演奏による「21世紀のスキッツォイド・マン」の独自のバージョンが収録されていた(この曲は、1980年代初頭に、グレッグ・レイクがゲイリー・ムーアと共に行ったライブ・ツアーでも、「クリムゾン・キングの宮殿」と共に演奏された。この2曲のオリジナルは、キング・クリムゾンのファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』に収録)。
  • 1996年、元ジェネシスのギタリスト、スティーヴ・ハケットが来日した際のメンバーとしてマクドナルド、ウェットンが参加しており、第1期の曲から「クリムゾン・キングの宮殿」と「風に語りて」(共にファーストアルバム収録の曲)を演奏した。この様子は、『TOKYOテープス〜ジェネシス・リヴィジテッド・ライヴ1996』としてCD、ビデオなどで正式発売されており、その後DVD化もされている。
  • 2001年トゥールの前座としてツアーを行う。このツアーの最終日、「レッド」の演奏に、トゥールのドラマーであるダニー・ケアリーがゲスト参加した。
  • 2002年、マクドナルドとジャイルズ兄弟が新バンド結成のために再集結、さらにメル・コリンズジャッコ・ジャクスジクを加え、21stセンチュリー・スキッツォイド・バンドが結成された。フリップにも公認され、初期のクリムゾン・ナンバーを演奏してのライブ・ツアーをこなす。同年及び翌2003年の2回の来日公演も実現した。同バンドはキング・クリムゾンのアルバムの1作目から4作目までの曲をレパートリーの中心としていた。マイケル・ジャイルズは結成後1年足らずで脱退、代わってイアン・ウォーレスが参加し2006年まで活動した。しかし、2007年2月のウォーレス病死で活動再開のめどはたっていない。
  • 2006年9月、スペインの自宅アパートでリハーサル中に心臓発作で急逝したボズ・バレル[18]は、生前クリムゾン時代を語ることを拒否し続けたと言われているがOB達との交友はあり、1980年にはシンフィールドのテレビ出演の際にマイケル・ジャイルズ、メル・コリンズゲイリー・ブルッカーらと共に演奏している。
  • 2011年、キング・クリムゾン・プロジェクト (King Crimson ProjeKct) としてアルバム『ア・スケアシティ・オブ・ミラクルズ』をリリース。フリップ自らが参加しているのが大きな特徴であり、他にコリンズとジャクスジクを正式メンバーとし、またレヴィンとハリソンがサポートで参加している。2013年、この5人にドラマー2人を追加したトリプル・ドラム編成での、キング・クリムゾン再始動が発表された。
  • 2011年以降、ブリューのバンド「エイドリアン・ブリュー・パワー・トリオ」とレヴィンのバンド「スティックメン」(マステロットも参加)のメンバーが合流する形で6人編成の「クリムゾン・プロジェクト」(Crimson Projekct) として活動。この名称はロバート・フリップの命名によるとのこと。

キング・クリムゾン事件編集

TOKYO FM出版1995年(平成7年)10月25日に書籍『キング・クリムゾン』〈地球音楽ライブラリー〉を発行したが[19]、キング・クリムゾンのメンバーに無断で発行したため、ロバート・フリップパブリシティ権を侵害されたとして出版元のTOKYO FM出版を訴えた。これを「キング・クリムゾン事件」という[20]。第1審ではフリップの勝訴となったが[21]、控訴審ではTOKYO FM出版が逆転勝訴し[22]、以後、記載内容の多くのミスが修正されないまま2007年(平成19年)にも再版されている[23]

参考文献編集

  • 松井巧『キングクリムゾン』TOKYO FM出版〈地球音楽ライブラリー〉、1995年10月25日。全国書誌番号:96075029

関連文献編集

関連項目編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 英国音楽誌DISC誌1969年11月8日号デヴィッド・シューズの記事「遂にデビューアルバムがアビーロードをトップから引きずり降ろした。」を紹介したものと言われる。そのことについては、複数の日本の評論家が「デマとまではいえないが、ありえるとしたなら、地方の、あるいは、マイナーなチャートではないのか」といった見解を共通して述べていた
  2. ^ 元々はミキサー・コンソールに繋がれたカセットテープレコーダーの音源で、演奏後のチェック用にイアン・ウォーレス所有のレコーダーで録音されたもの[4]
  3. ^ フリップとはピーター・ガブリエルのレコーディングで競演したことがある。

出典編集

  1. ^ 平凡社『百科事典マイペディア』. “キング・クリムゾン”. コトバンク. 2020年6月9日閲覧。
  2. ^ 松山晋也、小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』. “キング・クリムゾン”. コトバンク. 2020年6月9日閲覧。
  3. ^ 河崎直人「キング・クリムゾンの世界中を驚愕させた革命的なデビュー作『クリムゾン・キングの宮殿』」『music.jpニュース』株式会社エムティーアイ、2015年11月13日。2020年6月9日閲覧。
  4. ^ キング・クリムゾン ライヴ・アルバム『Earthbound』の40周年記念エディション 日本発売決定]”. amass (2017年9月27日). 2020年6月9日閲覧。
  5. ^ 高見展 (2018年12月4日). “キング・クリムゾン来日中、ジャッコとメル・コリンズのインタビューが実現!”. rockin'on.com. 株式会社ロッキング・オン. 2018年12月15日閲覧。
  6. ^ Smith, Sid (2013年9月24日). “NEW KING CRIMSON LINE-UP CONFIRMED” (English). DGMLIVE.com. Discipline Global Mobile (DGM). 2020年6月9日閲覧。
  7. ^ 山崎智之 (2015年12月12日). “【ライブレポート】キング・クリムゾン、渋谷オーチャードホールにてあの名曲の数々を披露”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2020年6月9日閲覧。
  8. ^ キング・クリムゾン 9月欧州ツアーにはビル・リーフリンは不参加、ジェレミー・ステイシーが代役”. amass (2016年3月8日). 2020年6月9日閲覧。
  9. ^ キング・クリムゾンにビル・リーフリンが復帰、新たにドラマー4人の8人編成に”. amass (2017年1月4日). 2020年6月9日閲覧。
  10. ^ キング・クリムゾン、デヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」をリリース”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク株式会社 (2017年4月28日). 2020年6月9日閲覧。
  11. ^ キング・クリムゾン、6月から開始する全米ツアーの日程を発表」『ニュー・ミュージカル・エクスプレス (NME)』IPC Media、2017年2月23日。2020年6月9日閲覧。
  12. ^ Deluca Shizuka (2018年4月4日). “プログレッシヴ・ロック界の王者キング・クリムゾン、結成50周年で来日ツアーを敢行” (English). Rolling Stone (PMC). https://rollingstonejapan.com/articles/detail/28189 2018年4月8日閲覧。 
  13. ^ 大鷹俊一 (2018年11月30日). “【ライブレポート】キング・クリムゾン、凄まじき来日公演の速攻レポ”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2018年12月15日閲覧。
  14. ^ キング・クリムゾン 全スタジオアルバムがストリーミング配信へ、テオ・トラヴィス加入発表、ドキュメンタリーの予告映像公開”. amass (2019年4月9日). 2019年4月23日閲覧。
  15. ^ REMやキング・クリムゾンのドラマーであったビル・リーフリンが逝去。享年59歳」『ニュー・ミュージカル・エクスプレス (NME)』IPC Media、2020年3月25日。2020年3月26日閲覧。
  16. ^ キング・クリムゾン 2021年11月&12月に日本ツアーを計画 マネージャー語る”. amass (2021年1月23日). 2021年2月10日閲覧。
  17. ^ キング・クリムゾン、3枚組ライヴ・アルバム詳細発表&グッズの期間限定ショップも出店決定”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク株式会社 (2017年8月4日). 2020年6月9日閲覧。
  18. ^ Eder, Bruce. “Boz Burrell: Information for Answers.com” (English). Answers.com. 2010年2月5日閲覧。 “...in fact White was present at Burrell's apartment in Spain when, during rehearsals, Boz suddenly died of a heart attack on September 21, 2006.”
  19. ^ 松井 (1995).
  20. ^ 「一覧」『肖像の保護に関する過去の判例・事例(参考資料 1)経済産業省。2010年10月14日(木)閲覧。[リンク切れ]
  21. ^ 東京地方裁判所 平成10年(1998年)1月21日 判決。
  22. ^ 東京高等裁判所 平成11年(1999年)2月24日 判決。
  23. ^ 松井 (2007).

外部リンク編集